ミャンマーに思いを寄せて

亡き母の思いを果たすべく、ビルマで戦死した大叔父の足取りをたどる私の奮闘記録☆

2014年02月

ミャンマーに思いを寄せて 647

A氏の経歴を見ただけで、うわぁ~と思った

その中で、「関東軍情報部に勤務したと思われる」

とあるが

それは、100年史担当だった方の推論である

その理由は、関東軍の藤村少将とA氏もしくは大学が

親しかったためだそうである





近くの国立大学昭が和17年5月~7月に行った

満州北部の僻地の探検記録の中で

A氏の紹介で、満州国治安部(のちの軍事部)の

高級顧問であった藤村謙少将に便宜を図ってもらった

と言う内容の一文があり、それが根拠のようだ




近くの国立大学の探検記関連の過去記事はこちら↓↓

「ミャンマーに思いを寄せて 607」
http://blog.livedoor.jp/aya_sann/archives/1898159.html





この「情報部」という推論には、私個人としては

少し違うかもしれないと思っている

何故ならば、藤村少将(※最終階級は中将)の経歴を

ザッとではあるが調べてみると

開戦時(昭和16年12月8日)少将で満州国・軍政部顧問

その後に、中将で高級顧問となっており

情報部と言う言葉は見あたらない

この方の経歴や繋がりは

いつかきちんと調べなければいけないが

あまり有名な方ではないようで、資料が少なすぎるため

現時点での判断には苦しむところである

100年史担当だった方の、情報部の説は

どこから出てきたのか分からない

何か別の資料があるのだろうか?




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 646

日満の学校関連の論文を解読しながら

○○大学の100年史の担当だった方とのメールの

往復は続き、続々と新たな情報が入ってきた

100年史の担当だったこの方は

この春、定年されたが引き続き再雇用され

○○大学の他の部署で活躍されている

100年史担当の頃からのご縁で、他の部署に移ってからも

ありがたいことに、私の調査にとても協力的であった





大学側には、以前は、大叔父が特務機関に

関係したのではと言う推論を伏せていた

伏せていた理由は、大学もしくは大学関係者に特務機関と

深く結びつきのある者がいて

大叔父の出兵に影響を与えたのではと考えていたため

ご迷惑かと思い、なかなか言い出しにくかったからである

その関係者が、まさか大叔父の下宿先であり

○○大学の理事をしていた姉婿だと

気付いたときは、ほんとうに驚いた

それから少しずつ、こちらからも情報を開示した





A氏に関しても、新たな情報がもたらされていた

A氏とは、ビルマの特務機関の岩畔機関→光機関に

実際に○○大学から派遣されていた人物である



A氏に関する過去記事はこちら↓↓

「ミャンマーに思いを寄せて 603」
http://blog.livedoor.jp/aya_sann/archives/1898136.html





大叔父のケースと似ていることから

大叔父は、A氏の後任者もしくは

何らかの関連性があるのではと思われる





A氏の経歴がメールで送られてきた

A氏は、昭和16年3月に、○○大学法学部卒業

同年4月に、○○大学の職員として勤務

「学生課長」に就任

昭和17年3月に、学生課長を解任され

資料によると、その後、関東軍情報部に

勤務したと思われるとなっている

同年6月に、北京に移動

その後、8月に、バンコク→ビルマに移動

ビルマの特務機関・岩畔機関→光機関に勤務

昭和18年8月23日、日本に帰国




続く…




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ご挨拶

読者の皆様へ



いつも読んでいただきありがとうございます

寒い日が続き、大雪の被害もまだ続いている地域が

ありますね、お見舞い申し上げます





○○日満工科学校と石原完爾氏の件が

やっと一段落つきました

日満の学校の説明だけで、16話も書いてしまいました

読者様も読むのが大変だったと思いますが

私も、説明するのに苦戦しました





○○大学の100年史の方からの

メールに添付書類されていた

○○工科学校の論文にざっと目を通し

石原完爾氏の名前は、早い段階で確認していたのですが

姉婿との関係についての裏付けと

皆様に説明するためには、日満の学校関連を

自分が理解していないと、記事が書けなかったため

とにかく猛勉強の日々でした




添付されていたのは、○○日満工科学校の論文だけで

それだけで記事を書くつもりでしたが

調べていくと類似したその他の日満の学校が

あることを知り、これも調べなきゃいけなくなった

資料については、とても少なく

各学校ごとの単独の論文しかなかった

参考にさせていただいた論文の中には

その研究者の思想も含まれている物があり

全てが真実かは判断できませんが

それらを時系列で並べて、関係事項を肉付けして

なんとか理解していきました





先日、それを記事の中に盛り込みましたが

携帯からご覧の方には、かなり見づらかったと思います

申し訳ありませんでした





このブログのカテゴリは戦史で

戦史に詳しい読者様は多いとは思いますが

日満の学校や協和会については戦史ではなく

ご存じなかった方もいらっしゃったかもしれません

もちろん私は全く知りませんでしたが(^^;)

戦史ONRYのブログでもなく

気がつけばバラエティーに富んだ

内容になってきてしまいました





日満の学校を調べているうちに

満州国5カ年計画や、国家総動員法

また、石原完爾氏の五族協和の思想や

その先にある、著書の「世界最終戦論」

東亜連盟や協和会に至るまで

ビッグな単語が飛び出す度に

これも勉強しなきゃいけない???と半泣きでした

完全に私のレベルを超えてるよ~(>_<)

ミャンマーの話なのに、なぜに満州?

いつか、これが何かの役に立つんだろうか???





記事の内容は、2013年夏まで来ました

これから、まだまだ深い裏話となります

日満の学校の件は、その序章にしか過ぎません

今のところ、終わりは全く見えていません

とにかく、突き進むしかなくて、奮闘しております

どうか今後とも、応援のほど宜しくお願いいたします



2014.2.26



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ミャンマーに思いを寄せて 645

Wikipediaの○○大学の歴史では

日満工科学校について

「愛新覚羅溥儀より寄付を受け」と書かれている

確かに間違いではないが

あくまで満州国と言う言葉を使いたくないのだろうか

(※Wikipediaに書き込まれていることが
全て真実だとは思っておりません)

○○大学のHPにおいては、理工学部の成り立ちは

大正3年の電気講習所となっており

Wikipediaにおいても○○大学が電気講習所を設立した

ことになっている

いやいや、それは違うでしょと思うのだが

やはり○○日満工科学校に触れたくないように感じる





親族としては、正直、姉婿の業績を

もう少し取り上げてくれてもいいのにと思った

○○大学が戦後、大きく思想転換しても

当時の人間は国のため・学園のために

それぞれ頑張ったのである

それは、姉婿に限らず

大叔父も学徒出陣した学生もである

高い志と使命感を持って、命をかけて戦ったり

国に貢献したのだ

間違った過去だったと後になって

戦争に行ったこともない人達に言われても

誰も釈然としないのではないだろうか

決して戦争を賛美する訳ではない

ただ反省を理由として

過去の否定に躍起になるのではなく

過去の真実をそのまま伝えて欲しいと願う





さて、私の調査としては

姉婿が石原完爾氏と繋がっていたことが分かり

嬉しいような・悲しいような、、、

でも、石原完爾氏ならば

法令が出ることを、事前に知っていてもおかしくないし

国を動かす力を持っている中枢の人間であり

法令をも作れるくらいの権力を併せ持つ者

と言う定義に充分なほど当てはまる

石原完爾氏であれば、今までの経緯も納得がいくのである

しかし、今後、それをどのようにして調べればよいのか

ほんとうに益々、分からなくなってきた




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 644

理事であった姉婿の名前を

○○大学の100年史を担当している人でさえ

瞬時には誰のことか分からず

調べられて始めて

大学に貢献した人だと分かるようなレベル

○○大学のその後の50年史や65年史などには

姉婿の名前は一切出て来ない

出て来ないどころか、聞き取り調査もされていないようだ

○○工科学校の設立は、学校長と近くの電力会社の社長が

意気投合し、作り上げたことになっている





当時の学校長は、独裁的で有名だったらしく

その独裁下で、姉婿が独断でことを進めたようだと

当時の新聞が騒いで、詳細を伝えているのに対し

○○大学の記録とでは、かなり食い違っている





姉婿が独断で進めたことが、独裁の学校長には

手柄を取られたようで気にくわなかったのか

あるいは、前途ある姉婿の今後のためを思って

日満の学校設立に関わったことを隠蔽したのか

本当のところは、何も分からないが

GHQに睨まれて、思想転換した○○大学にとって

○○日満工科学校は、好ましくない過去であるのだろう

日満の学校に強く関わった姉婿は

○○大学の歴史から排除されたのかもしれない




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 643

大叔父の○○大学は、当時、とても軍や国に

貢献した学校として有名であり

禁衛隊の件も含み、戦後GHQから

国立だった「皇學館」とともに学園閉鎖が命じられた

そのため、○○大学は、以前に書いた

近くの国立の大学の思想弾圧事件で

国立大学から免官され、○○大学に迎えられた人を

学校長に就任させ

今までの国家主義的傾向を一掃したのみに留まらず

逆に「反日的」と言えるほどの

左傾化した姿勢を打ち出した



近くの国立大学の思想弾圧事件関連の過去記事↓↓

「ミャンマーに思いを寄せて 627」
http://blog.livedoor.jp/aya_sann/archives/1901416.html





思想弾圧事件で、近くの国立大学から

免官された人を学校長に添えることで

GHQに対し、新たな体裁を示したのだろう

学徒出陣においても、学徒出陣に応じなかった生徒に

対し、退学と言う厳しい処置を執ったのは

国からの圧力があったためとした




 

他の日満関係の学校は、満州国政府からの補助金が

打ち切られたことにより運営が出来ず

学校の土地を売って職員の退職金にしたり

縮小し、他の学校に吸収されたりして

満州国の運命と共に消滅してしまうのだが

○○大学においては、元々、学園という基盤があったのと

上記のような転身姿勢により

窮地を脱し、○○日満工科学校は

以後、理工学部となって残り、現在に至る





GHQに睨まれないために、学園の存続をかけて

全てを国や軍のせいにし、都合良く

立場を180度変えた○○大学

それが、学園を守るためのGHQに対する

その場しのぎの大芝居とも考えられなくもないが

しかし、その大きな思想転換は

現在もなお、○○大学の校風に色濃く出ていることを

考慮すると、根本的な考え方が変わったと言わざるを得ない

現在の○○大学の学生や関係者は

どれほどこのことを知っているのであろうか。。。




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 642

昭和13年4月に設置された(財)日満技術工養成所

これは、日満の学校設立のための官民共同の組織である

その事務所は、東京市麻布の満州国大使館内に設置

名称は、日満技術工養成所→日満技術員養成所→

最終的には昭和15年8月

(財)日満鉱工技術員協会と改名





この(財)日満技術工養成所の元は

「満州国協和会」であり、協和会の東京事務所が

この事業を直接取り行っていた

正式な設置は、昭和13年4月となっているが

昭和13年4月の秋田日満技術工養成所開校の

事前調整には、協和会として接触している





この協和会東京事務所は

石原完爾氏が最高委員の組織であり

石原完爾氏が仕切り、実務は下の人がしていた

出たーーーーーーー石原完爾氏





ついに、石原完爾氏の名前がハッキリと出たよ

元はと言えば、中野に偶然行くこととなり

大叔父の姉婿が○○大学の理事をしていたことが判明

そのことを○○大学の100年史担当の方に伝えると

その方からのメールに他の都道府県の国立大学の論文が

添付されていて、その文書には「○○工科学校」設立の

大叔父の姉婿の業績が書かれていた

それを更に、深く読んでいくと…石原完爾氏が関わっていた

100年史の担当の方は、そこまでご存じなかったであろう





ここで、姉婿と石原完爾氏が繋がった

石原氏は、昭和14年8月1日、留守第16師団長に。。。

(同年8月30日付で、第16師団長)

16師団は京都・伏見です。。。あぁ、、、

東条英機氏との確執で、左遷とは言え

これも偶然なんだろうか?

その上、昭和16年、師団長を終え、退役後は

石原完爾氏は、大叔父の大学の講師となっている





やっぱり、姉婿と石原完爾氏は、繋がっていて

姉婿宅に下宿していた大叔父にも何らかの

影響があったのではないかと判断した




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 641

13年4月の秋田日満技術工養成所

(後に秋田日満鉱業学校になる)の開校と同時期に
           
(財)日満技術工養成所(日満の学校設立のための組織)

が設立とされているが

13年に開校するためには、もっと前から活動しており

それは単に(財)日満技術工養成所と言う名称で

事務所をきちんと設置した日付であった





そして、秋田の開設については、予定していた東京蒲田の

土地の確保が出来ず、満州の田舎から出て来る生徒には

都会よりも田舎の方が良いのではと言う判断もあり

東京の開校予定を変更して

少し遅いが、昭和12年の10月から秋田と調整した





そして次に、大叔父の○○大学が日満の学校として

指定されるのだが、なぜ○○大学だったのだろうか?

○○大学の記録によると、○○大学はかねてより

大陸進出を視野に入れていたため

満州国に認められ、委託されたとなっている





その次は、九州日満鉱業学校

そして、酒田日満工業学校に続いていく

私は最初、酒田ってどこ?と調べたものである

山形県酒田市であった




続く…



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ミャンマーに思いを寄せて 640

一方、同じ頃、他の日満の学校等の

動きを簡単に並べてみると

(※携帯からご覧の方は見づらいです)

 



昭和12年8月  ●新聞にて、○○大学に13年度
         高等工科学校設立と報道される

----------------------------------------------------------

昭和13年4月  ●「国家総動員法」発令
 

         ●(財)日満技術工養成所の設置
         (日満の学校設立のための組織)

         ●秋田日満技術工養成所が開校
         (後に秋田日満鉱業学校になる)

          ●○○高等工科学校が開校
          (日満指定でなく、一般の学校)


    12月    ●「満州工鉱技術員養成所官制」公布

         ●○○高等工科学校、新校舎着工

-----------------------------------------------------------

昭和14年4月  ●九州日満鉱業技術員養成所が開校
        (後に九州日満工業学校になる)

          ●○○高等工科学校が○○日満工科学校と改組

------------------------------------------------------------

昭和15年4月  ●酒田日満技術工養成所が開校
        (後に酒田日満工業学校になる)
    





昭和13年4月、「国家総動員法」と同時に

大叔父の○○大学では、○○工科学校が開校

同年、12月に「満州工鉱技術員養成所官制」が

公布されたと同時に、工科学校の新校舎着工

翌14年には、○○日満工科学校になっている

これは単なる偶然であろうか?





昭和13年の一発目には、秋田と肩を並べて

私学の○○大学が工科学校を設立しているのは

電気講習所の切り離しの件があったのと

まだ日満指定の学校でないことから

偶然かもしれないが

「満州工鉱技術員養成所官制」公布される前に

法令が出ることを事前に知っていたかのような

動きに思える

また、「満州工鉱技術員養成所官制」公布される前に

秋田は開校し、法令の方が、この日満の学校ために

後から固めらたように見える





そして翌年、○○工科学校も、日満の学校指定を受け

この論文の研究者も書かれているとおり

補助金が出ることも分かっていたのではないかと

思ってしまうほど、見事なジャストタイミングである





もし、事前に知っていたと仮定すれば

国ないし軍部の中で、法令が審議されていること

その後に通ることなどが事前に分かっている者が

早い段階から○○大学に接触していたと思われる

その人物は、国を動かす力を持っている中枢の人間であり

法令をも作れるくらいの権力を併せ持つ者と推測する





この仮説を前提としたならば

その人物と○○大学は、強固な繋がりが必要とされる

もちろんそれは、○○工科学校の設立を言い出して

根回しをした姉婿とその人物が繋がっていたと言うことだ

。。。相手は一体誰であろう?




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 639

昭和13年・春、○○高等工科学校のドタバタな設立は

先にも述べたとおり、近くの国立大学の

電気講習所を切り離さなければいけない事情があり

それが急を要したのかもしれない





24年間もの歴史のある電気講習所は

社会奉仕的な意味合いで、私立であった

そもそも、国立の大学の中で

国立の教授陣をそのまま使った

私立の講習所と言うのが不思議なのだが

実際に、24年間も黙認されており

ここの卒業生は1,000名を超え

中堅技能者として、各方面で活躍していた





そこが、急に国立の大学から切り離されることとなる

その理由は明かではないが

監査なり国からの指導が入ったとも考えられる

社会奉仕と言うのだから、ボロ儲けはしていなかった

と思うのだが、少しは黒字だったかもしれない

しかし、24年間も黙認されていたのに何でこの時期に?

何のために?誰が言い出したの?と言う疑問は残る





切り離されて、電気講習所が無くなって困るのは

関西の産業界であり、特に電気関係の会社であろう

大叔父の姉婿は、山陽地方の電力会社3社の

社長であった

この電気講習所の卒業生の中にも

姉婿の会社で活躍していた者もいただろう





当然、この電気講習所が無くならないように

どうにかしなければと思案したと思う

そして、姉婿は○○高等工科学校設立を推奨し

近くの電力会社の社長の協力を得て

姉婿が理事をしていた○○大学が受け皿となり

この電気講習所を継承した○○高等工科学校の設立に

至ったと考えるのが自然である

後に、○○高等工科学校の校長には

この近くの電力会社の社長が就任している





大叔父の○○大学の昭和13年のバタバタとした

○○工科学校設立は

単に、近くの国立大学の電気講習所を

切り離さなければいけない事情が

急を要しただけかもしれない

しかし、もしかしたら、翌年の日満の学校指定を

前提に立てられたと言う可能性も否定できない

そこのところは今のところ分からない




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 638

先の○○日満工科学校ほか、日満の学校は

勉学の学校と言うより、職業訓練校の

意味合いが多い

そのため、教育史などでは取り上げられず

研究がほとんどされていない分野であり

分野の狭間で埋もれた歴史であると言える





委託生と呼ばれる満州からの生徒については

授業料や寄宿舎(食事を含む)の費用など

一切徴収されない

その代わり、卒業後4年は、満州国の指定するところに

就職すると言う義務があった

中退したり、指定された就職先を断ると

返金しなければいけなかった

日本人の普通の学生においては

満州国の特別な支援はないため

就職先は拘束を受けなかったと言われている





昭和13年・春に大叔父の大学には

○○高等工科学校が設立される

しかし、「高等」が認められるかどうか

ギリギリまで調整が続いたもようである

昭和13年の開校の段階では

学校用地の買収及び借用が

最終目的の1/4程度しか進んでいなかった

そのため、学校施設としては貧弱で

認可がおりるようなものではなかったとされる





しかし、2月に申請し、3月30日付けで認可された

その後、昭和14年春に○○日満工科学校へと

なっていくのであるが

昭和13年の12月、「満州工鉱技術員養成所官制」が

公布されたと同時に、新校舎着工

延べぬ12,000坪余りの大きな新設の学校へと

急成長する





昭和14年春の日満の学校になるために?

昭和13年の新校舎着工前の早い段階から

「満州国政府からの補助金」を見越していたと

考えられると文書の研究者は書かれていた





続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 637

しかし、この○○大学の禁衛隊は

昭和天皇即位の大礼期間中の

御所の警護だけでは終わらなかった





結成翌年の昭和4年(1929年)からは

新入生全員が入学と同時に

禁衛隊員に編入されることとなった

1930年代以降も、禁衛隊の中隊・小隊を単位とした

行軍や天皇陵の参拝、軍事教練などが実施された





南京陥落の際には、祝賀行進を行った

戦時色が強まる中で、戦勝ムードを盛り上げる

大きな役割もあったと思われる





大叔父は、昭和14年当時、この禁隊組織で

大隊長をしている、しかも2回生でである

連隊長は、大学に常駐していた軍人であるため

大隊長は、学生トップの地位と言える





この禁衛隊は、一般に言う生徒会組織と

似たようなものだと私は解釈している

昭和14年の○○大学から大叔父への手紙には

「学生幹事もしくは級長」宛で、指導受けの集合の

内容が記されていた

同じく、昭和14年の

「京都付近大学高等専校連合演習出場者編成表」

では、大叔父は大隊長として名前が出ており

対外向けの禁衛隊では、大隊長であり

学内向けでは、学生幹事もしくは級長と呼ばれ

○○大学では、生徒会と禁衛隊を外と内とで使い分け

禁衛隊は、生徒会に準じた物だったのではないかと

私は勝手に推測している





理事である姉婿の七光りの影響が

あったかどうかは分からないが

理事の弟(義理の)であり、学生幹事または級長

そして、対外的には2回生でありながら大隊長と言う

大役を任されていた大叔父は、いずれにしろ

かなり目立った存在であったに違いない





しかし、だからと言って、それが

いきなり特務機関に繋がるとも思えない




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 636

どこの学校も企業も日本中がそうだった

かもしれないが、この大叔父の○○大学は

当時、国や軍に対する支援にとても力を入れた

学校として有名であったようである





昭和12年(1937年)に支那事変が起こると

学園は、軍当局に献金を開始する

同年9月から、学園の全教職員及び学生から

寄付が寄せられ、学園全体からも若干持ち出し

当時の金額で、毎年2,500円ずつ献金した





昭和13年(1938年)には、関東軍司令部に宛てて

将兵の語学学習の資料として「支那語のしおり」

1万部を献納した

それにより、関東軍司令部の石原完爾少将から

感謝状をいただいた





こんな所で出たよ、石原完爾氏の名前が

私はとてもドキリとした

しかし、支那語のしおりをもらったことは

関東軍にとってはとてもありがたいことで

当時、関東軍参謀副長だった石原完爾少将から

感謝状が来てもおかしくはないと

先に進んだのである





○○大学において対外的に有名なのは

「禁衛隊」の立ち上げである

昭和3年(1928年)に、昭和天皇即位の大礼が

京都で挙行された際に、期間中の御所警護の

奉仕をするという目的で、 学生を組織して

作り上げた私設の警備組織である





そのかなり後、戦時色が濃くなった頃

国の指導で全国的に似たようなものが

作られるようになったが

それよりも先に、自主的に全国に先立ち

早い段階で設立された学校・学生による

組織であったためとても注目された





○○大学の記録でも、当時、○○大学の存在を社会に

アピールする絶好の機会と捉え

大学部、予科、専門学部の学生・生徒1950 名余りと

中学校の生徒約700名で編成したと書かれている





総司令部には学校長、その下に参謀総長として

学校関係者、その下に各教授のほか

学生を中心として組織した銃隊、杖術隊

剣道隊、柔道隊、軍楽隊、自転車隊などの

各隊が配置され、まるで軍隊のようである

しかしこれが世間から脚光を浴び

新聞などの報道により

大礼期間中多くの寄付を集めるに至った




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 635

今回もまた、その近くの国立大学絡みの話だ

一体、何なのだろう?この国立大学は

国立大学はと言うより

国立大学と大叔父の○○大学との関係と言うべきか

なんだか、正と副、表と裏、官と私

2個でワンセットのような、そんな印象を受けた





電気講習所をたまたま切り離さなければいけない

事情があった国立大学

そしてそれを器具一式と教授陣・在校生まで含め

無償で丸ごと譲り受けた大叔父の○○大学

しかも、公開文書によると

○○日満工科学校がもしも解散となった場合は

全財産をその国立大学に寄付すると言う

なんとも特殊な約束まであったようだ

○○大学の総長談においても

この国立大学とは切っても切れぬ縁があると

語られている





そして、この60ページ近くある

よその都道府県の国立大学の研究公開文書を

読み進むうちに、なんだかとっても

気になる文面を発見した




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 634

なんとか日満の学校を理解しつつ

ここまで公開文書を読んで

大叔父の姉婿は、この大学にとって

大業を成し遂げた人なんだなぁと分かった





しかし、私は「分かった」で終わらせる訳には

行かないのだ

この姉婿が、大叔父にとって

親族の中では1番かもしれないほど

大きく影響を与えた人物であり

かつ、国や軍部との関わりが

最も強い人物と考えられるため

大叔父の出兵にどう関わってくるのか?

そこを解明しなくてはいけない





それにしても、大叔父の件を調べていると

何度も何度も、近くの国立大学の名前が出てくる

最初は気にならなかったが

最近は、またかと思うようになってきた





確か最初は、冨澤先生の講演会の中で

分かり辛かったが

とにかく藤原岩市氏の関係者の

息子さんだがなんだかが

この近くの国立大学の教授をされていると言う

話をされていて、なんとなく気になり

ノートの端にメモ書きしたのを思い出す





実は大叔父の姉婿の息子さん(大叔父の甥っ子)も

その国立大学の教授であったからである





そして、A氏の件でも、その大学の探検部が出てきた



A氏関連の過去記事はこちら↓↓

「ミャンマーに思いを寄せて 607」
http://blog.livedoor.jp/aya_sann/archives/1898159.html



昭和8年のその国立大学の○○事件では

辞職をした関係教授陣を

大叔父の○○大学が受け皿となり迎え入れている

う~ん、なんだろうこの連鎖?




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 633

大叔父の大学の○○日満高等工科学校は

同じ系列の○○大学の理事であった大叔父の姉婿が

提唱し、設置準備委員会を設置した





姉婿は、電力会社の社長をしていた関係で

地元の電力会社の社長の協力を得

○○日満高等工科学校設立に乗り出す





その頃、近くの国立の大学では

すでに当時24年間もの歴史のある

電気講習所と言うものがあったが

国立の大学から、その電気講習所を

切り離さなければいけない事情が

たまたまあったそうで

そこの器具一式と在校生も含め

無償で譲渡してくれることとなり

○○日満高等工科学校設立が具現化する





更に教授陣の確保にも、姉婿が尽力し

同じくその国立の大学が援助を引き受けた

このようなとても恵まれた背景があり

私学として異例の?日満の学校に発展していく





私個人としては、国立大学の

「たまたま、切り離さなければいけない事情」とやらが

気になるところだが

それを調べていたら進まないので

そこはスルーすることにした

どなたかご存じでしたら是非教えて下さい





すでに前年の昭和12年の段階で、地元の新聞では

○○大学が高等工科学校を来年度新設すると

大きく報じており、○○大学側も用地の買収に

力を入れている

用地については、目標の広さが確保出来ず

開校当初は、旧校舎を宛がうこととなった




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 632

1930年代後半から、日本国内において

重化学工業の急速な拡大に伴い

熟練工の労働不足が深刻な問題として

自覚されはじめ

昭和13年(1938年)の「国家総動員法」の発動も併せ

工業学校の拡大だけではなく

工場主に技術者の養成を義務づけるなど

日本国内においても、体制作りを計っている


※昭和13年4月(1938年) 「国家総動員法」
総力戦遂行のため、国家のすべての人的・物的資源を
政府が統制運用できる旨を規定したもの





大陸においても同じくであり、技術者の養成が急がれ

昭和13年12月(1938年)に

満州工鉱技術員養成所官制が公布された

これを実施する教育・訓練施設には

満州国及び軍部からの経済的支援があったとされる





その頃、大叔父の○○大学においても

昭和13年、○○高等工科学校を発足させ

翌昭和14年には、○○日満高等工科学校と改組している





結論から言うと、大叔父の姉婿は

この○○日満高等工科学校の創設者と言っても

過言でない人であった

○○日満高等工科学校は

現在の○○大学の理工学部の前身である





この大きな事実を受け止め

それがどう大叔父の出兵に関係するのだろうと

私は資料に読みふける

国家総動員法とか、様々な時代背景を理解しないと

これは進まないなぁと頭が痛くなったのである




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 631

満州国に技術員・技能者を供給するための

日満の学校は、日本各地にあったようである

昭和13年(1938年)に秋田日満工業学校

翌年、九州日満工業学校(鉱山科、採鉱科…福岡県)

翌々年の昭和15年、酒田日満工業学校(山形県)とあり

それらは、元々、「日満技術工養成所」と言う

名前で発足し、後に学校へと昇格していくのである





この他に大叔父の大学にも

昭和13年、○○日満高等工科学校(京都府)

その他には、満州帝国委託土木技術員養成所や

在外指定校(在満州の学校)、

中小企業の組織連合が行った例や

それらを卒業し、渡満する直前の学生を短期に

教育する訓練施設なども整っていた





大きくは、先に掲げた3つの日満工業学校

と、大叔父の大学の○○日満高等工科学校が

代表的なものである




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 630

添付されていた、その「○○日満高等工科学校」の

文書は、他の都道府県の国立の大学で

研究された公開文書であった





その文書は、60ページほどもあり

昔の仮名交じりの文書や新聞のコピーなどを含み

私の苦手なタイプの頭が痛くなるような文書である





とにかく、その日満の学校とは何のことか?

それを理解しないと

姉婿がどのように関わっているか分からない

文書を読む前に、あぁ、勉強しなくっちゃ

難しいんだってば(>_<)





私なりに解釈して、説明してみますね

間違っていたら、ごめんなさいm(_ _)m

※ご指摘・ご指導は、優しくメッセ願いします





まず、高等工業学校とは

戦後の学制改革が行われるまで

存在した日本の旧制高等教育機関の一つで

工業に関する専門教育を施した

旧制の専門学校(実業専門学校)である





そのうち、日満の学校とは

戦時中、満州国に技術員・技能者を供給するために

その技術員・技能者を「日本国内」で

養成する教育・訓練施設を備えた学校のことで

満州国に技術員・技能者を供給するための

施策の1つであった




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 629

中野に引っ越しした姉婿が

大叔父の○○大学の理事をしていたことが

中野中央図書館で判明し

早速、大学側に電話した





大叔父の下宿先であった姉婿が

実は○○大学の理事であったことを

100年史担当の方に伝えると驚かれた

しかし、氏名を伝えたが、ご存じない様子であった

すぐに、メールでお返事が来た





姉婿は、非常にこの大学に貢献した人だそうである

100年史の担当の方からのメールには

姉婿の親類が、本学にとって貴重な資料を

持っている可能性があるとも書かれている

最後は、重要な人物の発掘に感謝いたします

大叔父さんとの関連が見えてくるかもしれません

と締めくくられており、何かの資料が添付されていた





その資料に目を通すと

見たこともない表題であった

「○○日満高等工科学校」

一応「○○」の所に、大叔父の大学と同じ文字が

入っていたので、大学関連の学校であることは

分かったが、日満って何???

それと姉婿と何の関係があるの???




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 628

数時間前、騙されたような気分で

凹みながら地下鉄に乗り

気がつけば知らずと、中野駅に降り立っていた

そして、なんとなく中野区役所に足を運び

中野中央図書館で、偶然、目の前にあった

人名一覧を見て

それをヒントに、大叔父の姉婿の住所や

経歴が明らかとなったことに

私はポカンとするしかなかった

えーっと、えーっと、何なの?この展開

こんな偶然ってあるのね

しかも、○○大学の理事って何よ???





この話を知人に話すと

「中野に呼ばれたんだね」って気軽に言う

いや~ん(>_<)やっぱそう思う???

怖いのであんまり考えたくないけど

何か分からないけど、実は私もそう思った~





停滞したとき、困った時、凹んだ時に限って

不思議と動き出すこの調査。。。

最近は、突然出てきたことに対し

大叔父さん、これって調べなさいってことですか?

と思うようになってきた

とにかく流れに素直に従ってみよう





でも、姉婿が○○大学の理事だったことに

何の意味があるんだろう、、、

何を勉強するれば良いのだろうか?

また新たな課題が増えてしまった

勉強しなくっちゃ





嫌な思いをした分、良いことがあった

まだ理解できない書類のコピーをたくさん抱えて

私は、やる気を出して中野を後にしたのだった




続く…



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ミャンマーに思いを寄せて 627

大叔父の姉婿は、山陽地方の電力会社

3社もの社長だった

現在の電力会社は、火力発電が主だが

昔は水力発電が主で、現在の電力会社よりも

小さな規模で地方に点在していたようだ





それよりも何より、次に続く経歴に

驚きを隠せなかった

そこには、「○○大学理事」と書かれていたのである

○○大学とは、大叔父が通っていた大学だ

大叔父の大学の理事。。。

反対に言うと、大叔父は理事の義弟

これって、、、すごいことなんじゃない?

そして、姉婿は明治42年に

大叔父と同じく法学科の卒業生であった

明治時代の大学生って、、、スゴイ





以前に私は、大叔父はなぜ○○大学に行ったのだろう?

と考えたことがあった

祖父は僧侶であったため、当時の佛教専門学校

(現在の佛教大学)の出身であった

大叔父は仏門に関わっていないため

一般の大学に行ったのだろうなとは思うものの

なぜ国立の大学でなく私学の○○大学だったのだろうと

思っていた





それを○○大学の協力者である100年史の方に言うと

近くの国立の大学では、日本が国連を脱退した年

昭和8年に○○事件と呼ばれる思想弾圧事件があり

法学部の多くの教授陣が抗議の意味合いで

辞職を提出した

そのうち18名が、大叔父の○○大学に迎えられ

当時の○○大学の法学部は、とても充実していた

このことから、大叔父は○○大学を選んだのでは

ないかと、○○大学の100年史の方は言われていた





その時は、なるほど~と思っていたのだが

昭和8年と言うと、大叔父はすでに○○大学

付属の中学校に入った年であった

その近くの国立の大学の○○事件がある前から

受験し、入学することが決まっていたことから

○○事件は関係がないことが分かる





しかし、義理の兄が○○大学の理事であれば

○○大学に進むのも当然の流れであろう

その人の影響を受け、法学部に進んだのだと

今、やっと分かったのである





それにしても、姉婿が○○大学の理事と言うことに

驚いたが、もしかしたら大叔父の出兵に

何かしら関係があるかもしれない。。。

先に出てきたA氏の件と言い



A氏関連の過去記事はこちら↓↓

「ミャンマーに思いを寄せて 603」
http://blog.livedoor.jp/aya_sann/archives/1898136.html



漠然とだけど、大学や軍など様々な背景を含む

大きな力が働いているように感じてしかたなかった

まずは大学側に問い合わせてみよう




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 626

中野区の中央図書館の職員の方に

丁重にお礼を述べて図書館を後にした





それにしても、人名辞典ってあるのね

そんなのに載っているって

やっぱりすごい人なんだろうか?





大叔父の姉婿については

以前から調べてみたいと思っていた

学生時代から長年下宿しており

保護者である曾祖父や祖父よりも

もしかしたら近い関係だったかもしれない



姉婿関連の過去記事はこちら↓↓

「ミャンマーに思いを寄せて 521」
http://blog.livedoor.jp/aya_sann/archives/1885458.html




しかし、伯父が呼んでいた名字と

お金持ちだったと言うくらいしか情報はなく

全く素性が分からなかった

実は、後から大叔父の遺品をよくよく見てみると

大学から来た手紙の宛名に

この姉婿のフルネームが書いてあったのだが

私はまだこの時、それに気付いていなかった





住所も場所も確認出来たしと

先ほどいただいた人名辞典のコピーを

もう一度眺めて続きを読むと

そこに載っていた姉婿の経歴に息をのんだ

何これ…どう言うこと?




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 625

残念ながらと言うか何と言うか

中野公会堂の土地ではなく

もう1つ残った「離れのある大きなお屋敷」が

姉婿の家であったと判明した





私は思い出した、それは建物の離れではなく

大きな大きな石灯籠である

それは伯父が東京の叔母さんの家(大叔父の姉婿宅)に

遊びに行った時の写真に写っていた

屋敷の中庭の真ん中の、大きな岩石を重ねて

作られたオブジェのような石灯籠

その前で少年の伯父が微笑んでいた

地図にまで書き込まれるほど

見事な石灯籠であったのだ





その住所は、ここ中央図書館の近くであった

現在では、その跡地に9軒もの家が建っていた

姉婿のお屋敷は、今は跡形もなくなっている





そこから中野学校の位置関係を見てみようと

中野学校はどこにあったのですか?と尋ねると

「今、来られた区役所の辺りが、中野電信隊及び

中野学校の跡地ですよ」と聞かされた

えっ?今さっき、私がいた場所???

またまた私は冷や汗を流した(>_<)





中野学校と姉婿宅は、線路を挟んで

徒歩約10分ほどの距離であり

すぐ近くと言う印象を受けた

私が歩いてきた線路沿いの道を

約70年前に大叔父も歩いていたのであろう





続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 624

中野区の中央図書館の方は、とても親切であった

私の作業には、2人の女性職員の方が

対応して下さった

しかし、私があまりにも必死なので

途中、「この住所に何かあるのですか?」と

少し怪訝な雰囲気で聞かれた

大叔父が70年ほど前にこの住所に住んでいて

その後の足跡を辿っていると言うと

なんとなく納得して下さった





倉庫から資料を探して下さっている間

私はカウンターで、ボケ~と待っていた

カウンターの後ろの本棚には

中野区の所蔵する貴重な図書が飾ってある

それらを眺めていると、その中に偶然

「中野人名一覧」(だったと思う)という

大きく立派な図鑑のような図書を発見した

ふと、姉婿はもしかしたら有名人だった

かもしれないと思った。。。





中野公会堂になる前の土地の所有者を探して

下さっている方とは別の職員の方が戻られたので

そこで、何気なしに聞いてみた

すると、その図書には中野区に貢献した人や

中野区に関係する著名人の名前が載っているとのこと





職員の方の作業がまた増えるかもしれないと

少し申し訳なかったが、それに載っていないか

調べさせて下さいと申し出てみた

しかし、その図書は近年の物だった





しばらくすると、職員の方が「ありました!!」と

1冊の図書を持って帰ってこられた

その本は「昭和人名辞典」という本で

社長さんや著名人が載っているのだそうです

その中に、姉婿の名前があった!!

職員の方も興奮気味に良かったですね!と言われて

私は声が詰まり、涙いっぱいになり、感謝した

住所もきちんと載っていて

そこでやっと場所が判明したのである




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 623

図書館の職員の方も一緒に手伝って下さり

筆跡からなんとなく読み取れる番地で推測し

複数の箇所を調べることとなった





昭和33年の住宅地図には、姉婿の名字は

どこにもなかった

それ以前の中野区の住宅地図は

残念ながら作成されておらず

普通の地図を見ることにした





普通の地図についても、昭和18年と言うのが

無くて、1番近い昭和8年の物から調べた

索引で調べて、閲覧希望を伝えると

滅多に閲覧がないのか、地図が出てくるまで

かなりの時間を要した

職員の方も、倉庫から必死に探して下さる





なんとなくの番地候補を当てはめると

1つは、線路脇のアパートと言うか長屋のような所

もう1つは、離れのあるとても大きなお屋敷

もう1つは、ここ中央図書館のある中野ZEROであった

3つの候補地から絞る





姉婿は、秋田に金山を持っていて

京都・伏見の屋敷は、歌舞伎の長谷川一夫が

買い取ったと伯父はいつも自慢していた

母が昭和30年初頭に東京に修学旅行に行った際に

自家用車で向かえに来てくれたと語っていたことから

それらがほんとうだとすると、お金持ちである

そこで、線路沿いの長屋は候補から外すことにした





この図書館が候補地に入ったことで

図書館の職員の方も私も驚いて顔を見合わせた

えっ?姉婿の家は、もしかしたらここ???

今、私達がいる場所???冷や汗が出てきた

「図書館の前は、ここは何だったのですか?」

と聞くと、図書館の前身は

中野公会堂であったそうである





ここであれば、きちんとした記録が残っているはず

公会堂になる前の土地の持ち主を調べて下さい!と

慌てて図書館の方にお願いした

図書館の方も察して下さり

勢いよく奥の倉庫へと調べに行かれた

私は祈るような気持ちで待ったのである





続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 622

梅雨明けした夏空

日差しを避けながら中野の中央図書館に向かう

区役所地区は、新しく開発された雰囲気だったが

図書館に向かう道は、ややレトロ感があり

昔ながらの商店が並ぶ線路沿いであった





中央図書館に着き

受付カウンターで、区役所から古い住宅地図は

こちらにあると聞いたことを伝えると

奥にある相談カウンターのような所に

案内された





中野区の昭和18年頃の住宅地図をお願いすると

住宅地図としては、昭和33年~しかないそうで

まずは、昭和33年の住宅地図を拝見した





大叔父の姉婿の家は、大叔父が大学に通っていた

昭和16年頃までは、京都・伏見にあり

その後、昭和17年~18年初頭前後に

東京・中野に引っ越した

後から大叔父もそこに居候をしたようだ

姉婿の息子さんなどは

その後、また京都に移り住んでおり

いつまで中野にいたかは不明であった





昭和15年生まれの母が、高校の修学旅行で

東京に来た際に、姉婿宅に宿泊していることから

単純に計算して、昭和30年代の初頭までは

東京に住んでいたことが分かる





しかし、大叔父の手紙に記載されていた住所は

昔の住所で、現在はなく、改正されている

その上、達筆すぎて何番地か判断に困った

すぐに姉婿の家が判明すると思っていたが

意外と難航したのである



RIMG0468









続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 621

手紙に使用された会社の用紙は

とてもキレイな状態で

2枚目は白紙の用紙が添えてあり

手紙様式をきちんと成している

走り書き用のメモ用紙として

少しもらったような雰囲気でなく

簿冊もしくは、束で用紙を持っていたように思える





関西の帽子屋さんの用紙においては

退職後に使用した物であり

用紙を束で家に持ち帰っても

怒られない立場もしくは

頻繁にその用紙を使用していた立場と考えると

工場ラインの職人さんではなく

事務方だったのではないかと推測する





1つ目の帽子屋さんは

本社は大阪の「大阪羅紗製帽組合」

2つ目は、東京・大森にあった「旭機械工業」

どちらも調べたが、現在は無い会社のようである

どちらの会社も電話番号の回線が多く

規模の大きな会社であったことが分かる





大叔父は、関西にいる時は、帽子屋さん

東京に来たら機械工業って、、、

大叔父さん、あなたは何が得意だったのですか?

誰かの紹介などで就職したのですか?

それとも昭和18年前後は

もう選べる働き口がなかったのですか?

そもそも、下宿先も決まっておらず

配給の手続きもままならない状態で

なぜそんなに慌てて東京に

行かなければいけなかったのですか?




続く…




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