マレーから始まった藤原機関→

ビルマで岩畔(いわくろ)機関→

そして光機関と発展し、大所帯の特務機関になって行く

思いの外、期待以上に英軍のインド兵捕虜は増え

急遽、中野学校出身者を中国大陸などからもかき集めた

光機関500名のうち、中野学校出身者は

133名(「陸軍中野学校」より)であった





絶対数の少ない中野学校出身者だけでは

到底、頭数が揃わず、その他の下士官、軍属なども投入された

特に、通訳として語学が堪能な者が要求された





インド人の言葉が話せる日本人はほとんどいなかった

唯一、藤原機関に通訳として従軍したのは

東京外語学校印度語部に在学中だった石川学生

だと言われている

在学中に学校長を通じスカウトし、本人と交渉した

ただ石川学生の語学力はあまり役に立たなかったようである

インド人の言葉は話せなくとも

イギリスの植民地軍であったインド人には英語が共通語として

使われていたため、英語の通訳も重宝された




大叔父は、大学に入って法律学部に在籍したが

その間も英語を学び中学から通算9年間も

英語を学んでいたことになる

なお当時、法学の世界ではドイツ語が主体であったが

国際法の世界ではイギリスが中心だったため

大叔父は英語を学び続けたのかもしれない

英語が堪能で通訳の任務に就いたと家族は聞いている




続く…



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