ミャンマーに思いを寄せて

亡き母の思いを果たすべく、ビルマで戦死した大叔父の足取りをたどる私の奮闘記録☆

2011年03月

ミャンマーに思いを寄せて 143

○○大学の、大学史の担当の方のご厚意に甘え
その後も、メールによる、やりとりが続いた


これまでは、大学生を取り巻く、当時の時代背景など
一般的な事柄のみの、お話だった


教科書では、知り得ることの出来ない貴重なお話を
聞くことが出来たことは、私にとって、意義のあることだったが


大叔父個人の情報となると、なかなか開示してもらえず
個人情報保護法の壁を思い知った


そして、母の戸籍を取得したことから、靖国神社の公的文書?と
併せて、大叔父との、血縁関係を、証明出来るところまできた


それを伝える前に、本格的に、大叔父の調査に取りかかって下さるとの
お申し出に、心から感謝した


返信では、感謝している旨も含め、これまでの概略の経緯を説明し
その調査の過程で、○○大学を中退していたことを知ったこと


そして、2月にミャンマー行きを控えているため
もう少し、その当時の時代背景なども勉強し、大叔父の胸中に触れながら
ミャンマーに臨みたいと言う気持ちになったことを、率直に述べてみた




続く…



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ミャンマーに思いを寄せて 142

帰省から戻ると、大叔父の、○○大学の大学史の担当の方から
1通のメールが届いていた


その中には、昭和16年当時撮影されたとされる
2枚の写真が添付されていた


○○大学のHPには、大学の歩んできた貴重な写真が
たくさん所蔵されていたが
それらを、もらうには、許可が要り、1枚2万円と書かれていた 


そんな写真をいただいちゃっていいのかしら?と思ったが


最初は、マスコミの方ですか?と疑われ
途中から、私個人として、調査していることに
理解下さり、参考までにと、送って下さったのだ


厚かましく、ご厚意に感謝しよう 
※ですので、読者の皆様は
この写真から、どこの大学かは推測なさらないで下さい


●当時のキャンパスの建物
コピー ~ scan-32


この建物は、現在は残っておらず、建物の名前だけが
継承されているそうです


●当時の学生が先生といっしょに撮った記念写真
コピー ~ scan-31

残念ながら、大叔父は写っていないように思う


大叔父が、通っていた当時の名残が何かしら残っていれば
お礼も兼ねて、○○大学を訪ねてみたいと思ったが
今は、建物や門、樹木さえも、昔の物は
何1つ残っていないのだそうです


そして、大叔父の詳しい情報を
法学部の事務室に問い合わせて下さるとのこと


氏名、退学年月日をメールにて再度返信いただけるとありがたいと
締めくくられていた


やっと、本腰を上げて調査していただけることとなった


私の熱意が伝わった瞬間とも言える、ありがとうございます



早速、お返事のメールを入れてみた




続く…



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ミャンマーに思いを寄せて 141

帰りに、もらった母の戸籍謄本に見入った


母が嫁いで名前が変わった日、父と暮らした最初の家
引っ越しした次の家、私が生まれ、私は結婚し、除籍され
そして、母が亡くなった日、父の届け出…


そして、母は、四女と書かれていることに気づいた


でも、母の姉は2人しかいない


そうだ、思い出した!!母には、もう1人、姉がいたことを


その姉は、確か火事のヤケドが原因で、幼くして亡くなったと母に聞いていた


火事…?そうか、戦時中の、あの放火事件で亡くなったのかもしれない。。。

 
もしそうなら祖父母は、娘の命さえも失っていた…なんてことだろう


放火されたことだけでも、衝撃だっただろうに、その上…


やはり、大きな大きな出来事として
その後の人生に、影響したのだと確信した


たった1枚の紙に、母の人生が凝縮されていた


大叔父の戸籍取得のために取り寄せた、母の戸籍だったけど
駐輪場の寒空の下、涙がこみ上げてきた


そして、感傷に浸りながら、ふと気づいた


母の戸籍では、祖父との親子関係が確認出来る


靖国神社の調査書では、祖父と大叔父の兄弟関係が記載されていたような…


祖父は、大叔父と同居し、留守宅担当であり
兄と書かれていたのではと、思い出した


すぐに、家路を急ぎ、靖国神社の調査書を確認すると
やはり、きちんと書かれていた


靖国神社の公印はない文書だけど、きちんとした番号のある調査書だ


これで、大叔父と私が遠縁でも、繋がっていることが、やっと証明できた!!


とてもとても嬉しかった☆


3親等の壁も怖くない、次に何が待っているかは分からないが
どんな困難なことがあろうと、前進出来るような、気持ちになった



続く…



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ミャンマーに思いを寄せて 140

パスポート申請のために、戸籍を取りに行った時
ふと、大叔父の戸籍も取れないかと考えた


説明を受けたが、やはりそれは、無理なような気がした


しかし、次の日、どうしても諦められなかった私は
戸籍を取れるところまで取ってみようと、再度、お役所を訪れた


ここでは、母の戸籍まで取れる


昨日の説明をして下さった女性が、私のことを覚えていて下さってて
特に、何も聞かれることなく、すんなりと母の戸籍が取れた


そして、戸籍の記載方法は、昭和30年代に戸籍法が改正され
大きく変わったそうで、それまでは、家単位(生活を共にする親族)で
戸籍を作っていて、孫や甥姪、いとこなどが同じ戸籍に入っていることも
あったそうです


今現在は、夫婦とその子供までとし
結婚し、世帯が異なると、新たな別の戸籍が作られるようになった


曾祖父の戸籍までは、無理だとしても
改正前の昔の戸籍は、俗に原戸籍(はらこせき)と呼ばれ
残っているお役所もあるので、祖父の代までさかのぼれば
同居していた、大叔父も、その中に出てくる可能性はある
とアドバイスをいただいた


「大変でしょうけど、頑張って下さいね」
と、お役所の女性に、親切に教えてもらった上、励ましてもらった



続く…



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ミャンマーに思いを寄せて 139

年明け早々、帰省から戻ったら
パスポートの申請に行かなきゃと思っていた


ちょうど、10年のパスポートが切れたとこだった 


パスポート申請に必要な書類を揃えようと、ネットで調べたら
戸籍謄本または抄本が必要 とのこと


ちょうど、実家に帰省していたので、市役所に取りに行った


そこでの待ち時間に、ふと、大叔父の戸籍は
どうしたら取れるのだろう?と、思いついた


いつも、個人情報うんぬんで、3親等内とか言われていたので
3親等内ではないが、戸籍で、身内と分かる物を揃えれば
なんとかなるのではないかと考えた


そして、窓口の女性に聞いてみた


私から、大叔父だと…まず、私の戸籍で、母と私との関係が分かり
母の戸籍で、母と祖父との関係が分かり、次に祖父の戸籍を取る


祖父と大叔父は兄弟なので、その上の曾祖父 までさかのぼって
初めて、祖父と大叔父が兄弟であることが証明できる


はぁ~気が遠くなるような話だ


祖父の戸籍は、隣町なのでなんとかなるが
曾祖父となれば、他府県だし、細部の住所までは知らない


戸籍の保存期間は、死後80年だそうで
大叔父の戸籍でもギリギリのなのに
曾祖父の戸籍が残っているとは思えなかった


やはり、身内だと証明するのは、無理なのかな


この先、どんな場面で、3親等の壁が出てくるのかは
分からないけど、証明関係の書類が取れるなら
取っておいても損はないと思っていたのに


そして、パスポート用の自分の戸籍をもらって、トボトボと帰った



続く…



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ミャンマーに思いを寄せて 138

○○大学も、学徒出陣により、学生を戦地に送り込まなければ
ならなかった、悲しい過去を持つ、大学の1つ


ただ、私個人としては、なぜ、大学生だけ特例措置だったのか
と言う思いはある


戦争を体験したこともない私が、こんなことを言うのは、失礼かとは思うが
少し、持論を書いておきたいと思います


確かに、日本の将来を担う、有望な若者なのだろうが
一部のお金持ちや、頭の良い人だけが、兵役を免除される…
少し、理不尽な感は、否めない


中には、反対に、戦争に行きたくないから、大学生になった人も
少なからず、いたのではないかと思う


勉学を中断され、国策として無理矢理、戦場に行かされた
みたいなイメージで、学徒出陣を悲劇扱いすることに対しては
やや、疑問に思う


大学生より、もっと若くして戦争に行き、勇敢に戦った青年は、山ほどいる
頭が良くても、大学に行けなかった人も、たくさんいただろう


それに対して、年齢的に、立派な大人と言える若者が
大学生だからと言って戦争に行かないくて良いと言うのは
国民が一丸となって、戦っている最中、いかがなものだったのだろうか


大叔父の考えが、どのようなものだったのかは分からない
しかも、私は、当然、否定する立場にはない


自分が、当時のその立場だったならば、どのようにしただろう…


なかなか想像出来ないが、やはり戦争に行くこと=死への恐怖
は感じたと思う


当時の○○大学側は、学徒出陣に応じなかった学生に対して
退学と言う強い態度に出ている


しかし、戦後、それは間違った判断だったとし
国策による圧力があったとされた


学生のみならず、学校・教師までもが
あたかも戦争被害者の如く、それまでの姿勢を翻した一部の教育者には
やや反感のような物を感じる


学徒出陣を悲劇と祭りあげ、反戦を唱えるのは良いとしても
反戦=愛国心を失わせることは、別問題だと私は思うのです


学徒出陣が、なんとなく、思想的なプロパガンダのように使われている
と言う印象は、拭いきれない


ただ、それが一般的な傾向として定着していることも事実である


その点に関しては、残念ながら、○○大学も同じように感じる


大叔父が志を持って通った、素晴らしい学校だとは思うが
私個人としては、少し同調できない部分である



…とは、お世話になっている大学史の担当者には言えないww 





続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 137

大叔父の○○大学の大学史担当の方との
電話でのやりとりは、ありがたいことに、その後も続いた


大学には直接関係のないような些細な事項にも、丁寧に対応して下さり
その度に、調べていただき、ご連絡を下さった


ほんとうにありがとうございます


しかし、大叔父個人の情報については
なかなか開示してもらえなかった…


やはり、個人情報保護法は、遠縁に当たる私にとって、厚い壁だった


話が、学徒出陣へと流れた


学徒出陣。。。言葉は知っている、認識としては、大学生が戦争末期に
戦地に送り込まれたと言った程度


神宮外苑の行進の白黒画像は、何かと、目にしている


だが、詳しいことは、正直知らなかった


そこで、調べてみた
私なりの解釈で、簡単にまとめてみました


【兵役法】

明治6年に徴兵令が適用された(地域により、適応時期に差がある)
それを、昭和2年に全部改正し、兵役法が制定された


原則として男子は全員、兵役に服するものと定められた


兵役の期間は、陸軍・海軍により異なったが
いずれにせよ、10年以上あった


しかし、特例として、大学・高等学校・専門学校(いずれも旧制)などの
学生は26歳まで徴兵を猶予されていた


だが、戦争末期は、戦局の悪化に伴い、兵力不足を補うため
その猶予の対象は、次第に狭くされていった



【学徒出陣】

まず、昭和16年10月に、同年の卒業生の大学・専門学校生を対象にし
修業年限が3ヶ月短縮され、12月に臨時徴兵検査を行い
合格者を翌年の昭和17年2月に入隊させた


その後、さらに予科と高等学校も対象となり
修業年限は6ヶ月も短縮され、9月卒業、10月入隊の措置が取られた


そして、さらなる戦局悪化に伴い、昭和18年10月には
徴兵の猶予を受けていた学生のうち、理工系と教員養成系を除く
文科系の在学生に対して、下級将校の不足に当てるため
徴兵延期措置を廃止した


これに対し、理工系の学生は、兵器開発など、戦争継続に不可欠とされ
徴兵猶予が継続され、陸軍・海軍の研究所などに勤労動員された


しかし、戦争末期には、医学部を除く、理工系の学生も徴兵された




続く…



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ミャンマーに思いを寄せて 136

○○大学に、問い合わせの電話をし
大学史の編集を担当されている部署を、ご紹介いただいた


大叔父のことが、少しでも分かれば嬉しい


なぜ、中退なのか。。。退学の理由が気になった


大学史の担当の方は、とても親切に、様々なことを教えて下さった


最初は、私が細かいことまで突っ込んで聞くので
マスコミの方ですか?どこかに発表されるのですか?と
やや警戒の色を見せられたが、個人的に知りたいことを理解して下さった


大叔父が、大学を中退していたからと言って
ミャンマーに行くことに対し、何ら影響はない


ただ、今の平和な時代では、考えられない、当時の大叔父を取り巻く状況
大叔父は、どんな思いで、戦場に行くこととなったのだろうと言う
思いが、胸の中に去来した


軍歴表にあった、「中途退学の際、配属将校の行フ教練検定に合格す」
と言う言葉、それは何を意味するのか?
大叔父の人生にどのような影響を与えたのか?


大叔父の退学年月と、学部:法律学部を伝えた


大叔父の在学期間や、退学理由については
また違う部署なので、と話を濁され、やはり個人情報保護法のことを
気にされているようだった


まずは、大叔父個人のことではなく、一般的なことを教えていただいた


当時の正式な学部は、法文学部法政学部と言ったそうです


そして、一般的に、そこを出た人は
当時は、弁護士や検事さんになった人が多かったそうです


大叔父も、そう言った仕事に憧れたのだろう


戦争さえなければ、将来は、弁護士や検事さんに…


そして、配属将校の行フ教練の件についても聞いてみた


すると、そのような教練は年間計画で
何度と国策の義務としてあったそうです


大学構内には、3名の軍人さんが常駐していた


その教練検定に合格したことが引き金で、心境に変化が生じ
愛国心や忠誠心に目覚めたか
もしくは、やや強制的な軍役への勧誘?があったのか


私は、それがきっかけとなり、何らかの影響を受け
大学を中退したのではないかと考えていた


他の学友も、同じ時期に、たくさん辞めたのだろうか…



そして、そこから、話は、学徒出陣へと移っていった




続く…



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ミャンマーに思いを寄せて 135

早速、平和展示施設に電話してみた


内容を簡単に話して、聞きたい事項を伝えると


ここは、単なる展示場であって、展示物の説明しか出来ないと言う


そして、ここの大学史を研究されている担当部署をご紹介いただいた


…大学史?そんな部署があるんだ


私は、教えられた電話番号に電話し直した


若い女性の方が出られて


大叔父が、昭和16年まで、お世話になっていたこと
そして、その当時の大学のお話を伺いたいことを伝えると


年輩の男性に電話を替わられた


そして、その方に、簡単に事情を説明して協力をお願いした


。。。突然かかってきた、とんでもない昔の問い合わせ


驚かれたとは思うが、事情を察し、とても親身になって、対応して下さった

そして、大学史に編纂されていないであろう事項までも
調べては、何度もお電話いただいた


さすが、大学の先生である、歴史的背景など、とても詳しい


私の些細な質問にも、分かりやすい解説で
根気よくお付き合いいただき、楽しく、歴史の授業を
受けているような気分になった


この方には、この先も、大いにお世話になることとなった




…続く



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ミャンマーに思いを寄せて 134

大叔父が通っていた大学は、どんな所なのだろう


大学紹介のサイトの中で、気になる項目を発見した


それは○○大学が運営している、平和展示施設なるもの
 

大学とは別に、そのような展示施設があるのだ


大まかな印象は、学徒出陣を機に、反戦・平和を訴える
諸々の展示会場と言った感じだった


戦没学生へのレクイエムとして、有名な記念像もあった


私も聞いた事のある名前の像であった 


でも、内容までは、覚えていなかった


ここであれば、当時の学生を取り巻く状況を聞くことが出来るかもしれない


旧制の学校と言うのは、私にはよく分からないが
今の大学生の一般的な年齢と比較して、年が行っていた大叔父


ずっと謎だった、いつ、大学に入り、それまでは何をしていたのか?


浪人を何年もして、遅くして入学したのか?
もしくは、長く留年し、大学に留まっていたのか?


大叔父の在学期間や、入学時の身上調書のような物が残っていれば
入学前の状況も分かもしれないと思った



早速、問い合わせの電話を入れてみた




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 133

大叔父の軍歴表に記載されていた
「○○大学中退」の文字


大卒と伝え聞いていたのに、中退だったことに驚いた


○○大学は、今も有名な私立大学


そこで70年ほど前、大叔父は、大きな夢を抱き勉学に励んでいた


「中途退学の際、配属将校の行フ教練検定に合格す」
と言う言葉も気になった


大叔父の通っていた○○大学は、どんな所なのだろう


当時の大学生を取り巻く状況は、どんなものだったのか


少しでも、大叔父の胸中に触れてから
ミャンマーに臨みたいと言う気持ちになっていった


まずは、大叔父の○○大学について調べた


18xx年(明治初頭)、私塾を創設し
1900年台 (明治中期)、○○大学の前身の「私立○○法政学校」を設立


140年ほどの歴史のある、大きな学校であることを知る


たくさんの学部やキャンパスがあり
近代的でおしゃれな建物、輝かしく、国際的に開かれた大学と言う印象


しかし、ここに至るまでには、先輩方の悲しく苦しい歴史があったことを
知る学生は、いるのだろうか。。。


その上、65年以上前の、大叔父の面影を見つけるのは
到底、無理な話なのだろうなと思った




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 132

65年以上経っても、その特徴を誇示している、祖父の水晶


戦時中に、石は、山から掘り出され
無数にあった石の中から、祖父はこの石を選び
祖父と共に汽車に揺られ、遠路遙々、お寺にやって来た


お土産だったのか、記念だったのか
祖父は、なぜ持ち帰ったのか


後世、鉱山での話は、多くを語らなかった祖父


しかし、従事したことを伏せたいのであれば
石を持ち帰ることはなかっただろう


そして、毎日、眺めることも


当時の思想として、年齢的にも職務的にも
直接、戦争に参加出来なかったくすぶる思い


国策として、やっと貢献できた鉱山での仕事


祖父は、晴れ晴れとした気持ちで帰郷したのではないか


何かのご縁で、お寺に来た、この石


祖父が亡くなった今も、石は、庭に佇んでいる


私は、祖父の形見のように思えてならない


もらったわけではないので、心の中で、これからも大切にしてあげよう


ミャンマーに行く前に、もう一度、石を見に行きたい


なんだか不思議だが、祖父のように
温かく見守ってくれているように感じるのです


どうか、無事にミャンマーから帰ってこられますように。。。


祖父が65年前にいたかもしれない山梨県の金峰山


山の説明サイトでは、明治の初頭まで水晶が
採掘されていたと書かれている


戦中、そこをもう一度、堀り直して、水晶を見つけたのだろうか


今も、鉱山跡はあるのかどうか知らない


国立公園の特別保護地区ではあるが
現在も水晶を取ることが出来るらしい


いつか、山梨県に行く機会があったら
遠くからでも、その山を眺めてみたい


激動の時代の中、様々な思いを胸に
一生懸命生き抜いた、祖父のたくましい姿が見えるようだ


祖父達、鉱山従事者は、その水晶がどのように使われるのかは
知っていたのか・知らなかったのか。。。


どちらにせよ、お国のために、必死に尽力したのだろう



1950年代に入り山梨大学で日本初の人工水晶の研究が開始された


現在は、人工水晶が、そのほとんどを占め、振動子産業を支えている


人工水晶は、電波機器、電子機器を中心に
今や、現代文明の縁の下の力持ちであり
水晶だらけの世の中と言っても過言でない



先人の苦労と努力があって、今の時代がある。。。感謝




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 131

日本の国石は『水晶』


水晶は、日本各地で産出される鉱物らしい


山梨県などは、有名で知っていたが
他にはどこがあるのだろう?と調べてみた


ザッと調べただけでも、出るわ出るわ…とても驚いた


水晶と言っても、一般的に知られている透明の水晶の他に
様々な水晶が日本にはある


紫水晶(アメジスト)・煙水晶(スモーキークォーツ)
黄水晶(シトリン)・緑水晶・黒水晶ほか


産出地域も多様だった



<一例>
青森県・中津軽群、秋田県・大仙市、福島県・郡山市、宮城県・白石市
茨城県・東茨城郡・常陸大宮市・桜川市、栃木県・日光市・宇都宮市
群馬県・甘楽郡、長野県南佐久郡、山梨県・山梨市・甲府市・甲州市
富山県・上新川郡、石川県・小松市、神奈川県・足柄上郡
奈良県・吉野郡、三重県・三重郡
愛媛県・西条市、岡山県・倉敷市、広島県・江田島市
山口県・美祢市、大分県・豊後大野市、長崎県・五島市
宮崎県・西臼杵郡・児湯郡


※他にもあると思います



祖父の石を久しぶりに眺めて
祖父の勤労動員先は、どこだったのだろう?と思った


もし答えが出ても、大叔父のミャンマーの件には
関係がないことも分かっていたが、調べてみたくなった


でも、こんなにいっぱい産出される地域がある…無謀かな


しかし、様々な場所に、質問をした結果
多くの方が、水晶系だと答えて下さった


その中でも、興味深い答えを下さった方が1人いた


その方は、原石系に詳しい方


水晶は、色々ある石の中でも産地の特徴が出やすく
そこここの鉱山産で、形も内包物も色も微妙に特徴が違うのだそうです


写真や、私の情報を元にして出された結論は
『山梨県(または長野県)金峰山近辺の八幡鉱山産』の
水晶のように見える、とのこと


すごーい!!こんな専門家がいらっしゃるんだ、聞いてみるもんだね


山梨県は、日本最大の水晶の産地らしいが
その中でも、鉱山が特定された(かもしれない)、祖父の水晶


それが、絶対的な答えではないのだけど、なんだかとても嬉しかった




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 130

祖父が、戦時中に勤労動員先から持ち帰った「石」


その石は、水晶であろうと言うことで、水晶の歴史を調べた


振動子以外のレンズとしての需要もあり
当時のガラスの精度や普及程度は分からないが
水晶も使われていたのは事実で、さかんに採掘されていたようだ


日本の備蓄は、開戦2年ほどで、底をついたと言われている


外国でも、水晶の確保に躍起になった


アメリカは、第二次世界大戦の危機が迫ると
素早くブラジルの水晶を買収


ブラジルから定期便で空輸して原石を確保して量産に対処した


ドイツは、人工水晶の開発を進めた


しかし、ドイツ軍が本腰を上げて命令を出したのは
1943-1944 年になってからで
戦況はドイツにとって不利になっていたが、水晶の育成実験を行っていた


残念ながら、人工水晶の育成に成功したのは、敗戦の直前だった


戦後、アメリカは敗戦国ドイツの科学と技術の情報を得るため
調査団をドイツに派遣したそうです


そうまでして、世界中が欲しがった水晶
日本も相当、欲しかったに違いない


祖父も、その採掘に関わった1人


振動子の開発が行われた当初は、日本も国産の水晶も使っていたが
需要に間に合わず、大正時代に入ると
ブラジル産の水晶を輸入するようになった


しかし戦時中は、アメリカカが買い占めたことと、海上封鎖などもあり
再び国産の水晶が注目されることとなった


日本も有数の水晶の産地ではあったが
当時でも、ほとんどが掘り尽くされおり
枯渇してしまっていた


それでも、軍は、必死になって鉱脈を探したのです


当時、稼働していた水晶鉱山は、小規模の所も含めると
かなりの数があったことが分かった


1つの山に、何カ所も採掘場があったり
中の坑道は、狭く、何本も広がっていた


しかし、現在、日本で稼働している水晶鉱山は1つもないと言う


資料館のような所を抱える鉱山跡は、ほとんどない


残りは、朽ち果てた管理事務所跡のような建物の残骸が残っていれば
まだマシな方で、中には、幻の昔話のように、鉱山があったらしいが
場所がいまいち分からないだとか、分かっていても
危険なため、進入禁止になっいる所が多かった





続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 129

水晶は、通信機器用の「振動子」と言う物に使われたり
透明度の高い物については、潜望鏡のレンズやプリズムとして
加工されたらしい


水晶は、交流電圧をかけると一定の周期で規則的に振動する


難しいことはよく分からないが、水晶を薄く切って
電極で挟むことにより、振動子と言う物になるらしい


その振動子のおかげで、安定した周波数の発振回路が出来る


水晶の出す信号は、温度や湿度などの変化に対し
非常に安定したもののようだ


それを利用して、通信機器の精度を上げた


今も様々な電化製品などに、この振動子は使われている


最も有名なのは、クウェーツ時計、そう、クウォーツ=水晶である


クォーツ時計の開発に成功したのは、戦後


東京オリンピックの時に、日本のセイコーから、壁掛け時計サイズの
クウォーツ時計が、大会公式時計として提供された


腕時計への実用は、その大きさや強い対衝撃性を求められ難航する


最初の市販化は、昭和40年代に入ってからのことである


戦時中くらいの、古い振動子を写真で見る機会があった
それが一般的な物であったのかは、分からないが


全体の大きさは、マッチ箱くらいの部品と言った印象だった


中の水晶らしき物は、四角い板状の1cm四方程度の透明の物だった


昭和40年代くらいまでのラジオには、振動子の装置が別売りで
外付けだったと聞くので、そんな感じの使用だったのかなと想像する



続く…



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ミャンマーに思いを寄せて 128

祖父の石を見せてもらって
その石が、どんな物なのか、どこから来た石なのかとても気になった


産地が限定されれば、祖父の勤労動員先が分かる


祖父の勤労動員先を調べることと、大叔父のミャンマーとは
全く関係がないのだけど
祖父が亡くなるまで、毎日、見続けていたことを思うと
何か無関係ではないような気がして、調べてみたいと思ったのです 


秋田の銅山だとも、山梨の水晶鉱山だとも聞いていて
ハッキリしたことは、分からない

101227_093925


101227_093851

※2枚の写真は、同じ石です


ただ、この写真から推測するに、これは、銅ではない、水晶系だと思う


私は、石のことは分からないので、この写真で
色々なサイトで、質問してみた


すると、やはり、水晶だと言う意見が多かった


金だの、銅だのは、軍が欲しがるのは、なんとなく分かる
だけど、水晶???と、それが不思議に感じて
まずは、そこから調べてみた


すると、水晶も含めて、戦時中は軍の命令で、様々な鉱物が
採掘がされていたことを知る


資源の少ない日本、地下資源も重要な位置を占めていたのだろう


天然水晶は工業資源として重要視されていた





続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 127

祖父の最後は、ガンだった
 

だが、家族の誰1人ガンだとは気付かず
死後に分かった事実


お医者様が言われたのには
末期には、相当の痛みで苦しんでいたと思うと


平然を装い、病状を伏せたまま亡くなった祖父


自分の寿命は、祖父自身が分かっていたことだろう


病気に抵抗せず、何1つ、治療を受けずに
自然の流れのまま、自身の最後を受け入れた


弱みを見せたくなかったのか
家族に迷惑をかけたくなかったのか
延命を希望していなかったのか


それにしても、すごい精神力である


私は初めて、火葬場でお骨を拾った


祖父の骨は、老人だったからなのか、粉々で少なかった
所々、紫色のような部分があり


それは、ガンで冒されていた部分だと、説明を受けた


ある日、ポックリと逝ってしまったとばかり思っていた私達は
最後の最後に、祖父の生き様を見たような気がしたのです



それは、祖母が亡くなって1年後のこと
祖母の後を追い掛けるように、祖父は息を引き取った





続く…




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ご挨拶


いつも読んでいただきありがとうございますm(_ _)m


地震から、数日経ちました


被災地では、まだまだ悲惨な状況の中、被災者も支援者も

必死に頑張っておられる姿に、心打たれる毎日です


こんな時に、自分のミャンマー記事を投稿するのは
不謹慎なのかもしれません


私は、このミャンマーの件で
懸命に取り組めば、必ず道は、切り開かれると言うこと感じました


模索しながらも、目標に向かって、必死に突き進んだことで
多くの方々に手をさしのべていただきました


被災された皆様と、私のミャンマーの件では
比べものにならないほどのご苦労だとは思いますが


この記事を通して、少しでも、被災された皆様にも
勇気と、元気と、やる気が伝われば、幸いです


大変恐縮ながら、記事の投稿を続けさせていただきます


寒さ厳しい折、お体を大切に、心から、復興を願います


今後とも、どうぞヨロシクお願いします   



                 2011.3.15    aya

お見舞い申し上げます

いつも、読んでいただきありがとうございます


このたび東北地方太平洋沖地震により
被災された、皆様には心よりお見舞い申し上げます


我が家は、震源地には近くありませんが
大きな揺れを感じ、とても怖かったです


子供を机の下に入れて、手を握って、おさまるのを待ちました


食器棚の扉が開いて、食器が飛び出し割れたり
本棚の本は、落ちていました


おかげ様で、ケガはありませんでした


遠く離れた我が家でも、あんなに怖かったので
被災地では、想像を絶する恐怖だったと思います


ニュースで流れる被災状況を見る度に
心が痛み、涙が出ます


まだ余震も続いていますね、どうぞ皆様ご無事で!!



                     20011.3.13      aya

ミャンマーに思いを寄せて 126

母の実家のお寺で、伯父から、祖父の石を見せてもらった


結局、石が欲しいとは言い出せなかったが
石が今もあったことに安堵した


その祖父の石は、戦時中、祖父が、勤労動員で鉱山に行った際に
持ち帰ったと伝え聞く


それは、秋田の銅山だったとも、山梨の水晶鉱山だともハッキリしない


戦時中、祖父は、年齢的な物などで、戦争に行っていない


村役場の戸籍係として、また、お寺の住職として、悲しみに暮れながら
戦死した村人の対応に追われたことだろう


そんな中の勤労動員


鉱山では、監督業で、肉体労働ではなかったらしい


いつ頃の話なのか、期間も、行き先も、今となっては分からない


でも、戦争に行かず、村人への徴兵の人選に大きく関わっていた立場から
勤労動員に行けたことは、祖父にとっては救いだったのではなかったか


現地での状況は、多くを語らなかった祖父


祖父が死ぬまで毎日、見つづけた石


時代と言う背景があったにしても、己への戒めだったのか
それとも、あの時代を懸命に生き抜き、鉱山での労働に対する
誇りだったのか、私には分からない


しかし、玄関先に佇む石に、幼心にも、祖父の誇らしい気持ちのような物を感じていた




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 125

伯父から写真をもらった後
もう1つ気になっていたことを、頼んでみた
 

私は、祖父の石を見せてくれるように頼んだのだ


それは、祖父が戦時中に、勤労動員の、鉱山より持ち帰ったとされる石


祖父が生きていた時は、玄関先の石畳の上に転がっていた石
それを毎日、目にしながら出掛けていた祖父


私が幼い頃でも、戦後30年ほどは経っていた


黒地に、白くピカピカ光る石


私は小さい頃から、その石が大好きだった


祖父の死後、母屋が改築され
その石がどこに行ったのか私は知らなかった


本音を言えば、その石が欲しい


価値などは関係なく、祖父の、その石が単に好きなのである


でも、今の時代に、あの石が欲しいと急に言い出したら
きっと、何か変な風に、怪しまれるだろうなと思い、ずっと言えないでいる


伯父に思い切って、石を見たいと言った時
「価値はないと聞いているよ」と言われた


やはり、価値的な物から、私が石を探していると思うのだと残念だったが
伯父は、中庭で、半ば草に埋もれ、風化した石を探し出してくれた


幼い頃の記憶の石と、風貌はかなり変わっているように思った


黒地はなく、キラキラだった部分もキラキラは無くなり、茶色になっていた


長年、風雨にさらされたら、こんな風になるのだなと思った


祖父の死後、庭に放置され忘れ去られた石


いつも見ていた頃から、30年以上経って、その石に会いに行った私


もし石に感情があれば、石は嬉しかったのではないか


大叔父の調査で、祖父の過去にも触れた今


祖父の石は、私にとって、小さい頃のボロボロの母屋の思い出や


優しかった祖父の面影だけの懐かしい石ではなくなっていた


祖父の様々な思いを受け止め、激動の時代を祖父の傍らで


静かに見つめていたであろう、この石


私は、今まで以上に、この石を愛おしく感じた


お寺が全焼し、その時代を物語る物や、知る者も少なくなっている今日


石は、何も語らないけど、今も変わらず静かに、庭に佇んでいた




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 124

古いトランクの写真入れから
伯父が、大叔父の写真を探してくれた
 

私が思い描いていた顔とは少し違ったが、一族の顔をしている


今の私より、遥かに若く、可愛い少年の顔をした大叔父


田舎の子供っぽく、緊張した面持ちの中学生の時の写真だった


それは、遠慮して。。。大人になった大叔父の写真をお願いした



PICT0003


大学の学友と思われる人達との語らいの写真


大叔父は、後列真ん中の背広姿



そして…



PICT0002


悲しい瞳の出兵の前に撮影された最後の写真


この写真は、何枚もあった


軍への提出用だとか、何枚か必要だったようだが
それ以上に、焼き回しされていた


きっと祖父が焼き回しを注文したのだろう


弟の最後の写真。。。どんな思いで祖父は、この写真を見つめていたのか 


後で、父が、終わったら写真を返しなさいと言っていたが
どうせ、誰も顧みることのない写真


今後も、大叔父が話題になるようなことはないだろう
私が大切にもらっておくわw


伯父さん、協力してくれてありがとう☆




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 123

昔の写真がいっぱい入った、年代物のトランクが居間に運び込まれた
 

何が始まったのかと、伯母や、従兄弟夫婦が集まってきた


母の遺言で、ミャンマーに行くので
大伯父の写真が欲しいことを言った


ほんとうのところは、遺言とまで言えるものではない


伯父にとって大叔父は、血族であり
出兵まで一緒に暮らした家族だったから
母や、私の思いは、少しは分かるかもしれないが


その嫁の伯母は、伯母さえも会ったことのない
昔々に戦死した大叔父に対する、私の思いはきっと理解出来ないだろう


何故、そんな物を欲しがるのか、とても不思議そうにしている 


長年開けたことがなかったトランクの中の思い出深い写真を前に
伯父は上機嫌で大叔父の写真を探してくれた


まだお寺が栄えていた、優雅な戦前の祖父の時代


懐かしむように伯父は、様々な写真を見せてくれた


祖父母の結婚式の写真


私の知っている、シワシワの祖父母ではなく、若い若い祖父母の姿


白黒写真からも伺える、祖母の豪華な着物


我が家の母のアルバムにはない写真ばかりだった


そして、やっと大叔父の写真を見つけた




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 122

年末に、お墓参りのため、母の実家のお寺に行った
 

もう代は、私の従兄弟が住職をし、伯父は隠居しているが
伯父夫婦は元気である


伯父が1人になった時を見計らって、大伯父の写真の件を切り出した


一応、その件を覚えてくれていた


伯父が写真を探しに行くのを追いかけて
死亡通知も見せて欲しいと言ってみた


親族のお位牌が祀ってある、本堂の片隅の、お仏壇を見に行った


お位牌と一緒の場所に保管されているらしい


だが、たくさん親族のお位牌があり、戒名だらけのお位牌の中から


大伯父を探すのに難儀していた


母屋の仏壇も見てくれたが、すぐには分からないと言う


残念ながら、その日は、写真だけで諦めることにした


居間に戻ると伯母はどうしたの?と不思議そうにしている 


東京に大伯父と一緒の60連隊だった人がいて
その人に写真を見せるためと伝えた


現に、全ビルマ会の会員の中で、現在は活動を休止されているが
元60連隊の生き残りの方が、1人だけおられて
先日、ご紹介いただき、近々、訪ねて行きたいと考えていたのです


もし、旧知の仲だったら、とても嬉しいし
忘れておられても、珍しい名前と、写真で


何か思い出して下さらないかしらと思うのです




続く…



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ミャンマーに思いを寄せて 121

お役所から見せていただいた、軍歴表の内容を見てみると


地元を出発し、昭和18年7月23日に、下関→釜山(朝鮮半島)
そこから、中支那→揚子江
(後に、揚子江は、通過ではなく、揚子江付近の蕪湖と言う町に
警備の任務を受け、一時、連隊本部を置いていたことを知った)
そして、同年、12月19日に、ビルマの?メサイと言う所に移動している


細かい、行動記録が分かり、世界地図を眺めてみた
65年前の大叔父のたどった経路。。。


どんな思いで、船や汽車に揺られていたのだろうか
見た事も行ったこともない、初めての外国
そこは、敵が見え隠れする戦場だった


緊張した面持ちで、外国の景色を眺めながら、故郷を思っていたのか


この先、自身に起こるであろう運命は、大叔父には分かるはずもない


戦時死亡者調書においては
発病時の状況が事細かに書かれており、当時の戦況が手に取るように
分かり、心が痛くなった


更に死亡時間まで分かり、大叔父の最後を知った


この記録が、作成されたのは、大叔父が亡くなってから
1年後の昭和20年の7月


担当者が、怠けていたとは思えない
きっと、処理の時間がそれほどかかるくらい
戦死者の数が多かったのではないかと思う


終戦間際で、大変であったであろう時期に作成された、この文書
ほんとうに、残して下さってありがとうございました


当時の軍医さんや、連隊長さんに、心から感謝したい


軍歴表の内容がよく分からない所は


●出身別 補充兵
志願兵ではないと言う意味なのか?

●甲種・幹部候補生
これは、何なのか?
戦病死の場合には、階級の特進はあるのか・ないのか知らないが
幹部候補生で、戦死時の階級が軍曹???

●○○大学法律学部中途退学 昭和16年7月

●昭和16年4月 中途退学の際、配属将校の行フ教練検定に合格す
卒業と聞いていたが、中退だったとは初耳だった
教練検定に合格した時期と何か関係があるのか?


分からないことだらけで、もっと、詳しく調べてみようと思う
お分かりの方がいらっしゃったら、是非、解説をお願いしますm(_ _)m


勉強の課題が山積みだぁ~…頑張らないと(>_<)


そして、ふと思った、全ビルマ会の副会長さんも軍医さんだったような?
もしかしたら、死亡者調書の、軍医さんとお友達ではないか。。。

この軍医さんは、大叔父の最後を病院で看て下さった方では
ないようだ、60連隊付きの軍医さんと言うことは
病院に向け戦場離脱の際の軍医さんだ

少ない軍医さんだろうから、お知り合いかも知れない



…続く



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ミャンマーに思いを寄せて 120

お役所に保管されていた軍歴表の内容は
私のまだ知らなかったことがたくさん含まれていた


そして、意味の分からない部分もたくさんあったが
前回、電話で知り得たことと、合わせて分析してみた



まずは、知らなかった生年月日
大正7年1○月○日と言えば、戦死したのは、満24才と言うことになる


大学を出ていたと聞いていたので、下手をすると学徒出陣ではないかと
考えた時期もあった


しかし、死亡年月日を知り、そうではないことが分かったものの
卒業後すぐに、戦地に行って。。。

旧制の学校の修業年数を知らなかったので
22才くらいかなと思っていたため、少々不思議に思った


そして、大学を卒業したのだと思っていたが、中退だったことを知った


軍のお偉いさんによる、教練検定に合格したすぐ後に、大学を辞めている
これは、何を意味するのか?


教練検定合格により、感化され、高まる愛国心ゆえに
志半ばで転身したのか?


しかし、それならば、すぐにでも志願と言う道もあっただろうが
その後の徴兵まで、かなりの間があることを考えると
そうではなかったように思う


世間が戦争に一丸となり、同世代の若者が、ぞくぞくと戦地に赴く中
大学生だと言う理由で、兵役を免除されていることに対し
後ろめたい気持ちもあったのだろうか


ましてや、その時代、小さな村に、たくさん大学生がいたとは思えない
良い年齢をして、戦地に行かないのは、目立っていたかもしれない
 

兄(私の祖父)に、授業料を出しもらい、その兄の立場も考えると
いつまでも、大学生でいることが心苦しかったのかな
 

今となっては、真実は分からないが
大きな夢を抱き、大学に進学し、これからと言う時に、断念を決めた大叔父
その心境を想像すると、当時の時代背景を考慮したとしても、私はとても悲しくなった




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 119

大叔父の戸籍のあるお役所より、以前にお電話で聞いていたことと
今回、新たに教えてもらった事項を統合して、書いてみました


新たな情報は、文字色を変えています
軍歴表は、数種類ありました(順不動)


書かれてあったそのままを写しました、昔の地名や、内容が分からない部分もあります



______________________________




大正7年○月○日生


歩兵


出身別 補充兵


昭和17年12月1日 第一補充兵役


特有及び特能ノ特業  機



甲種・幹部候補生


○○大学法律学部中途退学 昭和16年7月


昭和16年4月 中途退学の際、配属将校の行フ教練検定に合格す


昭和18年4月20日 臨時招集有り


歩兵第128連隊 応招

 第一機関銃中隊


歩兵第60連隊補充交代要員として○○出発


第60連隊機関銃中隊


通称号 祭 7368部隊
第60連隊長 大佐 ○○ ○○


昭和20or21年5月3日





______________________________




昭和18年7月23日  下関

         同日  釜山

      7月26日  山海関


         同日  中支那において上海南京蕪湖付近ノ警備


揚子江

      12月29日  ビルマのメサイ
 




______________________________




<戦時死亡者調書>




昭和20年7月15日
森 7368部隊



死亡場所 ビルマ国サガイ州・明妙 第一二一兵站病院


死亡日時時刻 昭和19年7月24日 午後4時10分


「ウ」号作戦参加中 連日ノ激戦に加わるに 豪雨と給養ノ粗悪に依る
披露蓄積、遂に発病するに至る



病名 アメーバー赤痢、兼マラリア


昭和19年5月24日 インド・アッサム州テグレパール→メイミョウの病院


第60連隊第一大隊附
軍医 中尉 ○○ ○○


第60連隊長 大佐
○○ ○○




______________________________





続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 118

軍歴表の開示を受けて、途中、昔の文字や、記載方法に
苦しみながらも、必死に写した


ほんとうは、原本を見たかった


そして、出来る事なら、それを写真に納めたかった


でも、昼食の時間になったにもかかわらず、監視するかのように
前に座って、動かない担当者を前に、さすがに出来なかった


文字を写したかったのではなく、原本が見られたなら
その紙質や、保存状態を、みなさんに伝えたかったのだ


しかし、それは叶わなかった


何度と、お食事をどうぞとすすめてみたが、警戒の色は溶けなかったw


筆記するうちに、どうしても読み取れない文字があり
原本で、再度確認してもらうよう頼んでみた


部屋のパーテーションの奥に、移動式の大きな書庫があった


担当者の方は、また大探しして下さった


いくつもの、大きなファイルが並んでいた
その中から、大叔父の軍歴表が入っているファイルを持ってこられた


もちろん、その他大勢の方の分も綴ってある


黄色く変色した、藁半紙が、時の流れを物語る


大叔父の資料は、3枚あった、これは、希なことらしい


連名で、1行書きの人も多いそうだ


また、戦争に行った人の3割程度は、軍歴表がない


それは、軍歴表は、当時、師団クラスの部署で保管されていたそうだが
その部隊自体が、玉砕したり、保管場所が壊滅したら、無いのだそうです


天皇陛下からいただいた軍旗を、命をかけて最後まで守ると言う話は
よく聞くが、この軍歴表も、大切に守られた1つだと言う


大叔父の軍歴表は、ビルマから無事、本国に届けられ
留守担当部隊に行き、そして、戦後は、陸軍省が解体され
各県庁が引き継ぎ、大切に保管されてきた


命のリレーにより、約70年経って、私の目の前にあった


昔の人が丁寧に書いた、美しい文字


驚くほど、大叔父の行動が、事細やかに記載されている


読み取れない文字は、紙が藁半紙ではなく
昔のコピー用箋のような、薄い薄い破れかぶれの紙だった


折れていて、原本でも、やはり読み取れない


担当の方も、この状態ですのでと、申し訳なさそうにされていた




続く…



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ミャンマーに思いを寄せて 117

※個人情報保護法により、軍歴表の開示は、3親等以内です
大叔父から私は、3親等以内ではありませんが
今回、無理を言って、地元のお役所の方の、ご配慮により
特例として、開示していただくことができました
どうぞ、お役所の特定など、詳細を突き止めるような行為は
ご遠慮願いますm(_ _)m 



やっとの思いで、地元のお役所に、乗り込んだ!!


まずは、前回、お電話でお世話になった方のデスクを確認してみた


すると、その方は、援護課の中でNo.2の偉いさん
デスクの位置の雰囲気から、定年前の窓際配置と言った感じだった


だから、権限もあり、対応にも幅があって、私に対しても柔軟だったのだ


入り口近くの方に、軍歴表の件でと言うと、担当の方が来られた


「○○さんに、軍歴表の件でお世話になり、今日はお休みだと
お聞きしていますが、帰省した際には、拝見させていただけると
お約束いただきまして」と 、お土産を差し出した


お休みなのをいいことに、とっても知り合いのように言ってしまったw


お土産は、規則で受け取れないと言うことで、丁重に断られたが
お偉いさんのお客さんと言うことで、とても待遇が良かったw


空いているデスクに腰掛けること数分


軍歴表のコピーを片手に、先ほどの方が戻ってこられた


「では、一応、確認のために、身内だと言う証明書を」と言われた


しかし、私は開示範囲の3親等内ではなく
靖国神社の調査書と、免許証しか持っておらず
戸籍等、大叔父との関係を示す、公的書類は準備していなかった


電話でお世話になった○○さんは、大叔父さんまで
戸籍をさかのぼり、取得することは、大変でしょうから
コピーを渡すことは出来ないけど、見るだけだったらいいよと
言って下さっていたからだ


それを伝えると、若い職員の方は、う~んと、言いながら困っておられた


でも、目の前に半泣きの私がいて、自分はコピーまでしてきて
しかも、偉いさんのお客さん。。。


開き直られたかのように「○○さんの、お知り合いなら」と
コピーを見せて下さった


私は、了承も得ずに、すぐにメモした


前回、聞いていた部分は省略しながら、アケボノも確認しつつ
とにかく、この人の気の変わらないうちにと、筆を進めた



続く…



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ミャンマーに思いをよせて 116

年末に帰省した


お役所との前回の電話の最後に、地元に帰省した際には
軍歴表を実際に拝見させていただくことを
約束していたので、電話してみた


前回、お世話になった方は、もう年末の休暇に入っておられた


マズイなぁとは思ったが、ここまで来たら、諦められない


市内にあると言っても、不便な所に、お役所はあった

大きな駅からも、直通のバスは出ておらず、最寄りのバス停からも遠かった
地下鉄も、微妙な位置で、何でこんな所にあるのか不思議なくらい


ただ、繁華街のからは、経由するバスも出ていた
やはり古い町なんだなと思った


最寄りのバス停に降りて、すぐ近くのスーパーの前で
サンタの姿で、クリスマスケーキを売っていたお姉ちゃんに
お役所の行き方を尋ねた


丁寧に教えてもらって、お役所へと向かった


しばらくして、ずいぶんと来た所で、背後から
大声がした 「スンマセーン!!」


見ると、男性のサンタが必死に走っている。。。


何だろう?誰に向かって走っているのか?


また、私はお役所を目指して、ひたすら歩いた


すると、どんどん、その声が近づいて来る


ゼーハー「あの~…お役所への道を聞かれた方ですよね?」ゼーハー
サンタの目標は、私だった


えっ、えっ?私を追いかけてきたの?あのスーパーからずっと?
気づかずに、ごめんなさい~(>_<)


どうも、お姉ちゃんが、道を間違えて教えてくれたそうで
店長さんが、慌てて、サンタのまま、私を追いかけてきて下さったそうです


ありがとうございます


そして、来た道を、皆の注目を浴びながら、サンタと共に戻り
また、お役所を目指した


お役所の付近に着いたものの…それらしき建物がない


横断歩道で、親子連れに尋ねたら、「ここですよ」と笑われた


私は、お役所の目の前にいたのだ


都庁のような建物をイメージしていたので、あまりの歴史的な建物に驚いた


確かに、門の前にはお役所の看板があったが
石のレリーフは、達筆すぎて、読み取れなかったww




続く…



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ミャンマーに思いを寄せて 115

大叔父の調査を開始した当初
最初に直面した謎は「ア・ケ・ボ・ノ」と言う言葉だった
 

大叔父の地元のお役所に、軍歴表の問い合わせをした時に
個人情報うんぬんで、全く情報を開示してもらえず
意気消沈した私を、哀れんで下さったのか


最後にヒントのように「アケボノと書かれています」と教えて下さった


その、アケボノを求めて、奮闘した日々が懐かしい


アケボノは、曙兵団ではないかと、推理したことから
インパール作戦へと繋げた
(※後日の調べにより、曙兵団は、インパール作戦には
関係がないようでした)


だが、大叔父のいた兵団は、後に
曙ではなく、祭兵団だったことが分かった


では、「アケボノ」とは、何だったのか?


後になって、その時の言葉がとても気になりだした


考えていてもしかたがないので
直接、お役所に保管されている、軍歴表を見に行こうと決めた


前回、かなりの部分を、お電話で聞いていて
最後に、アケボノについても尋ねたが、ザッと見ても、アケボノの文字は
見つからないと言われていた


それでも、自分の目でじっくり見れば
もしかしたら、どこかに出てくるのではないかと思った



続く…



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