ミャンマーに思いを寄せて

亡き母の思いを果たすべく、ビルマで戦死した大叔父の足取りをたどる私の奮闘記録☆

2015年06月

ミャンマーに思いを寄せて 1106

狐につままれた前回のお役所訪問から早1ヶ月半

手元には届いた兵籍簿のコピーがある

もうどんな文書であろうが

何が書かれていても冷静に受け止めるぞ~

この際、何でも来いっっ!!て感じだわ(笑)





大叔父の兵籍簿関係の書類は合計4種類

行ったら更に増えていて4種類で計7枚となっていた

まぁ増えたのだから嬉しいと言うことで

個人の兵籍簿が無くて、1行だけで連名の人もいる中

7枚も書類があるなんて恵まれているんだと思う

・戦時死亡者調書 2枚
・死亡証明書    1枚
・兵籍簿らしき物  4枚


RIMG0121









書類の中で、証明者や係の者などの氏名は目隠しされている

これも個人情報保護法の一環らしい。。。

原本を見て氏名は控えてきたからいいけれど

なんだかなぁと思うのであった





直ぐさまお役所でお世話になった方からお電話が来た

お礼のお手紙とお菓子が届いた電話だな

だがお菓子は受け取れないことになっていますとのこと

「気持ちですから」と言ったが

決まりなのでどうしてもダメだと言われる

「では返送したことにしてお家で召し上がってください」と言ったが

大変恐縮されながら「返送させていただきます」と

あらあら、ほんとうに誠実で真面目な方でした

さすがお役所の方だわ





しばらくして返送されてきた荷物の中には

お手紙が入っていて

規則で受け取ることが出来ないと謝っておられて

私からの手紙が嬉しかったので大切にすると言うことと

「調査の進展を心よりお祈りしております」と締めくくられていた

私は目頭がジーンとなった

調査が完結するように頑張らなきゃ

やる気が出たぞーーー(^^)/ファイト





続く…





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ミャンマーに思いを寄せて 1105

大叔父の姉婿の末娘のおばあさんとの電話は

埒が明かない状態が続き

あまり収穫には繋がらなかった

期待していただけにとても残念であった

まぁ、適度に今後もお付き合いしていこう

また何か思い出して下さることもあるかもしれない

おばあさんお元気でいて下さいね、気長に気長に。。。





そんな時、やっと地元のお役所から

待ちに待った大叔父の兵籍簿のコピーが届いた!

夏にお役所を訪れて、見た事もない書類が出てきたり

日付が違う(ように思う)書類があったりと

あまりにも動揺して泣きそうになったことを思い出す

狐につままれたまま…

取りあえず帰ろうと、帰ってきたのだった





後で送られてくる兵籍簿を落ち着いて家で見れば

また何か発見があるかもしれないと思った

ほんと何かよく分からないのだけど

コレしか無いって言うんだからしかたないよね





複製ではなく、原本のコピーをいただけて

私としてはそれだけで満足であった

中身が入っている事だけ確認した

担当して下さった方がとても親切であったため

地元のお役所にお礼のお手紙とお菓子を送った





続く…





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「丸」掲載のお知らせ

読者の皆様へ


いつも読んでいただきありがとうございます

梅雨時期の肌寒い日が続いていますが

皆様、お変わりございませんか?





昨日発売のミリタリー雑誌「丸」にて

『大叔父の足跡を探した心の旅V』として

記事が掲載されましたわーい

本の最後の方にチョロッと載っています(^^)/

71-bCNUclKL[1]













お情けで載せていただいている記事ですので

ドンドン文字数も削減されて、肩身が狭いですが

文末に遂に「特務機関」と言う言葉が出てきましたので

次回よりググッと濃厚な記事になるかと思います

これで何とか読者様に興味を持っていただき

情報提供に繋がればと願っています





ブログの読者様もどうか応援下さいませ

もし「丸」をご購入されている方がおられましたら

綴じ込みハガキで「大叔父の足跡を探した心の旅V」が

良かった!!と感想をお寄せいただけると

とってもとっても嬉しいです(*^_^*)





調査の現状は、大きな進展はありませんが

まだまだ私の掌握できていない資料がたくさんあるため

根こそぎ調べ尽くそうと奮闘中!

心強い味方も加わり、エンジンがかかってきました





東北の方では、昨日、梅雨入りしたと聞きました

まだまだ不安定な気候が続きますが

どうぞ皆様ご自愛のほど

いつもありがとうございます・感謝



2015.6.28



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ミャンマーに思いを寄せて 1104

おばあさんに核心である質問を色々と投げかけてみた

姉婿が中野を引っ越し先に選んだ理由は

分からないと言う。。。

それどころか、中野に引っ越しした後も

京都・伏見のお屋敷があったこともご存じなくて

その上、お父様である姉婿が

実際、どのような事業をしていたのか

全く知らないと言うのである(>_<)なんで~





「たぶん…母も詳しいことは知らなかったと思うわ」と言う

20才も年の離れた奥さんには

何も話していなかったと言うことか…

昔の男性って、仕事の話とか家でしないのかな。。。





気を取り直して、私は話題を変えて

「お父様の来客には、どんな方がおられましたか?」

と聞いてみた

石原完爾氏が来ていたとか、大川周明氏が来ていたとか

その他、有名どころの軍人さんや

○○大学の関係者など、色々と想像出来る

すると「部屋数が多かったから、客間に誰かが

来ていても、私の部屋からは分からなかった」と言われた

あーー、これもダメかぁ

何を聞いてもこんな感じだ、、、ほんとかなぁ





それでも私は粘った(笑)

「大叔父さんはおしゃれだと聞いていますが」と切り出した

○○大学を退学してから、神戸の帽子屋さんに就職した大叔父

伯父が言うには”ハイカラ”だったらしい

するとおばあさんはケラケラ笑いながら

「達さんはおしゃれじゃなかったわよ」と

伯父が見たら”ハイカラ”に見えたけど

優雅な暮らしの東京住まいのおばあさんから見れば

単なる田舎者に見えたのかもしれない





「中野での達さんと言えば

お風呂に入っていたことくらいしか思い出せないわ」って

えーっと、えーっと…それだけですか(T_T)

おばあさん頼むよ~





続く…





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ミャンマーに思いを寄せて 1103

大叔父の姉婿の末娘であるおばあさんとの電話は

なんやかんやと続く

大叔父のことを絡めながらの昔話





大叔父が出兵した昭和18年には

おばあさんは13才

大叔父はその頃、東京・中野の姉婿の屋敷におり

きっと電報か何かで知らせが来て

臨時応集と言う形で京都の伏見師団に入営した

その時のことを覚えておられないか尋ねたが

おばあさんは覚えていないと言う





では、大叔父が東京・大森で仕事をしていたことは

ご存じかと聞いたが、それも知らないと言う。。。

じゃあじゃあ思い切って

「お父様は中野で何のお仕事をさていたのですか?」と

聞いてみた





昭和13年に姉婿の電力会社は国に接収され

建前は共同出資という形ではあるが二束三文だったらしい

他にも秋田に金山を持っていたと聞いているが

中野って何だろう?と思うのである

中野って、今は便利になったとは言え

昔はそうでもなかったろうし、そんなに都心じゃないし

昭和13年なんて本土空襲がどうのって時期じゃないし

どこから中野に家を買うとなったのか不思議であった





続く…





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ミャンマーに思いを寄せて 1102

どうにか大叔父の話題に持っていこうとする私

しかしおばあさんは、その他の話がお好きな様子

「(親戚の)○○さんはお元気かしら?」と

いつもの調子である





「達(とおる←大叔父の名前)さんは叔父さんなんだけど

私達は”とおるさん”って呼んでたの

年も近かったし、叔父さんって雰囲気ではなかったわ」

そう言えば、母も伯父もそう呼んでいた

達の叔父さんと呼んでいるのは私だけである





「あのね、うちに下宿していたのは達さんだけじゃないの

伏見の家では、父方の親戚の学生さんもたくさん下宿していて

達さん以外は国立の大学に通っていたわ」

、、、そうだったんだぁ

でもなんで大叔父だけ私学の○○大学で

姉婿の子供や姉婿方の親戚は国立大学なんだろう?





考えてみれば、花の帝大である

私学の○○大学とは格が違う

これは本家筋と分家筋の違いなのかもしれない

たぶん姉婿のおかげで○○大学へも行けたのであろうから

大叔父もわきまえていたのではないだろうか

なんとなくそんな感じを受けた

内心ちょっぴり嫌だけど、昔だったらありうると思う





じゃあ、おばあさんは

大叔父にだけ特別思い入れがあるとか

そんなことは期待できないと言うことなのね(T_T)

あーあ、何か聞きだせるかと思っていただけに

空振りに終わりそうな予感いや~ん、どうしようxx





続く…





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ミャンマーに思いを寄せて 1101

何度目かの電話で

おばあさんは、大叔父の遺品が無いか

ご兄弟にも聞いて下さったことを知った

しかし、何も無かったとのこと(T_T)

姉婿の遺品や資料に関しても

おばあさんはお嫁に行ってしまい

ご長男である国立大学の教授をしていた人が

持っていたかもしれないが

その方は早くにお亡くなりなっていた





「母はね、父と20才も年が離れていて

後妻として父と結婚したの」とおばあさんが語り出した

そのため、国立大学の教授だったご長男は

先妻の子供であって、その方が亡くなられてからは

その子供さんとはあまりお付き合いがなさそうであった

「近所のおばさんがね、あなただったら子供好きだし

大丈夫よって、縁談をすすめたんですって」と

おばあさんはケラケラと笑う

そうだったんだぁ。。。

若いお嫁さんで、きっと大事にしてもらったのだろうなぁ





「歌舞伎の長谷川一夫の奥様がね

母を気に入って、あなただったら屋敷を売っても良いわって

伏見の屋敷を買ったのよ」とも話された

伯父は長谷川一夫さんにお屋敷を「売った」と言っていたが

あらま「買った」のね

言い伝えってのもあてにならないなぁ(笑)





続く…





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ミャンマーに思いを寄せて 1100

おばあさんとは何度と電話で話した

おばあさんは私との会話を楽しんでおられるようで

「また電話して」と言われる

お体はどこも悪くなく、1人暮らしだそうである





「中野のお屋敷は大きかったですね。

先日、お屋敷の跡地を見に行ってきました」と私が言うと

「そうなの?あの辺もずいぶんと変わったでしょう」

「はい、今はお屋敷の面影はなく9軒もの住宅が建っていました」

と言うと「あら~、そうなの!」と驚いておられた





姉婿がお屋敷を手放したと思われる

昭和33年頃と言えば、おばあさんは28才

たぶんもうお嫁に行かれていたのではないだろうか

あのお屋敷からお嫁に行かれたのだろうなぁ

姉婿宅が優雅な暮らしをしていた時代の思い出深い家

「その後はね、知り合いに家を手配してもらって引っ越ししたの」

とおばあさんは言う

苦労をしたと言う話が出ないことから

やはりおばあさんはお嫁に行かれた後だったのだろうなぁと思った





母が高校の修学旅行で東京に来た際に

中野のお屋敷に泊まった話をすると

「あら、りっちゃんが来てたのね、知らなかったわぁ」と

たぶんお嫁に行かれた後だったのだろう

「りっちゃんは覚えてるわよ!でもりっちゃんは小さかったから

そのお姉さん達…なんて名前だったっけ?

そうそう、その人達と遊んだことを覚えてるわ。

京都に住んでいた頃は、伯父さん、貴女のお祖父さんのね

お寺にも何度も母と行ったわ。」

と、おばあさんの昔話はマシンガンのように続く





でも…肝心の大叔父の件に話を戻そうとすると

「最近ボケちゃったから忘れちゃった~」と

逃げられるのである(>_<)エーン





続く…





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ミャンマーに思いを寄せて 1099

そもそもおばあさんは、いつ中野に引っ越ししたのだろう?

おばあさんは「小学校2年生の時に引っ越ししたわ」と言う

昭和5年生まれのおばあさんが小学校2年生

単純に計算して8才として、昭和13年、、、

う~ん、これは、、、





大叔父は京都・伏見にあった姉婿の家から

○○大学に通っていた

そこには退学する昭和16年まで住んでいた

と言うことは、姉婿の家は京都と東京の2ヶ所にあったことになる

大叔父の遺品から京都~東京、中野~市ヶ谷に

通っていた痕跡が残っている

昭和14年・15年には夏休みや冬休みを利用してか

1ヶ月ほど東京に滞在していた

誰も居ない東京に何しに行っていたのか

中野学校に関係していたのかとか思っていたが

単に姉婿の家に居たのかもしれない

これは私の誤算としか言いようが無かった

しかし、じゃあ市ヶ谷には何しに行っていたのだろう。。。





電力会社の社長をしていた姉婿

昭和13年に、国家総動員体制に伴い

日本に存在する全ての電力施設を国家が接収・管理して

一元運営を行うという法案が可決されたことから

各事業者からの出資あるいは買収という形で

国に管理を移管することになった

実際は強制的に接収したのと同様であったようである

一元化された電力会社は「日本発送電株式会社」と言い

日本の電力事業を司った半官半民運営の特殊法人であった

この会社は昭和14年~26年までの間に存在した





中野への家族の引越し

○○日満工科学校の設立に奔走し

自分の電力会社が国に接収されて

姉婿にとっては激動の昭和13年であっただろう




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 1098

大叔父の姉婿の末娘のおばあさんが

東京近郊にお住まいのことに驚いた

でも、昔は中野に住んでおられたのだから

関東におられてもおかしくはないのだ

母が高校の修学旅行の際に

外泊許可を取って泊まった中野の家

先生に外泊許可をいただくために(?)

母の叔母は先生方全員に万年筆を配ったとか

自家用車で迎えに来てくれて

田舎から来た修学旅行の一行は

一斉に宿の窓から顔を出し大変羨ましがられたとか





母にとっては叔母の家となる

大きな大きなお屋敷だった

中野の図書館にあった住宅地図は

1番古い物でも昭和33年~しかなかった

昭和33年には、もう姉婿のお屋敷は無かった

昭和8年の一般地図には載っていた

母が修学旅行に行ったのが17才だとすると

昭和32年までは、姉婿の中野のお屋敷はあったことになる





おばあさんに聞いてみた

すると「父が事業に失敗してね、中野の家を手放したの」と

言ったのだ、、、

昭和33年には住宅地図に載っていないお屋敷。。。

母はギリギリのタイミングで最高のおもてなしを受けて

心に残る修学旅行となったのだ

その後、姉婿は知り合いに新しい家を手配してもらって

中野のお屋敷を手放した




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 1097

大叔父の姉婿の末娘さんとの電話は

その後、何度と続いた

毎回、質問を用意して少しずつ聞き出していった

おばあさんは昔のことを懐かしんで

時にはケラケラと笑いながら楽しんでおられるようだった





ただ、おばあさんが1番最初に

「あの頃は、個人なんて関係なかったの

今の時代の貴女には分からないでしょうけど」と言われた

国策の中での大叔父の存在なんてとても小さくて

調べても無駄だと言われるのである

「そう言う時代だったのよ」と独り言のように呟かれた





そう言う時代の中で生きた大叔父の証を見つけてあげたい

と思う独りよがりの私

それに対し、おばあさんにとって大叔父は叔父さんに当たるけど

単に戦争で亡くなった忘れかけていた昔々の人であり

大叔父に対する思いは何もないように感じた

ひととき一緒に住んでいても、そんなものなのかな…

私は会ったこともない大叔父さんのことに必死だ

やっぱり私がおかしいんだろうか。。。





その後の会話で、おばあさんは昭和5年生まれだと分かった

昭和5年と言うと終戦時で15才

大叔父が出兵した昭和18年には13才と言うことになる

母が当時3才だったことを考えると

母よりも遙かに大叔父の記憶はあるだろう

詳しいことを聞けるのではないかと私は期待したのだった





続く…





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ミャンマーに思いを寄せて 1096

その後も何度と姉婿の末娘さんに電話を入れてみた

伯父が会う口実にと持たせてくれたお土産も

まだ渡せていない

「あそこのレストランは美味しくないから嫌なの」とか

「最近ボケてきたから全て忘れたわ」とか、のらりくらり

末娘さんの体調は、涼しくなっても回復する気配はなかった





何度目かの電話で、なんとなく…

会いたくないのでは?と感じだした(T_T)

しかたがないよね、突然、面識のない従姉妹の子と言う者から

電話があって、70年も前に死んだ人のことを

聞かせてほしいから会って下さいと言われても

ほんと迷惑な話だと私も思うわ

はい、おばあさんの気持ちは良く分かります





私はもうおばあさんにお会いすることを諦めた

伯父から預かったお土産は

「渡したことにして、貴女がもらっておいて」と言われたけど

お見舞いと一緒におばあさんに送った

すると、おばあさんの態度が柔軟になった

「お見舞いまでもらっちゃって心配かけてごめんなさいね。

元気なんだけどね…年寄りは何かとあれなのよ」

やっぱりね、、、





そこで「お電話でお話を伺っても宜しいですか?」と聞くと

「その方が良いわ、私は電話は好きなの」と上機嫌

こうして私は毎回少しずつおばあさんに質問して

話を伺うことにした





続く…





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ミャンマーに思いを寄せて 1095

大叔父の姉婿の末娘さんに恐る恐る電話してみた

電話口からはおばあさんの明るい可愛い声が聞こえた

名前を告げるとすぐに分かって下さって

開口一番、「りっちゃんの子か?」と聞かれた

りっちゃんとは、母の呼び名である

久しぶりに聞いた母の呼び名

母のことを覚えてくれている人がいたと

私は涙が溢れそうになった

そうね、2人は従姉妹同士なんだもの





手紙も読んで下さっていた

私の用件も理解して下さっているようであった

手短にお会いしてお話を伺いたい旨を伝えた

どこでお会いするのが1番良いのだろう?

ご高齢の老人を駅前の飲食店などに

連れ出して大丈夫だろうか?とか

お家にお邪魔した方がいいだろうか?

などと1人であれこれ考えていた





しかしおばあさんは、夏の暑さがたたって

今、体調が優れないらしく「私も会ってみたいわ、

でももう少し涼しくなってから…」と言われた

すぐ近くだし、お会いしようと思えばいつでも会える

無理強いしても悪いし、もう少し待ってみよう

私は「お会いできるのを楽しみにしています」と

電話を切った





続く…





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ミャンマーに思いを寄せて 1094

伯父から手渡されたメモに記されていた住所は

驚くことに私の家のすぐ近くであった

親戚は皆、関西在住で

姉婿の長男についても、関西の国立大学の教授を

していたことから、お子さんは皆さん関西在住だと

ばかり思い込んでいた

まさか東京のこんな近くにお住まいだとは思わなかった





○○大学の100年史担当だった方から

○○大学の理事であった姉婿の子孫が

何か手掛かりになる資料を

持っているのではないかと言われ続けていた

この方は以前に、○○大学に貢献した方のお家の

「蔵」を開けた経験があり

その蔵からは、○○大学にとって貴重なお宝が

たくさん出たそうである

きっと姉婿宅にもお宝があるはずだと思っておられたようであった





姉婿にはたくさん子供が居て

全部で何人いたのかは分からないが

男の子だけでも5~6人いるようである

そこの一番末の娘さんを今回、紹介してもらったのだ

確かに中野にあった姉婿の家の跡地には

現在は9軒もの家が建ち

昭和初期の地図に於いても、周りとは別格の

大変大きなお屋敷だったことが分かる

蔵があってもおかしくはないよなぁ

でも、末娘さんは現在は名字が変わっていることから

お嫁に行かれたのだろう

お父さんである姉婿の遺品くらいはあるだろうが

大叔父に関する物や、○○大学に関する資料なんて

持っておられるだろうか?





色々と考えてもしかたがない

取りあえず電話してみよう。。。

お耳は遠くないかしら?伯父の伝言は覚えておられるかしら?

私の手紙を読まれてどう思っておられるだろう

不安だわぁ~(T_T)




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 1093

光機関のおじいさんも気になったが

私には他にもやらなければいけないことがあった

それは、伯父がお膳立てしてくれた

大叔父の姉婿の末娘さんと連絡を取ること

東京に帰ったらすぐに電話することになっていた





この末娘さんは、昭和一桁生まれだと言う

大叔父の姉の子供なので母と同じ立場

母とは従姉妹と言うことになる

母より10才くらい年上で、伯父よりも上であった





伯父が大叔父と一緒に生活したのは

昭和16年に大叔父が○○大学を退学した後

東京へ引っ越しするまでの昭和17年末までである

大叔父は中学時代~大学の期間と

東京に引っ越しして数ヶ月の出兵までの間は

ずっと姉婿の家に下宿していた

そのため、大叔父のことは伯父よりも

この末娘さんの方が知っているだろうとのこと





さて、どのような情報を得ることが出来るのだろうか?

事前にお手紙を書いて、諸事情は知らせてあった

末娘さんにお会いしたい。。。

私は勇気を出して電話したのだった





続く…






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梅雨の合間に

読者の皆様へ


いつも読んで下さってありがとうございます

シトシト&ジメジメの梅雨の季節ですが

お変わりございませんか?





光機関員最後と言われるおじいさんの本の話が

やっと終わりましたね、長くてごめんなさい

大川塾自体に大叔父は直接関係なくとも

今のところ、大叔父が光機関に

居た可能性は高いと思っているので

光機関におられた大川塾生の手記や

インド国民軍に関する文献を

丹念に調べる作業をしています





今週は新たな資料の情報をいただき

3冊も本を購入してしまいました

それらに載っているかは分かりませんが

とにかく「シラミつぶし」方式で頑張るしかありません

付箋紙を貼って、何度も何度も読み返す癖があるので

借りて読むのが苦手です

この手の資料はお高いことが多くて泣きそうです(T_T)

購入できない資料は

国会図書館に行かなければいけません

まだまだ私に出来ることはあると信じています





今月末発売のミリタリー雑誌「丸」にて続きが掲載されます

編集部のご要望で一気に特務機関の話へと突入します

新たな情報提供があることを願っています

ほんとうに毎日、泣きそうになりながら勉強しています

どうか読者の皆様も応援のほど宜しくお願いいたします



2015.6.15



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ミャンマーに思いを寄せて 1092

おじいさんの本のおかげで

あんまり分からなかった大川塾について

大まかにイメージが出来た

私にしては、しっかりと勉強が出来たように思う





でも、大川塾について勉強しても

大叔父にはたぶん直接は関係がないような。。。

もしかしたら、姉婿や○○大学が関係しているかな?

との淡い期待はあった

教授陣や運営面などで関係していてもおかしくはないからだ

だが、本の中には石原完爾氏が出てきたくらいで

○○大学関係者の名前は見あたらなかったように思う





大川塾について勉強したぞ~

おじいさんにお会いするための下準備は整った

でもやっぱり怖かった、、、

光機関最後の生き残りと言われている

このおじいさんが、もしも大叔父のことを

「そんな人は知らない・そんな人は居なかった」と言ったら

後はもうどこを探せば良いか分からないから(>_<)

もしもそう言われたら、調査は終わるのだろうか…

まだ何も分からないのに

どうしよう、どうしようと泣きそうであった





おじいさんの年齢を考えると

また今度はないかもしれないと分かりつつ

私は怖くて怖くて重い腰を上げることが出来なかったxx

そうだ、やらなきゃいけないことは他にもあると

なんやかんやと言い訳して動かなかった

2014年も秋に差し掛かろうとしていた





続く…





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ミャンマーに思いを寄せて 1091

昭和20年10月に大川塾こと

「東亜経済調査局附属研究所」は閉鎖された

おじいさんちに贈られた1,500円については

塾生全員だったのか、戦死した者に対してはどうだったのかなど

詳細は分からないが

以下のような手紙が大川周明氏から届いた

「拝啓 此度国情急変のため政府の要請により

十月十五日を以て本研究所を解散閉鎖するの

止むなき事態に立ち至り候事を御通知申上候

貴君は渡南以来邦国永遠の発展安泰の為に

櫛風沐雨鋭意奮闘を続けられしにも

不拘雄図を挫折せる其心情を察する時

転た感慨無量に御座候

貴君は遠からず胸に憂憤を抱きて

故山に復員せらるることと相成候が

復員後は本研究所に於て

錬磨せられし瑞光の輝きを

弥が上にも発揮して日本復興のために

精進せられんことを衷心より冀求する次第に御座候

尚本所解散に就て貴君の慰労金として金壱千五百円也を

○○殿(お父様)宛御送金の上

保管方依頼申上置候間御受納被下度候 敬具」





この手紙が届いた頃

おじいさんはバンコクの抑留所にいた

その後、昭和21年・夏

おじいさんは復員後に大川塾跡を訪れた

大川塾のあった目黒は焼け野原で何ひとつ残っていなかった





戦後、復員してきた塾生達は大川周明氏の元を訪れている

大川周明氏は、そんな塾生達に

「○○に居るご両親は元気か?」と

1人1人の境遇を覚えておられて

優しく声をかけて下さったそうである





私はこの手紙を読んで切なくて泣きそうになった

私には難しい文面であるが十分に伝わってきた

大川塾は10年間支障なく所定の任務に服し

且つ現地に留まり事業に着手する者には

資金として金一万円以内の補助を行う

と謳い文句に全国の学校から学生を募集した

その夢を戦後に果たした人が居たかどうかは不明であるが

慰霊金は、大川周明氏の最後の親心だったのかもしれない





続く…





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ミャンマーに思いを寄せて 1090

おじいさんのお母様は良家のお嬢様だったが

嫁ぎ先は貧しい山村の農家だった

出稼ぎのお父様の代わりに

女手一人で苦労して5人の子供を学校に出した

女学校出身のお母様を村人は

「百姓には学問はいらねえ」と白い目で見てバカにした

お母様は何度も裏山の木の下で泣いた

しかし「これからの男は学問がなければ」と

産後3日目には他人の畑の草取りまでして

歯を食いしばって働いた

その結果、お母様の体はボロボロだった





「戦争の時代の男の子は誰も親孝行できなかった。

母は5人の子供の誰にも見送られないで

死んでいきました。」とおじいさんは回想している





大川塾生の出身校は、私が見た限り公立校ばかりの印象

私学に通う裕福な家の子ではなく

田舎の純朴な子で、優秀ではあるが

家庭自事情により進学が出来ない子

。。。やっぱり私の勘は当たったように思う

しかし、おじいさんは、全国から一握りの大川塾生に

選ばれて、しっかりと2年間勉学に励み

お母様の意思を実現し親孝行されたと思います

そして、戦後、まだおじいさんは復員してはいなかったが

大川周明氏は大川塾閉鎖に伴い「慰労金」と称して

おじいさんちに当時のお金で1,500円を贈った

これも親孝行となったのではないだろうか




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 1089

おじいさんは5人兄弟の4番目だった

おじいさんのお母様は

次々と息子を戦地に送り出さねばならなかった

お母様は、日の丸の小旗を振って

行列の先頭でいつも息子達を見送った

見送りの行列は駅の広場まで続く

「出兵兵士バンザーイ!!」の声が

どんなに辛かったでしょうか。。。





あれから7年

おじいさんは誰もいない駅に着いた

懐かしい我が家に帰ってきた

お仏壇には3つの白木の箱が置いてあった

1つ目は長男、2つ目は次男

どちらも何も入っていない軽い箱だった

兵隊の命、戦死なんてこんなに軽いものですかと

おじいさんは思った





3つ目の箱は重かった

持ち上がらないほど重かった

それはお母様の遺骨だった

お母様は毎日、5人の我が子の身代わりを祈っていた

「母の悲しみの涙が、岩のように、岩となって

私の膝の上に乗ってきました。

私は母の箱を抱いて放すことが出来ませんでした。」





お母様は「大君に捧げし我が子等の身替わりに

立ちて戦の庭に守らん」と辞世の句を残されている




続く…




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大川塾生・おまけの話 

なんだか私には難しい話ばかりなので

書くのに苦労しました、、、

じゃあ書かなければいいのに

あぁ~、でも勿体ない話が多くて

書いておかなきゃと思うのでした(>_<)

毎日、勉強・勉強です





イラワジ川の中州を偵察中に

軍曹に率いられた斥候に出会った

「英軍も”羊羹”を食べるのでしょうか?」と聞かれた

林の中には、イギリス軍の荷物が多数

木や草でカモフラージュされていた

その中にクラフト紙に包まれた羊羹ぽい物があった





ゼリー状の肌触り、色つや、まさに羊羹そっくりで

嘗めると舌先には甘みも感じた

しかし木箱には「EXPLOSIVE(爆発物)」と書かれていた

なんと羊羹だと思った物はダイナマイトであった





英語表示が読めなかった軍曹は

このダイナマイトをお腹いっぱい食べていた

大川塾生は「ダイナマイトが全部排出されるまで

激動を慎み、特に大便は小石などの上は避け

枯れ草のような柔らかい物の上にされると良いですな。

さもないと爆発する恐れがありますぞ」と

冗談を言ってみた

軍曹が顔を引きつらせたため

「冗談、冗談」と言ったのだが

軍曹達は本気にしたまま、そろりそろりと去っていった





ダイナマイトが甘いと言うのは

映画か何かで聞いたとこがあるような

昔のダイナマイトは、ニトログリセリンを珪藻土に

染みこませた物を紙で包んであったようである

現在はニトロゲル(ブニスチングゼラチン)が使われている

雷管が無いと爆発しないのだけど

軍曹の気持ちを考えると焦っただろうなぁ

ダイナマイトをお腹いっぱい食べるなんて

すごい経験だわぁ~

そんなに美味しかったのかな?

もし食べてる最中に、イギリス軍に見つかったら

イギリス軍もビビると思う

「日本軍はダイナマイトを食べていた恐るべし日本軍!!」

見なかったことにしよう…と

そろりそろりと去ったかもしれない(笑)




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 1086

戦争末期にハル長官は

「日本をアジア解放に殉じた国と思わせてはならない」と

ルーズベルト大統領に進言したと言われている





私はこの言葉を見て

一瞬、ハル長官はなんてひどい人だと思った

しかしある意味反対に、アジア解放…

いわゆる大川周明氏の掲げた「復興アジアの精神」を

理解し筋の通ったことだと少しでも思ったからこそ

それが世界に広がる事を危惧したのではないかとも思えた

そうであったと思いたいとの私の願いもあるかもしれない





大川周明氏の8月15日の日記には

「わが四十年の興亜の努力も水泡に帰す」と書かれていた

いいえ、大川周明さん

あなたの目指した夢「復興アジア」は

戦後、多くの国々が独立を果たした事により

実現したと言えると思います

そして大川塾生たちは、今でもあなたを尊敬しています

アジアのためにありがとうございました




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 1085

開戦の前日まで、大川周明氏の元へは

アメリカのハル長官からの公文書が届いていた

しかし昭和16年12月8日、日米開戦の報を受け

大川周明氏はまさに寝耳に水で

相当なショックを受けたようである





大川塾生の証言によると

「先生はストーブの傍らの机に向かって

電報をよんでおられたが

私にそれを焼き捨てるように命ぜられた。

私は命ぜられるまま、ストーブの火口を開け焼き捨てた。」

その時の先生の沈痛なお顔が

今もって彷彿として思い出される





真珠湾攻撃後に、ハル国務長官は

「長い外交官生活で、このような不誠実な外交文書を

見たことはない」とだけ言い、無言で出口の方を指差し

文書を届けに来た者に帰れと即したと言われている

東京裁判では真珠湾奇襲攻撃を偽装するために

「偽りの外交」を行っていたと冒頭陳述で裁判が始まった

はたして日本はアメリカを騙したのだろうか。。。





アメリカをだまし討ちにしたとして始まった東京裁判ではあるが

ルーズベルト政権の首脳部にソ連と通じた高官がおり

日米開戦を煽っていた事実が近年判明している

これによりアメリカ側は騙されたフリをしていたことが分かる

「偽りの外交」とでも言わなければ

アメリカがハル・ノートを突きつけて日本を戦争に追い詰め

開戦に至った責任が問われるからである





日本が真剣に日米開戦回避のための交渉を続けていたことは

闇に葬り去られてしまった

大川周明氏についても、アメリカとの連絡書簡の一切を焼き捨てた

そのため大川周明氏の奔走尽力を伝える資料はなく

一般には殆どその経緯を知るものはいない




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 1084 

大川周明氏は「せめて十年早くこの仕事を始めたかった」と

しばしば口にしていた





昭和17年5月下旬、大川周明氏から

ビルマにいた大川塾卒業生に届けられた伝言は

「大東亜戦争は、日本の敗北に終わるだろう。

そのことを肝に銘じ、それぞれの国に

一人でも多く変わらぬ友情を保ち得る

心の友を作るよう努力せよ。」と言うものであった

昭和17年と言えば敗戦どころか

行け行けドンドンで、大本営発表も

戦勝ムードいっぱいだった頃であろう

敗戦の「は」の字も見せていない時期

素晴らしい先見の目があった大川周明氏

その伝言を受け取った大川塾生はきっと驚いたであろう





昭和16年春頃まで大川周明氏は

日本とアメリカは決して戦うこと無しと判断していた

「汎太平洋通商航海株式会社」と言う

新会社の設立を計画し

アメリカの資本と日本の技術力を合わせて

中国大陸に於ける綿花の栽培などの

大規模な産業開発に乗り出す手はずで

自らアメリカとの関係改善のために奔走していた




続く…




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6月に入りましたね

読者の皆様へ


いつも読んで下さってありがとうございます

現在の記事は、約1年前の2014年9月初旬頃の話です

大川塾のお話はいかがでしょうか?

本の抜粋のみならず

自分の解釈や感想等も交えております

なかなか興味深い事が多く、いっぱい書いちゃった

読者様の中には、これは本に書いてある内容でしょ

で、本来の調査の続きはその後どうなるの?

とヤキモキされている方もいらっしゃるかも

これらのことを予備知識として踏まえた上で

これから私はおじいさんとお会いする事となります

あと少し書き足したいことがありますので

もう少しだけご辛抱下さいね





現在の進行状況は、大きな展開は全く無く

思いつく小さなことから片付けいるのが現状です

無駄かもしれないけど、様々な所に出向いて

細々と頑張っています

つい最近は、元防大教授の方の講演会を聞きに行きました

その席で偶然にも驚くほどの出会いがあり

寒気がして「ミャンマー現象だぁ」と思いました

この調査では、なぜか不思議でビックリするようなことが

次々と起こります

この後の展開も何これ~!!と言いたくなるようなことが起こるのです

フィクションじゃないだけに、自分でも毎度、焦ります

どうぞお楽しみに

真剣に取り組んでいます、今後ともどうぞ応援のほどを



2015.6.6



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ミャンマーに思いを寄せて 1083

ややこしく堅苦しい話の合間に

ここでこの本の著者であるおじいさんのコイバナ





戦時中ではあったが、おじいさんには心を寄せる人がいた

シンガポールで勤務していた頃に

おじいさんの隣でよく働いていた気立ての良い子

彼女は中国人のタイピストだった





わが青春の町よ、さようなら。。。

1人の女性の姿がまぶたに浮かんだ

出発前のある日曜日

財産をまとめて彼女に送った

「あなたと楽しい日々を送ったことを幸せに思います。

私の全てを愛するあなたに送ります」と手紙を添えて





彼女からは

「どうして愛していると言ってくれなかったのですか?

ここに居る間に」と返事が来た

「私にはいつでも戦場が待っていた。だからそれは言えなかった。

いつまでも、いつまでも幸せに。」と返事を出した






おじいさんを乗せた汽車はシンガポールを出発した

ビルマのラングーンを目指す

彼女は川向こうの住宅街に居る

目の前だが、今宵永久に渡れない橋となる

悔いは無い。。。





おじいさんはビルマに着いて彼女からの手紙を受け取った

「愛しているなら、今日知って、明日死んでもいいのです。

それがほんとうの愛です。必ず生きて帰ってきて下さい。

いつまでも、いつまでも待っています。」

これが最後の手紙となった





この「大川周明 訓話集」の中に

どうしても載せたかった恋話

おじいさんの甘酸っぱい忘れられない青春の思い出かもしれない

彼女はその後どうなったのだろう?

しあわせに暮らしていてほしいと願う




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 1082

中野学校の卒業生で残地諜者として有名なのは

もちろん小野田さんである

戦後ずいぶんして見つかったため

その事実は発覚したが

潜伏したままの人、失敗してしまった者も居ただろう

それらの詳細については未だに分からない

任務については墓場まで持って行こうとする人が多い

一方、大川塾自体は秘密でも何でもない

大川塾出身者は任務についても

もう時効だと昔々の武勇伝として語っている





中野学校は秘密諜報員を育成する機関で軍人である

諜報・謀略活動をするために現地人を使うのが中野学校

大川塾は現代で言えば

青年海外協力隊のような育成機関

考え方の相違はあって当然である

大川塾は現地人を自発的に立ち上がらせるために

直接現地人に働きかけた

武力的なものでなく、精神的・経済的・政治的な活動である





全く本来は類似性は無いはずであった

戦時下であろうと平時であろうと変わらない

しかし、たまたま戦時下であったため

同じような使われ方になってしまった





大川周明氏が目指した復興アジアの精神は

アジアの人を支援して現地の産業や教育を向上させて

現地の人の精神的な自立をうながし

欧米列強・西洋植民地主義に対抗できるように育成する

目標は植民地からの立ち上がりである

そのために日本の優秀な青少年をアジア各地に送り

それらの地域で現地人の支援をする

ある意味、石原莞爾氏の最終戦争論にも

繋がるものがあるのではないだろうか





その差は日本を中心に欧米列強との対立を語るか

アジア各地の民衆を主体として語るかの差であると言えるだろう

さらにこの精神は大東亜戦争の日本の考え方とも

親和性が強いと言える

特に藤原機関から光機関に至る

マレー人・インド人に対する工作は

大川塾の目指したアジアの諸民族の自立

西洋植民地主義からの脱却を

戦時下において実現させたものと言えよう

役割は違うが、中野学校と大川塾生とが連携することは

おかしなこととは言い切れないであろう




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 1081

その後の歴史を知っている現代の私からすると

上官はなんと酷な命令を出したのだろうと思う

もう戦争は終わっている

日本軍が巻き返して戻ってくるはずはないのに…

でも、当時の方達は負けを認めたくなかった

日本軍が戻ってくると信じたかった

そうあってほしいと願っていたのかもしれない

もう日本軍が帰ってこないのを分かっていたからこそ

優しい言葉で諭したり、お金を持たせたりして

自分達でも酷な命令を出していると

感じていたような節が見受けられた





ただ将軍様が直接、一1等兵に対し

個人的なエゴでの傲慢な命令だったのかと言うと

やや疑問がある

残地諜者を言い渡されたのは大川塾生だけではない

中野学校の者も相当数いたのではないかと思われる

中野学校の方の詳細は分からないが

それだけの数の残地諜者を生み出すには

単に個人的思想で命令を出したとは思えない





当時の日本軍が負けたときのことを

想定していたとしたら少し驚きではあるが

計画として、もしもの時は残地諜者を配備して

将来、日本軍が挽回する長期計画が

あったのではないかと思える

日清・日露戦争、第一次世界大戦・第二次世界大戦

当時は戦争が頻繁に勃発している

将軍様がおじいさんに言った言葉

「10年したら必ず捲土重来、米英打倒のために進撃してくる。」

は、全くの妄想とは言えないのではないだろうか




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 1080

残地諜者を言い渡された者

日本の親に最後の別れの手紙を託す者

義勇軍に居た者の中には

現地の人たちを見捨てられないと

現地に残って独立のために

一緒に戦うことを選んだ者

もう日本には帰らないと決意した





それらの人達の処置は「行方不明」とされ

その後、数年して戦死認定された

日本では戦死となっているが

現地において元気に生きていた方もおられた





おじいさんも、その運命を辿るはずだった

同期と2人、昭和通商バンコク支店の

現地従業員宿舎に居候し

髪の毛が伸びるのを待って行動に移す計画を練った

しかし、タイ警察に発見されてしまい

邦人キャンプに収容されて帰国した





そのような経歴を持つ人は大川塾生の中にたくさんいた

捕まって収容所に入れられ復員された方は

日本で自分の戦死通知を受け取ったそうだ





続く…





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ミャンマーに思いを寄せて 1079

おじいさんは終戦後に

タイで残地諜者を言い渡された

そうなるであろうと言う情報が事前にあり

おじいさんは薄々感じていた

「まぁ座れ」と参謀長に言われたが

相手は将軍様で、こちらは一等兵

直立不動で命令を受領した





その夜、おじいさんは大川塾の同期と

2人で駐屯地を出た

不思議なことに、門に衛兵の姿はなく

開けられたままの門をおじいさんは歩いて出て行った

その日をもって、1等兵のおじいさんは戦死の扱いとなった





大川塾の「アジアの復興」の精神は

現地人と仲良くなって、現地に根を張り

活動することを基盤としている

軍務である残地諜者とは、意味合いが全く違うのであるが

現地に残るという点で同じように使われたように思う





大川周明氏の「アジアの復興」の思想は

戦時下に限定されたものではない

大川塾生は、その精神を全うするよう教育されていた

残地諜者を言い渡されたときの

おじいさん達の気持ちは詳しく書かれていなかったが

終戦となり泥沼化した戦闘から解放されて

しばらくしたらきっと復員の日が来る

日本に帰りたい、お父さんお母さんに会いたい

と言う気持ちが芽生えるのは当然であろう





大川塾の精神は心の片隅から消えることはなく

「大川塾生」と言う言葉を出されて

将軍様に説得されれば

「お国のためになるなら…」と引き受けざるを得なかった

後から考えると理不尽な命令だったという思いが

文章の端々に垣間見られた手記もあった




続く…




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