ミャンマーに思いを寄せて

亡き母の思いを果たすべく、ビルマで戦死した大叔父の足取りをたどる私の奮闘記録☆

2013年11月

ミャンマーに思いを寄せて 565

冨澤先生からのお手紙には

介して下さっている方からのお手紙のコピーも

添えられていた


RIMG0523








残念ながら、大叔父の名前は中野学校関係に

未だ見あたらないそうです

同窓誌なども見ていただいたようです

ただ、昭和18年9月~20年3月の間

遊撃隊幹部要員は、中野学校出身者を含む

各部隊から臨時派遣された将校下士官で編制されており

中野学校が教育を担当した下士官の教育課程があり

もう少し探して下さるそうです





お手紙によると、この下士官の教育課程は

第一次・第二次に分かれており

第一次は、昭和18年9月~11月の3ヶ月間

第二次は、昭和19年1月~3月の3ヶ月間で終了している

そして、いずれも教育終了後は、南方に赴任した

加えて、戦後、南方でベトナムやインドネシア等各方面で

現地に残留された方々も、この中にあったと想像すると

書かれていた





遊撃隊とは、南方遊撃隊司令部のことである

中野学校には、戦争末期に短期の下士官の教育課程が

あったことも知っている





私も中野校友会が発行した中野学校と言う本の

末頁に綴られていた「陸軍中野学校教職員及び出身者名簿」

を何度も確認していたが、大叔父の名前は出て来なかった

しかし気になったのは、その名簿にたくさん出てくる「不明」の文字

中野学校では、常時、仮名を使っており

生死が不明なのか・どこの誰かが不明なのか判断出来なかった



 

冨澤先生のお言葉に甘えて、もう少し待ってみようと思う

そして、光機関などの特務機関には、中野学校の卒業者

ではない、下士官や一般の軍属も多くいる

落ち込んでいてもしかたがない、その線でも調べてみよう





中野学校の卒業生でない「その他」であると

調査は、かなり難航するであろうことは目に見えている。。。

行き詰まると「大叔父さん、ヒント下さい」と

空を見てはつぶやくようになっていた





続く…





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ミャンマーに思いを寄せて 564

待ちに待っていた冨澤先生からお手紙が届いた

冨澤先生には、昨年の講演会以来、お世話になっている

藤原機関の藤原中佐を義理の父に持ち

自らも、自衛隊OBで、元・陸上幕僚長と言う

陸上自衛隊のトップだった方だ





藤原機関にいた方が中野学校の残務処理をし

そのご子息が中野学校のことについて詳しいそうです

その方に、人を介して、連絡を取っていただいている





私が質問したことは

・大叔父が中野学校卒業者だったかどうか

・なぜ、中野学校の慰霊碑が京都にあるのか

・60連隊と中野学校の関係について

この3点である





果たしてどんな結果が待っているのか?

恐る恐る冨澤先生のお手紙を開けた。。。




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 563

今まで丸に連載しておられる大先生方とは

全くレベルが違い、普通の言葉遣いの女性の記事

ペンネーム:パンダジュエリー 

このカタカナのペンネームが

かえって斬新で、お堅いミリタリー雑誌の中で

良い感じに浮いたそうです(笑)

担当さんも、パンダジュエリーにして良かったですと

嬉しそうにしておられた 





家族の知り合いにも丸の読者さんがいて

パンダジュエリーが私だと知るととても驚かれて

「何者ですか?」と聞かれたらしい 

いえ、ただの主婦です





そんな中、担当者さんと打ち合わせをしていたとき

偶然、プロのライターさんとお会いし

同席してランチをした





お会いしたフリーのライターの方は

丸に掲載された私のミャンマー記事をご存じだった 

その方から、お褒めの言葉をいただき

お世辞でも嬉しいかったです





まずは、戦史記事として「あんな切り口があったとは」と

驚かれていた

確かに、かなり異質の記事だと思う 





そして、内容も濃く、きっちり調べて書いたことを

評価して下さいました

その上、書き方が「おもしろい」、「読みやすい」と

おもしろいって…???マジメな記事なんですけどあせあせ(飛び散る汗) 





プロには絶対に書けない記事なんだそうです

なぜなら、プロは与えられたテーマに沿って

それなりに上手くまとめるから

素人や研究者でないと、そこまで時間を割いて

調べたり出来ないのだそうです

数をこなして食べて行かなきゃいけないので

そこまでの記事は書けないんだそうです、なるほどな~





持ち上げられて、素直に喜んだ私、あ~単純(笑) 

しかし、担当者さんがとても驚いておられる???

実は、その方は、長野県にお住まいの

ライターさんだったから

東京と言っても片田舎の駅前のファミレスで

偶然にも東京に用事で出て来ていた人に会った

担当者さんが驚いた理由がよく分かった

「これはご縁ですよ」と運命的な出会いだと感動され

私の力になって下さるようにとお願いして下さった

私も重ねて今後のご協力をお願いした





歴史にとても詳しい方なのだそうで、心強く嬉しかったが

正直、今の私は大叔父をご存じの方を探すため

何を調べなければいけないのかさえが分からなくて

具体的に何を相談すれば良いのか見当が付かなかった





続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 562

ミリタリー雑誌「丸」での連載は、意外と好評だった

ただ、次回の連載は未定となり困っていた

歴史の証人がいなくなる前に

なんとしてでも大叔父の情報が欲しかった 





そこで戦史関係のプロの執筆家さんに相談してみた

丸に連載されたと言うことがどれほどのことか

「私でも連載枠をもらったことがない」

「連載をもらっているのは、著名な先生方ばかりだ」と言い切られ

「素人としては、○○ちゃんは十分すぎるくらい頑張ったよ

もうこれでいいんじゃない?」と終わってしまった 

でも私は雑誌に載せてもらうことが最終目的じゃない。。。





他の方法に移行しなきゃ

大叔父捜しがメインだけど、おじいさん達から聞いた話は

例えこぼれ話であっても、戦史に出てこない貴重な生の声

このまま私だけの中に閉まっておいてはもったいない。。。

なんとかしなきゃとの想いがつのります 

他の雑誌社への持ち込み、ブログ記事の更新の充実など

とりかく思いつくことをやってみた

より多くの方の目に留まり、情報が得られる方法…

何か良い手がありましたら読者の皆様も

アドバイス下さいませm(_ _)m

(※現在も模索中)





レベルは別として、このミャンマー記事は 

作り話ではないのに、自分でも予想の出来ない唖然とする展開

戦史の要素が多いけど、現在の話もある

現代版「ルーツ」だと言う人もいる

※昔にルーツと言う有名な本があったのだそうです





ジャーナリストがなかなか入れなかったミャンマー

最近は、急速に日本も進出しているけど

つい最近まで閉鎖された国だった

大きな国のため、企業が進出している地域は都心近辺の一部

お商売でもなく、ジャーナリストでもない

普通の主婦が見て感じた、素直なミャンマー

旅行記も含み、戦史においては、ぼちぼち詳しく調べている





どうしたらいいのだろう。。。

どんなことを、どこから得ればよいのか

その効果的な方法は何か?

時間がない、歴史の生き証人がおられるうちに、、、

地道に調べてはいるものの

大叔父に直接関係する進展はないまま時が流れた




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 561

京都市東山区にある、この霊山観音(りょうざんかんのん)は

昭和30年に、平和日本の建設と、殉国の英霊並びに

大戦による犠牲者の冥福を祈念するために建てられた

比較的新しい観音様で、高さは24mもある

白亜の美しい観音様である

120102_1056071














後で、帰り道で見つけたのは

中野学校の慰霊碑への案内?の石碑



RIMG0006







でもなぜ、東京の中野学校の慰霊碑が

京都にあるのだろう。。。

しかも60連隊の慰霊碑のお隣さん

中野学校の関係者は、京都にゆかりのある人が多かった?

中野学校で力のある人が、京都に住んでた?それは誰?

終戦直後は、中野学校の関係者はGHQに

追及されるから、東京を避けて京都にした?

でも昭和30年以降の話だよね

東京に建てたら、マスコミやその他の野次馬(?)に

お参りの度に騒がれるから???

でも何で京都だったんだろう。。。謎だ

東京には慰霊碑は無いのだろうか?

それとも全国各地にそれぞれの個人が建てた

中野学校の慰霊碑があるのだろうか?





そこで、先日からお世話になっている

冨澤先生にお聞きしてみた

冨澤先生もご存じではなく、関係者に聞いて下さるそうです




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 560

慰霊祭が終わり、会食場に移動する際

ふと思い出した。。。

そう言えば、昨年、この霊山観音の60連隊の慰霊碑の隣に

中野学校の慰霊碑もあると聞いた

それはどれなのだろう?




参加者にお聞きすると、連れて行って下さった

隣と言うから、すぐ隣に並んでいるのかと思っていたら

それぞれの慰霊碑は、少しずつ離れており

普通のお寺のような、小さな区画で整頓された

お墓の並びのイメージとは違う

大戦の慰霊碑群は

霊山観音の横を通り、やや裏手の山の中

経路から分かれる足下の悪い小径を上がると

ひっそりと小さく開けた場所があり、それぞれの領域がある

隣と言っても、少し離れたお隣さんである





60連隊の慰霊碑の隣の小径を上がると

中野学校の慰霊碑があった


RIMG0007







RIMG0008







RIMG0009







立派な慰霊碑である

石碑の文章を読んでみたが、なぜこの京都に

慰霊碑を建てたのかは書かれていなかった




続く…





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ミャンマーに思いを寄せて 559

2013年1月2日

このお正月も京都の霊山観音で行われる

60連隊の戦友会の新年行事に参加した

戦友さんは2名しか参加されておらず

あとは遺族の役員さんが少しだけ


120102_1056071

 












RIMG0005







戦友さんの1名は戦地に行っておられず

残りの1名は、大叔父の中隊とは違うが同じ大隊の方だった

御年93才、大叔父より1才年下





同じ大隊でも中隊が違うと若干経路は違ったらしい

大叔父が前線から搬送されたテグレパールと言う地点を

その方は帰りに通ったと言っておられた

大叔父は行きに通っている





その近くのモーレと言う所には野戦病院があった

野戦病院と言っても薬品も何もなく

ただ斜面の草の上に負傷者が寝かされている状態だったと言う

おじいさんは、肩と横腹に負傷したが

足をやられなかったから助かったのだと言っておられた





足をやられた人は歩けず、その野戦病院で死を待つだけだった

そして、敵に攻められ、やむを得ず残された傷病兵は

イギリス軍に生きたままガソリンをかけられて焼かれた





昨年、大叔父と同じ中隊だったおじいさんからも

その話は聞いていた

同じ中隊のおじいさんは、今年は不参加だった

昨年からずっと電話を入れているが全く連絡が取れない

体調が優れないのかと心配したがそうではないらしい

もっとお聞きしたいことがあった

・甲種幹部候補生の教育を「豊橋」で行った時期

・「豊橋」ではどこの部隊で教育を行ったのか?

まだまだ教えていただかなくてはいけないことがある

お元気でいて欲しいと祈ったのでした




続く…





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ミャンマーに思いを寄せて 558

年末に帰省した際、伯父のところに顔を出した

大叔父のお墓にも参った

伯父夫婦は、ミリタリー雑誌「丸」での連載を

とても喜んでくれていた





ただ、大叔父の調査の報告を私は言い出しにくかった

なぜなら、実は大叔父は60連隊には存在しておらず

どうも中野学校などの特務関係の任務に就いて

いたのではないかと思っているからだ





祭師団で機関銃手として戦病死したと

ずっと思っている伯父に、今頃になって

それは違ったかもしれないと告げると、どう思うだろう。。。

しかも、中野学校と言う言葉に対し

どんな感情を抱くか心配になった





恐る恐る、現状を報告した

すると、伯父夫婦は喜んだ

中野学校と言う言葉に反応したのだ

伯母が言うには、もし中野学校の関係者ならば

名誉なことであると言うのである





中野学校に入れる人は、厳選された人である

心身共に健康で、成績が良く

親族、思想、素行、家柄など全て調べてから

選ばれるのではないかとのこと




私が懸念していたこととは反対の反応にとても驚いたが

そう言う考え方もあるのだと知った

大叔父は親族の誇りなのだ




そのついでに、もしかしたら大叔父は生きている(いた)

かもしれないとも言われたことを伝えると

伯父は驚くこともなく「そうかもしれんなぁ」とつぶやいた

伯父は優しい表情で頷いている

それがどう言う気持ちなのかは分からないが

激動の時代、紙1枚で戦病死を告げられて

遠く異国の地で、何があったのか分からないまま

実は、死んでいなかったとしてもおかしくないのかもしれない

大叔父がもし生きていたら嬉しいのだろうなぁ

会いたいだろうなぁと思った





母の遺言のような形で始まった大叔父の調査

伯父が元気なうちに、良い報告が出来るように頑張ろうと思った

大叔父や祖父母のお墓に手を合わせ

どうか調査が順調に進みますようにと祈った




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 557

その頃、ミリタリー雑誌「丸」では

ミャンマー旅行記の連載が、もうすぐ完結するところ

残念ながら大叔父の情報は何1つ寄せられぬ状況だった



 

何やかんやと、掲載計画から1年半も放置され

「行きました」→「行くまで」→「行った後」の順番で掲載するとの

約束も、「行きました」終了後は未定と言うことになり

正直、泣きそうになっていました(T_T)

あちらもご商売、素人記事の人捜しに

お付き合いいただくのは申し訳ないのですが

意外と、記事自体は好評だったようです





情報収集が目的なので、早くしないと関係者が

天国に行っちゃうと焦っていました 

続きは番外編としていつか。。。と言われても

信じて待ってていいのか、かなり迷い

(1年経ち、来年2014年初頭から番外編を連載予定)
 
他社での本格的な掲載を念頭に思案することにした





ミリタリー雑誌「丸」への投稿は間違っていなかったと思う

私の記事の傾向とレベルでは、丸が最高峰だと思われる

ある人に言わせると、丸での連載は、かなりの経歴になるらしい(?) 

ただ、「行きました」の旅行記の真ん中だけ先に載せたので

他の部分だけ、よその出版社に持ち込めない状況となっていた 





他に格式高い「軍○研究」と言う雑誌に打診したが

論文形式の完結文を短編でとのことで、案の定、不採用だった

更に返信メッセージの最後の文章にひっかかった

「民間レベルでこのような研究をなさっていることは喜ばしいことです」

のような言葉が…褒められてるのか・けなされてるのか???

ん?あなたの所も民間の出版社なのでは? 





私はどうしたらいいものかと、考えあぐねたまま

年の瀬を迎えてしまった




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 556

2012年の年末も押し迫った頃

いつもお世話になっている軍事関係に詳しい人から

中野学校の関係者と、昔々懇意にしていたことがあると言う

人がいるとの情報をいただいた





これはまたとない嬉しいことである

私の知人は、大叔父の調査の今までの経緯を全て知っているため

早速、その方に接触してもらうようにお願いした

知人は、きちんと内容を伝えたが、、、

協力どころか、強くたしなめられたそうです





まずは、雑誌やブログに連載していること自体

「信頼が出来ない人」と言うレッテルを貼られてしまった

う~ん。。。ミリタリー雑誌・丸への掲載は、旅行記だけだし

もし、中野学校に関することを聞いても、話すなと言われたら

雑誌やブログに掲載したりはしませんよ

今の時代、ネットなども普及しており

雑誌やブログで呼びかけることは一般的なことだと思う

その方とは価値観が違うのだろう、、、

どうもメディアをとても警戒されているように感じる

何を恐れておられるのかは私には分かりませんxx





あからさまに「根堀り・葉堀り、人の過去を暴くことは良くない」とか

「そっとしておいてあげなさい」と言われるのです
 
言いたいことは分かるのですが、悲しくなりました

私は悪いことをしているのでしょうか?(T_T)

頭ごなしに拒否?をされて、消沈しました

私の気持ちが全ての人に理解されるとは思っていないし

無理に協力して下さいとは言えません 

だけど仲介してくれた知人の行為に対しても

端から否定するような言い方は

どうしても納得できなかった

おまけに、その後、予防線まで張られてしまった
 




かなりデリケートな事柄なのだろうなぁ

誰も口を開こうとしない。。。

信頼関係が無ければ無理なのだろう

歴史の証人達は口を閉ざしたまま

このまま、分からず終いで、闇に葬られそうな気配もある





私は大叔父の過去を暴きたいのではない

ただ、大叔父をご存知の方に会いたいのです

文字通り、命をかけて激動のビルマで亡くなって

誰もそんな人を知らない・いなかったと

言われる大叔父が無念でなりません





数少ない大叔父の遺品から出て来た新事実の発見

そして偶然にもピンポイントでの関係者との出会いも

考え過ぎかも知れないけど、単なる偶然とは思えないのです。。。

大叔父が探して欲しいと言っているように感じています

危なくない程度に、出来る所まで調査を続けるつもりです




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 556

元・憲兵隊のおじいさんの話は続く

終戦の時は、一般の兵隊さんは収容所に入るが

憲兵隊の人は、刑務所に入れられたそうです

おじいさんも2年ほど刑務所に入っていた





刑務所内では、村人の面通しと言うのがあり

悪いことをした人を村人が指差すそうです

指をさされた人は、帰らぬ人となった

おじいさんは、現地の人に悪いことをしていなかったので

大丈夫だったが、面通しの際には

髪型を変え、丸坊主にし、おかしな表情で人相を変え

村人と目を合わさないようにと後輩に指導したと

言っておられた

中には、狂ったフリをして病院に行けるように

芝居をした人もいたのだとか。。。





ほんとうに悪いことをやったかどうかは別として

戦勝国が裁き、指をさされただけで生死が分かれる

それが敗戦国に突きつけられた現実だった





その後、やっと、刑務所から釈放され

一般の収容所に移送され、皆と一緒に日本に帰れたそうです





憲兵隊として個別行動をし、インパール作戦にも参加しておらず

同じ部隊の人もいなくて、全ビルマ会にいながら

やや孤独そうなおじいさんは

話を聞いてくれる私に、たくさんの昔話をして下さいました

貴重なお話しをありがとうございました

どうかいつまでもお元気でいてほしいです




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 555

全ビルマ会の忘年会はお開きとなった

階行社の廊下に出ると、元憲兵のおじいさんがいた

おじいさんと以前にお話ししたことを話したら

おじいさんは全く覚えておられなかった


関連過去記事はコチラ↓↓
「ミャンマーに思いを寄せて 346」
http://blog.livedoor.jp/aya_sann/archives/1844590.html





私の父方の祖父も憲兵だったと言うと

おじいさんは昔話を始められた

インパール作戦には直接関わっていなくて

憲兵隊の隊員として、個人行動をしていたそうだ

ビルマの村に紛れ込み、住民と一緒に暮らし

現地の人とインド兵とを部下に持ち

3~4人くらいのチームで特務活動をしていたと言う





おじいさんは、ビルマ人に扮して、ロンジーと言う

現地の巻きスカートのような衣装を身につけ

軍服は1度も着たことがなかった





武器は拳銃を保持し、ロンジーの腰ヒモに隠していたそうです

英軍のインド兵部隊の中に潜入し

友軍のインド兵を使って寝返り工作をさせる

時には、銃撃戦になったこともあった

数メートル先に敵がいて、顔もハッキリと分かる距離での

銃撃戦で、部下を失ったこともあった

おじいさんも怪我をした





ロンジーの間に隠し持った銃が肌にすれて

化膿し、大変なことになったこともあったそうです





続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 554

阻塞気球は、第二次世界大戦で

イギリス軍が積極的に使用していた

と様々なところで書かれているが

昭和16年12月8日の東京の空に阻塞気球が上がっていた

なんて記載は今のところ見ていない





どこの部隊が持っていたのだろう?と調べてみた

陸軍に唯一の「気球連隊」と言う部隊があったそうである

へぇ~、すごい

かの有名な?風船爆弾を飛ばした部隊だと知り

風船爆弾の話は聞いたことがあったので、なるほど!と思った





気球と聞いて、当初、私はデパートの

アドバルーンのような形をイメージした

気球連隊の写真には、飛行船型の気球が載っていたが

それが阻塞気球であるかどうかは分からなかった

資料をさがしていたところ、Аккиさんのイラストを拝見し

やっと理解できたのでした



34675744[1]








39766597_m[1]







画提供:Аккиさん





その気球連隊が、東京の空に阻塞気球を上げたのかは

不明だが、昭和16年12月8日の太平洋戦争開戦の

ラジオ放送と同時に上がったのはほんとうだ





すぐに東京に敵機が低空で攻めてくると想定して

準備したとは思わないが、戦意向上のために

国民へのアピールと言うかパフォーマンスの効果が

あったと考えられる





戦争の色が濃くなっていた日本で

若き日の会長さんは、阻塞気球を目にし

「とおとお始まったな」と緊張したと言われていた





阻塞気球は、イギリスの記録ではある程度の成果が

あったようだが、爆撃機が高空から攻撃を行えるようになると

急速に存在価値を失っていった




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 553

会長さんは、昭和15年に金沢医科大学を卒業し

第一製薬(株)に入社した





会長さんの自己紹介では

昭和16年12月8日

会長さんは、東京にあった軍医学校に入っていた

ラジオからは宣戦布告の放送が流れた

その途端、「阻塞気球」と言うのが東京の空に

上がったのを見たのだそうです





会長さんの単語が聞き取れず

私にはソライキキュウと聞こえた

ソライキキュウ???と家に帰って調べたが分からない

空井?サライ?笹井?

やっと分かったのが阻塞気球(そさいききゅう)だった





【阻塞気球(そさいききゅう)】

もしくは防空気球とも呼び、飛行機からの攻撃を防ぐための物

気球を金属のケーブルで係留することにより

飛行機が気球の下を通過できないようになる

視界的にも邪魔になり攻撃が困難になるように使用された

通常、阻塞気球は低空飛行する飛行機に対してのみ使用される

高度上昇によって迂回する飛行機に対しては

高射砲と連携することで、効果を得た

とても分かりやすくて美しいイラストがありましたので

ご紹介します


34675744[1]







画提供:Аккиさん


さらにデラックスなイラストもプレゼントしていただきました


39766597_m[1]








すごいですね!!私にもイメージできました

Аккиさんありがとうございました




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 552

参加者の中には、あの2.26事件に参加されていた人もいた

関連過去記事はコチラ↓↓
「ミャンマーに思いを寄せて 345」
http://blog.livedoor.jp/aya_sann/archives/1844589.html

あの有名な2.26事件の写真で、連隊の旗を持っていた人である

大正5年生まれ96才(2012年末時点)のおじいさん

とてもお若くお元気そうである





2.26事件の首謀者達は、一部は自決し、その他は銃殺刑となった

しかし、巷の噂では、銃殺刑にしたこととなっているが

実は、生きていて中国大陸にいたなどとささやかれていた言う

おじいさん達の間から、「ほんとうは死んでいなかったと言う

話もあるけど、真実はどうなの?」

と、そのおじいさんに質問が寄せられた





おじいさんは上官の命に従って参加していただけだったので

詳しいことは分からないらしい

答えに窮して「…死んだと聞いているから

死んだじゃないですかね」と苦笑されていました





この手の噂はたくさんある

大叔父も実は生きていたらいいのになぁと思うのでした




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 551

そうこうするうちに2012年の年末を迎えていた

12月恒例の全ビルマ会の忘年会に参加した

おじいさん達も楽しみにしている忘年会

お弁当やお酒を囲み、会議室で1年の労をねぎらうのだ

皆、元気で良かったと言う喜びもある

今回は遺族も含み15名程度の参加





お酒も入り、おじいさん達はご機嫌である

自己紹介をしようと言うことになった

私は遺族であり、大叔父の消息を探していることと

現在、ミリタリー雑誌「丸」で記事を連載していることを

皆さんの前で発表した





おじいさん達の自己紹介は面白い

様々な昔話が飛び交う

ビルマの15軍司令官の牟田口中将は

元18師団の師団長だったことから

18師団には気を掛けていたようだ

インパール作戦の折り、18師団を「陽動作戦」に使うため

「どこに行きたいか?」と親切に聞いてくれたらしい

すると勇ましい18師団長は「1番キツイ所をやらせて下さい」と

言ってしまい、結果18師団は80%も消耗してしまった

などと笑い話にされていました





「1番楽なところをやりたい」とは言わないよね。。。

元の部下を思い、楽な所を割り当ててあげようかと思ったのか?

それとも、キツイとこを希望することを見越して

武勲を与えるために優先したのか?

今となっては分からない

それをおじいさん達は「1番キツイ所をって言ってしまうんだもん

まいったよな~」と笑い話にされていた、すごい





続く…





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ミャンマーに思いを寄せて 550

もし大叔父が中野学校と何らかの関係があるとか

特務機関の人間だったとしたら

ビルマの特務機関の光機関(後に南方遊撃隊司令部)

にいたと今のところ考えている





光機関は、中野学校出身者を中心として

軍属や一般の下士官もおり総勢500名程度の組織である

後に南方遊撃隊司令部と名称を改変し

英軍捕虜となったインド人を指導し

インド独立のためにインド国民軍(友軍)を編制した

後にインド国民軍はインパール作戦にも協力している





遊撃隊司令部と言っても、インド国民軍に教えた

遊撃(ゲリラ)は、大きな意味では遊撃であろうが

二俣分校で教えていた遊撃とは意味が違う

二俣分校で教えていた遊撃は

中国大陸での八路軍の戦い方や

ビルマでの英軍のウィンゲート旅団に

影響を受けたのではないかと思う





大叔父は、通訳をすると言って出兵している

入隊した時期や、それまでの経緯を考えると

二俣分校の方ではなく、中野学校の方に関係していると思う

インド国民軍と日本軍との接点として

通訳要員を必要としていた光機関

大叔父は、その狭間にいたのではないか

そう思えてならない




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 549

昭和期に入り、国内における予備士官学校は

仙台、前橋、豊橋、久留米、熊本にあった

特に豊橋と久留米は第一・第二と予備士官学校が2個あった

下士官の養成の教導学校においては

仙台、豊橋、熊本である

どちらも持っているのは豊橋と熊本だけであり

豊橋の予備士官学校は2つもあることから

全国的にもかなり規模の大きな教育のメッカだったと言える





後の調べで、二俣分校は笹岡工兵廠舎の敷地と

隣接している

分校跡の展示物には

明治期の豊橋の18連隊の工兵隊員が天竜川で

渡河訓練を行っていた際の錨(いかり)があるとのこと

そのため宿舎として笹岡工兵廠舎があったと考える

(18連隊は歩兵連隊である、工兵隊員がいたのか?
と言う点については謎である)

大正期の軍縮で15師団が廃止になった折り

豊橋と同様に放置された軍の建物跡の一部を

昭和の時代になって二俣分校として使用したのではないか

もしくは、機能していた笹岡工兵廠舎の敷地を半分もらい

二俣分校を作ったのではないかと推測する





明治期の15師団(豊橋)や、昭和期の3師団(名古屋)は

静岡の部隊も一部隷下にあったことから

弾薬などは別だとしても、その他の補給面や支援、雑用など

豊橋の学生の一部のような扱いで、二俣分校の分も

豊橋経由で面倒を見ていたと考えてもおかしくない

と結論を出した





。。。60連隊って何なのだろう?

60連隊のおじいさんの「豊橋で教育した」と言う証言から

60連隊・豊橋が分からず、どうも引っ掛かり調べに調べたものの

それがどう大叔父の今後の調査に関係するのか???

意味のない単なる寄り道のような気もしないではない(滝汗)

とりあえず、分からないこと・気になることは

調べながら進むしかなかった

あぁ、今すぐ軍事関係や戦史に強い脳ミソと

入れ替わらないかしらと思うのでした(T_T)




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 548

二俣線の開業は昭和10年である

中野学校の設立は、その後の昭和12年

二俣分校に於いては、更にまだまだ先の昭和19年

中野学校設立の頃はまだ、遊撃戦の意識は軍部にはなく

静岡の二俣分校の設立と、この路線の着工とは

全く関係が無いだろう





後に二俣分校設立時に、立地や環境を検討した際

もちろん交通の便も重要であり

この路線近辺が偶然選ばれたのではないだろうか





二俣分校は極秘の施設だったであろうが

補給面では、生鮮食料品等は現地調達できても

少なからず最寄りの兵站組織の

支援を受けていたはずである

最寄りと言っても、同じく静岡の富士地区からは

ずいぶんと距離があり、東京からも離れている

静岡の二俣と言うイメージから、隣の愛知県は

私の中では全く考えていなかったが

軍都・豊橋まで直行便があるこの路線を利用すれば

豊橋と二俣を結び、豊橋から補給面や何らかの

支援を受けていたと考えてもおかしくはない





15師団は豊橋にはいなくとも

豊橋には、教導学校や予備士官学校等があり

二俣にあった中野学校の二俣分校の学生の

補給面を支援することは可能だと思う





訓練面においては、さすがに対抗部隊として

豊橋の各種学校の学生を使うことはないだろうが

中野学校の学生の選抜には

バリバリの軍隊色の陸軍士官学校出身の者は少なく

一般大学を卒業した予備士官学校出身者や

教導学校出身の下士官が多かったと言う点からも

予備士官学校と教導学校を備えている豊橋は

中野学校・二俣分校に入れる学生の選抜にも

有利な立地であると言う思惑もあったのでは

ないだろうかと考えた




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 547

豊橋もしくは60連隊と中野学校を結ぶ物を

探していたら、豊橋と二俣を結ぶ鉄道の路線が出て来た

二俣かぁ。。。全く頭に無かった





調べなくちゃと思いつつ、新たな難題である

鉄道の路線には縁がなく

今すぐご指導いただける鉄道ファンの方と

お知り合いになれないかしら?と正直思った





とにかく調べてみた(違っていたらごめんなさい

豊橋を起点とする旧国鉄二俣線は

現在は、天竜浜名湖鉄道と言う鉄道会社に引き継がれている





戦争への気配が色濃くなっていく昭和8年頃

浜名湖の上を横断するように海岸線を走っていた東海道本線

もし浜名湖や天竜川の鉄橋が敵の攻撃を受けた場合

東と西の交通網が寸断されてしまうと考えた軍部は

もしもの時に備えてバイパスを作ることを計画し

東海道本線よりも内陸部を走る新路線を作ることになった

それがこの路線である





実際に、昭和19年の東南海地震や

昭和20年の東海道本線の空襲、浜松空襲の艦砲射撃などの

際には、迂回路として活用された




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 546

大叔父は特務機関の人間だったのでは?を前提に

豊橋。。。60連隊。。。

単に直感で、なんだか変な気がする

大叔父がもし仮に特務機関の人間だったとして

なぜ軍歴表は、60連隊に居たようにしなければいけないのか?

そもそも、その受け皿となった60連隊って何?

何の変哲もなさそうな歩兵連隊だから

反対に使い勝手が良い?

特にビルマ戦線のインパール作戦においては

特務機関の作戦に深く関わっているように思う

しかし、お会いした60連隊の一般の隊員は

何も知らなかったように感じる

インパール作戦だけだったのか?

それとも以前から準備されて何かに仕組まれていたのか?

私の単なる勝手な妄想であり、考えすぎで

どうでも良いことだろうけど、もう少し調べてみよう

何か豊橋もしくは60連隊と特務機関・中野学校の

繋がりはないのか?





中野学校と言えば東京であり

東京からは微妙に遠い愛知県の豊橋とは

何の関係も無いだろうなぁ。。。

藤原さんが豊橋にいたとしても若い頃である

まだ中野学校も出来ていなかったかもしれない





様々なキーワードを入れて

インターネットの検索で気ままに遊んでみた

すると、偶然、気になる文章を発見した

…なんだろうコレ?

旧(?)の鉄道の路線で、二俣線とか天竜浜名湖線などあり

静岡の二俣~豊橋間が直行されていたと書かれている

ん?二俣って。。。

二俣には中野学校の二俣分校がある

豊橋と二俣は繋がりがあった???

なんだか分からないけど、気になる

今度は鉄道のことを調べないといけないのかぁ?(>_<)




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 545

豊橋について調べるが

現在の豊橋には自衛隊もなく

軍都だったと聞いても私にはピンと来なかった




よく考えると、私は幼い頃に頻繁に豊橋に行ったことが

あったのを、このブログを書いていて思い出した

そう言えば、親戚が豊橋にいたのである

豊橋の旅館のお嬢さんと結婚した親戚

豊橋の旅館って、軍都で栄えた頃からの旅館なんだろうか?

あれれ…私、豊橋とご縁があったんだ!ビックリ

でも、幼い頃は軍の施設跡なんて行かなかったし

メロン畑と伊良湖の思い出しかない





大叔父の調査をして行くうちに

偶然の出会いや、単に不思議に思う点が後に重要な

ことだったり、巡り会う人がキーマンであったり

ギリギリ間にあったり

行き詰まると突然思わぬ方向から道が開けたりすることが

とても多かった

スピリチュアル的なことはよく分からないけれど

こんなことってあるんだなぁと驚く





戦後何十年と経った頃、やっと作られた大叔父のお墓は

私の生まれた年に建てられた

何を思ったか、いきなり大叔父の調査を始めたこと

父が母と結婚したこと、私が主人と結婚したこと

私の友人関係、仕事関係

大げさに言えば、全てにおいて意味があるのでないか

大叔父から託された私の運命???

周りからは「絶対これは何かあるよ、寒い~」と言われる

まぁ直感に任せて突き進んでもいいのかも

大叔父が導いてくれているように感じる

頑張れば良いことがあるかもしれない

分からないことが多すぎて

涙することが多い日が続いていた。。。。




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 544

昭和期に入り、15師団は復活するが、中国に渡り

大正から放置されていた豊橋の15師団関連の建物跡には

陸軍予備士官学校や陸軍教導学校などが入った





当初、私は、60連隊の一部は豊橋に機能していたのか

と思っていたが、留守連隊もなく、どうも豊橋には

60連隊はいなかったように思う

60連隊の甲種幹部候補生の指導教官をされていた

おじいさんの言われた「豊橋で教育した」は

豊橋の60連隊で教育したではなく

甲種幹部候補生は後に、予備士官学校に入るため

もしかしたら豊橋にあった予備士官学校等の支援を受け

現地である豊橋で事前教育をしたのかもしれない

そう考えると、藤原さんが教導学校にいたことも

単なる偶然でおかしなことでも何でもない

またまた私の妄想なのだろう(苦笑)





大叔父も生きていたら、甲種幹部候補生として

その後に、この豊橋の予備士官学校に行き

将校になれたのだろう

候補生になり、昇任して行く途中

軍曹と言う階級で戦病死してしまった

無念だっただろうなぁ。。。




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 543

大叔父の歩兵60連隊がよく分からない中

藤原さんが豊橋にいたことについて冨澤先生に聞いてみた

すると、藤原さんがいたのは豊橋でも60連隊ではなく

教導隊の方だと教えてもらう

…教導隊???

藤原さん→豊橋→60連隊=妖しいと思い込んだのは

単なる私の妄想であった(笑)





60連隊と言うより、豊橋って一体、何なのだろう?

そう言えば、豊橋については全く頭に無かったため

今度は豊橋について調べてみた





豊橋は、戦前・戦中はいわゆる「軍都」と呼ばれ

かなり栄えた都市だったようだ

明治期の豊橋は、15師団が来るまで

小規模な製糸工業以外の産業らしき物が

ほとんどない状態の地域だったらしい

15師団は、明治38年に豊橋で編制され

すぐに大陸に派遣され

明治40年3月に日本に帰った際

沼津・浜松・豊橋・岐阜の各都市が

15師団を積極的に誘致活動した結果

豊橋に決定されたそうだ





以後、大正期の宇垣軍縮で、15師団が廃止されるまで

軍に物資を納入する業者や、周辺の小売業

旅館・食堂・お土産物屋など、多くの関係者で栄えた

15師団廃止後は、軍の建物等全てそのままで放置された



続く…



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ミャンマーに思いを寄せて 542

それと、先日の冨澤先生の講演会の中で

藤原さんが若い頃、豊橋にいたと言う

話をされていたのがとても気になった

もしかしたら、藤原さんは60連隊にいたのか?





その頃、ちょうど自衛官の方とお話しをする機会があった

この大叔父の調査はあまり話していなかったが

大叔父は60連隊の所属だったが

どうも60連隊にはいなかったようで

行方が分からず困っていると簡単に話したところ

「えっ?60連隊って。。。」と顔色を変えられた




自衛隊の小平学校のとある教育課程では

想定の実習の際に、架空の連隊として「60連隊」と言う

連隊名を使っているとのこと

思わず私も、えっ!と驚いた

小平学校と言えば、藤原機関の藤原中佐が

後に自衛官となり、小平学校の前身の

調査学校長になっている

そこで現在も60連隊と言う名前が使われていることに

なんだか身震いがした





しかし、小平学校は、調査学校と業務学校と言う

学校が統合して小平学校と呼ばれるようになり

その教育課程は、藤原さんの調査学校ではなく

業務学校の関係の教育課程だと分かり

誤解だったと分かったが

現在の自衛隊には存在しない架空の連隊とは言え

こんなところで偶然60連隊の名前を聞いてかなり驚いた




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 541

昭和14年から、60連隊は隊員が総入れ替えされ

ほぼ京都の人間が占めることとなった





60連隊を調べるきっかけとなったのは

京都の60会(60連隊の戦友会)の

大叔父と同じく第一大隊の機関銃中隊の

おじいさんの言葉であった





おじいさんも、大叔父と同じ○○大学の出身者で

大学では大叔父の後輩に当たるが

軍隊では、おじいさんの方が先輩である

おじいさんは、甲種幹部候補生の教官をされており

60連隊の甲種幹部候補生をまとめて

「豊橋」で教育されたそうである





中国に居た60連隊は、予備士官学校に入る前の

甲種の幹部候補生に対し、豊橋に於いて事前教育をしていた

そこで私は豊橋にも教育が出来るだけの

60連隊の基幹隊員がいたのかと思った

補充担任は京都であるが、豊橋でも機能している60連隊が

とても不思議でならなかった





ちなみに、このおじいさん曰く

甲種幹部候補生であった大叔父の入隊時期を見て

60連隊にいたならば私が教官をしているはずだと言われた

60連隊の甲種幹部候補生は、そんなにいなかったため

全員知っている、ましてや同じ中隊で

同じ大学の先輩など滅多にいないため

60連隊にいたならば絶対に知っているはずだと

大叔父は60連隊にいなかったと証言されている



続く…




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靖国神社にて

読者の皆様へ


いつも読んでいただきありがとうございます

今日は、靖国神社で「ビルマ方面戦没者慰霊祭」に

参列してきました





率直な感想は。。。参加者が激減

私が初めて参加した3年前は

遺族は少なく、全体で100名ほどだったのに

今日は、全体で60名

そのうち旧軍の方は15名しかおられませんでした

全国で1番大きなビルマの戦友会なのに寂しい限りです

もう来られなくなった方や、お亡くなりになった方等

かなり少なくなってます





それでも、ミャンマーに一緒に行った会長さんは

94才でとてもお元気でした

本殿での会長さんの式辞には、涙する人も多かったです 

印象に残ったのは、英霊に対し、総理大臣が参拝せずに

申し訳ないと謝られていたこと

いつか総理が参拝して下さるように

これからも働きかけたいと誓っておられました





1つ気になったのは

本殿での慰霊祭の最後に黙祷があったのですが

その際に、靖国神社が用意されたラッパの吹奏が流れた





聞いたこともないラッパの音色は何を表すのかと

不思議に思い、後で会長さんに聞くと

「国鎮めのラッパ」だと言う

旧軍のお葬式のような公式の式典の際に

吹奏されたラッパの音色だそうです

さすが靖国神社だと思った

そして、そのことを教えて下さった会長さん

聞かなければ知らなかったこと

もっと色々な話を聞きたいと思った

いつまでもお元気でいてほしいです



 

読者の皆様に於かれましたは

いつも応援していただきありがとうございます

今後ともどうぞ宜しくお付き合い下さいませ




                         2013.11.3

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ミャンマーに思いを寄せて 540

愛知の60連隊の補充担任が京都師管区であったとしても

どうでも良いと言えばどうでも良い

当時は色々と事情があって、平時ではあまりない

臨機応変の処置があったと見るのが普通だ





しかし、なぜか引っ掛かる物があり

もう少し調べてみたくなった

上級部隊の15師団はインパール作戦に参加し

やや名が通っているが

60連隊に関しては、インパール作戦に参加した他は

何の変哲もなく、一般的などこにでもある歩兵連隊である

資料を探してみても、大した物は今のところ出て来ない





旧軍は、郷土愛を用い団結の強化のために

部隊を地域出身者で固めたのは知っている

それでも末期の頃は、出身都道府県が2個一組で

混成の部隊が出来ていたのも分かっている

ただ、60連隊に於いては

名古屋師管区で編制された当初の基幹隊員を

逐次総入れ替えして京都の部隊とした

単に補充担任が京都だったから当然なのかもしれないが

こんな部隊ってある???

昔のことを知っている者が誰もいない新60連隊

60連隊って調べれば調べるほど分からなくなる

なんだか変だよ。。。

何の変哲もないのさえ妖しく思えてくる(^^;)




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 539

連隊区は、一般的に都道府県に1個ないし2個程度

過疎地の都道府県においては、複数またがる所もあり

反対に人口の多いところは2個以上あるところもある





昭和5年の段階で、豊橋は、第3師管区(後に名古屋師管区)

に属している

3師管区の受け持ち地域は、愛知県・岐阜県・静岡県である

一方、京都師管区の受け持ち地域は

京都・滋賀・三重・奈良であった

3師管区の愛知県には、名古屋連隊区と豊橋連隊区の

2本立てであり

16師管区もまた、京都連隊区と福知山連隊区を持つ

大きな師管区であった




名古屋連隊区があったにも関わらず

名古屋を通り越して、豊橋連隊区を京都の16師団が

補充担任を受け持っていたと言うのは

どう言うことなのであろう?





愛知の3師団が外地に行って

留守師団も外地に行って、本土は空っぽになったから

京都の留守師団に、広範囲を任せた???

動乱の時期で何でもありの運用だったとしても

まだ太平洋戦争が始まっていない

昭和14年頃のことである





私にはよく分からない(T_T)

どなたか詳しい方の教えを請いたいと願うのでした




続く…



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ミャンマーに思いを寄せて 538

師管区と言うのは、師団が管轄する地域のことであり

元々は、16師管区など、師団の番号で呼ばれていたのが

昭和15年から、地名を用いるようになった





愛知県には、この15師団が昭和13年に復活する前から

既に3師団と言う日本で1番歴史のある師団があった

3師団は、昭和11年まで満州にいて

昭和12年に日本に帰った後、また13年に中国に渡った

近くの地元の師団が忙しかったため

愛知県中心の隷下部隊を持つ15師団は

京都16師団の留守師団により編制されたのだろうか?

しかし、3師団にも留守師団があったはずである





大正期の軍縮で、師団が少なくなり

各師団の受け持ち地域が広くなったためと

地元の師団が忙しかったと言う理由で

編制のみならず、愛知県の部隊の補充担任まで

京都の師団が受け持っていることが

私には理解できなかった





師管区の下には、それぞれ連隊区と言うのがあり

一般的に、師団は、徴兵事務を担当する連隊区司令部を管掌し

補充業務などの管轄区域内の業務についても行った

しかし師団は有事の際には外地に出征して

部隊の指揮を取ることが多くなり

内地に於ける補充業務などについては

留守部隊が担当することとなる

このため留守師団が置かれ、師団長とは別に留守師団長が

任命され、留守師団司令部が管轄区域を補充地とし

補充も担当していたそうである




続く…




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