ミャンマーに思いを寄せて

亡き母の思いを果たすべく、ビルマで戦死した大叔父の足取りをたどる私の奮闘記録☆

2013年10月

ミャンマーに思いを寄せて 537

ここで私も勉強のつもりで、大叔父の

15師団及び歩兵60連隊の編制についてまとめてみる

60連隊の生き残りのおじいさん達に聞いても

入隊時に豊橋に行ったことはなく

京都の別の歩兵連隊に一度所属し

伏見師団から中国に渡る際に60連隊に配属され

現地で60連隊に合流している

大叔父の軍歴表からも、そのことは読み取れた





60連隊には、160連隊などの留守連隊は無く

豊橋の60連隊と言う割には

京都や東京の60連隊の戦友会は、京都出身の人ばかりである

その辺りがとても不思議だった





歩兵60連隊は大正期に廃止となったが

日中戦争が勃発し、その影響で

昭和12年に名古屋管区内において復活する

そしてその上級部隊の15師団も翌年昭和13年に復活した

15師団は、留守第16師団(京都)の担当で編制され

編制地は京都とされ、補充担任は、京都師管区であった

15師団は、京都の祇園祭にちなんで

通称:祭師団と呼ばれることとなった





京都には元々16師団がある

16師団は、15師団が編制された時は中国に行っていて

15師団が出来た翌年の昭和14年に

日本に帰って来たため、15師団の編制は

留守第16師団が受け持ったと言うのは理解できた





Wikipediaより

大叔父の15師団の「補充担任」は京都師管区となっている

そのため、60連隊には京都の人が大勢いたのだなと

理解した

※「師管区」とは、師団が管轄する地域のことを言う




続く…




※ブログランキングに参加してみました
大勢の方に読んでいただくことで、情報をいただけるよう
ご協力をお願いしますm(_ _)m
ポチッとな☆↓↓

人気ブログランキングへ

ミャンマーに思いを寄せて 536

未だに調べても調べてもよく分からないのが

大叔父の【歩兵60連隊】

大叔父は当初、歩兵128連隊で招集され

京都の伏見師団に入営する

その後、60連隊の補充要員として大陸に出発する





60連隊は元々、愛知県・豊橋の連隊である

明治38年に設立された由緒ある連隊だ

60連隊の将校集会所は現在も残っており

愛知大学の総合郷土研究所として使用されているらしい

この集会所は明治41年に建てられた

集会所手前の現在の愛知大学の通用門も

60連隊の正門跡と言う説もある

また現在の愛知大学の大学記念館は

15師団の司令部庁舎跡である




しかし第一次世界大戦の後、世界的に軍縮が叫ばれる中

関東大震災の煽りを受け、復興費捻出のために

大正14年に第三次軍備整理が行われ

4個師団ほかが廃止となった

その師団の中に60連隊の上級部隊である

15師団も含まれ、併せて60連隊も廃止となった

当時の陸軍大臣の名前を取って

いわゆる宇垣軍縮と呼ばれるものである





昭和12年になり、名古屋管区内において60連隊はまた復活する

そして15師団も昭和13年に復活した





先の集会所も、昭和14年からは

豊橋にあった陸軍予備士官学校の

将校集会所として使用された




続く…




※ブログランキングに参加してみました
大勢の方に読んでいただくことで、情報をいただけるよう
ご協力をお願いしますm(_ _)m
ポチッとな☆↓↓

人気ブログランキングへ

ミャンマーに思いを寄せて 535

分からないことだらけで、頭の中がグルグル

毎日、調べ物をしている状態

動乱の時代、有事特有の臨機応変で

「一般的に」と言うのが通じず

特に終戦間際の頃は、何でも有りの感がある

それを戦史を知らない現代の私が

文献で紐解こうとしても難しい限りなのだ





ブログの経過では、調べたことをまとめて書いているが

ほんとうは些細な調べ物に何週間も

かかっていることも多々あり

毎日がビルマ漬けと言っても過言でないほどだ





周りから見れば、ちょっと妖しい不思議ちゃん

ミリタリー雑誌「丸」での連載は、お友達も驚いていたが

「チベットで行方不明になったおじさんを探してる」とか

「趣味は遺骨収集」などと、全く違う噂になっていた

ビルマが何故かチベットになり、大叔父が叔父になり…

さすがに遺骨収集の趣味はない





私の調査は、他の人にはなかなか理解してはもらえない

調べに行った先では「何故そんなことを調べているのか」と

怪訝な雰囲気で、おかしな人に思われることも多かった

でも中には、読者様から励ましのメッセージも来る





東京大空襲で家族全員が亡くなり1人残った小さな女の子

大きくなり山梨にお嫁さんに行って幸せに暮らした

亡くなる前に息子さんに遺言で

自分が亡くなったら遺灰を隅田川に流してほしいと頼んだ

家族と離ればなれになった東京大空襲の隅田川

最後まで忘れていなかった大切な家族

現在の日本国内では、勝手に遺灰を蒔くことは

いけない地域もあるらしい

それを調べて手続きをし、隅田川に流したのだそうです

家族が全員いなくなり焼け野原となった東京で

どんなに心細く、寂しかっただろう、お父さん…お母さん…

女の子は、その後、どのように生き抜いたのか

戦後、何十年を経て、女の子は母となり、人生を全うして

今やっと、隅田川で家族と一緒になり、ゆっくりと流れていった。。。

分からない人には分からない

だけど私は応援していますとおっしゃって下さった





こんな人は知らない・いなかったと言われる

大叔父が不憫で、どうしても探してあげたい

母の遺言のような形で、何気なく気軽に始めた調査

まさかこんなに奥が深いとは。。。

重なり続ける偶然とご縁、行き詰まると開ける道

伯父が言うように、私は大叔父に選ばれたのかな

運命なのかなと、ふと思う

もう少し頑張って見よう

大叔父が守ってくれているように思うから




続く…




※ブログランキングに参加してみました
大勢の方に読んでいただくことで、情報をいただけるよう
ご協力をお願いしますm(_ _)m
ポチッとな☆↓↓

人気ブログランキングへ

ミャンマーに思いを寄せて 534

ところで、元々の親部隊とは言え

戦闘間、他師団に配属されている1個大隊に

師団の情報参謀が直接行き

助言をするなんてことがあるのだろうか?

たまたま通りかかったと言うには

あまりにも第一線であり、しかも他師団の管轄地





私は桑原参謀と言う名前に聞き覚えがあった

先の講演会で聞いた藤原さんの第8課の後任者である

桑原さんのことだと分かった

少し気になり調べると、桑原さんも光機関の出身者であった

桑原参謀も関係者なんだ。。。





通常は会議などで集まる場合

真ん中である祭師団付近に集まるのが一般的だと思われる

ただ、インパール作戦の場合、主な師団は弓師団であり

15軍の情報参謀の藤原中佐が弓師団の山本支隊に

居ることが多かったため

弓師団付近に各師団の情報参謀が集合した

と考えることは出来る





作戦が上手く行っていない今

各師団の情報参謀が集められ、状況を掌握しても

おかしくはない

その途中、自分の師団の大隊を見に行き

玉砕しかけている状況を目の当たりにし助けた

桑原参謀は、ほんとうによく出来た人であったと

見るのが普通であるのだろう





だが何故か私の心の中には引っ掛かる物があった

桑原参謀の行動は、一般的なのだろうか?

60連隊の第一大隊は、単に他師団に差し出した

1個大隊ではなく、インド国民軍も近くにおり

光機関の何らかの任務を帯びた重要な部隊だったのではないか

そんな色眼鏡で見ているからだ




続く…




※ブログランキングに参加してみました
大勢の方に読んでいただくことで、情報をいただけるよう
ご協力をお願いしますm(_ _)m
ポチッとな☆↓↓


人気ブログランキングへ

ミャンマーに思いを寄せて 533

その他に自分で調べられることは何だろう

分からないこと・調べることは山のようあった





60連隊のことが書かれた

伊藤桂一 著 「遙かなインパール」をもう一度読み直した

以前に読んだ時より状況も変わってきているため

また違う視点から見ることが出来るかもしれない





大叔父の大隊は、祭師団から弓師団の

山本支隊に1個大隊だけ編入されていた

出来れば最後まで60連隊の軍旗の下で戦いたかった

しかし目標は同じくインパール攻略であり

日本の勝利のために山本支隊で

60連隊の名を汚さぬよう戦い抜く覚悟を決めた第一大隊





モーレと言う地点で山本支隊と合流した後

山本支隊長の指揮下に入った

第一大隊に課せられた任務は厳しかったようである

敵と対峙し、意地になった第一大隊はいきなり玉砕しかける





そこに祭師団の情報参謀の「桑原参謀」が来て

大隊に助言をし山本支隊と調整してくれて

かろうじて難を逃れた

この後、山本支隊から目標変更の命令が来て

第一大隊は迂回し、別の目標の敵を背後から攻めるのだが

この行為が、近隣の他部隊には戦場離脱と勘違いされ

後世まで第一大隊は屈辱であった





作戦上しかたがないが、なぜ第一大隊だけ

60連隊を離れなければいけないのか

厳しい内容の命令を出してくる山本支隊長に対し

やや不服を感じる中

師団を離れても現地まで心配して来てくれた

祭師団の情報参謀

下手をすると越権行為であるが

桑原参謀は上手く山本支隊長と調整して下さり

第一大隊の皆は、祭師団は我々を見放してはいないと

桑原参謀に大変感激したそうである




続く…



※ブログランキングに参加してみました
大勢の方に読んでいただくことで、情報をいただけるよう
ご協力をお願いしますm(_ _)m
ポチッとな☆↓↓


人気ブログランキングへ

ミャンマーに思いを寄せて 532

講演会が終わり、高揚したまま

会場であるグランドヒル市ヶ谷を後にした





中野学校の関係者には滅多にお知り合いになれない

もしお知り合いになったとしても

おいそれとは口を開いて下さらないだろう

冨澤先生の支援をいただけたことは

大変ありがたいことであり

冨澤先生のお返事を心待ちにした





一方、その頃ミリタリー雑誌「丸」では

大叔父の記事を連載し

情報提供を呼びかけていただいていた

末文には大叔父の簡単な経歴と

「大隊本部または支隊本部で通訳として従事していた
可能性があるが詳細不明。」

と記載していた

しかし、丸の読者様からはまだ何も情報は寄せられていなかった





原稿を提出した頃は、まだ中野学校や特務機関が

出て来ていない頃だったのでしかたがない

もしほんとうに特務機関関係者だった場合は

見当違いの人捜しもいいとこだ

続編の連載の際に修正しよう

丸の連載の約束は、旅行記の後

ミャンマーに「行くまで」→「行った後」の3部物であった




続く…




※ブログランキングに参加してみました
大勢の方に読んでいただくことで、情報をいただけるよう
ご協力をお願いしますm(_ _)m
ポチッとな☆↓↓


人気ブログランキングへ

ミャンマーに思いを寄せて 531

講演会の主内容は次の通りであった

配布された資料より

1 前言
2 手記「F機関」概要
3 この解説の問題点
4 藤原の第8課での仕事を申し受け、
  結局左遷された同期生・桑原氏のこと
5 藤原も桑原も復員直後に原稿を残している
6 戦後の藤原の軌跡
7 私の知る藤原の人となり
8 結言





私のまだ知らない藤原さんの話はとても興味深かった

藤原氏の著書「F機関」は、昭和40年に原書房から

出版され、今回は3度目の復刻版の発売であり

時代を超えて読み継がれている本である

復刻版はバジリコ(株)より定価2,200円(税抜き)で

販売されています





藤原さんの同期で桑原さんと言う方がおられ

第8課の藤原さんの後任者にあたる

藤原さんの藤原機関での活躍は柔軟な発想力が

鍵となり、当時の型にはまった真面目な軍人には

真似の出来ないことであったようである

その点で、藤原さんは成功し、比較対象とされた

後任の桑原さんは失敗とみなされたようである





講演会の中で、少し気になったのは

藤原さんは豊橋にいたこともあると話されていたこと

それと、少し分かりづらかったが

藤原さんもしくは冨澤先生のお身内

もしくは、桑原さんの息子さんが京都大学の教授が

おられるとのこと

些細なことだったが、気になりメモ書きした




続く…




※ブログランキングに参加してみました
大勢の方に読んでいただくことで、情報をいただけるよう
ご協力をお願いしますm(_ _)m
ポチッとな☆↓↓

人気ブログランキングへ

ミャンマーに思いを寄せて 530

見ず知らずの私が飛び込みで押しかけたにも関わらず

ご厚意で 冨澤先生は、ほんとうに親切にして下さった

真剣に調査をしていることが伝わって安堵した





今回の演目は「帝国陸軍の反省と自衛隊 

~「F機関」著者・藤原岩市追想」~であり

ビルマと言うよりマレーでのインド人工作についてを

中心に話すが、良かったら聞いていって下さいと

冨澤先生はおっしゃって、話しは終わった





私が立ち上がると一斉に

挨拶を待っておられた方達が押し寄せ

冨澤先生の人気ぶりを垣間見た

きっと私の様な者まで親切にして下さるお人柄が

人々を引き寄せる魅力の1つなのだろう





安全保障フォーラムと言う私には場違いな講演会で

あったが、そのまま会場で参加させていただいた

冨澤先生は、ビルマのことは少ないと言われていたが

先ほどの私との会話の影響か

そのほとんどがビルマの話であったのは気のせいだろうか





講演会の内容は、とても面白くて素晴らしかった

緊張が解けた私は、堅苦しい難しい話で

居眠りをしたらどうしようと心配していたが

冨澤先生の語り口がとても上手で

皆を飽きさせない話の工夫はさずがだと思った

中身はすごい内容なのに

時折、笑いが起きる楽しい雰囲気で最後まで拝聴した



続く…



※ブログランキングに参加してみました
大勢の方に読んでいただくことで、情報をいただけるよう
ご協力をお願いしますm(_ _)m
ポチッとな☆↓↓

人気ブログランキングへ

ミャンマーに思いを寄せて 529

冨澤先生はずっと私の相手をして下さった

途中で受付の方のお心遣いでお茶までいただいた

時折、大叔父の補足説明を付け加えながら

きっと私は半泣きのまま必死の形相だっただろう

冨澤先生もビルマの状況や藤原機関の話を熱く語られた





中野校友会発行の「中野学校」と言う本に付いていた

卒業者名簿には、大叔父の名前はなかった

しかし、「不明」と言う文字が散見され

その不明の意味は、生死・行方が不明なのか

中野学校生は終始、偽名を使用していたため

氏名が不明なのか分からない

藤原機関には、大叔父はいなかったが

その後に拡大する光機関などには

中野学校出身者の下士官や

中野学校出身以外の一般の下士官、軍属も含まれる

冨澤先生は、下士官のことについては

あまりご存じない様子であった





気がつけば、会場には安全保障フォーラムの参加者が

大勢入っておられた

参加者の皆さんの中で、若い(?)女性の私は異質であった

しかも1番前の席で、冨澤先生を独占し熱く語り合っている

その様子に誰しもが遠慮をし

冨澤先生に声を掛けられない状況にあった

冨澤先生にご挨拶をしたい方々が一列に並んで

遠巻きに私達を見守っておられた

中には96才の旧軍の方も待っておられた





開演時間が迫っており私はハラハラした

冨澤先生は周りを見渡され

96才のおじいさんを見つけて

「○○さんがおられるが、あの方はビルマじゃないんだよね」

と言われた(確かガダルカナルだったように思う)





冨澤先生は、大叔父は特務機関にいた可能性が高いと思う

と言われて「それでは、中野学校の関係者に

聞いてみましょう」と言って下さった

藤原機関に最初からおられた中野学校卒業者で

中野学校の残務処理をされた方のご子息がおられるそうで

その方に聞いて下さると約束していただくことが出来た

なんと心強いことか!ありがたく感謝してもしきれない




続く…




※ブログランキングに参加してみました
大勢の方に読んでいただくことで、情報をいただけるよう
ご協力をお願いしますm(_ _)m
ポチッとな☆↓↓

人気ブログランキングへ

ミャンマーに思いを寄せて 528

山本支隊長の回想録にも藤原中佐の名前は

しばしば出てきており、15軍司令部から

何の連絡のために通っていたかは定かではないが

山本支隊長の元へ何度も通っていたことが分かっている

この後の冨澤先生の講演会の中でも

最後には山本支隊長に「君の言うことはもう聞けない」と

藤原中佐は言われたと話されていた

藤原中佐は個人的にもインド国民軍のことを

ずっと気に掛けていただろう

それ以上に、形式上指揮系統は違うが

友軍としてインパール作戦に参加するインド国民軍は

大変重要であったと思われる





大叔父の歩兵60連隊の第一大隊だけは祭師団から離れ

弓師団である山本支隊に編入されている

山本支隊とインド国民軍の関係

インド国民軍と光機関の関係

そして、山本支隊と60連隊第一大隊の関係

山本支隊と15軍情報参謀であり

藤原機関長であった藤原中佐の関係

後の60連隊の連隊長は光機関の軍事部長だった北部大佐

英語が堪能だったことから通訳として

戦地に赴くと言っていた大叔父

インドの公用語は英語だったこと

60連隊所属となっているが、60連隊に存在しない大叔父

大叔父の死亡者調書は、死後1年以上後に

北部大佐が連隊長として着任されてから発簡されていること

中野学校の慰霊碑は京都にあり

その隣に60連隊の慰霊碑もある

60連隊と中野学校の関係





なんだかよく分からないがモヤモヤとした気持ちになる

ほんとうに漠然とではあるが

全てが絡み合っているように思えてならなかった

大きな何かの渦に巻かれ翻弄された大叔父が

見え隠れするような気がする

それにしても60連隊って何か変だよね。。。




続く…




※ブログランキングに参加してみました
大勢の方に読んでいただくことで、情報をいただけるよう
ご協力をお願いしますm(_ _)m
ポチッとな☆↓↓

人気ブログランキングへ

ミャンマーに思いを寄せて 527

藤原機関の後、藤原中佐は第15軍の情報参謀となる

藤原機関は、岩畔機関→光機関になり

組織の拡大と共に、指揮官の機関長の階級も

中佐→大佐→中将となって行く

藤原中佐は、第15軍の情報参謀になってからも

岩畔機関や光機関に関わったであろう

インパール作戦を行う15軍にとって

光機関が率いるインド国民軍の存在は欠かすことが出来ない

冨澤先生のお話しでは、インド国民軍は主として

山本支隊に付いて行動していたそうである





以前に山本支隊の装備についてブログに書いたところ

読者の方から、「重火器に比べ、歩兵の数が

少なすぎるのではないかと」ご指摘をいただいた

以前のブログ記事はコチラ↓↓
「ミャンマーに思いを寄せて 379」
http://blog.livedoor.jp/aya_sann/archives/1851059.html


私には、戦車連隊や挺進隊も付いている珍しい部隊だ

くらいしか分からず、旅団クラスの部隊の

装備がどれくらいで、歩兵の割合は…など

専門的なことは全く分からなかったため

歩兵が足りないとご指摘いただいても

どうすることも出来なかった(スミマセン





しかし、インド国民軍には一部、砲兵などもいたようだが

ほぼ歩兵だったため、山本支隊の歩兵力が足りない

と言うのは、インド国民軍でカバーすると考えれば

つじつまが合うのではないか

日本軍とインド国民軍は指揮系統が違うため

日本軍の編制表には出て来ないのだ

現在で言えば、日米共同訓練と似ているかもしれない

山本支隊とインド国民軍は

切っても切れない関係であったのではないだろうか



続く…



※ブログランキングに参加してみました
大勢の方に読んでいただくことで、情報をいただけるよう
ご協力をお願いしますm(_ _)m
ポチッとな☆↓↓


人気ブログランキングへ

ミャンマーに思いを寄せて 526

落胆している私に優しく話を続けて下さった

藤原機関長もマラリアにかかったそうである

マラリアでフラフラの状態で

師団に調整に行っては帰らないと主張する藤原さんを

説得出来ず、麻酔で眠らせて帰らせたと言う

戦場では、もちろんトイレットペーパーもなかったのだそうです

大叔父も同じくマラリアで戦病死したので

そう言った話をして下さったのであろう





ビルマ戦記にはいつも川が出てくる

雨期の大きな川が後退する日本軍を苦しめた

手記の多くには、川を渡る際は筏(いかだ)を作ったと

書かれていたが、一応、一部には船着き場があったようで

その船はポンポン蒸気の船であったそうである

大叔父が病院に搬送された時期は

まだ撤退命令も出ておらず、戦況は悪化していたが

きっと船で川を渡ったのであろう

おじいさん達の様々なお話しを聞いたり

手記を読んだりしているが、川 のイメージが

いまいち分からず、冨澤先生の説明で

なんとなくイメージすることが出来た





藤原中佐は元々、情報畑の人ではない

陸軍参謀本部 第2部の第8課(諜報・謀略課)と言う

心理戦や宣伝戦、思想戦を行っていた部署にいたことから

中野学校の教官を兼務し

藤原機関を設立することとなる





藤原機関は後に、岩畔(いわくろ)機関へと拡大していく

大叔父がビルマ入りしたインパール作戦前の

ビルマにおいての特務機関は他にもあったが

時期的には、南機関の残務であるとか

岩畔・光機関(藤原機関の後継の機関)に

おいては宣伝戦に力を入れていたそうである

南機関については、ビルマ人工作

藤原→岩畔→光機関はインド人工作

南機関は、100人斬り競争(虚報の武勇伝)の野田大尉が

有名であるが、藤原機関とは別の特務機関ですと

冨澤先生は丁寧に説明して下さった



続く…



※ブログランキングに参加してみました
大勢の方に読んでいただくことで、情報をいただけるよう
ご協力をお願いしますm(_ _)m
ポチッとな☆↓↓


人気ブログランキングへ

ミャンマーに思いを寄せて 525

つたない説明ではあったが、冨澤先生に

なんとか私の主張する内容の各々のポイントは

伝わったように思う





冨澤先生がまず最初におっしゃったのは

大叔父は藤原機関にはいなかったと断言された

私はとても落胆したが、それには明白な理由があった

藤原機関は、当初10数人と言う少数で立ち上げ

最大でも30名くらいだったそうです

そのメンバーの名前は全員分かっており

その中に大叔父はいなかった





私は一瞬、いないと言う言葉で突き放されて

これでおしまいかと悲しくなった

確かに何の関係もない私の面倒な人捜しは

迷惑であって当然である

きっと私は半泣きの顔であったろう

自分でも涙が滲むのがわかった





しかし冨澤先生は続けて

藤原機関のことについて大変詳しく

しかも素人である私に分かりやすく

優しく丁寧に説明して下さった

さすが専門家であり、お身内である

まだ大叔父が特務機関にいたと確信してから

1ヶ月余りのため、勉強不足の私には大変ありがたかった




続く…




※ブログランキングに参加してみました
大勢の方に読んでいただくことで、情報をいただけるよう
ご協力をお願いしますm(_ _)m
ポチッとな☆↓↓

人気ブログランキングへ※ブログランキ

ミャンマーに思いを寄せて 524

講演会の会場は、自衛隊市ヶ谷駐屯地の隣にある

グランドヒル市ヶ谷と言うホテルだった

このホテルは、昔の木村拓哉のドラマ「ロングバケーション」の

チャペルシーンで利用されたことで有名だ

結婚式場もある立派なホテルで

そのホテルの珊瑚の間と言うホールで講演会が行われる





早めに着くと、まだ会場準備の最中で受付も閑散としている

受付を済ませ、冨澤先生にご挨拶話したいと伝えると

私の事を冨澤様の知り合いだと思われた受付の方が

親切に控え室に案内して下さった

もちろん知り合いではなく初対面であり

会って下さるかも分からない状況であったが

ご厚意に甘えることとした





冨澤先生は、他の階にいらっしゃって

突然失礼な私の訪問にも寛大に対応いただき

講演会の準備を切り上げて

会場でお話しを聞きましょうと言って下さった





まだ準備中の会場の1番前の席でお話を聞いていただいた

資料もある程度、目を通していただけいるようであり

まずは、私が主張する「大叔父の軍歴表のつじつまが合わない」と

言う件について、詳細を尋ねられた

お話しすると、真剣に聞いて下さった

時には、「うーん」と唸りながら、だんだんと身を乗り出して

興味深く私の話に聞き入っておられる

私の言いたいことを理解して下さったようであった





続く…





※ブログランキングに参加してみました
大勢の方に読んでいただくことで、情報をいただけるよう
ご協力をお願いしますm(_ _)m
ポチッとな☆↓↓

人気ブログランキングへ

ミャンマーに思いを寄せて 523

藤原機関の講演会をされる冨澤様に連絡を取った

自衛隊の隊友会からのご案内ではあったが

隊友会の会員ではないため参加出来るか不安であった

しかし快く参加を承諾してくださり、拝聴する機会を得た





申し込みのメールに、実は大叔父の足跡を辿っており

F機関にいたかもしれないと言う旨を付け加え

後日、大叔父に関する資料をまとめ

お手紙を添えて送付した

正直、面倒なことで、ご迷惑であろうというのは分かっていた

しかし、藁をも掴む想いだった





申し込みから1週間後、楽しみのような不安の中

講演会当日はすぐにやってきた

安全保障フォーラムと聞いただけで

専門家のとても偉い方が参加なさるのはではないか

私なんか場違いかもしれないと不安が募る

完全に私的なことであり、勝手に資料を送付したため

講演会参加は了承されたが、私の相談に乗ってくださるかは

全く別問題であった





もし講演会中に質疑応答の時間があったとしても

個人的なことのためご迷惑になる

私自身も、専門家の皆様の前で上手く伝えられる自信はない

そこで、講演会の前に、押しかける作戦を取ることにした




続く…




※ブログランキングに参加してみました
大勢の方に読んでいただくことで、情報をいただけるよう
ご協力をお願いしますm(_ _)m
ポチッとな☆↓↓



人気ブログランキングへ

ミャンマーに思いを寄せて 522

私は軍事関係に疎く、関係があるところか・ないところか

分からないが、とりあえず手当たり次第

様々なところに顔を出し情報提供を呼びかけていた





大叔父の調査が中野学校や藤原機関で行き詰まり

どうしたものかと思っていた時

自衛隊の隊友会と言う

自衛隊OBの方で編成されている会の方から

第104回 安全保障フォーラム
演題「帝国陸軍の反省ー『F機関』 著者・藤原 岩市 追想」

と言うご案内をいただいた





えええぇぇぇっっ!!あまりのタイミングに驚きまくった

調べたいと思っていた藤原機関についての講演会

ピンポイントもいいとこだ

特務機関の藤原機関についての講演会なんて珍しく思う

こんなことってあるんだと、ほんとうに驚いた

先日お願いをしていた際に、藤原機関のことが分からなくて

困っていると話したことを、隊友会の方が

覚えて下さっていて、わざわざ知らせて下さったのだ

心から感謝した





講師の先生は冨澤 暉 氏と言う方であった

調べたら、この方は、元・陸上幕僚長と言う

陸上自衛隊のトップだった偉い方で

藤原機関の藤原中佐の娘婿さんに当たる方だった

これはすごい。。。身内も身内、単なる研究者ではない

あまりのことに身震いがした




私は早速、申し込みの手続きのため

冨澤様に連絡を入れた

※ブログでお名前を出すことについて、冨澤様の了解を得ています




続く…




※ブログランキングに参加してみました
大勢の方に読んでいただくことで、情報をいただけるよう
ご協力をお願いしますm(_ _)m
ポチッとな☆↓↓

人気ブログランキングへ

ミャンマーに思いを寄せて 521

残った可能性としては、知人や家族筋からの接触

知人や家族の中に軍の高層部と関係がありそうな人

知人と言っても私には分からない

家族はどうであったか?

祖父はお寺の宗派から考えたが、その他はどうか





大叔父は、祖父のお寺に住んでいたこともあったようだが

学生の間は京都・伏見の姉婿宅に下宿し

そこから○○中学&大学に通っていた

学校からの手紙類も姉婿宅に届けられていた

姉婿は秋田に金山を持ちとても裕福だったと聞く

伏見の屋敷は歌舞伎の長谷川一夫から買い取ったと

伯父はいつも自慢していた





この姉は、母が「東京のおばちゃん」と呼んでいた人だ

私は会ったことはないが

母が昭和30年代初頭に修学旅行で東京に行った際

自家用車で迎えに来てくれて、先生方全員に万年筆を配り

母だけ特別に外泊を許されたと言っていた

やはり戦後も裕福だったと思われる





裕福な姉のところに居候していた大叔父

曾祖父(大叔父の父)や祖父(大叔父の兄)も健在で

やはり学費未納の退学理由は解せない

私が引っ掛かったのは、金山を持っていたこと

秋田の金山を調べたがよく分からなかった

金でなかったとしても、鉱山は、たまたま昔から持っていた山に

偶然何らかが産出したのか

産出している鉱山を買ったのかそれは分からない

個人の山だとしても、何らかの産出があれば裕福であったろう

当時であれば、産出があったならば、国が買い取るもしくは

国が主導して産出の支援・補助をしたと考えてもおかしくない





この姉婿がとても気になった

中野学校うんぬんは別としても

親族の中で最も国や軍と直接関わっているように思う

姉婿については、何も調べていなかった

名前もよく分からない

伯父は名字で○○さんと呼んでいた

どうやって調べたらいいのだろう。。。

考えても思いつかなかった




続く…




※ブログランキングに参加してみました
大勢の方に読んでいただくことで、情報をいただけるよう
ご協力をお願いしますm(_ _)m
ポチッとな☆↓↓


人気ブログランキングへ

ミャンマーに思いを寄せて 520

次に大学関係を考えた

当時、大叔父の○○大学内には

常時3名の軍人が配置されていた

主に軍事教練を教えていたと思われる

大叔父の軍歴表にも「配属将校の行フ教練検定に合格す」と

出てくる

中尉から少尉クラスだと考えられる

大叔父は級長をしていたことなどから

優秀な部類だったのではないかと思う

そのため、目立ち

軍の関係者の目に留まったのではないかと考えた





外国の例では、イギリスの場合は

俗称:MI6(イギリスの諜報機関

007が所属していたことになっている組織)では

最近まで一般公募は行っていなかった

名門大学の教授陣が諜報要員の選考選抜を行い

大学生の中から適任の人材を選び推薦していた

大学関係者が情報当局の募集担当者との

橋渡しをしていたことが分かっている

アメリカのCIAも長いこと一般公募はなく

個別に目星を付けた人物に接触するスタイルだったと聞く





大叔父の○○大学においても、中野学校への推薦が

そう言う方法であったとしてもおかしくはない

ただ、校内に配属されている将校は

一般に教練を教えるために、歩兵で高齢やケガ等の理由で

第一線を退いた下級将校が充てられる場合が多い

そのため中野学校に直接関係するとは考えにくい

軍の機密部署だったのであれば

もし大学が関係している場合

もっと大きな力を持つ高級将校ではないだろうか





大学側に聞いてみたいと思ったが

そうでなくとも反戦を前面に出している大学に

中野学校と関わりがありましたか?などと

聞けるわけもなかった





続く…





※ブログランキングに参加してみました
大勢の方に読んでいただくことで、情報をいただけるよう
ご協力をお願いしますm(_ _)m
ポチッとな☆↓↓



人気ブログランキングへ

ミャンマーに思いを寄せて 519

ほんとうに中野学校に関わっていたとしても

本人が中野学校に行きたいと言って

簡単に行けるような所ではない

ましてや、当時でも軍の内部において一部の関係者を

除いては、全く知られていなかった組織

単なる大学生の大叔父が知るはずがない





そうだとすれば、中野学校の関係者が存在し

あちらから大叔父に接触したと考えられる

いくつか可能性を考えてみた

・祖父のお寺の関係

・大学関係

・その他の知人や家族





まず祖父のお寺の関係はどうだろうか?

当時は宗教でも軍に関わっていないとは言い切れない

国や軍に貢献することは当たり前であり

貢献することに喜びを感じ、最大の徳であったように思う

祖父の宗派は日本では2番目に大きな宗派だ

私の調べでは、海外に別院を持ってはいなかったようだが

大きな宗教団体として力も財力もあっただろう

軍や外国と関係があってもはおかしくない

この宗派の上層部に祖父や親族が占めており

大叔父の身元は保証されたような物である





浄土真宗などは海外の別院を持っていて

布教活動と言う名目で中国大陸で展開している

ましてやビルマは仏教大国

軍と宗教とビルマ

何か関係があってもおかしくないように思った

白木の箱の件で浄土真宗のお寺に問い合わせた際

当時、軍に関わっていたことを現在は出来るだけ

表に出さないようにしている印象を受けた

印象が悪くなるのを恐れているのだろうか





もし祖父の宗派が中野学校関係者と何らか通じていた場合

真相を紐解くのはどう考えても難しいであろう

それと、祖父の宗派が関わっていたとしたら

祖父も知っていた可能性が出てくる

しかしそれは印象として無いように思った




続く…



※ブログランキングに参加してみました
大勢の方に読んでいただくことで、情報をいただけるよう
ご協力をお願いしますm(_ _)m
ポチッとな☆↓↓

人気ブログランキングへ

ミャンマーに思いを寄せて 518

大叔父は大学4回生の7月

「学費未納」と言う理由で退学している

時、昭和16年のことである

この16年と言う年は、大学生の招集免除を改め

始めて卒業時期を短縮し

その年の12月に軍隊に入隊させた年である

学徒出陣と呼ばれた時期より少し前に当たる





この不名誉とも言える退学理由に私は首をかしげた

祖父が弟である大叔父を大学まで行かせて

祖父は相当貧乏であったのだろうか?と考えた

しかし、住職の傍ら、役場にも勤めており

昭和の初めまで小学校の校長先生をしていた曾祖父

(大叔父の親)も祖父と同居しており

当時の話を聞く限り、お金に困っていた印象は無い





短縮卒業で入隊を拒否する者については

大学側は退学と言う強硬な処置を取った

そのまま短縮卒業で戦争に行かせたくない祖父が学費支援を

単に打ち切ったのではないかと思った

そして、理由をもし「一身上の都合」とした場合

一身上の都合とは何かと問われる

しかし、学費未納になれば何も聞かれず退学することが出来る





しかし、在学中から中野に通っていたことや

退学後の空白の2年間、最終的には中野に移り住むこと

などを含め、その間、本格的な訓練を受けていたと仮定すれば

戦争に行かせたくない・行きたくないための

単なる退学だったのであろうかと疑問に思えてきた




続く…




※ブログランキングに参加してみました
大勢の方に読んでいただくことで、情報をいただけるよう
ご協力をお願いしますm(_ _)m
ポチッとな☆↓↓

人気ブログランキングへ

近況報告

読者の皆様へ



いつも読んで下さってありがとうございます

最近、記事の方はどんどん濃厚なダークな世界へと

入ってきました
 

自分の頭の中でなんとかギリギリ理解していても

それを文章で皆様に伝えるとなると

時代の背景や、戦史の補足説明等を含め

それ以上に勉強しなければならず

頭が追いつかないのが現状です

これからもっともっと深みにはまります





このブログをお読みの方は、戦史がお好きで詳しい方も

いらっしゃるのですが、そうでない初心者の方にも

分かりやすいように私レベルでの書き方を心がけています

しかし、ここ最近はかなりマニアックなレベルの話に

なってきました

お気づきの方もいらっしゃるとは思いますが

ここ数日の記事は、何を言いたいのか分からない文面も

多々あるのです

全てが明白な理由の無い直感で突き進んでいるため

なぜそんな考え方に至ったのか

自分でもよく分からない部分もあり、後付で理由を考えると

どうも説明が上手く行かないのです(>_<)スミマセン




ここ数日、記事が停滞しているのは、

勉強不足で追いつかないだけではなく

実は、この後、ある方にお世話になるのですが

お名前を出しても宜しいですかとお伺いを立てている最中です

お返事がまだ無いため進められないのです

有名人ですので、誤魔化しようがないのですが

もしかしたら、お名前が分からないように

話自体をぼかして進むことになるかもしれません





記事の内容は1年前くらいですが

現在も変わりなく、大叔父の行方は分かっていません

そんな人は知らない・いなかったと言われる

大叔父が不憫でなりません

大叔父をご存じの方にお会いしたり

何かの文書に大叔父の名前が出てくれば

納得して調査を終えたいと思っています





戦史叢書などには出て来ない、小さな証言や裏話を

集めなければいけないのですが

ご健在の旧軍関係者が少なくなった今、とても難航しています

私の教科書とも言える「遙かなるインパール」の著者

伊藤桂一先生にお話しを聞きたいと思いましたが

現在は、ご健在かも、お住まいさえも分からないと出版社から

お返事がありました

その他の旧軍関係者の方も、ご高齢を理由に家族に

断られるケースが相次ぎ、途方に暮れています





光機関に大叔父はいたと私は思っています

光機関全般のこと、その他、何かご存じの方

資料が少なすぎてどうにもなりません

どうかどうか何卒、どんな些細なことでもかまいません

どうぞ教えて下さい





これからどんどん激しい展開となり

裏の世界?の話に入ります

なんでこうなるのと自分でも唖然としますが

どうぞ宜しくお付き合い下さい




2013.10.13

※ブログランキングに参加してみました
大勢の方に読んでいただくことで、情報をいただけるよう
ご協力をお願いしますm(_ _)m
ポチッとな☆↓↓

人気ブログランキングへ

ミャンマーに思いを寄せて 517

光機関の軍事部長が60連隊の連隊長と言うことに

なんとなく、60連隊と光機関の関係は密であったのでは

ないかと思い始めた





・戦後(昭和21年5月)に作成された軍歴表

・大隊名さえ書かれていない軍歴表

・ビルマ入りした後は死ぬまでの間、白紙の軍歴表

・マラリア、アメーバー赤痢の下士官が
インパール手前のインド国内から
700kmも離れたビルマ国内の兵站病院まで搬送されたとなっていること

・ 病院に搬送されたと記載されている日付・場所は
中隊が玉砕した日と場所であること

・体格が小さく、機関銃中隊には不向きだったと思われること

・誰もが大叔父が60連隊にいなかったと証言すること

・終戦後(昭和21年4月)に独自に作成された
60連隊第一大隊機関銃中隊の死亡者名簿には
大叔父の名前が記載されている





そこで戦後の残務処理の過程に於いて

第一大隊の死亡者に加えられたのではないか?

玉砕の日に病院に搬送されたと言うことについては

以前は、突撃の前に何らかの恩恵を受け

第一線から外してもらったのだろうと思っていたが

玉砕の日にしておけば、誰にも分からないだろうと

言う公算があったのではないかと思えてきた





・大学在学中から、京都ー東京、市ヶ谷ー中野に通っていた
痕跡が残っていること

・退学後、出兵までの間、東京・中野に住んでいたこと

・通訳をすると本人が家族に伝えていること


・京都にある中野学校の慰霊碑の隣に60連隊の慰霊碑もある


・60連隊の連隊長は、光機関の軍事部長であったこと





これらのことから、特務機関の関係者だったのではないかと

勝手に思い込んだ

中野学校の卒業生ではなくとも、光機関(または南方遊撃隊司令部)

には中野学校の者以外に軍属や普通の下士官なども含まれており

その一員であった可能性は高いと判断した




続く…





※ブログランキングに参加してみました
大勢の方に読んでいただくことで、情報をいただけるよう
ご協力をお願いしますm(_ _)m
ポチッとな☆↓↓


人気ブログランキングへ

ミャンマーに思いを寄せて 516

南方遊撃隊司令部をもう少し詳しく調べてみた

しかし、細部に触れている資料はあまりなかったが

その中で、1つ気になることを発見した





大叔父の歩兵60連隊の連隊長について

配属の時の連隊長は、松村弘大佐(昭和18年3月1日~)

この松村大佐がインパール作戦間の指揮官である

次に北部 邦雄大佐(昭和19年11月27日~終戦)

※きたべと読むのか、ほくぶと読むのかさえ分からない

終戦後には鈴田正忠大佐となっている

Wikipediaでは、北部大佐が終戦までの最終連隊長となっているが

他の資料によると鈴田大佐が最後に出てくる

鈴田大佐は戦後処理の連隊長であろうか?

終戦後に連隊長に任命されることなんてあるのだろうか?

戦史叢書で後で調べてみよう。。。





大叔父の軍歴表ほか一緒に綴られていた軍歴資料の発行者は

・軍歴表…鈴田大佐

日付は読み取りづらいが21年5月かと思われる
終戦後に作成されたと考える


・死亡者調書…北部大佐

作成日は死亡から1年経過している





この北部大佐の前職が、光機関の軍事部長であることに気付く

戦乱で人員不足と言っても、特務機関の軍事部長が

普通の歩兵の連隊長に就くことに、なぜか不自然さを覚えた




続く…




※ブログランキングに参加してみました
大勢の方に読んでいただくことで、情報をいただけるよう
ご協力をお願いしますm(_ _)m
ポチッとな☆↓↓


人気ブログランキングへ

ミャンマーに思いを寄せて 515

光機関を調べていくうちに

「南方遊撃隊司令部」と言う組織を見つけた

これは大本営がインパール作戦において

遊撃戦を重視する方針を打ち出したため

インパール作戦開始に伴い

光機関を特務機関から、正規の軍事組織へと

位置づけを変えたための名称変更であった





インド軍の投降を促して軍事組織へと

作り上げる活動をしていたものが

これを支援して作戦を展開する役割へと切り替わったのだ

南方遊撃隊司令部の役割は、インド国民軍に対する

軍事訓練や補給面での支援であった

形式上、指揮権はないが、実際には作戦の指導・調整もしていたようだ

名称が変更になっても、通訳要員が必要なことに

変わりはなかった





戦前の外国語は、医学と哲学はドイツ語、文学はロシア語

芸術の世界ではフランス語が重視されていた

満州では中国語が公用語であり

英語はさほど重要視されておらず

ドイツ語やロシア語に比べ、英語が堪能な者は少なかった





大叔父は、ただ単にビルマの戦場に投入されたのではなく

英語が話せる者が必要なビルマに

適材として選ばれて行ったのではないかと思えてきた




続く…




※ブログランキングに参加してみました
大勢の方に読んでいただくことで、情報をいただけるよう
ご協力をお願いしますm(_ _)m
ポチッとな☆↓↓


人気ブログランキングへ

ミャンマーに思いを寄せて 514

マレーから始まった藤原機関→

ビルマで岩畔(いわくろ)機関→

そして光機関と発展し、大所帯の特務機関になって行く

思いの外、期待以上に英軍のインド兵捕虜は増え

急遽、中野学校出身者を中国大陸などからもかき集めた

光機関500名のうち、中野学校出身者は

133名(「陸軍中野学校」より)であった





絶対数の少ない中野学校出身者だけでは

到底、頭数が揃わず、その他の下士官、軍属なども投入された

特に、通訳として語学が堪能な者が要求された





インド人の言葉が話せる日本人はほとんどいなかった

唯一、藤原機関に通訳として従軍したのは

東京外語学校印度語部に在学中だった石川学生

だと言われている

在学中に学校長を通じスカウトし、本人と交渉した

ただ石川学生の語学力はあまり役に立たなかったようである

インド人の言葉は話せなくとも

イギリスの植民地軍であったインド人には英語が共通語として

使われていたため、英語の通訳も重宝された




大叔父は、大学に入って法律学部に在籍したが

その間も英語を学び中学から通算9年間も

英語を学んでいたことになる

なお当時、法学の世界ではドイツ語が主体であったが

国際法の世界ではイギリスが中心だったため

大叔父は英語を学び続けたのかもしれない

英語が堪能で通訳の任務に就いたと家族は聞いている




続く…



※ブログランキングに参加してみました
大勢の方に読んでいただくことで、情報をいただけるよう
ご協力をお願いしますm(_ _)m
ポチッとな☆↓↓




人気ブログランキングへ

ミャンマーに思いを寄せて 513

ビルマの特務機関として有名な南機関とF機関

時期的に考えると、南機関は大叔父には関係がなさそうである

そこでF機関に絞って調べだした





特務機関とは、日本軍の特殊軍事組織を言う

主な任務は

諜報活動…相手国や対象組織の情報を収集する活動
        スパイ活動とも言う

宣撫(せんぶ)工作…日本軍の目的や方針を示すことで
        その地域における民衆の心を安定させ
        治安の維持に寄与すること

対反乱作戦…ゲリラ、テロなどの反対勢力などの
          撲滅や制限をする作戦





藤原岩市中佐率いる藤原機関:通称F機関は

南方作戦に伴い設立され

当初は十数人と言う小グループで

最大時でも30名くらいだったそうである

F機関のFとは、Freedom,Friendship,Fujiwaraの「F」である

マレーから始まった藤原機関は

英軍のインド兵捕虜を接収していき

「私達はインド兵を捕虜として扱わない。友情をもって扱い
インドの独立の為に協力したい」とインド兵に宣言し

心理戦を用いインド人工作をしながら

インド国民軍の結成に協力した

そしてインドでの反英運動を煽り

ひいてはインドを独立させることでイギリスの

アジア戦線からの離脱をも狙った





F機関は後に、岩畔(いわくろ)機関に発展改組され

その時点で250人規模の組織となった

その後、光機関に拡大し、最大500名ほどの機関に発展していく




続く…




※ブログランキングに参加してみました
大勢の方に読んでいただくことで、情報をいただけるよう
ご協力をお願いしますm(_ _)m
ポチッとな☆↓↓


人気ブログランキングへ

ミャンマーに思いを寄せて 512

学会の大先生へ投げかけたが、それはそれとして

自分でも出来るだけ調べてみよう

まずはビルマの特務機関について調べてみた

小さな様々な特務機関があったが

有名なのは「南機関」と「藤原機関」と言うのが出て来た





南機関は、昭和16~17年にかけて存在した特務機関


機関長は鈴木敬司大佐

ビルマの独立運動の支援を任務とし

ビルマ独立義勇軍の誕生に貢献したとされる






一方、藤原機関は、F機関とも呼ばれ

機関長は、藤原岩市中佐

現地における宣伝戦、思想戦などの心理戦を行った

その意図は、マレー人、インド人、華僑等を味方にすることであり

後にインド国民軍(友軍)の創設に当たる

F機関は発展解消して岩畔機関となり

その後、光機関と名称を変え

最終的には500名余りの大きな機関となっていった






南機関の関連過去記事はこちら↓↓
(※モバイルからは上手く表示されないことがあります)

2012年12月8日
ミャンマーに思いを寄せて 318

2012年12月8日
ミャンマーに思いを寄せて 319





続く…




※ブログランキングに参加してみました
大勢の方に読んでいただくことで、情報をいただけるよう
ご協力をお願いしますm(_ _)m
ポチッとな☆↓↓

人気ブログランキングへ

ミャンマーに思いを寄せて 511

会食の後、参加者全員で広間で報告や話し合いがあった

もうほぼ遺族会に移行していること

HPが出来たこと

遺族の団結や新たな連絡手段としてメール等の活用等

色々と発表された





しかし、おじいさん達と遺族の役員さんとの間の

小競り合いも露わになり、喧嘩腰の会議は見るに堪えなかった

会長さんはターゲットにされ、苦笑しながら返答されていた

ずっと陰となり、実質的な事務業務に尽力され

老人の旧軍出身者を、おんぶに抱っこの状態である

遺族の役員の方にも言い分はあるのだろう

言い合えるほどの仲なのかもしれないが

一般参加者のその他大勢にはそれは分からない

会長さんから見れば子供くらいの遺族

この人達に後を託す全ビルマ会

会長さんの気持ちを考えると悲しくなった





いつかは遺族会になるとしても

旧軍の方がいらっしゃるうちは戦友会である

せめて人前だけでも、もう少しおじいさん達に敬意を払い

大切にしてもらいたいと思う

いつか会長さんが退会されたら

私は全ビルマ会に残るか分からない





その後、全ビルマ会に登録したメールアドレスには

定例会のお誘い等のメッセージが何度か届いたが

お世辞にも上手いとは言えない文面で

これから参加しようかと考えている方には

怪訝に映り、反対に参加者が減るのではないかと思うほど

残念なメッセージだった

それも2度ほど来て、その後は続かなかった

役員さんも試行錯誤のボランティアでの活動であり

贅沢は言えないが

端から見る限り、遺族会への移行は順調とは言えない





続く…




※ブログランキングに参加してみました
大勢の方に読んでいただくことで、情報をいただけるよう
ご協力をお願いしますm(_ _)m
ポチッとな☆↓↓

人気ブログランキングへ

ミャンマーに思いを寄せて 510

2012年11月3日

靖国神社で全ビルマ会 第54回 ビルマ方面慰霊祭が

厳かに行われた、参加者61名であった





集合までの間、休憩所で雑談をしていた時

遺族の先輩である役員さんに大叔父の調査の現状を話した

すると「誰でもはまる時があるんだよ」と笑われた

私も、そのはまる時期なんだろうか?

ひとときの熱のように、いつかは冷めるのだろうか?

大叔父の行方が分かり、調査が完了して終わるのならば良いが

諦めて分からず終いになるのは嫌だ

遺族と言っても様々な境遇の方がおられる

もし、いつか私と同じような後輩が出来たならば

私は真剣に話を聞いてあげたいと思った





そして、ミャンマー行きの時にお世話になった旅行会社の方も

おられて、来年のミャンマー行きのツアーの話をされた

会長さんのお脚が悪いので、会長さん自身が

「今回が最後かもしれない」と言われていたと聞いた

もう一度、会長さんがお元気なうちに

一緒にミャンマーに行きたいと私は思った




ここ数年、インパールへのツアーも復活したとのこと

インパールにはミャンマー側からでなくインドから入る

さすがにアラカン山脈を越えてミャンマーからインパールへは

行けないのだそうです

インパール地域は、紛争地帯のため長い間

外国人は立ち入ることが出来なかったが

ここ数年は立ち入りが緩和され、ツアーも企画されるようになった

しかし、手続きがとても大変で限られた旅行会社しか

許されていないそうです





旧日本軍が死闘を繰り返し目指したインパール

今はツアーとして楽々行くことが出来る




続く…




※ブログランキングに参加してみました
大勢の方に読んでいただくことで、情報をいただけるよう
ご協力をお願いしますm(_ _)m
ポチッとな☆↓↓


人気ブログランキングへ

ミャンマーに思いを寄せて 509

早速知人から学会の先生に連絡してもらった

階行社で行われる大先生の講演会に私が行くので

宜しくお願いしますと、先生から大先生に

伝えていただくこととなった





大先生に提出する資料作りに追われる日々が続いた

大先生は軍事史学会の役員もされており

とても偉い先生のようだった

この方ならば、様々なことをご存じだろう

先生が言われるには、私の調べたいことを大先生が

ご存じなくとも、人脈がとてもある方なので

きっと見方になる方をご紹介いただけるだろうとのこと

お忙しい方なので、時間はかかるかもしれないが

アタックしてみることにした





当日、開演前に少し早く行き、大先生にご挨拶した

すぐに私を分かって下さった

ただ「お役に立てるかは分かりませんよ」と言われ

忙しいため、時間を下さいとも付け加えられた

感触としては、少し迷惑そうであった。。。





それでも、滅多に知り合えない大先生に巡り会えたことに

私は満足し、大先生からのご連絡を待つことにした

(現況:残念ながら、もうすぐ1年となるが

今のところ全く連絡は来ない

歴史もほとんど知らない素人の推測の域の話であり

何も関係ない人間の人捜しに関わる物好きな人は

そうそういないだろう、しかたがないと諦めている)





続く…





※ブログランキングに参加してみました
大勢の方に読んでいただくことで、情報をいただけるよう
ご協力をお願いしますm(_ _)m
ポチッとな☆↓↓


人気ブログランキングへ

ミャンマーに思いを寄せて 508

会長さんと話すチャンスが来た

会長さんに、全ビルマ会に中野学校の人はいますか?と聞いてみた

しかし残念ながら1人もいないとのこと

では、特務機関の人は?それもいなかった





大叔父は60連隊におらず、どうも他の所で勤務していたようで

中野学校の関係者かもしれないと伝えると

「こりゃまた、偉いことになったな」と笑われた

中野学校の人達は、こう言った一般の戦友会には

出て来ないのだそうです

全ビルマ会から中野学校のことは得られなかった

来月の靖国での慰霊祭では、何なりとお手伝いをしますねと

付け加えて定例会参加を終えた





階行社の会議室を出て、廊下で帰り支度をしていると

貼り紙がふと目に入った

階行社では定期的に様々な講演会が催されている

その中で、先日、学会の先生から紹介すると言われていた

大先生の講演会が近々階行社で行われると張り出されていた

こんな偶然ってあるだろうか?

いつかご紹介いただけるかもしれない大先生に

直接すぐにお会いできるチャンス

私は知人に連絡を入れ、足早に階行社を後にしたのだった




続く…



※ブログランキングに参加してみました
大勢の方に読んでいただくことで、情報をいただけるよう
ご協力をお願いしますm(_ _)m
ポチッとな☆↓↓

人気ブログランキングへ
記事検索
プロフィール

aya_sann

カテゴリ別アーカイブ
タグクラウド
QRコード
QRコード
  • ライブドアブログ