ミャンマーに思いを寄せて

亡き母の思いを果たすべく、ビルマで戦死した大叔父の足取りをたどる私の奮闘記録☆

2013年03月

ミャンマーに思いを寄せて 390

深緑色の表紙の分厚い本


なかなか市場に出ないそうです


それが古本として売りに出ている


欲しがっておられる方は他にもおられたようですが


遺族として優先して、私に教えて下さった




しかし、私は購入しなかった




情報提供者からはなぜ?と驚かれた


私は、二つの河の戦いは、単に昔を懐かしんで


発刊した本ではないと思っている




自分の懸命に生きた時代の証であり


亡くなっていった戦友達への鎮魂の意味もあり


真実を次世代へ伝えたい気持ちもあっただろうと思う




各人が執筆あたり、思い出したくなかったこともあっただろう
 

辛い記憶を手繰り寄せ、生き残った意味を考え


書かなくてはいけないと言う


使命を感じたのではないだろうか




この本は、60連隊の隊員にとっては


とても大事で重みのある本なのです




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 389

大叔父の死亡者調書は

第一大隊付の軍医さんの所見と連隊長名で発簡されていた



役所に残っていた大叔父の死亡者調書は次のとおりである



______________________________


<戦時死亡者調書>



昭和20年7月15日

森 7368部隊





死亡場所 ビルマ国サガイ州・明妙 第一二一兵站病院





死亡日時時刻 昭和19年7月24日 午後4時10分





「ウ」号作戦参加中 連日ノ激戦に加わるに 豪雨と給養ノ粗悪に依る

疲労蓄積、遂に発病するに至る





病名 アメーバー赤痢、兼マラリア





昭和19年5月24日 インド・アッサム州テグレパール→メイミョウの病院





第60連隊第一大隊附

軍医 中尉 ○○ ○○





第60連隊長 大佐

○○ ○○





_______________________________




この文書から私は第一大隊の軍医さんは

この方だと思っていたが




遥かなインパール(著者 伊藤桂一)に付いていた60連隊の主要要員の表によると


この軍医さんは第三大隊の軍医となっていた




インパール作戦の時は第一大隊で、第三大隊の軍医さんが欠員となり

終戦時の最終部隊が第三大隊だったのだろうと漠然と思い込んでいたが


そうではなく、第一大隊の軍医さんはきちんと他の方がおられ

第一大隊も第三大隊も最初から最後まで1人の軍医さんであり


どちらも生きて帰ってこられて


戦後長くご健在だったと情報提供者からお聞きし知った




60連隊の戦友会や二つの河の戦いの編纂でも

ご活躍された方だったそうです




60連隊唯一の発行図書の「二つの河の戦い」中

この軍医さんの手記に目を通したが

やはり第三大隊のことしか書かれておらず

大叔父の第一大隊のことは全く触れていなかった


死亡者調書に所見を書かれた軍医さんならば

大叔父のことをご存じのはずだと思ったが


残念ながら、どちらの軍医さんも他界された後で

調査を始めるのがもう少し早かったらと悔やまれる



そんなことからも、この死亡者調書は

曖昧な点が多く間違いだと言われれば

反論のしようもないように感じた



この死亡者調書が間違いだった場合

病院で亡くなってはいないのか?ならば真実はどうだったのだろう

そして、なぜこのような文書が作られたのだろうか?




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 388

情報提供者は私が拒否したと思われたようだったが

拒否すると言うより、1つのご意見として受け止め

当時の状況を知ることが出来た方が

大きな収穫だと思っている




60連隊の慰霊碑は京都の霊山観音にあるそうで


情報提供者の方は、そこの清掃を率先し

何年もボランティアで行われ

戦友さん達から信頼されておられる素晴らしい方です


遺族ではないが、ふとしたことで知り合った

60連隊の戦友さんの話を聞き

感銘を受けて、関わるようになった戦友会


そんな方もいらっしゃるんだなぁと感心した




その後も戦友さん達から託された貴重な資料を

数々コピーして送って下さった


その中には大叔父の名前も出てくる名簿類も含まれ

大叔父は確かに歩兵60連隊の第一大隊機関銃中隊に

いたのだなと涙が出た





続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 387

調査を開始した頃、後退してゆく友軍を横目に

弱り果て草むらで一人寂しく亡くなったのかと


思っていた




それが靖国神社に残っていた資料から


メイミョウにあった兵站病院で亡くなったと知った時


ベッドの上で優しい看護婦さんに手厚い看護を受け


人に看取られて亡くなったと分かり


どれほど嬉しく安堵したことか



その後、偶然にも東京でメイミョウの病院の


大叔父が入ったであろう感染重症病棟で勤務されていた


看護婦さんにお会いしたことを思い出す


病棟付きの看護婦さんは4人体勢で2人1組の2交代




看護婦さんは、大叔父を覚えておられなかったが


「助けてあげられなくてごめんなさい」と謝られ


私は看護婦さんの手を取って


「大叔父がお世話になりありがとうございました」と


大泣きした




そんな奇遇な巡り合わせも


この文書が間違いなら全て否定されたような気分だった


情報提供者からは「その文書がほんとうだと


証明出来ますか?」と


看護婦さんの話も、大叔父を覚えておられた訳ではなく


何の証拠にもならないとおっしゃるのです




現実を受け止めると言うこと迫られる…




しかし、こうして公文書として


きちんと残っている物を間違いだと言われても


絶対ウソだと証明も出来ないと思うのです




私が大人げないのかもしれないが


遺族としてはどうしても譲ることが出来ず


情報提供者とは平行線のまま


メールと電話での連絡が続いた





続く…





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ミャンマーに思いを寄せて 386

文書の指摘は、私もずっと不思議に

思っていたことだったが



間違っているいることを受け止めてほしいと

言われ正直困惑した



当時、病人や怪我人を搬送するには

一般的に4人の衛生兵を必要とし

担架で搬送するのが基本だったそうです

戦場から離脱しなければいけないほどのマラリア重症患者

1人で歩いて山越えと渡河をしたとも思えない

そんな体力があるなら戦闘を続行していただろう



文書が正しいとなるとインパールの手前のインド国内の

第一線から、またアラカン山脈を越えてビルマ内地の

メイミョウまで戻ったことになる。。。




大叔父は昭和19年7月24日に死亡しているが


死亡者調書の日付は死後1年ほど経ってからのもので


終戦間際の昭和20年の7月だった



 

たぶん戦後処理されたと思われる文書と

当時の現状を考慮すれば

あの死亡者調書は間違いの可能性は高いのかもしれない



遺族にほんとうのことを言うと

拒否されることが多いと戦友さんは言われていたそうです



私も遺族の立場とすれば

おかしいと言われればそれまでだが


病院で人に看取られ亡くなったと信じたいと言う想いがあり


やはり安易に受け入れられないのが本音であった




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 385

情報提供者からもたらされたのは

やはり、メイミョウの兵站病院で亡くなったことが


おかしいと言う話であった



戦友さんのご意見も同じだそうで



書類が間違っていると指摘された





大叔父の死亡原因は「マラリアと腸チフス」





確かに、全ビルマ会の副会長さんも

「マラリアや腸チフスはみんなかかっていて

風邪みたいなもんだな」と言われていた





当時の感覚で言うと単なるマラリアである


しかも、甲幹部候補生とは言え下士官の身分





死亡者調書の中では、インパールの手前


インドのアッサム州テグレパール(他の書物には

テグノパールと記載されていることが多い)

から搬送されたことになっている





第一線の歩兵がインパール手前の激戦地から


単なるマラリアごときで


700Kmも離れたビルマ国内の上等な兵站病院に


搬送してもらえたとは


当時の状況を考えるとあり得ないのだそうです





そのため「その文書は間違っている」との結論を出された



続く…





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ミャンマーに思いを寄せて 384

情報提供者の方がご厚意で

大叔父と同じく歩兵60連隊第一大隊機関銃中隊の


生き残りの戦友さんに電話で連絡を取って下さった



残念ながらその方は、大叔父のことはご存知ではなかった



中隊と言っても200名前後はいたと思うので


たまたま知らない人もいるのだろう


とても残念で落胆した


インパールに行った機関銃中隊の人で


メイミョウの兵站病院で亡くなった人は


かなり稀だったようである


そこが気になると情報提供者は言われていた



私もずっと不思議に思っていること


それはインパールからは遥か700Kmくらい


離れていると言われるメイミョウの病院で


大叔父は亡くなった


軍歴表と一緒に役所の公的文書に残っていた


「死亡者調書」により、それは明らかであり


何らかの恩恵を受けたのだろうかと思っている




しかし、そのことについて、戦友さんも「おかしい」と

言われているとのこと、、、

ここで、情報提供者の口から、思いもよらなかったことが

語られた



続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 383

情報提供して下さった方とメールでやりとりを繰り返した


その方は、10年ほど前に京都の霊山観音にお参りに行った際


偶然60連隊の方と知り合い、60連隊の戦友会と交流を持ち


お手伝いをされていたそうです


その後、遺族会に切り替わる際に会を抜けられ


現在は個人的に戦友さん達と交流を続けておられる様子


そして、戦史に興味があり、戦友さん達からたくさんのお話を


伺っておられるようであった




第一大隊は約1,000名近くで、インパール作戦の前線から


生き残って帰ってきた人は、20名くらいだったそうです


一般的な感覚として、兵力が1/3減の状態で


撃破されて組織的な戦闘力喪失


1/2で壊滅状態


1/3になったくらいで全滅とみなされるような気がします


えーっと…20/1000って、、、




3年前にお会いになった3名の戦友さん達の中で


大叔父と同じ第一大隊の機関銃中隊の方がご健在だった


インパールのことをよくご存じの方は、今はもう、その方しかいないとのこと


ありがたいことに早速、電話で連絡を取って下さった




大叔父のことをご存じでありますように


私の胸は高鳴った






続く…





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ミャンマーに思いを寄せて 382

ブログに「必要とされている情報はどのようなものでしょうか?

京都祭60連隊に知り合いがいます」



「かなりの資料を持っています」とのコメントが


 

同時期に2人の方から寄せられた



 

慌てて返信したが、ブログを久しく更新していなかったので


コメントに気付くのが遅れた


いたずらではなさそうだ


返信を読んで下さるだろうか?


祈るような気持ちで「連絡をお待ちしています」と書き込む




すると次の日に返信があった


 

そこからは非公開のコメントと直接メールでやりとりをした


 

お2人はお知り合いだった


 

1人の方が遺族ではないが祭60連隊と関係があり


 

もう1人の方がたまたまこのブログを見つけて下さり


 

その方に相談されたのだそうです

 



 

約4,000名の戦死者名簿から大叔父の名前を


 

探して下さり連絡をいただいた



 

 

大叔父の祭60連隊の第一大隊の機関銃中隊で

 


インパール方面から帰ってこられたのは数名で

 


その方達と3年ほど前にお会いになり


その時ご健在だったのは3名ほどいらっしゃったとのこと

 


 

 

ものすごい情報が寄せられた!!


 

ちょうどブログを公開し始めて1年くらいだった


 

ブログを続けていて良かったと思った瞬間でした

 


ほんとうにありがとうございます

 

 

 


…続く



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ミャンマーに思いを寄せて 381

この命令による転進が、内情を知らない近隣で戦っていた


他部隊から見ると敵と戦わなかったと


思われてしまったようである



汚名を着せられたと戦後も第一大隊は多いに遺憾に思っている



その無念が強く、60連隊唯一の発刊図書「二つの河の戦い」中


第一大隊の冒頭に色濃く出たのであろう


60連隊の軍旗の下でなく、寄せ集めの部隊で孤独を感じながらも


60連隊であると言う誇りを持ち


60連隊の名に恥ないように


日本が戦争に勝つと言う目的は同じだと命令を遵守し


命をかけて戦ったが、不名誉な誤解が生じ


共に戦い散っていった戦友達にも汚名を着せられたのが


許せなかったのかもしれない




二つの河の戦いが発行されたのは


昭和44年8月15日のことであった




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 380

山本支隊はインパール手前のパレルと言うところを目指し



苦戦を強いられながら前進していた





敵は強固な陣地を築き、圧倒的な火力で待ち構えていた



日本軍はすでに弾薬も食料も無かったが



奇襲攻撃をかけ精神力で果敢に突き進む





山本支隊の指揮下に入り、祭師団方面から追送していた第一大隊は



敵の背後から攻撃を開始した





しかし、繰り返す奇襲攻撃をもっても目の前の敵は



簡単には落ちなかった



攻撃を重ねてはいるが思うように前進出来ないまま



第一大隊は死傷者が増え次第に消耗していく



特に幹部将校の戦死が多く、かなりの痛手を負っていた



インパールまでは遙かな道のりだった





このままでは…と大隊長が思い始めた頃



祭の情報参謀が来られて、「敵の主力は移動している。



ここの攻撃を止めて、敵が合流し強力になる前に



有利に戦えるよう前進してはどうか」と言った内容の



助言を受けた。





ほどなくして山本支隊からも同様の命令が来て



第一大隊は攻撃目標を変更し前進した




…続く



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ミャンマーに思いを寄せて 379 

大叔父の歩兵60連隊の第一大隊に何があったのだろう…




弓の山本支隊はかなり大きな臨時の混成部隊


ビルマ唯一の戦車連隊(第14戦車連隊)なども編成に入っており


60連隊の第一大隊の記録の中では


山本支隊は軽戦車20数輌、速射砲8門


山砲12門、十五榴弾砲8門、十加農砲8門などの



火力・重装備が充実し恵まれた部隊であったとなっている



。。。と言っても私にはどんな武器か分かりませんが(汗)



おまけに大叔父の第一大隊には挺進隊もいた


挺進隊と言うのも珍しいそうです


とにかくとても大規模な部隊だったようである


ただ、起伏に富んだ山岳戦には重要な



歩兵の兵力が不足していたと言う説もある





一方、祭師団(15師団)は1 個連隊を軍の予備と して引き抜かれ



実質2 個連隊(計6個大隊)だったそうで



その上、第一大隊が山本支隊に行ったことで5 個大隊となり



山本支隊の方が大きかったのではないかと思われる




弓師団は簡単に言うと南から(地図で言うと下から)インパール手前の



パレルと言う地点を目指している




tizu1[1] - コピー




 



第一大隊はモーレと言う地点で山本支隊に合流し戦闘に加わった



モーレと言う地点は野戦病院があった所





アラカン山脈を超えインド国内に入っても山岳地



いくつも続く山の上に強固な敵陣がたくさんあったようである


鉄条網で囲まれた敵陣を攻撃しながら前進する


しかし、それは容易なものではなかった






…続く




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ミャンマーに思いを寄せて 378

先日、行った防衛研究所の資料の戦史総書によると


60連隊の第一大隊は、本体と一緒に前進中に命令を受け


60連隊から外れて弓師団の山本支隊に組み込まれ


前進経路を変更し山本支隊の指揮下に入った



また、60連隊唯一の発行図書「二つの河の戦い」には


第一大隊は通称「吉岡大隊(大隊長 小佐 吉岡 忠典)」
と呼ばれ


冒頭には「第一大隊は戦場を逃げたと汚名を着せられているが

決してそうではない命令に従っただけである」と言った感じの

強い言葉があった


そして同じ戦うなら60連隊の軍旗の下で戦いたかったと

第一大隊のもの悲しい嘆きが綴られていた



続く…


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ミャンマーに思いを寄せて 377

大叔父の大隊までは分かったものの


それ以後は何も進展がなかった


途方に暮れて、半分諦めていたかもしれない


ミャンマーにも行ったし。。。




更新をしていなかったブログに久々にログインしたら


コメントが書かれていた


「必要とされてる情報はどのような事でしょうか、
京都祭60連隊の遺族会に知り合いがいます。」



とあった



ずっと探していた60連隊の戦友会があった!!



戦友会ではなく遺族会となってはいるが活動しているようだ



情報が欲しくてブログを公開していたが



具体的に何が知りたいと書いていなかったかもしれないと気づく




3日間連続で、お2方からコメントをいただいていた



ログインしていなかったため2週間ほど放置していたことになる



いたずらではないだろうか?



2人同時にって何だろう?



このところ、ミャンマーの件で近づいてくる人にロクなことがなかった



しかし、続くコメントには、この時点では伏せていた大叔父の名前も



書かれていて、これはいたずらではなさそうだと判断した



第一大隊も第一大隊の機関銃中隊にも



ご健在の方がいらっしゃるとのこと




今頃コメントに返信して、まだ間に合うだろうか?



果たして読んで下さるだろうか?



すぐさまコメントし、返信があるのを待った





続く…




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最近の諸々ご報告

読者の皆様へ


いつも読んでいただきありがとうございます


現在の状況は、大叔父の消息の手がかりは無く

このまま迷宮入りしそうで悲しいです。。。

どうも大叔父の軍歴は詐称されている可能性が高く

特務機関の関連の任務に従事していたと言う説が

識者のみなさまから寄せられています


。。。祭師団の60連隊だと思っていたら

作戦上、祭から1個大隊だけ弓師団に組み込まれた

と言うことが分かり慌てたのに、今度は祭でも弓でもなく

特務機関って~どう調査していいのやら、、、

それとなく調査を続けていますが、特務機関の関係者の

皆様は何か警戒されて?口を閉ざす方が多いです

任務の細部は言えないようでしたら結構ですので

どこの部隊のどなたでもいいので、大叔父をご存じの方が

いらっしゃらないかしら

人のことを根堀り葉堀り調べたいのではありません

文字通り、命をかけて戦ったのに、中隊にも大隊にも

大叔父をご存じの方がいない

「そんな人はいなかった」と言われる大叔父が無念でなりません


今日はインパール作戦に参加された軍医さんの講演会に

行ってきました

烈の師団の軍医さんでした

御年98才、大叔父より2才年上です、素晴らしい

お会いした途端、涙が出そうになりました

主催者様にも大変お世話になり、ご配慮いただき

ご厚意で個人的にお話を聞いてもらえる機会を得ました

軍歴表や死亡者調書の内容から、見解をいただいたところ

やはり、少しおかしな内容だったようで

特務機関ならあり得ると言う結論を出されました

現代の研究者に「だろう」と言われるのとは違い

当時をご存じの方の言葉は重みがありました


今後はもっと難しい調査になるかと思いますが

仮説の方向性を決めましたので頑張りたいと思います



           2013.3.9

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雑誌「丸」の反響

読者の皆様へ


いつも読んでいただきありがとうございます


記事の内容は、謎多き大叔父の軍歴を

深く調査していくところです

現在も偶然様々な方に出会い、ご協力いただいて

いますが、大きな進展は今のところありません


先月まで連載させていただいていた雑誌『丸』でも

情報提供を呼びかけましたが、残念ながら何も

寄せられませんでした


ただ、記事は意外とご好評だったようで

おかげ様で続編連載のお話をいただきました

読者の皆様の応援のおかげだと感謝しております


先日、丸の担当者との打ち合わせで

同席したフリーの歴史ライターの方は

丸に掲載された私のミャンマー記事をご存じだった 


その方は、私の記事を褒めて下さり

お世辞でも嬉しかったです


まずは、戦史記事として「あんな切り口があったとは」と

驚かれていた

確かに、かなり異質の記事だったと思う

その上、女性のライターなんていない雑誌に

パンダジュエリーって名前(笑)

当初は丸に「ふざけた名前はやめて下さい」と言われた

えーっと、、、ふざけてないんですけど~

「マンガでもゲームのでもいいので漢字の名前にして下さい」と

お願いされていました


担当者からの後日談で、パンダジュエリーの名前は

今となっては良かったと思いますと

良い意味で浮いていて目立ったそうです(爆) 


そして、内容についてもかなり濃かったようで

調べて書いたことも評価されました

その上、書き方が「おもしろい」、「読みやすい」、、、

おもしろいって…マジメな記事なんですけど 

素人記事が新鮮だったのでしょう


でもプロには絶対に書けない記事なんだそうです

なぜなら、プロはテーマに沿ってそれなりに上手にまとめるから


素人や研究者でないと、それだけに時間を割いて

徹底的に調べたり出来ず

数をこなさないといけないので、そこまでの記事は

書けないとか…なるほどね~


ありがたいお言葉に気をよくし 

どこまで出来るかわからないけど頑張ってみようかな


本日は、インパール作戦の軍医さんの講演会に

参加してきます

御年98才、大叔父より2つ上の大正5年生まれ

烈師団の軍医さんですが、貴重なお話が聞けると思います

なんだか敷居の高い学者先生達ばかりのような気がします

絶対に私は浮くと思います

怖いけど行くしかないですね、頑張ります



        2013.3.9


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ミャンマーに思いを寄せて 376

大叔父がビルマでイギリス軍と戦っていた頃


日本ではアメリカ軍による本土空襲が盛んに行われ始めた時期だろうか



祖父のお寺は比較的田舎にあったため空襲には遭っていない


近くに軍の飛行場があり、そこを攻撃するために飛来する飛行機を


見かけたくらいらしい



母はまだ幼かったため、戦争の記憶はほとんど無い


大叔父とのおはぎの思い出は、当時3才


終戦時期においても5才だ



大叔父の思い出の他には、母は大阪大空襲を覚えていた


いつの空襲かは分からないが


夜なのに、大阪の方向の空が明るくて真っ赤になっていたと話していた



また、飛来した機銃掃射のパイロットと目が合ったと豪語する


空襲警報が鳴り響く中


なぜか道の真ん中で飛行機が珍しく眺めていた母


大人に怒られて怒られて防空壕に引っ張り込まれたらしい



戦後は、進駐軍からのチョコレートが嬉しくてもらいに行ったら


祖父母にものすごく怒られたそうです



そんな幼い母の中に焼き付いた大叔父との最後の別れのシーン


おぼろげに残っている優しい優しい大叔父の面影


母は「りっちゃん」と呼ばれていた


きっと大叔父もそう呼んでいただろう


そんな大叔父も時代に翻弄され、帰らぬ人となった




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 375

英語が堪能だったから通訳としてビルマに行ったと言う


家族の言い伝えは、堪能だったかどうかは別として


あながちウソではないのではなかろうか



イギリス統治のビルマ


ミャンマー語の他は英語がまかり通っていたと言う


英語が話せる人が少なかった当時


偶然ビルマに投入されたと言うより、選ばれて連れて行かれた


そんな気がするのです




法政学部の科目を見ながら


大叔父はこんなにたくさん勉強をして


将来は何を夢見ていたのだろう


法政学部を出た人は、弁護士や検事になる人が多かったと聞く


卒業を目前に控え、大学を中退した大叔父


束の間、帽子屋さんに勤め、遠くビルマで散っていった


生きていたら私も会えただろう、会いたかったな





続く…



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ミャンマーに思いを寄せて 374

その他には、当時の各学部の科目や、その時間数の表もいただいた


大叔父の法政学部の科目に目を通すと


今の時代には無いであろう当時ならではの科目や表記もあった


・臣道実践

・支那経済史

・満州国制度論

・支那経済思想史                  など



外国書購読と言う科目においては


外国書購読ハ独書トス、但シ学生ノ志望ニヨリ英書ヲ

以テ独書ニ代フルコトヲ得。


とあった



大叔父の選択語学が何であったかは未だ不明だが


法政学部においては、国際法などの関係から


当時はあまりメジャーではなかった英語の可能性は大いにある




続く…



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ミャンマーに思いを寄せて 373

他に気になった箇所としては


【第八条】

本大学訓練ノ方法ハ主トシテ軍事教練ニ依ル。


【第九条】

学生ノ保健増進ヲ図ルタメニ医務局ヲ設ク。

毎年陸軍徴兵検査ノ標準ニ依リ

厚生ノ身体検査ヲ行フ。



大叔父の軍歴表の中にも


「昭和16年4月 中途退学の際、配属将校の行フ教練検定に合格す」



と言う一文があったことを思い出す


○○大学には、軍から派遣された軍人が2名常駐していた





続く…



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ミャンマーに思いを寄せて 372

大叔父の○○大学から送られてきた当時の学則類のコピーには


学費についても触れられていた




当時の○○大学学則の【第三十一条】によると


学部ノ授業料ハ一学年一百三十円トシ、左ノ三回ニ分納スベシ。



となっている



左とは



第一回 金五十円(四月十五日限)

第二回 金五十円(九月十五日限)

第三回 金三十円(一月十五日限)



であった



学費の他にも、校費など諸々とあったようである



【第三十四条】

授業料ノ納付ヲ怠ル者ハ其ノ事情ニ如何ニカ、

ハラズ学籍ヲ削除スルコトアルベシ。



昔のお金の価値が、現在の価値のどれほどなのかは


私には分からない


大叔父は7月に学費滞納と言う形で退学しているので


4月からの授業料を払わなかったと思われる




今の感覚で言うと、私学より国立の大学の方が学費が安かったのでは


ないかと思うのだが、当時の一般的な大学の学費表によると


私学の方が安かったと言う説もある


結局、払えなかったのか・払わなかったのかは不明



続く…



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ミャンマーに思いを寄せて 371

大学在学中までは、本籍は山形にあったことは分かっている


学生時代を京都の祖父の元(大叔父にとっては兄)で過ごし


退学後は大阪の帽子屋さんに勤め、兵庫で暮らしていた


その後、出兵までの間に本籍地を京都に移した気配はない


曾祖父の死亡と同時に、保護者である祖父の元へ


戸籍を移動したのかとも思ったが、曾祖父が亡くなったのは


戦後のことだったし、祖父の戸籍自体も本籍地は山形のままだった


出頭部隊というのは、どう言った基準で決められたのだろうか?




大叔父は、昭和18年4月に京都の伏見師団に入隊した


大陸へ渡るまでの間、曾祖父は何度も面会に行ったそうです


そして、大叔父から「祭師団で機関銃を撃ち通訳をする」と


聞かされたそうです




大叔父が通っていたであろう○○大学の広小路学舎は


昭和56年に閉鎖され、衣笠キャンパスに全面移転した


100年史担当の方は、「広小路学舎は忘れられない場所です。


引き続き、大叔父さんをはじめ当時の諸先輩の足跡を


たどってみたいと思っています。」と述べられ


1960年代の広小路学舎の写真も同封されていた




続く…



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ミャンマーに思いを寄せて 370

召集令状は本籍地の住所に送られたと言うから


大叔父への召集令状は、山形の本籍地の住所に送られたのか?



兵役法によれば、現役兵として入営すべき者が正当の事由なく

入営の期日に遅れ、戦時には5日を過ぎた場合には

1年以下の禁錮に処せられるとある

 

召集令状が届いて、出頭までの期間は僅かなので


本人が遠くに住んでいる場合は、家族は慌てて


電報で知らせたりしたそうです



大叔父の場合、山形から命令が来て、居住地で招集に応じた?


その場合、出頭先の部隊と言うのは一般的にどこなのだろう?


配慮されて居住地の近くなのだろうか?


。。。後に、召集令状が来た頃の居住地は京都でないことが判明する


しかし大叔父は、当初、京都の128連隊に入隊し


途中で、京都を出発する前に、60連隊に補充されている。。。




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 369

以前に大叔父の戸籍を取得した


母の戸籍までは何とか簡単に出してもらえたが


祖父の戸籍を取るのに手間取った


またまたここで、個人情報保護法の壁にぶつかった


祖父が取れたとしても、大叔父は祖父の兄弟のため


曾祖父までさかのぼって、その子供の大叔父の戸籍を取る


これは無理だと諦めかけたが、役所に事情を話して相談してみた



昔の戸籍は現在の戸籍と違う


現在の住民票と似ていて、同居する家族全員を


載せていたため、祖父の戸籍に大叔父が載っているのを


役所の方が発見して下さり、特別に大叔父の戸籍を出してもらえた




それらをいくら読んでみても、戸籍が京都に移ったことは出ていない


大叔父に限らず、祖父も曾祖父もそうだった


祖父においては、山形での出生の届け出の後


京都で婚姻届受理となっていた


それでも本籍は動かないのか?


そして、全員死亡の届け出は京都の役所だった


しかし、軍歴表があったと言うことは大叔父の本籍地は


京都だったことになる


現在と書き方が違うのか、、、?


昔はそんなに簡単に本籍地を動かせなかった?


動かしたくなかったからそのままにした、、、


普通と言えば普通だけど


祖父に関して言えば、若い頃からずっと京都住まいで


京都でお嫁さんをもらって、それでも山形が恋しかったのだろうか? 




続く…



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