ミャンマーに思いを寄せて

亡き母の思いを果たすべく、ビルマで戦死した大叔父の足取りをたどる私の奮闘記録☆

2014年04月

ミャンマーに思いを寄せて 702

展示物を拝見しながら

100年史担当だった方は

「大叔父さんは、自分から行きたいと志願した

可能性が高いです」と言われた

あの当時の人は、皆、そんな志だったと言われて

私は、ハッとした

なんとなく、私の印象としては

大叔父の才能に目を付けた人から選ばれて

連れて行かれたと思っていた

それは大学だったかもしれないし

姉婿だったかもしれないし

石原完爾氏だったかもしれない

でも、連れて行かれたのではなく

大叔父から望んで行った。。。





ここの学徒出陣=戦争被害者と言う展示表現に

疑問を持ちながらも、大叔父は時代に翻弄され

誰かに選ばれてビルマに行って戦病死したと

なんとなく思っていた自分に気付いた

嫌なように言い換えれば、時代に巻き込まれて

誰かのせいで、ビルマに連れて行かれて

大叔父は死んでしまったと

心の底では思っていたのかもしれない

これじゃあ、ここのミュージアムと同じではないか、、、





そうか、大叔父は高い志を持って

自分の能力を発揮できるビルマの戦場に

自ら望んで行ったのかもしれない。。。

どちらから言い出したのかは分からないが

そこに大学や姉婿などがお膳立てをして

特殊な道に進んだ可能性があると思った





亡くなってしまったことは悲しいけど

大叔父が命をかけて遂行しようとしたことを

誇りに思わなければいけないのではないだろうか

大叔父さん、日本のためにありがとう





100年史の担当だった方、ごめんなさい

やはり私はここに大叔父の遺品を寄贈しません

と心の中で思ったのであった




続く…



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ミャンマーに思いを寄せて 701

2Fの特設会場では

戦死した画家の作品ばかりを集めた展覧会

静かで誰もいなかった

戦争に行く前の天真爛漫の作品なのか

いずれ戦争に行く恐怖と戦いながら

描かれた作品なのかは分からない

絵画や彫刻などが、所狭しと整然と飾られている





無限の才能を秘めた、多くの若手の画家達も

戦争に行き、作品だけを残して亡くなった

素晴らしい作品を目の当たりにしながら

残念でもったいないと言う思いと

とても悲しいことだと思った

…でも、申し訳なかったが

それらの展示をまともに見られず

もう、、、ごめんなさい、しんどい

なんでこんな展示ばかりするのか

気分が悪くなってきて、その場を離れたかった





大叔父の遺品をここに寄贈したとしても

戦争に行った悲劇の大学生として展示されて

果たして大叔父は喜ぶだろうか?

大叔父が未来を夢見て過ごした母校だけど

大叔父が通っていた頃の大学とは全く方針が異なり

戦後、新たに再建され、違う学校となっている気がする





大叔父が戦争に行って戦病死したことは

遺族として悲しいことだが

ここの展示方法を見る限り

失礼な言い方だが

大叔父を利用されるような気持ちになってしまい

なんだか私の思い描いていたものと

方向性が違う気がした

100年史の方には、もちろんそんなことは言えない

私は、無口になっていった




続く…




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読者の皆様へ2

少し長くなりますが。。。

(携帯からご覧の方は2ページになります)

私が育った京都のとある地域の公立の学校の話です

現在は、どうかは分かりません





まず、「宇治式浄水器」とか「宇治式爆弾」と言う

言葉を知ったのは、高校生の時だった

親が教師の友達と、担任教師にすすめられて読んだ

森村誠一氏著書の「悪魔の飽食」と言う本だった

ご存じの方も多いとは思いますが

「悪魔の飽食」は、旧満州のハルピンにあった

人体実験をしていたと噂のある

第731部隊を舞台にした作品である 

 それを家に持ち帰り読んでいると

父にとても怒られたことを思い出す

今から考えると、それをすすめた教師も教師だと思う





時代だったのか、特殊な学校だったのかは分からないが

私の生まれ育った京都のとある地域は

かなり左翼系が強い地域だと思う





学校行事では、国旗は、壇上に掲げてあった覚えはない
 
司会席の後ろに、小さな国旗が立てかけてあれば

良いほうで、それも指導が入ってしかたなくだった

国歌を学校で習った覚えもない

式典で、国歌斉唱をした記憶もない

徹底して、国旗や国歌を排除していた気配がある



 

小学校低学年の教室の文庫には、必ずと言っていいほど

はだしのゲンが置いてあった

子供の頃は、夢中になって読んで、衝撃を受けた

そして、夏休みの登校日は、8月6日と決まっていて

かならず、原爆の写真を見せられ、反戦教育を受ける

さすがに小学校1年生には原爆の写真は見せない

初めて見た2年生の時、その夜は家での夕飯が

ハンバーグで食べられなかったことを思い出す

子供心に、かなり衝撃的だったのだと思う





全国的に、夏休みの登校日はずっと

8月6日だと思っていたが

現在、東京で暮らし、子供が小学生になって

初めて、ここ数年前に私の育った地域だけだと知った





高校の校舎正面には、校旗と、京都府の旗、国旗が

立っていたのだけど、国旗は、当時、同級生が

火を付け、燃やした事件があった

うちの学校、怖すぎるよ~





就職した会社は、式典の時に

国旗掲揚や国歌をきちんと扱っていたので

入社してから、君が代を覚えた

みんな、国歌を知らないのだと、ずっと思っていた

オリンピックや、サッカーなどの国歌斉唱の時に
 
国歌を歌わない選手は

国歌を知らないのねと、ずっと思っていた





近年の子供の卒園式の時
 
会場の壇上の正面に大きな国旗が掲げてあった

ここは右翼系の幼稚園だったのかとすごく驚いた

式中に、「国歌斉唱」があり

周りのママ達が、普通に国歌を歌っている…えっ?えっ?

なんで、みんな、国歌を知っているの???

子供は、大事な歌だから、姿勢を正して

起立して、静かに聞くようにと指導を受けていた

そして、父兄が何も文句を言わず歌っている。。。

感動しました~ 





小学校の入学式でもそうだった

石原都知事の指導で、実施しているのかとも思ったが

教育機関で、こんな国家に対する姿勢を

今まで見た事がなかったからとても驚いた





そして帰宅して、主人に「うちの幼稚園は右翼系の

幼稚園だったみたい。日の丸が掲げてあって

父兄が全員、国歌を歌っていた」と伝えたら

主人がポカンとして、大笑いした

どこの都道府県もこうだと言う。。。

京都だけがおかしいと、この年になって、初めて知った 





日本人なんだから、国歌を知ってて当然だろと言われた

そうだよね、日本人なんだもんね、、、

国旗・国歌=天皇崇拝、戦争を思い浮かべ否定する人達も

外国人と話せば、日本人だと言うだろうし

オリンピックなどで、日の丸が上がれば、嬉しいだろうにね

国旗や国歌を、軽視して

こんな風に扱う国って、ないと思うけどな…





そして、子供が鼻歌で

「白地に赤く、日の丸染めて、あ~美しい…」って

歌っていて、これまた驚いた

国旗の歌を、東京の学校は、きちんと教えてるのね

ありがとうございます東京の学校 





おかしな教育のせいで常識が分からない、私でしたあせあせ(飛び散る汗) 

そして、近年知ったことと言えば

自衛隊のある駅前などは、危険と言うイメージがあった

地元の近くの駅では、いつも、右翼と左翼の宣伝カーが

怒鳴り合っていて、デモとかがあった

うちの担任の先生も、朝の出勤前に

自衛隊の前で、ビラ配りをしてから登校 

なのに、地方に行ったら、自衛隊の方が

あの緑の服のままスーパーでお買い物をされていて

ビックリしました!!大丈夫???

京都だったら石でも投げられそうなものなのに

平気でお買い物。。。周りの人も、珍しくないようだ

地域によっては、自衛隊さん万歳の所があるなんて

全然知らなかった~

全国に、転勤するようになって

京都は変なのかもと思い始めた 

まだまだ私が普通だと思い込んでいて

知らないこともいっぱいあるんだろうなぁ。。。 





一部の教育者は、その立場を利用して

無垢な子供達を自分の思想に染めてはいけない 

私は小さい頃から、反戦・反日の教育を

受けていたようなもので

ある意味マインドコントロールと言ってもいいと思う 

幸い、私は気付くことが出来たけど

未だに、気付かない人もいっぱいいると思う

幼少時期の教育で、思想を植え付けられると

気づかないまま成長してしまう 

大変恐ろしいことである





先の大叔父の大学は私学なのでしかたがないとしても

子供達が平和に関するミュージアムで

自由研究の学習をしていたのには、正直、抵抗があった

だから、少し書かせていただきました

長文、失礼しましたm(_ _)m




続く…




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読者の皆様へ

読者の皆様へ


いつも読んでいただきありがとうございます

気がつけば、700話にまで達してしまいました

いつになったら大叔父の調査は完結するのでしょう





今月も26日発売のミリタリー雑誌「丸」にて

記事を掲載していただき、情報提供を呼びかけます

タイトルは「大叔父の足跡を探した心の旅2」


m1406[1]










前回は、全国の読者様から、感想や応援のお言葉を

いただき心より感謝しております

中には、大叔父に直接関係はしていないと思いますがと

ご親族の方でビルマで通訳をなさっていた方の

資料を送って下さった方もいらっしゃいました

ほんとうにありがとうございます





さて、このブログは、大叔父の調査記録の事実を

綴っているだけで、私の思想については

時折、チラホラと見え隠れするかもしれませんが

極力含まないようにしています

大叔父のことであり、当時の大叔父が

どのように考えていたのかは分からないからです





だからと言って、私が志し高く熱く語れる

思想の人でもなく、純真に調査しており

この場での批判や討論をご遠慮したいと言う思いもあり

避けているのかもしれません





今のところ、ありがたいことに

批判や中傷をされることは1度も無く

皆様に温かく応援していただき無事に過ごせております

ありがとうございます





しかし、少しだけ私が育った時代の京都の公立の

学校の教育に触れさせていただきたいと思います

また話が逸れてしまいますが、お付き合い下さい

気分を害される方もいらっしゃるかもしれませんが

私個人が感じた事実ですので、お許し下さい




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 700

他には、天井から吊された大きな写真パネルが

目に留まった

戦火の下の外国の子供の写真である

兄弟か何かだと思うのだが

首のない遺体の手を引いて逃げ惑う

子供の写真であった

あまりにもショッキングな写真の展示に驚いた

テレビや雑誌ならば、規制されるだろう生々しい写真

戦争って国と国との戦いではあるけれど

理想だとかきれい事だけでは済まず

実際には、こんな子供も巻き込まれるんだよね

と心が痛んだ





きっと私の表情はこわばっていたと思う

「こんな写真まで展示するのも何ですが、、、」と

言いながら説明を続けておられる





1番気になった事は、その下で

たくさんの小学生が、自由研究として勉強していたことだ

これでもかと言うほどの衝撃的な展示物と

それらの説明、その展示方法

展示はねつ造ではないのだろうけど

意図的に偏った説明のように感じる





それらは純真な子供の心に刻まれる

この子達にとって、ここで学んだことは

将来どのように影響するのだろう。。。




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 699

平和に関するミュージアムの説明では

学徒出陣について

「敗戦が必至の戦局の中で

多くの生徒がペンの代わりに銃を取らされ

新たな死への道を歩むことを余儀なくされた」

とあった





展示物は、電光パネルなど、とても立派で

博物館のような豪華な展示である

○○大学の100年史担当だった方は

素晴らしい多くの展示物を前にウットリされている

ように見受けられた

それらのほとんどは、関係者から寄付された物で

この方のご尽力で多くの方から寄せられたようである

まだ未整理の物が、ダンボールで500箱くらい

残っていると言われていた

現在、○○史資料センターのオープンに向けて

寄贈を呼びかけている最中なので

まだ増えるだろうとのこと






大叔父の遺品の中にあった「招集延期証書」などは

すでに他の方の物が展示されていた

それらの展示物は、ずっと展示されているのではなく

その季節のテーマにより、逐次、入れ替えがあるとのこと

「大叔父さんの資料も、このように

目立つように展示して…」と、もう寄贈してくれると

思い込んでおられるのか、イメージして話されている

私は寄贈するなどとは一言も言っていない





大叔父の遺品が、○○大学のお役に立つならば

大叔父も喜ぶかもしれないと思っていた頃もあったが

大叔父の遺品を寄贈したとしても

ずっと展示して下さるのでもなければ

まだまだ開封されていない段ボール箱もあるとのこと

単なるその1つになると言うことだけのことである




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 698

スミマセン、話が逸れますが(いつものことで

「宇治式」についての続きで

私の個人的な見解としては

宇治には現在も自衛隊の宇治駐屯地と言う所がある

宇治駐屯地は、関西補給処と言う

自衛隊の補給処である

医薬品や食料をはじめ被服や通信機器など

各部隊で使用する物資の調達や管理を

行っている部署である





調べてみると、ここは、旧陸軍の弾薬を製造した所らしい

旧東京第2陸軍造兵廠、宇治製造所(明治27年創設)の跡地

だとか、大阪陸軍砲兵工廠宇治火薬製造所とか

色々とすんごい言葉が出てきた

どれがほんとかよく分からないのですけど

そのころのレンガ造りの建物が数多く残っている宇治駐屯地





その近くの京都府相楽郡精華町には

祝園(ほうぞの)分屯地と言うのもある

こちらは宇治駐屯地の分屯地で祝園弾薬支処として

現在も機能している

戦前には、東洋一の弾薬庫として有名だったそうです





そんなことから、731部隊で使用されたと言われる

宇治式の爆弾も、宇治で作られ、管理されたから

宇治式って呼ばれるのかな?と勝手に思い込んでいる




ただ、宇治式の浄水器(防疫給水部が使用)

ってものあるらしい

その宇治式の浄水器には、中に今で言うセラミックが

入っていて、濾過装置の役割をしていると言う

宇治には焼き物もないような気がするし

陶器製=宇治ではないように思うのだけど。。。

未だに何で宇治式って言うのか

やっぱり分からない~、誰か教えて下さいm(_ _)m

スミマセン、いつもながら

まとまりのない話でごめんなさい




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 697

とても立派な展示施設であった

お金持ちの私立大学と言う印象





最初に目に留まったのは、旧日本軍が使ったとされる

「拷問器具」の展示であった

大きなこん棒のような、桃太郎の鬼退治に出てくるような

よく分からない年代物であった

ほんとなの?どこからそんな物を持ってきたの?

いやいや、こんな展示ありですか?

ここは日本だよね???





ふと私は思い出した

それは、朝鮮戦争の時の英雄のパク将軍に

たまたまお会いする機会があり

ご厚意で招待して下さったのが

その国の第一師団の広報展示室だった

そこには旧日本軍の悪行を表すジオラマがあり

説明をされていたその国の軍人さんは

私達が日本人だと知ると「私は日本のことは好きですよ」

とアタフタと言い訳しながら、気まずそうに

展示物の説明をされていたことが印象的だった

でもそれは、外国の話である

しかも第一師団でご飯までご馳走になったので

水に流してあげますが(笑)

しかし、この平和に関するミュージアムは日本だよ





続いて、731部隊で使われた「宇治式爆弾」の展示

えっ?ほんと?

あらぁ~、初めて見たわ、しかもこんな所で(^^;)

と言うか、だから、どこから持ってきたの??

陶器製で、茶色で艶々と釉薬のかかった

50cmほどある爆弾とされる物であった

私が想像していた物とは少し違ったが

コレがそれなのかとマジマジと拝見した





以前から気になっていた「宇治式」と言う言葉

思わず「なんで宇治式って言うんですかね?」と質問してみた

すると「京大が関わってるからでしょう」と

簡単に返ってきたえっ?そんなこと言ってもいいの?

確かに、731部隊に京大が関わっていてもおかしくはない

だろうけど、それって爆弾発言じゃない???

個人的な意見として受け止めますが、、、ビックリです

京大が聞いたら何て言うだろう

って、京大=宇治式って、答えになってませんが



「宇治式」に関する過去記事はこちら↓↓

「ミャンマーに思いを寄せて 489」
http://blog.livedoor.jp/aya_sann/archives/1880122.html




続く…



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ミャンマーに思いを寄せて 696

近くの平和に関するミュージアムに移動した

とても大きく立派なミュージアムである

8月であり、季節が季節だけに

学徒出陣に光を当てておられるような展示であった





○○大学も、学徒出陣により

学生を戦地に送り込まなければ 

ならなかった、悲しい過去を持つ、大学の1つ

当時の大学生は、現在の大学生とは全く違い

日本の将来を担う、有望な若者として

国の宝とも言えたとは思う

何度と書いているが、ただ、私個人としては

なぜ、大学生だけ特例措置だったのか 

と言う思いはある

一部のお金持ちや、頭の良い人だけが

兵役を免除される… 

少し、理不尽な感は、否めない 





勉学を中断され、国策として無理矢理、戦場に行かされた 

みたいなイメージで、学徒出陣を悲劇扱いすることに

対してはやや、疑問に思う

大学生より、もっと若くして戦争に行き

勇敢に戦った青年は、山ほどいる 

頭が良くても、大学に行けなかった人も

たくさんいただろう

 



当時の○○大学側は

学徒出陣に応じなかった学生に対して

退学と言う強い態度に出ている

しかし、戦後、それは間違った判断だったとし

国策による圧力があったとされた 

学生のみならず、学校・教師までもが

あたかも戦争被害者の如く

それまでの姿勢を翻した一部の教育者には

反感のような物を感じる

学徒出陣を悲劇と祭りあげ

反戦を唱えるのは良いとしても 

反戦=愛国心を失わせることは、別問題だと私は思う 





○○大学の平和に関するミュージアムも

学徒出陣をプロパガンダにかかげ

思想的にかなり片寄りのある展示説明が多く散見された

ここは日本だよね?と

思ってしまうような展示説明であった

さすが左思想の強い京都だと思った

こんな展示が普通であり、誰も何も言わない

なんとなく、近隣国の反日の戦争資料館にでも

来ているかのような気分であった




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 695

A氏の資料は、2種類ほどあった



・A氏の光機関での日誌の一部

・A氏に関する送金や書簡類の写し



その他に、○○日満に関する他の大学がまとめられた論文

のコピーなどがあった

日満の論文については、すでに私が入手していた物であった





A氏の光機関での日誌が存在した

それは、当時の読みづらい昔のカナ文字使いではなく

原文を元に、現代の書き方で横書きにされていた

その作業を、この100年史の方がなさったようだ

A4版の46ページにも及ぶ冊子であった





その他に、2~3枚ほどの送金の記録などの資料が

あった、それらをパラパラと拝見した

日誌は、日々の記録のため

その場で覚えられるような物ではなかった

すると、これをお貸ししますと言って下さったのである

「コピーさせていただいて宜しいですか?」と伺うと

「私からは良いとは言えません、何も聞かないで下さい

コピーをすることを、私は聞かなかったことにします」

とおっしゃって下さったのである





私は、その資料をお借りし

家でゆっくりと拝見することにした

そして、引き続き、平和の資料館に案内された




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 694

私が今日ここに来た1番の理由は

100年史担当の方が持っておられる

A氏の資料を見せていただく事である

交換条件ではないが、ここまでして下さるのだから

私も、今まで調べたことを開示しようと思うのは

人として普通であり、この方を信頼した証であった





100年史担当の方は、数種類の資料を見せて下さった

ただ、これは、研究をなさっていた先輩から

個人的に受け継いだ資料であり

この資料があること自体、まだ非公開なのだそうです





この方に渡った経緯として

先輩である大先生の名前を並べて説明して下さったが

私には、その方達の名前も偉大さも

残念ながらあまり分からなかった

どうも、近くの国立大学が戦時中に

満州の秘境に探検に行った時の

メンバーを経由して、現在は、この方が預かり

研究を続けておられるようである





もし、この資料に関して、私が発表などをする場合には

許可を必要としますと言われていた

なぜ私が、このブログで、この資料の存在を

公開するに至ったかについては後述するとして

大学名も実名も出していません

問題は無いと判断しております

この資料の内容が、大叔父の件に影響してくると

思っていますので、このまま進ませていただきます




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 693

A氏については、実は詳しいことは

何も分かっていないのだそうです

この100年史の他にも、今まで区切りとして

○○大学では○○年史を何度と発刊している





ある時、このA氏についても、聞き取りをしようとする

動きがあったそうです

A氏は、○○大学の学生課長を辞し

光機関から昭和18年に帰国して

その後は徴兵されずに終戦となった





そして、その後は養子に行き結婚され

大阪の寝屋川に住んでおられたらしい

調べだした頃には、既に他界されており

ご家族に聞いたが、戦時中に光機関にいたことなどは

初耳だったようで、何も聞いていないとのこと





戦後、何年かは寝屋川に住んでいたことが

分かっているが

その後は、大学側の出した手紙は宛先不明で

戻ってきたことから、ご家族とも連絡は取れなく

なってしまい、分からぬままになっているそうです





100年史担当だった方の手元の資料には

A氏の追跡結果や、寝屋川の住所など

詳しく記入されていた

私もチラリと見せていただいたが

個人情報のため、見た程度であった





ただ、大叔父よりも1回生上で

当時の法学部の人員は少ないため

同じ法学部の先輩・後輩として

2人は、顔見知りであったと思われると言われていた






続く…





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ミャンマーに思いを寄せて 692

その他には、石原完爾氏と神居家との

関係については、あまり関心がないようであった

まだ決定的な調査をした訳でもなく

曾祖父の経歴書が出てきただけの段階での

私の仮説だったから、しかたがない

まぁ、その辺は頑張って調べてみて下さい

みたいな感じの受け答えであった





父からもらった昔の雑誌のコピーがあった

それには、石原完爾氏が馬に乗って

○○大学に通う写真が載っていた

大学にとっては、未発見の写真だったらしく

この雑誌の名前が分かればいいのにと

とても残念がっておられた

父もずいぶんと昔に、石原完爾氏のファンで

同じく山形出身の石原さんと言う先輩から

いただいたコピーだったそうで

元の本は分からないらしい





その先輩は、石原完爾氏と親戚だと

主張されていたそうだが、それはウソだったそうです

そこまで、熱狂的なファンがいる石原完爾氏

今でも、石原完爾氏は人気がある

大学側も、石原完爾氏との関係は

対外的にも誇りとして

学校史でも大きく取り上げられている





私は、石原完爾氏の偉大さは、あまり分かっていない

ただ、大叔父を調査する上で、たまたま出てきた

将軍様と言うだけだったが

周りのみんなは、とんでもないことになったと

大いに騒がしくなった

反対に、私の方がその反応に驚いたくらいであった





私としては、石原完爾氏と神居家との

この仮説はかなりすごいことだと思っているので

100年史担当の方の反応は、少し残念ではあった

ただ、もし大叔父の出兵に、石原完爾氏が

個人的な繋がりとして関わっていたとしたら

A氏はどうなるのか?

大叔父を、大学側から光機関に出したA氏の

後任者だと仮定するならば

石原完爾氏と神居家の関係は

関係ないことになる???

う~ん、よく分からない





しかし、やはり○○大学の100年史担当だった方も

学費未納による退学理由は

学費が払えなかったのではなく

何らかの理由が他にあったのだと言われ

A氏の後任者である可能性が高いと結論を出された

もしかしたら、どこかで大叔父の名前を

見落としているかもしれない

A氏関連の件でなくとも

理事の義理の弟で、級長や禁衛隊で大隊長を

していた学生であれば、どこかに名前が残っていても

おかしくはないとのこと

もう一度、資料で探してみますと言って下さった




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 691

それから、先ほどの北部大佐の件や

私が調べたことを、事細かにお話しした

○○大学の100年史担当だった方は

大まかな戦史は掴んでおられたが

大学関係以外の戦史はあまりご存じない様子

A氏を取り巻く登場人物のそれぞれの関係や

その後の、大叔父との関わりや

その度に、私が説明をするのをメモを取っておられた





大学の歴史を研究するような偉い方に

素人の私が説明をすると言うのは不思議な気分であった

今まで、私の諸説をバカにしたような専門家の

人達とは違い、真剣に話を聞いていただけただけで

とても嬉しかった

仮説や追い求める物が、同じ価値観の方との交流は

私にとってとても感慨深く、有意義な時間のように思えた





この一橋大学の先生の本の中には

大叔父の名前は出てこなかったが

もしかしたら、アメリカの公文書の資料の中に

見落とした大叔父の名前や

それらしき人物がいたかもしれない

不確かなために載せなかった事項もあったかも

と言う結論に達した





この著者とは、100年史担当だった方は面識はないそうで

人伝で、ここに載っていると聞いただけのようであった

元々、私は、著者にお手紙を出そうと考えていたので

それを言うと「それがいいですね!」と言われ

大学からではなく、私個人として著者に

問い合わせる形を取ることにしようとなった





私は帰ったら早速お手紙を出そうと思った

100年史担当だった方も、楽しみにしておられるように

感じた





続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 690

A氏が出てきた一橋大学の先生の

書かれた光機関の本を購入し、読んだことを伝えた




A氏が載っている本の関連過去記事はこちら↓↓

「ミャンマーに思いを寄せて 607」
http://blog.livedoor.jp/aya_sann/archives/1898159.html

「ミャンマーに思いを寄せて 652」
http://blog.livedoor.jp/aya_sann/archives/1906142.html





本の中で、A氏を光機関に連れて行ったと

戦後に証言した人は北部邦雄大佐であった





北部大佐は、当時の階級は中佐で

光機関の前身の岩畔機関に

同期の岩畔氏に引き抜かれたと書かれていた

北部大佐は、中野学校の教官もされており

機関長の岩畔氏が辞めて

岩畔機関→光機関になった後も光機関で

重要な役割をし活躍する





この北部大佐は、後に、大叔父の歩兵60連隊の

連隊長になる人である

大叔父を調査する上で

私がマークしていた重要人物の1人であったと

100年史担当だった方に伝えた

すると、100年史担当だった方は、とても驚かれていた





A氏が、北部大佐と個人的な顔見知りで

大学とは何の関係なく

たまたま光機関に行きたいと付いて行っただけの

話なのかもしれない

ただ、特務機関に行きたいと一般人の青年が

言ったからと言って、そんなに簡単に

勤務できて、訓練所の所長になれるのかしら?

と、本の中で証言している北部大佐の話を

そのまま信じる訳には行かないなとい言う印象である

何故なら、北部大佐は中野学校の教官をしていた

ような、その筋ではプロの人物である

おいそれと、事実関係を暴露したとも思えない





続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 689

続いて、大叔父の60連隊の第一大隊機関銃中隊の

入院患者名簿や死亡者名簿なども見せた





遺品にあった京都~東京間の切符や

中野~市ヶ谷間のキップなども見せた

まだ大学2回生や3回生であった頃から

夏休みや冬休みを利用して

約1ヶ月ほど東京に滞在していることから

親戚もいないのに

観光で遊びに行っていたとしたら

どんな豪遊なんだろうと思ってしまう

そこで、遊学と言うか、他校との交流や

夏季・冬期講習などで

東京に行くと言うことはなかったかと聞いてみた





東京帝大とは、少なからず繋がりがあったため

そこの教授などの指導を受けていたとしてもおかしくはないが

当時は、近くに東京帝大と並ぶ国立の大学もあり

昭和8年の近くの国立大学の思想弾圧事件で

大叔父の○○大学は、その際に辞職した

優秀な教授陣を多く受け入れており

大変充実していたため、そのような話は聞いたことがない

と言う説明であった

また、東京帝大でなければ取得出来なかった資格なども

ないような雰囲気であった





大学側からの斡旋や勧めでなかったのならば

大叔父は個人的な用事で東京に行っていたことになる

個人的な用事で、1ヶ月も中野や市ヶ谷に

何の用事があったのだろう???




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 688

○○大学の100年史担当だった方とのメールでは

最近は、○○大学から実際にビルマの光機関に

派遣されていたA氏関連の話ばかりであった

その前から、お尋ねしていて保留になっている件など

報告も兼ねて、ゆっくりとお話しを始めた





○○大学からいただいた昭和16年当時とされる

写真と、私が伯父からもらった写真の背景の

壁紙が一緒の件について

伯父からもらった写真を見せた



PICT0003






当初、撮影場所は同じで

大学構内で撮影されたのだと思い込んだ

場所を特定したかったので

この壁紙の部屋は1つだけだったのか?

それとも構内全部この壁紙だったのですか?

などと、100年史担当だった方に問い合わせしていたが

思い当たるところは何カ所かありますがと

言われたままであった





しかし、その後、60連隊の大叔父と同じ中隊の

おじいさんが、偶然にも○○大学の出身であったことから

この写真は、大学の側にあった写真屋さんの

大学構内をマネたスクリーンの背景であることが分かった

おじいさんも、同じ背景の写真をお持ちなのだそうです





それを、100年史担当だった方に伝えると

「あぁそうですね、私もその写真屋は知っています」と

懐かしそうにおっしゃった

あれ、、、?ご存じだったの?

分からないんじゃなかったっけ???

その写真屋さんを探そうと、写真屋さんについても

100年史担当だった方に何度もメールで尋ねていた

ならば、そうと何故教えて下さらなかったのかしら?

あれだけ大変な思いをして、調べまくったのに。。。

なんとなく不思議に思ったのであった




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 687

講演会場は、立ち見も出て、人が入りきれないほどであった

私もお話を聞きたかった

学徒出陣の、その当時の学生を取り巻く状況や

心境など興味はあった

しかし、特攻とは大叔父は関係なさそうである





この講演会の方は、教授などを歴任されていて

他にも多くの著書をお持ちで大変勉強なさっていると思う

そして、現在の人がまとめた書籍などとは

比べものにならないほどリアルな経験談であり

実話だと言うのも分かっている





しかし、最近、ご健在の旧軍の方にお話を伺っていると

皆さん、旧軍のうちでは比較的若い部類の方である

確かに、愛国心や当時の志などは素晴らしいのだが

言われるままに命令に従った

付いていって戦った、戦友が戦死した

上官に殴られたとか

断片的な実体験のお話しか伺がえず

作戦全般などはあまり分かっておられない様子

やはり、指揮官クラスや将校、古参兵とは

視点が全く違うのである

大変失礼な例え方ではあるが

現在の自衛隊の新隊員に

国や自衛隊全般の話を説明してほしいと

言うのと同じくらい無理な話であると思う

今、ご健在の方は、軍隊経験があるが

軍隊経験をかじったくらいの人が大半となってきている





私達は、参加を見送り

場所を移して話を進めることにした





続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 686

だんだんと、土曜講座に参加する人で

会場は賑やかになってきた

開場前から人の列が出来た

この日の講座のテーマは「学徒出陣」についてで

『出陣学徒70年目の証言』と銘打った

旧軍の方の講演会であった

この方は、大叔父のこの○○大学の出身ではなく

近くの国立大学の出身で

後に、○○大学の教授や副学長を歴任され

現在は、名誉教授となっておられる方であった





この方のお名前は、書籍で拝見していた

特攻艇・震洋の元特攻隊員である

大正12年生まれで、大叔父より4年後輩だと思われる

終戦ギリギリに学徒出陣された方だと思う





特攻艇・震洋って、聞いたことがなかったので

帰ってから調べてみると

海軍が開発した特攻兵器であった

小型の木造もしくは極薄鋼板などを用いた

ベニヤ板製のモーターボートの船内艇首部に

250kgの爆薬を搭載し、搭乗員が乗り込んで操縦し

体当たりする攻撃

搭乗員は航空救命胴衣を着て

船外後方に脱出できるようにもなっていたようだが

生還に関しては、特に重要視されていなかった





比較的容易に量産出来る兵器として作られ

搭乗員は、他の特種兵器から転出となった搭乗員のほか

学徒出陣の兵、搭乗する飛行機が無くなってしまった

海軍の予科練習生などが充てられた

震洋の戦死者は2,500人以上であると言われている





この日の講演会の旧軍の方は

移送中に敵軍の魚雷攻撃を受けて船が沈没

その後、救助され特攻はせずに終戦を迎えることになった





続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 685

まずは、一通りご挨拶を終え

私の持参した遺品をお見せした

写真で既にお見せしていた物

●学生証

●中学の通知簿

●身分証明書

●山形県(当時の本籍地)からの「徴集延期証書」

●受験票

の他に、写真に撮れなかった

●定例試験成績順位表

●学期末の成績順位表

●大学側からの郵便物

そして、新たに発見した

●昭和14年11月 
「京都付近大学高等専校連合演習出場者編成表」

であった





学生証や身分証明書については

既に写真で確認してもらっていて

学校長などの名前も合っていて、本物であると

言って下さっていたが

今回は、新たな物を持参したので

とても興味深く見入っておられた





特に、成績順位表には、他の同級生の名前も

大勢並んでおり、同級生の中には

映画監督など有名人もおられるそうで

ゆっくりと名前を確認してみたいと言われていた





そして、昭和14年11月に行われた
 
京都付近大学高等専校連合演習については

記録がなく、とても珍しい貴重な資料なのだそうだ

表の編成をじっくり見て、組織的にはやはり

○○大学の禁衛隊の組織に

準じているだろうと言われていた





これらの遺品は、伯父から譲り受けたときのまま

ナイロン袋にまとめて入れていた

それをとても気遣って下さって、中性紙で包んで

保管するように勧められた

「大事に保管して下さい」と何度も言われていた

さすが、100年史の部署で数々の資料に

携わっておられただけあり、保管についても

専門的な知識をお持ちのようだ

確かに、昔の紙のため、ボロボロになっている

きちんと保管しないと




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 684

「○○史資料センター」とは、○○大学の歴史に関する

資料の展示センターだそうである

既にある平和に関するミュージアムとは

また少し趣旨が違い

学生生活に関した様々な資料が展示される予定である

それに際し、○○大学では「懐かしい逸品をさがしています」

と、チラシを作成され、寄贈を広く呼びかけられていた




140408_165759












100年史発刊後の百年史編纂室が

現在では、「○○史資料センター準備室」となり

センター開設の準備を行っておられる





以前からずっと、この100年史担当だった方は

このセンターのオープンの際に

大叔父の遺品は目玉となるからと

寄贈をお願いしたいとほのめかしておられた

私も、もし大叔父の遺品が○○大学のお役に立つなら

嬉しいし、大叔父も喜ぶと思うだろうと思っている

そして、もし可能なら、伯父夫婦をセンターの

オープン記念の式典に呼んでもらえたら。。。

いつも協力してくれている伯父夫婦に

ほんの少しの恩返しになるかもしれないと

青写真を思い描いていた





いつかは、しかるべき所へ

大叔父の遺品を寄贈しよう

ただ、それは大叔父の調査が片付いてからのことである

その日も、ハッキリとはおっしゃらないが

寄贈を促すような雰囲気で話は進められた

お世話になっている方だけに

寄贈のお約束をしてあげたい気分であったが

「いつか調査が終わりましたら、しかるべき所にと

考えております」とだけ伝えた

しかるべき所とはどこだろう?

○○大学の他には、靖国神社なども候補に入れていた




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 683

当日は、良く晴れた夏空で

○○大学に行くため、京都駅のバス乗り場に着いた

ただ、週末であったため、大学行きのバスは無かった

しかたなく、タクシーで指定された○○記念会館に

向かった





お会いする○○大学の100年史担当だった方は

身長170センチほどで黒縁めがねをかけております

○○記念館の土曜講座の会場の前で

お待ちしておりますと言われていたので

すぐに分かった





○○記念会館は、路地を入った所にあり

入り口は少し分かりづらかったが

綺麗な建物であった

土曜講座には、まだ時間があり、会場は閑散としていた





定年されて再雇用されたとお聞きしているので

きっと60代くらいだと思われるが

ガッシリとした、少し白髪の交じるダンディーな

おじさまであった





初めてお会いするのに

私は、旧知の人にお会いするような気分であった

軽く挨拶し、お土産を渡すと、遠慮され

近くにおられた同僚の方にお土産を譲られた

同僚の方に、私に名刺を渡すように

言われていたのを見ると

その方より偉い方なのかなと言う印象を受けた





同僚の方には私の事を

「大学関係の親族の方で、資料をたくさん持っておられる」

と紹介され、その同僚の方から名刺をいただいた

その方も○○大学の偉い方のようで

名刺の肩書きは、○○大学の○○キャンパス事務局長

であり、平和に関するミュージアムの担当者であった

現在準備中の、新しく出来る「○○史資料センター」の

責任者になる予定の人らしい



続く…



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ミャンマーに思いを寄せて 682

そうこうするうちに、大叔父の○○大学の

100年史担当だった方とお会いする日が来た

2013年8月3日

この日は、○○大学で土曜講座と呼ばれる

公開講座が開かれる日であった





この○○大学の土曜講座とは

当時の学長が「講義を市民に広く開放し

大学と地域社会との結びつきを強めること」を

目標に設けられ、戦後すぐから、半世紀以上続けらている

由緒ある講座であった





この日のテーマは、「学徒出陣」であり

100年史担当だった方も、参加しようと思われていて

その前後にでもお会いしましょうとのこと

一般に公開されている講座であり

部外者の私でも参加出来るとのこと

テーマが学徒出陣なんて、願ってもないことである

時間があれば私も参加したいなぁと思った





会場は○○大学の学長だった方の功績をたたえて

作られた○○記念会館であった

近くには平和に関するミュージアムもあるとのこと





この○○大学の100年史担当だった方とは

ミャンマーに行く前からのお付き合いである

調査当初に、大叔父の○○大学に

問い合わせで電話をした際

用件が用件だったため、担当部署が分からず

たらい回しにされた後

当時100年史の本を発行されるために設置されていた

百年史編纂室に案内され

たまたま対応して下さった方であった





100年史その物は、2013年3月に発刊され

この方は、一度定年されたが再雇用され

現在も人事部で活躍されている重鎮のようである

その後も親切に相談に乗っていただいる方で

以前から、○○大学の歴史を扱う部署の者として

また、○○大学の後輩として

この時代の諸先輩の生き方に強い関心を持っておられ

堀り起こさなければならない学園史としても

大切なことと考えておりますとおっしゃっていて

大叔父の件も心強い方であると信頼している




 
まだ1度もお会いしたことがなかったので

日頃お世話になっているお礼も込めて

お会いするのが、とても楽しみであった




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 681

伯父から譲り受けた数々の遺品

それらの中には、私が欲しい常々思っていた情報が

いっぱい詰まっていた

よくもまぁ、これだけピンポイントで出てきたよね

と驚くほどであった





他にもあるんだろうか?と聞いたが

これしか無いと言う

なぜなら、祖父のお寺は戦時中に全焼しているからだ

全焼したのに、これだけよく残っていたよね?

と思っていたら、これらの物は

お寺にあった物ではなく、もう1人の祖父の姉が

近くの別の所に住んでいて、その姉の家にあった物だと

言うのである





いつも出てくる、大叔父の下宿先の伏見の姉ではなく

他にも祖父には姉がいて

晩年は、祖父のお寺に身を寄せ

私も可愛がってもらったおばちゃんである




おばちゃん関連の過去記事はこちら↓↓

「ミャンマーに思いを寄せて 33」
http://blog.livedoor.jp/aya_sann/archives/1565378.html




祖母は体が弱く、母を産んだ後は、このおばちゃんに

母は育ててもらったようなものであった

このおばちゃんは独身で、母をとても可愛がっていた

あのおばちゃんが残してくたれ物。。。

私のためにではなかっただろうが

結果、偶然にも私の調査に役立つ物ばかりであった

優しかったおばちゃんを思い出し

今でもこうして私を見守ってくれているようで

涙が溢れ出た、おばちゃん、ありがとう

大切に使うね、絶対に大叔父さんを見つけるから

私、頑張るからこれからも見守っていてね





もう天国で会っているかもしれないが

このおばちゃんにとっても、大叔父は可愛い可愛い

年の離れたかけがえのない弟であったに違いない




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 680

それにしても、同じ中隊のおじいさんは


伏見師団にいた期間は

1ヶ月くらいだったと証言されている


予防摂取だけをして、すぐに大陸に渡ったそうです


大叔父よりは少し早い時期だと思われる





大叔父は、しっかりと3ヶ月間の教育を受け

昭和18年の7月23日に大陸に渡っている

同じ中隊のおじいさんが渡った時期よりも

戦況は悪化していただろう

どちらかと言うと、じっくり教育するよりも

早く兵隊を欲しいと思うのだが

もう昭和18年の春には

すでに、釜山に渡る海域は困難で

何ヶ月も様子を見なければいけない

状況だったのだろうか?





中野学校の卒業は7月だと

大叔父の○○大学の100年史担当だった方は

言っておられた

そして、その年の8月に帰国した

○○大学から光機関に派遣されていたA氏

それと入れ替わりのように

7月に大陸に渡った大叔父





昭和18年7月23日に下関を出て

同日には釜山に到着

26日には、山海関と言う所を通り

同日、中支那において上海南京蕪湖付近の警備

に就いている





ただ、戦史叢書の中の60連隊の行動記録では

中支那において上海南京蕪湖付近の警備を終え

昭和18年7月25日に呉出港

輸送船8隻により、駆逐艦6隻の護衛の下

仏印に向かう

8月8日に仏印サイゴンに到着している





連隊本部と、各大隊の動きは違うのだろうか?

大叔父は、まだ上海南京蕪湖付近に

残っていた60連隊の一部に

追いついたと言うことなのだろうか?  





大叔父の軍歴表では、12月にやっとビルマに

移動している

12月まで、60連隊のいない上海南京蕪湖付近で

何をしていたのだろう、、、

そもそも、ほんとうに中支那に行ったのだろうか?

と、思えてくる

私の勝手な想像では、やはりビルマの光機関に

直接投入されたのではないかと考える





続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 679

その京都の有名なお寺のトップとなった叔父を頼って

明治38年生まれの祖父も

13才で京都に出てきて、お坊さんになった

計算すると、大正6年頃に、京都に来たことになる

その翌年、大正7年には山形で大叔父が誕生する

祖父が現在のお寺の住職になったのは

昭和3年~のことである

祖母との結婚については、昭和5年のことであった






曾祖母が亡くなり

山形で尋常小学校の校長先生をしていた曾祖父は

昭和4年に退職、昭和17年に山形から出てきて

京都の祖父のお寺に身を寄せた

大叔父が仕事に出掛ける際、曾祖父は

「達(とおる・大叔父の名前)に持たせてやってくれ」と

自分の分のご飯を、大叔父のお弁当にするよう

祖母に頼んでいたと伯父は語っていた





食料事情の悪い戦時中、20代の働き盛りの息子を思う親心

伯父のその記憶の証言から、大叔父は

当初は神戸の帽子屋さんに姉婿の家から通っていたが

途中から、祖父のお寺から通うことになったと分かる

理由は分からないが、京都・伏見の姉婿の家が

東京・中野に引越ししたからと言う可能性が高いと思う

先に姉婿宅が中野に行って

大叔父を呼び寄せたか、大叔父が追い掛けたか?

では何の目的で??

そもそも東京の旭機械工業は、何の縁故か?

大阪羅沙製帽組合を辞めて

法学部の出身である大叔父が東京に行くメリットは?

ちなみに昭和4年の曾祖父の最終本俸が月額75円

昭和17年の大叔父の給料は85円

10年ちょっとのうちにお金の価値は変わったかもしれないが

やっぱり多いように思います





そして、曾祖父は、昭和18年4月に

伏見師団で徴兵された大叔父(曾祖父は大叔父の親)が

同年7月に大陸に渡るまで

伏見師団に通い面会したそうだ

その際に、大叔父本人から

「祭(師団)で機関銃を撃つ」、「通訳をする」と

聞いている

戦争に行ってしまったら

もう2度と会えないかもしれないと

息子に会いたくて伏見師団に通った曾祖父

曾祖父の予感は当たり

息子である大叔父は、親よりも先に帰らぬ人となった





続く…





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ミャンマーに思いを寄せて 678

米沢の大火で焼失してしまった神居家

その後、材木問屋の再建はどうなったか分からないが

結果的には、男の子供達は皆、公職に就き

曾祖父は教師になり、その弟はお坊さんになった

お坊さんになった弟は、成績が良く

飛び級するほどであったらしい

2人とも、当時としては高学歴だったようである





弟については、神居家をご存知の力のある檀家さんが

こんな田舎でお坊さんをしていたらもったいないと

半ば強引に京都のお寺に連れて行ったのだそうです

そして、その後、曾祖父の弟と、その檀家さんは京都で結婚し

弟は、説教師として活躍し、京都の有名なお寺のトップとなった

なんてドラマチックな展開なのだろう





以前、どなたかに、祖父が山形から出て来てお坊さんになった話をした際

昔の田舎から出て来てお坊さんになった人なんか

皆、口減らしだよと言われたのを思い出す

また、ちょっと話が飛びますが、ほんとかウソかは知らないけど

「はないちもんめ」と言う子供の遊びは

花の売り買いの値引き交渉が遊びになったらしい

「勝っ~て嬉しいはないちもんめ」、「負~けて悔しいはないちもんめ」

と、値引き交渉の様子が歌われている

しかし、ほんとうの意味は、花とは人であり

花の売買の単位であった「匁(もんめ)」を用い

人の命の値段は、花一匁しかなかったと言う意味が込められているとか

続いて「た~んす長持ち、どの娘が欲しい」と歌は続く

タンスや長持ちと引き換えに

田舎の娘は、北前船に乗せられて

口減らしのために人身売買されていた

それは山形県の歌だと小さい頃に聞いたことがあった

(北前船関係者及び山形県の皆様、違ったらほんとうにスミマセン)

そして、山形県を舞台としたドラマ「おしん」のイメージもあって

神居家は、相当貧乏で、口減らしのために祖父は山形から出て来たのかと勝手に思い込んでいたが

調べていくと、思っていたこととなんだか違うような気がしてきた



続く



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ミャンマーに思いを寄せて 677

確かに、姉婿はお金持ちであったと思われるが

子供は、6名ほどいて、物資の少ない東京では

それなりに大変であったろう

大叔父においても、お金は持っていたと思うが

食料の調達は難しく、近郊の田舎に買い出しに度々行くようでは

仕事にならないのである

そのためにも、配給を受ける必要があったと思われる

しかし、とても良いタイミングで姉婿宅は

東京に引越ししたものである

学生時代から、大叔父の下宿先として

そして○○大学の理事であった姉婿は

大叔父の今後の身の上相談にも乗っていたであろう

やはり、学費未納による退学理由は

払えなかったのではなく、今後の何らかの予定を見据えた退学だったのではないかと思う

姉婿自体が特務機関と関係があり

大叔父のスポンサーの役割をしていたのではないか

だんだんとそう思えてきた





伯父から譲り受けた遺品は

これだけであったが、伯父から新たな証言も飛び出した

伯父は、母より少し年上であり

昔の記憶を必死に思い出し、協力してくれた

ありがとう、おっちゃん





大叔父は、退学後、神戸の帽子屋さんに勤務していた頃は

京都・伏見の姉婿の家から通っていたそうです

姉婿宅が、いつ東京に引越ししたかは分からないとのこと

大叔父の上京とあまり時期が変わらなかったと思われる





曾祖父のその上の神居家(私から言えば、ひいひいおじいさん)は

山形県米沢市で材木問屋をしていた

しかし、米沢で大火があり、それにより材木問屋は焼失した

それはいつ頃のことなのか

いつか米沢の歴史にも触れなければと思った



続く



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ミャンマーに思いを寄せて 676

大叔父の東京・中野への引越しは謎が多い

まず、昭和18年と言えば、すでに東京に空襲が行われている

祖父のお寺は比較的田舎にあったため

空襲らしい空襲は受けていない

中野も東京の中では少し田舎で

中野区の記録によると空襲はほとんど無かったので軽く考えていたのか

しかし、わざわざ空襲のある都会に引越しするなんて

姉婿においては、中野に家まで構えている

まだ敗戦色は隠蔽されている頃なんだろうか?

なんとなく中野への引越しは、腑に落ちない

大叔父が退学した後も、姉婿は○○大学の理事で

○○日満工科学校は順風で、落ち着いたとは言え

なんで東京に?と言う疑問が残る

今度お会いする、○○大学の100年史担当だった方に

姉婿の在任期間を詳しく聞いてみよう





もし、軍の関係で、大叔父が東京に行ったとしたら

曾祖父&祖父に宛てられた「配給が受けられず、祖父の家で配給を受けていた証明書を至急送ってほしい」との大叔父の手紙は

何を意味するのであろう?

軍の施設で、教育等を受けていたと考えるのならば

食には困らなかったであろう

何故、配給が必要なのか?





その疑問を軍事関係に詳しい人に投げかけると

配給表を持っていることは、一般人であると言う証明書となる

軍人でもない人間が配給表を持っていないこと自体

不自然で怪しい人だと思われるとのこと

ましてや、中野学校や軍に関係して特務活動をしていたとしたら

公然ではないであろうから

秘密裏での接触であり

一般人になりすます上でも、重要な物ではないかと言うのである






なるほどなぁ、そう言った考え方もあるのかと思った



続く



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ミャンマーに思いを寄せて 675

反対に中野学校の線から、派遣先は分からないだろうか?

協力派遣先企業一覧なんてあったらいいのに

もしそんな文書が存在していたとしても

戦後の処理で焼却されているか

現代まで残っていても、世に出てくるはずもない

なぜなら、軍に協力していた企業の中には

今なお成長を続け、日本の経済界を支えている

大企業もあるだろうから

公開出来るはずもないのである

では、大学側からの関係はどうか?

単なる就職斡旋で就職しただけとも考えられる

今度、○○大学の100年史の担当だった方にお会いした際に

聞いてみよう






今のところの大叔父に関する私の勝手な仮説は

学生時代から、市ヶ谷・中野に出入りしていたことや

出兵までの約3ヶ月間、中野に住んでいたことから

東京で、中野学校に関連する

面接及び短期の教育または事前教育を受けていた

もしくは、反対に教育・研究に微力ながら携わっていたのではないかと考えている

本科の学生ではない、かなりレアなケースかもしれないが

特務機関には、軍属だって女性だっているし

大学生がいたって不思議じゃない

学生のうちから目を付けられて

卒業したら、すぐに使えるように事前の教育を受けていたとしても

絶対ありえないとは言いきれないと思うのである





なぜなら、時は昭和18年

南方作戦の全盛期であり

今、まさにインパールに向けて急速に加速している時期であった



続く…



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