ミャンマーに思いを寄せて

亡き母の思いを果たすべく、ビルマで戦死した大叔父の足取りをたどる私の奮闘記録☆

2011年02月

ミャンマーに思いを寄せて 111

12月23日に母の七回忌を無事済ませた
 

法要のお酒の席で伯父に大叔父のことをそれとなく聞いてみた


以前に、ミャンマーに大叔父の慰霊に行きたいと言って以来
その後も、調査を続けていたことは、伯父は知らない 


伯父は話してくれた


○○大学を出て、祭兵団の所属で、機関銃を撃っていたと


えっ?…そこまで知っていたなら
何故もっと早くに教えてくれなかったの!!


と心の中で、叫びそうになった


私が祭兵団にたどり着くまでには、かなりかかった


大学名が○○大学だと言うこと、そして機関銃手と言うのも初耳だった


伯父は、母の兄だが、母とはそんなに年齢は離れていない


どうしてそんなことまで知っているのか?
祖父から伝え聞いたのかと尋ねると、戦死の訃報の紙もあると言う


それもまた、初耳で驚いた


そして、今度、お寺に行った時に、大叔父の写真を欲しいと
お願いしてみた
それから、訃報の通知も見せて欲しいと続けた


伯父は、陽気に、いいよと言ってくれた



続く…



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ミャンマーに思いを寄せて 110

偶然ネットで見つけた、60連隊の本「遙かなインパール」


数日後、宅配便で届いた箱を、ドキドキしながら開けた


早く読みたくて、読みたくて。。。


大叔父の名字は珍しいので、もしかしたら、文中に出てこないかしら


本の言葉は、よくある軍事研究書みたいな、難しい書き方ではなく
戦争を知らない世代にも、参考となるようにと配慮された
分かりやすい書き方だった


何人かの兵隊さんの手記を元にした、人間味のある真実の戦場小説


途中、出てくる部隊の編成表や、作戦図


寒さも忘れ、受け取った玄関で、そのまま座り込んで読んでいた


しかし、しばらく読み入っていたが、涙でなかなか先に進まない


読みたいのに、生々しい悲惨な、現実の話を目の当たりにして
大叔父に重ねてしまい、前に進めないのである


ざっと、あとがきに飛び、著者の気持ちに触れた


60連隊がビルマに進む過程で、一時、中国で警備をしていた時期があった


著者は、60連隊がビルマに発つ時に、後任任務を請け負った部隊に
所属されていて、しばらく、申し送り・受け業務のため
60連隊と寝起きを共にした経緯がある方だった


少なからず、接点のあった部隊が、その後、かの有名なインパール作戦に
参加し、深刻な苦しみを味わったことを、戦後、お知りになったそうです


そして、インパール作戦について、死者への鎮魂の記録を
書かないわけには行かなかったと述べられていた


この本を編集されるに当たり、多くの60連隊関係者に会われて
お話を聞かれたそうです


その中で、60連隊の会があり、祭60会会報などが
発刊されていたことを知る


著者にお会いしたら、60連隊に直接関係なくとも、当時の様子など
色々と貴重なお話しを、お聞き出来るだろう


もしかしたら、60連隊の何らかの情報をいただけるかもしれない


今の私にとってプラスになるのではないかと考えた


よし、早々に読み終わり、ファンレターを送ろう!!


しかし、この本が発刊されて、かなり経っていた


著者の伊藤さんも、大正6年生まれ…


そこで、出版社に、問い合わせてみた


本の作者に、ファンレターなんて出したことはない
一般的な出し方を伺った後


「あの~…、失礼ですけど、遙かなインパールの著者の
伊藤桂一さんは…」とまで言うと


出版社の方が、半分笑いながら「はい、ご健在ですよ」と、おっしゃった


ホッ、良かった、お元気でいらっしゃるんだ


お住まいも、都内と言うことで、安堵した


後で、ゆっくり、しっかりと読もう


他にも、この本の作成のために、参考にされたと言う
60連隊を元にした、古い作品が数冊紹介されていたので


いつか、読んでみたいと思う



そして、その後、この本は、地図や時程等を再確認するために
付箋をたくさん貼られて、私の教科書代わりとなっていった





続く…



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ミャンマーに思いを寄せて 109

ずっと、曙だの、祭だの、大きな兵団単位で
大叔父のことを調べて勉強していた私


ふと、60連隊について、何も知らないと言うことに気付いた


以前に、靖国神社の調査書で、初めて、大叔父が
60連隊に所属していたことを知った時


まだ、全ビルマ会にたどり着いていなかったので
どこかの遺族会に入れてもらいたくて、60連隊関連の遺族会を探した


しかし、ネットで探したが、多少ヒットするものの
活動をされているような気配はなかった


もし参加が認められたとしても、きっと地元を中心に活動され
私としては、帰省の際に顔を出せる程度で、行事等への参加もままならない


その上、もし活動されていたとしても、きっと小さい規模で
ミャンマーへ慰霊に連れて行って下さるような
力は無いのではないかと判断した


そこで、大きな組織の、遺族会に絞り、登録を目指したのだ


遺族会は別として、60連隊のことをもう少し詳しく調べてみたくなった


大きな兵団の中で、大叔父の知り合いを捜すより
60連隊で調べれば、大叔父の知り合いに巡り会う確率は増す


まずは、先日、全ビルマ会で、お知り合いになった年輩のご夫婦から
ご紹介をいただいた、全ビルマ会では最後の60連隊の
おじいさんに会いに行くことが、先だが


年末も押し迫っていた時期だったので、その方には、年明けにでも
ご挨拶しようと思った


そして、ネットで、またウロウロと彷徨っていると


偶然、60連隊の本が出ているのを見つけた


60連隊の方の、体験手記かしらと思ったが、そうではなさそうだ


著者は、自身も戦地に何度も赴かれている方で
戦記物のほか、様々な著書を出版なさっていた


珍しい本に巡り会い、すぐに注文して、取り寄せた


伊藤 桂一 著
『遙かなインパール』 光人社発行




続く…



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ミャンマーに思いを寄せて ご挨拶

読者の皆様へ


いつも読んで下さりありがとうございます

ミャンマーより帰国し、やっと、落ち着いたところです

念願のミャンマー行きを果たせたことに、感無量です

たくさんの方の、ご協力があって、実現出来たと、改めて、感謝しました

こちらでも、色々と情報をいただいた皆様
ほんとうに、ありがとうございましたm(_ _)m

旅行の内容も、早く、お伝えしたいところですが
結局、出発までに、リアルタイムに記事が追いつきませんでした

記事の内容は、出発前のことから続けていきますね
随時、追いつくように、頑張ります

では、引き続き、どうぞヨロシクお願いします(*^_^*)



                             2011.2.15  aya

ミャンマーに思いを寄せて ただいま☆

ただいま~
おかげ様で、ミャンマーより、無事に帰国しました(*゚▽゚*)


行く前は、とっても緊張していましたが
ミャンマーは素敵な国でした


念願のミャンマー行きを果たして、感無量です


たくさん、お話したいことがあります!!
ぼちぼち書いていきたいと思っています


今後とも、どうぞヨロシクお願いします



まずは、取り急ぎ、ご報告まで
                          

ミャンマーに思いを寄せて 行ってきます☆

読者の皆様へ


いつも、読んでいただきありがとうございます


記事が、なかなかリアルタイムに追いつかず
とうとう、今日から、ミャンマーに向けて出発です

本日、成田入り~!!…でも、大雪の予報


この、ミャンマー行きも、ツアーが中止になったり
ギリギリまで、2転3転して
やっと、行けることとなりました


2/12~19まで、ミャンマーに行ってきます


情勢悪化もささやかれる中、正直、不安です


無事に帰って来られるように、どうか祈っていて下さいね


帰国出来ましたら、すぐに、ご報告いたします


本日より、しばらく、更新をお休みさせていただきますので
どうぞ、ご了承下さいm(_ _)m



                          
                                         2011.2.11       aya

ミャンマーに思いを寄せて 108

ビルマから持ち帰られた鉄の帽子


遺族の元に返還されたが、受け取らなかったのだろうか
 

もしかしたら、貴重な資料として、遺族から提供されたのかもしれないが


名前だけでは、さすがに持ち主を特定するのは難しいことだったのか


私の目の前に、65年以上前のビルマから帰って来た鉄の帽子があった


錆びて、ボロボロになり、触れると崩れそうなくらいの帽子


戦争資料館などの展示物は、保存処置がされ、ショーケースの中に
並んでいることが多いが


ここの展示品は、手の届く机の上に、並べられていた


私は、ビルマの風を知っているこの帽子の前から
しばらく離れることが出来なかった


怖いとは全く思わなかった、温かいビルマ人の心に触れ
嬉しくも、やや切ないような…


持ち主と共に、勇敢に戦かったのであろう鉄の帽子は
役目を終え、静かにたたずむ老兵のように、そこに鎮座していた


私は、黙って帽子を見つめ、心の中で手を合わせて、その場を離れた


その後、奥様が相手をして下さり、会話が弾んだ


もうすでに、展示会の終了時間が迫っていた


ぼちぼちと片付け準備が始められていたが
それでも、客足が途切れることはなく、来場された方々は
真剣に展示物に見入っておられ、帰ろうとはしなかった


お忙しそうだったので、私も足早に展示品を拝見し
挨拶もそこそこに、帰路に着いた


またいつか、このご夫婦に、お会いできる日もあるだろう



展示会に行った数日後、お礼のお電話をいただいた


先日の感想などをお話し、素晴らしい活動を讃えた


すると、ご主人は、活動を通じ、様々な方と親交があると話された


その朝も、今はご高齢で、全ビルマ会の行事には参加されていない
全ビルマ会OBとも言うべき方に、展示会が成功に終わったと
報告の手紙を出したと言われていた


私は、もちろん、そのOBの方は存じ上げない


さすが、顔が広いなと感心していた


そのOBの方は、それまでは、全ビルマ会の役員などの要職を歴任され
お元気だが、近年、隠居されたのだそうです


「ビルマでは、60連隊の出身で」と、ご主人が続けられた


えっ?60連隊って、大叔父と同じ部隊だ!!とても驚いた


「祭(祭兵団)の方には、慰霊祭で、どなたもお会いしなかった」と言うと
「全ビルマ会の中では、60連隊の最後の1人です」と言われた


えーーー!!それにも、とても驚いて、是非ともご紹介いただけるように
お願いしたところ、快く連絡先を教えて下さった


お住まいは、都内だった、近々、お手紙を出してみよう


もし、お会いできたら、60連隊の詳しいお話を伺えることが出来るだろう


もしかしたら、大叔父を知る人かもしれない


そのためには、大叔父の写真が必要かも。。。


お礼を言って、受話器を置いた


ここに来て、全ビルマ会・60連隊の最後の生き残りに出くわすとは
まさに棚ボタ状態の素晴らしい情報に、電話の前で
狂喜乱舞しそうだったw




続く…



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ミャンマーに思いを寄せて 107

先日、靖国の慰霊祭で、副会長さんの顔が分からないから
教えて欲しいと、お世話になった、年輩のご夫婦


遺族ではなく、そのご夫婦も、この慰霊祭からの新規の参加


若い方が、全くいない会場で、私とおなじ新参者として、親近感を持った


副会長さんへの挨拶や、元看護婦さんとのお話で
その場では、そのご夫婦と、あまり、お話する時間がなかった


こんな活動をしているので、良かったら見に来て下さいと
チラシをいただいた


戦争関連の展示会の案内のチラシだった


○○県で活躍されている団体の実行委員長と、委員長だとか


チラシには、その展示会のバックアップor協賛の団体が連ねてあって
しっかりとした、大きな団体と言う印象だった


戦争の展示会。。。なんとなく、イメージは、出来た


九段下の昭和館や、各地の平和施設などで、見かけるような感じだろうか


私が関心を持ったのは、その展示会自体ではなく
なぜ、遺族でもない方が、熱心にそう言った活動をなさっているのか


私よりは年輩だけど、50代くらいに見受けられ
私と同じ戦争を知らない世代だと思う


なのに、どうして、このような活動をしようと思われたのか
その経緯に大いに興味があった


同年代の方が中心となって、活発に活動されている団体にも、やや興味あり


思考に共感出来るなら、私も参加してみたいなぁ、なんて思った


慰霊祭から数日後、その展時会に伺った


特急に乗って、お弁当を食べて、旅行気分


意外と遠く、終了時間間際に、押しかけるような形になった


正直、展示物は、しっかり見られなくとも
顔だけ出して、先日のお礼を兼ねて
ご縁を繋いでおけば、それで良いとも思っていた


とりあえず、行きますと、連絡だけ入れておいた


目的地の駅に着き
駅前の大きなホールの片隅に、展示フロアがあり、すぐに分かった


入り口近くで、奥様が待っておられて、出迎えて下さった


旧知の友達にでも会ったような気分で、嬉しかった


小さな展示フロアだったが、地元の戦死者を中心に
お写真や、遺書、作戦の細部説明のパネルや、プラモデルの飛行機の模型
遺品などが展示されていた


様々な団体から、展示物を借り受けられたそうで
全ビルマ会から提供された遺品もあった


私には、ビルマ関係を中心に、簡単に
主催者であるご主人が説明をして下さった


ビルマが外国人を受け入れだした昭和40年代


全ビルマ会も、早々にビルマを訪れていた


そこで、現地のビルマ人より、戦時中に日本軍の兵隊さんから
預かったとされる物を受け取ったそうです


そこにあったのは、錆びてボロボロの鉄の帽子


持ち主であった方の名前が、かろうじて読み取れた


昭和40年代と言っても、戦後、20年以上経っている


その間、ビルマの人は、日本人が来たら渡そうと
大切に保管して下さっていたのだろう


どのようにして、その鉄の帽子がビルマ人に託されたのかは分からないが
きっと、戦死された方の遺品なのではないかと思う


そして、日本に連れ帰られた鉄の帽子は
持ち主もしくは、その遺族の元には返らなかった。。。




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 106

大叔父の本籍地のある、お役所の軍歴表を管理しておられる担当さんに
引き続き、電話で質問した


母の記憶の残るギリギリの年齢や、当時の戦況
作戦の開始状況から、概略の逆計算により
ビルマに出兵した時期は、推測していたが、ハッキリとは分からなかった


ビルマに行ったのはいつですか?


すると、昭和18年4月20日に、地元の師団より現地召集
同年7月23日に、下関を出て釜山に到着


下関を出るまでの間は、地元で訓練を受けていたと思われる


釜山から中国を経由して揚子江、そこから
12月19日にビルマのメサイに入っていると教えてもらった


まさに、インパール作戦のための投入だ


作戦開始までは、ビルマからインド国境に向けて
各兵団は道路を作っている


大叔父達の祭兵団が作った道路は、後に白骨街道と呼ばれることとなる


インパール作戦が開始されたのが翌19年3月初旬


作戦が開始され、国境に待機していた日本軍は
イギリス軍が駐屯している、インドのインパールを目指し
一気に国境の険しい山を越えた


しかし、反撃に遭い、なかなか前へ進めない


その間に、大叔父は、病名「アメーバー赤痢、兼マラリア」
(軍歴表より)にかかり


昭和19年5月24日に、インドのアッサム州テグレパールから
メイミョウの病院に移された


すごく詳細な日付まで分かった…軍歴表ってすごい


大叔父は、インド国内まで、行っていたのだ!!…良かった


全ビルマ会のおじいさん達が口々に言っていたように
インドにはたどり着けず、ビルマ国内の途中で無念のリタイアかと
思っていたため、涙が溢れた


作戦中止の撤退命令は、同年7月初旬


撤退時は、何度も書いているように、白骨街道となる惨状だったので
まだ、戦況が悪化する前に、倒れ、トラックや鉄道により、搬送され


安全な、ビルマ1の施設を誇る病院に入れてもらえたことは
幸運だったと言える


変な言い方だが、良い時期に倒れたのではないかと思う


もう少し遅ければ、自力で後退するしかなく
きっと白骨街道で亡くなっていたであろう


悲しいことに、作戦の最中、いつ・どこで亡くなったか
それどころか、生死不明の方もたくさんおられる


それらの方と比べると、やはり、大叔父は、恵まれていたと思う


時期的に概算をし、白骨街道を彷徨いながら
メイミョウにたどり着いたのではないと思っていたものの
ほんとうの詳細な日付が分かり安堵した


アケボノとどこかに書かれていますか?
一番知りたいことを投げかけてみた


前回も、実は、調べていただき、担当して下さった方が
ヒントとして「アケボノ」と書かれていますと、おっしゃっていたのですが。。。


しばらく、目を通しておられる様子だったが


アケボノとは、どこにも書かれていないように思いますが。。。と言われた


えーーーーっ?


…では、なんだったのだろう?アケボノって???


私は、そのヒントらしい言葉を頼りに
必死にビルマとアケボノの関係を調べて、偶然、曙兵団を見つけ


大叔父がビルマにいた時期的なものと総合し
インパール作戦に参加したのではないかとの推理に至った
(訂正:事後の調べにより、実は、曙兵団は、ビルマにも
インパール作戦にも関係はないようです)


結果、インパール作戦に参加していたのは、間違いではなかった


だけど…アケボノって?


前回の担当して下さった方が、アケボノと書かれていますと
ウソを言う必要はない
そして、今回、担当して下さった方も、アケボノと
書かれてはいませんと、ウソを言う必要はない


もし、その当時、軍の秘密区分に当たる部分だとしても
今の時代に、身内に隠し立てする必要もないだろう


どちらも、芝居をしておられるようにも思えない


。。。謎だけが残った


軍歴表の原簿の開示について、帰省した際に、閲覧は可能か聞いてみた


半分笑いながら、電話口を押さえて、上司らしき人に相談なさったが
「いいですよね~」と簡単に応じて下さった


ただ、コピーとなると、少し状況が違うので
コピーの場合は、前回言われたとおり、関係を示す
戸籍謄本などを添え、正式な請求行為が発生するらしい


まぁ、そこまでしなくても、見るだけで十分でしょ
みたいなニュアンスが伝わった


今の時代に、物珍しい人もいるもんだと言う感じでしたw
半分呆れて、どうぞどうぞ状態に感じた


おかげで、知りたかった多くの情報が手に入った



<今回新たに入手した情報>

○甲種・幹部候補生に指定されていた

○昭和18年4月20日に、地元の師団より現地召集(赤紙が来た)

○同年7月23日に、下関を出て釜山に到着→
  釜山から中国を経由~揚子江→同年12月19日にビルマのメサイ

○病名「アメーバー赤痢、兼マラリア」

  昭和19年5月24日、インド・アッサム州テグレパール→メイミョウの病院



…軍歴表の保存期間と、生年月日を聞き忘れた


年末に帰省する際に、この、お役所に必ず行こうと決めた


大叔父の本籍地のある、お役所の援護課の○○さん
ほんとうに、ありがとうございました




続く…



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ミャンマーに思いを寄せて 105

※当時の作戦の細部の日付は、諸説有り、私には判断が付きませんので
間違っている場合もありうるかもしれません
また、地名等は、当時の日本軍が付けた物・当時の現地語
現在の現地語など、様々あり、私の表現に適当と思う物を
混在して使用しています

外国語のカタカナ表記につきましても、不十分な所があるとは思いますが
どうぞお許し下さい





大叔父の本籍地がある、お役所に保管されていた軍歴表に
「アケボノ」と言う言葉が書かれていたと言う件で


軍歴表は、祖父が記載した戸籍謄本が関係しているのではと、ふと思い
戦死者の一般的な戸籍の記載例を調べた


しかし、戸籍には、場所や部隊などは記載されず
いついつ戦死または、戦病死と記載されるのが普通だと分かった


一時は、祖父が戸籍原簿に、誤記もしくは、何らかの追加情報のために
「アケボノ」なる言葉を、記載したとも考えた


だか、戸籍と、軍歴表は全く関係が無く、軍歴表の記載に
役場の戸籍係だった祖父は関わっていなかった


では、アケボノはどこからの情報で、何を意味したのか?


赤紙と呼ばれた召集令状には
これから所属する正式な部隊名は出て来ないようだ
もちろん、曙兵団だの祭兵団だのと言う記載は考えられない


その上、集合場所の部隊名も、正式名称ではなく
第○○部隊と通称を用い、一般に公表されていなかったように感じた


戦時中は、正式の部隊名は、軍の秘密とされていたとも聞く


そして、部隊の作戦行動には、それ以外の通称の秘匿符号をも使い
年代・地域や、作戦により、それも変えていたらしいので
2重3重の情報漏洩に努めていたようだ


なぜならば、部隊の正式名称を常に使ったとしたら
その部隊の規模、戦闘の得意傾向などが分かってしまうためと言われている


アケボノの謎が気になり


もう一度、大叔父の本籍地のある、お役所の援護課に問い合わせた


いつものように交換手が出られて、援護課をお願いし
援護課では、個人の軍歴についてと言うと、担当者に代わって下さった


前回、アケボノのヒントを下さったおじさまとは違う声の方だった


前回は、氏名と、ビルマでマラリアでの戦病死くらいしか
分からない状態での問い合わせで
今の時代に問い合わせてくる、不審な女性と思われた


今回は、身内と分かって下さるように
母の遺言でミャンマーへ慰霊に行きたいためと大げさに
アピールし、分かっている情報をたくさん並べてみた


また個人情報うんぬんで、開示して下さらないと言う懸念があったので
反対に、一般的な記載形式は、どんな項目がありますか?などと
質問形式で、誘導尋問の作戦を取ったw


すると、今度は個人情報うんぬんとは言われなかった、ヤッター☆


まずは、メイミョウと言う所で亡くなったと聞いていますがと言うと
「今は違いますが、当時の記載では、ビルマ国サガイ州・明妙と
書かれていますね」と教えて下さった


「部隊は、60連隊と聞いていますが、祭兵団や曙兵団と言った
記載はありますか?」と、核心部分にやや触れていく


…兵団名の記載はないとのこと


秘匿名称の兵団は、通称なので、正規の部隊名ではないため
○○師団などと書かれているのかもしれないと思った


他にはどんな項目がありますか?


「甲種・幹部候補生と書かれています、優秀な方だったのですね」と
言って下さった


大卒だったので、幹部候補生だったのだろうか。。。知らなかった


それで、安心して下さったのか、その後はスラスラと
色々な細部を教えて下さった


軍歴表とは、個人の軍歴が記載されている物


終戦までは、それぞれ陸軍省・海軍省が保管していたが
軍が解体された後は、陸軍の分は各都道府県の県庁が保管し
海軍の分は、厚生労働省が保管している


よく聞くと、終戦後しばらくは、本人が就職や結婚による
履歴書作成のために、開示を請求することもあったが
今現在は、滅多に問い合わせはないとのこと


そうだろうなぁ。。。


個人情報うんぬんはもちろんあるものの
正直、65年以上も前に戦争で亡くなっている人の資料


身内と分かって下さったようで、警戒をされなかった


中には、懲罰などを受けた場合にも、記載されるので
そう言う人の分については、個人の名誉のために
開示には、特に注意が必要なんだそうです


私も、警戒されて、情報をもらえなくなっては困るので
若干、大げさに、母の遺言とか、どうしても大叔父のたどった経路全てを
再現して、ミャンマーに慰霊に行きたいなどと言ってみたw


そして、時には、ほんとうに、お役所の仕事はスゴイと思ったのと
戦中の記録が残っていることに感動し、素直に口にしたことが
より一層、おじさまを喜ばせたようだw



続く…





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ミャンマーに思いを寄せて 速報

数日前、朝1で、経団連の人から、ミャンマー情勢の速報の
電話が入った

。。。ミャンマー、只今、ヤバイことになっているらしいです

ニュースでは、エジプトの方が規模が大きいため
ミャンマーの件は流れていないけど、、、

場所などの詳しい事は、軍政で閉鎖されている、お国柄
何も分からないそうですふらふら

治安の悪化が懸念されるあせあせ(飛び散る汗)

デモとか、テロとかは、元々、心配はしているけど
強盗なども、頻発しているらしく、特に、旅行者・女性は
格好の獲物だとかあせあせ(飛び散る汗)

情報をいただいてありがたいのだけど、益々、不安になっちゃった涙

日本にいたとしても、死ぬときは、死ぬわけで。。。
気をつける程度しか、打つ手はないのよね…

外務省の渡航情報が、以前と変化無く「十分気をつけて下さい」と
なったままだと、怒っておられました

渡航情報には、十分気をつけて下さい→渡航の是非を検討して下さい→
渡航の延期をおすすめします→退避を勧告します、渡航は延期して下さい

の4段階、さっき確認したけど、新情報も、危険度合いも
特に変化がなかった

マジで?って聞いたら、こんなことでウソを言ってどうするんだと怒られた

う~ん、参った(T_T)

迷ったり、不安だったりしても、最終的には、行くか・行かないかの
自分の判断しかない

旅行会社からも、何も連絡はないので、今の所、行こうと思っている

…でも、やっぱりとても不安だよ(ノ_-。)

出発まで、約1週間exclamation ×2弱音を吐いて、ごめん~

大叔父さん、もう少し近くて、観光地のアジアが良かったです続きを読む

ミャンマーに思いを寄せて 104

初の定例会参加を終え、安堵と共に帰路に着いた
 

和やかな、飲み会の場までいることが出来なかったが、
有意義な時間を過ごさせていただいたことに満足だった


また、私の思い描いた偕行社の風貌ではなかったけど
そんな場所が、今もなお機能していることを知ったことは、良かったと思う


偕行社(かいこうしゃ)の目的・概要は


元々、陸軍の福祉・厚生を目的とし、いわゆる互助会のようなもの


駐屯地外の集会所として、明治10年に創設され、将校達の会費で運営された


各地に、○○偕行社があり、宿泊施設から、軍装品の販売まで手がけ
大阪・広島の偕行社は、附属の小・中学校まで経営していたと言うから
すごく大きな組織だったのだろう


昔の建物の写真を拝見したが、立派な建物だった


戦後は、軍が解体された後、有志が集まり、昭和27年に再設された


今の場所に移ったのは、昭和63年だと言う


貴重な図書や資料を靖国神社に寄贈し、「靖国偕行社文庫」として
一般公開されているそうです


靖国神社とも大いに関係していることを知った


帰りに、軍事関係に強い、知人に、少し自慢気に
「今日は、偕行社に行きました」とメールしてみた


すぐに返信があり
「えっ?あの偕行社だよね?なんで、あなたが?」と、とても驚かれた


やはり、偕行社は、その分野の人には、有名だったようだw


ミャンマーに行くまでに、年明け、もう1度だけ定例会がある
次回は、もっと質問しよう


当時の大叔父の状況を少しでも知り、大叔父の慰霊となるように
ミャンマーに行くには、もっと勉強が必要だ


。。。と言いつつ、正月ボケで、定例会に
行くのを忘れてしまった(>_<)残念




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 103

初参加でもある、全ビルマ会の今年最後の定例会は、
忘年会も兼ねていた


まずは、収支報告や、今後の予定が示され
その後の議題は、全ビルマ会の存続についてだった


この問題は、今に始まったものではなく
どこの旧軍の会でも、切羽詰まった問題だと言う


戦後しばらくして、各地にたくさん出来た、戦地や部隊の会だったが
流れる歳月により、年齢的な物もあり、段々と会員が減って行く現況


軍隊経験がある、1番若い世代でも、優に80歳は越えている


会を支えることより、自身のことで精一杯の人もたくさんおられる


また、行事に参加するとなれば、家族の理解や
経済的にも肉体的にも自由が効かなければ、なかなか参加は出来ない


そうしたことから、会員としての登録はあるものの、実質、名前だけの人が多いように感じた


全ビルマ会のような、旧軍の会は、かなりの数が消滅して行っている


たぶん、後5年もすれば、戦争参加者は、ほぼいなくなるだろうと
副会長さんは言っておられた


しかし、そんな中でも、全ビルマ会は、活発に活動中である


参加者の資格を大きく広げ、私のような遠縁の遺族や、平和を願う人
ビルマを愛する人などを受け入れたことで
珍しく機能しているのだそうです


今後の大きな課題として、会の存続をかけて
戦争を知らない世代の後継者に、どのように引き継いで行くか


ビルマで共に戦った戦友や、ビルマで亡くなった英霊達のために
お祖父さん達は、真剣に議論されていた


私も、その一員として、いつか意見し
貢献することもあるのかなと、おとなしく聞いていた


そして、次の議題は、ビルマに建てられた、慰霊碑の件


国が建てた物は、1つだけ


しかし、○○会などと、個人で建てられた物は、100数カ所あるらしい


そのほとんどが、お参りに来られず、朽ち果てた状態になっているとか


その、それぞれの思いのこもった慰霊碑をどうするか?


ヤンゴンの日本人共同慰霊碑と統合して欲しいとの要望もあるが
慰霊碑の撤去などの予算は国にはなく、厚生労働省との間で
折り合いが付かないらしい


時の流れとは言え、皆で建てたであろう慰霊碑が
寂しく朽ち果てて放置されているのを想像すると、心が痛くなる


しかし、全ビルマ会も、儲けのある団体ではないので
資金的には、ささやかな会費や、個人の寄付
そして靖国神社のカレンダーを売って、なんとか維持しておられる現状


ビルマに限らず、どこもそうなのだそうです
現実問題として、難しい問題と言え、結論は出なかった


そして定例会を会食途中で残念ながら退席し、偕行社を後にした




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 102

おじいさん達のご厚意に甘えて、お食事中にも関わらず、質問した
 

まずは、ビルマの地図を見せて、大叔父が亡くなった日付と
メイミョウの場所を示した


亡くなったのは、インパールから、ずいぶんと離れた
ビルマ1と言われるほどの病院だ


インパールを目指していた途中に、病気で倒れた、偉くもない、1兵隊を
こんな離れた病院まで、搬送されることがあったのか?


もしあったとしたら、搬送方法は?


鉄道などがあったのかと言う疑問があったので聞いてみた


すると、ビルマ内地の縦方向(南北)には鉄道はあったが
インパールから、メイミョウの病院までは、車両移動だと言う


インパール作戦を開始する前から
ビルマ国内より、インド国境に差し掛かる、山脈の手前まで
各兵団が道を1本ずつ、構築しながら進んだそうです


その中で、真ん中の道を作りながら、進んで行った兵団が、大叔父の祭兵団


通称 : 祭街道…後に、白骨街道と呼ばれる道である


亡くなった日付は、分かっていたが、どの場所で発病して、いつ倒れて
搬送されるまでに、どれくらいかかったのか分からない


そして、病院への搬送には、車両だとしても、何日くらいかかり
その後の入院期間など、全く分からない


マラリアと一概に言っても、個人の体力や、状況により
病状はそれぞれである


ご老人を前に、大きな声と、短い文章で、ジェスチャーを交えながら話した


私の父は、若い頃に、鉄砲で鼓膜が破れて片耳が悪い
ずっと片耳が聞こえない人だったので、耳の遠い人との会話は慣れていた


通じないことも考慮し、もしものために
大きなノートとマジックペンを持参していた


死亡日と、死亡場所のメイミョウの地名を見て
お祖父さん達は、口を揃えて


「この人は、無念だったろうね」と言った


それは、作戦の目的の、インド領まで入っておらず、進軍の途中で倒れ
今、来た道を病院まで引き返し、亡くなっただろうと推測されたようだった


でも、良い時期に倒れているかもしれないとも言われた


もう少し後に倒れていたら、敵に追われ
食い止めながらの撤退だったため、病院や車両はおろか
間違いなく、白骨街道で亡くなっていただろうとのこと


白骨街道を自らの目で見ながら、自らの足で後退してきた方々


大叔父の最後は、幸せだと言う


確か、兵団には、野戦病院も随行していたはず。。。


何故、遠くの病院に搬送されたのか?ふと疑問が湧いた


野戦病院にも医師や看護婦さんなどは、おられたそうです


しかし、簡易な竹組みの建物に、バナナの葉っぱのような施設だったため
軽いうちは、対処出来るが、重病人には対応出来なかっただろうと言われた


それから、何度と、インパール作戦の話を見聞きしていても
地上戦の陸軍の話しか出てこない


日本の空軍の航空機の話は、聞いたことがなかったで、聞いてみた


すると、その頃は、もうすでに領空権は、日本にはなく
敵機ばかりだったそうです


そんな中、1度だけ、日の丸を着けた、戦闘機を見たそうです


ほんとに味方の飛行機かどうか、目を疑ったそうですが
「その時は、ほんとうに嬉しかったよ」と
昔を思い出して輝く、お祖父さんの瞳が印象的でした


その他に、雑談の中で、1人のおじいさんが
「私は、ほんとうは、逃亡兵だったのですよ」とポツリと言われた


自分の意志ではなく、しかたなく戦場に身を投じたものの
人を人とも思わない、不条理な上官の元から逃れるために
逃亡したのだそうです


しかし、逃亡している間にも、戦況は悪化し
奇しくも、白骨街道を、彷徨い、逃げることとなる
どさくさに紛れて、部隊とはぐれたことになったようだ


当時では、重罪だったろう…
しばらくは、戦友に会うことは、控えていたかもしれない


しかし、今はこうして、昔話として、笑って話せるようになられた


全ビルマ会と言う、戦友会に所属していると言うことは
今はもう、忘れたい苦い思い出ではなく
戦場で必死になって、敵とも・自分とも戦ったことを誇りに思い
懐かしい青春の思い出となっているのではないかと思った


他にも、聞きたいことは、山ほどあったが、時間が押していたので
お礼を言って帰ることにした


また次回、是非、続きを聞けますように
どうぞ、お元気でと、心の中で、そっと祈った


定例会は、年に10回ほど行われている
次回は、質問をたくさん用意して行こうと思った




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 101

初めての定例会に参加したものの
思ったよりも時間が経つのが早く
帰らなければいけないタイムリミットが迫っていた
 

私の事情を察して下さった周りのみなさんが、お食事中にも関わらず
質問を受け付けて下さると申し出て下さった


私の想定では、お酒も入り、ビルマの昔話や
武勇伝などを伺えたらいいなと思っていたので
突然、質問をどうぞと言われても困ってしまった


質問と言えば、全てが質問である


大叔父の調査をする上で、当初は分からないことばかり


歴史や戦争全般、ビルマ戦史や、当時の状況


細々と勉強はしたが、元々、得意分野でも、興味分野でもなかったので
何もかもが、初めて触れるような事柄


学校の教育では、反戦教育にすり替えられ、肝心な所は
サラリと通った記憶しかない


理解や解釈に苦しみながら
その度に調べ調べて、想像しながら、先に進んだ


正直、分からないことは、山ほどあった


それでも、今、この場で、ビルマの生き証人とも
言える方々にしか聞けないことを
時間が許す限り、聞かなければもったいない


私が、躊躇(ちゅうちょ)していたら、お茶出しを一緒にした男性が
「また今度は、ないかもしれませんよ、次回必ず会えるとは限りません」と言われた


参加率のことかと思ったが、年齢的なことを言われていた


そうか…失礼だけど、次回またお会い出来るかどうか
みなさん分からないようなご高齢である


1番若い方でも、80歳は優に越えておられる


「せっかく来られたんですから、遠慮してたらダメですよ」と言われて


向かいの席の方々を見ると、みんなウンウンと頷いておられた




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 近況報告

読者の皆様へ


いつも、ご覧いただき、ありがとうございます


おかげ様で、一般公開をし、5ヶ月目に入り
100話を迎えることが出来ました


自分でも、予測しなかった事態に、驚きを隠せません


 当初は、調査は難航し、頑張ったけど、大叔父のことは分からず
ミャンマーは夢のまた夢で…なんて締めくくりで
すぐに完結してしまうのかな?と思っていた


それが、あれよあれよと言う間に、話が進んで
100話まで来るなんて!!


内容的には、まだ12月初旬の話で
リアルタイムに追いつかないほどの、記事の量になってきました 


このまま行けば、150話は軽く超えそうです 


ここまで来たら、完結まで見守って下さいね.。゚+.(・∀・)゚+.゚


現在の状況は、2月12日~ミャンマーに行く予定です


申し込み書類関係で、お役所に証明書類をいただきに行ったり
パスポートも切れていたので申請に行ったり
子供を預けるため、根回しの調整だとか
 

ミャンマー行きを控えて、気持ちだけ何かと忙しい毎日です 


でも、やはりミャンマー情勢や、衛生面・病気等
果たして、無事に帰国出来るのか、とても不安です(T_T)


正直なところ、海外旅行に慣れてもおらず
ミャンマーのことも、あまり分かっていません


教科書代わりの情報源は、地球の歩き方と言う
旅行誌と、知人からの少しの体験談のみ


気をつけた方が良いことなど、アドバイスがありましたら
是非、お寄せ下さいm(_ _)m※直メッセ可


今後も、記事は激しい展開が続きますw


現実に、自身に起こっていることだけど
小説よりもおもしろいのでは?と思ってしまいます


ミャンマーに行ってみて、その後、どのように完結出来るのか
予想が出来ませんが、どうぞ見守っていて下さいね


今後ともどうぞヨロシクお願いします


              
                          2011.2.2  aya     



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ミャンマーに思いを寄せて 100

定例会のフロアーに入り、遠慮がちに、片隅のテーブルに座った
 

もちろん最初から、誰も知り合いがいないことは覚悟の上
副会長さんは、忙しそうにされている


ポツンと座っている私に、お茶を出して下さった男性がいた


私より、少し年輩の方で
始めは、偕行社の方かと思っていたが、どうも違うようだ


もちろん旧軍の方でもなく、遺族のようだった


私が来るまで、若い方はその方しかおられず
きっとお茶出しをされていたのだなと気付き


お手伝いを申し入れると、喜んで下さった


ポツンと座っているより、用事をしている方がマシだ


そして少しでも、会員の方と接点を持ちたかった


私が、お茶を出す度に、この人、誰だろうと言う雰囲気が伝わって来る


お祖父さん達の中には、「おかわり」と言って下さる方もいて
全員が揃うまでの間、なごやかな時間を過ごした


それでも、お茶出しが精一杯で
直接、お話が出来るような雰囲気ではなかった


20名くらい集まった所で、定例会が始まった


まずは、収支報告、今後の予定、そして議題へ


進行係は、副会長さん


会長さんは、おられるが、慰霊祭でお見受けした限りでは
ご高齢で、お脚も悪く、実質の業務は
副会長さんが取り仕切っておられるようだった


今後の予定の所で


「ミャンマーへの慰霊巡拝に、今回から参加されるね祭の遺族の○○さんです」と
みなさんに紹介していただき、私もその場で、お辞儀した


祭(※祭兵団)の人ですかと、周りの方に、小声で話し掛けられる


嬉しくも、気恥ずかしい気分で、笑顔で応える私


遺族と言っていただき、みなさんに紹介して下さったことに感激した


定例会は、その後、100歳を迎えられる方が
健康法について熱弁をふるわれ
思わぬ方向に流れ、お弁当を前に、1時間以上経っていた


私は、子供が帰宅する時間が迫り
みなさんから、お話を聞く時間が少なくなっていることに焦りを感じた


やっと、おわって会食が始まったのは、タイムリミットの10分前


先程の、お茶出しの男性とお話した


戦争の「せ」の字も、ビルマのことも、何も分からない所から
大叔父の調査を出発しねやっと、全ビルマ会にたどり着いたこと


ビルマのことも、不勉強で、今日は、お話を聞きに来たこと


すると、その方は「時間もないのでしたら、今、早く聞いた方が
いいですよ」と、言って下さった


でも、やっとお食事が始まったばかりで、申し訳ないと言うと
向かいに座られていたお祖父さん達が
「いいよ、聞きなさい」と言って下さった


なんとありがたいことだろう


お言葉に甘えて、お食事中に、向かいのお席にお邪魔させてもらった


祭兵団の方は誰もおられなかったが
「祭は、確か、真ん中を行った部隊だったよね」と
私は遺族なのに、ビルマで一緒に戦った者の縁者とだと言うだけで
温かく迎えて下さった




…続く



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ミャンマーに思いを寄せて 99

12月の定例会が行われる市ヶ谷の駅にへは
少し早めに着いた


だいたいの地図を頭に入れてきたが
意外に小道が多く、お食事処がひしめき合う


こんな所に歴史的な建物があるのかと思った


時間は12時~


道行く人は、昼食に出掛ける、スーツ姿のサラリーマンや
OLさんばかりで、観光客のような人は、いない


この辺のはずだけど、、、相変わらず道は、人で溢れていた


どなたかに尋ねようかと思った時
A3くらいのコピー用紙に大きく「偕行社」と印刷された貼紙を見付けた


やっぱりこの辺りなのね、と、周りを見回したが
そのような建物は見当たらなかった


よく見ると、さっきの貼紙の3階建くらいの小さなビルがそうらしい…


えっ?すごく驚いた…イメージしていたのとは、かなり違う


しかも、ビル全体ではなく、そのビルの一部に、偕行社は入っていた


少し古めかしいエレベーターに乗り、偕行社のある階に、行く


エレベーターにご一緒した、ご老人に
「どちらまで?」と聞かれ「偕行社です」と答えると、同じ階で降りられ
「ここですよ」と教えていただいた


この方も、全ビルマ会の方かと期待したが
となりのフロアーでの、俳句の会に来られたとのこと


エレベーターのお祖父さんと別れ
定例会の行われていると思われるフロアーのドアを、恐る恐る開けた


小さな会議室のような場所に、10人そこそこの方がおられて
長机の上にお弁当が並んでいた


入口の受付で、会費を払っていると、副会長さんが近寄ってきて下さり
よく来てくれたと歓迎されて、ホッとした




続く…



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