ミャンマーに思いを寄せて

亡き母の思いを果たすべく、ビルマで戦死した大叔父の足取りをたどる私の奮闘記録☆

2013年12月

ミャンマーに思いを寄せて 593

すると、会長さんがタイには現地の人と結婚して

残った人がいると言い出した

その上、中野学校の人は命令で現地に残った人もいると

突然言い出したのである




何それ???何~???

私は心臓がバクバクした、詳しい話を聞きたい!!

偽名を使っていたと思える、正田と名乗る日本兵

現地の人にだけ偽名だったのか?それとも、、、

中野学校の人達は、最初から常時、偽名を使っていた

その人自体なんだか興味があるし

命令で現地に残った中野学校の人って何???

…が、話は、別の話へと移っていった





他の方から、良い話として

激戦地で有名なインパール手前のコヒマと言う所の

三叉路(←ここはかなり有名な場所)

そこに、日本軍とイギリス軍と現地人の慰霊碑が3つ並んであるのだとか

その側に、日本式の神社があるそうで

その神社には日本兵しか祀っていないそうだ

現地の人は今でもその神社を守って下さっている

イギリス軍の教会とかはなく、日本軍の神社だけあるのは

現地人が日本軍を尊重?してくれている証拠だと言う

そして、慰霊に訪れると村長さんが出迎えてくれて

とても歓迎されるとのこと 





他の方の笑い話では

昭和19年のお正月を、ビルマへの移動の船中で

迎えたあるおじいさん

船の中では、お正月を祝うご馳走がたくさん振舞われた

しかし、南の暖かな気候が計算違いで

ご馳走が元で、集団食中毒になった

船の中は、とんでもないことになり

まだ戦地にも着いておらず、敵もいないのに

全滅しかけたらしい

そのおじいさんは、薬品会社の元社員で

現地に着いた途端、現地の支店に駆け込み

薬を調達したそうだ

現地の支店では、敵に毒を仕込まれたのかと慌てたそうだが

そうではなかった

皆が船から下りたときには、すでにヘロヘロで

敵と戦うどころではなかったそうだ




続く…




大勢の方に読んでいただくことで、情報をいただけるよう
ご協力をお願いしますm(_ _)m
ポチッとな☆↓↓

人気ブログランキングへ

ミャンマーに思いを寄せて 592

軍医さんのところに、インパール近くに住むインド人の

ナガ族の出身で映画監督をしている人が

日本軍は優しかったと言ような感じの

戦争映画を作るとかで

その監督さんの知り合いで、ワシントン在住の

日系企業に勤める日本人の女性を通じて

当時の話を聞きたいと連絡があったのだそうです

軍医さん曰く、その方が、月末にアメリカから来るので

他にも良い話があったら聞きたいとのことだった





その映画の話って、ほんとかなぁ?妖しい話じゃない?と思う私は

根性が曲がっているのでしょうか?

ビルマと聞くと、何でも受け入れてしまうおじいさん達

私もその恩恵を受けている1人であるが

なんとも怪しげな話に聞こえてしかたなかった





なんでも、戦時中に、インパール近くの現地人の女性と結婚した

「正田」と言う日本兵が

「薬を探しに行く」と出掛けたきり帰ってこず

現地人の奥さんは、近年亡くなるまでずっと待ち続け

その人への思いを歌にした

その歌は今も現地に伝え残っているとか





軍医さんが調べてみると、部隊は分かったが

その中に、正田と言う日本兵はいないらしい。。。

その話を元に映画を作るそうです

、、、それって、日本人は優しかったと言う内容の

映画になるのかしら???





私が勝手に思い描くのは、日本兵は薬を探しに行ったのではなく

単に村を出て行くための口実に思えるのですが…

しかも、最初から偽名を使っているぽいような…

現地の優しい女性と、恋に落ちたのはほんとうかもしれないが

生涯、そこで暮らす覚悟まではなかったと言うことか?

同じく女性の立場からしたら、とても切ない気持ちになる





軍医さんは、一通り話をされてから

こんな話は聞いたことないですか?と皆に質問されてました

私のような遺族は別として、旧軍のおじいさん達は

一様に、う~んと言われていた

おとぎ話のような夢物語でなく

生死の境を彷徨っている最中に、現地の人に助けられ

優しくされたら、恋に落ちることも不思議でなく

かと言って、日本には帰りたいわけで…

そんな人がいてもおかしくないなぁと

言いだけな雰囲気が漂っていた




続く…




大勢の方に読んでいただくことで、情報をいただけるよう
ご協力をお願いしますm(_ _)m
ポチッとな☆↓↓

人気ブログランキングへ

ミャンマーに思いを寄せて 591

2013年5月

毎年恒例の全ビルマ会定期総会が行われた

その日、ほんとは潮干狩りに行く予定だった

同行者が急に仕事が入り、キャンセル

子供にはかわいそうなことをした





全ビルマ会の総会をコロッと忘れていて

申し込みもしてないし、子連れだし、、、と思ったが

念のため、前日に会長さんに連絡を入れてみた

すると歓迎とのこと

お言葉に甘えて参加することにした

これって「参加しなさい」って天の声じゃない?と皆に言われた





子供は渋々だったが「吉野のおじいちゃん(会長さん)に会えるよ 」

と言うと、明日は一緒に行くと言ってくれた

御年94才、次も会えると言う保証はないのだ





その夜、ビルマ会の事務局から電話があり

以前から依頼していた全ビルマ会のHPとのリンクが承認され

このブログは、全ビルマ会からも来られるようになった 





当日の総会では、先日、講演会に参加した

烈師団の98才の軍医さんに再会した

どこかでお見かけしたと思っていたが

全ビルマ会でお会いしたことがあったのだ!!

全然気がつかなかったわ





講演会の後、お宅にお礼のお菓子を送っておいた

ご挨拶したら、奥様も覚えてくださっていて

とても嬉しかった、まさかまた再会できるなんて 

怪しい人だと思われていたかもしれないが

全ビルマ会にきちんと参加していたので

安心されたかなぁと思った





総会や秋の慰霊祭では、日頃お会いできない

遠方の方にもお会いできる

知り合いも増えてきて、私の調査が行き詰まっていることを

知り、応援するよと声をかけて下さる方もあった

やっぱり来てよかったなと思いました





総会では、事業報告や収支決算報告の後に

連絡がある方が話をされる時間があった

そこで、先の軍医さんが話はじめられた




続く…




大勢の方に読んでいただくことで、情報をいただけるよう
ご協力をお願いしますm(_ _)m
ポチッとな☆↓↓


人気ブログランキングへ

今年もありがとうございました

読者の皆様へ


いつも読んでいただきありがとうございます

今年も残すところ後わずかとなりました

大叔父の調査は、進んでいるのか・そうでもないのか

分からないような状況が続いていますが

来年こそは脱して、早く結末を迎えたいと思っております





当初は、100話も行かないだろうと思っていたのに

気がつけば、もうすぐ600話になろうとしています

自分でもビックリです(☉∀☉:)





ここ最近のテレビのニュースより一言

昨日、阿部総理が靖国神社を参拝なさったことが

大きく取り上げられていますが

なんでメディアは騒ぐのか、よく分かりません

小泉元総理から7年ぶりの総理参拝


以前に靖国神社の総理参拝について書いた過去記事↓↓
http://blog.livedoor.jp/aya_sann/archives/1558178.html


きっと、全ビルマ会のおじいさん達も喜んでいると思いますし

国のために命を落とした英霊達も喜んでおられると思います

終戦記念日や、初詣でもない、こんな時期に

なぜ?と思うのはさて置き

私は個人的に、とても嬉しく思い、尊敬します





それと、先日、フィリピンの台風の災害で

国際緊急援助隊として、日本の自衛隊も

災害救助に派遣されていましたね

場所は、フィリピンのレイテ島

レイテ島と聞いて、レイテ沖海戦など

戦史を知らない私が聞いたことがあると言うのは

きっと激戦地だったのだろうなと少し調べてみた

ガダルカナルやインパールと同じくらい

飢餓戦だったようだ、多くの兵隊さんが、餓死されている





レイテ島に向かった自衛隊の医療チームの活躍が

度々テレビで放送されていたが

その他にも、後から海上自衛隊の船で陸上自衛隊の

一般の隊員も支援で到着したそうです






時代は流れ、70年ほど前に日本軍が戦争していた場所に

自衛隊が災害派遣と言う形で訪れる

自衛隊は軍隊とは言わないとは言え

英霊たちは、日本の軍艦が来てくれたことに対し嬉しかったと思う

こんなことが無ければ、海上自衛隊の船が

レイテ島周辺に行くこともないだろう





自衛隊の人達は、旧軍の方達のことはどう思っておられるのだろう?

同じ国の、時代が違う軍人(ではないかもしれないが)として

実戦を経験されている旧軍の英霊達の眠っている場所

献花や敬礼とか、黙祷とかしてくれたらいいのになぁと思った

大々的にしたら、これまたメディアが騒ぐので

難しいだろうなぁとは思うが。。。

自衛隊さんの粋なはからいが見たかったなぁ





さて、年末を向かえ帰省しております

夜中にPCに向かっていますので

出来るだけ頑張りますが

更新が少し滞るかもしれません

この後、2~3話のちに、とんでもない展開となります

記事は、やっと2013年の5月まで来ました

こんな展開の記事で、お正月を迎えることになるなんて、、、

考えただけで、頭が痛く、難しい。。。底なし沼のようですxx

来月からはミリタリー雑誌「丸」での連載も始まるので

とにかく頑張ります!

では、皆様、どうぞ良いお年を




2013.12.28

大勢の方に読んでいただくことで、情報をいただけるよう
ご協力をお願いしますm(_ _)m
ポチッとな☆↓↓

人気ブログランキングへ

ミャンマーに思いを寄せて 590

2013年4月

宗教が出てきたついでではないのですが

以前に、伯父が受け取った白木の箱の話で

浄土真宗の偉い方から説明いただいたことがあった

ふとしたきっかけで、その方に、お会いすることが出来た

このブログも時折読んでいていただいており

ありがたかった





ミャンマーに行った時の現地の慰霊祭は

全ビルマ会の会長さんが

般若心経のお経の本を皆に貸し出し

会長さんを筆頭に、大きな声で唱えた

会長さんご自信が信仰されている宗派なんだろうなぁと

思っていた





しかし、お正月の京都での60連隊の慰霊祭も

般若心経であった

般若心経と言えば、禅宗や天台宗、真言宗のお寺のイメージである

たまたま、皆さん、禅宗などの方だったのかと思っていた

東京でも、京都でも、その他のときも。。。

ん?なんで???ビルマ関係だから???





なんだか、とっても気になった

調べてみたが、私には般若心経と言う言葉さえ

理解するのは、とても難しかった

そこで、仏教のことなら。なんでもご存知のような

浄土真宗の偉い方に聞いてみた

すると、あまりご存じなかったようで

わざわざ調べてくださり、後日、回答を頂いた





般若心経とは、思想を説いた経典の1つであり

各宗派に関係なく、広く使われている

特に、戦前の日本では

一般教養として、ラジオで流されており

戦前生まれの人たちは、ほとんどが

般若心経を唱えることが出来るのだそうです




なるほど~

もちろん私は、戦後生まれのため

般若心経は唱えられないが

現在もポピュラーなお経の一種として

大勢の方が参加される慰霊祭に

使われたのだろうなと思った

1つ謎が解けて良かった

ご協力いただきありがとうございました




続く…




大勢の方に読んでいただくことで、情報をいただけるよう
ご協力をお願いしますm(_ _)m
ポチッとな☆↓↓

人気ブログランキングへ

ミャンマーに思いを寄せて 589

2013年3月

世間は、ローマ法王を決める選挙「コンクラーベ」で

賑わっていた

テレビのニュース番組でも繰り返し取り上げられていた

私には、何度聞いても、日本語の「根競べ」に聞こえる





あるニュース番組のコメンテーターが

言っていたことが少し気になった

バチカンは、世界各国の様々な歴史的な重大事に

裏で関わっており、発言力・影響力は大きいそうだ





国としての、政治面での繋がりは

言わば建前のお付き合いであって

その時により、立場や物の考え方が異なったり

担当者で無くなれば、簡単に関係は解消するが

宗教的な繋がりは、言わば精神面での

目に見えない強い絆で結ばれており

時代や地域、人種、を超える

そこからもたらされる情報と言うのは

真の情報が多いと言う





ローマ法王の話題であったが、ふと、日本に置き換えると

仏教国のビルマとは、国同士の繋がりよりも

仏教と言う大きな繋がりで

当時の日本と交流があってもおかしくないなと思った





鈴木大佐の南機関が、ビルマの伝説に便乗し

ビルマ人の心を掴んだのは確かだが

それ以前に、同じく仏教国の日本だから

応援・協力したい、力を貸したいとの思いもあったかもしれない

そして、戦史としては出て来ないが

当時の日本の仏教会は、政治にも大きな影響力があり

日本国民として、一丸となって国及び軍に協力していたであろう





それを踏まえて考えると

仏教会として、ビルマと日本は繋がりがあり

少なからずとも、日本軍は仏教を通じてビルマ人から

恩恵を受けていたように思う

国同士が決めた友好条約のような物だけしかなく

もし、仏教会が日本への協力に反対していたら

ビルマ人は、多くの人が日本軍に対して抵抗したであろう





戦史関連の書物に、宗教を通したビルマとの関係は見たことが無いが

仏教会として、根回しのようなことはあってもおかしくない

今現在も、ビルマの仏教会と日本の仏教会は

国や宗派を超えて、合同慰霊祭などを行っている

2013年のGWにも、九州で大きな合同法要が行われていた

禅宗を中心に、各宗派の代表が参加されている

なんだかまとまりがつかないが

宗教とは、奥が深いなぁと思ったのでした





ローマ法王の話だったのに

ビルマと日本に置き換えて考えてしまう私は

毎日のように、大叔父の進まない調査に翻弄されており

大叔父さん、ヒントを下さいとつぶやく日々である




続く…




大勢の方に読んでいただくことで、情報をいただけるよう
ご協力をお願いしますm(_ _)m
ポチッとな☆↓↓


人気ブログランキングへ

ミャンマーに思いを寄せて 588

まずは、話をし出したところで軍医さんが

「吉野さんに相談しなさい」と言われた

吉野さんとは、全ビルマ会の会長さんのことである

吉野さんにはお世話になっており

全ビルマ会にも参加している旨を伝えた





大叔父は60連隊には存在しておらず

私が見ても軍歴表と死亡者調書がおかしいと思うと続けた

そして、軍歴表と死亡者調書を見ていただいた

昭和19年5月の末の時点で

下士官が、単なるマラリアとアメーバ赤痢で

700kmも離れた第一線のテグレパールから

メイミョウの兵站病院に搬送してもらったことに

なっていることについてお聞きした





軍医さんは、昇任や死亡も書かれていない

ビルマ入りした後は、ほぼ白紙の軍歴表と

死亡者調書をずっと見入っておられる

死亡者調書については、第一大隊の軍医ではない

他の大隊の軍医が

死亡して1年後の日付(20年7月)で

証明していることも説明に付け加えた





軍医さんは、ずっと見入ったまま何も言わない

静かに時間だけが過ぎていき

表情は変わらず、何を考えておられるのかさえ

全く分からない

固まっておられるように思えた

体調は大丈夫だろうか?お時間は大丈夫だろうか?





「この軍歴表から、何か読み取れることはありますか?」

「こんな軍歴表は、あるのでしょうか?」

何度と私は問いかけた

軍医さん自身は、終戦後の収容所では

軍医としての仕事はしておられない

そのため、いわゆる戦後処理には携わっておられない

しかし戦中は、きっと何人もの死亡者調書を

作成されたに違いない





軍医さんは何も発せず

書類を見つめたまま動かない

そして、私は最後に

「特務機関にいたと言う説があります」と言うと

突然軍医さんが「特務機関ならあり得る」と

うなずかれた





やはり、軍歴表や死亡者調書はおかしい内容だったようで 

特務機関にいたと言う結論を出されました

なぜ、その軍歴表が特務機関の人間だと

言えるのかについて、聞きそびれてしまったのが

悔やむところだが、私は、その結論だけで

満足してしまったのだ





その後、軍医さんは、奥様とのなりそめや

家族のことを話し出された

お子様の話にも及んで、自分の跡を継いでくれないと

嘆いておられた

それなのに、私が会ったこともない遠縁の大叔父を

探していることに対して、大叔父さんはとても喜んで

おられるだろうと言って下さった





現代の研究者に「特務機関だろう」と言われるのとは違い

当時をご存じの方の言葉は重みがありました

今まで、特務機関の人間ではないだろうかと半信半疑で

進めていた調査は、私の予想と合致し確定となった

今後はもっと難しい調査になるかと思いますが

仮説の方向性を決めましたので頑張りたいと思います




続く…




大勢の方に読んでいただくことで、情報をいただけるよう
ご協力をお願いしますm(_ _)m
ポチッとな☆↓↓

人気ブログランキングへ

ミャンマーに思いを寄せて 587

ホールを出たら、主催者様などが

すでに身支度をして、廊下で待っておられた

軍医さんを取り囲んで、ゆっくりとエレベーターの方に向かう

私もその一向に混じって進む

主催者様は、穏やかに軍医さんにお礼を述べておられた





どこで話を聞いていただけるのか?

下に行けば話の出来る場所があるのか?

軍医さんは体調が優れないが、まだ大丈夫なのか?

私はとても不安であった

案の定、エレベーターで下に着いたら

主催者様一同は、後はご自由にと

私を残して帰ってしまわれた。。。





すぐ近くの椅子にはカップルなどが座っていて

席を譲って下さるような様子はなかった

喫茶店も満員で列が出来ていた

私達が普通に移動する距離でも

お足が悪く、体調の優れない98才の軍医さん

講演会後のお疲れの体で

歩かせるわけには行かない

初めてのホールで、どうしたら良いのか困った。。。

すると、もう1階下には、座れる場所があると聞き

下へ向かうことにした





エレベーターホールに移動していただくのさえ

申し訳ないほどであった

下に着いても、私達の足であれば何でもないが

軍医さんの足では、椅子までは距離があった

何度も大丈夫ですか?と声をかけた

もしも何かあったらどうしようと、とても心配であった





下は人が少なく、静かで大きな休憩スペースがあった

落ち着いた照明で、かなり暗かったため

私達は、出来るだけ照明の下の明るい場所を選んだ

やっと腰掛けて、3人ともホッとした

そこで、私は簡単に大叔父の話を始めた




続く…




大勢の方に読んでいただくことで、情報をいただけるよう
ご協力をお願いしますm(_ _)m
ポチッとな☆↓↓

人気ブログランキングへ

ミャンマーに思いを寄せて 586

主催者様からも、講演会の後に

お話できる時間があるからと聞いていた

握手会のような雰囲気で

列に並んでおられる方は、お知り合いの方や

ファンの方などである

私の場合、個人的な話で、時間も要すると思われたので

列の1番最後に並んだ

次々に人が増え、宜しかったらお先にどうぞと

ずっと譲っていた

すると、私と同じように最後を譲っておられる

年配の女性がいらっしゃった

「私は後で良いです」と言われ

私も、時間がかかるのでどうぞとお互い譲り合った

待つ間、ほんの少し私の大叔父の話をし

軍医さんにどうしてもお聞きしたいことがあるのだと

お話をした





徐々に列に並ぶ人も少なくなってきて

次はついに私の番と言うとき

私の先の方が、少し不思議な方で、とても長く

歴史認識について、興奮して熱くまくし立て

軍医さんに食ってかかっておられる

主催者様が止めに入られ

そこで打ち切りとなってしまった(>_<)





主催者側のスタッフさんはイライラされており

もう会場を閉鎖するので、出て行ってほしいと

当たり散らして怒られたxx

なんで…ひどいよ

どうしよう。。。ここまで待っていたのに。。。

私は悲しくて悲しくて、半泣き状態であった





一緒に1番最後に待っていた女性は

実は、軍医さんの奥様で

特別に、会場の外で私の話を聞いてもらえるように

軍医さんに頼んで下さった

奥様だとは知らずに、とても驚くと同時に感謝した





結局、軍医さん共々、会場を追い出されることとなった

奥様が急いで軍医さんの身支度をされ

私も荷物を持ってあげた

お足が悪いので杖をついておられるのに、せかされた

主催者側にもレンタルルームの事情があるのだろうが

講演会が終わればこんな扱い…なんてひどいのかしら





続く…




大勢の方に読んでいただくことで、情報をいただけるよう
ご協力をお願いしますm(_ _)m
ポチッとな☆↓↓

人気ブログランキングへ

ミャンマーに思いを寄せて 585

軍医さんの主張は続く





ハルノートは、ソ連のスパイが作ったのだ

無謀な条件を突きつけ、飲まなければ

経済封鎖(石油等)をすると脅迫されたため

やむを得ず開戦に至ったのだ

と、軍医さんは強く主張されていました

※最新の研究では(先週NHKで放送されていた)
ハルノートはA案とB案があった
A案は、日本に屈服を強要する内容
B案は、日本に対し融和的な内容であった

A案はあまりにも強硬な内容だったため
日米間の戦争の引き金を引くことに
なるのではないかと、B案が作成された

当初、アメリカの世論はアジア及びヨーロッパでの
戦争に、アメリカが巻き込まれることに反対であった
大統領についても、戦争への参加は消極的であった

しかし、米国の上層部に、日本はアメリカと戦争を
するだけの能力がないため、強硬案を出しても
これに従うはずだと強く主張する高官がいたため
最終的にA案を日本に突きつけた

このA案を書き上げた人物が
ソ連の工作員であったことが明らかになっている

当時ソ連はヨーロッパでドイツと衝突していた
それ以前に、日本と満州・モンゴル国境で
にらみ合いが続き、そのためソ連は
ドイツとの戦いに戦力を集中するために
日本とアメリカを戦わせて、日本の対ソ連用に
向けられている戦力を低下させるのが目的であった

実際に、日本がアメリカとの戦争に踏み切ることを
決定したとの情報を、有名なスパイのゾルゲの
活躍により入手したソ連は
日本を警戒してシベリアに残していた戦力を
ヨーロッパに向けることが出来た
これにより、あと少しのところでモスクワが
陥落しそうになっていた不利な状況から
反撃することに成功し、ピンチを脱出することが出来た

つまりソ連の策略は、ものの見事に成功したのである





講演会は、アッという間に予定時間を超えたが

軍医さんの語りに、皆、魅了され

もっと聞きたい気分であった

質疑応答の時間もなくなり、終演してしまった





私がこの講演会に参加したのは

インパール作戦に参加された軍医さんの

貴重なお話を聞くことはもちろんであるが

個人的に、大叔父の調査についても軍医さんの

見解を求めたかったからである





講演会終了後

軍医さんの出版された書籍の販売が行われ

挨拶やサインをもらう人が、列をなしていた

私もその列に並ぶことにした




続く…




大勢の方に読んでいただくことで、情報をいただけるよう
ご協力をお願いしますm(_ _)m
ポチッとな☆↓↓

人気ブログランキングへ

ミャンマーに思いを寄せて 584

最後に軍医さんは

どうしても伝えたかった大東亜戦争で間違って

伝わっている認識について力強く語られた

※軍医さんの使われた言葉をそのまま用いながら
補足説明を付けます





当初、陸大ではアメリカは戦争相手として

考えていなかった

戦争相手として考えていたのはロシアである

※陸大とは、陸軍大学校の略

旧軍の参謀・高級将校養成教育機関





アメリカ軍が支那で、民間人に扮して

基地の飛行機を爆破し、先に手を出してきたのだ

※アメリカが日本と敵対していた中国軍に荷担し

爆撃機とパイロットを派遣

中国で展開していた日本軍を攻撃した

アメリカ側は公式には、その荷担したアメリカ人は

民間人であり個人として参加したと

国や軍としての関与を否定している





真珠湾攻撃も、だまし討ちだったと言っているが

それは違う

12/8に真珠湾を攻撃することをアメリカは

知っていたが、真珠湾に伝えていなかった

宣戦布告が遅れたのは、翻訳が遅れたためであり

日本のせいではない

※史実では、「ニイタカヤマノボレ一二〇八」の暗号電文が
発信された。「日本時間12月8日午前零時を期して
戦闘行動を開始せよ」と言う意味の暗号であった

アメリカは、12月8日に攻撃されると言うことは分かったが
ニイタカ山がどこを意味するかまでは、解読できなかった
その上、大統領や軍部は、日本は厳しい条件を飲むだろう
と思い込み、また、まさか大規模な部隊を
ハワイにまで送り込んで来るとは考えていなかった
そのため、真珠湾には伝えられていなかった

宣戦布告が遅れたのは
前夜、アメリカの日本大使館がパーティーをしており
電文は来ていたが、解読と翻訳が遅れたため
結果、宣戦布告の文書を米国に手渡すのが
真珠湾攻撃の後になったと言われている




続く…




大勢の方に読んでいただくことで、情報をいただけるよう
ご協力をお願いしますm(_ _)m
ポチッとな☆↓↓

人気ブログランキングへ

ミャンマーに思いを寄せて 583

終戦となり、軍医さん達の部隊も収容所に入った

講演会で印象に残っているのは

その際に、軍医さんがハッキリとおっしゃったこと

「私は捕虜ではありません」

捕虜とは戦時中に捕まった者のこと

戦争が終わり、収容所に入った者は捕虜ではなく

抑留というのだそうです

捕虜と言われたくないと熱く語っておられました





収容所では、部隊に後任の軍医がいたこともあり

軍医としての仕事はしなかったそうだ

小隊の指揮官として、イギリス軍の作業に従事

トイレを作ったり、色々とした

1番怖かったのは、イギリス軍のジープに乗せてもらい

山道を走るのだが、悪路と乱暴な運転

その上、つかまる所のない車で

振り落とされるのではないかと何度もヒヤヒヤしたらしい

せっかく生き残ったのに、こんなことで死んだら

名誉の戦死でもなく、悔やんでも悔やみきれないと

必死に車にしがみついたそうである





イギリス軍は、その日の分の作業が終わると

その後は、自由にさせてくれた

日本軍は、皆、まじめで手抜きせずに

コツコツと作業に従事するため

予定よりも早く終わることが多かった

徐々にイギリス軍から信頼され

自由な時間が増えたそうだ





軍医さんは、講演会当日、体調が優れなかった

主催者様も気にかけておられて

何度も、水分補給や、休憩を入れましょうと

軍医さんに勧めるのだが

その度に断られ、ノンストップで2時間あまり語られた





今回の講演会のテーマは

「私の戦争体験と日本への遺言」である

最後に軍医さんは、大東亜戦争で間違って

伝わっている認識に対し

どうしても言いたいことがあると

講演会は更に熱く続いたのである




続く…



大勢の方に読んでいただくことで、情報をいただけるよう
ご協力をお願いしますm(_ _)m
ポチッとな☆↓↓

人気ブログランキングへ

ミャンマーに思いを寄せて 582

軍医さんは、身長が170cmちょっとある

栄養失調になった時は、39kgまで痩せたそうである

日本軍は、皆、栄養失調で

皮膚は皮膚病にかかり、皮膚は緑色だったそうだ

ヒゲ面でやせ細り、目だけが目立ちギラギラとして

顔も緑色のため、妖怪のように見えた





入院時には39kgだった体重も退院の頃には

50kgまで回復し、昭和19年の12月に退院

退院の際に言われたことは

「次は野戦病院に行って下さい」だったと言う

野戦病院には、薬も食料も無いことは分かっている

次に入院したら、死を覚悟しろと言うことであった





原隊に戻る際、道で敵の機銃掃射に遇った

どこも隠れるところがない1本道

道端のほんのわずかな凹みに伏せた

敵が去って、命拾いをしたが

近くにいた人から「軍医さん、血が出てますよ」と

声をかけられた

よく見ると、腰から血が出ていることに気づいた

弾がかすったようだった

しかし、幸い大きな怪我ではなかった

もう少し太っていたら、命を落としていただろう

と言われていた





軍医さんの原隊では、軍医さんは戦死したと思われており

すでに部隊には後任の軍医が配属されていた

元気になり、生きて原隊に復帰した軍医さんに

皆、驚き、喜んだそうだ




続く…




大勢の方に読んでいただくことで、情報をいただけるよう
ご協力をお願いしますm(_ _)m
ポチッとな☆↓↓

人気ブログランキングへ

ミャンマーに思いを寄せて 581

軍医さんのお父様も軍人さんで陸軍中将だった

軍医さんは、一校に入りたかった

※一校とは、旧制第一高等学校の略

現在の東京大学教養学部及び

千葉大学医学部、同薬学部の前身

しかし、一校には入れず

お医者さんになりたかった訳ではないが

しかたなく慶応義塾大学医学部に進んだ






戦死する時は、1歩でも2歩でも

敵陣に近づいて死にたいと思っていた

戦死すれば2階級特進

少しでも階級が高くなることを望んだ

なぜなら、桑木家にとって名誉であるから

しかし、軍医は決死隊にはならなかった

生きて帰れるとは思っておらず

終戦になって生きていて驚いたそうだ

死ぬことを覚悟して行かなかった人間はいない

自分は、英霊達に語りべとして残されたと思うと

言われていた





日本語の達者なビルマ人は多く

英語を話せるビルマ人は少なかった





チンドウィン川を渡る際に

日本軍の遺体をたくさん見た





軍医さんも途中でマラリアとアメーバ赤痢にかかった

アメーバ赤痢になると、膿が出てくるのだそうです

栄養失調にもなり

川は船で渡り、汽車に乗り、昭和19年の10月に入院

入院の際には、2人の兵隊が付き添ってくれた





道の端にはうずくまる人達がいっぱいいた

傷口にはウジ虫が湧き、皮膚の内側を

生きながらウジにむしばまれた

その頃には、もう統制を取って部隊として

後退したところはなかったのではないかとのこと

軍隊とは言えない惨状だった





病院は、野戦病院→兵站病院→陸軍病院の順で

設備が整っていた

野戦病院には、すでに薬品も食料もなかった

ビルマには1つだけラングーンに陸軍病院があり

軍医さんはそこに入院した

ラングーンは灯火管制があり、もう制空権もなかった





陸軍病院は、図書館を接収した場所だった

そこでシンガポールの植物園の有名なイギリス博士の

「ビルマの薬用植物」と言う本を見つけた

入院生活で時間もたっぷりあり

その本を読んで、絵も写した

軍医さんは、後退中、何度とビルマ人に助けられた

お寺に行くと、お薬もいただけた

その際、お坊様が仏様を拝みながら

薬を出してくれる姿を見て

薬とはとても貴重で、ありがたい物なのだと

実感した経験があった

その本の中には、アメーバ赤痢に効く薬など

すぐに役立つ知識がたくさんあり

それらを習得し、ビルマでも活用し

その後、漢方医になったのだと言う




続く…




大勢の方に読んでいただくことで、情報をいただけるよう
ご協力をお願いしますm(_ _)m
ポチッとな☆↓↓



人気ブログランキングへ

ミャンマーに思いを寄せて 580

軍医さんの講演会は、ノンストップで

様々な貴重な体験を次々と話されていく

時折、先の話が何だったか

これから何を話すのか忘れられることもあった

以下、話されたことを、やや箇条書きで列挙します





補給経路が寸断され、食料が無く野草を食べていた

緑の葉っぱに「ビルマほうれん草」と言う名前を付けて

食べていたが、単なる草であった

野鳥も仕留めて食べた

キレイな色の野鳥の方が、美味しくないのだそうです





敵は迫撃砲を決まった時間に撃ってくる

雨期の道路は川となっていた





大隊長と大隊副官と軍医がワンセットで

陣地に入っていた

士官には、士官付きの当番兵がいた





コヒマは大都市ディマプールとインパールを結ぶ

主要道の交点であった

コヒマは封鎖したが、その先に飛行場を見つけた

日本軍は、欲が出て手を広げたかった

※この話は60連隊にも出てくる

飛行場を見つけた先頭の部隊と

後方の指揮官との連絡がうまく行かず

はやる気持ちを抑えきれない先頭とは裏腹に

命令が遅れ、チャンスを逃すばかりか

先頭は孤立し、玉砕しかけた





ビルマには布があまり普及していなかったため

布を食料と交換した、ふんどしでも喜ばれたらしい





友軍のインド国民軍にも

コヒマで2度ほど会ったそうです




続く…




大勢の方に読んでいただくことで、情報をいただけるよう
ご協力をお願いしますm(_ _)m
ポチッとな☆↓↓


人気ブログランキングへ

ミャンマーに思いを寄せて 579

軍医さんの講演会はとてもお話が上手くて

時折笑いも起こる素晴らしい内容だった





軍医さんは、プロフィールにも書かれていたとおり

昭和17年の3月に大学を卒業の予定だった

学徒出陣の少し前、卒業時期を3ヶ月短縮して

昭和16年の12月に卒業させ

軍隊に入隊させた最初のケースの学生である

大叔父と全く同じ時期であった





軍医さんは、仙台の陸軍病院にて

衛生兵の教育をした後

昭和18年5月にビルマ入りした

シンガポール→ベトナム・サイゴン→

タイ・バンコク→泰緬鉄道でビルマへ

サイゴンでは、ガダルカナル組と合流した際

全員マラリア患者で、入院手続きをしたそうだ





昭和19年1月、インド・コヒマに向けて出発

ビルマでのお正月は、まだインパール作戦が

始まる前で、物資が豊富でとても楽しんだそうです

シビィ山系→チンドウィン川→アラカン山脈を越え

インドのコヒマには5月に着いた





4/29の天皇節にはインパールを落とす計画だったが

すでに戦況は悪化しており

コヒマでは、日本の飛行機を見たことがなかった

敵の飛行機はたくさん見かけた

しかし戦闘機ではなく、全て輸送機だったそうです





コヒマはインド国内であるが

コヒマの現地の人は、いわゆるインド人ではなく

ナガ族と呼ばれる少数民族であった

ナガ族は、山岳地に穴を掘って暮らし

ほとんど裸族で、原始的な生活をしていた

その地域はナガランドと呼ばれていたそうです





「コヒマの三叉路」はインパール作戦では有名である

コヒマは双方の作戦上

兵站・連絡面での重要な地点ではあるが

特に発展した街ではなかった




続く…



大勢の方に読んでいただくことで、情報をいただけるよう
ご協力をお願いしますm(_ _)m
ポチッとな☆↓↓

人気ブログランキングへ

第71回 ビクトリーショー

読者の皆様へ


いつも読んで下さってありがとうございます

この週末は、お仕事のパンダジュエリーとして

浜松町で行われたミリタリーの催事

「ビクトリーショー」に参加しました




このブログのブログアイコンは

密かにそのパンダジュエリーのロゴです

パンダジュエリーロゴ









当初、お仕事はパンダモチーフの女性向けの

アクセサリーが中心で

ミリタリーとは全く関係がなかったのですが

たまたま自衛隊関係の方にご縁をいただき

ミリタリー系のアクセサリーを製作したことで

パンダジュエリーとミリタリーが偶然繋がったのです





そのビクトリーショーの会場で

お客様に「ブログを見ています」と声をかけていただき

てっきりアクセサリーのお仕事ブログだと思ったのですが

なんと、このミャンマー記事の読者様でした

続きが楽しみだと言って下さり

驚きと共に感激して、ウルウルしてしまいました( p_q)エ-ン

まさか読者様とお会いでき、激励してもらえるなんて

慌てて挙動不審な人になってしまった





今、なかなか調査が進まず、とても苦しい時期で

ほんとうに嬉しくて、ありがたかった

ブログを続けていて良かったと思えた瞬間でした

頑張ればきっと良いことがあると信じて

これからも頑張ろうと思います





この後、大きな大きな展開があります

隠れていた難しい裏の世界の話になります

そこからが進まないのが実情です

新たな展開を切り開くために

様々な所に赴き、地道に調査しています

来月から、またミリタリー雑誌「丸」にて

続編を連載しますので

情報提供を呼びかけたいと思います

今後ともどうぞ応援のほど宜しくお願いいたします




皆様のポチッから勇気をいただき励みとなっております
大勢の方に読んでいただくことで、情報をいただけるよう
ご協力をお願いしますm(_ _)m
ポチッとな☆↓↓

2013.12.15


人気ブログランキングへ

ミャンマーに思いを寄せて 578

ホールの薄暗い通路には

待つ人の静かなザワザワが広がっていた

その時、後ろの方からそのザワザワが

スーッと消えて、次いで、ささやくような声で

おぉ~と言うみんなの声が聞こえてきた

後ろを振り返ると、98才の元・軍医さんが

杖をつきつつ、自分の足でゆっくりと

歩いて来られた





オーラと言うのだろうか?神々しいような

そのお姿を見た途端、目頭が熱くなった

みんなきっと同じ思いだったように思う

あぁ、来て良かったと思った





ほどなく開場となり、私は控えめな席に腰掛けた

100名分ほどの椅子が用意されていたが

すぐに満員となり、立ち見も含めて120名ほど参加

とても人気の軍医さんのようである




軍医さんのプロフィール(講演会の資料より)

桑木崇秀(くわき たかひで)先生

インパール作戦従軍軍医・医学博士

大正5(1916)年、東京都生まれ

昭和16年12月、慶応義塾大学医学部卒業

医学博士。

陸軍軍医としてビルマでインパール作戦に参加
(烈歩兵第百二十四連隊)。

復員後、北品川総合病院第二内科部長、
北里研究所付属東洋医学総合研究所臨床研究部長、
東京医薬専門学校長を経て、現在同校名誉校長、
市ヶ谷漢方クリニック院長、
(財)東洋医学国際研究財団会長、
日本東洋医学会名誉会員。

また、ビルマ英霊顕彰会副会長、
英霊にこたえる会広報委員、
国民文化研究会会員、
日本を守る国民会議会員などを務める。

著書は『自虐史観から脱却して誇り高き日本へ』(2012年) 、
『大東亜戦争はまだ終らない』(1997年)、
『父陸軍中将桑木崇明とその兄達』(2004年)など10冊余り。




続く…




※ブログランキングに参加してみました
大勢の方に読んでいただくことで、情報をいただけるよう
ご協力をお願いしますm(_ _)m
ポチッとな↓↓

人気ブログランキングへ

ミャンマーに思いを寄せて 577

2013年3月9日

文京区のシビックホールで行われた

インパール作戦に参加された軍医さんの講演会に

行ってきました




駅からほどなく、想像していたのより

遙かに大きなビルの中に、そのホールはあった

ビルの中で迷いながら、やっとたどり着いた

ホール自体は、大きな会議室と言った感じで

いくつもあるレンタルホールの1つのようでした





主催者様には、事前にメールで申し込み

軽く事情を説明しておいた

会場は準備中で、忙しく作業をなさっておられたが

ご厚意で中に入れていただき

主催者様へご挨拶に伺った

とっても怖い年配の大先生のような方をイメージしていたが

主催者様は、爽やかな青年で、とても驚いた





軍事関係のみならず、政治や経済等のを含めた

講演会をいつも開催されている団体らしい

主催者様自身も歴史に詳しく、経済関連の書籍を

出版なさっているなど、ご活躍のご様子





講演会では、最後に質疑応答の時間もあり

ありがたいことに、講演会の後

軍医さんにご挨拶できるようにして下さるとのこと

主催者様にも大叔父の資料をお渡しし

今後のお力添えをお願いした





まずは安堵して、準備中のホールを出た

外にはすでに講演会を待つ

たくさんの方が列をなしていた

私もその列に並んで開場を待った

この列に並んでいる方達は、みんな軍事関係の

お話が好きな方なのだろうなぁ

皆さん歴史に詳しい方なのだろうか?

皆さんお友達と来ているような雰囲気ではなく

個々に参加されているように見受けられた

中高年と言った感じの男性が多かった

近くの人に話しかけてみたい気持ちはあったが
 
そんな勇気もなかった




続く…




※ブログランキングに参加してみました
大勢の方に読んでいただくことで、情報をいただけるよう
ご協力をお願いしますm(_ _)m
ポチッとな↓↓

人気ブログランキングへ

ミャンマーに思いを寄せて 576

新しい展開は何も無いまま月日は流れ

もう2013年の3月となっていた 

頼りにしている人達からは、音信不通。。。

どうしたら良いのだろうと困っていた 





そんな中、インパール作戦の生き残りの軍医さんが

講演会をすると言う情報が偶然にも舞い込んだ

御年98才、大正5年生まれだから大叔父よりも先輩だ

(大叔父は大正7年生まれ)

すごいタイミング!!





テーマは「私の戦争体験と日本への遺言」と題されている

大叔父の師団の方ではなく、烈師団の所属の方だった

どんなお話をされるのか分からないが

何かしら貴重なお話が聞けるかもと申し込むことにした

でも、、、なんだか敷居の高い大先生ばかりの

集まりみたい…

またまた浮くんだろうなぁ。。。

主催の団体もよく分からないし、怪しくないかしら?

知らない人ばかりだしどうしよう。。。

私なんかが参加して大丈夫なんだろうか?

とても心配だった

しかし、また今度はないかもしれない

最後のチャンスかもしれないので行くことを決意した





調査に行き詰まると、こう言った話が

どこからともなく舞い込んで来る 

とっても偶然に恵まれている 

とにかく与えられた機会だ、素直に従ってみよう




続く…



※ブログランキングに参加してみました
大勢の方に読んでいただくことで、情報をいただけるよう
ご協力をお願いしますm(_ _)m
ポチッとな↓↓

人気ブログランキングへ

ミャンマーに思いを寄せて 575

憲兵は、一般兵にとっては、何かとやかましい存在で

職務上から高圧的態度をとる憲兵もいたため

イメージは良くなかったとか

一般人に対しても、特に満州においては

逮捕した容疑者に裁判をせず

憲兵隊が独断で処刑する「厳重処分」が横行したそうだ





戦後のB・C級の戦争裁判では

有罪となり処刑された者は1,000名にのぼり

その3割が憲兵だったとも言われている




おじいちゃんが恐れて逃げていたのも

分かるような気がする

逃げたことが良かったとか・悪かったとか言わないが

捕まっていればどうなったかは分からない

私が生まれた年、私の顔を見てから祖父は亡くなった

初の内孫をとても喜んでいたようだ

私は当然覚えていないが

おじいちゃんに会えて良かったと思う





全ビルマ会で、元憲兵のおじいさんに

祖父も憲兵で満州から民間人に紛れて引き揚げたと

話したとき

「よく満州から帰って来れましたね」と言われた

一般的に引き揚げ者としてご苦労されたと言う

意味かと思っていたが

今から考えれば、違う意味だったように思う





もし、大叔父が特務機関の人間で

もし、祖父も特務機関の人間だったならば

明治生まれの祖父の方が先輩になるのだろうなぁと

ふと思った

母方の大叔父はビルマで、父方の祖父は満州の大連

知り合いだったらビックリだわ(笑)

そんなことはないだろうけど

戦争のあった同じ時代に生きていたのだなぁ。。。




祖父の経歴を見ただけで、怪しいと感じた読者様も

いたかと思いますが、私は全く気付いていなかった

そんなレベルなんです(-_-;)

祖父のことも調べれば、おもしろそうな事が

出てきそうな気配だが、それはまたの機会としよう

まずは、この大叔父の調査が優先だ





父方の祖父の話にそれていたが

冨澤先生のお手紙の中の

中野学校の方で「残留された」と言う意味を調べて

様々な時代背景を知ることが出来た

大叔父は生きている(生きていた)と唱える識者も

いらっしゃったが、あながちバカげた話でも

ないような気がした

もし生きてビルマに残ったとしても

日本に帰ってくるすべは無かったのだろうなと思う





続く…




※ブログランキングに参加してみました
大勢の方に読んでいただくことで、情報をいただけるよう
ご協力をお願いしますm(_ _)m
ポチッとな↓↓

人気ブログランキングへ

ミャンマーに思いを寄せて 574

予備役の制度とか色々とあるので

よく分からないのだけど

まずは憲兵と言う言葉を調べてみた





(Wikipediaよりまとめ)

憲兵の最下級は憲兵上等兵であった(末期を除く)

憲兵は、歩兵とか砲兵とかの兵科とは違い

将校・准士官・下士官兵を問わず

入隊時に憲兵科の指定はなかった

他兵科からの転科志願者から

在隊中の勤務態度が吟味され、身辺調査を経て

更に憲兵隊での学科試験や面接をもって充足された





昇級については、他の兵科と異なり

戦時の消耗が少なく、また目立つ任務ではないことから

功績を挙げにくく、昇進が難しい兵科とされた

平時では多くが伍長で予備役に編入され

軍曹や曹長、准士官にまで昇進できるのは

ごく一部の者だけであった





憲兵軍曹だった祖父

ごく一部に当たる軍曹という階級

おじいちゃんスゴイ

父は曾祖父も軍人で海軍中尉

我が家は軍人家系だったと言う

しかし祖父の軍服の写真は1枚もない

満州での冬の国民服の写真があるだけだ





でも予備役だったならば、正規の満州樹脂の社員として

さっさと乗船出来ていただろうし

3年も乗船出来ず、軍事裁判にかけられるからと

逃げまくっていたと言う祖父。。。

もしかして…おじいちゃん、現役で満州樹脂に紛れていた

私服憲兵または、特務機関の人間だったんじゃないの?

ひょぇぇぇぇぇぇぇぇぇーーー




続く…




※ブログランキングに参加してみました
大勢の方に読んでいただくことで、情報をいただけるよう
ご協力をお願いしますm(_ _)m
ポチッとな↓↓

人気ブログランキングへ

ミャンマーに思いを寄せて 573

満州からの引き揚げは、民間人が多かったのと

奥地の開拓団などの移動に

時間がかかったため長期間にわたった





父達が乗船に3年もかかったと聞いていて

3年も待つほど人が溢れていたのだなと

何の疑問も持たず思っていた

しかし、調べてみると

満州鉄道をはじめ、大手の社員などは

順番的に優先されて早めに日本に帰っている

大連に住んでいて、奥地からの移動でもなく

満州樹脂の社員だったのならば

なぜすぐに乗れなかったのだろうか?

小さな疑問その1である





祖父は憲兵だったが、満州樹脂の社員だった

父が言うには、年だから兵役が終わったのでは

ないかとのこと

「おじいちゃんはいつまで軍人さんだったの?」と聞くと

よく分からないんだなぁと言っている





私はずっと、憲兵と言う兵科があり

入隊の時に歩兵とか砲兵のように振り分けられる

のだろうなぁと思っていた

軍曹と言う階級も、普通にまじめに勤務していれば

一般の徴兵の兵隊さんでも昇級するんだろうなぁ

そして、軍役を離れて民間人になっていても

憲兵の期間が少しでもあれば、捕まって軍事裁判に

かけられるのだなと思っていたが

大叔父の勉強をしていて、ん???と思った、、、




続く…




※ブログランキングに参加してみました
大勢の方に読んでいただくことで、情報をいただけるよう
ご協力をお願いしますm(_ _)m
ポチッとな↓↓

人気ブログランキングへ

ミャンマーに思いを寄せて 572

引き揚げの話をしたくない思い出したくない

と言う人も多いかと思う

父は9才の子供だったこともあるが

満州でずっと育ってきたため

満州は第二の故郷のように思っている

今でも満州会に入り活動し

満州はとても良かったと懐かしがる

子供なりに苦労はしたであろう

しかし、皆がそう言った時代だったのだと言う





私の子供は、当時の父の年齢に近いが

親と離れて子供だけで埠頭を彷徨うことを

想像するだけで胸が痛んで泣きそうになる





引き揚げ船の乗船は、子供だけでは難しかったようである

乗船名簿から外されたり、後回しにされ

肉親と会えず終いで残留を余儀なくされた

子供も多かったと考えられる





父は、帰ってこられて幸せだと思う

そんな父がいて私がいる、ありがたいことである





父の話を幼い頃から聞いていて

何も不思議に思ったことはない

しかし、この大叔父の件で勉強をするうちに

疑問に思うことが色々と出てきた。。。





続く…




※ブログランキングに参加してみました
大勢の方に読んでいただくことで、情報をいただけるよう
ご協力をお願いしますm(_ _)m
ポチッとな↓↓

人気ブログランキングへ

ミャンマーに思いを寄せて 571

父方の引き揚げの話の続きだが

父の妹は、引き揚げの際に中国人に売ったそうだ

しかし、あまりにも泣くので中国人が

返してきたと言う

そのまま残してきたら、中国残留孤児として

探していたのだろうなぁと

ニュースを見る度に父は言っている





相変わらず逃げていた両親(私の祖父母)

父と父の兄は、ずっと大連の港の埠頭で待っていた

3ヶ月が過ぎたある日、埠頭でやっと両親と合流でき

終戦から3年経って引き揚げ船に乗れたのだそうです





引き揚げ船の中では、下の小さな妹は亡くなり

亡骸を祖母は抱いたまま、生きているようにして

日本に着いたのだそうです

衛生面などの関係で、船内では遺体は本来

遺棄するのだが、祖母はどうしても子供を

日本に連れて帰りたかった





船から日本の島影が見えた時、父は感動したそうです

船が港に着いても、しばらくは手続きと検疫などで

港の施設からは出られなかった

その施設の片隅に、小さな穴を掘って妹を埋葬した

妹の亡骸は、日本の土に埋めることが出来たのだ




続く…




※ブログランキングに参加してみました
大勢の方に読んでいただくことで、情報をいただけるよう
ご協力をお願いしますm(_ _)m
ポチッとな↓↓

人気ブログランキングへ

ミャンマーに思いを寄せて 570

なぜ民間人に紛れて引き揚げ船で

帰れなかったのだろう?と

私が思ったかと言うと

父方が満州からの引き揚げで

祖父は民間人に紛れて帰ってきたからである





父の話をついでに書いておきますね

父の話によると

父方の祖父は憲兵で、階級は軍曹

満州油脂に勤めていた

大連に住んでいて、引き揚げには3年かかった



親戚も一緒に、早くから渡満しており

それぞれ満州樹脂や満州鉄道で働いていた

大連での暮らしは、とても豊かで

大きなオンドル付きの家には、お手伝いさんがいて

平成になってから大連を訪れた時も

まだその家はあったそうです

祖母は、出産の度に日本に里帰り出産をし

その際は、特別に軍艦に乗せてもらい日本に帰ったと

父は語る





終戦後、祖父は軍事裁判にかけられるからと

満州国内でも、日本に帰ってからも

逃げまくっていたそうだ

父が家に帰ると、いつも両親は逃げた後で

家の中はもぬけの殻

両親とはぐれることもしばしばで

何ヶ月も行方が分からないこともあったそうです





父は、いつも1つ違いの兄と一緒にいたそうだ

兄と2人して港で商売をし、中国人から買った

あんころ餅を売った

中のあんこを食べて、もう1度お餅を丸める。。。

子供だけで生きていくために、ズルいこともした






ソ連兵はひどかったと父は言う

祖母も髪の毛を丸坊主にし、男性のフリをしていたそうだ

ソ連兵が来ると、父達は祖母を床下に隠れさせた





引き揚げには、布団から鍋まで

持てる物は全て持っていたと言う

この話も、幼い頃から何度も父から聞かされた話である




続く…




※ブログランキングに参加してみました
大勢の方に読んでいただくことで、情報をいただけるよう
ご協力をお願いしますm(_ _)m
ポチッとな↓↓


人気ブログランキングへ

ミャンマーに思いを寄せて 569

特務機関の人間が

引き揚げ船で、民間人に紛れて帰ることは

出来なかったのだろうか?と考えた





調べてみると、引き揚げ船に乗るためには、乗船名簿など

様々な手続きや証明書が必要だったようだ

紛れ込むためには、役人や日本人会などの要人に

袖の下を渡して、工作しなければいけないだろう

それは容易いことではない

不正がバレれば、引き揚げ者全員に迷惑がかかり

帰れなくなるかもしれないからだ





満州などは、民間人がたくさんいて

引き揚げにはずいぶんと時間がかかったが

南方などは、終戦の翌年にはほぼ終わっていたようだ

ビルマには民間人は少なく

どさくさに紛れてと言うのは難しかったと思われる





では、自力で帰るとて言っても

日本への直行便の船も無いだろうし

あったとしても乗船するだけのお金も無いだろう

少しでも日本に近い所から船に乗ろうとしても

パスポートも無く、国境を越えるのは危険が

多すぎたのではないか





そうこうするうちに、日本に帰るすべが無くなった。。。

結果、ビルマに残るしかなかった

そんな特務機関関係の人がいてもおかしくない

これは、特務機関関係者だけでなく

一般の逃亡兵で、正規に収容所から帰ることが

出来なかった人達にも言えることである




続く…




※ブログランキングに参加してみました
大勢の方に読んでいただくことで、情報をいただけるよう
ご協力をお願いしますm(_ _)m
ポチッとな↓↓

人気ブログランキングへ

ミャンマーに思いを寄せて 568

中野学校では、日本軍の一般の教育とは異なり

「生き残れ」と言う教育をしている

私の中では、その部分だけが印象に残っており

犬死にするなと教えていたのかと

なんと親心のように優しい部隊なんだと

勝手に感動していた

しかし、よく続きを読むと「生きて虜囚の辱めを受けても

なお生き残り、二重スパイとなって敵を撹乱するなど

あくまでも任務を遂行するように」などと書かれている





生きろと言う意味は、怪我をしようが、どうなろうが

とにかく情報を持って戻って来いと言うことなのね

なんて優しい部隊なんだろうって

思いっきり勘違いしていた





中野学校の関係者には、玉砕とか自決とかの文字はない

小野田さんのように、終戦に気付かず(認めず)

命令に従い貫き通し現地に残った人も少しはいただろうし

原隊から逃亡してしまった一般部隊の人は

日本に帰っても肩身が狭いため自身の意志で現地に残った

では、特務機関関係などの人間で、連合軍に投降せずに

行方をくらました人達は、なぜ帰って来なかったのか?

少し考えてみた





終戦後、連合軍はきっと血眼になって日本軍狩りのような

ことをしただろう

軍服を着ず、民間人やビルマ人に扮していたであろう

特務機関関係者は、親切なビルマ人の民家に

かくまってもらっていた、もしくは山の中に潜んでいた

と想像する





では、民間人に扮したまま引き揚げ船で

帰って来れなかったのだろうか?

どさくさに紛れて帰って来れないものかな?

と簡単に思っていたのだが。。。





続く…




※ブログランキングに参加してみました
大勢の方に読んでいただくことで、情報をいただけるよう
ご協力をお願いしますm(_ _)m
ポチッとな↓↓

人気ブログランキングへ

ミャンマーに思いを寄せて 567

冨澤先生のお手紙の中に

「戦後、南方でベトナムやインドネシア等各方面で

現地に残留された方々も、この中にあったと想像する」

とあり、「残留された」と言う言葉が気になった





以前に、全ビルマ会の会長さんから

「残った人は、全部逃亡兵だよ」と聞いていた

(※このお話しは、今後の記事の2013年5月の

全ビルマ会の総会での話で、詳しく書く予定です)

逃亡兵と聞いて、戦場離脱・敵前逃亡のようなことだろうと

理解した





残った人とは、戦場から逃げ出したので、日本に帰っても

肩身が狭いから、帰るに帰れず

現地の方と家庭を持って

現地に留まることを決意した人だけだと思っていた

確かに…全ビルマ会にいらっしゃる逃亡兵のおじいさんも

皆さんから浮いているように感じる。。。





しかし、逃亡と言っても、原隊からの逃亡だけでないと言うことに

気付いた

特に憲兵や特務関係者の場合の逃亡については

連合軍に投降した後に、処刑されるのを

避けるために、一般部隊と一緒に投降せず

そのまま潜伏し所在をくらました場合の「逃亡」がある





冨澤先生のお手紙の、中野学校関係者が

「残留された」と言うのは、そう言った人達のことかもしれない





最近の記事で、元・憲兵のおじいさんが

憲兵は一般の部隊の隊員とは違い、終戦後は

収容所に入らず、刑務所に入れられたと言う話を思い出した

関係過去記事はこちら↓↓
「ミャンマーに思いを寄せて 556」
http://blog.livedoor.jp/aya_sann/archives/1890131.html





中野学校関係者が連合軍に投降した場合を考えると

普通の隊員と同じような扱いで無いことは目に見えており

どんな扱いになるかは本人達も分かっていただろう





続く…




※ブログランキングに参加してみました
大勢の方に読んでいただくことで、情報をいただけるよう
ご協力をお願いしますm(_ _)m
ポチッとな↓↓


人気ブログランキングへ

12月になりましたね

読者の皆様へ

いつも読んで下さってありがとうございます

早いもので、もう12月に入り今年もあと1ヶ月を切りました




毎年恒例の12月の全ビルマ会の忘年会には

今年は予定が合わず、残念ながら不参加です

皆様お元気で来年5月の総会でお会いできるように

祈っています




大叔父の調査の方は、新たな進展は今のところなく

何か情報が得られないかと四苦八苦し

思いつくまま、様々なところに足を運んでいます




ブログ記事は、まだ2013年3月の内容ですが

今後、大きな大きな展開があり

驚くくらい今以上にディープな世界にどっぷりはまります

それをどう文章にすれば良いのか

上手く説明が出来るかどうか

まずは勉強しなくては、、、

考えるだけで頭が痛い課題です

今後とも、どうぞ宜しくお付き合い下さいませ




皆様のポチッから勇気をいただき励みとなっております
大勢の方に読んでいただくことで、情報をいただけるよう
ご協力をお願いしますm(_ _)m
ポチッとな☆↓↓

2013.12.2


人気ブログランキングへ

ミャンマーに思いを寄せて 566

冨澤先生のお手紙を何度も読み返した

気になるところは3ヶ所


●遊撃隊幹部要員は、中野学校出身者を含む

各部隊から臨時派遣された将校下士官で編制されて


●下士官の教育課程は(中略)

第一次は、昭和18年9月~11月の3ヶ月間

第二次は、昭和19年1月~3月の3ヶ月間で終了している


●戦後、南方でベトナムやインドネシア等各方面で

現地に残留された方々も、この中にあったと想像する





まず、南方遊撃隊司令部が通訳要員の確保に困窮し

血眼になってかき集めていたのは分かっていた

その際、単なる引き抜きかと思っていたが

各部隊からの「臨時派遣」と言う形であったと知った

臨時派遣と言うことは、原隊があることになる

大叔父と同じ中隊のおじいさんが言っておられたように

所属部隊で勤務せず、別のところで勤務していたのでは

と言うのに当てはまる





次の下士官の教育の期間については

第一次・第二次どちらも、大叔父は教育を受けることが可能である

軍歴表では、第一次の頃は、60連隊として中国に派遣されている

第二次の頃はインパール作戦前のビルマに移動している

ただ、その期間に大叔父は60連隊に存在した形跡がない

では一体どこにいたのか?





次に、戦後、現地に残留されたと言うのは

現地に残留を命ぜられたのか?

それとも、残留なさったと言う意味なのか?

「残留」について、もう少し掘り下げてみた。。。




続く…




※ブログランキングに参加してみました
大勢の方に読んでいただくことで、情報をいただけるよう
ご協力をお願いしますm(_ _)m
ポチッとな☆↓↓


人気ブログランキングへ


記事検索
プロフィール

aya_sann

カテゴリ別アーカイブ
タグクラウド
QRコード
QRコード
  • ライブドアブログ