ミャンマーに思いを寄せて

亡き母の思いを果たすべく、ビルマで戦死した大叔父の足取りをたどる私の奮闘記録☆

2013年08月

ミャンマーに思いを寄せて 478

先ほど、文中に出てきた会長さんとお食事会の話を

ブログに書き忘れていたため、書いておきます



2011年GW

2月にミャンマーに行った後、分からないことが多すぎた

現地で会長さんが、皆に話されていたことも詳細が知りたかった

全ビルマ会の集まりに参加しても、会長さんはいつも大忙し

なかなか話を聞くことも出来なかったので

個人的にお食事会に誘ってみた




いつもお世話になっている軍事関係に詳しい人や

そのお連れさんや私の家族など

おじいさんを囲んで皆で食事した




私はこの時まで、会長さんの経歴を知らなかった

お話しぶりから軍医さんなのかなと思っていたが

防疫給水部の薬剤将校だったと知った

薬剤将校は師団に3~4名くらいいたそうです

防疫給水部と言えば、731部隊などで有名だが

会長さんは石井四郎中将には会ったことがないと言われたが

辻政信大佐には会ったことがあるよと楽しそうに話しておられました




お食事処の個室では、まだまだ熱い熱い話に花が咲いた




続く…



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ミャンマーに思いを寄せて 477

ここで会長さんの経歴についても軽く触れておきます
 


大正8年 石川県生まれ

昭和15年   金沢医科大学卒業

昭和16年   陸軍軍医学校で学ぶ

昭和17年   第18師団(菊)の防疫給水部の薬剤将校として
         マレーからビルマへ転進

         ビルマでは、フーコンの戦い、イラワジ作戦
         メイクテーラの戦いに参加



防疫給水部の所属の人は元々少なく

現在もご健在の方となると、とても貴重な存在のようだ




ツテを頼りに、彰古館の見学手続きを無事に済ませ

こちらの事情も説明し、力になって下さるようだった

そして、会長さんの同行をとても喜ばれ

「是非、お会いしたい」と言われていた




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 476

自衛隊の衛生学校内にある医療の資料館

「彰古館」に見学の申し込みをすることにした

自衛官の他は、一般人の医療従事者、研究者、学生など

にしか公開されていない施設




どんな資料があるのかは分からないが

珍しい貴重な物がたくさんあると聞いていた

中には、防疫給水部で使われていた

宇治式(石井式)の浄水濾過装置もあるとか

以前から1度は見てみたいと思っていた




防疫給水部と言えば、全ビルマ会の会長さん

(このブログでは副会長の時からよく登場されています)が

所属なさっていた所だ

会長さんも誘ったら喜ばれるかも

昔に使っていた濾過装置を見ることが出来たら

懐かしく思われるかも

詳しい説明も聞けるかもしれない

早速、会長さんに連絡を入れることにした

会長さんとのお出かけは、昨年のGWのお食事会以来だ

とても楽しみとなった



続く…



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ミャンマーに思いを寄せて 475

防衛研究所の資料から

今まで知らなかったことがずいぶんと分かったが

大叔父個人のことは、全く分からない

軍歴表を洗い直して、兵站病院のことから調べると言う提案は

どこに行けば調べることが出来るのだろう?




兵站病院関係の記録…

現在の自衛隊の衛生学校と言うところに

旧軍の医療に関する資料館があると聞いたことがあった

もしかしたら何か分かるかもしれない

まずは、その資料館について調べてみた




東京都世田谷区にある自衛隊三宿駐屯地の中に

彰古館(しょうこかん)と言う資料館がある

自衛隊中央病院や衛生学校も敷地内にある




軍事医療の史料を収集・展示している

全国でも希有な医学情報史料の公開施設

自衛隊衛生科職種の他、各職種の自衛官の教育資料として

整備されたもので、一部は一般の医療従事者、研究者、学生などにも

公開されている




ここならば、何か分かるかもしれない




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 474

防衛研究所の資料には、他にも興味深いものが散見された




「師団から機関銃・小銃で敵機を撃墜せよ」


「下士官で敵機を撃墜した者は2階級昇進」と言う御達示が出ていた


全ビルマ会のおじいさんからも、この話は聞いていたが


ほんとだったんだと驚いた


飛行機って、機関銃や小銃で墜ちるのだろうか?





その他には、「医務室内報」 昭和19年1月16日 松村部隊医務室
※松村部隊とは、60連隊のこと


と言う文書では、マラリア再発絶滅規定 治療に関する補足として


「治療中「アグナミン」錠のセル場合1個(←原文そのまま)


塩規錠3個、ヒラノミン錠3個、重曹錠3個


右1日量14日間連続服用する」


とあった






まだ薬などがあった頃には


きちんとマラリア用の薬が処方されていたんだなぁと思った


おじいさん達は、マラリアはビルマでは


風邪と同じくらい普通の病気


マラリアは皆かかる、何度と繰り返すと免疫が付くと言っていた


でも現代ではすごい病気だ





大叔父も、薬や食料がある戦場だったら


もしかしたら助かったかもしれない


飢餓状態の体には、マラリアとアメーバー赤痢は


とてもきつかったのだろうなぁ。。。




続く…


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ミャンマーに思いを寄せて 473

大叔父の軍歴表は、こう書かれている


昭和18年7月23日  下関

         同日  釜山

        26日   山海関

         同日   中支那において上海南京蕪湖付近の警備


              揚子江


     12月29日  ビルマ・メサイ



確かに、60連隊は蕪湖付近に駐屯していたことはあるが

いつ頃までか把握できていない

先ほどの60連隊の行動が確かならば

大叔父が中支那(中国)に着いた前日に

連隊は呉港を出発していることとなる…???

中支那に60連隊はいないのに、大叔父は中支那に行って

蕪湖付近の警備をした???




以前に、大叔父の軍歴表を見た60連隊のおじいさんから

インパール作戦の「後発組だな」みたいなことを言われたことを思い出した

60連隊は分かれて移動したのだろうか?




それまで中支那(中国)では、寒冷地の服装だったために

衣替えなどの準備のために、日本の呉に立ち寄って

連隊の主力だけ先に、南方に移動したのだろうか?

大叔父は、中支那の撤収要員として送り込まれたのだろうか?

分からない。。。調べることがまた増えた




…続く




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ミャンマーに思いを寄せて 472

それから翌々日も、防衛研究所の資料閲覧室に行った

歩兵60連隊の動きの細部を確認した



昭和18年7月25日   呉出港
              輸送船8隻により、駆逐艦6隻の護衛の下、仏印に向かう

      8月8日   仏印サイゴン

      9月5日   サイゴン出発

         9日   プノンペン通過

        12日   タイ国バンコク着

     10月17日      〃          発

     11月10日   タイ・ビルマ間のケンタン道路作業

     12月上旬   タイ・ビルマ国境通過

        31日   ビルマ・メイミョー通過

昭和19年1月1日   ビルマ・マンダレー通過

      6月末    山内師団長解任



と書かれていた。。。

しかし、大叔父の軍歴表と重ね合わせた時、何か変だと気付いた




続く…



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ミャンマーに思いを寄せて 471

憲兵隊にでもなく、特務機関にでもなく

清水中尉個人に任務を与えたのには

色々なケースが考えられる



山本支隊長の回想録には

「ビルマ人の中に、イギリス軍に通報する者がいた」とも書かれていた

そのため、そのビルマ人への情報源として

知ってか知らずか利用されている自分の隷下の日本軍の誰かを

見つけ出したかったのではないか

憲兵隊や特務機関に知らせることはたやすいが

大事に至ったり、自身の管理責任にも発展しかねないため

内密に調べていたのではないかと推測する



この清水中尉の場合

山本支隊長から、特別な任務を与えられたとしても

きっと軍歴表には、何も書かれておらず

元の部隊で勤務していたこととなっていただろうと思う

任務の期間は定かではないが

もし長期化した場合、元々の部隊の人には

「そんな人は知らない・いなかった」と言われるんだろうなぁ



大叔父も、60連隊にはいなかったかもしれないが

きっとどこかで勤務していたに違いない

大叔父は、いったいどこにいたのだろう。。。



続く…



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ミャンマーに思いを寄せて 470

先ほどの清水中尉の話は、私にとって

とても興味深いものだった

しかし、諜報活動と言う、やや聞きなれない言葉や

疑問が多く、整理してみた



まず、なぜ身分を中尉から兵長に偽らなくてはいけないのか?

情報収集する際に、将校だと

気を遣われたり、建前で話されたり、警戒されたりする可能性があるが

下士官の普通の若者だと、ざっくばらんに本音で話してくれたり

警戒されにくいためだと考えた



そして次に、潜り込んだ駐屯部隊は、同じ日本軍なのに

なぜその人達にまで階級を偽る必要があるのか?

昔の軍隊は、階級の差が、とても厳しく

下士官は、おいそれとは将校と話が出来なかったため

内部から情報を得ようとする場合は

下士官に成りすます方が便利だったと言うのも、あるのかもしれない

もしくは、身内の日本軍の誰かを疑ったため、油断させるとか???



だが、そもそも、支隊クラスともなれば

情報幕僚がいたり、情報部のような部署があってもおかしくないはずで

清水中尉の任務は、本来ならば、憲兵隊や特務機関の仕事ではないか?

なぜ、清水中尉個人に、その任務を与えたのかしら???

様々なケースが考えるが。。。




続く…



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ミャンマーに思いを寄せて 469

もしかしたら大叔父の名前が出て来ないかしら。。。

大叔父の苗字は珍しいので、出てきたら分かるのに。。。

淡い期待をいだきながら読み進むのだが

残念ながら、もちろん回想録には、大叔父の名前は出て来なかった

しかし、その中で、ふと気になる記述を発見した




清水中尉と言う方が支隊長のお側ににおられて

「英語が堪能」だったことから、階級を兵長(下士官)と偽って

「通訳」と言う名目で部隊を離れさせ

諜報活動(情報収集・スパイ行為)させていたと言う話があった




「求め難い諜報勤務の適任者」と書かれており

一般の部隊には、諜報活動が出来る人の配置は

なかなかなかったのだろうか?

この清水中尉は25才の青年で、モーライクと言う所に

駐屯していた部隊に紛れて、そこを基点に活動されていた




大叔父の場合も「通訳」だと家族は聞いているが

もしかしたら、ほんとうの意味の通訳ではなく

このような使い方をされていたのではないだろうかと言う思いがよぎった




山本支隊長の回想録を読みふけるうちに帰宅の時間が迫ってきた

後ろ髪を引かれる思いで

相談員のおじいさんにお礼を言い、また近々来ると約束して

防衛研究所を後にしたのだった




続く…



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ミャンマーに思いを寄せて 468

山本支隊長の回想録を必死で読んだ

最初の方に、現地の人への謝罪の言葉があった

それは、食料が底を尽き、現地の人に乞うのだが

こちらはお願いをしていたつもりでも

言葉も通じない餓死寸前の生死をさまよう人間が

武器を携えて家に来たら、恐ろしかっただろうと

結果として脅して食料を奪うような形となったこと

そして、中には自暴自棄になって女性を襲った部下もいたと。。。

隊長として申し訳なかったと、切々とそのような主旨が綴られていた

最初から泣きそうになりながら、続きを読んだ




山本支隊のあった弓師団は、他の祭師団や烈師団に比べて

ほんの少し、補給系統はマシだったと言われている

山本支隊長は、支隊本部からあまり出ず、前線の方へは行かなかった

と言う説もあるが、食料は若干の追送があったくらいで

支隊長でさえ、食料に困っておられたようだ

野草と野きのこを食べていたと書かれていた



時に、じゃがいもとたまねぎの補給が来た日もあった

どちらも調理しなければ食べにくい物

そして、乾菜と書かれていたのは乾燥野菜のことだろうか?

日向臭く、カビ臭かったそうで、乾菜を運ぶ余力があるならば

米が欲しかったと書かれていた



近隣にいた友軍のインド兵の部隊の長が食料を分けて欲しいと懇願してきたこともあった

こちらも全くないのだと説明するが

何度も何度もインド兵は来た、しかしどうしてあげることも出来なかった



食料を探しても無い物は無い

至る所に餓死者と餓死寸前の犠牲者が横たわっている

昭和19年6月末、イギリス軍捕虜を口減らし目的で解放した

しかし、なぜか捕虜たちは立ち去らず

そのまま行動を共にしたのだそうです



それでも、恩賜の煙草があり、部下にも分け与えながら

時には、ほんの束の間の至福の時間を過ごしたこともあったようです




続く…



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ミャンマーに思いを寄せて 467

昔の当て字の地名や現地の地名は分かりにくいが
なんとなく分かる

中国の蕪湖からどのようにしてビルマ入りしたかが
分からなかったので勉強になった



しかし、概要は分かっても大叔父に関する資料はない

相談員に意を決して相談してみた

前回のおかしな対応のおじさんではなく
別のおじさんが相談を受けて下さった



まずは山本支隊の資料を頼んだ

作戦行動図や戦史総書など私が見たことのある書物をすすめられたので

全部確認済みだと言うとその他を探して下さった

おじさんに私の今の状況と、今までの経緯をかいつまんで

説明すると「なるほど、やっと事情が分かりました。協力しましょう」と

快く引き受けて下さった

出来れば山本支隊の編成表などがないか探してもらうようお願いした



数分後、おじさんが提案して下さった書物は

「インパール作戦の回想 元33歩兵団長 陸軍中将 山本 募」だった

山本 募氏とはズバリ山本支隊長のこと

支隊長の回想録だ

おじさんはドヤ顔をされていました(笑)

原稿用紙に書かれた手書きの回想録はかなり太かったが

それを1ページ1ページと読み始めた




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 466

防衛研究所での資料で概略だけ121兵站病院のことを掴んだ

しかし、大叔父に関する直接的な資料はなかった

もちろん故人のカルテなどの類はここにはない

 

先程の「ビルマ方面部隊略歴その2 中央部隊歴史全般70」と言う

書物をめくっていて

ふと60連隊の記事はないかと思い探してみた

すると60連隊も同じ本の中に載っていた

そこにはまだ私が知らなかった60連隊の詳細が載っていた




<以下抜粋>

昭和18年5月 蕪湖付近の警備を移譲し、呉淞に集結
         呉淞にて教育訓練実施

      7月 ビルマ方面派遣のため呉淞港を出港

      8月 仏印西貢上陸 一時駐留

      12月 移動ランバン→ケンタン→タカオ→ロイレン→
          シボー→マンダレー→ウントウ→ピンレグ

       インパール作戦 
       戦死1,424名 戦傷死98名 戦病死577名 生死不明約269名

昭和20年8月 タイ国進出 終戦

昭和21年5月 バンボン出発
    
      6月 浦賀港上陸

となっていた



続く…



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ミャンマーに思いを寄せて 465

そして大叔父がお世話になった

メイミョウの121兵站病院の概要も知ることが出来た



121兵站病院は

昭和16年10月11日 旭川で編成完結

昭和17年4月12日 ラングーン上陸

昭和18年12月15日 明妙(メイミョウと読む)に本院開設

昭和20年1月20日 明妙に残留病棟を残し主力は本院を閉鎖

昭和20年5月22日 タイ国へ転進開始

昭和20年7月8日 主力タイ国通過

昭和21年7月7日 復員完結



転進中も様々な場所で病院を開設しながら進んでいた

また終戦後も壊滅した他病院の業務も引き継ぎ

大きな病院組織として最後まで機能した

「ビルマ方面部隊略歴その2 中央部隊歴史全般70」より



詳細な人員表では病院関係者であっても戦病死も多数あり

戦闘に巻き込まれて亡くなった方も多かった

非戦闘部隊とは言え、基幹隊員だけでも400名近く

更に入院中の傷病兵を引き連れての行軍は

想像を絶する苦難だったと思える



続く…



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【464】の勘違い・修正

読者の皆様へ


いつも読んで下さってありがとうございます

暑い夏を、より熱く私の実録記事は進んでいます

ブログカテゴリは「戦史」

元々、こっちの分野が得意な人でもなく

よく分かっていないので、全てが勉強の毎日です

それでも少しずつは賢くなってきたような。。。???

いえいえ、昨日の投稿記事の中で

私がとんでもない勘違いをしていたらしく

読者様から丁寧に教えていただいたことがありますので

皆様にもお知らせしますね



【文中抜粋】
『馬取扱兵 ×1とか馬 ×1とか時代を感じる
救急車とかでなくて、馬だったんだぁ~』

と、私は馬は患者輸送のために配置されているものと

思い込んでいたのです



しかし、読者様から「馬は、指揮官用の乗り物ですよ」と

教えていただきました

えええぇぇっっ…偉いさんは、馬で移動なんですか?

馬。。。馬。。。馬。。。そうなんだ。。。馬



私の中の馬のイメージは、もっと昔の日露戦争とか

近衛騎兵とかの儀礼用、その他には大陸の荒野で使っていたような

そんな風にしか思っていなかった

しかも、ビルマだからではなく、将軍様クラスには標準配備だなんて

スミマセン、全然知りませんでした(>_<)失礼しました



ガソリンが無くて戦争になったようなもの。。。

貴重な車両は戦闘用に回し、将軍様は馬で移動

なるほど~




将軍様の数は分からないし、現在とでは馬の数も違ったのかもしれないが

イメージ的には、馬を調達するのも大変なんじゃないかと思ってしまった

日本に、そんなにいっぱい馬っていたんだろうか?

ビルマには馬なんていたのかな?日本から連れて行ったの?

しかも、昔の将軍様って、一般教養的に全員が馬に乗れたんだ!

すごいなぁ~昔の将軍様って

今の自衛隊の将軍様で馬に乗れる人っているのかな~?



私はてっきり、「どさんこ」みたいな力強い馬が

必死に患者輸送したのかと思ってしまったが

メイミョウの元・日赤の看護婦のおばあさんの証言では

汽車の駅があり、鉄道で患者さんは輸送されてきたと言われていたし

おじいさん達の証言からは、ビルマ国内はトラックで搬送されていたとも

聞いていたし、なんで馬と言う発想になってしまったのか

自分でもよく分かりませんxx



そう考えると、全ビルマ会の現・会長さんが

昭和20年の2月か3月に

停電がしばしばあるため、発電機を求めて

軍医部の偉いからビルマ人のお金持ちに頼んでもらって

現地で赤のシボレーを借り上げし、颯爽とマンダレー街道を飛ばした

と言う話は、すんごい話なのでは?と思えてきた

シボレーと言う車がどんな車か知らないけど、高級な外車と言うイメージ

外国だから外車で当然なんだろうと思っていたけど

将軍様が馬なのに、、、しかも戦場で赤い車って(笑)



今回、教えて下さった読者様は

私の勘違いに、思わず笑ってしまわれたそうです

他にも全く気がつかず、とんでもない解釈を

していることもあるかもしれませんが

ある意味、他の専門家の方のブログには無い

違う楽しみ方の出来るブログと言うことで

こんなレベルの人だと温かい目で見てやって下さい(*^_^*)

今後ともどうぞヨロシクお願いします



       2013.8.16

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ミャンマーに思いを寄せて 464

緊張感と闘いを挑むような気持ちで防衛研究所の門をくぐる

資料閲覧室には前日に電話を入れておいた

事前に病院に関する資料の請求番号等を教えていただき

資料をスムーズに閲覧することが出来た



まずは、大叔父が亡くなった兵站病院について学ぼうと考えた

兵站病院の編制表によると

軍医中(少)将×1
軍医大尉 ×5
軍医尉官 ×25
薬剤尉官 ×2
衛生尉官 ×2
衛生下士官 ×67
(給養掛×1)
療工下士官 ×2
衛生兵 ×250
主計尉官 ×1
主計下士官 ×2
馬取扱兵 ×1

計 359

馬 ×1

「軍例 陸甲55号 昭和15年11月22日 動員計画例 兵站病院」より

とあり、私が考えていたのより遥かに大きな規模だった

馬取扱兵 ×1とか馬 ×1とか時代を感じる

救急車とかでなくて、馬だったんだぁ~ 



私が日赤の元看護婦のおばあさんからいただいた写真には

10人前後の看護婦さん他が写っていたので

その他の医官を合わせても数十人かと思っていた私は

兵站病院とはかなり大きな規模の病院なのだと知る

そうか…日赤の看護婦さんは少ないが

その他の軍人はたくさんいたのだ

恥ずかしい勘違い(汗)

しかもこの編制表には看護婦さんは含まれておらず

実際は400名くらいの規模だったのかもしれない



続く…



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ミャンマーに思いを寄せて 463

大叔父の軍歴表の中に「死亡時調書」と言う文書が含まれており

病名と死亡日時、マラリアにかかった時の状況が記されていたが

その文書は大隊の軍医が書いて連隊長名で出されていた


 

大叔父は中隊にいる時に亡くなったのではなく

部隊を離れ兵站病院で亡くなっている

前線で戦闘中の軍医さんは大叔父が亡くなった時間など

知るよしもない




加えてその文書の日付はよく読み取れないのだが
 
昭和20年または21年7月と読み取れる

大叔父が亡くなったのは昭和19年

死後1年以上経ってから作成された文書だ



仮に20年とする、20年の7月と言えば終戦の1ヶ月前で

ビルマ内の戦況を考えると生死をかけて戦っている時に

悠長に軍医さんが文書を作成していたとは考え辛い

自然に考えるならば終戦後の21年に

戦後処理として作成されたのではないかと思える

ではその文書を作成するに当たり

死亡日時等が分かる病院側からの隊員死亡通知などの

元の資料があったと見る




何らかの関連文書が残っていないかと、それらを求めて

ダメ元で防衛研究所・資料閲覧室へと向かった

あちらがご迷惑であろうが・なかろうが

私にはそれらの資料がどこにあるのかさえ頭に浮かばなかったため 

とりあえず、相談に行ってみた




続く…



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ミャンマーに思いを寄せて 462

正直なところ行き詰まりの焦燥感にかられていた時

新たな提案として、亡くなった兵站病院側の記録から

調べてみてはどうかと提案を受けた



マラリアに倒れた地点と、病院に搬送された日付は分かっているが
 
その後、病院で亡くなるまでの間が全く分かっていない

2ヶ月間の空白

どんな風にどこをどう通って、いつ入院してどんな風に亡くなったのか?

どうして700Kmも離れた大病院に行けたのか

病院側のカルテなり何らかの詳細な記録は残っているかもしれない



軍歴表を洗いなおすと言う、とんでもない作業

その病院の資料って、あるとすればどこにあるのだろう。。。
 
もうここまで来たら、とことん自分が納得するまで

調べられるところまで調べてみよう




私は昨年、大泣きして帰ってきた防衛研究所を再び訪れることとなった

行きたくないけど、しかたがない

また意地悪なおじさんがいたらどうしよう

あのおじさんに会いませんように



続く…



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ミャンマーに思いを寄せて 461

全ビルマ会から、恒例の秋の靖国での慰霊祭の案内が来た

早いなぁ、もうそんな季節なのね。。。

その中に【尋ね人】の記事があった




以下、抜粋転載

「ビルマ弓(33師団)歩兵214連隊 片桐隊におられた

手塚様
の日章旗とアルバムを

カナダ在住の人がメークテーラーで入手していて

ご遺族にお返ししたいと申しております。」

中国での写真やご兄弟の写真もあるとのこと

現物は全ビルマ会の方がお預かりしています




ご本人は戦死なさっているのでしょうかね

何らかの形で遺品が人から人の手に渡り

今に至るのでしょう 




私も何かのお役に立つならと

ここや、他サイトなどでも尋ね人として記事をアップした

(※その後、どうなったかは分かりません

遺留品にお心当たりのある方は、全ビルマ会へお問い合わせ下さい)

【全ビルマ会HP】
http://www.birumakai.jp/




この手の話は全ビルマ会には多く寄せられている

以前にも戦死されたと思われる個人所有の日の丸が

外国のオークションにかけられ売られているのを

見かねた日本人が落札し、持ち主のご家族を捜して欲しいと

持ち込まれたそうです

外国人にとっては単なるアンティークな飾り物であっても
 
故人が最後まで大切にしていた日章旗や遺品は

日本人やその家族にとってはかけがえのない物だと思います 

持ち主が見つかるといいなと思いました

大叔父の関連の物も、いつかどこからか出てこないかな。。。 




続く…



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ミャンマーに思いを寄せて 460

お友達の戦史研究のゼミ仲間

現在は、様々な職業に就かれ活躍されている

しかし、何十年も前の学生時代の活動であり

好きな分野ではあるが、未だに続けている人はいなかった

 

そこで、お友達は、ゼミの先生に個人的に相談してくれたそうです

先生も現役ではないものの、そこは、先生は先生

真剣に聞いて下さったそうです



ただ、昔々は、厚生労働省の戦争関係の遺族会や

防衛省と協力して研究をしていたが

現在は、全く関わりがないらしい

そして、防衛省や厚生労働省の保管する資料は

部隊の行動記録や、戦闘行動の資料しか無く

偉いさんを除いては、個人の記録などは無い

もう旧軍の関係者の知り合いもおられないそうです

調査は正直難しいと言われたそうだが

ビルマの局所を研究している人がいるかもしれないので
 
探してみると言って下さったそうです 



お友達にはとても感謝した

どうか何でも良いので、情報なりヒントなり

いただけるように祈った

 

続く…



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ミャンマーに思いを寄せて 459

大きな山に漠然と向かい、気後れしていた時

時間があったので、お友達と武道館に行くことになった

お友達とは、その後、武道館で別れるのだが

どこに行くのか聞くと、学生時代のゼミの先生が亡くなられたので

仲間とお墓参りに行くとのこと



××大学と合同で『戦史研究』をやってたんだって

そんなコアなゼミすごいね、知らなかったわ

しかも、卒業してからどんだけ~

よく繋がってたよねと盛り上がり

今はみんなバラバラのお仕事で

保険会社とか新聞社とか証券会社とか、と話していて

ちょっと待った!! 戦史研究の仲間??

誰か、ビルマ専門の詳しい人はいない?

いなかったとしても、ビルマ関係者と知り合いだとか

新聞に載せて呼び掛けてくれるとか…

何でもいいから協力してと言ってみた



皆さん嫌いな分野の話ではないだろう

とりあえず声をかけてほしいと協力を仰いだ

ほぼ神頼みの域に達しているような気分だった



続く…



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ミャンマーに思いを寄せて 458

結局、大叔父は60連隊にはいなかったと言われ

弓師団の山本支隊のことについても全く分からない状態

どうしたらいいんだろう。。。

どこでどう何を調べれば良いのか、皆目見当もつかない

ボケ~としているうちに季節は秋になってしまった

何も進まないまま時間だけが流れていく



色々なおじいさんに大叔父の軍歴表を見ていただいても

皆さん口を揃えて、稀なケースだねと言われる

私がずっと気になっているのは

インパールの手前のインド国内のテグレパールと言う所から

約700kmも離れたビルマのメイミョウの兵站病院まで搬送されて

大叔父は病院で亡くなっていること



中には、下士官がそんな好待遇を受けたとは思えないので

病院まで運ばれていない

ほんとうはインパール作戦の途中の道端で亡くなって

よく分からないから病院で亡くなったことにしたのじゃないかと

病院で亡くなった記述はウソであると言う人も多かった

そんなことを言われても、、、

遺族としては、手厚い看護の末、病院で亡くなったと思いたかった



いつもアドバイスをくれる軍事関係に詳しい知人と話していた時

「じゃあ目線を変えてみて、反対に病院で亡くなったのがほんとうで

テグレパールから搬送されたと言うのがウソだと仮定してみては

どうだろう」と提案を受けた

テグレパールがほんとうだと証明するのは難しいが

病院で亡くなったのであれば、記録やカルテなど

残っている可能性はあると言うのだ

出来るところから証明して行こうと言う方法だ



しかし正直なところ、軍歴表を疑って洗いなおすなんて

またまた気の遠くなるような作業だ

それでも、分からない・分からないと言っているより

何か少しでも調べて前に進みたいと言う気持ちが勝って

私は調べなおすことを決意した



だけど旧軍の兵站病院の資料って、それこそどこにあるのよ~(T_T)



続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 457

おじいさんちから帰ってきたら

おばあさんからお礼のお電話をいただいた

お礼なんて、そんなそんな、こちらこそお世話になりました

おじいさんの話はお役に立てたかしら?と心配いただいて

とても喜んでいたので、是非また来て下さいとのこと

嬉しくて嬉しくて、ありがたくて泣きそうになった

また是非、行かせてもらおうと思う



おじいさんからお聞きした話を、再度、頭の中で整理する

平時と呼ばれた派遣先の中国の期間であれば

同じ中隊で勤務していれば、知らないはずがない

と言うことは、大叔父は中国での期間から中隊にいなかったことになる

大隊本部や連隊本部に通訳として臨時で勤務していたとしても

寝泊りが中隊であれば、皆さんご存知だろう

寝泊りさえも完璧に中隊にはいなかったことになる



京都60会の同じ中隊のおじいさん2人の証言と

この隣の中隊のおじいさんの証言もあわせ

大叔父は60連隊にはいなかった可能性が高くなってきた



ミャンマーに行って慰霊したら終わりだと思っていた

しかし、60連隊の行動とは違う経路を通っていたことが現地で分かり

60連隊の祭師団ではなく、弓師団の山本支隊に

配属されていたと後で知り愕然とした

その後、60連隊の戦友会に辿り着き

やっと同じ中隊の人を見つけたのに

「そんな人は知らない・いなかった」と複数の人から証言された



文字通り、命をかけて戦ったのに、そんな人は知らない・いなかったと

言われる大叔父がかわいそうでならなかった

どうしても大叔父が存在した証を見つけてあげたい



通訳って、どこで勤務するのだろう。。。

山本支隊のどこで勤務していたのだろう?

その記録は、どこにあるのだろう




続く…



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残暑お見舞い申し上げます

読者の皆様へ


いつも読んで下さってありがとうございます

8月に入り、暑い日が続いていますね

皆様、お元気でいらっしゃいますか?


この夏、私にとって熱い夏となりそうな予感

大叔父の調査もずいぶんと核心に近づいて来ているように思います

調査の上で、悲しいこと・悔しいこと、人間不信になりそうなこと

山あり谷ありで、泣いてしまうほどキツイ時もあります

ここ数日、とあることでかなり凹みまくりでした

こんな思いまでして、続けていて意味があるんだろうかと

正直、投げ出したくなった



諦めかけたとき、いつも不思議と道が開けたり

家族や皆さんに応援をいただいて、なんとかココまで来られました

あと少しだと思うのですが。。。いつになったら完結するのでしょうね

私の気力はいつまで持つか???



それでも、昨日の記事に出てきた「ビルマの木」は

昨年いただいて以来、植え替えするほど大きくなり

今年は小さな花が咲きました

香りは、花の香りと言うより、香木のような香りです

おじいさんにもお便りしました

木も頑張っているので、私も頑張れと言うことかしら



これから、話は新展開を迎え、急速にかなり濃い内容となります

今後ともどうぞお付き合い下さいませ

暑さ厳しい折、どうぞご自愛のほどを



            2013.8.7



ミャンマーに思いを寄せて 456 

最初に電話したとき、おじいさんが

「家にビルマから持って帰った木があります

花の季節にはとても良い香りがするのですよ

1度見にいらっしゃい」と言って下さって

この度、厚かましくお邪魔した



お庭には、プランターがたくさんあって

おじいさんがビルマの木と呼ばれる緑がたくさん植えられていた

その木と言うか草は、高さが70cmくらいで細い茎

本当の名前は「夜香樹」と言うらしい

昔々に、おじいさんが京都60会の機関紙に

投稿された記事を見ていたので知っていた




花の季節にはとても良い香りがするそうです

ビルマ山中の夜間行軍際にいつも香っていた花

ボサの様に生い茂り、大きくなるジャングルの緑

おじいさん達を敵から守ってくれた木




ビルマに行った戦友が持ち帰ってくれた木を

おじいさんは大切に育て増やしておられた

別れ際に、ビルマの木を持って帰りなさいと

鉢植えの苗と挿し木用の枝をいただいた

正直なところ、植木の趣味はないのと

炎天下、長い枝をバスや電車で持ち帰るのに苦労したが

ありがたくいただいて帰った




この時代になって戦争を知らない世代の私が

ビルマのことを教えて欲しいとたずねて来たことが

とても嬉しかったようで、ほんとに一生懸命熱く語って下さいました

たくさんのアルバムと資料

次から次へと出てくるビルマの話

おじいさんはビルマを忘れていない

今でもずっとビルマやビルマの戦友のことを思っているのです




おじいさんもおばあさんもまた来なさいと言ってくれた

大叔父と同い年のおじいさん御年94才(2012年現在)と

その孫のような年齢の私

初対面にもかかわらず、ビルマ祭師団60連隊のご縁で

信頼して温かく迎えて下さったことに感謝です

また是非遊びに行こうと思います

いつまでもお元気に長生きしてほしいです



続く…



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ミャンマーに思いを寄せて 455

全ビルマ会関連の書類や

京都60会関連の最新の会報などを

持参していたので、おじいさんは嬉しそうにご覧になっていた 



おじいさんは全ビルマ会で主要な役職を歴任され

まだ親交のあるお元気な戦友を紹介して下さったが

すでに私が今までにお話を伺った方ばかりだった 



私がいつかじっくりと読まなくちゃと思っている

60連隊唯一の発刊図書「二つの河の戦い」も

もちろんお持ちだった

60連隊の歴史を学ぶ上では、とても重要な本

防衛研究所の公開図書館で何度も見ているが

貸し出しされても、持ち帰りが出来ない

辞典並みのかなり分厚い本なので

なかなか読み進められないのが現状

おじいさんは、貸してあげるから持って帰りなさいと

言って下さったが、遠慮した



なぜなら、この本は60連隊の人にとってとても大事な本

もしお借りしても、熟読しようと思えばかなりの日数が掛る
 
その間に、おじいさんにもしものことがあったら。。。

と思うと、気軽に借りられなかった

そんなことは、おじいさんには言えず

変なところで遠慮してしまった私でした



続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 454

おじいさんは戦闘中に親友が目の前で戦死した

おじいさんは慌てて担架で親友を後方に下げたそうです

私は戦闘中にきちんと担架があったことに驚いた

すると私が想像する現在の担架ではなく

「担架なんてありません、その辺の布に乗せて運んだんですよ」と

おじいさんは語られた



戦友が亡くなる度、せめて遺骨をと小指を切り落とし

持ち歩いたそうです

しかし、それが腐ってきたり、ふとした時に落としたり

戦闘間に紛れてそのほとんどが分からなくなってしまった

と残念そうに言われていました



私が読んだある回想録によると

戦友の小指を大切に持って後退する

食料もなく白骨街道をフラフラになって歩いていると

その小さな小指すら重くて歩けないのだそうです

遺族の元に返してやりたいと思いつつ

自分自身の明日があるか分からない状況に

悩んで悩んで途中で小指を置いてきてしまったと

後悔されていた記事を思い出す



戦後、全ビルマ会は何度もビルマを訪れている

京都60会でも、昔はインドまで行って慰霊をしていた 

(※近年まで、インパール近くは紛争地だったため
外国人の立ち入りが禁止されていたが
ここ数年、ごくわずかな旅行会社により、インパールツアーが復活した)

しかし、おじいさんはビルマには行っていない

そこにどう言う思いがあるのか私には量りきれなかった



続く…



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ミャンマーに思いを寄せて 453

一時、テグレパールに一緒にいたとしても
 
作戦遂行中の隣の中隊との距離はかなり離れており

隣町より離れた場所に展開しているようなもので

大叔父のことは分からないと言われた

機関銃中隊がテグレパール付近で玉砕していたこともご存じなかった



おじさいさんの4中隊はボロボロになりながらも

まだまだ先のインパールの手前まで進軍した

山々が続く尾根伝いに「インパールが見えるんですよ!」

と今でも悔しそうに声を詰まらせておられました



おじいさんが後退したのは6月の末の頃だったそうです

タイまで後退し終戦を迎え、昭和21年に復員された



続く…



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ミャンマーに思いを寄せて 452

大叔父が病院に搬送されたとされている
 
テグレパール(テグノパールと表記する文書も多い)と言う場所は

インドに入って最初の方の戦闘地の近くだったそうです 

テグレパールは作戦上には全く出て来ない地名で

今まで防衛研究所の資料の作戦図なども見ても分からず
 
確認することに苦労した


 

たまたまテグレパールの先の地域で苦戦し

先に進めなかったことから

ここに偶然複数の部隊が溜まってしまった

もちろん野戦病院なども何も無い地域だそうです

おじいさんに聞いて、初めてテグレパールの状況を知った 

こう言うことは、なかなか文献を見ても分からないのです




テグレパール付近で大叔父の中隊は玉砕している

武器も弾薬もなく、中隊長も名誉の戦死を遂げられた
 



重機関銃はとても大きく重く、分解して何人かで運ぶそうです

玉砕したと言うことは、それらの武器は破壊し

その地に埋めて処分したと思われる




後で考えれば

歩兵連隊の要とも言える(?)唯一、重機関銃を備えた中隊が

インド国内に入って最初の方に欠けると言うことは
 
どれだけこの大隊にとって、この先の戦いが厳しいものに

なったか想像出来た




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 451

まずは「援護局に行きなさい」とすすめられた

本籍地のある役所で軍歴を教えてくれるからとのことでした

 

しかし私はすでにお役所から軍歴表を見せていただいており

援護局とは現在の援護課のことだった

以前にお役所のご厚意により軍歴資料を手書きで写させてもらった

なぜなら戸籍が全部揃っていなかったため

正規のコピーの書類がもらえなかったのだ

(※現在は、戸籍関係書類取得済み)

 

おじいさんも役所からもらったご自信の軍歴表をお持ちだった

戦歴が長いため数枚に渡る

大叔父の場合は軍歴は短い

しかしその他の添付書類もあり、役所の方に言わせると

珍しく資料が揃っている方なのだそうです

同じく戦死された方でも時期や地域、その時の状況により

何1つ記録が残っていない人もいた

それは、資料を運搬した人が途中で戦死したり

資料を積んだ船が撃沈されたりして本土に資料が帰って来なかったためだ

大叔父の資料は無事に本土に帰り

今は大叔父の本籍地のお役所の援護課の整理棚に収納されている 



おじいさんの軍歴表は、こと細かに書かれていた

何月何日○○作戦に参加など、ほんとうにたくさん書かれていた

すごい戦歴だなぁと思いつつ、それに比べると大叔父の

軍歴表は、メサイに入った後は白紙

死亡者調書の添付書類はあるものの

軍歴表には、死んだことさえ書かれていない。。。

戦地での移動もあるし、インパール作戦にも参加しただろう

階級だって昇進しただろうに、所属の大隊さえも書かれていない

ほぼ何も書かれていない状態と言える

これが普通かと思っていたが、おじいさんの軍歴表と比べると

なんとお粗末な軍歴表なんだろうと唖然とした



続く…



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