ミャンマーに思いを寄せて

亡き母の思いを果たすべく、ビルマで戦死した大叔父の足取りをたどる私の奮闘記録☆

2015年05月

ミャンマーに思いを寄せて 1078

大川塾出身の戦死者14名

全ての故人の写真と経歴、戦死の内容が詳細に書かれていた

ここに載っている人たちは皆、亡くなられたんだぁ。。。

国民服や軍服姿でない写真がほとんど

南国の服装や商社マン風のスーツ姿などの若者





実はその中には戦死でない人も居た

戦死でないと言うより死亡していないと言うべきか

自分の意思あるいは、命令で現地に残った人達である

命令の場合は、いわゆる「残地諜者」である





残置諜者とは、部隊がその戦場を放棄する場合に残置され

部隊が再度その地域を反攻作戦により回復するまで

情報活動等を継続し、部隊の作戦に寄与する任務である

この本の著者であるおじいさんも命令を受けた1人であった



残地諜者に関する過去記事はこちら↓↓

「ミャンマーに思いを寄せて 504」
http://blog.livedoor.jp/aya_sann/archives/1882673.html





終戦の翌々日、昭和20年8月18日

太陽がやっと西に傾き、1日の仕事が終わろうとしていた時

おじいさんは参謀長に呼び出された

参謀長の部屋に伺うと、部屋には参謀長と司令官がおられた

とおとお来たなとおじいさんは思った

参謀長は「戦争は終わった。だが皇軍は負けたのではない。

10年したら必ず捲土重来、米英打倒のために進撃してくる。

お前はそれまで地下に潜って

帝国陸軍必勝の礎になってくれ」と言われた

おじいさんは「ハッ!○○一等兵は、今夜戦死して

帝国陸軍の礎となるのであります!」と即座に返事した

参謀長は「うん、よしよし!それでこそ帝国陸軍のカガミだ

しっかり頼むぞ!さすが大川塾だな」と言ったのだった




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 1077

終戦後、必死に大川塾生を探した連合軍側

そして大川塾生達も収容所では偽名を使ったりして

その追跡から逃れようとする

なぜ大川塾生をそんなに探す必要があったのだろう?

民間のスパイ機関だと思われたのだろうか?

はたまたナチスのような思想集団かと思われた?





大川周明氏およびその一派は思想的に

日本の軍国主義化を主導したと思われたのだろう

連合軍から見て極めて危険思想に値する

大川塾についても、その賛同者を育成する機関

のようなものだと思われたのではないか

言ってみればヒットラーユーゲントのような組織だと

みなされたのではないだろうか





東京裁判では、大川周明氏は唯一民間人で

A級戦犯の裁判にかけられたのも

そのような捉え方によるものだと言えよう





大川周明氏の思想は

簡単に言うと植民地主義を打破しようとする

思想だったために

この思想を元に日本軍が戦ったとすると

植民地主義vs反植民地主義の戦いとなる

東京裁判や欧米が唱えた第二次世界大戦の構図

すなわちファシズムvs自由主義と言う構図を

否定するものである





戦勝国が自由主義陣営ではなく

実は植民地主義陣営となると

その「正義」と唱えるものは、もちろん通用せず

認めるわけにはならない

その結果、大川周明氏とその塾生の思想は

連合軍側にとって不都合であり

歴史の闇に葬らなければならない存在となった





戦勝国が終戦後に行った日本人の思想改革

大川周明氏の「アジア解放」の精神は

軍国主義や天皇崇拝と同等に

連合軍側は非常に恐れたのではないだろうか

その精神をたたき込まれた大川塾の戦士達

どんな奴だろうと血眼になって探し出したら

あどけなさの残る純朴な少年達であった




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 1076

大川塾生の多くは通訳要員として活躍している

しかし配属先により、その使い方は様々である

一般部隊に配属された方の手記には

中隊長伝令として勤務し、中隊長から

「あの壕に行って怒鳴って来い!!抵抗をやめろ!

さもなくば皆殺しにするぞ!と」と言われて敵陣に突撃したとか

他には軍使として敵陣に交渉に行かされたり。。。

だが、この本に武勇伝として載っている方々は

無事に復員された方である

大川塾生と言えど全てが上手く行くはずがない。。。

戦死された方の中には、交渉先で殺された方もいた





終戦後、連合国側は大川塾生を血眼になって捜しまくった

すでにリストのような物があったようである

多くの者は見つかると

収容所ではなく刑務所に移動させられた

尋問では「ドクター・オオカワはどこに居る?」とか

「他の大川塾生の名前を言え」などと執拗に取り調べられた

大川周明氏は日本にいたはず

もうこの頃には病気療養中で

社会の第一線では活躍できる状況でなかったのだろう

それを連合軍側は隠れていると勘違いしたのかもしれない





大川塾生は、皆、知らぬ存ぜぬで、しぶとく口を割る事はなかった

この本の著者のおじさいんも

「ドクター・オオカワを知っているだろ」と言われ

「医者のオオカワなんて人は知らない」と答えたそうだ

相手は「医者じゃない!」と、その繰り返し

語学に堪能だった大川塾生は

通訳を介さずダイレクトに主張した





場所によっては、ご飯を与えられない等の

拷問のようなことをされた者もいたが

大川塾生は現地の人との関係を大事にし

現地の人に対して危害を加えていないため

戦犯で裁かれることはなかった

しぶとく口を割らない大川塾生に根負けして釈放されたり

現地の人が「あの人は良い人だ」と証言して助けてくれたりした





血眼になって探した相手は

捕まえてみたら少年だった

連合国側は大川塾生の低階級とその若さに驚き

「君達はかわいそうだ」と言ったそうである




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 1075

暗号解読班には

大川塾出身者と東大言語学教授と2人が

暗号解読のために徴用されていた





ある日、解読班に50枚ものキャビネ版の

写真が渡された

それはトルコ大使館の金庫の中にあった

書類と思われる

ある雨の夜に、3人の忍者がトルコ大使館に忍び込んだ

戸締まりや金庫の中の書類の盗撮

翌朝には何事もなかったように戻さなければいけない

解読班に持ち込まれた写真には

端々に指の影が写っていた





その写真の中の1枚のみが

田無から送られてくる電文と

日付と文章の長さが一致したのである

トルコの暗号はスラスラと解読されていった

数日後、海軍暗号将校が来られて

解読班の実力に驚嘆され

賞賛の言葉を残して去っていった

そして、精根込めて終戦の前日やっと乱数表が出来上がり

大川塾生だったおじいさんにとって

2度と経験出来ない楽しい仕事であったと締めくくられていた





大川周明氏の掲げたアジア復興の旗印とは

少し違うようにも思うが

おじいさんは与えられた任務を見事に完遂し

お国のために活躍された

おじいさんの懐かしい青春の武勇伝なのである




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 1074

大川塾生に与えられた任務は様々ではあるが

通訳として使われることが多く見られる

大川周明氏の意志を受け継ぎ

高度な教育を受けている

大川塾出身の純朴な少年達は

軍部にとって素直で使い勝手の良い

特別な人材だったように感じた





中野学校の話の中に、日本にあるトルコ大使館に

忍び込んで金庫を開け、中の機密文書を

写真に撮ったと言う諜報活動の話が出てくる

ほんとうかどうかは定かではないが

私も本か何かで読んだ覚えがある

郵便物の封筒をバレないように開ける方法とか

中野学校出身の人は

色々な技術を身につけていたようだ





その続きが本に載っていた

大川塾のトルコ班を卒業した方の話である

その方は、卒業と同時に陸軍特殊情報部と言うところに派遣され

参謀本部内の暗号解読班に勤務を命ぜられた

左右に大国を控えたポーランドやフィンランドの

暗号解読は盛んに行われていたが

ついにアメリカとソ連の暗号は解けなかった

そこで、軍は中立国トルコに目を付けた





トルコは第二次世界大戦最後まで

中立の立場を通した数少ない国だ

東京・ワシントン・モスクワ等

世界の主要都市に大使館を置いて

アンカラと暗号通信をしていた

東京では田無にあった通信隊が

無線電報をキャッチして解読班に届ける仕組みとなっていた

解読班は、井の頭線・高井戸駅の浴風園内にあった




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 1073

更新時間が遅れた~ごめんなさい



大川塾生は大川周明氏が直接育てた愛弟子として

アジア各国に展開し、様々な活動をしている

商社マンや領事館員などからスタートし

時代が時代のため、そのほとんどが軍務に付き

軍属となって、その後、入隊するパターンが多い

中には、その国の義勇軍に入り活動する者も居た





この本を書かれたおじいさんも

シンガポールの昭南通商の商社マンから出発し

シンガポールにおいて光機関の軍属となり

昭和19年5月に光機関の教育隊に入隊し

改めて光機関で2等兵となった





階級は日本軍に入った者は

ほとんどが2等兵からの出発であるが

義勇軍に居た者や任務の必要性に応じて

大尉などの階級をもらうこともあった

大川塾生は、軍部にとっても特別な存在であり

階級は2等兵なのに

階級以上の重要な任務を与えられた

「復興アジアの精神」を持って

純粋にその任務に挑む姿勢に

私は胸を打たれたのだった




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 1072

昨日の記事は脱線ぎみでしたね

おじいさんの本の内容に戻りますね





授業は多岐に渡った(順不同)

フランス語、英語、インド語、ペルシャ語、アラビア語、

トルコ語、現代アジア、植民史、アジア建設者、

国際経済、西洋史、イスラム史、イスラム思想、

回教、マホメット伝、コーランと回教、礼法、

合気道、古式綾小路流雅楽など

それぞれの教科の先生の名前も列挙されていた

そこには○○大学の関係者の名前や

姉婿の名前は無かった





当時でなくとも今でも凄い教育内容のような気がする

大川塾生の出身校は、私が見た限り公立校ばかりの印象

私学の裕福な家の子ではなく

田舎の純朴な子で、優秀ではあるが進学が出来ない子

そんな優秀な子を全国から集め

全寮制で衣食住や授業料は無料で、その上、手当まで出る

日満の工業学校と同じようなに感じた





大川周明氏の壮大な構想は

ここで学んだことを生かし

1年で20名、10年後には200名…

卒業生をアジア各地に赴任させ

「誠実と親切」の種をまき、地域に根付かせる

”復興アジア”がスタートするはずだった

しかし、塾生は時代に翻弄され

実際は卒業即戦地、軍務であり

遂には敗戦を迎えた




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 1071

大川塾には、たくさんの来訪者があった

その中には、先の来賓訓話に出てきた人以外にも

土肥原中将などの大物もおられた

おじいさん達は、その都度、コチコチに緊張しながら

自己申告をしたそうだ





普通であれば、口をきくことなんか

出来ないような偉い方々

当時であれば、なおさらたったのではないだろうか

今で言えば、私が総理大臣に挨拶するくらい

雲の上の話かもしれない

想像するだけで、おじいさん達の緊張が分かる





おじいさんの本の中には

その他に大川塾に来ていた人として

「石原完爾氏」も出てきた

うわぁ~出たーーーー石原完爾氏

こんな所で石原完爾氏の名前に出くわしビックリ

まぁそうだよね、、、大川周明氏と石原完爾氏が

会っていたって当然と言うか普通の話なんだよね

2人が繋がっていることは分かっていたが

直接「会っていた」と言う話が出てきてビビった

内心やっぱり。。。と思ったのだった

具体的にこんなことを話していたって載っていたけど

日本と中国の将来の小難しい話だったので

私はあえてスルーした

読者様ごめんなさいね(T_T)あぁ~

興味のある方は、おじいさんの本を買って下さいまし~





大川周明氏と石原完爾氏の関係に

大川塾と学校関連として同じラインのような

各地の日満の工業学校

酒田の日満の工業学校建設には大川周明氏

その各地の日満工業学校の大元とされる○○日満高等工科学校の

建設には石原完爾氏と

当時○○大学の理事だった大叔父の姉婿

そして大川周明氏のパトロンは

同じく○○大学のもう1人の理事さん



○○日満工科学校関連の過去記事はこちらから↓↓
長いから読むのが嫌になりますよ~(笑)

「ミャンマーに思いを寄せて 631」~
http://blog.livedoor.jp/aya_sann/archives/1902566.html



大川塾にも○○大学が関係していなければいいなぁ。。。

なんだか全くの別物とは思えないが

きっと関係ないよねもうややこしい話はイヤなの~

深みにはまりたくないので、ここはサラリと流そう

気のせい、気のせい。。。

関係してたって私には関係ないもの

だって私は大叔父を探しているだけ

おじいさんに会うための予備知識として勉強してるのだから





続く…





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ミャンマーに思いを寄せて 1070

大川塾の時報は太鼓であった

広い玄関に大太鼓が置かれていた

太鼓を打つのは「学年当番」

「所長当番」は、大きな大川先生の机

難しい洋書和書がびっしりと並んだ書棚

ゆったりした中央の応接セットと広い窓

何もかもが綺麗すぎて

手を触れれば、指の跡に苦労した

気楽なのが、鳥の声を聞きながらの「庭当番」

楽しかったのは「炊事当番」

大きな釜で40人分の飯を炊き上げた

直径1メートルもある大釜をあげるときの嬉しさは忘れられないと

おじいさんの回想が続く





昭和15年には、寮庭には立派な土俵が出来上がった

土俵開きには、井筒部屋からたくさんの力士が参加し

厳正な古流式典が行われた





1期生の派遣先は

仏印、タイ、蘭印、印度

2期生の派遣予定は、アフガニスタン、ペルシャ、トルコ、アラビア

研究所の教室の廊下は、国際通りのようであった




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 1069

来賓訓話に出てくる人達は

私でも名前を知っているような

蒼々たるメンバーだった

大川塾って一体何なの???と思ってしまうほどであった

単なる思想的な私塾じゃないよね…と言う印象





中野学校のように軍人さんではないから

今で言う青年海外協力隊のようにも見えるが

ご時世だったためか、軍部に直結していたように思える





来賓訓話をされた有名そうな方々を列挙してみます

この他にも友人や知人の宗教関係、インド人、中国人なども

多数書かれていました

※訓話日順、当時の階級及び職務



・松井石根大将(当時は前・中支派遣軍司令官)

・東条英機中将(同時は航空総監)

・河相情報部長(外務省)

・松岡洋右氏(当時は前・外務大臣、後の満鉄副総裁)

・ラス・ビハリ・ボース氏

・安部源基氏(警視総監)

・須磨情報部長(外務省)

・井田正孝少佐(第10方面軍情報参謀)




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 1068

大川塾…調査の過程で突然出くわした

全く全貌が分からない。。。

おじいさんの本でかろうじてイメージ出来た

ネットで「大川塾」と検索しても

ほとんど何も出て来なかった

なんであんまり研究されてないんだろう?





中野学校とかは、興味(?)がある人が多い気がするのに

大川塾には興味がないのかしら???

大川塾の卒業生が80名と

少ないためもあるかもしれないけど

しかし、中野学校は秘密のスカウトなのに対して

大川塾は全国の中学校に公募したのだから

秘密でも何でもないのに

それでも分からないことが多いのね





実は何で大川塾を調べているのか

自分でもよく分からないのだけど

行きかがり・成り行きでとしか言いようがないイヤーン

おじいさんにいつかお会いするために

予備知識として勉強しているだけなの

こんな理由で勉強している人なんて居ないよね~





大叔父の年齢等、境遇を考えると

大川塾生ではないと思う

もしも可能性があるとしたら

姉婿や○○大学が大川塾に関係していて

大叔父は事務方や教官サイドで

関わっていたことは十分に考えられる

ページもめくる度、大叔父の名前が出てこないかと

ドキドキしながら読み進めた




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 1067

入塾の日

おじいさんは、お母様と一緒に長野県から出てきた

研究所は見晴らしの良い高台に

建てられたばかりのすばらしい建物であった

合格通知をもらった時に

事前に制服と靴の寸法を知らせていた





おじいさん達2期生が入ってきて

1期生と2期生が1名ずつ相対して

1期生からそれぞれに衣服類一式を渡された

支給された衣類は手を通すのが

勿体ないほど、何もかも真新しかった

田舎から着て来た物は全て脱がされて

お母様が持ち帰った





今日からここで2年間の新たな生活が始まる

昨日までの自分とは他人となって「さようなら」した

大川塾の寮は「瑞光寮」と言う名前であった

寮には寮長の他、小使いさんと呼ばれる人もいた




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 1066

入塾の公募の中学校の推薦は

各県1校、1校1名だったそうだ

条件は、身体的なものから、成績、家庭的な係累が少ない事

秘密厳守を守れる事、親権者の同意など

事細かに厳しい項目があった





第一次試験は、書類選考

第二次試験は、東京での面接

おじいさんは、面接官から「尊敬する人は誰か?」と聞かれ

「西郷南洲です」と答えると

「尊敬する人物を呼び捨てにするやつがあるかっ」と一喝され

その後の事は、何を聞かれたか覚えていないとのこと

落ちたと諦めた

しかし、後日、合格通知が来てとても喜んだ





大川塾とは通称で、ほんとうは「東亜経済調査局付属研究所」

合格通知の送り主は「所長 大川周明」と書かれており

お父様はビックリされたのだそうです

お父様は「日本一偉い人だから、しっかりしろ」と

何度も言われたそうだ

(そうなんだ。。。大川周明氏って、そんな有名で偉い人だったんだと

今更ながら知った私であった




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 1065

大川塾の日課時限は

午前…08:00~08:50、授業は09:00~11:50

午後…13:00~14:50、体育15:00~16:30

入塾した年の当初の1週間の授業内容は

次の通りである

英語8時間、経済原論(英語原書)2時間、

国際事情1時間、経済(世界)地理2時間、

現代亜細亜(大川氏の講義)2時間、

調査(情報)要領(参謀本部より講師)2時間、

国史(寮長の講義)2時間、語学班別外国語6時間





大川塾生の終戦までの各国派遣に対する

学生数(入学時派遣予定)と派遣実績数は

次の通りである

ロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロ

<仏印> 学生数10名 実績22名(戦死6名)

<タイ>  学生数10名 実績13名(戦死1名)

<蘭印> 学生数11名 実績 7名(戦死1名)

<印度> 学生数25名 実績26名(戦死6名)

<アフガニスタン> 学生数10名 実績なし

<イラン> 学生数 9名 実績なし

<アラビア> 学生数10名 実績なし

<トルコ> 学生数10名 実績なし

<台湾> 学生数 0名 実績 8名

合計 予定学生数95名、派遣実績76名(うち戦死14名)




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 1064

前書きには、大川塾について

「大東亜精神は学者の構想によって生まれず

大東亜建設を生命とする戦士の行動の中に

生まれ成長をとげていく

大川塾は復興亜細亜の実践者

掛け橋となる卒業生を毎年20名、計80名を

南方に送った」と書かれていた





おじいさんの言葉として

「勝者敗者のいずれの歴史にも現れずとも

第二次世界大戦の砲火の第一線に

身命を曝した復興アジアを生命とする戦士達の記録を

ここに残ものである」と始まっている




大川塾は寮生活で、その期間は2年間

経費は一切かからず

月5円の手当が支給された

その他に家族や外部の人からの金銭の受取は禁止

修業後は海外各地において

指定の公私機関に勤務することとなる

外地赴任後は、1ヶ年間、日記体で行動を報告し

それによって当人の趣味才能を判断し

その後の調査研究の方向を指令される





待遇保証については、10年間支障なく所定の任務に服し

且つ現地に留まり事業に着手する者には

資金として金一万円以内の補助を行う




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 1063

大川塾出身で元・光機関員だったおじいさんの

書かれた本を読み進めていく

大川塾についてほとんど知らなかった私には

新たに知ることが山ほど書かれていた

上手くまとめられないので

出くわした事柄を箇条書きで書き出していきますね





『大川塾における 大川周明 訓話集』と銘打った

この本の冒頭には、大川周明氏が

大川塾生に説いた言葉が大きく掲載されていた

【「正直と親切」これが一切の根本です。

これが完全にできれば大人物です。

無試験、無競争。

できるだけの事をやればよい。

自分を研け。

己の生活によって、日本人はかくなるものであることを示しなさい。

一人でも、二人でも、魂と魂を結ぶ友をつくればよい。】





硬い言葉の多い訓話集の中で

大川周明氏が若い塾生に対し

優しく分かりやすい言葉で語りかけている様子が

伝わってくるような文章であった

大川周明氏は、時には厳しく、しかし常に塾生一人一人に

大変心遣いのある素晴らしい人格者だったことが

どこを読んでも感じ取れた





戦後の植えつけられたイメージのせいなのか

なんとなく、過激な思想家と言うイメージもあったが

この本を読めば読むほど大川周明氏の印象は変わっていった





続く…





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ミャンマーに思いを寄せて 1062

情報提供者の方から寄せられた

その方の叔父様の出兵に関するたくさんの資料

このご縁は何か意味があるのかも。。。

これらの資料の中に

大叔父に繋がるヒントがあるのでは。。。

何としてでもこの大事な資料を生かさなくちゃ

何か1つでも良い、見いだせる物はないのか?

私は必死にその資料を読んだ





こんなに素晴らしい個人資料は無いと思う

時代背景もとてもよく分かる

大叔父とはまた違うケースではあるが

1人の青年の生き様がありありと見て取れる資料

偶然関わることとなった他の人の資料





軍属で従軍された方には

こんなにも多くの資料があるのね

だけど赤紙1枚で召集された大叔父の資料は

ほぼ何も無かった

特に軍関係の資料は何1つとして残っていなかった

なんでだろう?

姉婿の家にあったであろう○○大学関係の資料は

多少残っていた

しかし、赤紙や訃報の通知などは何も無い

大叔父の留守宅の代表者は兄である祖父となっいて

軍に関係する物は、祖父の元に送られてきたはずだ

祖父の家には、大叔父の父である高齢の曽祖父も同居していた

ゴミのような物でも何でも大切に捨てられなかった祖父の癖

大叔父の資料は捨ててしまったのだろうか?

本当に無いのだろうか?伯父の家にまだ残ってないかな?

いろいろと考える。。。





ただ、たくさん寄せられた資料を前にして

これらの資料から何か導き出さなきゃと焦る私が居た

う~ん…どうしよう…いくら目を通しても、分からない、、、

いつもお手紙で応援して下さって

協力して下さっている情報提供者に

申し訳なく心苦しかった

そして、戦死なさった叔父様にも。。。

自分の無能さが悲しくなった

ごめんなさい、、、ごめんなさい、、、




続く…





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ミャンマーに思いを寄せて 1061

2014年9月

この頃私は同時進行で

数件の調査事項を抱えていた

全部大切な案件だ、早く進めなきゃ、だけど慎重に。。。





その中で1件、ずっと気に掛かっていることがあった

それは、丸の読者様から寄せられた情報提供の件



丸の読者様からの情報提供の過去記事↓↓

「ミャンマーに思いを寄せて 932」
http://blog.livedoor.jp/aya_sann/archives/1954329.html



少しずつ送って下さるその方の叔父様の資料

軍属の通訳としてビルマに派遣され戦死された叔父様





丸を通じて初めての本格的な情報提供

ほんとうに心から感謝している

叔父様の全ての資料が完璧な形で遺品として残っていた

息子を思うお母様の愛情も感じた

資料に目を通す度、涙がいっぱい溢れた





病弱だったことから軍隊に入れず

軍部に何度も懇願して軍属で通訳として採用され

従軍されることになった

しかし、ビルマ方面への派遣途中、船で戦死





学友に従軍出来る喜びを伝えた手紙

その学友の返事からも

当時の若者の熱くて高い志が読み取れた

外国語大学で、一生懸命ヒンドゥー語を勉強された

ノートや成績簿

そして戦死の通知

大叔父と似た環境と年齢で

同じ時代の青年の生きた証

それを託されたような形となった私。。。




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 1060

早速おじいさんの書かれた本を見た

「大川塾における『大川周明 訓話集』」 揺藍社

難しそうなタイトルなのに表紙はとってもキュート

表紙だけ見ると絵本のようで、私でも読めそうな雰囲気

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内容は、やはり私にはレベルが高かった

いくつかのブロックに分かれていて

大川周明氏の日記や、大川塾生の覚書などから

日付を追った訓話集や

時系列で綴られた歴史の背景

大川塾生の証言まで様々だ

大きな見やすい文字でとても読みやすかった

しかし、昔のカナ交じりの文面や

昔の漢字などや言葉を使われているところもあり

一筋縄では読めなかった





訓話の部分は、正直、私には難易度が高かった

大川周明氏がどのような考え方の方で

何をどんな風に生徒達に伝えていたのか

ほんとうは大切なんだろうけど

一言一句を理解するには、100年かかっても無理そう

読みやすい塾生の証言部分を中心に進んでみよう

だって、本来の目的は

大叔父に関することを知りたいだけなのだから。。。

おじいさんにお会いするその日まで

出来る限り勉強してみよう





続く…





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ミャンマーに思いを寄せて 1059

突然の光機関員の出現に

様々な思いが入り交じる





早くお会いして大叔父のことを聞きたいけど

「そんな人は知らない・いなかった」と言われたら

どうしよう。。。

その前に私の人捜しに付き合って下さるかなんて

分からない

私の中では、まだ中野学校も大川塾も

似たり依ったりの世界観

何の信頼関係もない私を相手にして下さるだろうか。。。

雑誌で語っておられるのだから

貝のように墓場まで持って行こうとは

思っておられないのかもしれないが

気難しいおじいさんの可能性もある





冨澤先生が出版社を通して連絡先を

教えて下さっていて、全てお膳立てが整っている

後は私の動き方次第だ

チャンスは何度もないと思う、慎重に。。。

光機関のことは少しは勉強しているが

大川塾については全く勉強していない

まずは、早急に勉強しなくっちゃ

失礼の無いように

おじいさんの書かれた本とDVD

まずはそれから取りかかろう





お年を考えると「また明日」は無いかもしれない

しかし、焦る気持ちより不安の方が増し

私は理由を付けて、なかなか動けなかった




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 1058

冨澤先生から寄せられた

大川塾出身の光機関員のおじいさんの情報

しかも最後の生き残りではないかとのこと

私がずっと探していた人物であった





すごく喜ばしいことのはずなのに…

どんよりと私の中で複雑な感情があることに気付く

嬉しいんだけど…

大叔父の仮説としてずっと追い続けてきた光機関

ダイレクトに元・光機関員が見つかった

しかも最後の生き残りかもしれない。。。

もしもこのおじいさんに「そんな人は知らない・いなかった」と

言われたら、もう終わりだ

次は何を求めて調査を続ければ良いのか分からなくなる

怖い。。。怖いよぉ私、どうしたらいいんだろう





大叔父の部隊である歩兵60連隊のおじいさん達に

「こんな人は知らない・いなかった」と

言われて愕然とした時のことを思い出す

60連隊の足跡を追うように

ミャンマーにまで慰霊に行ったのに。。。

大きな不安につつまれて、私は突然身動きが出来なくなった





続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 1057

インドにおいてチャンドラボース氏は

今日でも大変慕われている

そしてアジアの独立を導いた日本軍に対しても

感謝の気持ちを持っている人がいる





タイのプラモード元首相の言葉が紹介されていた

「日本のおかげでアジア諸国は全て独立した。

日本というお母さんは難産して母体をそこなったが

生まれた子供はすくすく育っている。

今日、東南アジア諸国が、アメリカやイギリスと

対等に話ができるのはいったい誰のお蔭であるのか。

それは身を殺して仁を成した日本という

お母さんがあったためである」





おじいさんは、「我が国ではあまり顧みられない

アジア独立戦争と日本軍の関係だが

終戦70周年に際し、アジア独立のために命を懸けた

先人の心を偲びつつ、その歴史を正しく評価

しなおしていきたい」と締めくくっていた





私はおじいさんの記事を何度も何度も読み返した

出てくる事柄が難しかったのもあったが

知らなかったこともたくさん出てきたからである




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 1056

大川塾出身の光機関員だったおじいさんの

インタビュー記事は、何の説明や注記も無く淡々と流れていく

歴史をご存知の方であれば簡単な記事なのかもしれないが

私にとっては、たった数ページの記事なのに

出くわす一言一句、調べながらの解読となった





おじいさんは、チャンドラボース氏を「閣下」と呼び

大変尊敬されている様子であった

何度かチャンドラボース氏を見かけたが

1等兵だったおじいさんには、雲の上のような存在だったそうだ






チャンドラボース氏とのエピソードとしては

チャンドラボース氏の車が溝にはまってしまった時

おじいさん達がその車を押し上げていたら

「閣下も一緒に押しており、びっくりしました」

「閣下は進軍の時には必ず先頭に立ち

撤退の時には殿(しんがり)を努める

自分だけ楽をするような人ではありませんでした」

と語っておられた





さらにジャンシー部隊の支隊長の手記を引用して

チャンドラボース氏の偉大さを示す逸話が紹介されていた

_________________________


敵機が銃撃を始めて

インド国民軍の少将がチャンドラボース氏に

穴に退避するよう勧めると

チャンドラボース氏は怒って

「ジャンシー連隊の女の子たちが、堀もなくさらされているのに

どうして私がかくれられるか」と言い

突っ立ったまま、煙草を吸い始めた

_________________________


休憩しているときに

チャンドラボース氏に靴を脱いで足を休めている間に

靴下を洗濯しましょうと言った

靴を脱いだチャンドラボース氏の足には

足いっぱいにマメが出来ていて

つぶれて血だらけだった

行軍が始まって、車に乗るように勧めても乗らず

先頭に立って行軍した





続く…





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ミャンマーに思いを寄せて 1055

このジャンシー部隊について私は詳しく知らない

詳しく解説している物もあまり無いと思う

もう少し脚光を浴びても良いように思うのだけど。。。

私もそのような状況であれば

彼女たちのように勇敢に参加出来るだろうか?

同じ女性として、彼女たちに敬意を表したい





この女性部隊をどこでどんな風に

日本軍は訓練したのだろう?

やる気があるとは言え、何かと大変だったのではないだろうか

実際にどのような成果を上げたのか不明であるが

戦闘能力はほぼ無いとしても

「女性だって立ち上がっているんだ!」と言う

宣伝効果としては相当なものがあっただろう

インド兵の投降に影響したに違いない

彼女たちはどんな終戦を迎え

無事にインドに?マレーへ?帰ったのだろうか?





今も昔も女性だけの部隊で連隊単位と言うのは

私は知らない(あるのかもしれませんが

日本においては、戦後の自衛隊に

女性の自衛官が誕生しているが

現在、陸上自衛隊で、ジャンシー部隊と近いのは

「女性自衛官教育隊」くらいであろう

しかし実動部隊ではなく、単なる教育隊で

学生を除くと人員は極めて小規模な部隊である

やはりインド国民軍のジャンシー部隊は

とても珍しいのではないかと思う

何か良い資料があれば、いつか詳しく勉強したいと思う




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 1054

インド国民軍の女性部隊を護衛してしたおじいさん達は

チャンドラボース氏から「ジャンシー部隊の1人も

欠けないように」との命令を受けていた





「昼は木陰や草むらに隠れて夜に行動します。

彼女たちは訓練されていますので

きびきびと行動するのですが

鏡を見ながら髪を整える様子や

朝や晩にインドのお茶・チャイを作って

持ってきてくれる姿などを見ていると

やはり女性なんだなぁと感じることがありました。」

とおじいさんは語る





ラングーンからの撤退で1番大変だったのは

シッタン川と言う、川幅200mもある大きな川を

渡ることだった

川は竹を並べて作った筏(いかだ)で渡るのだが

それを仕切るのは日本軍だった

女性部隊だからとなかなか渡河させてくれず

チャンドラボース氏が頼み込んで

やっと渡河させることが出来たそうです





なかなか渡河させてもらえなかったジャンシー部隊

戦場で「女性の軍人」を扱うことに

慣れていなかった日本軍

初めてジャンシー部隊を見たときは面食らったであろう

当時の日本の風潮として男尊女卑もあったのかもしれない

日本軍を優先して渡河させた気持ちも分からないではない

敵である英印軍のインド兵に痛めつけられて

インド国民軍であるこのインド兵は友軍だと言われても

正直、同じ顔のインド兵に対して複雑な感情が

あったとしてもおかしくはない





インドを含めたアジアの解放の大義名分は分かっていて

インド国民軍の存在を知っていたとしても

戦場でインド国民軍のことをきちんと理解していた日本兵は

多くはなかったのではないだろうか。。。

ましてや、チャンドラボース氏がすごい人だなんて。。。





続く…





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ミャンマーに思いを寄せて 1053

その後、おじいさんは昭和20年4月中旬ごろ

シンガポールのバトパハ士官学校を卒業する生徒を連れて

光機関本部のあるビルマのラングーンへ行った





インパール作戦に敗れた日本軍とインド国民軍が

次々と引き返してきているところだった

おじいさんは、インパール方面には行けず

ラングーンから一緒に撤退したのだった




おじいさんは撤退時にインド国民軍の

女性部隊の護衛をしたこともあった

インド国民軍の女性部隊は、世界史上初の

婦人正規軍連隊だそうで

在マレーインド人の良家のお嬢さん達が志願し

約600名もの部隊だったそうです


RIMG1164





↑以前に私が購入した雑誌に載っていた写真




ジャンシー部隊と呼ばれたこの部隊の正式名称は

「ラニ・オブ・ジャンシー部隊」と言い

昔、セポイの反乱の際に、ジャンシー国のラニ女王が

前線に出て指揮を執ったと言う歴史話があり

それにちなんでチャンドラボース閣下が

名付けられたとおじいさんは語っている



※『セポイの反乱』とは…

1857~1859年の間にインドで起きた

イギリスの植民地支配に対する民族反抗運動

現在ではイギリス側の呼称として「インド大反乱」と

呼ばれているらしいが、インド側では「第一次インド独立戦争」

と呼ばれている



『ジャンシー国』、『ラニ王女』とは…

セポイの反乱での激戦地

英語読みでは、ジャーンシー藩王国で

そこの女王様が(英語読みで?)「ラクシュミー・バーイー」と言う

勇敢な女王様で、最後は狙撃され戦死

「インドのジャンヌダルク」と呼ばれている




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 1052

おじいさんの言われる「ニースンの奇跡」とは

昭和16年12月に始まったマレー作戦において

ニースンと言う場所で起こった話のようだ





参謀部付の通訳であった国塚一乗少尉の手記から抜粋すると

(※この国塚一乗氏は、インド兵の扱いに富み

マレー半島での活躍が藤原機関長の藤原中佐の目に留まり

藤原機関の所属となった人物である)



昭和17年2月13日

英軍を撃破しつつマレー半島1千キロを南下し た日本軍は

いよいよシンガポールを望むジョホールバルに陣取って総攻撃を始めた

英軍の主要抵抗線の一つであるニースン兵営では

英軍のインド兵が必死の抗戦を続け

日本の近衛師団の猛攻にも関わらず、戦局は動かなかった

この状況を見て、インド国民軍の工作隊長アラ・ディッタ大尉は

単身、英印軍一個大隊の最前線へ乗り込んでいった

しばらく前方を睨んだ後、急に意を決して、身体をかがめて走り出した

「危ない! 撃たれる」と日本兵が思った瞬間

大尉は仁王立ちになって、大音声で叫んだ

「友よ。撃つな。俺は第22山砲連隊のアラ・ディッタ・カーンだ。

日本軍はわれわれを殺さない、われわれの友人だ。戦闘を止めろ。」

意外な同胞の呼びかけに、敵陣は一瞬、射撃を止めた

この機を、彼は逃さなかった。

「俺たちは、インド国民軍を作った。日本軍は味方だ。

敵ではない。マレーには数千の同志がいる。

さあ、俺のところに来い。」

アラ・ディッタ大尉はポケットからインド国旗を出して

力一杯降り続けた

敵陣から2、3人が飛び出してきた

それに遅れまいと、多くのインド兵が続いた

ニースンの兵営の上に白旗があがった。





国塚一乗少尉の証言からすると

英印軍は大隊長のみがイギリス人で

中隊長以下はすべてインド人だった

投降するインド兵達を見たイギリス人の大隊長は

降伏を受諾するしかなかったようだ

イギリス軍はニースンの出来事に懲りて、白人兵のみで抵抗を続けた。。。





続く…





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ミャンマーに思いを寄せて 1051

昭和16年

おじいさんはペルシャに赴任を言い渡されたが

もうペルシャには行けず

まずは南方総軍のあったサイゴンに行き

いずれインドからペルシャへ潜り込もうと機会を伺っていた

それからシンガポールにあった昭和通商の社員となり

光機関の軍属としてバトパハ士官学校に派遣された





昭和19年5月

徴兵検査の通知が来て

今度は、陸軍2等兵として引き続きバトパハ士官学校で勤務

バトパハ士官学校では、英印軍のインド兵に対して

教官として教育に携わった





3百年に亘ってイギリスへの忠誠心を教え込まれた英印軍に対し

彼らの祖国であるインドへの愛国心を叩き込む役割だった

「我らは独立インドの旗の下で死ぬんだ。出て来い」

「祖国インドのために戦おう」と呼びかけると

インド兵は次々と陣地から飛び出して仲間になった

これが「ニースンの奇跡」です

とおじさいさんは語っている





「ニースンの奇跡」って何だろう?と調べてみた

またまた寄り道だろうけど、分からないことはとりあえず調べてみる

勉強して損はないだろう。。。たぶん、きっと





続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 1050

雑誌の冒頭では、「光機関とは、陸軍中野学校卒の特務将校を

中心にインド国民軍の特務班、情報隊、大川塾卒業生など

によって編成されており、工作班・情報班等に分かれていました。

インド国民軍のチャンドラ・ボース主席との連携、また敗戦処理の

役割を果たしました。」と書かれていた





光機関がする敗戦処理って何だろう???

インド国民軍についての対処だろうか???

負けた日本軍が出来ることってあったのだろうか?

敗戦後、日本軍と共に戦ったインド国民軍はどうなったのだろう?

チャンドラ・ボース氏が事故で亡くなられたこと以外

私は何も知らない。。。

同じように収容所に入れられて、戦犯で処分されたりしたのだろうか?

多くの旧日本軍の人は、日本に復員したけど

インド国民軍はインドに帰ったのかな?

しばらくしてインドは独立出来たけど

それまでは連合国側にとっては

日本軍と共に戦った邪魔な存在だったように思う。。。





インパール作戦の失敗で、撤退して行く日本軍

弓師団の山本支隊長の手記によると

インド国民軍に分け与える食べる物も無く

「貴方たちはインド人だから、これ以上日本軍に付き合わず

英印軍に頼めば入れてくれるだろうから、インドに帰りなさい」と

言ったそうです

それでも、インド国民軍は最後まで日本軍と一緒に戦うと言い

白骨街道の運命を共にしたインド国民軍の兵隊さんも多かった





そんなインド国民軍を直接支援して、共に戦った光機関

「特務機関」と聞けば、失礼な言い方だけど

ちょっぴり胡散臭いと思ってしまう私

中野学校も大川塾も、一まとめに思っていた

でも、中野学校の人は軍人さんで、年齢的にも大卒以上が多い

それに比べて、大川塾生はもっと若く

戦争と言う背景があったため、軍に属したこともあったが

最初からの軍人さんではなかった

大川周明氏の壮大な構想に触れて

大川塾は私の思っていた印象と少し違うのかもと思ったのだった




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 1049

おじいさんは、ペルシャに行くはずが

いけなくて、ベトナムのサイゴンに行った

そして、シンガポールの「昭和通商」に行った

昭和通商はある意味、歴史的に有名だ





昭和通商については、ウィキペディアから引用して簡単に説明すると

昭和14年に民間の組合を改編し

岩畔大佐が主導して設立された半民半官的な軍需国策会社である

業務上の指導・監督権や人事権を陸軍省が一手に握り

陸軍の施策に準じて商行為を行った

世界各地に支店を持ち

正社員三千人、現地臨時雇用を含めると六千人にも及ぶ

巨大組織であった

表向きは民間の商社として活動し

その実態は現地で情報収集など諜報を行っていた





作ったのは岩畔大佐。。。F機関→岩畔機関→光機関の

岩畔機関の岩畔大佐であるデター!

その上、先に出てきた神本利夫さんも昭和通商の嘱託だった、、、

正直、大川塾・昭和通商・光機関って、うわぁ~ドロドロと思った(笑)





昭和通商には調査部もあった

なんとなく私個人の印象では、満州は満鉄、南方では昭和通商

と言ったところか





続く…





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ミャンマーに思いを寄せて 1048

昭和16年に大川塾を卒業したおじいさんに

言い渡された任地は「ペルシャ」であった

しかし、もうその頃にはすでにペルシャに行くことは

出来なくなっていたため

おじいさんは、ひとまずバンコクに行き

機会を見つけてインドに潜ろうと考えていた





ペルシャ…って知ってるけど、どこだっけ?

ペルシャネコ、ペルシャ絨毯。。。

ペルシャは現在のイラン

イランってアジア?アジア大陸って言えばそうだけど…

ビルマの向こうのインドのこれまた向こうの向こう

と言うことは、、、大川周明氏のアジア復興の構想は

日本軍が考えるアジアの地域よりも

もっともっと壮大な範囲だったのですね





それを実行した。。。

残念ながら、おじいさんはペルシャまでは行けなかったが

2年間、大川周明氏の教育を受けた塾生達は

おじいさんを含め、アジア各地で活躍したことだろう

大川塾の卒業者達は、具体的にどんなことをしたのだろう?

10年間現地に留まる約束も終戦と共にどうなったのだろう?





続く…





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