ミャンマーに思いを寄せて

亡き母の思いを果たすべく、ビルマで戦死した大叔父の足取りをたどる私の奮闘記録☆

2014年03月

ミャンマーに思いを寄せて 674

大叔父が、まだ大学生であった昭和14・15年に

大叔父は、夏休みや冬休みを利用して

東京に来て、1ヶ月ほど滞在していたことが

遺品から分かっている

しかも、「市ヶ谷~中野」間の切符までも残っている

まだ、中野に姉婿宅は引越ししておらず

親戚も東京にはいない

姉は、祖父の兄弟であり、山形の出身

姉婿においては、岡山県の出身である

大叔父は、何の用事で東京に来ていたのか?





今までの経緯と、当時の大叔父を取り巻く状況から

私の勝手な想像では

大叔父は、軍隊に入る前から

すでに中野学校と何らかの関係があったのではないか?

と思っている





映画の「陸軍中野学校」では

訓練として、一般社会に溶け込んで

特務活動を行っているシーンがある

ついつい、それと大叔父を重ねてしまった

そうすると、これらの就職先で

特務活動をしていたのではないかと考えた

特に神戸は、大きな港町であり

様々な諜報活動には打ってつけの場所である





仮にも万が一、勝手な想像が当たっていたとしても

大叔父の素性をご存知であった方は

会社の中でも、上層部のごく僅かな人であったろう

今、これらの会社を調べても「はい、軍部に協力して、神居さんの特務活動を支援してました」

などと証拠が出てくるはずもないし

会社の上層部だった方は、もうご健在ではないだろうから

証言を得ることも難しい

しかも、現在はもう無い会社のようである



続く…



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ミャンマーに思いを寄せて 673

先の給料袋は昭和17年11月の物

原因は分からないが

その2ヶ月後くらいに、

大叔父は大阪羅沙製帽組合を辞めて

東京に向かう





東京に行ったはいいが、下宿先が見つからないと

大叔父から曾祖父&祖父宛の手紙に書かれている

大学時代の下宿先であった京都・伏見の姉婿宅が

ちょうど東京・中野に引越ししていたので

そこに居候することになったようである

中野から大森の旭機械工業に通勤していたと思われる





出てきた遺品の名刺には

特に肩書きは書かれていない


b46644a6.jpg


平社員なのだろうか

ただ、現場の工員ならば名刺は作らないと思うので

営業や事務方など、経営陣の側にいた可能性が大である




大学を中退して、神戸か大阪の帽子屋さんに就職し

1年半ほどで辞めて、東京へ

就職先はあったが、下宿先が見つからない

その上、食料の配給も受けられない

なんで下調整もせず、そんなに急いで東京に来たのか?

関西の田舎と食料事情が違うことは

中野に移り住んだ姉は分かっているはず

大叔父が来ることを事前に知っていれば

下宿先の手配などもしてくれても良さそうなものなのに



続く…



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ミャンマーに思いを寄せて 672

伯父は神戸の帽子屋さんと言っていたが

大阪の製帽組合だった

大阪の組合の支店が神戸にあり

勤務地が神戸だったのか?

はたまた、系列の販売店が神戸にあったのか?





遺品の中にあった給料袋は1枚だけであった

昭和17年の11月の分

時期的には、大学を中退して、東京に行くまでの間であり

今まで調べてきたことと符合する



6fd7c8de.jpg



給料袋をよく見ると、通勤手当も合わせてだが

85円75銭ももらっている

内訳:俸給75円、手当10円、交通費5円ほか

この額は少し多いように感じた

○○大学は、卒業ではなく

4回生の途中の昭和16年7月に中退したのである

大卒とみなされた待遇だろうか?

製帽ってことは、帽子を作っていた会社よね

もし工場ラインの工員であれば

大学で学んだことは、全く関係なく

1年ちょっと帽子を作っただけで一人前になるとも思えない

当時のお金を現在の価値に簡単に換算すると

1円=1万円(少し多いですかね、7千円くらいでしょうか?)

それにしても、やっぱり多い気がします

そこで、組合の経営に関わる管理職待遇だろうと判断した



続く…



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ミャンマーに思いを寄せて 671

神居家と石原莞爾氏との接点は気になるものの

その検証には、時間を要す

ひとまず、それは後回しにして

その他の遺品を見てみよう





次は、大叔父に関する遺品である

大叔父は、昭和16年の大学4回生の7月に

○○大学を中途退学している

その後、昭和18年の初等に東京・中野に引越し

そして同年4月に徴兵された

大学を中退して、中野に行くまでは

伯父の話によると、神戸の帽子屋さんに勤めていたらしい

それ以外に、詳しいことは分からなかった





今回の遺品から、中退後~出兵までの就職先が

判明したのである





「神戸の帽子屋さん」の給料袋が見つかったのだ

就職先は『大阪羅沙製帽組合』

次いで、東京の就職先での

大叔父の名刺が発見された

就職先は『旭機械工業』







4f333cb9.jpg








どちらも以前にもらった遺品の手紙に使用されていた

社用便箋の会社だと分かった

会社名の入った便箋であったため

そこが就職先だったのかな?とは思っていたが

これで決定的となった


関連過去記事はこちら↓↓
「ミャンマーに思いを寄せて 620」
http://blog.livedoor.jp/aya_sann/archives/1901103.html



「大阪羅沙製帽組合」、「旭機械工業」とは

どんな会社なのだろう?

大叔父は、そこでどんな仕事をしていたのか?



続く…



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お知らせ

読者の皆様へ


いつも読んでいただいてありがとうございます

只今、春休みで京都に来ております

PCが無く、携帯から記事をアップしていて

とても苦戦していますf^_^;

改行がイマイチだったり、読み辛いかもしれませんが

しばらくの間、お許し下さい

また、この先、ややこしい話に突入します

滞在中に調査を進めたいとも思っていますので

ブログの更新が停滞する可能性があります

春休みが明けるまで、重ねてお許し下さいませm(__)m





最近、読者様から寄せられる感想は

話が違う方向に飛んだりして

「お預け生殺し状態です」と言われました(笑)

後々になって、やっと分かって、こう繋がるか!と

思われたそうです

わざとではなく、単に記録を綴っているので

私も、その時は分からないことが多いのです


昨年から進展らしい進展がなく

困っていますが、京都滞在中に何か掴めたらと

願っています





今後ともどうぞ応援下さいませ


皆様のポチッから勇気をいただき励みとなっております
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ミャンマーに思いを寄せて 670

曾祖父の経歴書から

明治23年に教師になったことが分かった

最初の赴任地は、米沢市館山高等尋常小学校

当時の初任給は2円と書かれている

明治28年から、西置賜郡の中等尋常小学校へ

明治34年から校長先生になる

その後、同じく西置賜郡のその他の小学校の校長を歴任している

西置賜郡・白兎尋常小学校、南小国尋常小学校、叶水尋常小学校など





経歴書の中には
様々な講習会に参加し、資格を取得したことが
書かれている


92807025.jpg



そうよね、小学校の先生って全教科を教えるのよね

改めてすごいなぁと思う

教授法、化学教材の取扱と其應用、最近教育思潮、倫理科、教育学、児童心理学、実験博物学、唱歌体操、スキー術、体操遊戯、算術教授上諸問題
など(※取得順ではありません)

興味深かったのは、講師には、東京帝大の教授や、奈良女子高等師範学校の教授、外人さんもいた





まだ石原莞爾氏との接点は見いだせないが

石原莞爾氏は幼少期に米沢市に

いたことがあるとの説もある

もし、米沢市にいたとしたら

材木問屋も教師も、あの時代に溢れていたとも思えないので

神居家を知っていてもおかしくはないと思う



続く



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ミャンマーに思いを寄せて 669

経歴書を見ると

曾祖父は、明治4年生まれであった

出生地と本籍地は、山形県米沢市

親は米沢で、材木問屋をしていたのであろう

やはり曾祖父は教師であり、晩年は山形県の西置賜郡で

尋常小学校の校長先生だった

若い頃を除き、教師生活のほとんどを

西置賜郡で送り、最後もそこであった





出身校は、「私学米沢中学校」であった

その時代の私学の中学校の位置づけが

私にはよく分からない

ネットでは、私学米沢中学校では出て来ず

「私立米沢中学校」だと思われる

私立米沢中学校は、とても歴史のある学校であった





1618年(元和4年7月)に、米沢藩の学問所として開設

後にそれを再建し藩校となる

藩校とは、江戸時代に各藩が作った

武士の子供達を対象とした教育のための学校

発展期には全国に255校に上り

ほぼ全藩に設立されたらしい

各地域から時代をリードする政治家や学者を輩出している





この米沢中学校の前身の「興譲館」においては

代表的な藩校として、名前が挙がるほど有名な

学校であったようである

戦後の学校制度が新たになってから、高等学校になり

現在は名前が変わっているが

日本で3本の指に入る歴史のある学校である





当初、曾祖父は数学博士だったと聞いたことから

山形の近くの東北帝国大学の出身かと思い

調べてみたが、東北帝国大学は明治40年の創設であり

曾祖父が学んだ時代には、まだなかったことを知った

いったいどこで学んだら、当時は教師になれたのだろうと

調べてみても分からなかった

「私学米沢中学」、そして、当時の教師とは

いったいどのような地位だったのか

そして、なぜ教師になったのだろう

兄弟は京都でお坊さんだし

いつかじっくりと調べてみたいと思った




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 668

伯父の家にあった大叔父と曾祖父の遺品は

ほんとうに私が欲しい情報が詰まっていた

まずは、曾祖父の履歴書である

細かい筆で書かれた長文の職歴であった

よくもまぁ、こんな物がキレイな状態で残っていたよね

と関心をしてしまう



RIMG0646







RIMG0647








ざっと見て、これにより曾祖父の

・氏名

・生年月日

・本籍地

・出生地

・学歴及び出身校

・教師の赴任歴

・各種教科の教員資格の取得



が分かった

後は細かく、号俸が上がったとかが書かれている





ここまで分かれば大した物である

後は、石原完爾氏の経歴と照らし合わせて

どこかで接点がないか探すことが出来る

ただ、石原完爾氏は軍人として有名で

軍歴はハッキリとしているが

幼少期については、お父様が転勤族だったとかで

細部に触れている資料は少なかった

もう少し時間がかかりそうである





曾祖父の履歴書は、小さな筆文字で

両面3枚に渡り、とても細かく書かれている

ゆっくりと詳細を分析すれば

また何かの情報が出てきそうな気がするのであった




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 667

大叔父や祖父母などのお墓参りに

伯父のお寺に遊びに行った

調査の進展を報告しながら

他に資料はないかと尋ねてみた

すると、資料を少し整理してくれていたようで

大叔父の新たな遺品が見つかった





それらは数個の桐の箱に入って大事に保管されていた

その中には、昔の様々な書類があって

関係する物かどうか、1枚ずつ見ながら選別した





大叔父に関する物や、曾祖父の物まで出てきた

曾祖父の小学校の卒業証書などもあった

どんだけ昔の物なの~、ビックリ

曾祖父の卒業証書においては名前の前に

「士族」と書かれていた、士族って何?

お侍さんの家系だったの?

材木問屋じゃなかったっけ?

明治になって武士の身分が廃止され

商売人になったのだろうか

それなのに、明治になっても、まだ士族とか言ったのね





驚くことに、それらは全て、私が欲しかった資料であった

伯父は、それらを調査が終わるまで貸してくれると言う

しかし、伯母が後でこっそりと

「もう誰もいらないからあげるよ役立てて」と言ってくれた

伯母はお嫁さんなので

もちろん大叔父には会ったこともない

伯父とはまた思い入れは違うのかもしれない

とにかく伯父にも伯母にも感謝したのである





帰ってから、それらの遺品の分析をしなければいけない

細かい筆書きの昔の文字や、よく分からない物もあった





続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 666

姉婿と石原完爾氏との共同作業とも言える

日満の学校の設立での繋がりの他に

もしも、その前から石原完爾氏と神居家が

山形で繋がりがあったとしたら。。。

曾祖父は教師、石原完爾氏を教えていた可能性は?

教えていなくとも、家が材木問屋で教師って

当時は、教師の数もそんなにいなかったのではないか

もし住所が近かったならば、知っていてもおかしくはない

ふと、思いついたことに、自分でも驚いた

曾祖父の生年月日も知りたい

ただ、それを調べるのは、大叔父の件を

調べるのよりも大変なことだと思った

自分でまたまた大きな課題を作ってしまった





先に、私の推論を頭ごなしに否定された

階行社文庫の偉い方は

山形県の連隊から発行された

徴兵延期証明書に書かれていた大叔父の住所を見て

石原完爾氏は、鶴岡の出身で

単に山形県と言うだけで

大叔父の住所とは全く違う所で

大叔父が関係したと思えないと言われた





私の強引なこじつけかな?

大叔父の名字はかなり珍しいと思う

もし山形で神居家をご存じであればすぐに分かる

のではと、ふと思ったのだけれども。。。





念のため、曾祖父のことを調べてみよう

曾祖父は、晩年は尋常小学校の校長先生をしていて

数学博士だったと聞く

その時代の教師の線と、山形の米沢市の材木問屋の

筋から調べてみようかな

でも、どこで?どうやって?





祖父が明治30年代の生まれ

そうすると、曾祖父は明治の初めの

生まれくらいだろうか?

その頃、山形県で教師になるには

どこの学校に行くのだろう???

近くの国立大学は、仙台くらいだろうか?

昔の数学博士って、どこに載ってるの???




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 665

そして、ビッグネームの石原完爾氏も山形県出身

偶然にも山形県である

もし、石原完爾氏が大叔父の出兵に

関わっていたとしたら、山形県と言う同郷の親近感が

あった可能性は否定できない

一般的に、関西に出てくる人は

関西より西の人が多い

一方、関東に出てくる人は、関東より北の人が多い

東北の山形から関西に出てくる人は

少なかったのではないか





祖父や、祖父の姉は、ずっと東北訛りが抜けなかった

大叔父も抜けていなかったかもしれない

そんな中、石原完爾氏と会ったとしたら

すぐに東北出身の者同士と分かっただろう





しかし、石原完爾氏は将軍様である

姉婿や○○大学との関係で大叔父と出会ったとしても

大叔父はその頃は、単なる青年で大学生である

石原完爾氏は、大叔父よりかなり年上であった





いや、待てよ、年の離れた大叔父本人と言うより

山形にいた頃からの接点は無いだろうか?

曾祖父以前の時代に、神居家と石原完爾氏との接点

曾祖父は学校の先生である

石原完爾氏は幼い頃

山形のどこに住んでおられたのだろう?

そして、曾祖父もどこに住んでいたのだろう?

曾祖父の住所等、詳細が求められたが

曾祖父は、明治の時代の人である

曾祖父の住所等を調べると言うのは

これまた難題であった

ひらめいたのは良いが、また寄り道だろうか?

大叔父を調べるより遙かに大変かもしれない。。。
 



続く…




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スカパーch217での放映のお知らせ

読者の皆様へ



いつも読んでいただきありがとうございます

今回は、嬉しいお知らせです

スカパー217ch・チャンネル桜「撫子日和」にて

この記事が取り上げられました

「取り上げられました」と、事後報告で申し訳ありません

実は私も放映当日は間に合わず、見られませんでした





このブログを開始した当初

ミャンマーに行きたくて、全ビルマ会を探すことに

奔走していました

その頃、ちょうどビルマでの戦争体験を語る旧軍さんと

それを取材してサポートされている

ニュースキャスターさんの番組動画を見つけて

そのニュースキャスターさんこと佐波優子さんに

私がメッセージを送ったことから始まった


関連過去記事はこちら↓↓

「ミャンマーに思いを寄せて34」~
http://blog.livedoor.jp/aya_sann/archives/1566938.html





そのニュースに出演されていたのが

後に大変お世話になる全ビルマ会の会長さんでした

先日、その会長さんが永眠され

告別式に参列した

ミャンマーまで私を連れて行って下さった恩人です

葬儀の最中、お礼と共に

「どうかこれからも調査の応援をお願いします」と

心の中で祈った





実は記事の載った雑誌を

お世話になった佐波優子さんにも送っていた

すると、記事の一部を元に、番組を作りたいと

突然の打診がありとても驚いた 

それは会長さんの葬儀から2日後のことだった

あぁ~、会長さんが応援してくれたんだぁと思った 





佐波さんに、会長さんが応援してくれて

今回の番組の話が来たと思っていると伝えた

そして、歴史の生き証人のタイムリミットが迫っていて

調査を早く進めなければいけないと実感したとも書いた

番組の台本?原稿?のチェックを終え

「丸」と協議して、この放送の宣伝をしようと

連動企画を立てていたら

早く放送した方が良いとの番組側の判断で

次の日に収録・当日放映となってしまった
 
※私は出ておりませんので(^^;)



出版社との連動企画とかよりも

告知も間に合わず、うちでの録画も出来ないまま

私自身、放送を見ることなく

気がつけば終わってしまっていた(T_T)





そこで、どうにか見たいとの要望をかなえてもらい

この度、YouTubeにアップして下さいましたぴかぴか(新しい)

5分ほどのコーナーです

皆様にも是非ご覧いただきたいです

少しでも多くの方の目に留まることで

情報提供がありますように

皆様に支えれてここまできました

この度の佐波様のご縁にも感謝です

皆様、どうぞ今後とも応援のほど宜しくお願いいたします






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ミャンマーに思いを寄せて 664

私には、もう1つ気になることがあった

それは、「山形」である

この調査をしていると、なぜか

京都・名古屋(豊橋)・東京(中野、大森)

そして山形にぶつかる、なんなのこれ?





大叔父の出身は山形県である

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大学時代の徴収延期証書は

山形県の連隊から発行されている

祖父も曾祖父も山形県の出身だ

山形県で、尋常小学校の校長先生をしていたと言う曾祖父

そして、曾祖父の兄弟が京都で

お坊さんをしていたことから

その伝手で、祖父は山形から出てきて

お坊さんになった

次いで、祖父の弟である大叔父も出てきて

近くの○○大学に中学から通った

でもなんで曾祖父の兄弟は

京都でお坊さんになったのだろう?

良くない言い方かもしれないが

おしんのような、地方の昔の

口減らしの奉公だったのかな?





曾祖父のその前の先祖様は

山形で材木問屋をしていたそうです




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 663

○○大学の100年史の担当だった方から

すぐにお返事が来た





私が気になった理事さんについて

学園史には、「学園の創立者であった○○氏の急逝後

総長欠員のまま学園運営の最高責任を負ってきた人物」

として、出ているとのこと

そして、戦後民間人の数少ない戦犯の一人として

巣鴨に収監される前日まで、○○大学の戦後再建に

尽力し続けた学園史上、特筆される人物です

と綴られている

そして、戦後の○○大学は、この人物を抜きには

語れない、戦後最初の総長として

国立大学の思想事件で辞職に追い込まれた教授を

推挙したのも、この理事さんなのだそうです





意外にもと言っては失礼だが

この理事さんは、○○大学史において英雄であった

それに対し、姉婿は、逮捕されたりもしていないし

大学に貢献してきたのに

大学史からは消されている、この差は何だろう。。。

光と影?誰に、何のために消されたのか?

○○大学での姉婿の存在はどうだったのだろうか?

この理事さんとの仲はどうだったのだろう?





とにかく、 ○○大学の100年史担当だった方に

お会いする日が決まった

A氏の資料を見せていただく約束をしている

○○大学には、土曜講座と言うのがあり

ちょうど、学徒出陣をテーマにした講演会が

行われるそうで、その際にお会いしたいとのこと

その講演会の行われる会館の近くには

平和に関するミュージアムもあるので

案内も可能と書かれていた

私はお会いする日を楽しみにした




続く…




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訃報

読者の皆様へ


いつも読んでいただきありがとうございます

皆様に悲しいお知らせがあります。。。

去る3月7日、全ビルマ会の会長さんが

御急逝なさいました

94才でした





3月13日に行われた告別式に

私も参列してまいりました

安らかなお顔に、生前の思い出がよみがえり

涙が止まりませんでした

たくさんのお見送りでした

RIMG0637









先月下旬から、ミャンマーの慰霊巡拝に行かれて

帰ってこられたばかりでした

先月、記事が掲載された「丸」を送ったら

大変喜ばれ、「ミャンマーに行ってくるぞ」と

元気よくお電話をいただいたのが最後でした





会長さんのおかげで、私はミャンマーに行くことが出来た

もっともっと、お聞きしたい話はあったのに

とても残念でしかたがありません

お世話になったご恩は生涯忘れません

これからも、どうぞ天国から大叔父の調査を

応援下さい

ご冥福を心よりお祈りしております

会長さん、ありがとうございました



ミャンマーに思いを寄せて 662

この理事さんをネットで調べると

ネット情報の真偽は私には分からないが

失礼だが、あまり良い話は出て来ない

マレーなどの鉱山事業では巨万の富を得ていた

ようであるが、その事業は軍需産業であり

国にべったりの経営であったように見える





調べていくと、鉱山の産出物には

ボーキサイトも含まれていたようである

ボーキサイトと言えば、日本では産出されず

アルミの原料であり、日本にとって

大量に必要なとても貴重な資源であった

特に、ジェラルミンは、アルミの合金であるが

高い耐破断性を持ち、超軽量であったため

航空機用資材として広く用いられるようになった

ゼロ戦をはじめとする軍用航空機には

住友金属工業が開発した、超々ジェラルミンが使われた

その鉱山の持ち主。。。





秋田に金山を持っていた姉婿もそうだが

この方も、国や軍部との繋がりがとても強いように思う

しかも「南方」にである

大叔父の出兵に、この方も関わっているのではないかと

思ってしまうのは考えすぎだろうか?





この理事さんの他にも、気になることがあり

少し気になる方がいると100年史担当だった方に

問い合わせのメールしてみた





変な言い方だけど

○○大学って、いったい何なのだろう?

すんごい人の集まりだったかも???

一言で言うと、何もかも怪しすぎる(笑)

そんな風に見えてくるのは気のせいだろうか?




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 661

○○大学の理事の中で、1人気になる人がいた

その人が、大叔父の出兵に関係しているとまでは

思えないが、気になったので少し調べてみた





なぜ気になったかと言うと、その理事さんは

かの有名な2・26事件に関わっていた

2・26事件の首謀者に資金提供しており

本人も、事件後、首謀者の一人として逮捕され

後に無罪判決を受けた

なんだか、すんごい人が○○大学におられた

姉婿も理事だった頃なので

2人はもちろん知り合いである

一時は、○○大学の理事長も歴任されている





そして、注目したのは

早くから南方で事業展開されていて

マレーなどに鉱山をたくさん持っておられたこと

F機関が当初マレーで活動を開始した際

やはり現地での協力者は不可欠であったであろう

日本人であり、現地の人達との結びつきも強く

現地の情報には明るく、資産家

そして何より南進論者であった

当時のマレーで、これほどまでに国や軍にとって

都合の良い人物は、そんなにいなかっただろう

それを踏まえると、必然的に軍や、その中のF機関とも

結びつきが考えられる





岩畔機関の前身はF機関

岩畔機関→光機関の時代に、○○大学は職員の

派遣を行っている

直接的なきっかけは、A氏が北部大佐に

付いていったとされているが、ほんとうにそれだけ

だったのだろうか?軍人でもなく

素人が行きたいと言って

簡単に特務機関に入れるのだろうか?

なんとなく、それまでにも○○大学との繋がりが

あったのではないかと思えてくる

なんだかほんとうによく分からないが

気になる1人であった




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 660

この一橋大学の先生の書かれた本には

それ以上、A氏のことは出て来ない

しかし、大叔父の○○大学から特務機関である光機関に

派遣されていた人がいたなんて

しかも訓練所の所長って、どんなものだったのだろう?

A氏の帰国時期と、大叔父が大陸に渡っている時期が

入れ替わりのように見えるのは気のせいだろうか

ただ、軍歴表では、大叔父は中支(中国)に渡ったことに

なっており、ビルマ入りは、その年の12月である

とにかく、A氏の件の詳細は

○○大学の100年史担当だった方に

夏休みにお会いした際に、きちんとお聞きしよう





その間、私は当時の○○大学周辺を調べることにした

そこで、少し気になる人物を見つけた

ただ、○○大学に限らず、軍人も含み

当時の社会の中核層の人は、皆、繋がりがあり

調べれば調べるほど、みんな関係者のように

見えてならなかった

その中で、大叔父には直接関係はないのだろうが

興味深い人が○○大学の理事にいた

○○大学自体、なんだか凄い人の巣窟のように思えた




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 659

○○大学の学生課長だったA氏の経歴について

○○大学側からもたらされた情報と

この一橋大学の先生が書かれた本の内容と

大叔父の行動を併せてみますね

少し見づらいかもしれませんが、お許し下さい





<昭和16年>
4月、A氏は出身校の○○大学の職員として
学生課長の職に就く

大叔父は同じく○○大学の4回生になる(A氏の1学年後輩)

7月、大叔父は○○大学を中途退学




<昭和17年>
3月、A氏は○○大学の学生課長を辞職
大陸に渡り、関東軍に入ったと思われる

6月、A氏は北京に移動

7月、北部大佐は岩畔機関へ異動

8月、A氏も北部大佐の口利きで岩畔機関へ





<昭和18年>
1月、 カンベ訓練所開設

2月頃、大叔父は東京中野に引越

4月20日 大叔父は臨時招集、京都伏見師団入営
(歩兵第128連隊応招、 第一機関銃中隊)

6月、この時点で、A氏はカンベの訓練所長

7月23日、大叔父は、第60連隊機関銃中隊
補充要員として下関を出発

同年8月23日、A氏帰国




 
こうして並べてみると

A氏と入れ替わりの時期に大叔父は大陸に

渡っていることが分かる

A氏の交代で、大叔父は行ったのじゃないかしら?と

読み取れなくなもない




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 658

そして、注目すべきは、○○大学のA氏は

カンベと言う訓練所の所長をしていたとあった

訓練所とは何か?その所長とは、どれくらいの

地位だったのであろうか?





A氏が所長をしていたカンベ訓練所は

ラングーン(ビルマ)にあった

インド人を対象とした最大級の訓練所であった

主要な訓練所は、ラングーン(ビルマ)と

ペナン(マレー)にそれぞれあり

最盛期はラングーンに5校

ペナンに8校確認されている

その後、昭和19年時点では3校のみとなり

このカンベ訓練所は、最後まで残った1つであった





カンベ訓練所は、昭和17年(1942年)9月に

当初はラングーンのハイスクールの校舎で開始したが

空襲が激しくなり、翌年昭和18年1月にカンベに移った

その時点で、生徒数は約250名に増加

訓練は約1ヶ月前後行われた





A氏についての記述は、昭和18年6月の時点で

「カンベの所長は、○○氏と言う嘱託の青年で、

光機関の諜報・連絡部門の交渉係をしていた」と

出てくる




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 657

※ここで、1つ訂正のお知らせがあります

「早稲田大学」の先生が書かれた特務機関についての書籍

と今まで書いてきましたが、「一橋大学」の間違いでした

なんで早稲田だと思い込んだんだろう

大変失礼しましたm(_ _)m





この一橋大学の先生の本には

A氏の件の他にも、岩畔機関→光機関の

詳しい内容が書かれている






昭和17年7月(1942年)

岩畔機関では、北部大佐(当時は中佐)を

ラングーンに派遣し、ビルマ支部を結成

昭和18年3月に、岩畔氏は南方軍軍政監部へと

異動し、山本敏大佐が機関長となり

それと同時に光機関と名称変更した

それまで岩畔機関では、組織上層部に民間人の代議士

などが入っていたが、光機関ではそれらの民間人を

外し、軍人中心の機関運営へと移る





その後、磯田機関長の時代になり、光機関の本部は

バンコク(タイ国)からラングーン(ビルマ)に移る





昭和19年前半の光機関の組織図では

本部の下には、6つの支部があり

バンコク支部、イポー支部、ペナン支部

シンガポール支部、サイゴン支部、ビルマ支部

そして、そのビルマ支部長は、北部大佐であった





北部大佐のビルマ支部の中には、他の支部にない

分派機関の南機関・西機関

遊撃隊、出張所などがあった

ビルマ支部の出張所には、メイミョウ、ミートキーナ

ホマリン、カレワ、アキャブ

ビルマ各地に置かれた出張所には

光機関員が複数配置され、インド国民軍と日本軍との調整、

工作員訓練、周辺の前線部隊や遊撃隊などとの

連絡などの仕事を行っていたと書かれている





続く…




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ちょこっとしたご報告

読者の皆様へ



いつも読んで下さってありがとうございます

現在も、大叔父の調査は、なかなか進まないのが現状です

ここ最近は、途方に暮れて

どうしたらいいのだろう、あ~でもない・こ~でもないと

少ない知識の中で推理をし、状況の時系列と

状況証拠の肉付けを整理しているものの

泣いてばかりの日々でした





関係者が残り少なくなりタイムリミットに追われ

このままでは、ほんとうに迷宮入りしてしまう

ここ最近、後でと思っていたことも積極的に

自身の足を使って尋ね歩いて調査しはじめました

だからと言って大した収穫はありませんが

思いもよらなかった方から突然連絡をいただいたり

昔々にお願いしていた調査の結果がもたらされたり

私自身が動いたら、周りも自然と動くのだなと思いました





先月、ミリタリー雑誌「丸」で情報提供を呼びかけました

丸の読者様にはご好評だったようで

たくさんの感想のおハガキが届いたそうです

この場をお借りして御礼申し上げます

その中で、先週、短文ではあるが

情報提供に繋がる気配のあるお手紙が届いたと

丸の編集部から連絡がありました

今、転送いただいている最中です

丸の編集部も慌てておられる様子でした

一緒に喜んで下さり、とても感謝しています

どうなるか分かりませんが、とにかく嬉しい限りです

まずは皆様にご一報まで





にわかに、また動き出したと言う印象をうけています

もう一息の所まで来ていると思います

早く完遂出来るように、頑張ります!

いつも応援していただきありがとうございます



2014.3.10



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ミャンマーに思いを寄せて 656

残された公文書を疑いだしたらキリがない

手抜きの文書であっても残っているだけありがたい

大変な時期に、頑張って作成して下さった当時の関係者に

お礼を言わなければいけないところですが

しかし、後世の遺族が疑問を持つような

文書にしないでほしかった~

私も仕事をしていた頃は、人事をしていたこともあり

これらの文書がウソであったとしても

騙すなら完璧に騙して下さいよ~と言いたい





関係当事者である第三大隊の軍医さんも探したが

すでにお亡くなりになっていた

北部大佐もきっと、ご存命ではないだろう

70年経った今、それらがウソだと証明するのは

ほんとうに尋常でないほど大変なことである

このまま迷宮入りしてしまうのだろうか。。。





北部大佐をネットで検索すると大したヒットは無いが

なぜか中国語の文章がやたらと出てくる

私には何が書かれているか分からないけど

中国の人には有名な方なのだろうか???

※読める方がいらしたら教えて下さいm(_ _)m





A氏の話から、またまた話が逸れてしまったが

満州からビルマに移動した経緯は

北部大佐によるものだったことが

この早稲田大学の先生の書かれた本で分かった

A氏から○○大学の学校長宛の書簡にも

「参謀本部委嘱トシテ、ビルマ駐在特殊機関ニ服務シ」

と報告されている

学生課長の職を辞して、大陸に渡った時の書簡であるなら

挨拶の手紙かなとも取れるが

ビルマに移動した際にも報告をしているのを見ると

A氏が個人的に軍部に勤務したのではなく

大学側からの派遣であったと判断する




続く…



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ミャンマーに思いを寄せて 655

同じ中隊の生き残りの、中隊にとって重要な人達の

誰もが大叔父は、60連隊にいなかったと証言している

しかし、終戦後(昭和21年4月)に独自に作成された

60連隊第一大隊機関銃中隊の死亡者名簿には

大叔父の名前は記載されている、、、





これらの状況証拠をつなぎ合わせて推測した

これはあくまで私の推測であるが

大叔父が戦病死したのは、先代の60連隊長の時期であるが

その頃、光機関の北部大佐の指揮下にいたと

思われる大叔父は、戦後処理の過程に於いて

60連隊の連隊長となった北部大佐の指示で

自分の連隊の第一大隊の死亡者に

加えられたのではないか?





調書については、北部大佐の指示で

インパール作戦に参加した者に対し

誰にでも当てはまるような定型文で

60連隊に存在しなかった大叔父でも

不審に思われない内容とした

そして、適当な日付と場所として

中隊が玉砕した日と場所から病院に搬送したことにし

玉砕の日にしておけば、誰にも分からないだろうと

言う公算もあったのではないだろうか





インパール手前の最前線から

700kmも離れたメイミョウの兵站病院まで

下士官が搬送されるなんて、ありえないと誰もが言う

戦史をよく分かっていない私でさえも

戦時死亡者調書を見て、不思議に思ったほどである




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 654

第一大隊所属の大叔父の戦時死亡者調書を

第三大隊の軍医さんが書かれていることから

この戦時死亡者調書は

戦後処理の段階で、60連隊の関係書類を

一括して作成された際の文書であると判断する





旧軍の方のからお聞きした話だと

終戦後、収容所の中では、イギリス軍の指示で

軍医であっても、全ての軍医が医療関係の役務を

したのではないそうです

戦闘間ではないため、軍医として仕事は少なくなり

戦後処理する人や、その他の一般の業務に当たる人

割り当てられた役割は、軍医であっても人それぞれであった





では、なぜ昭和20年の日付なのか?

戦後処理で、つじつまをあわせるのならば

大叔父が亡くなった時の連隊長名で

亡くなった日付に近い日付で発刊すれば

何も問題は無いのである





軍歴表でさえ、戦後(昭和21年5月)に作成されている

その段階でも、大隊名さえ書かれていない軍歴表

階級の昇進も、参加作戦名も、死んだことさえ書かれていない

ビルマ入りした後は、白紙の軍歴表であった




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 653

北部大佐は、光機関の軍事部長をしている

私は、その北部大佐が、後に歩兵60連隊の

連隊長になったことが、なんとなく不思議である

「特務機関の人間だった者が、歩兵の連隊長に

なったからと言って、何もおかしくない」と

階行社文庫の偉い方は言っておられた

確かに、インパール作戦が失敗して

人員が少なかった時期でもあるため

こんな人事があっても、何も不思議でないのかもしれない

ただ、そんな使い方、普通はする?と漠然と思ってしまう





問題は、北部大佐が、大叔父の死亡者調書の

発刊者であると言うことだ





お役所からの「戦時死亡者調書」の写しは

以下の通りである



*:..。o○☆゚・:,。*:..。o○☆*:..。o○☆゚・:,。*:..。o○☆


<戦時死亡者調書>


昭和20年7月15日
森 7368部隊


死亡場所 ビルマ国サガイ州・明妙 第一二一兵站病院


死亡日時時刻 昭和19年7月24日 午後4時10分


「ウ」号作戦参加中 連日ノ激戦に加わるに 豪雨と給養ノ粗悪に依る
疲労蓄積、遂に発病するに至る


病名 アメーバー赤痢、兼マラリア


昭和19年5月24日 インド・アッサム州テグレパール


第60連隊第一大隊附
軍医 中尉 ○○ ○○


第60連隊長 大佐
北部 邦雄



*:..。o○☆゚・:,。*:..。o○☆*:..。o○☆゚・:,。*:..。o○☆



この戦時死亡者調書の中の私の疑問点は



●死後1年くらい経ってからの発刊

→発刊の日付がほんとうだとしたら
インパール作戦で忙しくて、死亡者調書の作成が
1年近くも遅れていたのに、終戦前のドタバタの
時期の方が忙しいんじゃないの?

●書かれている文面の内容は、死亡の調書ではなく
単に発病の経緯である

→他の人の死亡者調書を見たことがないので
比較できないが、こんなものなのかしら?



●大叔父は第一大隊の所属で、第一大隊附の軍医さんの
名前で証明されている

→しかし、この軍医さんは、第三大隊の軍医さんである
第一大隊だけ別の師団に編入されており(弓・山本支隊)
第三大隊の軍医さんは
もちろんテグレパールにも行っておらず
証明出来ないはずである

当初、第一大隊の軍医さんが戦死されて
終戦間際に第三大隊の軍医さんが
第一大隊に異動されたのかと思っていたが
第一大隊の軍医さんは、ずっとお元気で
軍医の変更はなく、戦死されてもおらず
復員され、その後もご活躍されている




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 652

その早稲田大学の先生が書かれた本は

珍しく光機関のことを研究した内容であった

中野学校を題材にした本はたくさんあるが

光機関について詳しく研究された本は

滅多に見かけない





○○大学の100年史担当だった方から

教えていただいたA氏の箇所を1番最初に確認した

確かに○○大学出身のA氏の名前が出ている

記載は次の通りであった

「A君という25・6才、○○大学出の青年がおった。

はじめ大陸の勉強がしたいと北京に来ておったが

わたしが南方に行くと言ったら「ぜひ連れて行ってくれ」と

ついてきたもので、その献身ぶりは、インド青年の

間でもなくてはならぬ存在でした。」と書かれていた





戦後にその証言をした人と言うのは

北部邦雄大佐であった





北部大佐は、当時の階級は中佐で

北支政権軍事顧問をしていた時に

光機関の前身の岩畔機関に引っ張られたと書かれていた

北部大佐は、中野学校の教官もされており

岩畔機関長の岩畔氏とは、同期であったが

岩畔氏が辞めた後も、岩畔機関→光機関で活躍する





この北部大佐、読者様の中には気付かれた方も

おられると思いますが

後に、大叔父の歩兵60連隊の連隊長になる人である

大叔父を調査する上で

私がマークしていた重要人物の1人であった

その人が、A氏の特務機関入りに直接関係していた




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 651

先日、○○大学の100年史担当だった方から


A氏のことが載っていると言う


早稲田大学の先生が書かれた

特務機関についての書籍のタイトルをお聞きし


すぐに注文していた






それが届いたので、早速、読んでみた



RIMG0621








※何の本か分からない状態でスミマセン




A氏以外のことも多く


とても興味深い話がたくさんあった


この手の本は、旧軍の方の体験手記や


現在の研究者が、日本にある資料を基にして


聞き込み等を盛り込んだ物がほとんどで


後者は、時折、真偽のほどもよく分からない


内容が書かれていることもある






この早稲田大学の先生が書かれた本は


アメリカの公文書館の資料を基にした


新たな視点でまとめられた本であった


一気に1日もかからず、読破してしまった


その後、何度も読み、必要なところに印しをつけた




RIMG0622







私が気に入った本は、ボロボロになるほど読んで


いつも参考書のような状態になる


図書館で時間に追われて読むのが苦手なのである


目だけ通して、いつか中古本屋さんに売ろうなどとは


思ってもいない


大切な資料なのである





続く…





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ミャンマーに思いを寄せて 650

市ヶ谷・中野と聞いて

市ヶ谷=大本営、中野=中野学校と思ってしまうのは

短絡すぎるだろうか?

特務機関にいたのではと色眼鏡で見ているから

ついついそう思ってしまうのかしら?

京都の大学生が、市ヶ谷・中野…???

1ヶ月間もの滞在、いったい何の用事だったのだろう。。。


RIMG0469













しかし、この遺品の切符が残されていたことについて

先日、ボロンチョに否定された階行社文庫の偉い方は

「そんな証拠を残すような、マヌケな中野学校出身者は

いない」と言われた

えーっと、確かにそうなのかもしれないけど~

…やっぱり中野学校の卒業者ではないのかな?

中野学校の卒業生でなく、単に特務機関に勤務していた

下士官であれば、切符の証拠を残していても

ありだよね(^^;)





…私には、単にたまたま残っていたと考えられない

考えすぎかもしれないが、今まで数々の信じられない

偶然が重なっていることがあり

70年経って、私に託されたこの遺品に

何か意味があるような気がしてならないのです。。。





夏休みには、○○大学の100年史担当だった方と

お会いする約束をして

私は他の調べ物に没頭することにした




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 649

○○大学の職員であるA氏が

岩畔機関→光機関にいた事実

これは、個人的な伝手でA氏が特務機関に行ったのか

それとも○○大学からの派遣が、たまたまA氏だったのか

まだ分からない





それと、私がずっと疑問に思っているのは

大叔父が在学中の昭和14年、15年にかけて

市ヶ谷や中野に行っていた件である

市ヶ谷や中野は、昔は観光地だったのか?

昔の国鉄は、中野に行くためには

市ヶ谷を通らなければいけなかったのか?

中野には、まだ姉婿は引っ越ししておらず

親族はいなかったのに

市ヶ谷や中野に何の用事があったのか?





しかも、遺品の切符から断片的に判断すると

夏休みや冬休みを利用して

東京に1ヶ月ほど滞在している

わざわざ東京で、今で言うバイトや出稼ぎとは考えられない

バイトをしてお金が欲しかったのであれば

大阪など近くに都会はある

滞在間の費用も、1ヶ月ともなればバカに出来ない

1ヶ月も観光で豪遊していたとは思えないのである





大学側から他大学などへの勉学のための派遣・交流

もしくは東京の大学の教授に

夏季・冬期講習を受けるなど

お聞きになったことはございませんか?

と大学側に聞いてみた




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 648

A氏の経歴の中で

A氏は、昭和16年に○○大学の法学部卒業となっている

昭和16年と言えば、大叔父より、1回生上である

当時は学生の数も少なく、同じ法学部のため

2人は顔見知りだったと思われる

大叔父のその後に、影響を与えたり

あるいは勧めたりした可能性は大いにあると思う

100年史担当だった方のメールにも

同じような趣旨が書かれていた

今後、検証が必要とされる事項である





私から大学側へは、「学生課長」とは

どういった地位の人だったのかと質問した

戦前は、学生を管理統制するために

文部省から各大学へ「学生課」を設置するようにと

通達が出され、それに基づき、○○大学にも

「学生課」が設けられたとのこと

実際、学生課長と言う職務は

どれほどの権限などがあったのか分からない

ただ、卒業後に、大学に雇ってもらえる人と言うのは

人間性も良く、成績もそれなりに優秀で

あったのだろうと想像する

そう言えば、このA氏と100年史の方は、同じ立場である

A氏の半生に、ご自身を重ねておられるのかもしれない




続く…




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