ミャンマーに思いを寄せて

亡き母の思いを果たすべく、ビルマで戦死した大叔父の足取りをたどる私の奮闘記録☆

2013年09月

ミャンマーに思いを寄せて 507

何をどこで、どう調べれば中野学校に関することが分かるのか

大先生をご紹介していいだくのを待つだけで良いのか

その間に自分で調べられることはあるのか

まずは、全ビルマ会の会長さんに相談してみよう





全ビルマ会では、月に1回、市ヶ谷の階行社で

定例会を開いている

参加は自由で、おいでと言われるが

実質、役員さんばかりの会合で、出席しても良いものか躊躇する

とにかく顔を出して、会長さんに会いたい

5月の総会以来である、私は定例会へと出掛けた





おじいさん達と、遺族の役員さん達

月例報告の後、今後の問題点など色々と真剣に話し合われた

その後、会費を払って昼食会となる

そこで自己紹介をしようと言うことになった

今更と思ったが、おじいさん達の一部の人は

何度お会いしても「どこかで会ったような気がする」と

私のことを毎度忘れる方もいらっしゃるのだ





簡単に自己紹介した後に、先日の尋ね人の件を

私のブログでも紹介したことを伝えた

そして、HPを作る計画があるとのことで

是非、早々に実現することを願った

HPの件は、おじいさん達にはネットの世界の重要性は通じず

なかなか進まない現状にあった

HPがあったならば、私は遠回りせずに全ビルマ会に

もっと早く辿り着くことが出来ただろうと思う

私の様な人が他にもいるかもしれない

HPがあればいいのになぁ




その他に、大叔父が所属部隊にはおらず行方が分からないこと

情報提供を求めるために、ミリタリー雑紙「丸」で

連載をさせていただいていることを報告した




続く…



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ミャンマーに思いを寄せて 506

2012年、秋の訪れを感じる頃

全ビルマ会から、11月3日の靖国での慰霊祭の案内が来た

慰霊祭への参加の有無のハガキの他に

尋ね人のお知らせが入っていた






<以下、抜粋転載> 

「ビルマ弓(33師団) 歩兵214連隊 片桐隊におられた

手塚様の日章旗とアルバムを

カナダ在住の方が入手し

ご遺族に返したいと申しております」とのこと

リアルタイムで書いた記事はこちら↓↓
http://blog.livedoor.jp/aya_sann/archives/2012-09.html





戦後ずいぶんと経って、こんなこともあるのだぁと思った

大叔父に関する物も、突然どこからか出て来ないだろうか

どこの部隊にいたのか分からずとも

大叔父がビルマにいたと言う証が出てくれば

私はそれだけで満足し、納得が行くのである





この手の話はよくあるのだそうです

中にはせっかく遺品が善意で戻ってきても

遺族が受け取り拒否するケースもあるそうです

戦死したと諦め、再婚して新たな家庭を気付いている場合とか

義理の親戚にあたる人などは

遺品を渡されても困ると言うこともある

しかし、ほとんどが涙を流して喜ばれるのだそうです





この遺品もどうか遺族の元に無事に帰ることが

出来ますようにと祈った

後日談ですが、持ち主を捜したところ

片桐隊には、手塚と言う名前の人はいなかった

これには全ビルマ会も困っておられた




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 505

学会の先生にお会いしたことで

客観的に大叔父の件を捉えていただき

今までと違った、別の専門的な角度からの見識で

アドバイスをいただけたことはとても良かったと思う

ただ、私の説明があまりにも低レベルで申し訳なかった

積み重ねで調べてきたため、話がどうしてもまとまらない

しかも要点の整理も出来ていないかもしれない

ずっと経緯を知っている身内の限定した者としか

話をしていなかったのが理由の1つだろう

その上、しっかりとした証拠はほぼ無く

直感を頼りに突き進んできた推測の域の話が多かった

私は伝えることの難しさを痛感した





先生は最後に、自分よりももっと詳しい大先生を紹介するから

連絡を取るので少し待っていてほしいと言われていた

ほんとうに何をどう調べれば分からなかったので

嬉しい限りだった





数日後、たまたま市ヶ谷を訪れる機会があった

JR市ヶ谷駅を出たところの橋の上からは線路が見える

小さなこの川は、江戸城のお堀の一部だそうだ

その緑多きお堀に沿って、細い線路は続いている

きっと昔とあまり変わらない景色ではないだろうか

約70年前、大叔父もこの市ヶ谷駅に降り立ち

この景色を眺めたのであろうか

そして何を思い、どこへ行ったのだろう





続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 504

未帰還兵と言うのは、どのような事情があったのだろう

人それぞれだとは思うが、日本に帰れない・帰らない理由

ご家族はご存じなのだろうか?

日本に帰りたいと思わなかったのだろうか?





中野学校出身者の中には

「残置諜者」と言う任務に就いた人も多くいる

残置諜者とは、部隊がその戦場を放棄する場合に残置され

部隊が再度その地域を反攻作戦により回復するまで

情報活動等を継続し、部隊の作戦に寄与する任務である





しかし、劣勢により部隊が戻ってこない場合もある

その場合は任務は永続的なものとなる

小野田さんがその有名な例だ

命令時、もし敗戦になった場合はなどと付け加えることは

当然ありえないだろう





実際のところ、小野田さんのように、戦後何十年もの間

その任務を継続したと言う人は希れだろう

終戦後はその多くは、病死したり、地域の軍隊や警察等に

掃討されたり、日本の敗戦を知り自己の判断で帰国したのであろう

しかし詳しいことは分からない

中野学校の不明者376名と言うのは、そう言う人達も含むのだろう





映画監督さんにメッセージをした

突然のメールに驚かれたことと思う

失礼の無いように丁寧にかいつまんで用件を伝えたが

残念ながら何度メッセージを送っても

遂に返事をいただくことはなかった




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 503

大叔父が生きている・生きていたと言われ混乱した

しかし、その可能性は無いとは言い切れない

もしも生きていたら、95才(2012年当時)

神居家はどちらかと言うと長寿の家系だ

ビルマの竪琴の映画のように、そして

小野田さんのように、今もミャンマーで生きているかもしれない

生きているのならば、なんとしてでも探し出したい

もう亡くなっていたとしても、子孫がいるかもしれない

大叔父や祖父に似た子孫に会って

大叔父のことをずっと想っていた母のことを伝えたい

大叔父のその後の話も聞けたらいいのに





どうしたら大叔父を捜すことが出来るのか模索した

亡くなっていたとしても、どこにいたかの分からない大叔父

その大叔父が生きていると仮定して探す

これはまた大変なことになってきそうな予感がした





そんな時、ふと思い出した

以前に全ビルマ会の総会でお会いした

ビルマに残った未帰還兵のドキュメント映画を作られた

監督さんがおられたことを





私はいてもたってもいられなくなり

その監督さんにすぐに連絡を取ることにした

もしかしたら、その映画の中に大叔父が出てきたのではないか

出てこなくとも、未帰還兵の方から何か聞かれているかもしれない

それ以外の方法が頭に浮かばなかった




続く…



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ミャンマーに思いを寄せて 502

その先生に、下士官が第一線から700kmも搬送されて

兵站病院で亡くなった記載について聞いてみた





その先生は、軍歴表のインド国内のテグレパールから

搬送されたのが間違いか、もしくは

ビルマ国内の兵站病院で亡くなったのが間違いか

そして残るもうひとつは。。。と言いかけた

すると横にいた知人が「なるほどな」と1人納得している





私は先生が何を言おうとされているのか

全く分からなかった

「要するに、どちらも嘘である場合だよ」

「大叔父さんは、生きている・生きていたと言う可能性がある」





「大叔父が生きている、、、?」

私はあまりのことに、涙が溢れそうになった

約70年前に戦病死した大叔父をずっと捜しているのに

生きていると言われて混乱した

もし生きていたら祖父はどれほど喜んだであろう

大叔父はなぜ日本に帰って来なかったのか?

可能性の1つとは言え、そんなこと考えも付かなかった

生きて任務の遂行を続けることを信条としている中野学校生

戦死率13.6%と言う説もある

今も生きているのならば何としてでも会いたい

大叔父さん、会いたいよ。。。




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 501

あまりの展開に、どこから何を調べれば良いのか

見当も付かなかった

知人に学会にも入っている歴史に詳しい方に

相談してみようと持ちかけられ

その先生とお会いすることとなった





気さくなその先生は、私のつたない話を聞いて下さって

大叔父の遺品などもご覧になった

その中で、大叔父の遺品の徴兵延期証書を見ながら

なぜ、山形連隊区徴兵署の発行なのかと疑問を持たれた

大叔父は元々、山形県出身であったためである


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「戸籍を調べなさい」と言われた

中野学校出身者の中には

戸籍を抹消されている人もいるらしい

家に帰ってから、確認の意味でも

再度、戸籍を見てみることにした





役所からいただいた戸籍は、昔々の物で

実は、見方がよく分かっていない

大叔父は、曾祖父の子供であるから

曾祖父までさかのぼって、山形から戸籍を取らねばならなかったが

それは難しいとの役所の配慮で

昔は住民票と同じような形で一緒に住んでいる人全員が

戸籍に出て来たことから

関西の役所で祖父の戸籍から、大叔父を拾って下さったのである

それは正規の物なのかよく分からない

大叔父の軍歴表は、祖父のお寺の都道府県の役所にあった

と言うことは、本籍地は関西に移したはずなのに

大叔父の戸籍は、亡くなったことだけ関西で届け出らていて

戸籍を移した形跡は出ていない

死後に関西に移し、それが記載されていないのかもしれない

いつか役所の人に聞かねばとずっと思っている





大叔父の手書きの昔の戸籍には

昭和拾九年七月弐拾四日 時刻不詳 
緬甸国明妙第百二十一兵站病院ニ於テ死亡

と書かれている

祖父が届け出たのは、昭和弐拾弐年壱月弐拾五日となっていた




続く…




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ご報告

読者の皆様へ


いつも読んで下さってありがとうございます

ブログ記事は、とおとお500話まで来てしまいました

当初は100話まで行くかなぁと思っていたのに

まさか500話を超えるとは

毎日更新しているのに、話の内容はまだ1年前です




突然、特務機関と言うキーワードが出てきて

今までとはガラリと変わり濃い話になってしまいました

こんな展開になるなんて思いもよらず

作り話ではなく、現実のことに自分でも驚いています

この後も、激しい展開で、どんどんディープな話になります




500話を過ぎても未だに結論が見えない

あまりにもスケールの大きな背景が見え隠れし

たくさんの書物を買い込んで、毎日読んで勉強しています

調べることが多すぎてパンク寸前の私の頭

泣きそうな毎日です(T T)




そんな折、久々にミリタリー雑紙の「丸」さんから連絡があり

続編の連載のお話しを頂戴しました

前回は、ミャンマーに「行きました」の旅行記でしたが

今回は、それの続編として「行くまで」「行った後」の

長編大型連載をさせていただくこととなりました

へこたれそうな時だったので、やる気が戻ってきました

丸での連載は、今年の末くらいからになりそうです

いつも応援して下さっている皆様のおかげです

ブログランキングも影響しているように思います

ありがとうございます




では、今後ともどうぞ宜しくお付き合い下さい

季節の変わり目、お体を大切に


2013.9.23


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ミャンマーに思いを寄せて 500

中野学校と言うキーワードで

突然、よく分からない方向に動き

思考が付いて行けない





特務機関と言えば中野学校と思い込み

中野学校に関連づけして調べようとしていたが

突然、自分の手元にあった物が重要な物だったと分かり

あまりのことにどうすれば良いのか、もっと分からなくなった





大叔父の遺品の中野の住所からの手紙や

京都~東京、千駄ヶ谷・市ヶ谷~中野の切符は

何を意味するのだろうか?





大学時代に下宿していた姉婿宅が

大叔父が退学後、京都から引っ越しをし

東京の中野に住んでいた

そこに行ったと言うのは分かる

では、千駄ヶ谷・市ヶ谷には、何をしに行ったのだろうか?

当時の東京の様子は分からないが

市ヶ谷と言えば大本営としか思い浮かばない

市ヶ谷は、今で言う若者の街で、渋谷や原宿のようだったり

浅草のように東京に来たら必ず観光するような

若者が遊びに行く場所だったのだろうか?

それとも、東京駅から中野に行くためには

当時は市ヶ谷で乗り換えたのだろうか?

そんなことまで調べなくちゃいけない。。。

※何か分かる方がいらっしゃいましたら
何卒アドバイスをいただけますようお願いいたします





ずっと60連隊=祭師団だと思い込み祭師団を調べていたら

弓師団に編入されていたことが分かり、慌てて弓師団を調べた

すると60連隊にはおらず、今度は特務機関だと言われ

突然、中野学校を調べることになった

元々、戦史が得意でもなく、何が何だか分からない展開に

調べる量が半端ではなく、私だけの能力では

追いつかない状態になってきた





続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 499

私はあまりのことに電話口で叫びながら慌てた

まさか、単なる遺品だと思っていた物の中に

大叔父と中野を結びつける物があり

しかも自分が持っていたなんて

今まで全く気付かなかった

灯台もと暗しとは、正にこのことである





そして、もう1つ気付いたことがあった

遺品の中に、鉄道の切符が数枚含まれていた

遠出した時の記念なのだろうなぁとずっと思っていた

それをよく見ると。。。その切符は

京都~・東京~のそれぞれの特急や急行券と

中野~千駄ヶ谷・市ヶ谷の乗車券だった

背筋に寒い物が走った!!!

中野との関係を示す物を求めていたにもかかわらず

私はまたまた電話口でギャーーーーーっと叫んでいた

RIMG0469










それを聞いていた知人は笑いながら

「これで状況証拠は揃ったな」と言った

※追伸 鉄道のことは全く分かりません
お詳しい方で、この切符から何か分かることが
ございましたら教えて下さいm(_ _)m


続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 498

特務機関と言われて、中野学校だと思い込んだ

でも、中野学校の卒業者名簿には

大叔父の名前は無かった

これからどう調査を進めて行けば良いのか

全く検討がつかない




いつもの軍事関係に詳しい知人に現状を報告すると

その人は大叔父と中野学校を繋ぐのは難しいのではないかと

言い出した

なぜならば、軍歴表が正しいとすれば

補充兵として招集され、入隊し軍役に就いて

大陸に出発するまでの間は、約3ヶ月しかない

中野学校の下士官向けの短い課程教育であっても

その期間で修了するのは厳しいのではないかとのこと





やはり、単に私の思い込みで中野学校ではないのかなと思った

すると、その人が、大叔父さんは大学を中退してからすぐに

入隊したのか?と聞いてきた

すぐにではなく、就職し2年間働いていたと答える

どこで働いてたの?との問いに、神戸の帽子屋さんと答えた





「神戸じゃ、東京の中野には関係ないよなぁ」と言った

どう言う意味かと尋ねると

入隊後が無理だとしても、入隊前の退学後の空白の2年間に

中野に通っていたとか何らかの接点が見いだせればと

思ったのだそうです





。。。。。私の頭の片隅に中野と言う文字が引っ掛かった

中野…中野…どこかで見たような。。。

ふと思い出し、途端に私は青ざめた、、、

「えっ!!!!嫌ーーーー!!!!ちょっと待って、ちょっと待って!!!!」

キャーーーーー!!!!私は電話口で叫んでいた

「大叔父さんから祖父に来た手紙の住所…
確か、中野だったよ!!!!」





すぐに確認した、やはり中野だった

伯父からもらった大叔父の遺品の中に、手紙類も数点あった

そのうちの1つの封書の差し出し住所が中野であり

大叔父は、出兵するまで中野に住んでいた


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RIMG0468





↑拡大画像




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 497

巻頭を読んで、すぐに最後に付いている

「陸軍中野学校教職員及び出身者名簿」

(昭和52年12月末日調)に目を通し

大叔父の名前が出てきてほしいと願った

何度も「こんな人は知らない・いなかった」と言われる

大叔父が不憫でならない





どこで、どんな任務をしていたって構わない

大叔父がどこかに存在したと言う証拠がほしい

祈るような気持ちで名簿に見入る

しかし、2度も確認したが、大叔父の名前は遂に見つからなかった





配属されてすぐに偽名を与えられたと言う中野学校生

仲間でさえ、本名を知らない

名簿の中には、多くの「不明」の文字

生死が不明なのか、名前が分からないのか

私には判断がつかなかった





本書によると、昭和52年12月末現在

教職員を含めた全関係者2,263名中

生存者1,458名、不明者376名、戦死者289名

他の死亡者140名となっていた





他の死亡とは、復員されてから普通に亡くなった方か?

それよりも不明者の376名が気になる

大叔父は、中野学校の卒業生ではないのだろうか?

では、その他の特務機関って何があるのだろう?

本文も読みたかったが、時間が無く

その日は、そこまでで帰宅した




続く…



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ミャンマーに思いを寄せて 496

巻頭の言葉に、目頭が熱くなり、静かな閲覧室で

必死に涙を堪えた

特に「近親の方々にも真実を知らせず

どこで、何をしたのか一切を明らかにしないまま亡くなり

なお今日に至るまでその消息を

確認することができない同士諸兄の霊」と

言う箇所に衝撃を受け、涙が止まらなかった

そう言う境遇の方々がいたと言う事実

その方達は、最後に何を思ったのだろうか。。。

家族にほんとうことを言えなかった、言ってはならなかった

ほんとうは、ここで亡くなったんだよって伝えたい





もしかしたら、大叔父もそんなパターンだったのではないだろうか

兄である祖父でさえも知らなかった大叔父の任務

伯父は「達(とおる)さんは、祭師団で機関銃を撃っていた」と言う

「誰に聞いたの?」と問うと曾祖父から聞いたと言った

曾祖父は大叔父の親である、晩年は祖父のお寺に身を寄せた





当初、歩兵128連隊に配属された大叔父は、京都の伏見師団の

練兵所に入隊していた

大叔父が歩兵60連隊の補充要員として大陸に渡るまで

曾祖父は、毎日のように伏見師団まで面会に行ったそうです

そこで、大叔父本人から「祭で機関銃」と言う話を聞いたらしい

大叔父は、親にも任務を隠して嘘をついたのか

それとも、まだその時点では本人も知らなかったのか





神居(かみい)と言う姓は、よく「カムイ」と読み間違われる

北海道のカムイが有名だからであろう

祖先が北海道と関係があるのかどうかは分からないが

神居家は、みんな背丈が小さい

母が小さい頃、カムイのコロボックルとからかわれたほど

大叔父も写真で見る限り、小さい方だと思う

機関銃中隊と言えば、体格が大きな人と言うイメージで

なぜ大叔父は機関銃中隊だったのだろうと思ったことがある

もし、それが仮の姿の配属だったのであれば

納得が行くのである





本書には「ご遺族の方々へこれを捧げると共に

私どもの子孫へのなにがしかのよすがとして

本書がお役に立ちますならばこの上ない喜びであります。」とあり

今の私への言葉のような気がして涙ながらに

私は先へと読み進んだのです




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 495

昭和53年に中野校友会から発行された

「陸軍中野学校」と言う本

その本の巻頭に「発刊に際して」と言う文章があった





その内容を大変失礼ですが

私なりに簡易に短縮してまとめてみました

※ほんとうは、思いのこもった丁寧な言葉で
長文が綴られていました、簡略化してしまい申し訳ございません


「情報勤務という特殊の分野の実態については
一般国民はもとより、軍の内部においても
一部の関係者を除いては、全く知られていなかった」

敗戦を迎えてからも、公にすることを極力避けたのには
理由はいろいろあるが、戦争に負け、祖国の防衛の責任を
果たせなかったことが大きな理由の1つ。

そして、戦後になっても、国際的に多少とも影響を与える問題も
少なくなく、関係者のプライバシーを侵すおそれもある。

しかし、過去の出来事を、いつまでも秘密のベールに
包み秘しておいたことで誤った憶測が流れた。

また、それ以上に心を痛めるのは
近親の方々にも真実を知らせず
どこで、何をしたのか一切を明らかにしないまま
亡くなり、なお今日に至るまで
その消息を確認することができない同士諸兄の霊と
またその遺族の方々の感慨に思いをいたすこと。

歳月の経過と共に
最年少者でさえそのほとんどが高齢化し
過去の記憶がだんだんと薄れている。
できれば、ありのまま、事実は事実として当時の出来ごとを
出来るだけ全て書き綴り、過去の資料として
特定の方々だけにでも遺しておくことも
必要なことだと考えるようになった。

中野校友会では、過去何年もの間
これらの問題をどうするか協議し
戦後三十三年を経て、「陸軍中野学校」という
本書を発刊することとなった。

本書の発刊に当たり、全ての会員全員の賛同が
得られたわけではない。いつまでも公にすべきではない
まだその時期ではない、という会員も少なくなかった。

既に亡き同志諸兄の霊を慰め、ご遺族の方々へ
これを捧げると共に、私どもの子孫へのなにがしかのよすがとして
本書がお役に立ちますならばこの上ない喜びであります。
昭和五十三年三月一日
中野校友会会長 ○○ ○○




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 494

大叔父が、ほんとうは60連隊にはおらず

特務機関の関係者だったのではと言う説を受け

まずは中野学校の線で探すことにした

※前の491号の記事で、731部隊は特務機関ではありませんよと
読者様よりご指導いただきました
確かによく考えれば、研究機関ですね
昔に読んだ、森村誠一氏の「悪魔の飽食」のイメージで
特務機関だと勝手に思い込んでいました
失礼しましたm(_ _)m




どこに行けば、その資料はあるのか?

そして、中野学校の校友会が発行された「中野学校」と言う

本があることを知った

その本が国会図書館にあるとの情報を知り

早速、国会図書館に出掛けてみた





国会図書館は、物々しいセキュリティーだった

手続きを済ませ、カードを発行してもらうと

改札口のような所を通る

荷物は透明の袋に入れ替えて、中身が分かるようにする





備え付けのPCの端末から申し込み

お目当ての本は、ほどなくして貸し出された

年季の入ったその本を、近くの閲覧室でそっと開いた

その本の巻頭ページには、本を発行するに当たり

中野学校の関係者の思いが綴られており

静かな閲覧室で、私は涙を堪えるのに必死になった




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 493

学芸員さんは、もうすぐ定年されるそうで

来月から退職準備に入られるとのこと

もう少しここに来るのが遅かったら

この方の素晴らしい説明は聞くことが出来なかったと思うと

ギリギリ間に合ってほんとうに良かった




最後に、旧軍の資料の「大東亜戦争陸軍衛生史」と言う本の

ビルマの部分をコピーした冊子を特別にいただいた

私のために準備しておいて下さったのだと思うと

ほんとうにありがたかった

その冊子はビルマ方面軍軍医部長をはじめとする

15軍軍医部長や部員、師団の野戦病院長

連隊付き高級医官、兵站病院長などの証言集だった


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私達一行は、丁重にお礼を言い、衛生学校を後にした





続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 492

突然の特務機関と言う言葉に驚いたが

元々、ここに来た理由は兵站病院のことを聞くため

下士官が700kmも離れた兵站病院に搬送されることは

ありえないとの見解をいただいたが

では、700kmも搬送されたと言うことはさて置き

病院で亡くなったのは事実だとして

そのことを確認するには、どうすれば良いのか?





大叔父の死亡者調書の日付は、読み取りにくい

昭和20年もしくは21年の7月である

大叔父が亡くなって、少なくとも1年以上後の日付だ

亡くなった日時などは、前線の部隊は知るよしもなく

それでも連隊の軍医さんが死亡者調書を作成し

60連隊独自で作成された死亡者名簿にも

名前が載っていると言うことは

病院から師団なり連隊なりに電報などで報告があり

それを元に事後、連隊が作成したと考える





元の根拠文書が残ってはいないだろうか?

もしくは、看護の個人記録(カルテ)などはどうか?

しかし衛生学校の資料館には、これらの資料はなかった

あるとすれば国立病院にあると教えてもらった





…国立病院、またまた大変なことになってしまう

国立病院のどこに何と言って聞けば良いのだろうと

暗い顔をしていると

しょうけい館と言う、戦傷病者に関する資料館があるので

そこに相談すれば良いとすすめられた




しょうけい館と言えば、1度行ったがお休みで、また来ようと

そのままになっている所だ

そこで、学芸員さんの名前を出せば

きっと丁寧に対応してくれると思うと言って下さった





続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 491

特務機関。。。

特務機関と聞いて私の中で思い浮かぶのは

中野学校と731部隊だけだった





以前から、大叔父の軍歴表は不思議な箇所が多いと思っていた

マラリア&アメーバ赤痢の下士官が

700kmも離れた兵站病院に搬送されたとなっていること

大隊名が書かれていない軍歴表

日付からして戦後に作られた物であること

ビルマ入りした後の行動が何1つ書かれていないこと

死亡者調書を作成した軍医さんは、他大隊の軍医であること





同行した者達同様、特務機関と聞いてすぐに納得した

2つある理由のうち、最初の遺族年金うんぬんは

大叔父は独身だったため、大叔父が戦死しても

家族が路頭に迷うと言うことは考えづらく

消去法で行くと、残りの特務機関となる





特務機関と言われて、正に寝耳に水であったが

特務機関だったと仮定すると、この不思議な軍歴表の

つじつまが合うような気がした

特務機関だから優遇されて、病院に搬送されたのか?

それとも、特務機関員だったことを隠蔽するために

軍歴表をあやふやに誤魔化して詐称した?





いずれにしても、大叔父は特務機関にいたと

私の中の直感が判断した

ここからまた、新たに困難な調査が始まることとなった




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 490

やっと本題の大叔父の話に入れたのは

資料館にやってきてから2時間半ほど経ってから

大叔父の軍歴表の中で

下士官であった大叔父が、インパール作戦の最中の5月末に

テグレパール(インパール手前のインド国内)からメイミョウ

(ビルマ国内・15軍司令部があった所)の兵站病院まで

約700kmを搬送され、その後、病院で亡くなったと

記載されていることについて聞いてみた





すると、それはあり得ない話だと言われた

将軍様が飛行機で搬送された例はあったが

下士官では、やはり考えにくいのだそうです




しかし、そのような不思議な軍歴表が希にあるのは知っていて

自分も見たことがあると言われた

それには2種類あり

1つ目は、遺族に年金が給付されるよう配慮して、改ざんした場合

2つ目は、特務機関関係者である場合




特務機関関係者???突然の展開に、頭の中が追いつかない

「特務機関…って、中野学校の関係者だったと言うことですか?」

と思わず聞いてしまった

頭の中には、特務機関の4文字がグルグルと回っていた




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 489

きっと見る人が見れば貴重な資料が山のようにあるのだろうが

残念ながら、私にはあまり興味が無く

最後の浄水濾過装置へと辿り着いた

会長さんが防疫給水部で使われていたと言う濾過装置




どんな物か楽しみにしていた

私の想像では、ポンプ車に積んであるポンプのような形かと

思っていたが、それらしき物は無い

「これです」と言われて目の前にあったのは

黒っぽいような四角い箱だった

箱は押入収納ケースくらいの大きさがあった

具体的に、これをどのように使うのかは説明がなかったが

中に今で言うセラミックの濾過装置が入っているのだそうです




この濾過装置は、石井軍医中将が開発したことから

「石井式」もしくは「宇治式」と呼ばれているが

私にはずっと、なぜ宇治式と呼ばれていたのか分からないため

質問してみると、宇治式と呼ばれていることをご存じなかった

少し顔色を変えておられる。。。

先ほどの顕微鏡の件と言い

どうもご自身の知らないことを聞かれるは苦手なご様子

完璧な案内のプライドを傷つけたのかもしれない

慌てて話を変えて、本来の目的の兵站病院の話へと移った

※未だに、なぜ宇治式と呼ばれていたのか分かりません
ご存じの方は教えてください
(例)宇治式浄水器、宇治式手榴弾、宇治式爆弾




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 488

展示は、やっと昭和のコーナーへと差し掛かった

顕微鏡が年代別に並んでいた

当時の顕微鏡は大変高価だったため

財産をはたいて購入された方の苦労話なども聞いた




そう言えば、会長さんがビルマに進軍したとき

ラングーンにあったパスツール研究所で

イギリス軍が置いていった顕微鏡80個を押収し

日本に送ったら、とても喜ばれたと言われていたことを思い出した

この顕微鏡が、その1つだろうか?案内の方に聞いてみた





すると、接収するには中央からの正式な指令が必要であり

末端の部隊の判断では出来ないらしい

略奪でなければ、正式に接収した記録が残っているはずであるが

会長さんの顕微鏡については、記録を見たことがないとのこと

。。。会長さんが略奪したと言いたいのだろうか





それでも当時の顕微鏡の価値を考えると

80個と言う数は相当な数であり、大変なお宝だっただろう

会長さんがいらっしゃらないので、どこ宛てに送ったかなど

詳しいことは分からないため

その話はそのままにして、次へと進んだ





他にも色々とあったが、私は半分上の空で

早く兵站病院のことが聞きたくてしかたがなかった




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 487

その他に印象に残ったのは、八甲田山・雪中行軍遭難事件の資料

小さい頃に見た、八甲田山の映画を思い出した

北大路欣也さんが演じた、 青森歩兵第5連隊の

神田大尉(モデルは神成文吉大尉)がかっこいくて

亡くなられるシーンには涙・涙でした





隊員の凍傷の看病の資料や写真、大隊長の他殺説など

特に、2011年に起きた東日本大震災時に展示品が壊れた際

展示品の裏側から、遭難事件で救出された隊員5名の

手術前の姿を写した写真が見つかったと熱く語って下さいました

これまで手術前の写真の存在は知られていなかったそうです





その他には、西南戦争で右手を負傷して以来

敬礼を左手によって行っていた寺内正毅大将の写真

そう言う人がいたとは知っていたが、どうして右手が

不能になったのか、当時の弾の摘出後の処置方法などを

知ることが出来た




医療関係のことや、戦史もあまり分からない私

見る人が見たら、とても興味深い貴重な資料だろうに

ただ、私がここに来た目的は、太平洋戦争時の

ビルマでの兵站病院に関することだけを聞きたかったので

展示コーナーを昭和の時代に早く進みたいと言う気持ちがあり

丁寧な説明に対し、少し申し訳ない気分になった




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 486

三宿の衛生学校の資料館「彰古館」

門の所で手続きをして入るとすぐの所にあった

名前からして、どんな歴史的な建物なのか

興味津々であったが、期待とは裏腹に

近代的な美しい建物で、最近、新しくなったようだった





案内の方が、出入り口で待っていて下さって

私達一行を、出迎えて下さった

会長さんが来られると楽しみにしておられた様子で

体調の関係で来られなかったことを伝えると

とても残念がっておられました





静かな館内は、どちらかと言うと殺風景で

建物の外見とは雰囲気が違い、やっぱりお役所と言う印象

博物館のような格調高いおしゃれな展示方法ではなかったが

整然とたくさんの資料が展示されていた

その数は、約8,000点とも言われている





案内して下さった自衛官の方は、とても丁寧に詳しく

説明して下さった

後に知ったのだが、博物館法に準拠して

専従の学芸員を配置した自衛隊唯一の史料館であり

その方が学芸員の方でした





資料は入り口から年代順に展示されており

古くは江戸時代末期のものからあった

戊辰戦争の時の刀傷の絵などは

彩色されており大変リアルであった

その他、昔の様々な手術の方法や傷口の絵や模型なども

展示されていた





途中、女性の私を気遣って下さって

そのグロテスクな模型などを見ても

大丈夫ですか?と、優しくお声掛け下さる場面もあったが

特に怖いと言う印象はなく、説明を真剣に聞いた





続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 485

キナノキがマラリアに効くと分かると

この木に大きな注目が集まり

キナノキは絶滅の危機に瀕した

この事からキナノキの移植・開発が始められ

19世紀前半から各国がこれに取り組み始めます

最終的には、イギリスとオランダが激しくこの覇権を争った

両国はこの研究に膨大な資金を投入し

南米から東南アジアの植民地に運んで移植を試みます





1854年、オランダがジャワを中心にキニーネ成分の多い

キナノキの栽培に成功し、イギリスはほぼ失敗に終わった

その生産地は、ジャワが約90%、その他はセイロン(スリランカ)、
ビルマなど

従って、第二次世界大戦が始まるまではオランダがキニーネの

供給を独占する形となった

オランダは、一躍「キニーネ帝国」となり

世界各国が、このキナノキを欲しがった





第一次世界大戦で、オランダとは反同盟国の立場で

あったドイツでは、独自に合成のマラリア薬の開発に

成功したが、原料が安価なキナノキと比べると

価格や供給量に問題があった





その後、日本は戦争で東南アジアへと進出し

キナノキは、日本が独占することとなった

キニーネの供給は断たれ、世界的に非常に大きな打撃を与えた




この事柄を会長さんは「キニーネは日本にしかなかった」と

言われたのだろう

キニーネは強い副作用があり、現在は

合成抗マラリヤ薬が普及している

また、殺虫剤や家屋の発展により、日本ではマラリアの発生は

ほとんどなくなった

私も大叔父の件が無ければ、マラリアやキニーネを知らなかったと思う

勉強になった




続く…



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ミャンマーに思いを寄せて 484

会長さんとGWにお会いした時の

私のノートの端に「キニーネ 日本にしかない」と言う

記載があったが覚えがなかった

お聞きし、必死に書き留めて、後で読んだら何のことか

分からないと言うことも多々ある

せっかく書き留めた言葉が気になり調べてみた




キニーネ:マラリアの特効薬

きっと大叔父も服用したに違いない

とても苦みのあるお薬だそうです




マラリアは、現代の日本では、やや馴染みの薄い病気

しかし、大変古くからある、いわゆる「熱病」の一種

ハマダラカと言う蚊によって媒介され

症状は悪寒、頭痛、食欲不振などの後に

発熱と急速な解熱を周期的に繰り返し

それにより極度に衰弱し、やがて死に至る

人類を最も死に至らしめた疫病とも言われている




古くからあった病気ではあるものの

解明されたのは19世紀から20世紀にかけてであった




キニーネは、その特効薬として知られている

南米原産のアカネ科キナ属のキナノキと言う植物が原料

この木の樹皮の粉が効くと言われています

栽培地などにより、同じキナノキでもキニーネの有効成分を

多く含む物と、そうでない物など色々とあるようです




続く…



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ミャンマーに思いを寄せて 483

衛生学校に一緒に行くことが出来なかった会長さん

自衛隊に行ってみたいと言われていた

戦争体験の講演活動もされているが

自衛隊とはご縁がないのだそうです




私としては、戦争を実体験した旧軍の方の話は

とても貴重だと思うのだが

何故、現在の自衛隊は、旧軍の方の話を聞かないのか?




海上自衛隊は、海軍の伝統を引き継いでいるのに

陸上自衛隊は、そうではない雰囲気だ

旧軍は、主に陸軍が悪いことをしたと言う

風潮があるようにも思う




発足当初、当時の政治的な背景もあり

自衛隊は旧軍とは違う組織だと

旧軍と一緒にされたくないと言うことから

旧軍の方の話を聞かなかったと言う説がある

その他には、戦後、自衛隊が立ち上がった当初

軍隊経験者も多く混ざっており

防衛大学を出た初期の方達は、旧軍出身の上司に

かなりいびられたため、将来の自衛隊の指導者達の一部は

旧軍を毛嫌いしたと言う話も聞いたことがある





戦史総書などは、実際に旧軍の方の聞き取りをし

まとめられた本だが、もう昔々に編纂が終わっている

しかし、史実の資料には出てこないような

小さな実際の話を聞けることはありがたいことで

昔々の戦法であっても、現在に生かせる知恵はあると思うし

あくまで「自衛」であっても、おじいさん達の生き様には

同じく国を守る者として、共感する物はあるのではないだろうか

貴重な生き証人がいるうちに、是非、自衛隊の方にも

おじいさん達の話を聞いてもらいたいと個人的に思う




続く…



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ミャンマーに思いを寄せて 482

「彰古館」に行く数日前、会長さんに連絡をした

すると、会長さんは、ここ最近、急に脚が弱ってしまい

三宿まで出向くことが出来ないと言われた

よく考えると会長さんは94才(2012年当時)

お元気で普通の老人のように思っていたが

超・ご高齢であり、私たちが何気なく通っている

小さな段差なども、老人にはキツイのだろうなと

改めて再認識した




残念ながら、私は車で送迎できない

安易に誘ってしまった自分の考えが、甘かったことを痛感した

会長さんは、行きたくて残念がっておられて

とても申し訳ない気持ちになった

まだまだ残暑も厳しい折、無理は禁物

今回の会長さんの参加は、断念した




続く…



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ミャンマーに思いを寄せて 481

会長さんは、防疫給水部の隊員として活躍された

防疫給水部には、浄水器があり

1個師団に付き4台の浄水器を

消防ポンプ車の後ろに繋ぎ引っ張って行ったそうです




浄水器は、石井四郎軍医中将が開発されたフィルターを

用いた物で「石井式」とか「宇治式」と呼ばれている

石井式は分かるのだが、宇治式って…???

京都の宇治だろうか?宇治に何の関係があるのか

私には今でも分からない

※ご存じの方がおられましたら、教えて下さい




その浄水器が衛生学校の資料館「「彰古館」」にあると言う

会長さんと資料館を見に行くことが楽しみとなった




続く…



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ミャンマーに思いを寄せて 480

会長さんは、戦後、ビルマで戦ったイギリス軍の有志から

大使館を通して、旧日本兵に会いたいとの申し出があり

日本の代表の一員として

イギリス軍と一緒にインパール付近に3度ほど

行ったそうです

インドのカルカッタから入り、インパールへと一行は向かった




数十年前とは言え、死闘を繰り返した敵のイギリス軍

大勢の戦友の命を奪った相手

京都60会のおじいさんは、今でもイギリス軍が大嫌いだが

会長さんは、共に敵味方として勇敢に戦った者同士として

心を開かれたようだった





確かに恨みが無いと言えばウソになるかもしれない

しかし、国同士の戦争であり、参加した個人は

当初からイギリス人が大嫌いだった訳ではない

あちらも同じだったようで、イギリスに招かれた際

イギリス国内で、日本の国旗を掲げて歓迎されたことに

会長さんは驚き、ついこの間まで敵国だったのに

大丈夫だろうかと心配しつつ、とても嬉しかったと言われていた

その後も、ビルマで戦ったイギリス軍の人とは交流があり

文献等の交換などをしたそうです




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 479

会長さんの熱いお話しは続く




当初、行軍中には、装備品の他

各自、乾パン・缶詰・貴重品などを持ち

靴下の中にお米を入れて歩いたのだそうです




大叔父がインドのテグレパールからメイミョウの兵站病院に

向けて搬送されたとされる5月の末は

もうインパール作戦の前線では

インパール攻略は、不可能だと思われていたようだ




会長さんは、終戦後、収容キャンプに入った

シッタン川から歩きでペグーへ行き

三叉路のあるパヤジーと言う村で、アフリカ兵の監視の下

昭和20年の12月まで、テント暮らしをし

その後、ヤンゴンのコカインキャンプで

昭和21年の7月まで過ごす




コカインキャンプの側には

会長さん曰く「インアレイク」と言う湖があり

終戦後は、防疫給水部の隊員だったことから

湖の水を浄化して、キャンプに引き込む作業をしたそうです

ミャンマーに行った時も、会長さんは

この湖の近くになるとソワソワされて

マイクで一生懸命ガイドをして下さったことを思い出す




会長さんは、昭和21年8月に日本に帰られた




続く…



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