ミャンマーに思いを寄せて

亡き母の思いを果たすべく、ビルマで戦死した大叔父の足取りをたどる私の奮闘記録☆

2014年12月

ミャンマーに思いを寄せて 933

ビルマで通訳をされていた方の簡易な経歴が送られてきた

それによると、この方は大叔父より3才年下の大正10年生まれ

軍属で陸軍通訳だったそうです





昭和14年 ○○学院中学部卒

昭和18年9月 東京外国語学校「ヒンドスタニー語部」卒

昭和19年6月 森第七九○○部隊付

昭和19年10月 ヒィリピンマニラ沖で戦死





当時としては珍しいヒンドスタニー語専攻

現代で言えば、ヒンドゥー語であり、インドの公用語の1つ

ビルマの日本軍にとっては是非とも来てほしい逸材である

森第七九○○部隊とはビルマ方面軍で

ビルマ方面軍付の通訳軍属であったのだ

しかし19年の6月と言えば、インパール作戦は既に負け戦

その後の歴史を知っている私は、もしタイムスリップ出来るのなら「ビルマに行かないで」と言いたくなる

そしてマニラ沖と言うことは、船か何かで戦死されたのだろうか?

手塩にかけて育てた息子が、軍に入って3ヶ月で亡くなった親御さんの気持ちを考えると涙が溢れた



続く…



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ミャンマーに思いを寄せて 932

「丸」の読者様から情報提供いただき

2度も編集部にお手紙を下さった

これは嘘ではないと判断し、こちらからもお返事を出した





最終的には、送られて来た資料はかなりの数となった


141229_233047














私が調査に苦労している様子だったので

手紙を出したと書かれていた

とてもありがたく嬉しかった

「丸」には情報提供が来るのを願ってこれまで掲載してきたので

担当者も大変喜んで下さり

「丸」の編集部にも感謝しなければいけない





情報提供者のお身内の方が

通訳として従軍し、ビルマに行かれたとのこと

私の大叔父と接点があったかは分からないがと

前置きされてから資料を送り続けて下さったのだ





ビルマで通訳をしていた方はきっとたくさんいたであろうが

未だに通訳だった方に実際に出逢ったことはない

情報提供者のお身内の資料から

何か得ることもあるかもしれない

大叔父とさほど変わらない年齢の1人の若者が

ビルマの通訳として歩まれた人生に

私は偶然にも関わることとなり不思議なご縁を感じたのであった




続く …




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暮れのお墓参りにて

読者の皆様へ


いつも読んでいただきありがとうございます

昨日は年末のお墓参りに行ってきました

祖父母や親族、そしてもちろん大叔父のお墓にも

今年1年のお礼をしっかりとお参りしてきました





帰りに伯父のところに寄り

今年1年大変協力してくれたことへのお礼をした

日頃から伯父も伯母も、おしみなく協力してくれていた





その後、伯父と伯母は以前から頼んでいた資料を

出してきてくれた

すると、その資料に挟まって、その他の物がポロリと出てきた

「何か分からないけど」と伯母が出てきた資料を見せてくれた

するとなんと、その中にとっても重要だと思われる

大叔父の資料が混ざっていたのである

以前から、あったらいいのになぁと言っていた

「ビルマからの手紙」が、突然出てきたの~っっ

ギャーーーー!!!

無茶苦茶驚いてしまった

しかも、他には大叔父の遺骨がどうのと言う手紙まで。。。

遺骨って何よ???白木の箱には何も入っていなかったって

言ってたよね???いや~ん何なのコレ???

今まで全く出て来なかったのに

私が行った時に…こんな偶然ってありですか???

もしかして、私がお墓に泣きついたから祖父母や大叔父が

かわいそうに思って助けてくれたのかな?

カナダからの手紙じゃなくて、ビルマからの手紙(笑)





まだじっくり調べてないので何とも言えないのですが

出てきた資料は、大変な物のような気がします

新年が明けた2日には、京都60会の慰霊祭に参加予定なので

そこでおじいさん達のご意見を賜ろう





昨日は、凹んで泣いて、驚いて、ギブアップしかけたけたり

ビルマに振り回されてヘロヘロになった1日でした

また詳しくは今後のブログ本文をお楽しみください

取り急ぎご報告まで



2014.12.28



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ミャンマーに思いを寄せて 931

この頃、ミリタリー雑誌「丸」の読者様より

寄せられた情報に取り掛かっていた






最初は、半信半疑で「丸」にいただいたお手紙に

返事を出すべきか正直悩んだ

何せ、あちらからミャンマーを語って近付いて来る人に

今まであまり良いことが無かったため

最近は慎重になっていた





今回の読者様は、きちんと連絡先が記されており

付属のハガキではなく、編集部宛ての封書で

ビルマで通訳をしておられた御親族の資料を

私が望むのであれば、送りたいとの申し出であった





担当者と協議した結果

安全な人ではないかとの判断で

私から個人的に連絡を取ることとなった

それでもお返事を出すに至るまで

約1ヶ月ほどを要してしまった





果たしてどのような資料なのだろう?

それはきっと大叔父には直接関係がないだろう

しかし、何かしら気付きや得るものはあるかもしれない





この方とは、この後も半年に渡り

文通のような交流が続くこととなる



続く



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ミャンマーに思いを寄せて 930

階行社文庫に何度と通っていたある日

階行社文庫の方と話していて

以前に中野校友会が発刊された

中野学校の本の末巻に付属されていた

卒業生の名簿を見たときに

「不明」と言う文字が散見されたが

どう言う意味なのか分からないと話すと

すぐに本を出して調べてくださった





不明の意味は、生死や行方が不明なのか?

すると、階行社文庫の方は名簿を見ながら

「生死や行方不明ではないですね」と言われた

なぜなら、生死や行方不明の人数は別に記載されていた

課程全体の人数と、卒業者の氏名

そして、生死や行方が分からない人数の他に

「不明」の人数。。。





では、この不明の人数というのは

「誰が居たのか不明と言うことですか?」

と言うと「そうなりますね」とうなずかれた





旧軍は、終戦時に大事な記録や文書などは

焼くように指示が出たとも言われている

中野学校関連の文書などは特に秘匿されたのではないか

終始、仮名を使っていたと言われる中野学校生

本名を誰にも明らかにせぬまま亡くなった卒業生

単独行動もしくは、小隊などグループ全員が

亡くなってしまった場合は誰も知らない事態となる

例え生き残った者が微かに存在を覚えていたとしても

名前が分からなければ、この名簿には決して載らない





以前に、防衛研究所で「旧光機関在籍者名簿」を

発見した時も、500名ほどの機関であったとされるが

名簿に載っていたのは半分以下の氏名であった





これらの名簿は、昭和40年代に作られた物であった

終戦を迎え、必死に生き抜き、やがて平和な時代となり

生活も安定し余裕が出てきた年齢

そして、苦労を共にした戦友を懐かしく思えるようになった頃

各地でこぞって戦友会が盛況で、遺骨収集なども

盛んに行われていた時期





あれからもう50年

記憶を探り、いまから新たに名簿に名前が加わることは

ありえないだろうとのこと

皆がお元気で盛況だった頃に思い出してもらえなかった人は

今後もずっと忘れ去られたまま「不明」とされるのだ





大叔父がその不明の1人かどうかは分からないが

不明の人々があまりにもかわいそうで涙が溢れそうになった

思い出せなかった人達を責める気は毛頭ないが

そんな時代だったのだと片付けるのは悲しかった




続く…




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皆様、良いお年を!

読者の皆様へ


いつも読んでいただきありがとうございます

今年も後わずか、いかがお過ごしでしょうか?

皆様の応援のおかげで本年も調査を続けることが出来ました

心よりお礼申し上げます





ブログは、気がつけば900話を超えていて

このままだとたぶん1,000話は行くと思います

それでもなかなかゴールにたどり着きません

先日、大叔父をご存じではないかと思う方にお手紙をし

昨日、「存じ上げない」とのお返事をいただいたばかりで

途方に暮れながらの年越しとなります





また来年、心新たに頑張ろうと思います

ミリタリー雑誌「丸」では、1月発売号に続きが掲載されます

何か手掛かりが寄せられることを願います





今日から少しばかりお出掛けです

年末年始は、何かと多忙に付き、ブログの更新が遅れたり

携帯からの投稿となる時もありますので

お見苦しい点など、お許し下さいませm(_ _)m





それでは皆様、良いお年を!

来年もどうぞ宜しくお願いいたします


2014.12.26


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ミャンマーに思いを寄せて 929

こぼれ話として、もう1つ書いておきます

松村連隊長の「インパール作戦の回顧」から





インパール作戦が惨敗に終わってしばくした

昭和19年10月中旬

60連隊に大量の補充要員が来た

その数、将校約30名、下士官以下約450名

部隊戦力が激減していた時に

予期せぬ出来事に連隊の皆は大変喜んだ






しかし、その補充兵は、将校は40才を過ぎた召集による老兵

兵は、年若い初年兵ばかりで

内地での教育はほとんどされていない状態であった

そして、全員が元気がなかった

ビルマに来るための長旅の途中で

そのほとんどがマラリア等の病気にかかっていた

ここに着くまでに既に200名が脱落していたとのこと

この時、松村連隊長は一抹の不安を覚えた





教育をしてから第一線に送るのだが

初年兵達に、さすがに白骨街道に横たわる

行き倒れになった屍を見せるわけにはいかないと

松村連隊長は、戦友の変わり果てた遺体の収容を指示した

この姿を初年兵に見せてしまったら。。。





しかし、松村連隊長の気遣いも虚しく

当の補充兵達が次々に屍となってしまった

各大隊に120名前後が補充されたが

ある大隊では、4割がマラリア等で病死

5割がマラリア等で兵站病院へ搬送

結局、残ったのは1割であった

このことからも、急遽召集された兵隊は

戦歴のある古参兵と比べて

いかに体力気力共に劣弱あるかを物語ると書かれていた



続く…



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ミャンマーに思いを寄せて 928

次に期待した本は

『「スバス・チャンドラ・ボース」と光機関』 磯田 三郎

RIMG1944








この磯田三郎氏は、最後の光機関長であった磯田中将だ





光機関のことが書かれている本はあまり無いので

どんなことが書かれているのかとても興味があった

主にチャンドラボース氏絡みの話であったが

後半は、光機関について詳しく書かれていた





光機関の司令部は、光機関前進司令部とも呼ばれ

15軍司令部と同行し、明妙(メイミョウ)を基点としていた

光機関の任務は

大本営・南方総軍と、自由印度仮政府・印度独立連盟・印度国民軍

との共同作戦を円滑にすることを目的とし

両者間の連絡機関であることを主とした任務とされていた





光機関の組織の解説もあり、それぞれの責任者の名前が書かれている

もちろん将校ばかりのため、大叔父の名前は出てこなかった

収穫としては、「共同作戦」と言う言葉と

印度国民軍の主力である第1師団と第2師団の一部は

弓師団の山本支隊の指揮下に入っていたと書かれていたことだ

私が想像していたとおりだった





本来は指揮系統が違うため、印度国民軍が日本軍の指揮下に

入ることはなく、あくまでも共同作戦であるが

磯田機関長は、指揮下に入れたと思われていたのだろう

磯田機関長だけでなく、日本軍は建前は別として

実質、印度国民軍も頭数に入れて山本支隊の編成を考えたと

思えるような編成となっていた




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 927

階行社文庫の方は、その後はとても優しく協力的で

ご自身所有の本まで貸して下さった

不審がって少し尖っていた自分に反省

私が普段お世話になっている先生からも「あの人は悪い人じゃないよ」と

聞いていたので、そうなのかもな~と思ったのでした

わざわざ協力者の先生の名前や、私の素性など関係ないかと

思っていたが、そうでもないのね。。。

最初から、きちんと順序を経て素性を明らかにしていたら

対応も違ったのかも。。。ごめんなさい

まぁ「思い込みの激しいおかしな女性」のレッテルは

なかなか解けなかったように思うが

この戦史と言う世界は、男社会なのかなぁ?

女性が渡り歩くには、まだまだハードルが高い印象であった





階行社文庫の方が貸してくださったのは

「全陸軍甲種幹部候補生制度史」と言う本である

RIMG1952







大叔父は甲種幹部候補生だったが

戦病死し、最終階級は軍曹だった

「幹部候補生で軍曹はおかしい」と指摘されたこともあったが

「予備仕官学校に行く前に亡くなったんだな」と

全ビルマ会の会長さんは言っていた

もう少し生きていたら、予備士官学校に行って少尉になれたのに。。。

もし戦病死でも1階級特進だったとしたら

伍長の時に亡くなったと言える

ただ、全ビルマ会の会長さんは

「この頃には、みんなガンガン昇任したんだよ」とも言っておられて

この頃の昇任について調べてみたかった





そして、中隊最後の生き残りのおじいさんは

自分は甲種幹部候補生で

後輩の甲種幹部候補生の集合教育の教官をしていた

大叔父の期も担当していたはずだが

「そんな人は居なかった」と証言されている件で

大叔父より2才年下のおじいさんが

大学を短縮卒業して、甲種幹部候補生として

どのように昇任されたのか

大叔父との時期的な関係がずっと気になっていた





そこで、階行社文庫の方に相談すると

ご自身所有のこの本を貸して下さったのだ

さすが色々な資料をご存知である

これはとても役に立つと、すぐに私も同じものを購入したのだった

内容はかなり難しいが、とても詳しく解説されている

。。。でも、このような本ばかり買い込んで

私はなんでこんな勉強をしてるのだろうと呆れるときがある

早く結末を迎えて、普通の主婦に戻りたい~




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 926

松村連隊長と北部大佐との交代秘話などは

戦史叢書などには出てこない話である

階行社文庫でお借りして読んで良かったと思った





その他にお借りした本は

「石原莞爾資料目録(鶴岡市郷土資料館)」


RIMG1945









今後、山形を訪れる予定の私に階行社文庫の方が

勧めてくださった1冊である

後日、階行社文庫の方から親切にも、日本で1番と言えるほどの

石原莞爾氏の研究者をご紹介いただいた

軍事史学会の方ではなく、他の学会の先生であった

私は石原莞爾氏の何を知りたいのか

きちんとまとめなければいけない





石原莞爾氏の軍隊での経歴や活躍は有名な話であるが

幼少期や軍隊以外の活動については、調べることに苦労していた

石原莞爾氏は人気があり、きっと研究家は

たくさんおられるであろうと思ってはいたものの

そんな研究家の知り合いもなかった私に

階行社文庫の方は手を差し伸べて下さったのだ

なんとありがたいことか

その上、自分の名前を出して紹介してもらったと

言ってもらっていいとまでおっしゃって心から感謝したのだった





今まで全てを自分で調べてきているが

調べ方も分からず、頭が痛くなることがたくさんある

正直、判明している史実については、その筋の専門家に

聞く方が確実で早いのだ

しかし、そんな知り合いも無く、今回のご紹介はほんとうにありがたかった

今後、山形行きが本格化し

石原莞爾氏のことを真剣に調べる際にお世話になろう




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 925

松村連隊長と北部大佐とは、直接の面識はなかったが

しかし北部大佐の活躍は、満州の関東軍司令部に在勤中に

聞いていて、その人が後任だと知り

内心嬉しかったと書かれていた





北部大佐は満州で、独立守備隊の参謀として

匪賊討伐に活躍し、その名前は全満に轟いていたらしい





北部大佐が匪賊討伐。。。

北部大佐の経歴で、満州の部分を抜粋すると



昭和7年7月  満軍顧問

昭和15年8月  関東軍付

昭和16年6月  北支方面軍付



この経歴では、どの所属でも匪賊討伐をしようと思えば出来るので

どの時期とは特定出来ない





松村連隊長の北部大佐の印象は

「率直で飾らず、豪放磊落な風貌と人柄」と表現されている

ジャングルの中の宿舎で、お土産でいただいたウイスキーを

2人で飲みながら、60連隊が今まで辿ってきた作戦経過や

現況を詳細に語り、引継ぎを終えた

松村連隊長は、やはり後任者は北部大佐で良かったと思ったそうだ




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 924

松村大佐の手記によると

昭和20年1月10日の夕方に突然

後任者である北部大佐が60連隊に来た

北部大佐との交代命令は11月20付であったが

盲腸の術後の回復が長引いた為だったとのこと





盲腸の手術ってどこで施したのかしら?ビルマ?

ビルマだったとしたら、ラングーンの陸軍病院だろう

さすがにビルマはもう危ないのでシンガポールかも?

でも急を要する盲腸だからやっぱりラングーンかな。。。

いや、そもそも盲腸自体が怪しい?

人事発令が出た後に、突発事項が発生したとか

南方軍遊撃隊司令部のやり残しの仕事を片付けていたとか?

なぁんて、どうでも良いことを想像する私(笑)





そもそも、南方遊撃隊司令部はどうなったのか?

インド国民軍と共に、英軍のインド人を寝返りさせる心理効果は

インパール作戦が失敗に終わり、撤退している時にはもう意味が無い

北部大佐が抜けた南方遊撃隊司令部の

最後はどうなったのかわからない

恒久的な司令部ではなく、インパール作戦のためだけに

設けられた臨時の指揮機関だと思われるので

その作戦が終われば任務が終わり

消滅してしまうことは考えられる

光機関は終戦まで残っているのだから問題はないのだろう。。。




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 923

あと、面白かったと言ったら不謹慎だが

北部大佐との交代の時の状況が詳細に記されていた





昭和19年の11月に入ったある日

松村連隊長は祭師団から

自身の異動に関する予期せぬ電報を受け取る

「貴官は11月20日付、陸軍船舶練習部に仰せ付けらる。

後任は光機関付 北部邦雄大佐とす。

但し、同大佐は盲腸の為目下入院中に付、

引き続き部隊の指揮を執るべし。」

松村連隊長は、部隊の立て直しを図り

敵の侵攻に備えていた大事な時期に

異動なんて信じられなかったと書かれている

その後は、インパール作戦を共に戦い抜いた将兵を残して

1人だけ内地に帰る事を嘆きながら、涙の別れとなるのだが

私が気になったのは、北部大佐の盲腸手術だった





北部大佐が盲腸手術って。。。

インパール作戦後の戦場での手術だから大変だったとは思うが

なんだか人間味を感じて、微笑ましいと言うか(ごめんなさい

また1つ北部大佐の一面を収穫したような気分であった

しかも、こんな電報文は見たことがない





そして、年が明けた昭和20年1月10日

北部大佐はウイスキーを持って

ひょこっと60連隊に顔を出したのであった(笑)




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 922

インパール作戦は、ジンギスカン作戦とも言われるほど

牛馬を引き連れて、駄馬として使いながら

最後は食料にしてしまう計画があった

その上、敵から食料をせしめることも含まれていたようだ





松村連隊長の本の中で興味深かったのは

敵から接収した食料は「チャーチル給与」と呼ばれたことは

有名な話であるが

60連隊もイギリス軍の美味しい食料にありついた時があった

そこは敵の補給所だったようだ

食糧倉庫に火を放って撤退したばかりで

まだ手つかずの食料が山のようにあったと言う

乾パン、食パン、チーズ、バター、牛乳

缶詰に様々なタバコ等、豊富な食料。。。

これらを見た松村連隊長は、自分達の携行してきた

貧弱な給与と比べて、「桁違いに優秀」だと驚いたそうである





乾パンや缶詰は分かるけど、食パンや牛乳って、、、

まあ日本食にに置き換えれば

ご飯とお味噌汁の感覚だから

山越えでなく、駐屯していたならそれくらいであっても

おかしくはないのだろうけど

それを目にした当時の日本軍は、驚いただろうなぁ





その他に注目したのは

もちろん大叔父の1大隊の箇所である

第1大隊の部分は、60連隊にいなかったのだから

後に報告を受けて人伝に聞いて書かれたのであろう

60連隊発刊の「2つの河の戦い」と言う本の内容と

あまり変わらなかった





松村連隊長に限らず、偉い方が書かれたりまとめられた

文章には、下士官の名前はほぼ出て来ない

例外なく、もちろん大叔父の名前なんか

出てくるはずもなかった

将校と下士官との差、こんなにも違うのね(T_T)




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 921

歩兵60連隊長 松村大佐の「インパール作戦の回顧」より

中でも1番印象に残ったのは

大叔父の1大隊が弓師団(第33師団)の山本支隊に

配属されたときのことだ




松村連隊長は、作戦の行動間に突然

第1大隊を山本支隊に送り出すこととなった

連隊としては、これはかなりの痛手であったと思う





この時のことを松村連隊長は次のように書かれている

「呉淞港出帆以来幾千、否幾万粁にわたる長途の転進行動

に苦労を共にして漸くビルマに進駐し、今や近く最後の

目的たるインパール進行作戦に、光輝ある軍旗の下に

勇躍参加せんと意気込んでいた矢作なだけに

吉岡部隊(第1大隊)将兵に与えた心理的影響は蓋し

甚大なるものがあった」と最初にあり





次いで「私もまた、出来得べくんば同じ軍旗の下に

全部隊、全将兵が挙って作戦に参加することを熱望した

ことは勿論であって、部隊の戦力発揮の上からも

甚だ残念に耐えなかったのである」と綴られていた





連隊としての痛手よりも、まず最初に第1大隊の者の

気持ちを考えて胸を痛めておられる様子が伝わってくる

「同じ軍旗の下で」と言う言葉が2度も使われており

ここでの別れが最後となった将兵もいただろう

命令とは言え松村連隊長の無念さが感じ取れた




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 920

歩兵60連隊長 松村大佐の「インパール作戦の回顧」より



インパール作戦に伴い、準備や移動に慌ただしい日が続く

私の印象では、祭師団は他師団よりも遅れを取っているので

15軍に急かされて、行け行けドンドンのような雰囲気である





しかし、この頃になると、すでに制空権は無く

アメリカ製の敵機が、我が物顔でビルマ全土に飛んでいた

よって、昼間の移動は難航したと書かれていた

私の頭の中では、このような状況はもう少し先かなと

思っていたが、作戦遂行前からこれじゃ、、、

これほど大きな作戦になぜ日本軍は航空機を使わなかったの?

と、軍事関係に詳しい人に聞いたところ

燃料補給の問題があるとのことだった

なるほど~、確かにビルマまで航空機の燃料を補給するのは

容易いことではないよね

ビルマには石油も産出したと言うが、どれくらいの量かは分からない

しかも、飛行機ともなれば、使う燃料の量は

トラックなどの比ではないだろうし

やむを得なかった事情があったのだろう

しかし、航空戦力がもう少しあったならと残念で仕方ない




続く…





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ミャンマーに思いを寄せて 919

インパール作戦前

タイ~ビルマ間の山間部で、道路工事の命令を受けた祭師団

道路は自動車道を要求された

その距離は400kmを越えるものだった

示された期間は2ヶ月

普通に算出しても1年半ほどかかる

単なる道であったとしても無理難題である

それを幅の広い自動車道を山間部に通すのは無謀であった





それを上層部に言っても聞き入れてもらえず

無理だと分かっていても、とにかく急ピッチで

祭師団は全精力を自動車道建設に注いだ

これは、インパール作戦反対派の上層部の策略で

作戦準備を遅らせたと言う話もある





なぜか、15軍に祭師団はわざと遅れていると思われて

道路工事を途中で中止し、ビルマへと急行したのだった

結果、集結が遅れ、一部は追走する形で

準備も万全でないまま祭師団は

インパール作戦に参加することとなった





いろんな意味で、祭師団は貧乏くじをひいたような形に見える

師団長以下、松村連隊長も含み

指揮官の気苦労は大変だったであろうと

本を読めば読むほど思ったのであった





続く…





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ミャンマーに思いを寄せて 918

歩兵60連隊長 松村大佐の「インパール作戦の回顧」より



昭和18年7月25日に本隊が呉淞港を出発し

約2週間の航海を経て、8月8日にベトナムのサイゴン港に着いた

逐次到着する大隊を待つこと約1ヶ月

9月5日にサイゴンを出発し、次はタイのバンコクを目指した

バンコクへは、主力はメコン河を上り

連隊本部は車両移動であった

カンボジアのプノンペンからは汽車で移動し

9月12日にはバンコクに到着した





約3,000名ほどの部隊が、敵の脅威を受けながら移動するには

かなりの日数を要したのだなと思った

現代の便利な時代であっても3,000名が移動するとすれば

大変な移動となるであろう





バンコクに着いてからは、タイとビルマを結ぶ山道を

自動車道にするよう命令が来た

距離にして、日本の地理に置き換えれば東京~京都間ほどあり

普通に算出すれば、約1年半ほどかかる工事を

2ヶ月で進めるようにとの無謀な命令が下ったのだった





続く…





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ミャンマーに思いを寄せて 917

松村大佐の「インパール作戦の回顧」より



先発隊(第3大隊)が昭和18年7月16日に呉淞港から出発し

※呉淞(ごしょう)とは、当時、上海市にあった地名

連隊長以下の本隊は、7月25日

輸送船8隻により、駆逐艦6隻の護衛の下、仏印に向かう
 
8月8日に、仏印サイゴン(ベトナム)に着いた





すでにその頃は、敵の潜水艦が揚子江河口付近及び

台湾沖に出没していたため

60連隊全体の移動完了はかなりの期間を要したと言われている





中野のおじいさんの兵籍簿によると

第1大隊は、8月17日に上海港を出発したとなっている

大隊により出発時期や港が少しずつ違うのであった

中隊最後の生き残りのおじいさんが言っておられた

「後発組」とは、本隊より遅れて8月に移動を開始した

第1大隊のことなのであろう





それでも、大叔父の兵籍簿は

7月26日に「中支那において上海南京蕪湖付近ノ警備」に就いて

そして、12月29日に揚子江を出発したこととなっていた

60連隊は、蕪湖を4月末に出発しているのに。。。




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 916

歩兵60連隊長 松村大佐の「インパール作戦の回顧」より



昭和18年4月中旬

祭師団(第15師団)は、近く南方に転進することとなっていた

しかし、南方のどこへ行くかは

60連隊長は全く知らなかったそうだ





同年4月末、後任部隊に申し送りを終えた頃

師団には、「呉淞」と言う場所に移駐し、待機するよう命令が出た

命令に伴い、60連隊が今まで警備をしていた蕪湖地区を出発したのは

翌月の5月5日のことであった





この転進は、軍の機密上、極秘裡に行われ

警備の交代や、転進のための諸準備、行動等

一切部外には漏らさなかった

友好的な支那側官憲にはもちろん

格別の厚意と信頼を寄せていた現地の日本人にも一切行動を秘匿し

単に一時期、離れるとだけと伝えて、訓練にでも行くかのように

長く駐屯した蕪湖地区を後にしたそうである





転進を極秘裡に進めたのは、インパール作戦が極秘だったためである

連隊長でさえ、どこに行くのか分からなかったのだ

呉淞での待機期間は長く

6月中旬まで一般的な訓練の他

上陸作戦の訓練などたっぷりと行えた

連隊長がやっとビルマを知ったのは、6月の末であった





続く…





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ミャンマーに思いを寄せて 915

松村大佐の「インパール作戦の回顧」によれば

60連隊は、南方に転進のため

昭和18年の4月中旬から逐次、後任部隊への申し送りが始まり

4月末には概ね申し送りを完了していた





以前に、大叔父の軍歴を見た60連隊のおじいさんは

ビルマ行きは「後発組やな」と言われた

後発組とは何か?と、その時、聞きそびれてしまった

大叔父の兵籍簿では、昭和18年の7月末に大陸に渡り

その年の12月まで、大陸に居たこととなっていた

そのため、本隊は7月末に先発したが、第1大隊だけは

12月まで申し送りをしていたのだろうか?と思っていた頃もあった





そこで申し送りの時期を確かめるために

60連隊から申し受けした部隊の方が書かれた本「遙かなインパール」の

著者:伊藤桂一さんに連絡を取ろうとしたが

残念ながら出版社も、もう連絡先が分からなかった





遙かなインパールに関する過去記事はこちら↓↓

「ミャンマーに思いを寄せて 110」
http://blog.livedoor.jp/aya_sann/archives/1648362.html





しかし、この松村連隊長の本により

申し送りは4月末で完了していたと知った

では、大叔父は何故いつまでも大陸に居たのだろう?

同じく第1大隊の隣の中隊のおじいさんは

第1大隊は皆一緒に移動したと言われていた

大叔父だけ大陸に残っていた???

この春に入隊したばかりの新兵なのに???




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 914

インパール作戦の時の60連隊の連隊長

松村大佐の「インパール作戦の回顧」





昭和18年、昭和60連隊は中支にいた

歩兵60連隊は、大正14年の宇垣軍縮により

上級部隊である第15師団が廃止され、同時に連隊も廃止された

その後、昭和12年に名古屋管区において、再び復活し

翌昭和13年、第15師団が京都で再編され

60連隊は第15師団に編合される





昭和18年7月末には、ビルマへと出発するのだが

私には、いつから次部隊に申し送りしたとか

細部が分かっていなかったため、この本はとても参考になった





本の中では、昭和18年の4月中旬から逐次

申し送りが始まり、4月末には概ね完了していた

その頃、大叔父は徴兵により

京都・伏見師団(第16師団)に入営したばかりであった




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 913


RIMG1943








松村連隊長の「インパール作戦の回顧」を読んでいて

ん?何か読んだことのある内容だなと思っていたら

発刊の際に、祭師団の岡田参謀長に指導受けをされており

岡田参謀長が執筆をされた記述が各所に挿入されていた

私はこれらの記述を                                                                                                        



RIMG1947








「憤死」インパール作戦、痛恨の祭師団参謀長 

と言う本で読んでいたのだ





連隊長であっても、兵団の企図や、師団内の他方面の戦況と言うのは

詳しくはないのだそうである

その部分を特に補う形で、参謀長の記述が適時挿入されている

当初の作戦・任務は分かっているが

戦況の変化に対しての上級司令部が

どう対処しようとしていたのかは

通信連絡が確保出来ない当時の状況においては

十分に把握出来なかったのだろう





戦史叢書やその他のそれぞれの視線での書物・証言などから

知っているつもりではあったが

じっくりと読んでいくと、新たに様々なことが見えてきた

しかし、もちろん残念ながら、大叔父に直接関係するような文面はない





続く…





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ミャンマーに思いを寄せて 912

階行社文庫からお借りした本で

参考としたものをいくつか列挙してみる

まずは1番読み応えがあったのは

60連隊長の松村 弘大佐が書かれた

「インパール作戦の回顧」である

この松村大佐は、インパール作戦間の連隊長だ

私のブログによく出てくる北部大佐は

南方遊撃隊司令部から、インパール作戦に敗れた後に

連隊長になった人である





この「インパール作戦の回顧」は

再版で60連隊が発刊した本であった

初版は、昭和29年、インパール作戦10周年に

自費出版により関係者のみに配布された

その後、追加で京都60会によって複製されたこともあったが

昭和44年に、60連隊発刊の図書「二つの河の戦い」とともに

2つの本で1つと言う位置づけで再版された非売品である





冒頭には、自序として

この本を出版するに至った経緯や

インパール作戦自体が無謀であったこと

多くの部下を失ったことへの部隊長としての反省など

2ページに渡り綴られている

それを読んだだけで、涙が溢れた

この方もきっと苦しんだのだろう

インパール作戦10周年に際し、この方が伝えたかったことを

インパール作戦70周年を迎えた今

じっくりと読んでみようと思った





続く…






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ミャンマーに思いを寄せて 911

階行社文庫に本の返納のために

2週間毎に通う日々が続いた

返納までの間に、本を読んで、必要な箇所をコピーし

次に行くまでに、質問をまとめた





参考になりそうな本はあった

本よりも、偉い方の回想録のような物が豊富にあり

それが興味深かった

さすが階行社文庫だ、よそには無い資料がある

しかし、個人の回想録は、自分本位に書かれていることが多い

特にインパール作戦においては負け戦だったため

言い訳のような記述も見られた

また、後世に残ることに配慮して

良いこと・表に出ても大丈夫な綺麗なことしか書かれていない

そんな印象を受けた





読んでも読んでも、大叔父に関係しそうなことは出て来ない

下士官なのだから当然ことだろう

それでも、どこかに名前が出て来ないかと

1ページごとにドキドキしながら読み進めるのだ

しかし読めば読むほどに、やっぱり無理なのかもと思い始める

私が挑戦していることは、無謀なんだろうか…




続く…




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12月に入りましたね

読者の皆様へ

いつも読んでいただきありがとうございます



ここ数日、急に寒くなりましたが

皆様、お変わりございませんか?

気がつくと、もう12月に入りました

今年もあと1ヶ月を切って、ほんと「師走」ですね





おしらせ「丸」年明け、1月末発売・3月号で

ミャンマー記事の続きが掲載予定です

そのため、ただいまコツコツと原稿を書いています

情報収集のための掲載なので

ほんとうは…長編でなくともいいので

もう少し短期間でコンスタンスに載りたいなぁなんて、、、

欲張りですね~(^_^;)

前回掲載の9月号~、半年も経ってしまいました


m1409[1]













読者様は、内容を覚えておられるだろうか?

それでも、載せていただけるだけありがたいことですよね

「丸」さんには心から感謝しています





さて、先日、騒いでいた新展開の状況ですが

残念ながら途中でストップしてしまいました



新展開の予感の過去記事はこちら↓↓
「ミャンマーに思いを寄せて・速報」
http://blog.livedoor.jp/aya_sann/archives/1946476.html



着眼は良かったと思っています

そして、調べる過程で新たに判明したこともあったので

無駄ではなかったと言えるのですが

様々な絡みや障害に傷つき、疲れ果ててしまいました

今のところ、別の方面から再度チャレンジするかは未定です

また、本文にて、もうしばらくしましたら、書くこととなると思います





あと少しのところまで来ているように思います

終戦70周年の来年こそは、ゴールしたいです

このところ、アクセス数も激減しています

どうか、皆様、今後とも何卒、応援下さいませm(_ _)m



2014.12.6




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ミャンマーに思いを寄せて 910

階行社文庫の方からのメールの返信には

大叔父の名前を捜してみると書かれていた

そして、「疑問・質問等があれば分かる範囲で

お答えさせて戴きます。」とも、ありがとうございます。

お言葉に甘えて、活用させていただきます。





借りて帰った本のうち

「鶴岡市郷土資料館の石原完爾資料目録」については

かなり分厚い本だったが、関係しそうな所をコピーをした

コンビニのコピー機は、フル回転だった

取りあえず拝見したい資料は、行く際にピックアップしよう





チャンドラボーズ関連でお借りした

「ネジタと日本人」、「進めデリーへ」は

一気に読んだが、特に参考になるような物ではなかった

しかし、一般には流通していないような古い古い本であった

たぶん貴重な資料なんだと思う





本の貸し出し期間は最大2週間

近々、また靖国神社に行くことになる

この日から、何度と階行社文庫に行きお世話になったのだった




続く…





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ミャンマーに思いを寄せて 909

靖国神社の階行社文庫を後にした

色々な思いを抱いてここに来た

対応は前回より遙かに良かったが

何とも言えない気分だった

それでも、専門家に相談に乗ってもらえたことはありがたいと思う





帰ってからお礼のメールを送った

今日は、私の素性を少し伝えたが

きちんとした自己紹介は出来ていなかったように思ったため

もう少し詳しく、私の背景や、現在の仕事

このミャンマーの調査を始めたきっかけなども書いた

考えてみれば、昨年は知らない大学講師に連れてきてもらい

この方をご紹介をいただいて、自己紹介をする間もなく

本題に入り、ケチョンケチョンに否定されて撃沈し帰った(笑)

そして今回も、予期せぬあちらさんからの接触で

勢いよく靖国の参道を歩いてきて

速やかに本題に入ってしまったあぁ失礼しました





鼻で笑われた石原完爾氏との関係の仮説については

確かに壮大な仮説だが、関係性や経緯などをもう少し追記し

可能性については、追究の価値があるとの考えを示した





今後の展開は、自分でもかなり難しいと思っているが

真剣に取り組んでいるので

中野学校や光機関関係者、協和会に

詳しい方がいらっしゃったら

どうか気に留めておいてほしいとお願いした





また近々、本を返却に行かなきゃ

きっと、今後もお世話になることがあるだろう

やっぱり感謝しなくちゃね




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 908

他にも色々と鼻で笑われたことはあった

ミャンマーまで行ったのに

行ってから、大叔父が60連隊の祭師団ではなく

他の師団に居たことが分かり

経路が全く違ったことを現地で知ったことについて

調べてから行かないといけないと呆れられた

だって、兵籍簿にも大隊名は書いて無くて

歩兵連隊に大隊があることすら知らなかったんだもの

そんなレベルから始めた素人が

ここまで頑張ってるんだから

バカにせず、もう少し敬意をはらってほしいくらいだわ(笑)





しかし、近々、石原完爾氏の資料館ほかを訪れたいと思っていると

階行社文庫の方に伝えると

下調べとして、階行社文庫にある

「鶴岡市郷土資料館の石原完爾資料目録」から

参考になりそうな資料名を探して

事前に連絡して行った方が良いと教えて下さった

そんなところは、さすがだなと思う

この方は、根は悪い人ではないのだろう





その他にも、「ネジタと日本人」、「進めデリーへ」と言う

チャンドラボーズ関連の図書を貸して下さった

前回は、靖国神社の会員でないと貸せない

入会金は3,000円ですと言われて、借りる気をなくして

半泣きで帰ったことを思い出した

今回も…と思っていたら

「私の名前で貸し出しますから、いいですよ」と言って下さった

そんなことが出来るのなら前回も…と思いつつも

ありがたく図書を借りて帰ったのだった





続く…





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ミャンマーに思いを寄せて 907

今回は、どうにかこうにか私の仮説は

階行社文庫の方に通じたように思えた

しかし、やはり石原完爾氏や大川周明氏の話に及ぶと

フンと鼻で笑われた

まぁ、思い込みの激しい妄想癖の素人と言うことなのだろう

そうなのかもしれない。。。

それでも、仮説を証明していくしか私には方法が無いのです





階行社文庫の方は、何を思ったのか私に

「作り話(フィクション)で書けばいいじゃないですか」と言われた

…どう言う意味かしら???

「プロ歴史研究家だって、みんな『そうじゃないだろうかと』

ほんとうのことのように書いているだけで

歴史なんて、そこに居合わせた人や、当の本人でない限り

誰も分からないのですよ」と言われた

それはそうかもしれないが、そんなことを言われても、、、

私はそれでご飯を食べている人でもない

フィクションでまとめて終わったって、何の意味もないのである

この人、なんてこと言うんだろう、、、(T_T)

そう言えば、○○大学の100年史担当だった方からも

同じようなことを言われたっけ、、、

学会とか何とか気にするプロの人は、みんなそんなものなのかな~

無理だと決めつけて?私のためだと言うのか?

これがプロのやり方なのだろうか

単に、こんな私に付き合わされるのが迷惑なんだろうね

そこまでして諦めさせたいのだろうか、、、

やっぱり、通じていないんだね、悲しい





いつかいつか、大叔父の全貌が明らかになる時がくるのかしら?

もし、ほんとうに私の仮説が立証されれば

歴史の裏側の大きな大きな発掘となることであろう

ちまたでは、永遠の0が話題となっているが

こちらはリアル版の永遠の0である

早く大叔父へとたどり着きたい

それまで、これからも、山あり谷ありだろうけど

諦めずに頑張るしかないのよね

でも、大叔父さん、心が折れそうです





続く…





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ミャンマーに思いを寄せて 906

階行社文庫の方は、おもむろに1つの資料を見せて下さった

それは、60連隊の昭和18年までの戦死者名簿だった

つい最近、偶然、寄贈されたのだとか

アッ60連隊だと思って下さったそうですが

昭和18年までとなると、大叔父は含まれない

大叔父は昭和19年に戦病死したのだ

時折、遺族の方から、このように寄贈それる資料があるそうです

それらを根気良く待つとかでないと

大叔父に関する資料は出てこないと思うと言われた





そして、準備して下さっていた資料にも目を通すと

手書きの歩兵60連隊の部隊史と

石原莞爾氏の年表があった

手書きの部隊史の作成者は、鈴田中佐だった

かわいそうに、連隊長になってすぐに終戦

戦後処置をするために連隊長になったようなものである

石原莞爾氏の年表は、詳しくまとめられていたが

私が1番知りたい、幼少期のことについては3行だけだった

やはり、石原莞爾氏は、軍人時代が華やかのようである





その他には、ビルマ方面軍の編成や

ビルマの地図のコピーをいただいた

ここまでして下さったら恩の字である

どうなるかと思ってここに来たが

なんとか、丸く収まって(?)ホッとしたのであった





続く…





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