ミャンマーに思いを寄せて

亡き母の思いを果たすべく、ビルマで戦死した大叔父の足取りをたどる私の奮闘記録☆

2014年10月

ミャンマーに思いを寄せて 879

大川周明氏と横並びの立場の姉婿

これをどう解釈すればいいのだろう。。。

ある意味、大変なことのように思う

協和会。。。これは、軍事関係でもなく

何なんだろう?どう調べればいいのか分からない





大川周明氏をもう少し調べてみると

2つの気になることを発見した

まずは、大川周明氏のパトロンと言われる人は

大叔父の○○大学で、姉婿と同じ時期に理事をしていた人であった

その理事さんについては、以前に何度も書いたので過去記事を参照して下さい



もう1人の理事さんの過去記事はこちら↓↓

「ミャンマーに思いを寄せて 661」~
http://blog.livedoor.jp/aya_sann/archives/1907777.html





もう1人の理事さんと、大川周明氏の関係は

○○大学に影響はなかったのだろうか?

そして、姉婿と大川周明氏の直接的な関係は?

石原完爾氏ととても仲の良かった大川周明氏

そして、その石原完爾氏とともに事業を始めた姉婿

○○大学と石原完爾氏の関係は

退役後に○○大学で教鞭を執っていることを考慮しても

歴史上でも密であったことが分かる





そして、もう1つ、発見したことは

大川周明氏は「大川塾」と言う塾を開いていたことである

大川塾って何だろう?何を教えてたの?どこでやってたの?




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 878

突然、大川周明氏と言うビッグネームが飛び出した

だからって、大叔父に関係しているとは思えないのだけど。。。

気になったので、もう少し日満の学校について頭の中を整理してみた





大叔父の○○大学に於ける「○○日満工科学校」の他は

秋田と九州・福岡、そして山形の酒田市

秋田は、東京の候補地がダメになり

協和会の東京事務所の委員の縁故により決まった

九州は、適任地と言うことで、協和会側が目を付けて

視察で九州を回っているときに、土地の提供者が現れそこにした

山形は、大川周明氏の斡旋により決まった

では、大叔父の○○大学はどうだったのだろう?





私が時折引用している、他府県の国立の大学の人が研究された

公開資料は、その前に研究した人の資料を元にして

現代になって、改めてまとめられた物であった

古い方の元資料を読んでいると

各学校関係者の聞き取り調査がされていて

事細かに経緯が読み取れた

しかし、大叔父の○○大学だけ

元々どういった経緯で話が来たのか全く分からない

もちろん、当事者の姉婿の証言などは一切残っていないのである





公式な○○大学の歴史では、学長と近くの発電所の社長が

○○日満工科学校を作り、発電所の市長を紹介した人として

姉婿の名前が一行だけ出てくるだけであった

しかし、様々な資料を見ると

ほんとうのところは、姉婿が主導して作り上げたようである





先の資料に姉婿の証言がないのは

姉婿が話さなかったのか、大学側が許可しなかったのか

どのような理由かは分からない




続く…





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ミャンマーに思いを寄せて 877

大川周明氏をざっと調べると

山形県の出身で、満州国建国を支持しインドの独立運動を支援

ビハーリー・ボーズなど反英インド義勇軍の指導者を、一時期自宅に匿うなど

インド独立運動にも大きく関わっている

その他、投獄されていた時期もあったほど

日本の歴史に残る大きな事件にたくさん関わっておられた





う~ん、またまたスゴイ名前が出てきた気配だけど。。。

インド独立運動にも関わっていたって

でもきっと、直接、大叔父には関係ないよね。。。

しかし、また山形だよ~

大叔父は山形出身、石原完爾氏も山形出身

山形の日満工業学校に、山形出身の大川周明氏





それを、私の周りの協力者に伝えると、皆、一様に驚いた

「またビッグネームが飛び出したなぁ!」

「軍人ではないが、ある意味、石原完爾と並ぶほどの政治思想家だ」

と、興奮気味である

えっ?そんなに有名な人なの???

いやいや、だからって、どう関係しているのか分からない(>_<)

これって何かヤバイ???





「また面白い展開になってきたぞ」と協力者達は楽しそうであった

も~、やだ~、私は面白くないってばっっ

変なことにならなきゃいいけど。。。

普通でいいのよ普通で、早く簡単に大叔父さんが見つかれば~(T_T)





続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 876

当時の証言を読むと

熱心な誘致の結果

酒田市に4つ目の日満の技術工養成所が出来ることが決まり

酒田市は大変嬉しい騒ぎとなったそうだ





酒田市は、国家に貢献し、地域活性化のために

学校建設のための土地10,000坪を提供する

近隣地域の日本人の子供からは

募集人員の2倍の人員が殺到した





その誘致を積極的に行ったのは酒田市長であるが

そもそもの協和会とのご縁は何だったのだろうと調べてみた

すると、協和会と折衝し、橋渡し役となったのは

酒田市出身の「大川周明」氏と言う人であった





ふ~ん、大川周明さん?。。。知らないなぁ

そこで、ググッてみると、、、

軍人さんではないけど、あれ?…なんだか、有名人かも?

 しかも、武勇伝たっぷりのかなりの有名人みたい~

えーっと、えーっと、これってどう解釈すればいいんだろう???

何か分からないけど、、、大変なこと調べちゃった?

嫌~な予感がするんですけど(>_<) ひゃー





続く…





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ミャンマーに思いを寄せて 875

1930年代後半から、日本国内において

重化学工業の急速な拡大に伴い

全国的に熟練工の不足が深刻な問題となっていた





日満技術工養成所(後に日満工業学校)は

旧制高等教育機関の一つで

工業に関する専門教育を施した

旧制の専門学校(実業専門学校)である

主に満州に住む優秀な子供を日本に留学させ

教育終了後は、また満州に戻し

技術員・技能者を供給するのが目的であったが

若干名の日本人の枠もあった





満州の子は、修了後は、必ず満州の指定企業に就職しなければ

いけない決まりがあったが、日本人については該当せず

国内でも満州でも好きなところに就職できた

そして何よりも、日満技術工養成所は学費無料で

お給金をいただきながら学べる学校であった





この開設が酒田市に決まれば

今まで教育を受けられなかった地方の貧しい家の子供にも

満州国が支援する準国立の学校で学歴を与えられ

手に職の付く高いレベルの教育を受けさせられる

そして修了すれば、時代が要求している技術工として

良い所に就職できる

その上、酒田市には補助金も出る

ものすごく良い話なのである

酒田市が誘致に熱心だったのはとてもよく分かる




続く…





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ミャンマーに思いを寄せて 874

山形・酒田の開設に至るまでの経緯を調べてみると

他のところとは全く違い

酒田市からの熱烈な誘致によるものだった





さほど産業のない山形県に(山形県の方、ごめんなさい

官民共同とは言え、ほぼ国立の技術員養成所(後に工科学校へと昇格)が

出来たならば、地域の活性化に繋がる

酒田市長は、満州国と酒田港を結ぶ一要素となり

おいては、北鮮航路開通に重要な役割をすると考えた

また、地域の住民も、山形県と満州とが今後極めて結び付く事業であり

山形県の資源をドンドン開発して満州向けの産物を生産し

酒田港との直通航路を築く足かけとなるのではと期待したのである





凶作と世界恐慌のあおりを受けて経済が疲弊していた日本

地方農村地域などは窮乏生活を送らざるを得ない状況にあり

国家は「王道楽土」や「五族協和」などをスローガンに

大々的なキャンペーンが行われ

多くの人々が満州開拓移民となって渡満していた頃である

山形県も例外ではなかったと思われる





そんな時に知った日満の技術工養成所の開設

4つ目の開校に協和会側は、他にも候補地を挙げている

酒田市は、地域住民と山形県知事の協力を得て

一丸となり誘致に懸命となった




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 873

○○大学からは、これ以上の収穫は期待できない

何か別の角度から調べることはないか?





日満関連の学校及び養成所は、○○大学の他は3カ所

秋田と山形の酒井、そして九州の福岡である

1番最初の秋田の開設は、予定していた東京蒲田の

土地の確保が出来ず、東京での開校予定を変更した

その秋田での開設については

満州帝国協和会東京事務所(所長は駐日大使)は

石原完爾氏が最高委員で

石原完爾氏以下5名の委員で運営されており

そのうちの1人のお兄さんが秋田県知事だったことから

秋田が候補地に浮上したそうだ





その次が○○大学で、その次の九州においては

鉱山や鉄工業などが盛んで、元々、教育に関する下地があり

適地だと判断された

そして、最後は山形の開設へと続いていく





大叔父の出身地の山形

石原完爾氏の出身地の山形

何かと出てくる山形県

また日満の学校においても、山形県が出てくる

山形の日満の学校は、何のご縁で決まったのだろうか?

気になって調べてみた




続く…





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ミャンマーに思いを寄せて 872

何を調べたらいいのやら分からないが

とにかく気になることをコツコツと調べ続ける





昨年の夏は、○○大学の件で、汗をかいた

私がバカだったと、それだけで終わらせていたが

100年史担当者とのあれこれは、私とあの方との話であって

大叔父の調査とはまた別の次元である

やっぱり気になって、「日満工科学校」について

もう少しだけ調べてみることにした





日満工科学校に関する過去記事はこちら↓↓

「ミャンマーに思いを寄せて 630」~
http://blog.livedoor.jp/aya_sann/archives/1901941.html


「ミャンマーに思いを寄せて 734」~
http://blog.livedoor.jp/aya_sann/archives/1919871.html





○○大学の理事をしていた大叔父の姉婿

その姉婿主導の元、昭和13年に○○高等工科学校が設立される

それは現在の○○大学の理工学部の前身である

昭和14年には、その工科学校は日満の指定を受け

「○○日満工科学校」となる

その事業は、石原完爾氏が率いる協和会が推進し実行された

そのことから、姉婿は、石原完爾氏と関わりがあるか

協和会関係者ではないかと考えられる





その姉婿宅に学生時代は下宿をしていた大叔父

姉婿の息子さんは、○○大学ではなく

近くの国立大学に通い、大叔父だけが姉婿の○○大学に通う

まぁ、日満の学校を調べても

大叔父個人のことが出てくるとは思えないが

この事業のからくりや、姉婿から

何かしらの影響を受けているような気がするのです





続く…





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季節のご挨拶☆

読者の皆様へ


いつの間にか秋になり、富士山では初雪の観測もされました

皆様、お変わりございませんか?

いつも読んでいただきありがとうございます





気がつけば、もうすぐ900話になろうとしています

今のところ、特に進展は無いのですが

地道に調査を続けていますので

たぶん、きっと軽く900話は超えるだろうと思います

下手をしたら、、、1,000話も???

それだけは勘弁して欲しいです~(T_T)

私が諦めればすぐにでも終われるのですが、それはちょっとなぁ。。。

1,000話も続けば、普通であれば「1,000話記念」なんて

喜ばしいことなんでしょうけど

そろそろ、きっちりとした結末を迎えたいと願っています





現在は、地道に今まで後回しにしたことを

少しずつ調査しています

大叔父から直接話が聞ければ1番早いのです

もう、夢でも枕元でも出てきてくれないかしら?と思ってしまいます

恐がりの私ですが、大叔父さんならまぁいいっか

「そんなにドラマチックじゃないよ(笑)

ほんとうに700km搬送されて、普通に死んだんだってば」と

大叔父と母は天国で笑っているのではないかと思うときがあります





読者の皆様にもいつも応援していただき感謝しています

読んで下さる方がいらっしゃれるだけでありがたく思います

読んでいただいていて、お気づきの点とか

小さなことでも良いですので、何かございましたらお知らせ下さいませ

もう少し頑張ってみます

今後ともどうか宜しくお願いいたします




2014.10.23




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ミャンマーに思いを寄せて 871

「しょうけい館」~戦傷病者とその家族の苦労を伝える~

テーマがテーマだけに、展示されている物は全て

正直、私には重すぎた。。。

内容は、あまり見ていないと思う、ごめんなさい

大叔父のことだけで必死だったのです





今回は、「丸」の名前が出たからか、元々、ここの人が親切なのか

対応は驚くほど良かった

特に、受付の年配の女性は、とても親切で優しい方だった

帰りには、パンフレットなどの資料をたくさん用意して下さっていた

RIMG1640









RIMG1641









RIMG1642










頂戴した、水木しげるさんのクリアファイルと

けいしょう館の絵はがきセットは怖くて使えない~

もちろん学芸員の方も親身に相談に乗って下さった

この場をお借りしてお礼を言わせていただきます

また、いつか、この調査が完結したら

お礼方々ご報告に伺いたい場所の1つとなった





なんだか私が行くことが分かっていたかのようなタイミングで

次から次へと、偶然が重なって、ビックリしたけど

どこからこんな所があると情報をもらったのだったろうと

ふと思い返した

そうだ、2012年に、自衛隊の神町駐屯地に行かれた方が

東京の九段下にある「けいしょう館」で

インパール作戦の特集をやっていると言う

ポスターが貼ってあるのをご覧になって、親切にも連絡を下さったのだ

そして、昨年(2013年)に来てみたが、休館日で

やっと2014年になって改めて来てみたら

偶然にもまたまたインパール特集だったと言うわけだ





もちろん、いつもインパール特集ばかりやっているのではない

ほんとうに偶然なんだよね

だけど、神町駐屯地ってどこだろう???

調べてみたら、、、えっ…山形県!!!ギャーまた山形だぁ

大叔父の出身地「山形県」

何かと出くわす山形県

まだ先祖様のお墓参りが出来てない

ごめんなさいっっっ先祖様m(_ _)m

いや~ん、なんだか、よく分からない偶然が重なりました

ひょえ~、ちょっぴり怖いです、、、(>_<)

私は、運命で、このけいしょう館に呼ばれたのでしょうか?

特に収穫があったようには思えないのだけど

ここでのことが、いつか何かに繋がるんだろうか???





続く…





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ミャンマーに思いを寄せて 870

う~ん、何か解せない

仮に、私の仮説のとおり、大叔父が特務機関に配属されていて

インド国民軍と行動を共にしていたとしても

インド国民軍が、日本軍よりも先に撤退したと言う話は聞いていない

インド国民軍を置いて、大叔父は戦線離脱したのだろうか?

インド国民軍は、インパールに近づき、インド国内に入ってから

日本軍の雲行きが悪くなると共に、イギリス軍に寝返る者が多く出たが

チャンドラボーズ氏が率いるインド国民軍は

日本軍と共に最後まで行動し、必死に頑張るのだ





大叔父がマラリアとアメーバ赤痢で、ほんとうに戦えないほどの重体ならば

テグレパールからメイミョウまでの700kmは、移動出来ないと考える

「テグレパールからメイミョウまで搬送されたと書かれている

兵籍簿は嘘だ」と主張される

おじいさん方や、軍事関係に詳しい先生方の見解が正しいと仮定すると

私の中の仮説は、「テグレパールから搬送されたのではない」となった





大叔父は、60連隊には存在しなかったのにも関わらず

中隊が玉砕した日にテグレパールから

搬送されたこととなっている兵籍簿

仮にインド国民軍と光機関との連絡要員として

インパール付近~メイミョウ間を行ったり来たりしていたとしたら。。。

特務機関の通行証もしくは、命令を持っていたならば

渡河もたやすく出来る

そして、メイミョウに近づいたどこか途中の場所で

病になってしまい、メイミョウの兵站病院に担ぎ込まれた

と言うストーリーならば、全てが丸く収まるのである

しかし、これはあくまで仮説であることには変わりはない





この仮説でいいんだろうか?

判断するには、材料が少なすぎた

でも、この仮説をどうやって証明すればいいのだろう?

とにかく、テグレパールの当時の様子をもっと知りたい

この軍医さんからは、2年前~返事が来ないと聞いて

もう間に合わなかったと諦めた気分になってしまった

取りあえず、帰ったら、すぐに本を買って読もう





続く…





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ミャンマーに思いを寄せて 869

大叔父が搬送されたとされる5月27日は

まだ撤退命令も出ていない

軍医さんが言う「自分で歩いていけ」は

戦線が崩壊する、もう少し後ではないかと思う





後送輸送がまだ成り立っていたとしても

マラリアとアメーバ赤痢ごときの下士官を

兵站病院まで送り届けてくれたのだろうか?

しかもメイミョウまでは700km

確率的には、かなり低いとは思う

撤退命令前なのだから、もし、自分で行くとしても

命令書もしくは、通行書のような物がないと

渡河は出来ない

それが無いと、前線から勝手に下がってきた逃亡兵と

間違われるからである





私が以前にお話を伺った、全ビルマ会のおじいさんの話では

崩壊した後に、弓師団からメイミョウの兵站病院に

自分で歩いて行って4ヶ月かかったと言われていた

大叔父は、いつの時点でメイミョウの兵站病院に

到着したのかは分からない

崩壊前の5月末

自分で歩いて行けるのならば、戦線を離脱させるだろうか?

日本軍は必死に耐え、みんな似たり依ったりの状況の中で

そんな体力があるのならば、戦えと言われるのではないのだろか?

それでも、7月24日にメイミョウの病院で亡くなったのだから

ほんとうに、テグレパールから搬送されて

メイミョウで亡くなったのならば

幸運に恵まれ、良いタイミングで、後送輸送されたことになる





続く…





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ミャンマーに思いを寄せて 868

大叔父が戦線離脱し、病院に搬送されたとされる

昭和19年5月27日

大叔父の中隊は玉砕したのだから

インパール作戦の戦況は、もうかなり悪かったと思う

撤退命令が出るまでは、まだまだだが

後退せずに、飢えに苦しみ、必死に踏みとどまっている状態だろうか





その頃のモーレの野戦病院の状況は分からない

軍医さんが「自分で歩いて行け」と兵隊さんを手放したのは

いつのことだったのか。。。

大叔父が行ったであろう頃は、どうだったのだろう?

まだ早い段階だったので

モーレの野戦病院の後送輸送は成り立っていた?





ただ、何故メイミョウだったのか?

戦線を離脱しなければいけないほどの重体患者で

後送輸送するのであれば

一般的に、最寄りの兵站病院ではないだろうか?

弓師団地区にも兵站病院はあったはず

そちらの兵站病院の方がどう考えても近くて、妥当だと思うのだが。。。

1つの仮説として、弓師団地区の兵站病院を経由して

メイミョウに移管されたとの考え方もあるが、、、





続く…





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ミャンマーに思いを寄せて 867

軍医さんの証言は熱く続く

戦場医療と病院の医療は違うのだと力説された

無菌ではない、バイ菌だらけの戦場医療

平時の病院内のように、学校で習ったまま治療をしていては

患者を死に至らす

戦場では、粗っぽくても取りあえずのことだけやって

後送するのが1番良いのだと言う





ある兵隊さんは、大量出血していた

止血道具が無かったので、はさみの様なカンシで

血管をつまんだままの状態で後送したそうだ

現場では、咄嗟の臨機応変な対応が生と死を分ける

結果、軍医さんが後送した兵隊さんは生き残り

先輩が後送した兵隊さんは、ことごとく亡くなった





軍医さんは、歩兵213連隊隊付き軍医

軍医さんがモーレの野戦病院を訪れた頃には

すでに、野戦病院は機能しておらず

後送輸送は成り立っていなかった

それがいつ頃なのかは分からない

生きる望みのある者には「自分で歩いていけ」と

兵隊さんを手放し、野戦病院から出るようにすすめたそうだ





続く…





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ミャンマーに思いを寄せて 866

軍医さんの証言を元に再現されたジオラマは

正に、このモーレの野戦病院の様子だったのだろう

大叔父もメイミョウの病院に搬送される前に

このモーレの野戦病院を経由した可能性は高い

大叔父が、テグレパールを出た日は

昭和19年の5月27日とされている

その日、大叔父の歩兵60連隊第1大隊機関銃中隊は玉砕した

中隊の生き残りは、わずか3名だけだった





病院に行けと、送り出された日に中隊は玉砕した

偶然なんだろうか、それとも突撃することが分かっていたから

病院に行けと言って下さったのだろうか?

足手まといの病人と言えばそうだし

生きながらえさせてもらったとも取れる





マラリアとアメーバ赤痢のフラフラの体で

戦場を離脱して、たどり着いた先は

傷病者が溢れかえる、地獄絵図の野戦病院だった。。。





きっと、負傷した助かる人を優先して治療はなされたと思う

薬もないのだから、マラリア&アメーバ赤痢ごときの下士官なんて

ほったらかしだったのではないかと思う

大叔父はどうしたのだろう

戦えなくなった挫折感と、病院に来た安堵感と

野戦病院の現実を見て落胆して、行く末に不安を感じたかもしれない

日本を出発して、1年にもならない

大叔父、26才の春のことだった




続く…





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ミャンマーに思いを寄せて 865

涙を流しながら、証言VTRを見続ける

続けて軍医さんは、モーレの野戦病院の話をされた

モーレの野戦病院は、弓師団(33師団)のインパール作戦の

話の中にはたくさん出てくる有名な?野戦病院である





大叔父が病院へ搬送されたとされるテグレパールからも

1番近い野戦病院だ

弓師団正面では、インパール手前で負傷して

運び込まれた兵士のほとんどが

このモーレの野戦病院を利用したと言っても過言ではない





そのため、モーレの野戦病院は

大勢の負傷兵で溢れかえり

機能していなかったと言う証言が数多い





この軍医さんの口からも、その話が出た

ジャングルの中のバラックに寝かせておくだけで

何も手当が出来ない野戦病院

私が聞いた、他の方からの証言からも

バナナの皮を乗せただけのバラック小屋

そして、小屋に入りきれない兵隊さんは、地面に寝かされるだけ

包帯や薬など、医薬品などは何1つとして無かったと言う

外に寝かされた重傷の兵隊さんは、トイレに行くことも出来ず

山の斜面に寝かされて、そのまま垂れ流し





兵隊さんの数が溢れかえって、その斜面さえも何重にも

縦に兵隊さんが並べられる

後から来た兵隊さんや、軽度な兵隊さんは

斜面の上の方に積まれる

動ける人は、出来るだけ下に行かないように

上へと避難する

斜面の下に居るのは、動けない古い人や重傷者

上から流れてくる汚物を受け流し、弱って死んでいく

そう言った話を聞いていた




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 864

その証言の後すぐに、古いカラー映像が流れた

「激しい攻撃を受けるテグレパール」と字幕が出た

私の中に衝撃が走った!!

大叔父が搬送された地点とされるインド・アッサム州のテグレパール

私はインドまで行っていないので、テグレパールを見たことがなかった

地図上では何度も確認したテグレパール

こんなに緑の濃い山が連なっている所なのですね





映像では、テグレパールが攻撃を受けて激しく燃えている、、、

爆撃なんだろうか、砲撃なんだろうか

もくもくと煙を上げて山が燃えている

人影までは見えない、山の様子

きっと、あの炎の下に、あの煙の中に

たくさんの日本兵が居るんだ

攻撃しないで!大叔父さんがそこに居るのよ!

大叔父は、戦病死

病気で亡くなったけど、インパール作戦の戦況の中で

そして、このイギリス軍の猛攻の中で

必死に生きて戦っていたんだよね

大叔父さん、、、大叔父さん、、、涙が止まらなかった





きっと映像はイギリス軍の物だと思う

後で色を乗せたのか分からないが、もうカラー映像だった

それだけで、なんだか負けた気がした

そして、その映像が残っていて、70年経った今

私が日本で偶然にも見ているなんて。。。

悲しくて、悔しくて、何とも言えない気分になった

こらえようとしても、涙が次から次へと溢れてくる




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 863

VTR3本立てのタイトルは

・衛生兵の受傷
・衛生兵のビルマ戦線
・インパール作戦の最前線で

私はボケ~と画面へと見入った

2人目の衛生兵の方は、豊橋の陸軍病院で

衛生兵の教育を5ヶ月受けて戦場へ

「戦友は親兄弟以上であった、別れが辛かった」

「最後まで生きて兵士を助けるのが衛生兵の役目」

と語っておられたのが、とても印象に残った





アッと言う間に3人目の弓・山本師団の軍医さんの証言となった

平成20年に収録された内容

今から5年前かぁ。。。(2013年当時)

軍医さんは、大叔父と同じく大正7年生まれの軍医大尉





地図もない。。。どこに行ったらいいのか分からない。。。

とVTRは始まった

イギリス軍に押されながら、撤退していく最中のことなのだろうか

軍医さんは、北斗七星と南十字星を見ながら

タイへと向かったと語る

そうだよね、、、いつもいつも部隊組織が機能しているとは限らない

あのインパール作戦後の混乱のビルマ

いつもいつも上司がいるとは限らない

特に、大尉と言う階級であったならば

軍医であっても、自ら部下を率いて進まなければいけないこともあっただろう

地図は貴重品、地図のない者は、自然を頼りに

自分の判断で進まなければいけない

出来るだけ最短で、出来るだけ安全な道を選び

出来ることならば戦友の中に、脱落者や犠牲者を出したくない

飲まず食わずの体にムチ打って、遙かタイ国を目指す

私は想像しただけで涙が出た





今、このブログを書きながら「敗走」と言う言葉を使いたくなくて

先の文章には「撤退」と言う単語を当てはめた

そして、作戦が終わっても、日本軍は敗走して逃げ惑ったわけではない

敵を食い止めながら、後退したのだ





続く…





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ミャンマーに思いを寄せて 862

学芸員さんは、私の持参した大叔父の資料が

ナイロン袋に入っているのが気になったようだ

昔の茶褐色の資料が、これ以上悪くならないように

きちんと保存した方が良いとアドバイスを受けて

けいしょう館で使用されている中性紙で出来ている

封筒を下さった

その中性紙で包むと、劣化が防げるらしい

私は、ありがたく頂戴した

さすが学芸員さんだ、資料の保存方法もプロである





戦時中の資料は、ほとんど焼かれたと学芸員さん言う

反対に、江戸時代とか、明治・大正の勝ち戦の場合は

資料が豊富に残っているのだそうです

そして、私が持参した60連隊第1大隊の死亡者名簿を

ご覧になって、「これは軍医がまとめるのですよ」と言われた

軍医さん自身もマラリアにかかり、繰り返すこともあったらしい

軍医さんは不死身のようなイメージがあるが

そうよね、軍医さんでも病気になったり

亡くなられた方もおられたのだろうなぁ

。。。第1大隊の軍医さんは、ビルマから復員された

軍医さんが生きておられるうちにお会いすることが出来ていたら

大叔父の謎の全てが分かったのにと残念であった





学芸員さんにお礼を言って

私はシアターで上映されている証言VTRを見に行った

なんで、こんなすごいタイミングでインパール特集なんだろう。。。

VTRは3本立で、3人の旧軍の方が語っておられた

1人目の証言の途中から見ることとなった

誰もいないシアターを、私は独り占めして見ることとなった





続く…





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ミャンマーに思いを寄せて 861

そして、最後に私がずっと気になっていたことを聞いた

大叔父の兵籍簿では、60連隊の第1大隊所属で

インドのインパール手前のテグレパールと言う場所から

ビルマのメイミョウまで搬送されたことになっているが

大叔父は、60連隊の第1大隊には存在しておらず

しかも、テグレパールからメイミョウまで搬送されることは

ありえないと専門家は口を揃えて言う





兵籍簿から考えられるのは

・たまたま誰も知らなかっただけで、とてもレアなケースでどちらもホント

・テグレパールから搬送されたのが間違い

・メイミョウで亡くなったのが間違い

・どちらも間違い





60連隊には居なかった…でもきっとテグレパールには居たんだよね、、、

それを証明しようと頑張っているが結果は得られない

ならば、メイミョウでもいい、何か大叔父が居た、もしくは亡くなった

確かな証拠は残っていないだろうか。。。

大叔父がほんとうにビルマに存在して、亡くなった証拠や証言

病院で入院して亡くなったと言う記録、大叔父の「カルテ」





もしも、カルテが残っている可能性があればどこにあるのか?と

三宿の衛生学校の学芸員さんに聞いたところ

日本赤十字だと言われた

しかし、衛生学校と日本赤十字は交流がなかった

けいしょう館ならばと伺うと

残念ながら、けいしょう館も、現在はもう交流がないとのこと





噂で、日本赤十字に、旧軍の資料が

大量に残っていると聞いたことがあるそうだ

しかし、手つかずで全く整理も進んでいないとも聞いたと

もしも、日赤に行かれるなら、広報の総務に行かれるといいと

親切に教えて下さった





続く…





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ミャンマーに思いを寄せて 860

けいしょう館の学芸員さんから

オーストラリアにあるアメリカの公文書を探してみては

とアドバイスを受けた

外国の公文書を探すのかぁ。。。

実は、アメリカもだけど、イギリスの公文書を探してみてはと

他の方から言われていた

ビルマの報告書は、戦ったイギリスがまとめたので

アメリカにある公文書の元は、イギリスの文書なのだとか

イギリスとアメリカは、連合国としてある程度、情報を共用しただろうが

全てイギリスが提供したかと言えば、そうとは言い切れない

特に特務機関とか情報関係の美味しいところは

イギリス止まりの情報はあったかもしれない

今となっては、秘密解除で公開されていている文書の中に

大叔父の名前が出てくる可能性は無いとは言えない





もしも、私の仮説が正しいとすれば。。。

下士官であるのと、原隊に居た気配もなく

軍歴を詐称する裏方の仕事をしていたのならば

日本の文書には、ほぼ出て来ないだろう

ただし、インド国民軍と共に行動した通訳下士官として

よその国の文書に出てくる可能性の方が高いと思われる





う~、またまた私にはハードルの高い課題となるのか?

英語なんて分からないし、泣きそうなんですけど(>_<)

学芸員さんは、オーストラリアにある公文書を

現地まで行って調べたことがあるそうです

すごいなぁ、さすが「学芸員」さんだぁ

私は、、、そこまで根性があるのかしら、、、エーン(T_T)





続く…





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ミャンマーに思いを寄せて 859

この弓師団の軍医さんは、けいしょう館を作るときに

大変貢献された方だという

特に、2Fのジオラマは、アドバイスを受けながら作り

とてもリアルなのだそうです





取りあえず、帰ったらすぐにでも

軍医さんの書かれた本を買おう!

本のタイトルをメモした

すると、余分な本が無いか探して下さった

もしあったら、差し上げますと言われた

でも残念ながら、余分な本は無かった

それでも、私は、そのお気持ちだけでありがたかった

ほんとうに心から感謝したのです

けいしょう館の学芸員さんは、それならと

更にご親切に軍医さんのご住所を教えて下さった

ただ、けいしょう館からお手紙を出しているが

ここ2年前~お返事が来なくなったそうだ。。。

ご健在だといいのだけど、、、大叔父と同い年の大正7年生まれ

ご健在ならば96才くらいかな。。。





そして、本題の大叔父の件に話は戻って

やはり学芸員さんは、大叔父を捜すのは厳しいだろうとのこと

私の推論がほんとうだとすると

あまりにもレアなケースだと言われるのだ

そして、残念なことに下士官だったことが

より一層、調査を困難にしている

下士官だと個人名が残っている可能性は低いからだ





ここでは、これ以上の資料は無い

万が一の可能性として、オーストラリアにある戦争記念館の

アメリカの公文書を当たってみてはどうかと提案して下さった

目録であれば、ネットでも事前に探せたと思うと

。。。なるほど、戦勝国に残っている公文書か、、、




続く…





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ミャンマーに思いを寄せて 858

けいしょう館の学芸員さんにおすすめされた

その本は、弓師団(33師団)の軍医さんが書かれた手記であった

60連隊本隊が祭師団(15師団)だったため

当初は、祭師団を必死に調べていた

しかし、途中で大叔父の大隊だけ

弓師団の臨時に編成された山本支隊に編入されていたことを知り

弓師団については、未だに不勉強な部分が多々あった





しかも、しかも、その軍医さんは山本支隊の人だと聞いて

私は飛び上がるほどビックリした

私が漠然と探し求めていた人だ。。。





山本支隊が作戦上の臨時の編成だっただけに

私が探した限りでは、戦友会もない様子であった

60連隊は本来、祭師団なので

大叔父の第1大隊においても、山本支隊の関係部隊とは

その後も交流を持っていたと言う話は聞いていない

ましてや、山本支隊において、第1大隊は屈辱的な扱いを受けたと

思っておられる方が多いので、それも1つの要因だと思われる



山本支隊においての60連隊第1大隊の過去記事はこちら↓↓

「ミャンマーに思いを寄せて 381」
http://blog.livedoor.jp/aya_sann/archives/1851615.html


「ミャンマーに思いを寄せて 533」
http://blog.livedoor.jp/aya_sann/archives/1887002.html





弓師団・山本支隊の軍医さん。。。

けいしょう館の学芸員さんは、続けて

「先ほど2Fでご覧になったジオラマは、この軍医さんのご協力で

インパール作戦の戦場の野戦病院の状況を再現した物です」と言われて

またまた飛び上がるほどビックリして、今度は、寒気がした

ひょええええぇぇぇーーー、さっきのお化け屋敷…いえいえジオラマが

ビルマの…しかも山本支隊の野戦病院、、、うそ~、いやーん(>_<)





今日、シアターで上映されている証言者VTRには

その軍医さんのお話もあると言う

えーっと…何なの~この展開、こんな偶然ってっっっ怖いよ~





続く…





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ミャンマーに思いを寄せて 857

けいしょう館の学芸員さんは

衛生学校の学芸員さんの話を出すと

態度が一変した、、、しかも、良い方向に

実は、衛生学校の学芸員さんは、退官後、ここに就職されたとのこと

「その方でしたら、もうすぐここの職員になりますよ」と言われた

その方の言われることに一理あると判断されたようであった

最初は「公文書を疑いだしたらキリがない」と

半ば相談を断られたが、その後は、大変親身に話を聞いて下さった

内心、とても驚いた

私は、ここでも、またまたご縁に助けられたのだ

それにしても、まさか衛生学校に行ったことが

こんな所で役に立つなんて。。。





私は今までの経緯を話し

個人的・客観的に、専門家としてどう思われるか聞いてみた

すると、やはり「インパールのあの状況では、下士官が

700kmも離れた兵站病院に搬送されたとは考えられない」と言われた

やっぱりそうだよね。。。





こんな本は読みましたか?と

ちょうど図書コーナーで話していたので

インパール関連の様々な本をご紹介いただいたが

そのほとんどを私は既に読んでいた

しかし、1冊だけ見たことがない本があった

それは、弓師団(33師団)の軍医さんの回想録であった

弓。。。大叔父が居たところだ

祭(15師団)60連隊だったのに、作戦上、大叔父の第1大隊は

1個大隊だけ、弓の山本支隊に編入されていた





続く…





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ミャンマーに思いを寄せて 856

シアターでの「インパール作戦」の特集にとても驚いた

もちろん、私が今日ここに来ることは、何も伝えていない

何かの偶然なんだろうけど、心臓がバクバクした





しばらくして、学芸員の方が来られた

例の名刺を出してご挨拶したら

あまりにも変テコな可愛い名刺に驚かれているご様子

いいのか・悪いのか、インパクトありあり!(笑)





館内の入り口付近にある

図書コーナーの机で、お話を聞いていただいた

まず最初に、大叔父の消息を追っているが

お役所に残っていた兵籍簿に(※私は今まで「軍歴表」と表現してきたが

正規には兵籍簿と言うそうなので、以下、兵籍簿と変更)

書かれていることが、どうも真実ではないようなので

それを洗い直している最中だと伝えた





途端に、怪訝な顔をされて、首をかしげながら「それは…」と、、、

専門家の見解としては、当然のことだと思う

正規に残されている公文書が間違いだと相談されても

単に迷惑な話である

以前に行った階行社文庫の専門家の方と同じであろう。。。





しかし、今回は、「丸」の名前も出して

ライターとしての訪問だったため、引き続き真剣に話を

聞いていただくことが出来た

ありがとうございます





その「間違い」だと言う見解は、私個人の判断だけでなく

何人もの先生や軍事関係に詳しい方々からの意見だと言うこと

その中でも、きっかけとなったのは

自衛隊・衛生学校の資料館におられた学芸員さんの

「インパール作戦間で、第一線にいた下士官が

700kmも離れたビルマ国内の兵站病院まで、搬送されることは

考えられない」と証言されたことだったと伝えると

途端に態度が変わった。。。




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 855

お化け屋敷に来たような気分になってしまった

2Fからあまりにも早く帰ってきた私

きっと顔は青ざめていたに違いない

1Fの受付の女性の方も気付いておられたことだろう





まだ学芸員の方は来ておられない

待つ間、1Fを見学する

ここのテーマがテーマだけに、展示物や書かれている内容も

私にはシビアな物が多かった

1Fには、受付の女性の方が常時いらっしゃると言う安心感から

比較的、落ち着いて資料を見ることが出来た





戦場の様子は、映画で見たり、書物で読んだり

おじいさん方から少しは聞いているものの

実際は私なんかが想像を絶するほどの

ずっとずっと悲惨な光景なんだろうなぁ。。。

そして運良く生き残った者も、手足が無くなったり

目が見えなかったりと、戦後も苦労されたことが想像できる





ここは、国の施設であり、展示には、あまり偏った思想が入っていない

その分、素直に受け止め、見ることが出来た

義手や義足の展示から、傷痍軍人に対する国の保証に至まで

大変多くの貴重な資料と展示物があり

体験された方の証言が、丁寧に取り扱われていた





そう広くはない1Fの展示場をグルリと回っていると

中央にシアターがあった

戦場での証言ビデオが放映されている

どんな話なんだろう?と看板を見ると

上映プログラムはちょうど「ビルマ・インパール作戦」であった

えっ?何このタイミング、、、

私は、ここに来ることは事前に知らせていなかった





続く…





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ミャンマーに思いを寄せて 854

なんとなく薄暗く、誰もいない2F

エレベーターの扉が閉まると焦った

なんだか、、、怖い、、、

大切な展示物がたくさんあるのだろうけど

私は見入ることなく、ほぼ素通りしてしまった

とにかく、経路順に進んだ

「戦場での受傷病とその治療」など

様々な展示物がある





途中、真っ暗な場所があった

何かと思いながら、そこに入ると

そこは、野戦病院での状況を再現したジオラマであった

お人形だと分かってはいるものの

今にもうめき声が聞こえてきそうなリアルさ

壕の中に怪我人を運び込む様子や

担架の上で助けを求めるように手を挙げている人

壁にもたれて座り込んでいる負傷兵

1番怖かったのは、台の上での手術風景

数人で押さえ込んで手術している

きっと麻酔も何もなかったのよね、、、





戦場の真の姿なんだと理解しなきゃいけないのに

ごめんなさい、怖くて怖くて、目を背けてしまった

引き返すことも出来ず、進むことも出来ず、泣きそうになった

どうしよう。。。ごめんなさい、ごめんなさいと

私は、その場を逃げ出してしまったのだった





ジオラマを出ても、貴重な資料はあったようだが

私は一目散にエレベーターに走り寄りボタンを押し続けた

ジオラマの兵隊さんが、追いかけてくるような気持ちだった

早く来て!お願い!




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 853

雨の中、資料の入った大荷物を担いで

「しょうけい館」に向かう

九段下の駅からは近かったが

飲み屋がポツンとあるような、路地のような所を通る

…ほんとにここで良かったっけ?不安になる





しばらく進むと、しょうけい館が見えた

PHOTO055







良かったぁ~

しょうけい館は、新しい綺麗な建物だった

ちょっぴり、オンドロしい病院のような建物を想像していただけに

ホッと胸をなで下ろした





私は中へと入った

こぢんまりとした静かな館内

お客さんは私しか居なかった

館内案内の受付で、早速、例の名刺を差し出し

「お話を伺いたい」と言ってみた

すると、大変丁寧な対応で驚いた

名刺の効果か、丸の効果か

こんな対応は初めてだったので、ドキドキした

今まで冷たい対応の所が多かったからだ

学芸員さんを呼びますので、待っていてほしいとのこと





パンフレットをたくさんいただき待つ間

2Fへ行くよう案内された

言われるがままに、入り口を出て2Fへとエレベーターで上がる

2Fには何があるんだろう。。。





エレベーターを出ると、静かで薄暗かった。。。えっ?何これ???

誰もいない、、、間違えた???いや、ここだよね

ヤダ…すんごく何か嫌なんですけど。。。





続く…





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ミャンマーに思いを寄せて 852

九段下にある「しょうけい館」(戦傷病者資料館)

前から行ってみたいと思っていた





しょうけい館とは、戦傷病者とその家族等の、戦中・戦後に体験した

さまざまな苦労についての証言・歴史的資料・書籍・情報を

収集、保存、展示し、後世代の人々にその苦労を知る機会を提供する

国立の施設だと言う





ビルマの兵站病院において戦病死した大叔父

三宿にある自衛隊の衛生学校の資料館では

旧軍のビルマのことはあまり調べられなかった

ここならば、何か分かるかもしれない

大叔父個人のことは分からなくとも

ビルマでのインパール作戦間の傷病者の状況は

きっと資料があるだろう





自衛隊の衛生学校の資料館の案内をして下さった学芸員さんによると

インパール作戦で、インド国内から700kmも離れた

ビルマ・メイミョウの兵站病院まで

下士官が搬送されることなんて、考えられないと言われた

けいしょう館では、どんな見解をされるだろう。。。



自衛隊・衛生学校の学芸員さんの見解の過去記事はこちら↓↓

「ミャンマーに思いを寄せて 490」
http://blog.livedoor.jp/aya_sann/archives/1880129.html





冷たい雨が降る日だった

私は、作りたての「軍事ライター」と言う名刺を持って

九段下の駅に降り立った




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 851

この頃、様々なところに出向く度

名刺があった方が良いのかなと感じることが重なった

しかし、どこにも所属していない私には、何の肩書きもない





いつもお世話になっている人と話していると

「何言ってるの、○○ちゃんは、もう立派な研究者だよ」と言う

えっ?…研究者って、そんなにスゴイのじゃないですっっっ

「いつまでも素人って言ってたらダメ!嘗められるよ」

う~ん、そうなのかなぁ。。。

「実際に丸に掲載してるんだし、ウソじゃないでしょ」

「丸での掲載は、胸を張って言える実績なんだよ」って

でも肩書きなんて無いし…名刺に何て書けばいいの?

「そんなの何だっていいんだよ、軍事研究者でいいんじゃない」って

えーっと、えーっと軍事研究者って、そんなスゴイの~





「丸」の担当者さんにも同じことを話してみた

すると「軍事ライターでいいんじゃないですか?」って

軍事ライター???こんなレベルで軍事ライターって言ってもいいのかな?

「うちの専属ライターと言っていただいてもいいですよ」とも言って下さった

専属ライターって、確かに「丸」にしか載せてないし

その他に載せる予定もないし(載せる物がないし)

専属と言えば専属と言える???

そして、ありがたいことに

どこかに行った際に、「丸」の取材だと言ってもらっていいと

言って下さったので、思い切って名刺を作ることにした





軍事研究者より、軍事ライターの方がしっくりときたので

『軍事ライター』の名刺を作ってみた

軍事ライターをイメージするような名刺って、どんなの???

悩んだ末に、作ったのがコレ↓↓



表(ポスト)裏 (2)







なんか違うけど、まぁいいっか(笑)

早速、これを持って、私は以前から行こうと思っていた

「しょうけい館」(戦傷病者資料館)へと向かった





続く…





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ミャンマーに思いを寄せて 850

「丸」に寄せられたハガキは複数あった

もちろん別々の人からである





しかし残念ながら、大叔父個人の直接的な情報ではなかった

ほとんどが身内に通訳が居たと言うものであった

それでも、情報が寄せられたことを喜んだ

ただ、今まで、ミャンマーを口実に近づいて来られる方に

ロクな人がいなかったのと

相談に乗りますと言う甘い言葉にまんまとハマってしまい

失態を繰り返していたので、正直とても怖かった

素直に信じて良いものか、、、短文からは読み取れない





一行だけのお手紙もあった

「丸」の編集部も、私の個人情報を開示するのを危惧されて

間に入って、橋渡ししても良いと言って下さった

その中で、ご自分の連絡先をきちんと書かれていて

ビルマの通訳をされていた身内の資料がたくさんあるので

パンダジュエリーさんに郵送することも可能ですとの

申し出の方がおられて

「丸」と協議の上、その方に私個人から接触することとなった





大叔父個人の情報でなくとも

同じような境遇の方が実在したことに

何かしらのご縁を感じたのだった




続く…




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