September 13, 2006

和泉香津子句集『杳々記』(深夜叢書社/2000) <後編>

こんこんと象牙のねむる野分かな
私とはふところ手して触れてみる
魚の身にうまれてたまらなく跳べり
遙かなり同じ鱗を散らしつつ
赤ん坊のかなしみ移る赤ん坊
わが岸にうち寄りしかば弟なり
恋仲のはっと楼閣にゐたりけり
夢の熱さに獏の緊張つづきけり
合歓の窓二時間前のこと見ゆる
虹の朝われら言葉を滴らす
冬のかもめ或る解決として落ちる
仕方なく抱かれし猫の透明感
せせらぎのやうに兆しのやうに吃る
じっとりと流域肥る斑蝶
春景色として船は燃ゆるかな

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July 19, 2006

和泉香津子句集『杳々記』(深夜叢書社/2000) <中編>

噴きあがるわけにもゆかぬ蝉の木よ
あまつさへ稲妻走る講談社
見も知らぬ春やのけぞる箒星
音楽は何だかねこやなぎのかたち
橋渡るシオカラトンボ感覚で
昼顔がいっぱい形見か歳月か
初嵐いまは他人の男かな
あをあをと夢の始めも雁渡し
冬晴の化石生臭くはないか
春の木に目礼すればそよぎけり
昔々から無花果は盗むもの
野の鯉を深追ひしては老ける秋
世も末の気分で転ぶ紅葉山
天涯のほとりあきつの一騒ぎ
種茄子を大いに笑ふ旗日かな
稲妻と人柱とは崩れけり
抽出の中は瓦礫や望の月
冬の匂ひになるまで匂ひ袋かな
ふうはりと着けば未来や朴落葉
長考の十一月の卵かな
木になって裂かるる夢の冬景色
自由に傷ついて下さい 雪夜です
松虫草帰る支度の男女ゐる
絶景をほめ合ふ秋の彼岸かな

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July 18, 2006

和泉香津子句集『杳々記』(深夜叢書社/2000) <前編>

杳々記













ねむられぬ鳥と百物語かな
月光に鯰もひるむことあらむ
霜柱二たび三たび城は燃え
泡盛に古き笑ひの男かな
恋や恋煮凝なども騒ぐらむ
青みどろ幕末はああ谺する
聖橋虹かも知れぬ女かな
一日の両端秋の男かな
初景色のどぼとけより始まれり
にはとりの心の野にも薄氷
仕方なき春がはじまる兎売
カリフラワー抱けばすさまじき喜劇
夏の扉父の眉間のやうにひらく
芽吹く麦今の今とはいつも寂し
一頭の馬とふしぎな夏休
白蚊帳に踝もまた夢ならむ
存在のつくづく白き春の鯉
春陰のさびしかりしはおでこかな
線香を立てたき夏の山河かな
昔の夏ああと二階に倒れけり
男来て雪の名残のやうにゐる
桃よりもトマトと思ふわがたましひ
蝉しぐれしてあやとりの百通り
琉球のことを秋感覚でいふ
向うから眺めて見ればはげしき秋
黒揚羽森有正を断じて恋ふ
万緑を大きな球と思ふかな


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June 29, 2006

『蒙古斑』  櫂未知子

(句集の写真を撮る前に後輩に貸してしまったため、ひとまず写真なしの段階でUP。)

 句集『蒙古斑』は、映画である。
ストーリーも、登場人物も、小道具も、ライトの当て方も、バックミュージックも、映画のワンシーンなのである。
 映画を見ようと思って句集を手に取る人はいない。映画を見たい人は映画館に行くのだから。しかし句集を読みたい人が、この句集を手にとってしまったが最後、見るはずのなかった恋愛映画を一人で見始めてしまったときの後悔と、しかも途中で投げ出せない金縛りに襲われる。

 『蒙古斑』を読みながら、苦しいのは俳句ではないと思う。少なくとも私は、それを求めて句集を読んでいるのではない。五七五は歌ではない。人間を切なくさせて悦ぶ装置は他にある。
 だから私が推す「俳句」は、例えば以下のような句で。 

  さきがけの喇叭水仙より糾す
  沈丁も古今伝授のごと香れ
  蛤の生死をたしかむる炎
  新社員すぐ海原の夢を見し
  蝶の昼ゆゆしきものを吸ひにけり
  匿名のままあぢさゐの前に佇つ
  くちなはをゆたかな縄と思ひけり
  夕焼に飢ゑを二匙加へけり
  薔薇色の肉を手渡す夜の秋
  痣著き桃のしづかに売れ残る
  くれなゐの残暑は背中より来ると
  たしかなる眩暈のなかを烏瓜
  黄昏は早し林檎の切り口の
  三面鏡にずらりと一人神の留守
  火事跡の間取りくきやかにて雨よ
  語彙すべて出払つてをる夜の聖樹

 物と、それに与えられる力、そのものと言葉のむかしが絡み合う。
これらが一場面として存在する映画。
しかしこれでは、この恋愛映画のあらすじ、苦しいものが輝いてしまう。

  月は喘ぐ誰かのために生きてより
  唯一の明かりは電気ストーブの
  雪は白、雪は白だと諦める
  みはるかすあなたは十番線の冬

 読者はみぞおちを絞られるようなダメージを負う。ナマの恋愛。しかも熟れている。


  雪まみれにもなる笑つてくれるなら

 最後はこのラストシーンに集約される。『蒙古斑』の緻密すぎるまでのストーリーを、この挙句が全て引き受けていると言えるかもしれない。その意味で、この句が名句となったのは、いい映画のエンディングテーマが名曲となるのと同じかな、とも思う。


 そして句集を閉じたとき、呆然と前を見、左右を見、愛する人が傍にいないことを淋しむのである。                             (文香)

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June 18, 2006

セレクション俳人07『岸本尚毅集』うち『鶏頭』

岸本尚毅集














たとえば、

  木瓜咲いて鴉の羽根の落ちてゐる

という一句に、僕は岸本尚毅俳句の典型をみる。


つまり、俳句形式の中で「言うべきこと」は二つである。「言うべきこと」とは、物質自体であったり、それに付随する現象であったり、概念であったりとさまざまではあるが、とにかく「言うべきこと」は二つである。
「取り合わせ」や「二物衝撃」という用語があることからも明らかなように、大多数の俳句において「言うべきこと」が二つであることは、ほとんど論を俟たない。

すると、問題になってくるのは、「言うべきこと」について何を選ぶか、何を言うべきか。あるいは、二つの「言うべきこと」についてどのような二者を組み合わせるべきか。

岸本は、前者についても後者についても、抜群に優れている。それは言い方を変えれば、彼が俳句形式に祝福されているということだろう。



茸狩火傷の痕が首にあり
寝て書いて長き手紙や多茄子
鯨汁のれんが割れて空青き
葉牡丹やダンスの汗がうつすらと
白魚やテレビに相撲映りをり
夕桜すこし煉瓦を積みかけて
百千鳥餅ひからびて割れにけり
山肌をはなれし蔓や明易き
蝉の穴しづかに舟を待つてゐる
笛稽古畳すれすれ蚊が飛んで
水打つて遠くに犬の噛み合へる
菊焚いて硝子戸に顔映りけり
芭蕉葉にぷすと針金突き刺さり
蟷螂のひらひら飛べる峠かな
眠る子の腕がだらりと威銃
四五人のみしみし歩く障子かな
天井にとどくゴムの木年忘れ
蝋梅につめたき鳥の貌があり
蕗の薹はげしき雨の中に見ゆ
引越して夜の椿の残りけり
ぎらぎらと鴉の背ある躑躅かな
夏山や桶に大きな蝸牛
虫時雨猫をつかめばあたたかき

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June 12, 2006

『悠 HARUKA』 セレクション俳人『正木ゆう子集』より

正木ゆう子集より














そのひとのわれはいもうと花菜風

(自分がまずあって、)

部屋中が匙に映りぬ雛祭
花冷や柱しづかな親の家
氷小豆の水がちとなる父のこゑ
家中の水鮮しき野分あと

(まわりに家があって、)

海を見しかの羅を一度きり
壜を洗ふごとき寂しさ夕焼けて
窓氷るゆふべ鬱金にスープ染め
かはほりの水飲むころを熱引きぬ
泳ぎたしからだを檻とおもふとき
菱採りのしづかに水をめぐりけり
夢解きに水のかかはる蝉の殻
枯葦のなか引きのこす潮あり
凍港も凍湖も旅の途中にて

(自分にもまわりにも水分があって、)

螢狩うしろの闇へ寄りかかり
寒林を抜け来し髪のいつか梳かれ
対岸の火の見えてゐる薬食
鳥雲に帽子のなかの文字うすれ
ゆふべ油捨てし辺りか陽炎へる
しほからき断崖を巻き春の鳶
短夜の展翅の記憶肩にあり
桔梗に七てふ数字思ひゐる
鶏と鶏ぶつかり遠き春の火事
軒ふかく天体を置く熱帯夜

(遠くのことも間近のことも考えている。)

                   (文香)

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June 08, 2006

『匙洗う人』 清水哲男

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『増殖する俳句歳時記』の、詩人・清水哲男さんの句集。1991刊。
本当は、詩人になるはずじゃなかったのに「三十年前、句集を作るためのお金で、まちがって詩集をつくってしまった」ために、処女句集を出すのが遅れた、とは、編集部がつけた帯の文句。




将来よグリコのおまけ赤い帆の
女来てずんと寝ちまう文化の日
さるすべり男盛りがつかんだ死
死球禍の夏に女の臍ふかし
さらば夏の光よ男匙洗う
ラーメンに星降る夜の高円寺
缶ビール日差し濃すぎて巨人軍
冷奴エイトマンさえなつかしや
さようなら秋雲浮かべ麹町
忘年会真白き富士の皿欠けて
狸がきんたまかっさばいてはお正月
人生に大寒小寒という睾丸
愛の豚愚かなるほどラジオ聴き



平然と歌謡曲調だったり、囃し唄風だったりして、ださカッコイイ。白泉を読んでいらい、俗謡調の表現に興味があります。(信治)


aya6063 at 02:55|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 現代 

May 21, 2006

―澄子を離れて―池田澄子『空の庭』

現代俳句文庫『池田澄子句集』の『空の庭』抄に、抄されなかった、逸品。

朝顔や飴色に透く母の木櫛
どくだみに触れし身の端遠出せん
ふと二月二十九日である合わせ鏡
泣きながら産む朧夜の戸を閉めて
喇叭水仙暦どおりに潮満ち来
けさ秋の人肌色の小さな蛾
逢う前の顔に色塗る日雷

いわゆる池田澄子の代表作と比べれば、「おスミ」色は薄い。


最近よく三橋敏雄の「厳正独立の一句」を思う。
「らしさ」が(その句を作品として立たしめる一要素であることを充分に知った上で猶言うのだが、)作品の独立を阻害する危惧を考えている。

池田澄子の作品全てから「池田澄子作」のレッテルを外したとき、これらの句が沈むことは、ない。

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May 07, 2006

絶望はご自由に――池田澄子『空の庭』

語りかけてくる、あるいは問いかけてくる12句

的はあなた矢に花咲いてしまいけり
蝉の居る樹よネ画用紙をはみだして
歩かぬと寒いよ白の落椿
青い薔薇あげましょ絶望はご自由に
じゃんけんで負けて螢に生まれたの
潜る鳰浮く鳰数は合ってますか
冬の闇見て見てこれ以上見えぬ
冬の虹あなたを好きなひとが好き
大白鳥白が好きとは限らない
保険料の釣銭今川焼買おうか
ピーマン切って中を明るくしてあげた
月の夜の柱よ咲きたいならどうぞ



『空の庭』を読む中で、作品の出来不出来とは関わりなく、読者に対して直接に語りかけてくる、あるいは問いかけてくるという手法の作品が多くあるなと思った。
池田澄子の俳句における清新性の一端は、たとえばこういうところにあるようだ。(タニユウスケ)


※第2句、「蝉」の三つの点の部分が「口」の字二つ。あと「ネ」のサイズが他の文字よりもすこしサイズが小さい。

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May 01, 2006

池田澄子『空の庭』

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1988年刊。
限定350部。下北沢の古書店で入手。





日常性の十二句

春の正午のとうに止っていた時計
棒持って家を廻れば蔦紅葉
元日の開くと灯る冷蔵庫
人日の修正液の少しかな
食い足りてほとほとさびし白木槿
夕顔ひらき戸棚の皿のなまあたたか
百日紅町内にまたお葬式
朝涼のゴムの乳首を五分煮る
校庭をひとりが歩く西日かな
湯ざましが出る元日の魔法瓶
春の雪眼鏡はずさずちょっと眠る
はつ夏の空からお嫁さんのピアノ

・日常のつまらなさの面白さ。(信治)

aya6063 at 14:08|PermalinkComments(1)TrackBack(0) 現代