ミャンマーに思いを寄せて

亡き母の思いを果たすべく、ビルマで戦死した大叔父の足取りをたどる私の奮闘記録☆

2013年06月

ミャンマーに思いを寄せて 420

おじいさんは懐かしそうに写真を眺めた

「この写真から何か分かりますか?」と聞くと

「これは、写真屋さんで撮ったもんや」と言う

なんでも、大学のすぐ側に、写真屋さんがあり

この背景は、大学構内を模した写真屋さんのスクリーン

「私もこの(背景)写真を何枚も持ってます」

その写真屋さんは、もうとっくに無いのだそうです



「これは何の写真だと思いますか?」と聞くと

「これは卒業の時の写真や」とキッパリ答えられた

…やっぱり

「あの頃、卒業=大人や社会人みたいな感じで

背広を着るのが流行ってたんですわ」

大叔父が背広を着ていると言うことは

大叔父の退学記念に撮った写真だ



ずっとこの写真を解明してきたが

アッと言う間に、解決したことに唖然とした

あ~だ・こ~だと当時を知らない者が推測するよりも

当時をご存じの方の生の声と言うのは、ほんとうにありがたく

貴重な物なんだと実感した

当時をご存じの方はもう少ない

早く調査をすすめないと、改めて思ったのでした




続く…



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ミャンマーに思いを寄せて 419

残された写真は、私には何1つ分からなかった

大学側にも、ここに一緒に写っておられる方で

ご存命の方がいらっしゃったらお知らせ下さいと

お願いをしてはいたが、音沙汰は無い



カメラからの線で、この写真を解明しようとキャノ○に依頼

当時のカメラ事情を教えてもらい

やはり専門の写真屋さんによる、きちんとした写真だとの見解



カメラに詳しい方からのご意見で

その当時、写真屋さんはそんなには多くなかっただろうし

写真屋さんを呼ぶこと自体、た安いことではなく

今の時代のように、気軽に撮る物でもない

何らかの記念に特別に撮った可能性が高いとのこと



そして、戦争に行く人の写真は

その後、遺影にして欲しいと言われることも多かったと推測すると

写真屋さんは、ネガを大事に保管していた

可能性が大いにあるとの助言で

旧大学敷地近辺の古くからの写真屋さんに

片っ端から問い合わせたが、この写真を撮った写真屋さんは

ついに見つからなかった



偶然とはいえ、大火から残った数少ない大叔父の遺品

約70年の時を経て、姪っ子のその子供の私へと

受け継がれたこの写真は、何を意味しているのか。。。



諦め半分で、おじいさんに見せたところ

思わぬ展開となった




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 418

おじいさんにずっと気になっていた

大叔父のもう1枚の写真を見せた

大学構内で撮られたと思われる写真


PICT0003






学生服と国民服と背広が混ざる時期

後に○○大学からいただいた学則の資料によると

大叔父が中退した昭和16年

この春に服装規則の改正があり、国民服が学則に盛り込まれた

ちょうどその頃に退学の記念に撮ったのではないかと推測した

※大叔父は後列中央で背広を着ている



そして、大学側からいただいた写真と

背景の壁紙の柄が同じだと気づき

大学構内で学友達と撮影した最後の写真ではないかと思われた

コピー ~ scan-31





↑大学側からいただいた写真



続く…



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ミャンマーに思いを寄せて 417

おじいさんに肝心の大叔父の話をした

写真を見せても軍歴を見せても知らないと言う

その中で、大叔父が○○大学の出身と知ると

おじいさんは驚きの声をあげた

なんと偶然にも、おじいさんも○○大学の出身者だった!!



おじいさんは、大叔父より2才年下

「いやぁ~、大叔父さんは大先輩やで」と、とても喜ばれた

おじいさんは経済学科で、大叔父は法政学科だった

おじいさんは、学徒出陣のほんの少し前で

半年以上短縮され、卒業と言う形で出兵した



大叔父は4回生の夏に中途退学していたが

約2年、学年や学科は違うものの同じ大学に通っていたことになる

その上、連隊内には大卒者も甲種幹部候補生も

ほとんどおらず、ましてや同じ大学出身者であれば

絶対に知らないはずがないとハッキリおっしゃった



そして、おじいさんは、60連隊の甲種幹部候補生の

担当教官で、集合教育に携わっておられた

何度も豊橋に帰り、その都度、後輩の教育をしたと言うのだ



それが、終戦前のいつ頃の時期までだったのかは不明だが

大叔父の経歴を見る限り、知らないのはおかしいと

「私はボケてまへんで」と、しきりに首をかしげるのでした



続く…



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ミャンマーに思いを寄せて 416

先ほど、烈師団の独断撤退の話が出たので

私の個人的な考えを言わせていただくと

確かに、烈の師団長は部下思いで英雄視されており

上官の命令を無視したその決断は

当時においてはなかなか出来る事ではない

そのおかげで命が助かった方も大勢おられる

実際、あの状況で作戦を続行することは

より一層の損害を生み、難しかっただろうとは思う



一方、一緒に作戦を遂行していた祭師団としては

気がつけば、隣の師団が独自に撤退していた

取り残され、かなり驚き、慌てたのではないだろうか

たまったもんじゃないと言いたかったかもしれない

補給を軽視した作戦の失敗により

烈師団としては、撤退止むなしに至ったのだろうが

祭師団としては貧乏くじを引いた形となった

その結果、有名な「白骨街道」と呼ばれた悲惨な状況は

必然的に祭師団に集中したとのことだった



おじいさんとの会話で特に印象に残っているのは

「大叔父さんのお仏壇には、山盛りのご飯をあげて下さい」



私はメイミョウの病院の看護婦さんだったおばあさんから

「その時分(大叔父が亡くなった時期)のメイミョウの病院には

食べ物も薬も十分にあり、大叔父さんはお腹をすかせて

亡くなったのではないので安心して下さい」と言われたと言うと

「マラリアと言う病気は、熱が出て食べ物が食べられへんのです

熱が下がっている時も、倦怠感がひどく、弱っていく

病院で出る食事は重湯程度、十分には食べてません」と

おじいさんは語る



メイミョウの看護婦さんだったおばあさんは

ウソを言われたのではないと思うが

私を安心させたかったのでしょう

大叔父は病院と言う恵まれた環境での最後だったが

お腹をすかせていたのだろうか。。。

現実を知り、正直ショックで涙が溢れそうになった

大叔父さん、今まで気付かずにごめんね




…続く



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ミャンマーに思いを寄せて 415

お食事もそこそこに

おじいさん達からお話しを伺った

大叔父の写真を見せて回ったが

誰もご存じなかった



ビルマにもインドにも、60連隊の慰霊碑はないのだそうです

昔々に、コヒマ付近に木の慰霊碑を建てたなどの話も

あったような・なかったような。。。

今となっては、現地に行くこともなく分からなくなっているようだ



60連隊は、本隊は祭師団、1大隊だけ弓師団に臨時編入

それぞれの持ち場で戦った



それぞれ行く先々で大きな損害を受けながらも

60連隊自体は最後まで玉砕とは言わなかった

大叔父の1大隊においては残り20名足らずになっても

弓師団から玉砕とは言わせてもらえなかった



撤退命令が出てからは、本隊の祭師団は

先に独断撤退した烈師団が帰った道を壊走したため

何1つ食料がなかったとの見解もあった



どこかで固まって玉砕したのではなく

散り散りに消滅して行ったため、慰霊碑がないのだろう




…続く



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ミャンマーに思いを寄せて 414

ホテルの会食場に向かい、若手は歩きで移動した

会長さんは、お父様をビルマで亡くしておられた

生まれたばかりの会長さんを置いて

出兵されたお父様はどんな気持ちだったのだろうか。。。

もちろん、会長さんはお父様のことは覚えておられない

しかし、今もこうやって、率先して慰霊を行っておられる

お父様への想い、ビルマに対する想いは

私には計り知れなかった



その他の方も、親を亡くされた遺族だったり

復員された方の娘婿さんだったり

奥様だったりと、色々な遺族さんがおられた

その中でも、私は大叔父の遺族

遺族と言うには申し訳ないくらいの遠縁に当たった



今頃、遺族会に参加したいと申し出た「若い人」として

かなり珍しかったようで、皆さん興味津々と言ったところか

祖父のお寺の地域の役場に勤めておられた方もおられて

大叔父の名前を聞いて、お寺の名前を出すと

信用して下さったようで、とても親切にして下さった



しかし、戦友さんを除き、皆さん遺族のため

ビルマの話や、戦争のこと自体あまりご存じない様子

戦史についても今ひとつ興味がないようでした



私のように、全く知らないところからやっと辿り着いた者と

生まれてからごく自然に慰霊に携わってこられた方達との

取り組み方では、また少し違うように感じた




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 413

情報提供者の方々にもお会いすることができた

お2人のうち、お1人が60連隊の遺族ではないが

この遺族会と深く関わっておられて

もう1人の方も影響を受けて

現在、お2人はボランティアで、ここの慰霊碑の清掃をし

維持しておられる

当初は、草がボーボーで、落ち葉が堆積し

トラック何台もの落ち葉を搬出されたそうです

お若いのに、なんと素晴らしい人達なんだろう



そして、このブログを見つけて下さって

遺族会をご紹介いただき、この日を迎えた

どれほどお礼を言っても足りないほどの感謝です



ブログで数度メッセージを交わし

何度かお電話でお話しをしたりしただけだったが

旧知の友に会ったような、そんな気分だった



残念ながら、会食には参加されず

霊山観音の前で、お別れした

ほんとうにありがとうございました

PHOTO093 (2) - コピー









続く…



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ミャンマーに思いを寄せて 412

ひととおり慰霊祭が終わった頃

会長さんらしき人にご挨拶に行った

皆さんに紹介していただき、自己紹介もした



そのまま慰霊碑の前で歓談となった

参加されていた戦友さんは、4名ほどだった

それぞれ歩兵60連隊出身者ではあったが

どの方も大叔父のことはご存じではなかった



「1機のことは○○さんに聞いたらええ」と口をそろえて言われた
※1機=第一大隊機関銃中隊

○○さんとは、先日お電話でお話しした大叔父と同じ中隊の

最後の生き残りのおじいさん

90才を超えているようには見えないくらい

若々しく、お耳もしっかりとしたおじいさんだった


PHOTO075 - コピー







冷え冷えとしたベンチでは、長話も何だからと

会長さんのご配慮で

その後、ホテルで行われる会食にお誘いいただいた

私は、喜んで参加させていただくこととなった




続く…



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ミャンマーに思いを寄せて 411

受付で教えてもらったとおり

霊山観音の右の奥

少し上った細い小径沿いに旧軍の慰霊碑がある

その中に、60連隊の慰霊碑もあった

10人くらいの方がいらっしゃって、すぐに分かった



もうお坊さんが来られていて、慰霊祭がまさに始まろうとしていた

後ろの片隅に、そっと参列した

数人の方に声を掛けられ、遺族だと言うと

お焼香の列に進むよう促されて

初めて目にする60連隊の慰霊碑に手をあわせた



立派な石で造られた慰霊碑だった


PHOTO059






PHOTO065









続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 410

2012.1.2

京都の歩兵60連隊の慰霊祭に参加させていただいた

通称:60会

時折小雨の混じる寒い京都の町

60連隊の慰霊碑は、霊山観音にあるらしい




「霊山観音」と書き、「りょうぜんかんのん」と読む

知らずにタクシーの運転手さんに「れいざんかんのん」と伝えたが

すんなりと近くまで連れて行って下さった

京都東山五条くらいに位置するこのお寺は

少し高台にあり、高さ24mもある大きな観音様で有名




霧のような氷雨のような、滑りそうな石畳を必死に歩き

入り組んだ京都の小径からは、見えなかったが

近づくと、立派な観音様が急に出現する




宗派はよく分からなかったが

殉国の英霊並びに大戦による犠牲者の冥福を祈念するため

昭和30年に個人により建設された新しいお寺のようです




入り口で拝観料を払い、大きく太いお線香をいただいて

池をグルリと回り、観音様にお線香をあげてから

60連隊の慰霊碑を探した




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 409

年末恒例の全ビルマ会の忘年会に参加した

お酒も入り、おじいさんたちの語りも熱くなる

昨年は、ほとんど時間が無く、初参加で控えめにしていたが

遠慮していても「次は無い」かもしれないを頭に

今回は、積極的におじいさん達と交流しようと思った



全ビルマ会は、戦友会から、遺族会になりつつあった
 
おじいさん達は、もうご高齢で

仕事はあまりできず、若い遺族が実務を執り行っている 

それはしかたのないこと

実際、費用的な部分も含め

昔気質のおじいさん達の希望には

添えない部分もあるかと思う

その結果、不平不満は付きもので

おじいさんが遅刻などをしてくるとボケたのだとか

嫌味のようなことを平気で言う遺族の方に

私はとても嫌な印象を受けてしまった 

それは、おじいさん達との長い間の信頼関係の上の

慣れごとなのかもしれない

どちらも真剣に全ビルマ会の今後を考えているため

言い合いのケンカも時々見かけた

 

しかし、実際にビルマで戦ったのはおじいさん達で

親族をビルマで亡くされご苦労されていても

遺族は遺族であって 、おじいさん達のビルマ会だと私は思う 



おじいさん達も大好き

遺族の方々も私には優しい

自分も遺族の立場にあり

。。。なんとも言い表せない気分となり
 
それから、なんとなく会合に行き辛くなってしまった 




続く…




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ご挨拶

読者の皆様へ


いつも読んで下さりありがとうございます

お話も400話を超えて、自分でもビックリです

開始当初、すぐに終わると思っていた大叔父の調査

それが難航し、気がつけば400話を超えてしまいました



おかげさまでブログランキングも戦史のカテゴリでは

いつも上位をキープしております

…と言っても、参加人数が少ないのですが(笑)

大勢の方の目にとまることで

大叔父の情報が少しでも得やすくなるように願っています

また、雑誌での連載に優位となり

より一層の情報収集に役立つとの思いもあります

ミリタリー雑誌「丸」での続編連載時期は、今のところ未定です

更に、いつか、調査が完遂した際、この話をまとめ

本にしたいなとも思っています

まだ全く完結の気配はありませんが

今まで書き残したこの大量の奮闘記は

大げさですが、今となっては私の宝(?)かもしれません

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現在の状況ですが、調査は全く進展していません

大叔父が60連隊に存在しなかったことをきっかけに

調査は暗礁に乗り上げてしまいました



何人もの方に見ていただいた見解で

戦後、改ざんされている可能性大の、おかしな軍歴表

それはいったい何を意味しているのか?

大叔父はいったいどこにいたのか?

謎だらけで迷宮入りしかけている、大叔父の軍歴



もう一度、ここで今、公に残っている

大叔父の軍歴をお知らせします

何かご存知の方はメッセージ下さいm(_ _)m



神居 達(かみい とおる)

軍曹(甲種・幹部候補生)
※指定を受けてから昇進中に戦病死したと思われる

大正7年生まれ

歩兵 (出身別 補充兵)

昭和17年12月1日 第一補充兵役 

昭和18年4月20日 臨時招集有り

歩兵第128連隊 応招

第一機関銃中隊

歩兵第60連隊補充交代要員として出発

第60連隊第一大隊機関銃中隊 



昭和18年7月23日  下関 →釜山

      7月26日  山海関

         同日  中支那において上海南京蕪湖付近ノ警備 

      12月29日  揚子江→ビルマのメサイ 

昭和19年5月24日 インド・アッサム州テグレパール→メイミョウの病院

      7月24日 戦病死

死亡場所 ビルマ国サガイ州・明妙(メイミョウ) 第一二一兵站病院 

病名 アメーバー赤痢、兼マラリア 

※インパール作戦参加
歩兵60連隊の第一大隊は、1個大隊だけ
本隊の祭師団ではなく、弓師団の山本支隊に編入された



通訳として従事していたと家族から伝え聞く

それがほんとうかどうかは不明だが

通訳だった場合は、山本支隊本部もしくは弓師団本部で

勤務していた可能性がある



しかし、私の立てた仮説は、そうではない

特務機関の一員として、インパール作戦に参加していた

可能性が高いと判断している



どんな仕事をしていたとか、そんなことはどうでもいいのです

そんな人はいなかったと言われる大叔父が不憫でなりません

大叔父をご存じの方にお会いしたい

もしくは、大叔父がほんとうに存在した記録が欲しい

私の望みはそれだけです

どうかどうか皆様、何卒ご協力下さい



                  2013.6.14      


ミャンマーに思いを寄せて 408

情報提供者のお言葉添えもあり

歩兵60連隊の遺族会の会長さんは

私の参加を快く受け入れて下さった

お電話で軽く事情を説明し

お正月の慰霊祭には私も参加させていただくこととなった

もう戦友さんの参加数は少ないらしいが

今もしっかりと60連隊の慰霊が

定期的に行われていたことに安堵した



同じ中隊の最後の生き残りのおじいさんは

大叔父のことをご存じなかったが

もしかしたら他の方はご存じかもしれない

早くお正月が来ないかと

子供のようにワクワクと年末を過ごした



続く…



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ミャンマーに思いを寄せて 407

大叔父は中隊にはおらず、他の勤務先にいたのではないかと

中隊最後の生き残りのおじいさんは言われた

では、大叔父はどこにいたのだろうか?



通訳を必要とするのはどこだろう。。。

連隊もしくは師団クラスであれば

通訳を必要としたかもしれない

しかし、60連隊本部と祭師団が通った場所には

大叔父が通ったとされるテグレパールと言う地名は無い

テグレパールを通ったのは、弓師団

弓師団の山本支隊に編入されていた60連隊の第1大隊

だったからこそ通った地名と言えよう



大隊にもいなかったのなら

山本支隊本部や弓師団の本部などで

勤務していた可能性が出てくる

それはどこで誰に聞けば確認できるのだろう?

全てが振り出しに戻ったような気分で私は途方に暮れた



しかし、写真を見せたらもしかして思い出して下さるかも

お正月に60連隊の慰霊祭が京都であるので

そこでお会いする約束をしてお電話を切った

僅かな可能性に期待をして、その日を楽しみにした

どうかどうか、それまでお元気で!



続く…



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ミャンマーに思いを寄せて 406

しばらくすると、おじいさんが

「何か特技のようなものはなかったですか?」と聞かれた

通訳をしていたと聞いていますと言うと

「それやっっ!!」と言われた



特技のある人は、それを生かすために

所属とは別の勤務地で、それぞれの職務に就くことが

あったのだそうです




要するに、大叔父は60連隊の1大隊・機関銃中隊の

所属だったが、仕事場は中隊ではなく別の所だったため

中隊にいたおじいさんは、大叔父を知らなかった

のではないかと言うことだった



そう言ったことは珍しくはないようだった

1人、納得のいったおじいさんとは逆に

中隊最後の生き残りのおじいさんを探し当て

やっとここまで来たのに

中隊にそんな人はいなかったと言われて、、、

私はとても落胆した




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 405

大叔父の軍歴表を見ると

インパール作戦からの投入組ではなく

その前の中国に駐屯していた時から60連隊に

いたことになっている

そのおじいさんとも、半年くらい中国で一緒に

穏やかな時を過ごしていたことになる



おじいさんは、それならばなおさら知らないはずがない

「1機にいた人は全員知っています」と

不思議がっておられました。。。

※1機=第一大隊機関銃中隊



大叔父の最終階級は軍曹

戦病死した者でも特別昇級したとすると

連隊にいた頃は軍曹でなかった可能性が高い

そのことも合わせて伝えたが

階級うんぬんではなく、おじいさんは

ほんとうに大叔父のことをご存じない様子だった




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 404

一番肝心の、大叔父の件ももちろん尋ねた



おじいさんは、同じ中隊なのにご存じなかった

大叔父は珍しい名前なので、漢字も伝えたが

分からないと言う



おじいさんがボケておられるのじゃないかしら?と

少し不安になったが

おじいさんも甲種幹部候補生から士官に上がった人

大叔父より2才年下だが、大叔父は入隊が遅かったため

軍歴上は、大叔父よりやや先輩にあたる



終戦間際には、甲種・乙種共に

幹部候補生と言うのは増えたそうだが

インパール作戦が始まる以前の頃は、まだ少なかったようで

特に甲種は少なく、連隊に数名しかいなかったそうです

「いたら絶対に知っている」と言われるのです




続く…



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ミャンマーに思いを寄せて 403

亡くなっていった戦友を忘れたことはない

それだけの絆があると言う

今あるのは、死んだ戦友が守ってくれているからだとも



日本に戻ってから、何度も何度も慰霊されたそうです

インドの山は、もう年老いた体では歩けない

お寺に頼んで供養してもらっている

今も軍事恩給は供養のために使っていると話された



国は何もしてくれないと、もらすおじいさん

「靖国になんか絶対に帰ってない

「そんなのを信じて死んでいった者はいない」と。。。

あくまでおじいさんの個人的な意見ではあるが

靖国で会いましょうの合い言葉は

当時の人達にとって、ほんとうはどんなものだったのか

現代に生きる私には、分からなかった



続く…



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ミャンマーに思いを寄せて 402

おじいさんは、戦場で戦友が亡くなっていくのを

たくさん見てきた

その中でも、鮮烈に残っているのが。。。

イギリス軍が、戦場の日本軍の遺体に

ガソリンをかけて焼くのを見た時のこと



遺体ではなく、残された負傷兵も生きたまま焼かれて死んだ

川の向こうで、息を潜めてその様子を見ていた

見ていたと言うより、見ることしか出来なかった

悔しくて悔しくて大声で止めろと叫びたかった

しかし食料も無く、弾薬も何もない日本軍

かろうじて、銃を撃ったとしても、自分たちの場所を悟られ

撃ち合うだけの弾薬は無かった




おじいさんは「イギリス紳士なんて言いますけど、あいつら紳士

なんかじゃおまへんで」と怒る

助けてあげたかったと言う無念さが伝わってくる



イギリス軍の戦場清掃のやり方として

死体を焼くと言うのは一般的な方法だと言う説もある

特に熱帯地域やアジアにおいては

遺体を放置した場合、疫病の発生の懸念があるため

そうしたとも取れる



だが、息のある者にまでそんなことをされ

それを目の辺りにしたおじいさんには当然許せなく

憎しみだけが残ったのだ



また、グルカ兵などは、ククリやグルカナイフと呼ばれる

刃物で、まだ息のある日本軍を刺し殺していたと

60連隊の書物で読んだ



酷いことをするもんだ、、、

私が思うに、移動がままならない負傷兵であっても

最後まで戦う不屈の精神のある日本軍は

彼らにとって脅威だったのではないだろうか



亡くなった戦友をどうすることも出来ず

道路の真ん中にほったらかしてきてしまった

お経もあげられず、土にも埋められずスマンと思う

と、おじいさんはつぶやいた



続く…



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ミャンマーに思いを寄せて 401

おじいさんの話は、止めどなく続く



川幅300m級の川を立ち泳ぎで7度ほど渡った話

陸軍士官学校出身者はアホばかりとも言っておられた

(↑おじいさんの個人的な主観ですお許し下さい)



戦闘中におじいさんは同じ中隊の人を助けた

その人からは、命の恩人だと感謝され

戦後も深くお付き合いが続いたそうです



その方は、戦後、某有名下着メーカーの社長さんになった

私でもお名前を知っている有名人だ

60連隊の慰霊活動に尽力され

慰霊祭の時などには、かなりの浄財を提供された

「忙しいから取りに来てくれ」と言われて行くと

何百万円も渡されたとおじいさんは語る

確かに、情報提供者からいただいた資料の中に

昔の慰霊祭のパンフレットなども入っていたが

オールカラーの冊子で、まだ参加者が多かった時代

とても立派な慰霊祭が盛大に行われていたようだ

なんとすごい戦友会なんだろうと驚いたことを思い出す



その方も現在は亡くなられ

息子さんの代になってからは

さすがに寄付も頼めないと言われていた




続く…



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ミャンマーに思いを寄せて 400

おじいさんは、マラリアにかかった戦友の面倒を

率先して看たそうである

マラリアにかかり食事がままならない人にも

配分される食事、戦友は「食べていいよ」と言ってくれた

おじいさんは、それをありがたくいただいたそうである



おじいさんも途中で栄養失調になり病院に入院した

しかし、病院では重湯をくれるくらいで

毛布なども不足しており、死んでいる人の毛布を取って

寒さと飢えをしのいだが

このまま入院していたら反対に死んでしまうと思い

病院のバリケードをくぐって逃げ出した



現地では、お金持ちの家は精米した白米が出てくる

貧乏な家は、餅米の焼き飯が出てくるので

お金持ちの村長さんの家などを目指したそうです



その後、お寺に入門

そこで「お経は唱えられるか?」と聞かれ

般若心経を唱えたところ

ビルマでお坊さんとして出家し、かくまってもらうことが出来た



ご馳走をいただいたが、それまで飲まず食わずの体は

食べてもすぐにお腹が下ってしまい受け付けないのだそうです

おじいさんは、しばらく療養し、その後また戦場に戻った

私は思わずビルマの竪琴の映画のようですねと言った



続く…



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ミャンマーに思いを寄せて 399

おじいさん自身も栄養失調で

夜は鳥目で見えなかったそうです

マラリアには中国に入ったときにかかり

何度も発症したが、免疫が付き慣れた

国内に帰国してからもマラリアが出たと話しておられた



60連隊は、ビルマ入りする前は中国で展開していた

中国での期間を「平時」と呼ぶ人もいるくらい

平和なひとときだったようである

そこで、マラリアにかかっても治すことが出来た

しかし、ビルマ戦線から急に参戦した補充兵などは

免疫もなく、劣悪な状況下で

食べ物が食べられず弱って死んでいった者が少なくない

大叔父もそのうちの1人だったのだろうか。。。

しかし、大叔父は中国での赴任期間もあったのに。。。



続く…



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ミャンマーに思いを寄せて 398

日本軍は、弾薬や食べる物が尽きた

当初の計画のジンギスカン作戦

連れて行った馬も途中で栄養失調で死んだ



出発当初は、携行していった食料の他

現地で米を調達していたようである



当時のことをまとめた資料によると

弓師団に配属された60連隊の1大隊は

祭師団の本隊よりも、数回、僅かだが食料などの

補充があったようである

塩、粉味噌、粉醤油、乾パン、塩干魚など



それらはすぐに尽き果て

バナナの葉や幹を塩もみして食したり

川でタニシを拾ったり

野草を食べて飢えをしのいだ



偶然、風に乗り辿り着くイギリス軍の落下傘の荷物

それをチャーチル給与と呼び、死にものぐるいで拾いに行く

落下傘には色の目印が付いていて

色ごとに弾薬だとか、食料だとかに分類されていた

食料の場合は、中にはアルミホイルに包まれた

焼きたての熱々のビフテキや

熱々のコーヒーが入っていたと、おじいさんは語る

日本軍は草木で飢えをしのいで

神風などと言いながら、精神力で持ちこたえていた頃

イギリス軍はなんと良い物を食べているのだろうと

思ったそうである



続く…



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ミャンマーに思いを寄せて 397

おじいさん自身も何度も死にかけたそうです

しかし運良く戦友に助けられたりしながら

戦火を物ともせず、果敢に戦った

大切な戦友が目の前で一瞬にして死んでいく中

数cm違うところにいたら、自分が死んでいただろう

生と死の際をくぐり抜け生き残った



中でも思い出すのが

三重県・伊勢の赤十字病院の外科のお医者様

この方は、軍医さんではなく一般の招集の兵隊さん

おじいさんが被弾した際に、たまたま側にいて

すぐに処置をしてくれて

おじいさんは、その方のおかげで命拾いした

その直後、目の前でその方は撃たれて亡くなった

胸のポケットにしまってあった家族の写真を

大事に遺品として持ち帰り、本国に帰った際に

奥様に報告とお礼をしに三重まで行ったそうです



続く…



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ミャンマーに思いを寄せて 396

情報提供者のご紹介で、大叔父と同じ中隊の

最後の生き残りの91才(2011年当時)のおじいさんと

電話で2時間もお話した



戦友さんとの電話で、大叔父の歩兵第60連隊第一大隊機関銃中隊は

悲惨な結末を迎えたのだと知った

資料や本で読んで、それとなく知っていたものの

生の証言は、それらとは比べものにならなかった



話の内容が、あまりにも悲惨で、ボロボロ泣きながら。。。



大叔父が病院に搬送された日

大叔父の歩兵60連隊第一大隊機関銃中隊は玉砕したと聞く

120名余りの中隊は、生き残り僅か3人だけ



中隊長は 真崎幸男 中尉

この方は、有名な?将軍さんの息子さんだとか

最後は、射手のいなくなった機関銃を自ら撃ち

突撃をして名誉の戦死を遂げられた



続く…



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ミャンマーに思いを寄せて 395

全ビルマ会に参加する度

おじいさん達から元気をいただく



おじいさん達は単に昔話を懐かしがって

語っておられるだけではない

国のために命をかけて戦って

激動の時代を生き抜いた誇りは今も健在だ



そして今なお、真剣に日本の将来を考え

行く末を心配され、若い世代に発信され続けている



のほほんと平和な時代に生まれ育った私などは

足下にも及ばないほどエネルギッシュだ

では私に出来ることは何か?

このブログでおじいさん達から聞いた

貴重なお話を綴るのも、その1つ



そんな使命も感じつつ、自身の記録として、そして

大叔父の調査の情報収集の場として

続けられているのかもしれない



続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 394

その全ビルマ会の席でいつも気になっていることがあった


おじいさん達の中に、逃亡兵だと自分でおっしゃる方がいる


上官が部下の命を何とも思わない人だったとか


無茶なことばかり命令され


このままこの人の下で戦っていたら死んでしまうと思い


脱走したのだと、今は笑って話されていた


昔々のことなので、もう時効だもんね




…しかし、おじいさん達の中では今も兵隊としての


誇りは生きている(と言う風に私は感じ取っている)


会合の席順も、暗黙の序列があり


それは当時の階級だと言う説もある


終戦時に初年兵だった方は、当然その後の後輩はいない


今でも1番下っ端のままだと笑っておられる




自称:脱走兵の方は、なぜか、いつも


皆さんの輪に入っておられないような気がしていた


戦友さんと遺族に分かれた会場で


偶然かもしれないけど、脱走兵の方は


戦友さんの会場ではなく、遺族の会場におられた


もしかしたら今もなお、何らかのわだかまりがあるのかなと


ふと思ったのでした



続く…



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