ミャンマーに思いを寄せて

亡き母の思いを果たすべく、ビルマで戦死した大叔父の足取りをたどる私の奮闘記録☆

2011年01月

ミャンマーに思いを寄せて 98

全ビルマ会の定例会が行われる、偕行社
調べてみたら、意外な場所だった


偕行社とは、帝国陸軍将校の社交場だった所らしい


帝国陸軍?将校?…すごく驚いた


そんな場所が、現在も存在するなんて…


間違いかなと思い、調べ直したが、そこしか出てこない


よく考えると、全ビルマ会は、旧軍さんの集まりである


この偕行社で会合をしても、おかしくはないだろう


とりあえず、この偕行社とやらに行ってみて
違っても市ヶ谷なので、電話して場所を聞こうと思った


始めから、電話で場所を確認すれば良いのだけど
「帝国陸軍将校の社交場」と言う響きにロマンのような物を感じ
どうしても、一目、そこを見に行ってみたいと言う気持ちが湧いてきた


私が想像する、昔の偉い軍人さんは
細身で長身で、かっこいい軍服と帽子に
サーベルみたいなのを提げていて、白い手袋をしている。。。


ツタの絡まる歴史ある建物に、一歩踏み入れば、タイムスリップ


宝塚のような大きな階段を、降りてくる軍人さんにバッタリ出逢い
「そこで何をしている、おまえのような女子供の来る場所ではない」と
軍人さんに怒られる。。。なぁんて妄想に浸ってみたりしてw


そんな軍人さんが、今の世の、市ヶ谷に、ほんとうにいるとは思わないけど


華やかな、鹿鳴館のような場所かしら?
それとも、落ち着いて、デンとしたお役所みたいな雰囲気の建物かしら?


何より、その中で会合が行われようとしている


そして、当時は、きっと立ち入ることが許されなかったであろう場所に
私も参加させていただける


それだけでも、時代と言うか、何とも、歴史的なロマンを感じて
定例会がとても楽しみになった




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 97

靖国神社での慰霊祭を終えて、しばらくした頃


全ビルマ会から、封書が届いた


中には、12月の定例会と、新年の靖国参拝
2月のミャンマーへの慰霊巡拝の案内が入っていた


定例会と言うのを、やっておられるんだ。。。初めて知った


12月は、忘年会と書かれている


お酒の場なら、ざっくばらんに、色々なお話を
聞くことが出来るかもしれない


新年の靖国参拝は、帰省のため無理


ミャンマーに行くまでに、少しでも、全ビルマ会の人と親交を深めたい


定例会が、どんな物か、新参者の私なんかが
参加してもいいものかどうか考えたが
参加してみようと、早速、参加の有無のハガキを返信した



・定例会…参加

・新年行事…不参加

・慰霊巡拝…参加(同行者なし)



案内には、定例会は市ヶ谷の偕行社でとだけ書いてあった


通例のことなのだろうが、私には偕行社と言われても分からなかった


お店か会社なのかと、ネットで調べてみた


すると、そこは、私の予想とは全く違った場所だった




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 96

珊瑚の手入れも何も分からず、ジュエリーに加工しようかなと思っていた頃


宝石関係の大きなネットサークルで、何珊瑚ですか?と
写真を載せて聞いてみた


もちろん、祖母の形見と言う付加価値はあるのだけど
正直、すごく価値のある珊瑚ならば、それ相応の地金のジュエリーに
そうでないならば、それなりのアクセサリーにでも
しようかと考えたからです


すると、偽物だとか、汚いだとか、心無いコメントが連なり
即様、記事を消去した


でも、何人かは、親切にメッセージを下さって、色々と教えて下さった


その中で、「あなたのお祖母さんは、花魁(おいらん)ですか?」
と言うメッセージをいただいた


なんてことを言う人だろうと思ったが


よく聞いてみると


その時代のカンザシならば、一つ玉が一般的だと言う


そう、必殺仕事人や、極道シリーズに出てきそうな
カンザシの先端に1個だけ、珊瑚が付いている物


こんなに、たくさんの珊瑚が付いたカンザシは見たことがない
もし、カンザシならば、かなりゴージャスだと言われるのです


確かに、カンザシだと聞いていたから、カンザシだと思っていたけど
こんなに付いていたら、お姫様か花魁だよね
しかも、頭に乗せたら、かなり重いww


祖母の時代とイメージからは、ネックレスは出てこないが
グラデーションの粒揃えと、色味が統一していることから
やはり、同一、もしくは、セット商品だったことが推測される


当時は、珊瑚は貴重な物で、これほど大量に昔の珊瑚が
あるのは、珍しいのだそうです


後で、鑑別に出したところ、半分は本物で、半分が人工の偽物だと分かった 


RIMG0743-1

●これは本物


まずは、馴染みの宝石屋さんが本物だと思われる物を厳選して
簡易なブレスに仕立てて、鑑別に出してくれた


RIMG0742-1 (2)

●鑑別書


その鑑別書では、何珊瑚かまでは鑑別してもらえなかった
 

RIMG0744-1

●残るこれらは、人工品


珊瑚は希少だったため、昔は、模造品が出回るほどの人気だったそうです


しかし、当時は、素人には偽物の判別が付きにくく
本物だと信じ込んで購入した人も多かったと聞く
私も、全部、本物だと思っていた


模造品と言っても、おもちゃではなく、巧みな技法で作られていたので
本物にはかなわないけど、それなりに昔は良いお値段がしたらしい


珊瑚だと伝え聞いていたので、きっと祖母も母も
全部本物だと思っていたのだろう


カンザシにしろ、ネックレスにしろ
当時としては、最高級のおしゃれだったと思う


それを、祖母の両親は、娘の嫁入りに持たせ
若かりし祖母は、華やかに誇らしげに輝いていた時代があった


いつしか、その珊瑚は外され、黒い糸でくくられて
箱の中に、ひっそりとしまわれた


そして、娘へ、そのまた娘へと、私が受け継いだ


この珊瑚は、祖母の人生をずっと見てきたことだろう


職務上とは言え、村人を戦地へと送らなければいけなかった祖父
きっと苦悩と責罪の念を抱えながら、村人に尽くした後世


あんなにおしゃれだった祖母が
派手なことを全て封印し、祖父に寄り添うように、静かに過ごした戦後


祖父がそうするように言ったのか、祖母が自ら自粛したのかは
今となっては、分からない


でも、この珊瑚を見ていると、祖母の気持ちが垣間見えるようで
私は切なくなるのです


ジュエリーにするために、本物・偽物と分けてしまった珊瑚達


しかし、偽物であっても、私にとっては祖母から受け継いだ、大切な珊瑚


私の代では、ジュエリーにするのはよそう


箱には封印せずに、いつも手元で眺めていてあげよう



鑑別から帰り、キレイに磨き上げられた珊瑚達は
昔のように、イキイキと誇らしげに微笑んでいるように感じました




続く…



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ミャンマーに思いを寄せて 95

母方の祖母は、いつも和服だった
 

お茶や、お華の先生だった祖母

 
PICT0001












●お寺でのお稽古風景


お寺だから、和服なのかなと幼心に思っていた


それも、控え目な色の着物ばかりで、年齢的な色合いかと
このミャンマーのことに関わるまで、ずっと思っていた


母から譲り受けた祖母の宝飾品は


全て祖母が、お嫁入りの時に持ってきた物や
まだ若い頃に揃えた物ばかりだった 


昔の写真を見る限り、祖母は、かなりの「おしゃれさん」


なのに、私が知っている祖母は、きちんとした身なりをしてはいるけど
全くと言って華やかさがなかった


祖母には姉が2人いて、私も小さい頃に何度か会った記憶がある


その祖母のお姉さんは、もちろんおばあさんなんだけど
顔や背格好は、祖母に似ているのに
とてもキレイと言うか華やかで、おしゃれ


「ほんとうに、おばあちゃんの、お姉さん?」と、聞いたことがあった


母からも、祖母のお姉さん2人は、素敵だよと聞いていた


上のお姉さんは、京都にいて、下のお姉さんは東京にいたと聞く


母が、高校の修学旅行で、東京に行った時には
車で迎えに来てくれて、引率の先生方全員に
万年筆のお土産を配ったから、外泊が許されたとかw


田舎から一緒に来た学友に、驚かれたと
母の自慢の伯母さんだったらしい(昭和25年くらいの話)


母の宝飾品の1部も、京都の伯母さんに
買ってもらった物も多かったらしい


私は、母の宝石が、小さい頃から大好きで
暇があれば出して、指にはめては、眺めていた


昔の宝飾品は、母の好みにリフォームされ、形はかなり変わっていた


ただ、その中で珊瑚だけは、古ぼけた糸のような物で
束ねられたままだった 


RIMG0451-1





 


母は珊瑚に興味がなかったのかもしれない


その珊瑚は、祖母の若い頃のカンザシに付いていたそうです


母が他界して、この珊瑚をどうしたらいいか、判断しかねた私


約100年くらい前の珊瑚だけど、ジュエリーではないので
アンティークとは言えない


価値があるのか、ないのか、どんな珊瑚なのか
それさえも分からなかった


キレイとも言えない古ぼけた珊瑚が22個




続く…



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ミャンマーに思いを寄せて 94

tizu1[1] - コピー

まずは、下から弓兵団が戦闘を開始し
イギリス軍を南に引き付けておいて、その後、インパールを目指す


そして、上からは、烈兵団が、インパールから北へ行った
コヒマを占領し、南に引きつけられている、イギリス軍の補給線を遮断する


そして、真ん中の祭兵団は、南に引き付けられている
イギリス軍の背後から攻めると言う作戦


祭兵団は、昭和19年3月19日には国境を越え
23日には、インパールの北東、サンジャック(Sangshak)に到達し
29日にはコヒマへの道路を遮断する


しかし、イギリス軍の反撃にあい、足止めを食らうことになる


この段階で各兵団は、すでに深刻な食糧・弾薬不足の状態にあった


作戦本部からは、進撃の命令が出るが
攻撃しようにも弾薬がないという状態だったらしい


それに加えて雨期となり、悲惨な状況に至る


ざっと調べて、祭兵団の全般的なことを、なんとか理解した


では、曙兵団は、何だったのか?


軍歴表の担当者が、どこからともなく見つけた「アケボノ」と言う言葉
それが、カタカナだったのか、ひらがなもしくは、漢字だったのかは分からない


私は、曙兵団だと推測し、そこからインパール作戦へと
たどり着いたのだけど


再度、「曙兵団」 「ビルマ」で、検索したところ、不思議なことに、全くヒットしなかった


インパール作戦の編成表の中に、曙兵団を見つけたのだと思ったが


後の調べにより、曙兵団は、中国大陸で展開していた部隊で
ビルマにも、もちろんインパール作戦にも関係していないらしい…


なのに、インパール作戦にたどり着き、結果、大叔父は参加していた


私は、一体、何を見ていたのだろう。。。とてもとても不思議だ




続く…



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ミャンマーに思いを寄せて 93

※当時の記録や日付は、さまざまな書物や、ネット記事等で調べ
引用させていただいた物です
その内容の正誤は、私には判断しかねます

文中の地名等も、日本軍が付けた当時の地名、現地の昔からの地名
現在の地名が混在します
また、地名の外国語発音のカタカナ表記などは
一般的でないものもあるかもしれませんが、どうぞお許しください




大叔父の本籍地の役所の援護課
軍歴表を保管されている担当部署の方に
当初は「あけぼのと書かれています」と言う
ヒントのような物をいただき


そこから、「アゲボノ」 「ビルマ」をキーワードに調べつくした結果
インパール作戦に辿り着いた


しかし、大叔父のいた連隊は、曙兵団ではなく
「祭兵団」だと、全ビルマ会の副会長さんに、教えてもらった


突然現れた、祭兵団と言う言葉


私には、またまた???で、調べる他なかった


祭兵団とは通称で、正式には、ビルマ方面軍の第15軍 第15師団


昭和18年8月初旬には
インパール作戦=ウ号作戦の準備命令が出ている


インパール作戦開始は、昭和19年3月8日と一般的に言われている


ビルマ北西部のチンドウィン河を渡り、ビルマ・インド国境のアラカン山脈
(幅約2百~2百50km、標高2千ないし3千m)を越えて
インドに入り、インパールに至る


大まかには、上と下と、真ん中に分かれて、3方より
各1個兵団が、インパールを中心になだれ込み、包囲する作戦だった
 
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そして、祭兵団は、その真ん中を行った


祭兵団は、京都・奈良、名古屋の部隊を中心にした部隊
どちらかと言うと、都会の人の、寄せ集め部隊だったから
弱かったとも聞く




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 92

インパール作戦は、一説によると、当初は、短期間の作戦だったため
個人携行の食料や弾薬は、20日分しか持たされなかったと聞く


弾薬もなく、食料もなく、その上、ジャングルの雨期


戦闘による戦死者だけでなく、疲労や栄養失調、感染病などの病死者も多い


その中には、身方の足手まといにならないように
自ら命を絶つことも珍しくなかったそうです


大叔父が、メイミョウの病院に搬送されたのが、5月24日
作戦開始から、すでに2ヶ月半以上経っている


きっと、飢えと、病とで苦しんだことだろう


昭和19年に入ると、それまで優勢だった日本軍は、連日の空中戦で
パイロットが失われ、制空権さえ失っていた


反対に、イギリス軍は、物資の輸送に飛行機を使い
空から、落下傘で、陣地内に落とした


その物資が、時々風向きにより、日本軍のいる近くに落ちると
それを奪うために、必死になって取りに行ったと言う話もあった


ちなみに、イギリス軍の補給食料には、チーズ・バター・乾燥肉
乾燥野菜・粉コーヒー・砂糖やタバコなど
日本兵が口にしていた物より、遙かに豊かな物だったらしい


それを「チャーチル給与」と呼び、ありがたがっていたそうです


ある人は、この作戦が、いかに無謀だったか
場所を国内に置き換えて説明されていたのが印象的だったので
引用させていただく


インパールを岐阜県と仮定した場合、コヒマは、石川県の金沢に相当する
烈兵団は、軽井沢付近から、浅間山・長野の鹿島槍岳の
3,000m級の山々を越えて岐阜の高山を経て、金沢へ


祭兵団は、山梨県の甲府付近から、日本アルプスの1番高い所
槍ヶ岳・駒ヶ岳のおなじく3,000m級の山々を越えて
岐阜県に行くこととなる


弓兵団は、小田原付近から前進する距離に相当する
各人30~60kg程度の重装備で、日本アルプスを越え
途中山中で、戦闘を交えながら、岐阜に向かうと考えれば、想像を絶する


後方の兵站基地は、宇都宮あたり
作戦を指揮する司令部のメイミョウにおいては、宮城県の仙台に相当する


今の時代、少し歩いては、足が痛いなどと言っている私には
到底、歩けない距離である


そんな中、大叔父は、よく最後まで頑張ったと褒め称えたい


そして、その戦況の真っ只中に、後方にあるメイミョウの病院まで
後退の命令を出して下さった、当時の上司の方に深く感謝します


山脈を越え、河を渡ることは、大叔父1人では不可能であっただろう
戦場のビルマでの、皆様のそれぞれの支えがあり、無事に病院に
たどり着くことが出来たのだと思う


これは、奇跡に近いのかもしれない。。。



後の世、昭和44年、ビルマ政府は外国人の入国を許可した
戦後、24年経ってのことである



<参考>
インパール作戦の参加主要部隊及び、主要指揮官

第15軍 - 司令官 : 牟田口廉也(むたぐち れんや)

 祭兵団(第15師団) 師団長 : 山内正文(やまうち まさふみ) ※1

 烈兵団(第31師団) 師団長 : 佐藤幸徳(さとう こうとく)※2

 弓兵団(第33師団) 師団長 : 柳田元三(やなぎた げんぞう)


※1 山内師団長は、60連隊の出身
インパール作戦強硬派の司令官と、意見の衝突により師団長を更迭される
昭和19年8月6日、マラリアにより、メイミョウの病院にて、戦病死

※2 佐藤師団長は、祭・山内師団長と同期
作戦中、状況を正確に認識して、「作戦継続困難」と判断し
部下の命を守るため、死刑を覚悟の上、命令に背き、独断撤退をした
日本陸軍初の、抗命事件

抗命事件については、作戦失敗の責任追及を恐れた上層部により
精神病とされ、軍法会議にはかけられず、うやむやにされた


3名の師団長、全てが司令官により、更迭された




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 91

※文中の史実につきましては、諸説有り
各立場において、見解が異なるとは思いますが
私が受け止めた意見で多かったものや、一般的であろうと
独断で判断したものを起用しておりますのでご了承下さい


参考にさせていただきました、それぞれの文献につきましては
個人の方の手記やブログ記事等、多種多様のため
記載いたしません




地図上でビルマの位置確認をしたついでに
大叔父も参加したであろう、インパール作戦についても
調べたことを繋ぎ合わせて、まとめてみました


※訂正・修正箇所がある場合は、優しくメッセ下さい
ご指摘はお手柔らかにm(_ _)m


自分自身も勉強になり
ブログを読んでいただく上で、少しでも分かりやすく
参考になれば幸いです



<インパール作戦>

開戦後、しばらくは、日本の快進撃が見られた
しかし、その後は各戦線とも劣勢となり敗色が濃くなっていった


この劣勢を新しい戦場にて盛り返す目的で
インパール作戦は計画されたそうです


インパールとは、ミャンマーとの国境に位置する、インドの町の名前


もちろん戦略的にも重要な目的があった


それは、当時、敵対していた、中国の蒋介石に
インド領より、イギリスやアメリカから大量の武器などの物資が
提供されていたことから


その、通称:蒋介石ルートを断つために
イギリスが物資輸送の拠点としていた、インドのインパール地区を
襲撃すると言うもの


当時のインドは、イギリスの植民地だった


日本軍は、インドに進撃し、あわよくば、インド全域から
イギリス軍を一掃しようと言う狙いもあったようだ


アラカン山系を突破して、インパールを中心に
地図の上(北)、東(真ん中)、南(下)から包囲する
 
tizu1[1] - コピー








しかし、結果、インパール作戦は失敗に終った


無能で強行派だった司令官によるものが大きいと言う人もいるが
私は、当時の実情を知らず、当事者ではないので
その件に関しては、評価する立場になく、言及はしない


失敗の1番の原因は、補給にあったと言われている


インパールにたどり着くには、チンドウィン河を渡り
ビルマ・インドの国境のアラカン山系と言う
2,000~3,000m級の山々を越えなければいけなかった

Imphal-map[1]



 




道路もなく、もちろん車なども通れない山岳地


ジンギスカン作戦とも呼ばれた、馬や牛などを荷車代わりに
引き連れての行軍


もしもの時は、食料になるとの公算だったが
馬や牛は、大きな河を渡りきれず、山岳地では、歩かなかった


家畜を連れて行軍する日本軍は、上空からの格好の標的となり


敵の攻撃に驚いて、荷物を乗せたまま逃げて行く、牛や馬


その結果、多くの補給物資が失われた




続く…



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ミャンマーに思いを寄せて 90

読者さんには、私以上に若く、歴史や戦争に興味の無い方も多い
 

ビルマまで日本軍が行っていたのを初めて知ったなどの
率直な感想も聞くことが出来た


私も、ついこの間まで、同じようなレベルだった


そう言う方々も、私のブログを通して
関心を持って下さり、嬉しく思う


戦史の記事は、たくさんあるが、当時の手記であったり
専門的な難しい記載であったりして、ほとんど接する機会はなかった


ここで、私が調べたことを、私のブログに合ったレベルで
再確認の意味を含め、簡単におさらいしてみたいと思う



●地図上のビルマ(現:ミャンマー)の位置 
myanmar2 - コピー



日頃、世界地図なんて滅多に見る機会はなかったので
ビルマって、こんなに遠い国だったんだと改めて思った


●ビルマ及びインドの都市の位置関係 
(※都市等の呼称は、当時と現在の物が混ざっていますが
ブログを読む上で、分かりやすい方を使用しました)
tizu1[1]



…元々、ビルマは、イギリスの植民地だったが
昭和17年の初頭、イギリス軍は、強力な日本軍の進軍に敗走し
ビルマを放棄して、インドに逃げ込んだのです




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 89

ビルマ=インパール作戦と言えるほど、悲惨で有名な作戦
今もなお、 無謀な作戦の代名詞として、しばしば引用される
 

教科書では、全般的な歴史をサラリと流したくらいで
1つ1つの作戦を詳しく習った覚えはない


ビルマについては、独立のことに少し触れたくらいで
どちらかと言えば、反戦教育に力を注がれた気がする


戦時中には、ビルマまで大叔父は行って、国のために戦っていたとは
知っていたものの、この件を調査するまで、ビルマと言えば
映画の「ビルマの竪琴」を見たくらいで
地図上で「ビルマ」って、どこ?のようなレベルの私だった



ビルマ=現:「ミャンマー連邦共和国」



首都:ネピドー(旧首都…ヤンゴン←旧ラングーン)



ミャンマーよりも、ビルマの方が馴染みがあり
ネピドーやヤンゴンよりも、ラングーンの方が聞き慣れていた私は
昔の人なのだろうか?w


ミャンマーが日本でも知られるようになったのは
アウンサン・スーチーさんの件や
日本人の報道カメラマンが射殺された事件が
あってからのような気がする


衝撃的映像は、記憶に新しい所だと思います


それまでは、ミャンマーに思い入れがあった私でさえ
遠い異国の、アジアのどこかの国と言った、薄い印象だった


当初は、大叔父個人のことのみ、調査すること没頭していた


時として、進まない調査を前に、推測で検討を立てて、次に進み
後から、調査結果が裏付けされることの方が多かった


戦争も知らない私にとって、軍隊用語や読み
分からないことは山のようにあり


その度に調べて、解釈していくしかなかった


次第に、その時代背景や、地理的なことなども含めて
理解しなければ、この大叔父の調査は、進まないと考え出した


そして、大叔父の調査をしていて
何度も出てくる地名や有名な人物名に
出くわす度に、調べて、理解に努めた




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 88

おばあさんからいただいた写真に見入り、思いをはせた


今もなお残る、レンガ造りのしっかりとした大きな建物


当時は、ビルマ内でも1・2を争う大きな病院であり
第15軍司令部のあったメイミョウの町の栄華が忍ばれる 





PICT0009 






看護婦さんの宿舎跡




PICT0005
当時の宿舎前での記念写真




1枚だけいただいた、昔の写真
当時、おばあさんは、21才だったそうです


どの方が、若かりし日のおばあさんかまでは、分からないが
いつの時代も、女性の笑顔って、素敵だと思う


異国の戦地で倒れた軍人さんにとって
ほんとうに、この笑顔は、白衣の天使だったことでしょう


白衣の天使の時には、大叔父が
そして、今の世になって、私が
このおばあさんに、お世話になろうとは、誰が思うのでしょうね



おばあさん、ありがとうございました


私がミャンマーに行けたら、写真を、たくさん、お見せしますね
どうか、お元気で長生きして下さい





続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 87

靖国神社の慰霊祭で、偶然にも、当時ビルマで
大叔父の病棟を担当して下さっていた
元看護婦のおばあさんに出会った


最後に、おばあさんが、ビルマの写真を送ってあげると言われていたが
果たして、約束を覚えておられるかだろうか


様々な当時の様子を伺い、感無量の涙を流してから、数日経ったある日
おばあさんらしき人から、1通の封書が届いた


中には、お手紙と、スナップ写真などが入っていた


おばあさんは、視力が低下していて、文字を書くのが難しいそうで 
一生懸命、書いて下さったのが伝わって来る文面だった


2月のミャンマーへは、同行予定だったお友達が、腰を骨折されたので
おばあさんも、断念したと書かれていた


メイミョウには、陸軍墓地があり
そこに大叔父は眠っているだろうとのこと


たくさん送って下さった写真には、それぞれ、説明書きがあったが
残念ながら、ペン書きが滲んでいたことと、一生懸命書かれた文字を
読み取ることが出来ず、また、お会いしたときに、お聞きしようと思う


写真は、近年ミャンマーに行かれた時の物が大半だった


写真のメイミョウの町は、イギリス軍が占領していた当時に建てられた
洋風の建物が多かった


昔の映画に出て来そうな、古い洋風の町並みが
まだ、そのまま残っていた


私が、初めてグーグルマップで、メイミョウを見たときは
たまたま、市場や、町外れの景色で、アジア色が濃く
普通のアジアの田舎町と言った印象だったが


今回いただいた写真は、全く違う雰囲気だったので、少し驚いた


きっと、65年以上前なら、もっと、色鮮やかで
可愛い洋風の、メルヘンチックな町並みだったことだろう


それを見た、当時の日本軍や、おばあさん達の目には
どんな風に写ったのだろうか



送られてきた写真の一部を掲載します



PICT0008






重症病棟と、内科病棟と思われる、病院跡



PICT0007






重症病棟跡



PICT0006 






陸軍墓地




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 86

ミャンマーに同行予定の人が行けなくなってしまった


私が、同行者がいないと嘆いていることを知り
主人の妹さんが、電話をしてきてくれた


ミャンマー行くんだってね!良かったね、でも大丈夫?


そうだよね、世間に疎い私でさえ、行きたいと熱望しつつも
情勢の悪化と、閉ざされたミャンマーに不安を感じているのに
普通の人から見たら、尋常でないように映っていることだろう


電話口の横で、妹さんの旦那さんが
「今、ミャンマーなんかに行ったらダメだよ~」と言っている


心配してくれた妹さんが「私が着いていこうか?」と言ってくれた
しかし、即、隣にいた、旦那さんが、慌てて「ダメ!ダメ!」と怒っている


夫婦ゲンカが起こりそうな雰囲気を察し
「大丈夫だよ、なんとかなるから」と辞退した


妹さんは、海外旅行好きで、旅馴れていて、語学も堪能
お金もお休みも自由がきき、信頼の厚い人


条件としては、申し分ない人だけど
ただ1つ、反対する家族がいた


どうしてもお願いしますと土下座でもすれば
状況は変わったかもしれないが、私にはそこまで出来なかった


なぜなら、安全に帰って来られると言う保証は何もない


私は、自分のための目的があり、もしものことがあったとしても
しかたがないけれど、その自分でさえも不安な旅に
無理矢理、巻き込むことは出来ない


家族の気持ちは、痛いほど分かる


そうは言いつつ、思いがけない優しい言葉に
一瞬だけ期待した自分もいて、なんとも言えない気分になった


でも、心配してくれる、その気持ちがとても嬉しかった、ありがとう



だが、ここに来て、同行者なしと言う、予期しなかった事態に
ほんとうに、どうしたものか、私は意気消沈してしまった




…続く



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ミャンマーに思いを寄せて 85

旅行会社から、ミャンマーの日程案が送られてきた


観光などを省き、大叔父の最後の地「メイミョウ」に近い所で
その他の参加者が宿泊する日を中心とし
1番大きな慰霊祭にも参列する、最短の日程


ミャンマーに入国しても、また国内で乗り換えし
病院跡地のあるメイミョウに、1番近い空港のある町
マンダレーまで行かなければならない


強行日程で4日間、余裕を持って5日間の2コースを作成して下さった


元々の8日間のコースよりは、遥かに短縮してもらえたが
平日ばかりだった


子供のことを考えると、やはり強行にでも4日間のコースしかない


ミャンマーへの慰霊巡拝への計画が、具体化してきた


早速、同行を快諾してくれた、主人の友人に
進行状況の報告を兼ねて、連絡を入れてみた


全ビルマ会に参加でき、ミャンマーに行けると
良かったねと喜んでくれた


そこで、2月のミャンマー行きの日程を伝えたところ


う~ん…と会話が止まってしまった


ちょうどその時期は、年度末でもあり、長期の出張が入っているとのこと


えぇ~…うそ~マジですか?


出張の時期をなんとか動かせないかと交渉したが、ダメだと言う


あなたがいなくとも、会社は潰れない~とも足掻いてみたが
申し訳ないけどと、丁重に断られてしまった


お仕事が第一、しかたがない、この人の同行は諦めるしかない


同行者がいると言う安心感を前提で進めていたミャンマー行き
急遽、他の同行者を検討しなければ…


海外旅行に馴れていて、語学もボチボチ
お休みや金銭面も、どうにかなって、家族などに反対されない人


そして、何より、私が信頼できる人


現実には、そんな人、なかなか、いない…




続く…



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ミャンマーに思いを寄せて 84

旅行会社の担当さんが、実は、面識のあった人だと分かり
しばらく談笑してから、本題のミャンマーツアーの話題に移った


私が目指している場所は、病院のあったメイミョウだと言うこと
そして、小さな子供がいるため、9日間の日程が厳しいことを伝えた


すると、一応、あれは基本のツアーコースなだけで
ほとんどの方が、思い思いの場所に、オプションツアーで行かれるとのこと


メイミョウへも、毎回行く方がおられるとも教えて下さった


そして、名目としては、全ビルマ会の慰霊巡拝とし
日程を短縮して、私専用のツアーを組むことも出来ますと、言われた


聞いてみるもんだね


パンフレットだけを見て半分諦めていたけど
これなら、行けるかもしれないと希望の光が差し込んだ


申し込み締切が、年明けなので、今のところは、参加人数の把握が出来ず
細部については、何とも言えないが、概略の見積もりと
モデルコースの作成を後日郵送して下さることになった


申し込みのお返事も急がないとのこと
とりあえず、見るだけでも見てみよう


現実問題は、それから考えても遅くはない


もし行くとなっても、ミャンマーは初めてで
海外旅行も不慣れだと言うことを正直に言い
今後とも、アドバイスをお願いした


あちらも、もちろんです!些細なことでも何でも聞いて下さいねと
言って下さった


頼もしく、心強い味方に巡り合ったようで
とても嬉しくなって電話を切った




続く…



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ミャンマーに思いを寄せて 83

全ビルマ会企画の、ミャンマーへの慰霊巡拝を取り扱う旅行会社に
問い合わせの電話を入れた


電話を担当者に繋いでいただいて
「わたくし、○○と申しますが、全ビルマ会のミャンマーツアーの件で…」
とまで言うと


「あの~、○○さんて、靖国神社の慰霊祭で
お会いした○○さんですか?」と聞かれた


へ???

「はい、慰霊祭には参加させていただきましたが…」


「受付にいた○○です!!おつりを後で渡しましたよね」と言われた


「あっあっ!!あの、そうです、そうです、私です~!!」


当日、受付をなさっていて、私が最後の方に行ったので
おつりがなくて、ご迷惑をおかけしたんだったわ


そして、会食会場でも、ビルマ会の登録手続きで、お世話になった女性
あの時にお世話になった人は、旅行会社の方だったんだ


そうとは知らず、まさか、またこんなことで再会できるなんて!
これもご縁だよねと思った


わーい、覚えていて下さって嬉しいO(≧∇≦)o


懐かしいお友達にでも会ったかのように、2人して盛り上がった




続く…



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ミャンマーに思いを寄せて 82

一応、ミャンマー行きのパンフレットの旅程を確認した
 

しかし、全行程9日間と言う長期の旅行


様々な場所での慰霊祭が計画されており
最後は、ベトナムにも行く


9日間なんて無理だ…
旅行代もかなり高い…


しかも、コースには、大叔父の最後の地、メイミョウは含まれていない


私にとって、メイミョウに行けなければ
意味がない、と言っても過言でない


家族は、ビルマの調査に対しては理解を示してくれたが
家を留守にして、実際に周りに迷惑をかける行動を取ることまで
許してくれるだろうか


正直、金銭的な面もかなり心配 


夢やロマンだけでは、片付けられない、シビアな現実問題がここにある


偉そうに言っても、私は、単なる専業主婦にしか過ぎないのです


自分の無力さと、無能さに悲しくなった


2月のミャンマー行き目前に
どうするか考えたが、自分でも分からなくなった



とりあえず、旅行会社に、細部を問い合わせるため、電話した




…続く



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ミャンマーに思いを寄せて 81

靖国神社の慰霊祭から戻り
まだ、半分信じられないような展開に茫然としていた
 

この感激を誰かに伝えたい
…けど、経緯をどうまとめたらいいか
自分の頭の中でも混乱していた


リアル友で、今までからのミャンマーの件を知っていて
今すぐ電話出来て、感動を分かってくれそうな人…


誰もいないかもしれない。。。


いると言えばいるけど
興奮したまま、一方的に話しても申し訳ないし…


私1人の戦い??孤独に頑張るしかないのかしら、なぁんて


慰霊祭での嬉しさを噛み締めながら
なんだか半分、寂しいような気分になった


感傷に浸りながら
もらってきた、プリントに再度、目を通した


式次第や、参加者名簿
そして、ミャンマーへの旅行のパンフレット


ミャンマーでへ慰霊巡拝をあんなにも熱望していたにも関わらず
実現出来るかもしれないと具体化してくると
ほんとかな?と、半信半疑の冷めた自分がいた


行きたいけど、あまりにも急で
金銭面や、子供をその間どうする?とか
もしものことがあったら、ほんとうにどうしようと言う
現実問題の不安が先に立った



続く…



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ミャンマーに思いを寄せて 80

次の日からは、母のお通夜・葬儀とバタバタした



そんな中、私は、葬儀場で、母と過ごす最後の時間をもらった


棺桶の中の母の顔は、とても幸せそうに微笑んでいた


父から見せられた、亡くなる前日に撮った、障害者認定用の写真


その目は、何かにおびたような
母ではなく病人の顔で、正気の顔ではなかった


その顔とは、比べものにならないような、元気だった頃の
いつもの優しい母の顔が、そこにあった


それだが、唯一の私の救いだった


自殺はいけないことで、理解が出来ないことだと、ずっと思っていたけど
それは、人によっては、選択肢の1つで
選ぶことで楽に、幸せになることもあるのかもしれないと思った


それを選択したことは母自身が決めた、母の人生


例え親子でも、考え方が違い、否定することは出来ないのだなと思った


母に、化粧をしてあげた


母の好きな明るいピンクの口紅をそっと塗った


いつものように、生きているかのように、ずっと母に語りかけていた私


棺桶の中の母の顔は、寝ているようで
今にも「お姉ちゃん」と呼ばれそうな気がした


それでも、母が自ら命を絶ったのは事実で
私が、母を支えられなかったのも事実


今もなお、そして一生、後悔しても、謝っても
私の中の積罪の念は消えることはないだろう


もう、天国で母は、大叔父や祖父母に会っているのだろうか


それでも、母の果たせなかった夢を、果たそうとしている私


亡くなってから親孝行なんて意味はないのかもしれないけど…


自分の中で、母に対する思いへのひとつの証として
このミャンマー行きを実現させたいと思う


そうすることで、私自身も、母の死に対し
一歩前進出来るような気がするのです



昨年、ちょうど、母の七回忌が、12月23日に実家で行われた


ほんとうに偶然だけど、母の法要に合わせたように
ミャンマー行きの良い報告が出来た事を嬉しく思う



お母さん、2月に、あなたが行きたいと言っていた
ミャンマーに行ってきますね


どうか、無事に日本に帰ってこられるように、守って下さい


お母さん、こんな娘だけど、私はあなたの娘であることを
誇りに思っていますよ


ありがとう、そして、ごめんね、お母さん、許してね




…続く



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ミャンマーに思いを寄せて 79

その夜、遅くに父は、警察から戻った
 

父が殺したのではなく、母の自殺だった


母の遺体は、検死が終わり、自宅へは戻らず
そのまま、葬儀場へと移動した


言葉少なに、集まっていた母方の親戚に挨拶をし
明日からの葬儀の日程等を伝える父


母方の親戚の前で、父は針のむしろ状態で、辛かったことだろう


きっと、母の思い込みを鵜呑みに、父にいじめられたと思っている親戚
それでも、父は何も言い訳をしなかった


親戚が帰った後、私も、何をどう、父から聞いたらいいのか、迷った


父は、警察で、殺人だと疑われ、ひどい扱いを受けたらしい
妻を亡くし、悲しむ間もなく、警察で、詰問された


死にたいと漏らしていた、母の監視をなぜ怠ったのか!
殺したんじゃないのか?


元々、母と父は、別の寝室で寝ていたけど、警察は信じず
病気の母と別の部屋で寝るのは、不自然だと疑いをかけられたり…


疑うことが仕事の警察だから、妻を亡し悲しみに暮れている者に対しても その姿勢は変わらず、ひつこく何度も同じ事を聞かれたらしい


最後は、早く帰してくれと、ケンカになりそうになったと言っていた


父は、喪主として、今後のことが気にかかっていたらしい


もちろん、検死結果に、他殺を疑うようなことは出ず
自殺と判定され、父は自由の身となった


警察官も、送り出すときに、謝っておられたそうです



そして、私達は葬儀のための準備に追われた



続く…



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ミャンマーに思いを寄せて 78

母の訃報を受け、急遽、実家に帰ることとなった私


自分では思わなかったが、色々と忘れ物をしたことを考えると
焦っていたのだと思う


でも、冷静に受け止め、こうなることを予感していた自分もいた


父にいじめられていると思い込んでいた母は、最後に私にすがったのでしょう
母は、私からも、見放されたと、きっと思い込んだだろう


数日前から、死にたい死にたいと言っていた


命の尊さを誰よりも知っているはずの母なのに
何でそんなことを言って、人を困らせるのだろう
死ぬ勇気なんかないくせにと、正直、腹立たしかった


22日の、あの電話が、最後の母の声…


もし、私が帰っていれば、母は亡くならなくて済んだかもしれないのに。。。


新幹線に揺られて、家族全員で実家へと急いだ


夕方近くに地元に着いて、何も変わらぬような、実家の建物が待っていた
いつか、同居しようと建てた2世帯住宅


いつものように、ドアを開けたら、元気な母の声が聞こえてきそうだ


しかし、仏間には、親戚だけがたくさん座っていた


母は?父は?と言う問いに
どちらも、警察から帰ってきていないとの返事


母の遺体は、検死から戻って来ていなかった
そして、父は、取り調べ。。。


その時、私は、父が殺してしまったと確信した


看病に疲れ果てた父が、思い余って、母を…


そうなっても、当然と言えば当然の状況だったはず


悲しい老夫婦の行く末に、私は娘として、どうしたらいいのか、、、
この後、我が家はどうなってしまうのか、、、


母の死よりも、父がとても心配になった





続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 77

実家から戻り、東京での生活を送っていた私


そして年末を前に、母は、病院を追い出されるように退院した


退院してからの母は、より一層わがままで、おかしくなっていた


今から考えると、きっと、母の中には、急に自由のきかない体になり
焦りと、自身に対するどうしようもない、もどかしい気持ちがあっただろう


周りで看病していた私達よりも、もっともっと本人は辛かったはずだ


だけど、病人を抱えたことのなかった私は
その気持ちを全く考えていなかった


看病をしていた自分だけが辛いかのように…


退院してからの母は、父にいじめられるなどと、周りに言いまくり
主人の職場まで電話してきた


主人も困惑して、私にそのことを伝えた


母は、何をしているのか?私はあきれ果てた


人は、ボケると2つのパターンがあるらしい


1つは、食事を与えてもらえない、いじめられているなどと
精神面を主張するパターン

もう1つは、お金を取られたなどと、金銭的なことを言うパターン


母は、1つ目の、パターンで、鬱病を併発していたと思う


私も、当初は、父を、たしなめたが、どうも違うと感じ始めていた


私は、東京に逃げ帰ることで、母から距離を持ったが
私以上に、父は辛かったことだろう。。。


自分が愛した女性が、おかしくなって行っていくのを
父は、そばで毎日見ていて、分かっていたはずだ


いじめられていると、周りに思い込まれていても、父は、反論しなかった


そして、母を避けるように逃げ帰った私にも、頼ることはなかった


1人で戦い、母を最後まで支えたのは父だった



12月23日の祭日を前に、実家に帰ってきて欲しいと母に懇願された


帰ろうと思っていたが、22日の朝、急に角膜炎になり
目を開けることが出来なくなってしまった私


帰りたくない気持ちも、ややあったが、ほんとうに偶然だった


まずは、眼科に行き、今日は帰れなくなったと電話した


母は、とても落胆していた



次の朝、早朝に父から電話が入った
「お母さんが死んだから、帰ってくるように」


用件だけ言って、父は電話を切った




…続く



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ミャンマーに思いを寄せて 76

母が入院し、家は少し楽になり
父に任せて、一時、自宅に帰ろうと考えた


…私は母から逃げたかったのだ


自宅に帰る日
母は、病室のベッドの上で、子供と遊んで
いつまでも離そうとしなかった


私は、一刻も早く、母のそばを離れたかった
このままじゃ、自分の方が、おかしくなると思うようになっていた


「また来てね」とすがるような母の目が忘れられない。。。


自分のことしか考えてなくて、母を見捨てたのと一緒だ
ごめんね…お母さん、ごめん…


今まで、何十年も育ててもらって
厳しかったけど、何かある度に、助けてもらって、支えてもらった


なのに私は、最後の最後の数ヶ月かでさえ、母を支えてあげられなかった
支えるどころか、母から逃げてしまった


私には、いつも、あの、気丈な、お母さんのイメージしかなかったから…


どんなに後悔しても、一生、私の中から消えることのない
大きな大きな過ち


そんな母との別れは、突然と言えば突然だった


でも、実は、私の中に、なんとなく
そうなるのではないかと言う予感があった



…続く



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ミャンマーに思いを寄せて 75

母の病状は、一向に、上向かない
それは、母の気持ちの問題だと私は思った


私も、初めての子育てに一杯一杯で
その頃、ちょうど職場との問題があり、とても辛い時期だった


娘として、母の面倒を見てやりたいと思う気持ちとは、うらはらに
母の後ろ向きな気力の無さに、赤ちゃんを2人抱えているような
苛立ちを覚えた


今から思えば、もう、その時すでに、母の精神状態は
健康な状態でなかったと思う


でも、私はそれに気づいていなかった


その後、母は、食事も摂らなくなって、2度目の脳梗塞により倒れた


半身の麻痺は、以前よりも、強くなってしまった


このまま、家にいたら、母も、父も私もダメになってしまう。。。


私も、母の看病疲れが出ていたのだと思う


母を説得し、無理矢理に、入院させた


申し分けなかったが、少し、安堵した
そして、病院に、毎日通う日々が続いた


病院では、様々な検査をしてもらったが
さほど悪いところが見つからなかった母


それでも、母のわがままぶりは、大部屋の病室でも続いていて
他の入院患者さんなどにも迷惑をかけていた


病気が、そうさせていると言うことが分からず
健康だった頃の母と比べて、嘆いていた私


なんで、問題ばかり起こすの。。。疲れた。。。


頑張れ・頑張れと励まし、どんどん、母にキツク当たる私がいた


お母さん、何で分かってくれないの?自分のためだよ!!
みんなが協力しようとしているのに。。。
優しくしたいけど、こんなんじゃ、優しく出来ないよ。。。


夜に1人になると、ごめんね、ごめんねと、台所で泣いた




続く…



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ミャンマーに思いを寄せて 74

母は、とても気位の高い人で、子供のように無邪気な人だった


正直、子供としては、時々疲れる時もあったけど
お裁縫も、お料理も、何もかも、母として、妻として完璧な人だった
今でも、これからも、母を超えることはないだろうなと思う


父は、お酒が大好きで、若い頃から武道で無理をしていたので
年齢と共に、体のあちこちにガタが来ている


父方の祖父母は、早くに亡くなっていたことと
母方は、長生きな家系だったので、年齢的な順番から言っても
父の方が早く逝くだろうと、父本人も、私達も思っていた


そして、よそから、訃報を聞く度に、悲しくはなったけど
自分の親だけは、永遠のような、不死身のような
親が亡くなると言うイメージが、全くなかった私


それが、突然、母が脳梗塞で倒れた


誰しもが予想しなかったことで驚き、戸惑った


私に子供が、生まれて、半年ほど経ってのことだった


子供の通院があり、実家と遠く離れた住まいを往復して、実家にいることも多かった私


この間まで、母はとても元気で、上げ膳据え膳で、私は甘えてばかりだった
それが悪かったのか、母は疲れていたのか?と、悔いた


母の症状は、軽度で、少し半身に麻痺が残ったが、リハビリすれば回復し
特に生活には問題がないだろうと言われた


ただ、気位の高かった母は、自分の思い通りにならない体が嫌で
その姿を誰にも見られたくなかったようで、外に、全く出なくなった


リハビリに通おうよと、勧めてみたものの、何もしようとしない。。。


私は病気なんだ、私は病気なんだと、どんどん気落ちして行く母


何とか、気分を盛り上げようと色々と試みたり
私なりに育児をしながら、家事をこなしたりもしたが
母は、生きる気力を無くしているように感じた


そして、病人なんだからと、わがまま三昧に振る舞うようになっていった


今から思えば、なんと冷たい娘なのだろうと思うのだけど
その時の私は、母の後ろ向きな態度に、だんだんと腹が立ってきた



続く…


ミャンマーに思いを寄せて 73

ミャンマーに行くことを目指そうと真剣に考え出したのは
今年になって、大叔父の調査を本格的に始めてからのこと。。。


調べて行く上で、必然的に触れることになってしまった
私が察した祖父の胸中や、ビルマの戦場での状況
そして学校では習わなかった歴史的な背景などが
複雑に絡み合い

単に、小さい頃から漠然と、ビルマ=現ミャンマーに対して
憧れのような、いつかは行けたらいいなぁと思っていたのとは
違う感情が芽生えた


人には、母の遺言と分かりやすいように言っているものの
正直、遺言とまでは行かない


私が勝手に、母の思いを果たしたいだけなのかもしれない


ここで、元々の主人公?の母について書こうと思う


後の、資料によれば、大叔父が出兵したのは
母が3才と2ヶ月だったことが分かる


人間の記憶として、ギリギリ記憶に残る年齢かな?
きっと母の中の大叔父は、優しい大叔父のイメージしかないと思う


出兵の為の「おはぎ」を食べてしまったことを
悔いているのではないと思うけど

大好きな大叔父の、膝に乗せられて、甘い甘いおはぎをもらったこと
たくさんいる兄弟の中で、最後に、自分だけに与えられた、大叔父の優しさ


そして、それが最後になるとは知らず
きっと、ありがとうも、大好きも、満足に言えなかっただろう母


最後と分かっていれば、もっともっと言いたかったことがあったはず。。。


大叔父は独身で、祖父のお寺に同居していたので
その可愛い母や、その他の姪っ子・甥っ子、そして自分の兄、兄嫁
それらとの別れを予感しながら、何を思い、膝の上の母を見ていたのか


時代とは言え、そんな大叔父を、帰らぬ人となるかもしれないと
思いつつ送り出した、祖父と祖母


祖母はどんな思いで、おはぎを作り、それを大叔父に差し出したのか


祖父は、自分が出した召集令状によって、弟が戦地に行くこと
万歳と言って送らなければいけなかった、ご時勢…


それを考えただけで、胸が痛くなるのです


母が亡くなっても、いつもいつも何かある度に聞かされていた
大叔父の話を、私は忘れたことがなかった 


続く…


ミャンマーに思いを寄せて 72

戦後65年経ち、戦争に参加した方達は少なくなってきている


慰霊祭で出会った方達も、失礼だけど
次回も元気な姿を見られる保証は、どこにもない


子供が、小学校に入って、手が空いたと言うのも原因だけど
何かに突き動かされるように、行動を起こしたことは、良かったと思う


ほんとうに、ギリギリ間にあったと言ってもおかしくない
あと少し、行動を起こすのが遅れていたら、ここまで来れたとは思えない


そんなことを考えていたら、参道途中のテントに目が留まった


さっき副会長さんが言われていた、新たな追悼施設建設反対の
署名活動のテントだった


そう言えば、何度と来ていた時も、そのテントはあった
ビラをいただいたこともあったが、その時は、よく分からず
特に興味がなかったので、素通りした


正直、積極的な活動をなさっているようには見受けられない


後ろ向きに座り、お話しされている方、半分、寝ているような方
テントの中で、老人がイスに座り、ひなたぼっこを
楽しんでおられるようだった


そこに、スタスタと進み、イスに腰掛け、机上の署名簿に、署名を始めた


老人の方が、驚かれておられるようだった


「署名は集まっていますか?」との質問に
「いえ…なかなかです」と苦笑されていた


「どうぞ頑張って下さい」と深々と頭を下げて、立ち去った


後ろから、ありがとうございましたと言う、数人の老人の声が聞こえた


微力ながら、私にも協力できた
小さなことだけど、とても誇らしげに感じた


電車の中で、老人に席を譲ったときのような
嬉し恥ずかしいような満足感でいっぱいになり、靖国神社をあとにした


大鳥居を出ると、先ほどの静けさがウソのような
車や自転車、若者が行き交う都会の道に出る



その中に、吸い込まれるように、私は、駅に向かい、家路を急いだ



…続く


新年のご挨拶

新年明けましておめでとうございます


いつも、ご来訪いただきありがとうございます(*^_^*)


自信の記録のためにと、細々と始めたブログでしたが
アッという間に、70話を超えて、まだまだ続く勢いですw

書いておかなければいけない事項が毎日のように増えて
記事が追いつかないような状況に、嬉しい悲鳴を上げています

今後も、随時、皆様にご報告できれば幸いです


今年は、ミャンマー行き実現に向けて
本格的な年となることでしょう

すでに、初めてのミャンマー行きを考えるだけで
海外旅行自体、不慣れな私は、とても、不安がいっぱいです

情報や、こんなことを気をつけた方がいいよなど
皆様の、アドバイス並びに、お知恵を拝借できれば、ありがたいです
お気軽に、コメント・メッセージをお待ちしています


今後も、暖かく見守っていただけますよう
本年も、どうぞ宜しくお願いいたします


                              2011.1.1 Aya
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