ミャンマーに思いを寄せて

亡き母の思いを果たすべく、ビルマで戦死した大叔父の足取りをたどる私の奮闘記録☆

2011年04月

ミャンマーに思いを寄せて 172

祖父は、お寺を抱え、僧侶と言う立場の傍ら
村の依頼で、村役場にも勤め、大阪のお寺にも、通っていた


戦争にも行ってなかったから
仕事と言う環境では、忙しいほど、順調だったと思う


もちろん派手な生活はしていなかったが、母から聞いた限り
当時としては、食生活も、かなり豊かだったように思う


大阪の闇市で、祖父は、色々なお土産を買ってきてくれたそうで
母は、その中でも、バナナが大好きだったそうです


都会の人が、着物などを持って、物々交換に来られたと聞く


祖母は、着物などの受け取りを辞退して
家にある食べ物を持たせて帰らせたとか


戦後も、そう言う方々が、お礼に来られていたと言う


人に施しをし過ぎて、貧乏になった???…そうとは思えない


野菜などにしても、祖父の姉も同居していて
畑を耕していて、不自由しなかったと言う


檀家さんからの、お供え物も多かったらしい


食べ物はあったが、現金がなかったのか?
それならば、闇市での買い物は出来ないはず


勝手な想像だが、お米などなら分かるけど、バナナって
余裕がなければ買わないのでは?バナナが安かった?


ほんとうに、退学の理由は、金銭問題なのだろうか?


何かおかしい…そう思えてならなかった





…続く




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ミャンマーに思いを寄せて 171

大叔父の退学の理由を知り
それを調べてしまった自分にも、嫌になっていた
 

大叔父の学費は、祖父が支援していた


年の離れた可愛い弟


学費が払えなくなったとき、何と弟に切り出したのだろう


大学に3年も通い、4年目の卒業を控えて、あと少しのところで
学費が理由で退学…


そして、それを大叔父は、どう受け取り、何を思ったのだろう


大学で学び、将来を約束されているような、憧れの職業
普通ならば、卒業を控え、前途有望な時期だったろうに


とても無念だったことだろう、想像するだけで、心が痛くなった


祖父は、学費が払えないほど、生活に困っていたのか…


戦時中の苦しい時代とは言え、それは国民全体がそうだったこと


確かに、祖父には4人の子供がいて(母の兄弟)
生活は苦しかったのかも知れないが、それも、あの時代、普通だと思う


ましてや、子供と言っても、1番上の兄でも、小学校低学年くらい
あとは、今で言えば幼稚園くらいで、学費も食費も
そんなにかかるようには、思えなかった


私が知っている上での、当時の生活からは、貧困と言うイメージは
全くなかった




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 170

大学からもたらされた、大叔父の大学の退学理由は
学費未納と言う衝撃的な回答だった


全く予期しなかった事態に、思考は停止した


大叔父の過去を紐解くことは、ほんとうは
してはいけないことだったのかもしれない


良いことばかりが、出てくるとき限らない


興味本位で調べることは、人を傷つけるのではないかと
自分のしていることに対し、罪深い気分になった


我が家では、卒業したと伝え聞いていたのに
中退だと知ってしまったこと


そして、その理由が、学費未納だったこと


このことは、母も、伯父すらも知らなかったことだ


私だけが、知ってしまったこと


祖父や、大叔父は、このことを知って欲しくなかったのではないか…


もう、大叔父の調査は、止めようと思った


大叔父の過去を調べて
その胸中に触れなくても、ミャンマーには行ける


ミャンマーに行って、慰霊の目的を果たしたら
それで、もういいじゃないかと思った


自分のしでかしたことが、大変なことのような気がして
どうしようもなく、涙が溢れた


おじいちゃん、大叔父さん、ごめんね…




…続く




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ミャンマーに思いを寄せて 169

大叔父の大学側からの、報告書は、私には、とても衝撃だった


自己都合と言うような、漠然とした理由だと思っていたので
理由の細部については、あまり期待していなかった


それよりも、在学期間が気になっていたのだ


しかし、退学理由が、「学費の未納」と言う、思いも寄らぬ理由だったので
とても驚き、衝撃を受けた


法学部の方も、気を遣って下さっている文章を追加されていた


大学史の担当の方からも、家庭の事情で退学をよぎなくされ
大叔父さんは無念だったでしょうねと言う、言葉が寄せらた


大叔父が○○大学を目指していた頃は 、とある事件があり
近くの国立大学の著名な教授陣が大勢、○○大学に移籍していたため
とても充実した法学部であったらしく、人気のある大学だったとも
教えていただいた


私も、なぜ○○大学を選んだのかは、以前より不思議だった

 
国立の近くの大学の方が、学費的にも私学より安いだろうし、学生数も遙かに多い


祖父は、今で言う仏教大学を出ているし、大叔父が僧侶になる気が
なかったとしても、○○大学の縁者は親戚にはいなかった


だから、なぜだったのだろうと言う思いはあった


思想的なものに共感したのかと思っていたので
その点については、この回答で納得出来た


当時の私学の大学の授業料が、どれほどのものか、検討が付かないが
しかし、私は、この退学理由が、どうしても解せなかった




…続く




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ミャンマーに思いを寄せて 168

ある日、大叔父の大学の大学史担当の方から、1通のメールが届いた


法学部に問い合わせして下さっていた
大叔父の在学記録の調査結果が出たのだ


旧制の学校の修学年数は、よく分からないのだが
現在の大学生と比べると、大叔父は、少し年齢が高かった


いつ大学に入ったのか
遅くして入ったのか、それとも、何年も留年して在学していたのか
そして、中途退学の理由は何だったのか、とても知りたかった


大学史担当の方からは、当時の一般的な退学理由は
出兵の場合や、徴兵を拒否した強制退学の場合は
「自己都合」などと、漠然とした物が多いとお聞きしていた


ちなみに、学徒出陣の場合は、休学扱いとなった


添付されていた、法学部からの報告書を見た(原文掲載)



__________________________________




○○ ○○様のこと(※←大叔父の名前)


 本学法律学科に在籍しておりました。
本学における学歴は以下の通りです。

 昭和13(1938)年4月10日 ○○大学法経学部法律学科入学
            1年生(20歳)

 昭和14(1939)年  2年生(21歳)

 昭和15(1940)年  3年生(22歳)

 昭和16(1941)年 ○○大学法経学部を法文学部と改組


 7月31日 法文学部法経学部(法律専攻)学費未納による除籍
            4年生(23歳)



 法学部事務室で確認いたしました履歴は以上のような学歴でした。
この履歴を拝見いたしますと、本学を退学の理由が「学費未納による除籍」
との理由でした。 当時、○○○○様が4年生で卒業を前に学費が工面できず
除籍となったことを今から察すると、非常に「無念」であったのではないかと
思います。

 当時は、時世がら奨学金制度もない時代でしたので大学としてもどうすること
もできなかったと思います。

 平和な世であればその後法学部を卒業され法曹界でご活躍されたのでは
ないかと思います。

 大叔父さんは、決して学業を投げ出したのではなく家庭の経済的理由から
本学を除籍になったことを○○様はじめご遺族の方々が誇りにしていただければ
本学にとっても幸いです。


 なお、在学照明書は発行できるとの法学部事務室からの返答でした。
学籍簿は法学部で永久保管されております。学籍簿を閲覧することはできません
ので御了承ください。




__________________________________




…続く




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ミャンマーに思いを寄せて 167

不安押しつぶされそうになりつつも、1人で行く事を決意したとき
ちょうど旅行会社から連絡が来た


ツアーコースに入っていない、メイミョウに、私が単独で行くことに
不安を持っていると知った副会長さんが、ツアーコースを変更して
みんなでメイミョウに行くよう提案して下さったとのこと


ウソ~!!うわぁ~、なんてことだろう!!すごいタイミング!!


ずっとずっと心につかえて物が、スッと取れたような
安堵と共に、涙が溢れた


自分でも気づかないうちに、私の心は、とても張り詰めていたようだ


…ありがとうございます…ほんとうにありがとうございます


それでも、やはり行き帰りは、私1人には、変わりがなかった


子供のことを考えて、4日間の最短コースを選んだが
しかし、平日4日間と、土曜出発・土曜着の本来のツアー日程では
平日が1日増えるだけだと気づいた


そこで、意を決して、主人に、どうしても1人で行くのが怖いと
打ち明けてみた


すると、主人も、平日4日も5日も変わらないから
みんなと一緒の行動を取るようにと、言ってくれた


無理だろうと、ずっと思い込んでいたので、とてもありがたかった


子供は、初めて、私と長期間離れる
寂しい思いもさせるだろろうし
よその家に預けられ、悲しい思いをさせるだろう


家族には、余計な負担となることは重々承知しているが
今度だけは、感謝して甘えよう 


応援して下さっている、お友達みんなが、ツアーコースが変更されたことや
全行程参加の許可が出たことを、喜んで下さった 


そして、みんなが私のミャンマー行きに協力してくれていることを
より一層実感し、感謝した


振り返ると、不思議なほど、どんどん良い方向に向かう
このミャンマーの件


なんとしても、1人ででも行く覚悟をした私を
天国の大叔父さんや、祖父母・母などが守ってくれたのではないかなと
ふと思った



続く…



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ミャンマーに思いを寄せて 166

全ビルマ会のツアーには、目指すメイミョウが入っていないのと
小さな子供がいるため、長期間、家を留守には出来ず
ツアーコースとは別の単独行動を取らざるを得なかった


団体が、メイミョウに1番近づく日に合わせて、ツアーを組んだ


ツアーの人達とは、1泊だけ同じホテルに夜から合流し
次の日の慰霊祭に参加して別れると言う形を取るしかなく


そのほとんどが、1人旅となる計画になってしまった


同行予定だった主人の友達が、都合が悪く、行けなくなってしまった今
1人で頑張るしかないのだ


海外旅行へは、何度か行ったことがあるが


しかし、大人数のツアーだったり、職場のみんなと参加したり
お友達と一緒だったりと、1人旅の経験はない


しかも、海外旅行慣れしている人が必ずおり
何もかも、おんぶに抱っこの、お任せ旅だった


それが、今度は、1人旅…しかも、分けの分からないミャンマー…


現地人の案内人は女性を手配して下さるそうだが
飛行機の乗り継ぎ、ホテルでの手続きや、換金など
全て、1人でやらねばならない


語学が堪能でもなく、もちろん日本語は通じない


更に、情勢が落ち着かず、外に内情が見えてこないミャンマーである
何が起こっても、おかしくない。。。


旅行会社の方も、とても心配して下さっていた


勇気を出して、やるしかないのだけど…怖い


とても、とても不安だった


考えれば考えるほど、ミャンマー行きに対し、どんどん憂鬱となっていった




続く…



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ミャンマーに思いを寄せて 165

結局、ツアー申し込み締め切り日を過ぎても
最低人員の10名には、達しなかった


結果、旅行会社は、ツアー中止を決定した


あ~、私はやはり、ミャンマーには行けないのだなと落胆した
 

しかし、そこで立ち上がって下さったのは、副会長さんだった


「行きたいと言う人が1人でもいる限り、私の足腰が立つうちは
ミャンマーに連れて行きます」と、旅行会社に掛け合って下さったのだ


旅行代金的には、個人旅行扱いとなったが
全ビルマ会の慰霊ツアーとして、続行されることとなった


さすが、全ビルマ会の副会長さんだ


戦時中も、きっと、多くの軍人さんの部下にも慕われていたことだろう
今もなお、全ビルマ会の会員のために、尽力下さっている


ありがとう…ほんとうにありがとうございます


結局、ツアー参加者は、私も含め、合計7名でのミャンマー行きとなった


ツアーコースは、帰りにベトナム観光まで付いている、8日間のパック
その上、そのコースには、私が目指すメイミョウは含まれていなかった


そこで、私は、子供がいるため、メイミョウだけを目指して
団体とは別行動の、最短4日間の行程で行かざるを得なくなった




続く…



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ミャンマーに思いを寄せて 164

ミャンマーツアーへの申し込み人員は
締め切り目前となっても、増えなかった


旅行会社から、連絡が来て、もし、最低人員が揃わなければ
ツアー中止となりますと。。。


その場合は、個人として、旅行に行かれますか?と、尋ねられた


単なる個人旅行として、私だけがミャンマーに行く…


そっか~、そういう事態もありうるのかと、私は落胆した


ミャンマーへは、行きたいけど
全ビルマ会の一員として、慰霊祭に参加するのも目的の1つ


メイミョウにさえ行ければ良いとも思うのだが、心の中で葛藤した


でも、まだ、ツアー中止と決まったわけではないので
とにかく、他の参加者が増えるまで、待ちますと答えた


ダメだったら、何も急がず、来年もあるじゃないかとも思ったが
今年、人員が揃わないのに、来年、今年以上に増えるとは考えづらい


そして、ツアーリーダーの副会長さんは、御年91才
やはり、来年と言っている場合ではない


そう、今年しかない、確信にも似た思いが胸をよぎった


何が何でも、私は、ミャンマーを目指そう
大叔父が待っているミャンマーへ


悪い方に考えないようにしよう
あくまでも、希望を持って待ってみたい


しかし、私の期待とは裏腹に、現実は厳しかった



年明けの締め切り日を過ぎても、人員は増えず
ツアー中止が刻一刻と迫っていた





続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 163

ミャンマーツアーの申し込み締め切りは、年明け早々となっていた
 

靖国神社の慰霊祭の後すぐに、ツアー会社に問い合わせた時は
締め切りまで、まだまだだったので、何も細部は決まっていなかった


参加する旨を伝えて、申込者が揃うまで、取りあえず待った


年末にも問い合わせたが、まだ誰も申し込みがないと言う


例年、ギリギリになって申込者が増えるので、これかららしい


しかし、ミャンマーへの慰霊ツアーは、毎年参加人員が減っていると言う


例年の参加者が、皆、高齢になり参加出来なくなってきているのだろう


元看護婦さんのおばあさんも、その1人


いつも、メイミョウに行っていた、おばあさん達の看護婦さんのグループは
今年は、参加を見合わせられた


お友達の1人が、腰を骨折されたため参加出来なくなったので
グループ全員が不参加となったのだ


やっと、年の瀬が迫った頃、チラホラと申込者が現れた


しかし、ツアー決行の最低人員10名には、遙かに遠かった




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 162

ミャンマー行きに不安があり、情報が欲しかった
 

私も、単に、情報下さいと待っていては、いけないのかもしれない


自分から、情報が欲しいことを発信して
積極的に、活動しないと、どうにもならないのではと、考えるようになった


まずは、ツイッターなどで、このブログの更新状況を流してみた


そして、プロフィールの所に、ブログのURLを貼って、誘導した


徐々にではあるが、次第に、読者は増えていった


中には、この記事から興味を持たれて
お友達になりたいと言うメッセージをいただいた方もあって
とても嬉しかった


その時、お友達から、ミャンマー関連のネットサークルに
参加してみたらどうかと言う情報も寄せられた


そう言う手もあったのかと、早速、そちらにも、顔を出してみた


そこでは、リアルタイムに
若い方々の「今週ミャンマーに行きます」みたいな
コメントがたくさんあった


今の時期に、お仕事か何か分からないけど
たくさんの日本人が、ミャンマーを訪れていることを知り、少し安心した


ミャンマー通の記事が、更新される度、読みふけった


嬉しいことに、寄せられる情報量も、次第に増えた


ミャンマー旅行での注意点や、自分が行って感じたことを
教えて下さったり
ミャンマー通の方を紹介して下さる方もいた


ネットの力って、あなどれないなと、改めて思い知った


寄せられた情報が、どれだけ私にとって、ありがたく
心強く、励ましになったことか


ある人は、会社のネットワークを使って
ミャンマー情報の提供を一斉送信で、会社全体に呼びかけて下さった


ほんとうに、嬉しかったです、ありがとうございます


…しかし、それで、怖い目にあったこともあった


ミャンマーと言われれば、誰彼無く心を開いていた自分がいて
弱味につけ込むような人もいるのだなぁと、後々、思い知ることとなった




続く…



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ミャンマーに思いを寄せて 161

ミャンマー情勢や、初めてのミャンマー行きに不安を覚え
情報の収集に躍起となっていた
 

こちらのブログにも、読者さんはいらっしゃるが 
それでも、情報が集まるかと言えば、そこまで行かない


テレビのニュースでは悪いことばかり
閉鎖された、お国柄、何も分からない状況は続く
正直、とても不安だった


ミャンマー情報の他に、60連隊関連の会や
大叔父をご存じの戦友なども捜せればいいのだけど…


全ビルマ会をネットで検索したときも、ほとんど引っかからなくて
活動内容は、全くと言っていいほど分からなかった


後で、考えると、旧軍の方が、これ以上、増えるわけでもなく
いらっしゃい・いらっしゃいと言うような団体でもない
デリケートな部分を抱えた、神妙な団体である


高齢者も多い中、HPはなく、ネットで、新たな会員を募集することもなく
検索に引っかからないのは、当たり前と言えば当たり前だった




続く…



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ミャンマーに思いを寄せて 160

先日、キ○ノンの受付嬢に、大変お世話になって
あんなに、よくして下さったのだから
何か、お礼がしたいと思っていた
 

お仕事だと言われれば、それまでだけど
それ以上の感動をいただいたと思っている


もちろん、ご本人にも電話の時に、お礼は言ったが
それだけで、このままにしていいのだろうか…


私に出来る事ことは、何か?


この出来事は、私と彼女しか知らない


素晴らしい対応をして下さったことを
キ○ノンの上司にも、知ってもらっても良いのでは


そこで、お礼のお手紙と、お菓子をキ○ノン本社に送った


キ○ノンと言っても、広いわけで、彼女が
どの部署におらるのか分からず、大胆にも、本社宛に宅配便を送ったw


翌日、キ○ノン本社から、誰宛の荷物ですか?と言う電話が来た


とにかく、中を開けていただいて、お手紙を読んで下さるよう伝え
そして、該当の方に、お菓子を渡していただくように重ねてお願いした


そのお手紙の文中には…


些細な質問にも親切に応じていただき、懇切丁寧な回答を
下さったことへのお礼と、それに対し、感銘を受けたことを綴った


そして、一般ユーザーへのきめ細やかな対応から
キ○ノンの社員の、教育水準の高さを垣間見たように思ったこと


それ以上に、受付嬢の素晴らしい、お人柄に触れた旨を、率直に述べた


次いで、小さな1社員の対応により、キ○ノン全体の信頼が生まれたこと


最後には、今後益々のご発展を祈念し、締めくくった


出過ぎたマネかと思うのだけれど、良いことや、感動したこと
素敵に思ったことを、つい素直に表現してしまう私の性分w


私のありがとうの気持ちが、伝わればいいなぁ


この行動が良かったのか、悪かったのかは分からない
ただ、このまま私の中だけにしておくのは、もったいないと思ったのです


素晴らしい人材がおられることを、上司や会社全体に知ってもらうことにより
今後の彼女の、お仕事人生に、少しでも
良い風が吹けば嬉しいなぁなんて☆



。。。そして、数日後、彼女から、丁寧なお手紙が届きました


私の、ありがとうの気持ちは、彼女に伝わったようです♪
とても嬉しかった 


お世話になり、ほんとうにありがとうございました
これからも、お仕事頑張って下さい、素敵な人生を☆


キ○ノンの創設者様
あなたの作り上げた会社は、今も素晴らしい社員支えられ
大きく成長していますので、ご安心を


私も、微力ながら、今後はキ○ノン製品を愛用させていただきます




…続く



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ミャンマーに思いを寄せて 159

大叔父の大学が、写真の調査を
私のために、続けていて下さったことを知った
 

とても感激した
 

しかも、大学史の担当の方だけが、細々と、お仕事の傍らに
相手をして下さっているのだと思っていたら


課を挙げて、たくさんの部下が関わって下さっていたことも知った
なんとありがいことなんだろう


この写真が私に伝えたかったこと・この写真の示す意味を
解き明かすために、写真の撮影された時期の特定に
焦点を合わし、調べ始めることにした


写真について、自分なりにも推測した


中途退学し、戦地にも行っていない先輩が
退学後に何年かして、後輩の所に顔を出したとは、思えなく


この写真は、昭和16年の中途退学の際または、その後すぐに
撮られた、同級生との、記念写真だったのではないかと、考えた


そして、大学側にも、いくつかの質問を投げかけておいた


その途中報告が、もたらされたのである


服装については、国民服に校章を着けることが学則で決められた
時期があったそうです


まだ、学生服も混じっていることを考えると
学則制定後、間もない頃であり、それまでは、学生服の着用が当然の
時代だったため、大叔父が背広だと言うことを考慮すると
必然的に時期が限定された


撮影場所についても、2カ所ほどに絞られていると言う
それについては、現在、調査中とのこと


そして、その当時の○○大学の学生が何を考え
どんな学生生活を送っていたのか、と言うことを
少し追っかけてみたいと思うとおっしゃった


この大学の歩みを研究なさっている部署


私のミャンマーの件が、大学の歴史研究に影響を
与えてしまったようで、ありがたいことに
違う視点からの、新たな研究課題として
取り組んでいただいています☆


大げさに言ったら、私の熱意が伝わった?
大学側を動かしたとも言えるかも


とても嬉しく思います、みなさん、ありがとうございます




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 158

私の手元にある、大叔父の、たった1枚の大学時代の写真
 

単に貴重な、大切な写真だったけど
背景の壁紙が、大学側からもらった写真と同じだと言うことに
気づいてから、とても興味が出た

 
この写真の示す意味を解き明かそうと
あらゆる角度から、1枚の写真を分析した


結果、プロの写真屋に撮ってもらった写真であろうと確信出来
やはり、何かの記念に、きちんと取られた写真だと思った


そして、調べて行く中で、写真に秘められた
時代背景を知ることが出来たことも、1つの成果だと思う


自分では、満足だったが
知り合いから、この撮影した写真館を探してみてはどうかと言う
提案を受け、そう言う線もあるのかと、驚いた


いつか、ゆっくりと調べてみたいなと思う


写真からは、少し逸れたが
潜望鏡のプリズムなどの件も、いつか調べられたらいいなと思う


水晶の件は、何も解決しておらず

・当時のガラス製品の生産技術や普及、価格

・水晶製品との違いや、水晶製品とガラス製品の割合

・ガラス製品が高価で、生産が追いつかずに
 軍は水晶鉱山を、血眼になって探したのかor
 それとも、水晶が枯渇したため、急いでガラス製品の生産技術を
 向上させたのか


未だに、疑問が残る


そんな中、最近、連絡がなかった○○大学の大学史担当の方から
1通のメールが届いた


大学側にとっては、単なる私の私的なことで
お仕事のお忙しい中、煩わしいことに関わったなと
思われているんだろうなと思っていたのに


大学側は、その後も、写真の調査を続けて下さっていた




続く…
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ミャンマーに思いを寄せて 157

プロのカメラマンさんに、補足説明を受けて
より一層、当時のカメラのことを勉強した


当時のカメラは、高級品と言うこともあったが
それだけではなく、技術的な面からも
一般人が、おいそれと趣味で扱える物ではなかったことを知った


そして、大叔父の写真は、写真屋さんによって
撮られた、きちんとした写真だと確信した


それから、後日、このプロのカメラマンさんから
大叔父を撮影してくれた写真屋さんを、探してみては?
と言う提案をいただいた


えっ?約70年前の写真屋さんを探す???


当時は、フィルムも高価な物だったため
今のように、大量に撮って、使い捨てのような時代ではなく


特に、戦時中の写真については、のちに、戦死されたなどの理由から
何年か後に、家族から遺影として、焼き回しの注文を受けたことも
あっただろうから、原盤を大切に保管されていた可能性が高いと言う


当時、大学の近くの写真館と言えば、そんなにたくさんないだろうし
古くからの町並みなので、意外とすぐに、分かるかも知れない


くまなく調べなくとも、大学に聞けば
当時の出納記録や、写真の入った紙袋などが残っていれば
名前くらいなら、分かるかも知れない


その写真屋さんが、ご存命だとは思えないが
もしかしたら、もしかするかも


まあ、この写真屋さんでなくても良いけれど


きっと、学徒出陣を前にとか、出兵の時にとか
記念写真を撮ることは他にもたくさんあったと思うので
昔の写真屋さんに、お話を聞く機会があればいいなぁと思う


しかし、私には、写真屋さんの知り合いはいない、残念(>_<)




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 156

キ○ノンの受付嬢の回答に対し、修正・補足説明を
いただきましたので、続きを掲載します


昭和16年当時のフィルムについては、キ○ノンは設立当初から
35mm判サイズのフィルムを、採用していました


このサイズのフィルムは、デジカメの前の、私達がよく使っていた
フィルムと同じです


このサイズのフィルムは、元々は映画用フィルムだったため
長尺のモノを好きな長さに切って使う方法もあり
この方法の方がパトローネ(カートリッジ入り定尺)フィルムを
買うより安くすんだそうです


しかし、当時一般に主流とされていたフィルムは
「ブローニ」「ベスト」と呼ばれる、ロールタイプの物で
35m判より画面サイズが大きな物だったそうです


「ブローニ」サイズのフィルムは、今も入手可能で
プロやハイアマチュアの方が使われておられるそうです


この他には、「シートフィルム」と呼ばれる
1枚物のフィルムもあったそうです


これは、カメラの横から入れて使うタイプ


キ○ノンの回答の中に「フィルムを好きな長さを切って、横から入れる」
と言う説明は、これらのロールタイプのフィルムと
シートタイプのフィルムを混合されたのではないかと思われる


それから、フラッシュについて
キャノンの回答では、「当時すでに、フラッシュ内蔵」とあったが
それは、存在しないとのこと


当時はフラッシュバルブと言われる、外付けの電球状の物で
使う度に交換しなければならない時代
フラッシュバルブは昭和40年頃まで一般的だったそうです


戦争中には、フィルムは配給品扱いになったらしいです
理由としてはフィルムには石油、銀が使われているのと
軍への供給優先になった為と思われます




…続く



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ミャンマーに思いを寄せて 155

昭和16年当時の写真とカメラと言う線から
何か分かることはないかと、カメラの歴史を調べた
 

キ○ノンの受付嬢のご協力で、謎だった、当時のカメラのことが
次第に分かってきた


しかし、彼女も、調べて答えて下さったことで
彼女自身が、その当時のカメラについて
詳しかったわけではないため、誤認識の箇所があると
知り合いのカメラに詳しい方から、補足説明をいただいたので
まとめてみました


ニコ○の対応については、私は知らなかったのですか
現在も、潜望鏡のプリズムなど、自衛隊用の軍需製品?を
作っているそうです


ニコ○さんの潜望鏡はとても優秀だけど
海外輸出することが出来ないため、世界中の国がほしがっているとのこと


どうも、どこかの国や企業の怪しい回し者と思われたようですw
またテロ関係で、警戒が強化されていることもあり
無愛想な対応になったのではないかとのこと


なるほど~、納得です
だけど、電話すると言ったなら、ダメでも
連絡くらいくれてもいいのに…ずっと待ってたのに
と思ってしまいました(^_^;)


そして、当時のカメラのお値段の400円前後と言うのは
キ○ノンのお値段であって、その他のメーカーの物は
もっと安い物や、高い物もあったそうです


今で言う、トイカメラのような、戦前は10円未満で販売されていた
簡易なカメラもあれば、ドイツ製のライカやローライと言う
メーカーの物は性能が良く、ライカ1台で当時は、家が建ったと
聞いたことがあるそうです


昭和16年当時の一般的なカメラは
「2眼レフ」「スプリングカメラ」というモノが主流で
国産品で70円~200円程度で販売されていたようです


昭和11年頃、カメラは8円程度でも買えたそうですが
戦争の影響で物価高となり、さらに税金が高くなり
昭和16年頃からいきなり高い物となってしまったそうです



…続く



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ミャンマーに思いを寄せて 154

大叔父の写真を紐解く中で


大叔父の写真の裏に、鉛筆書きで、900番台の数字が書いてあった
きっと、注文の番号ではないかと思われるが
とても大きな数字だったので、フィルムについても聞いてみた


ガラスに1枚ずつ焼き付けていた時代は、もっと昔のカメラで
当時のカメラは、すでに現在と同じようなフィルムをサイドから入れて
使用する方法が採用されていた
(※フィルムにも2種類あり、混合されていたので、後日、修正します)


すごい。。。もう、ほとんど、今のカメラと同じだ


ただ、フィルムは、好きな長さだけ切って、巻いて
自分で入れるのだそうです


三脚や、カメラケースも合わせると、かなり大荷物で
やはり、個人が趣味として持ち歩いていたとは考えにくいとのことで


総合的に考えて、写真屋さんを呼んで、きちんと撮影された写真ではないか
と言う、結論を出して下さった


私よりお若いであろう、キ○ノンの女性と、電話で話しながら
2人で推理をして行く中で、次々と疑問が出て来て、その度に、調べて
お電話を下さった


こんな邪魔くさい質問の私にお付き合いいただき、とても恐縮だった


お仕事を優先して下さいねと、何度と申し入れたが
彼女自身も、カメラメーカーに勤めていて、知らなかったことを
調べることが楽しいようで、勉強になりますからと、率先して下さった


これらの、詳細は、2日間に渡って、対応して下さった、彼女の成果です


ほんとうに、頭の下がる思いで、いっぱいでした


この女性が、たまたま素晴らしいのだとは分かっているが
同じカメラメーカーでも、コニ○とは、こんなにも対応に差があるのかと
正直、驚いた


大叔父の写真が何を意味するのか
そこまでは、突き止めることは出来なかったが
退学後に大学を訪れてまで、大切な学友と写した
何かの記念の、きちんとした写真であることだけは、分かった


心から、キ○ノンの、この女性に感謝したい


お仕事だと言われれば、それまでだけど
こんなにお世話になって、ありがとうと
心の中で思っているだけでいいのだろうか…


何か、彼女にお礼がしたい



そして、私なりに、色々と考えたのです



続く…



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ミャンマーに思いを寄せて 153

※受付嬢が必死に調べて下さった回答には
誤認識の箇所もあり、詳しい方より指摘を受けましたので
後日、修正のまとめ記事を掲載します



キ○ノン本社の受付嬢が
カメラの歴史を調べて下さると申してで下さった


お忙しいだろうに、つまらない質問に、付き合って下さる
なんて、ありがたいことなんだろう


しばらく、お時間を下さいとおっしゃられて
その日のうちに、また返答のお電話を下さった


当時のカメラは、今のように、1人に1台と言うような
手軽に購入出来る物ではなく


大卒の銀行員の初任給が70円くらいの時代に
キ○ノンのカメラは、安い物でも、400円近くした


超・お金持ちのボンボンなら、私物として買ってもらえたかも
しれないが、個人で、所有していたとしても
現像のための暗室の完備なども考えると
やはり、お商売として写真屋さんが来られて、撮ったと考えるのが
一般的でしょうとのこと


そして、当時のキ○ノンのカメラは、暗幕は使用しなくても写せたそうで
フラッシュはすでに、内蔵されていたそうですが
でも、室内となると、かなり明るい所でないと撮れなかったそうです
※後日談で、フラッシュは内蔵されていなかったと判明


三脚は、やはり、使用して撮られていた時代だと言う
特に、記念写真では、プロの写真屋さんの必須アイテムだったとか


大きさとしては、今のコンパクトな、デシタルカメラよりも
遙かに大きいが、それでも、片手で持てるサイズで
今の一眼レフくらいの大きさまで、小さくなっていたらしいです



続く…



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ミャンマーに思いを寄せて 152

大叔父の写真を、カメラと言う観点から、解き明かそうと考えたが
自分だけの力では、調べるのに限界を感じていた
 

キャ○ンに勤める、お友達にカメラのことについて聞いてみたが
自分は、カメラの部門ではなく、正直、カメラに興味がないとのこと


そうか、カメラメーカーだからと言って、カメラ以外の部門もあるし
カメラに興味がなくても、就職するんだね、そんなものなのかなぁ。。。


前回、コニ○で、挫折しそうになったが、落ち込んでいてもしかたがない


他を当たるとしよう


そして、次は、キャノ○に、同じように、電話してみた


本社の代表の電話番号、お客様センターでもなさそうだ、大丈夫だろうか…


そこでは、若い受付嬢が対応して下さった


きっと、電話をたらい回しにされて
結論は出ないのだろうなと予感していた


すると、「カメラの歴史とは、どのようなことでしょうか?」と聞かれた


ここで、細かいことを言うと、困るだろうと思い
「昭和16年当時のカメラについて」と伝えてみた


すると、キ○ノンには、HPの会社の概要・歩みの他に
「キャノン・カメラミュージアム」と言う
バーチャル世界のカメラの博物館があって、そこを案内して下さった


しかし、そこは、知っていて、先に見ていたけれど
私の知りたい細部については載っていなかったことを言ってみた


古いカメラの写真と、当時の販売価格などは載っていた
だが、使い方だとか、時代背景などは分からなかった


親身になって、話しを聞いて下さって、私も、簡単に
戦争で亡くなった、大叔父の写真のことを説明した


大叔父の写真は、写真屋さんを、わざわざ大学に呼んで撮ってもらった
大切な1枚だったのか、それとも
個人所有のカメラで、簡単に撮ったものなのか


すると、その受付嬢は、当時のカメラのことを、調べて下さると言う


半分、諦めかけていたので、私はとても驚いた




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 151

昭和16年当時のカメラ細部を教えて欲しくて
1番興味の出た、ニコ○のお客様サポートセンターに電話してみたが
相手にされず、みごとに撃沈(あたり前ですけどw)
 

その対応には、いささか落胆したが
ついでに、潜望鏡のレンズやプリズムの歴史についても尋ねてみた


すると、お兄ちゃんは、邪魔くさい電話を切ることが出来ると嬉しそうに
傘下のグループ会社を紹介して下さった


次に、そちらに電話してみた


・当時のガラス製品の生産技術や普及、価格
・水晶製品との違いや、水晶製品とガラス製品の割合
・ガラス製品が高価で、生産が追いつかずに
・軍は水晶鉱山を、血眼になって探したのか
 それとも、水晶が枯渇したため、急いでガラス製品の
 生産技術を向上させたのか


私の中には、様々な疑問があった


だが、いきなりそんな質問を並べても、驚かれるだろうと
やんわりと、昔の軍需製品について、質問をしたいと言ってみた


すると、電話に出られた方は
「今、ここには、若い人しかいません」との返答


誰も、戦時中に勤務していた人が
デスクに座っているなんて思っていませんよw


単に作っておられる生産ラインの方なのでしょうか


だけど、会社の歴史や、少なくとも自分たちが作っている
製品の歴史について、少しは、学ぼうと言う気持ちはないのだろうか


忙しいのに、そんなことは本社に聞いてくれと言いたそうな雰囲気


本社からの、ご紹介ですと伝えると
「何のために調べているのですか?マスコミの方ですか?」と
違う方向に、突っかかってこられた


とりあえず、折り返しの電話を下さるとのこと
しかし、折り返しの電話で、質問に答えられるかどうか
分かりませんからと、付け加えられた


結局、何日経っても、返答のお電話はいただけなかった


○コンの創設者さん、あなたの作り上げた、会社は
今は、単に物を作って・売ると言うことだけの
会社になってしまいましたよ、悲しいですね




…続く




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ミャンマーに思いを寄せて 150

※カメラメーカーの対応については
私、個人が、受けた率直な感想であり 
気分を害することもあるかと思いますが
どうぞお許し下さいm(_ _)m




大叔父の写真を、カメラと言う目線から
何か、紐解くことが出来ないだろうかと考え
カメラの歴史について調べてみた


ただ、HPや個人のコレクターの記事などでも
当時のカメラについては、記載がとても少なかった


私が聞きたい細部については、なかなか調べることが出来なかった

そこで、カメラメーカーに、直接聞いてみようと考えた


日本の大手のカメラメーカーで、歴史のある所。。。
そのうち、1社、興味深い所を発見した


それは、元々がレンズメーカーだった会社
メガネのレンズや、軍需品として
双眼鏡のレンズ・潜望鏡のプリズムなどを作っていた会社


双眼鏡のレンズや潜望鏡のプリズムと言えば
祖父の勤労動員先の、水晶鉱山の水晶でも、同じ物が作られていた


なんとなく、興味を惹かれ、まずは
その会社、ニ○ンに問い合わせしてみた


お客様サポートのような、フリーダイヤル


対応して下さったお兄ちゃんは、とても爽やかで低姿勢
さすが、有名カメラメーカー本社のエリートと言う感じ


早速、昭和16年当時のカメラの一般的なことについて
教えて欲しいととお願いしたところ


少し困っておられたが、爽やかに、折り返し連絡しますと言われた


数分して、すぐに折り返しのお電話が来た


「当社のカメラ生産は、戦後ですので、昭和16年には
カメラは製造しておりません」との回答だった


続けて、お兄ちゃんは、「一般的なカメラと言われましても
当時は他社様のカメラと言うことになりますので、当社では
お答え出来かねます」と、勝ち誇ったように、突き放された


丁寧な言葉使いだったが、儲けにならない、うっとおしい質問だから
さっさと電話を切りたい、と言う雰囲気が、言葉の端々にありありと見えた


私も、確かに面倒なことだろうなとは分かっていたので
それ以上は、無理強いをしなかったが


世界に誇る、日本の大手カメラメーカーの顔とも言える
お客様サポートセンターの対応社員にも、色々とおられるのだなぁと
少し、残念に思った


本人は、組織の中の単なる1社員のつもりであっても
対応を受けた側にとっては、対・メーカーとして受け取る


素晴らしい理念を持って創設された、歴史のある会社


多数あるメーカーの中から、私が選んだ会社は
当初の創設者の思いとはかけ離れ、大きくなりすぎて
残念ながら、社員に収まることだけを目標とした社員がいるような
社員教育の行き届いていない会社となっていた


すでに、他界されているであろう創設者は
この現状をどのように思われるであろう。。。



続く…



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ミャンマーに思いを寄せて 149

昔の映画などからの、私の中でのイメージは
一般庶民は、国からの支給のボロボロの国民服を着て
お金持ちは、スーツなどの洋装で、しっかり、おしゃれしていたのかなと
思っていたが、そうではなかった


この写真の中の、真新しい国民服を着ている人達は
流行の?最先端を行っていた人達とも言える


ある意味、時代の推移を、色濃く映し出している、貴重な写真と言える
大学側も、この写真にとても興味を示され
引き続き、調査しますとおっしゃった


そして、集合写真のような、かしこまった雰囲気の写真はあるが
このような、学友同士の語らいのような、親近感のある写真は
大学側には、ないと言う


やはり、当時の物と言うのは、もうなかなか手に入らず
校章や、その他の大学関係の写真が残っていれば
寄贈して欲しいと頼まれた


伯父の家の、古いトランクの写真入れの中には
まだ、写真は、あるかもしれないが、私が探すわけには行かず
せめて、母が生きていたなら…と思うと、残念だ


その他の物については、火事で焼失してしまった可能性が高い


大学側にも、火事で家が全焼したため、何も残っていないと伝えた


それにしても、この写真は、よくぞ残ってくれたと思う


そして、この写真が撮影された時期について、私の推理は続くのだが
この写真からは、季節感は分からない


現代のように、気軽に、はいチーズなんて、何枚も撮れる物ではなかった だろうから、身なりも、きちんとしてから、撮っただろう


国民服にも、学生服にも、夏冬の区別がないので
残るは、背広姿からの推測となるが、これも難しい


大叔父の、背広の前が開いているのは、おしゃれな着方だったのか
単に面倒だったのか、暑かったのか?


う~ん、分からない


では、写真・カメラの線から、何か分かることはないかと、考えた



そして、私の好奇心は、あらぬ方向へと進み
カメラの歴史について、調べだした




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 148

伯父からもらった、大叔父の写真の、時期の特定がしたい
と言う、衝動に駆られた


この写真は、何を意味するのか。。。


そこで、国民服について、調べてみた



【国民服】
国民服とは、昭和15年11月2日に公布された、「国民服令」によって
定められた、日本国民・男子の標準服のこと

戦時中は、国により物資の統制が行われ、繊維材料の資源節約と
国民の衣生活の合理化・簡素化を目的として陸軍省の主導の元、制定された

国が提唱した、国家総動員の一環とされた

型は、背広のタイプの開襟でネクタイも合う形状の「甲号」や
詰襟の「乙号」など何種類かあり、軍服に似た形で
国防色(現在で言うカーキ色?)の上下揃い

素材や色目が細かく定められている

※写真の中の国民服は、乙号と見られる

夏冬の区別はなく、礼服としても儀礼章を用いることで代用可とされた


ただし着用が強制されたわけではない

昭和17年以降は、全国の生徒・学生の共通通学服に指定され
乙号を中心に、男子の間で広く普及した

容易に軍服に転用できる服装と言う意味合いもあり
事実、終戦間際には、軍服の代用として認められた

ちなみに、女性は、モンペ

「贅沢は敵」とされた時代、おしゃれは贅沢の内とされた


私は、国民服とは、国からの支給で、強制的に
着用しなければいけなかったのかなと、思っていたが
調べて行くうちに、そうではなかったことを知った


国民服は、洋服屋さんに、仕立てを頼んで
個々に作ってもらうのだそうです


だから、一般的な形は、定められているものの
布の色や、ポケットの位置など、若干の違いがあるのは
注文した洋服屋さんが違うためだと言う


合理化・簡素化とは言え、当時は、洋服上下を仕立てることは
そうそう出来ることではなかったようで
当初は、なかなか普及せず、一部のお金持ちだけが、着ていたとも聞く


当初は、国民服を作る=国への忠誠・貢献を表わし、戦意高揚に繋げるなど
一部では、ある種のステータスの象徴としても、受け取られていたようだ


その後、次第に、国民に浸透し、昭和19年代には、大ブレークしたそうです


それでも、田舎などでは、国民服が作れず、着物姿の男性も、たくさんいた




続く…



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ミャンマーに思いを寄せて 147

伯父からもらった写真と
大叔父の○○大学からいただいた、昭和16年当時の写真の
背景が同じことだったことを発見し、伯父からもらった写真が
大学構内で撮られたことを、偶然知った
 

すると、私の中で、何点か、気になることが出て来た


・伯父からもらった写真は、いつ頃の写真なのか

・同じ壁紙の部屋は、他にもあったのか

・写真屋さんは、構内に常駐していたのか

・学生服の着用は、義務だったのか

・学生服は、退学時に返納なのか


ミャンマー行きには、関係がないことかもしれないけど
またまた、私の好奇心が騒ぎ、調べてみたくなったw


大学からいただいた、昭和16年当時の写真は
まだ大半の学生が、学生服を着ている


伯父からもらった写真には、学生服と、国民服と
背広が混ざっていることを考えると
私の推測としては、伯父からもらった写真の方が、後の物と思われる


大学側にも、同時に質問し、回答をいただいた


学生服のボタンには、○○大学の校章入りが使われていて
その学生服を着られることこそ、誇りとされ、義務ではないが
大半の学生が、学生服を着ていたそうです


それを考慮すると、大叔父の背広姿の理由は、退学後なのではないか
そして、国の推進により、国民服に移行している時期


そう考えると、時期が絞れる


大叔父の退学は、昭和16年7月
招集は、昭和18年4月なので、その間と考えられる


その当時は、大学内への立ち入りは、学生でなくとも自由で
時には、学友に、会いに来られていたのではないでしょうかと
返答をいただいた


だが、カメラなど、今の時代のように
気軽に誰しもが持っていない時代


写真屋さんを、皆でお金を出し合って
わざわざ呼んで、撮っただろう写真


何の写真なのか?何かの記念ではないかと思えてならない


この写真の示す意味は?


この中の誰かが、生き残っておられて、これは○○の時の写真だよと
教えてほしいような、もどかしさを覚えた




続く…



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ミャンマーに思いを寄せて 146

大学からいただいた写真と、伯父からもらった写真
を眺めていて、すごいことに気付いた!!


コピー ~ scan-31


PICT0003



2枚の写真の中に、同じ物を見つけた!!


背景の壁紙が、同じだ!!自分でも、とても驚いた!!


伯父からもらった写真は、大学の構内で撮られた物だと判明した


大学には、当時の面影は何も残っていないが
確かに、大叔父は、約70年前に、○○大学にいた証がここにあった


早速、大学史担当の方に、発見の喜びを伝えてみた


とても、驚かれたようで、大学側としても興味深い写真だと言われた


一度拝見できれば何かレクチャーすることができるかもしれませんと
おっしゃって下さった


大叔父のことも、法学部の返事待ちの状態だとのこと


そこで、質問を投げかけてみた


あの葉っぱのような模様の壁紙は、建物全体の各部屋に
使用されていたのですか?
それとも、あの部屋だけだったのですか?


大学にいただいた写真の部屋と偶然、同じ部屋だったら
嬉しいのになと、ふと思ったからである


後日、写真をデータ化し、大学に送った




続く…



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ミャンマーに思いを寄せて 145

○○大学からいただいた写真を、マジマジと見ていて
何か、心に、引っかかるものがあった
 
コピー ~ scan-31


何なのだろう?自分でも分からない


実は、以前から、不思議に思っていたことがあった


伯父からもらった、大叔父がお友達と写っている写真は
素敵な洋風のお部屋で、撮られていた


PICT0003


あの時代の洋館、すごいお金持ちのお友達の、お家だったのだろうか


私立の大学に通わせる家柄なので
お金持ちがいたとしてもおかしくはないが


色々なお友達と親交があったのかなと、漠然と思っていた


この中に写っている、お友達の、誰のお家なんだろう?

地元は、軍需工場が少なかったとか
都会に比べて、あまり重要視されていなかったのか
空襲は少なかったようで、昔の建物が多く残っているように思う


こんな立派な洋館だったら、残っていてもおかしくないかも


でも、全体像が分からないから、1部屋だけでは
場所を特定することは出来ないなと思っていた



続く…



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ミャンマーに思いを寄せて 144

大叔父の大学中退の理由を知りたくて
○○大学の大学史担当の方とのメールのやりとりは続いた


少しでも、大叔父の胸中に触れてから
ミャンマーに臨みたいと思った


大叔父を詳しく知る身内は、ほとんど亡くなり
戦時中に、家が全焼したことにより、資料になるような物は数少ない


いつ、大学に入り、それまでは何をしていたのか…
浪人を何年もして、遅くして入学したのか?
もしくは、長く留年し、大学に留まっていたのか?


謎の部分がたくさんあり、大叔父の在学期間や、入学前の状況が
少しでも分かればいいなぁと思っていた


メールの文中に、もし、大学の資料に、身上調書や志願・退学届けなど
大叔父の直筆の物が残っていれば、是非拝見させていただきたいとも
付け加えた


最後に、「戸籍等、私が身内である証明資料は準備しております」と
書いた


当初は、お役所などで、個人情報保護法のため、3親等内でないと。。。
と言われまくり、3親等ではないが、遠縁にあたり
親族だと言うことを証明するために、意地になって
証明資料を集めようと思っていた


証明書類が揃う前は、やや、強引に、突き進み
地元のお役所の方や、この大学史の担当者などの
ご厚意に支えられ、ここまで来た


しかし、もし、今後、何らかの問題になり
この方達に、おとがめが来たら…と考えると
やはり、きちんと準備しておかなければと言う、思いが強くなった


自分のためだけでなく、ご協力いただいた、全ての方のために。。。


結局、大学史の担当の方からは、戸籍等の証明書類の提示は
求められなかったが、準備しておりますと言ったことで
本気度も伝わり、安心して下さったと思う



そして、調べていただくための資料として
返信メールに、大叔父の詳細を記し送信した





続く…




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