ミャンマーに思いを寄せて

亡き母の思いを果たすべく、ビルマで戦死した大叔父の足取りをたどる私の奮闘記録☆

2015年07月

ミャンマーに思いを寄せて 1135

先日、泣き言を書いてしまいましたが
皆様から激励のコメント&メッセージが相次ぎ
心より感謝申し上げます
嬉し泣きって幸せですね



各病棟は都道府県別に編成された

各班が受け持っており

戦時中における日本赤十字の編成は

病棟名ではなく、その班の名前であった

※例えば石川県の担当病棟は石川班

日本赤十字の担当者には

第121兵站病院の感染重症病棟が何班か分からず

月報捜索は困難かと思われた





何度目かの担当者との電話で

班が分からず困っておられることを知った

私は慌てて「岐阜班です!!」と伝えると

担当者はまたまたとても驚かれたようだった

エッ?そんなことまでわかってるの!って感じでした





おばあさんは、岐阜県の出身ではない
 
たまたま近くの長野県にいたところ、岐阜県の任務に招集され

岐阜の日赤の方達と共にビルマに渡った

そしてビルマ・メイミョウの第121兵站病院の

感染重症病棟は、岐阜班となった





全て伝えたつもりだったが

勝手に必要ないだろうと思い込み

大事なことが伝え漏れていたのだと痛感した

その伝え漏れが原因で調査が難航していたなんて

申し訳なくて申し訳なくて

電話口でペコペコ謝っちゃった

「あの~担当の看護婦さんのお名前も分かっていますが

必要ですか?」と言うと

更に驚かれて「はい!お願いします!!」と

パワー増強?やる気満々の明るい声が返ってきた





続く…





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ミャンマーに思いを寄せて 1134

またまたコメントをいただき感謝します
とってもとっても嬉しかったです




兵站病院が送っていた月報と呼ばれる物は

「業務管理報告」と言う名称で

電報ではなく、手書きの報告文書であると言う

その内容は、各病棟毎の

・備品の管理事務報告

・傷病別患者数

・移動時の病棟の行動、場所

・担当看護婦さんの名簿

・看護婦さん本人の発病、治療の報告  など





その他として、食料(携行食糧含む)が無いとか

被服が不足しているとか

三角巾や薬やガーゼなどが足りないなどの

近況報告が含まれている物もあるそうだ





各病棟は都道府県別に編成された

グループが受け持っており

例えば石川県のグループは「石川班」と呼ばれ

第121兵站病院の感染重症病棟ではなく

第121兵站病院の○○班と言うのが

日本赤十字の編成であった




続く…




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ここ最近の出来事

読者の皆様へ


いつも読んでいただきありがとうございます

急に暑くなり、夏真っ盛りとなりましたね!

熱中症など気になる季節です、どうぞご自愛下さいね





調査の方は相変わらず

進んでいるような・進んでいないような停滞期が続いています

今のところ大きな動きはありませんが

自分が動かなければ何も起こらないと思うので

少しずつですが日々活動しております

ここ最近は、手当たり次第に資料をかき集め

この夏の私の課題図書は山のようになっています

かなりキツイですが、、、全部、読むぞ~オー!





実は一昨日、凹んでおりました

とある方に以前にお願いしていた件の

ご報告をいただきました

大叔父が中野学校卒業生の可能性について

調べていただいていたのです

今のところ私の中の仮説では

単なる下士官で光機関員だったのでは?と思っていますが

まだ中野学校卒の可能性を捨てたわけではありません

なぜかと言うと、「中野学校(中野校友会発行)」の末巻にある

卒業者の名簿の中で

生死・行方不明の他に「不明」と言う文字が散見され

卒業したのが誰か分からない人員が相当数いるようだからです

私も何度その名簿から探したことでしょう。。。





最初に「名簿に名前がない」とのお返事をいただいて数年

再度、ご報告いただきましたが

「何年か前と今も全く変わらないので、これ以上調べようがない」

とのことでした。。。

生きて帰った方が思い出して下さらない限り

「不明」の方々はこの先も不明のままで

お年を考えると、新たに中野学校の卒業生だったと申し出て

不明の方々の名前を証言をして下さる方が

出て来る可能性は低いでしょう





色々と手を尽くして下さったようでしたが

「中野学校関係名簿には神居さん(大叔父)の

名はなく、60連隊関係のインパール戦史には

下士官級の方のお名前は全く見つけられないので

神居さんの跡を探すことは書類上からはできない。」と

結論づけされました





もちろんそのような結論に至るのは当然のことで

ここまで手厚くお世話になったことに感謝しつつも

涙が溢れて止まりませんでした

ごめんなさい、あきらめが悪くて、、、

下士官の壁は痛いほど味わっております

…無謀なことに挑戦しているのも分かっているのです

それでも大叔父を見つけてあげたくて続けています。。。





そんな折、ブログにコメントをいただきました

今度は嬉しくて・ありがたくて、またまた泣いてしまいました(T_T)

へこたれそうになっていたので、とても励みになりました

もう少し頑張れそうです☆←私って単純ですよね(笑)

※コメントをいただいた方へ

いただいたコメントは非公開にしておりますが

こちらからの返信を公開しております





もう少ししたらお盆ですね

この夏も大叔父のお墓に参ってこようと思っています

大叔父は71年前の7月に

暑い暑いビルマで戦病死しました





では、皆様、今後ともどうぞご愛読下さいませ

暑さ厳しい折、お体を大切に(*^_^*)



2015.7.28



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ミャンマーに思いを寄せて 1133

日本赤十字の担当者とは

その後、何度も電話やFAXを交わし

大叔父の詳細を伝えた





大叔父が入院していたであろう病棟の名前と共に

その病棟勤務の看護婦さんであった

おばあさんの名前も伝えると

更に担当者は驚かれ

「ここまでしっかりと分かっているのであれば

調べられると思います」と積極的に協力して下さった





おばあさんは、看護婦さんの中で最年少だったそうで

おばあさんが月報の報告者であるかは分からないが

調べる材料にと少しでも情報を提供した

ただ、おばあさんはきっと戦後にご結婚されている

戦時中は現在の名字ではなく旧姓であろうから

おばあさんの名前は、あまり関係ないかなぁ。。。





第121兵站病院の感染重症病棟の記録

でも私としては、感染重症病棟以外の病棟も

病院全部を念のため探したかった。。。

もしも大叔父が光機関にいた場合

下士官なのでありえないと思うけど

特務機関特有の幅を効かせた特別な待遇が

あったとしてもおかしくはない

でも、これ以上はわがままを言えないよね





担当者は「少しお時間を下さい」と言われた

こちらも「もちろんです、お仕事の妨げにならない程度に

お付き合い下さい」とお願いした

まずは第121兵站病院の感染重症病棟の月報が

あるか・ないか

大量の資料の中から探して下さることとなった




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 1132

大叔父が入院していたとされる

ビルマ・メイミョウにあった第121兵站病院

ここに日本赤十字として従軍されていた

看護婦さんであったおばあさんと

全ビルマ会の「ビルマ方面戦没者慰霊祭」に

初めて参加した際に

今は無き当時の会長さんのご紹介で

お会いしたのだった






おばあさんの証言によると

大叔父が亡くなった昭和19年7月末は

メイミョウの兵站病院には

まだ食料も医療品も十分にあったそうである

その頃は患者もまだ病棟に収まっていたが

その後は、負傷病者数が急増

病院以外の民家などの建物も接収され病院と化した

溢れる患者はメイミョウの町を埋め尽くし

地獄絵図だったと言われている





おばあさんが言われるには

大叔父は「マラリア兼アメーバ赤痢」で亡くなっているので

『感染重症病棟』に入っていたことになり

その病棟の担当看護婦はおばあさんを入れて4名

2名組で交代制だったそうである

特に感染重傷病棟の看護婦は感染防止のため

他病棟との交代はなく

「その時期の患者さんは私が看病したと思います」と言われた

残念ながら、おばあさんは大叔父の名前は

覚えてはおられなかったが

おばあさんのおかげで

私は大叔父が入院していたであろう病棟の名前を

知っていたのであった

PICT0007






↑感染重症病棟跡(2009年頃、おばあさんが撮影)



おばあさんにお会いした際の過去記事はこちら↓↓

「ミャンマーに思いを寄せて 65」
http://blog.livedoor.jp/aya_sann/archives/1597207.html





続く…





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ミャンマーに思いを寄せて 1131

月報なんて私には関係ないよね。。。

それを探したって大叔父に関することなんか

出てこないと思う。。。

電話口で担当して下さっている方も

遠まわしに断っておられるような雰囲気である。。。

でも…病院関係の資料はもうここにしかない

月報がどんな物か見もしないで

ここで諦めたら2度とチャンスはないかもしれない

ごめんなさい、私、しつこいようですが

諦められないのです

ほんの僅かでも可能性があるならば

それを見過ごす事は出来ない

もう藁にでもすがるような気持ちなんです。。。





「あの~…病棟が分かれば

その病棟の月報を探していただけますか?」と言ってみた

担当者は「あ、はい、それは出来ます」と言われた

私は「大叔父が入院していた病棟は分かっているのですが…」

と言うと担当者はとても驚かれた

「ビルマ・メイミョウの第121兵站病院の感染重症病棟です」と

伝えると、担当者の態度に変化が出たように感じた





今までは、出来ればこのままお引きとり願いたいと言った

雰囲気だったが

やっと私が何年もかけて

真剣に調査をしていることが分かってもらえたようであった





そこで私も用件だけでなく

今の自分の調査に行き詰まっている現状と

担当者に邪魔臭いお願い事をして

申し訳なく思っている事を率直に伝えると

担当者はとても親身になって下さり

月報を探す事を約束して下さった

私は涙が出そうなくらいになり

「ありがとうございます」と電話口で頭を下げた





続く…





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ミャンマーに思いを寄せて 1130

事情をお聞きすると、旧軍の資料は

やはり手つかずのまま

整理が進んでいないとのこと

その中から大叔父に関係する第121兵站病院の

資料を見つけることは難しいのだそうです(T_T)





その資料とは、各病院の病棟が報告した『月報』であった

資料の整理はなされていない

例えば本土とか満州とかビルマとか

地域別にさえ区分されていない状態

そして、病棟ごとと言うことは

病院ごとにも整理されておらず

第121兵站病院の分と言っても

出てこないのが現状だと言う

今すぐ私が出向いて、ボランティアで整理します!

と言いたいくらいであった





月報とは具体的にどんな書類なのですか?

とお聞きすると

人員的な集計報告や、備品等の管理報告の他は

その他の特記事項くらいで

入院患者の個人名が出てくるような物ではないとのこと

う~ん、、、どうしよう。。。





続く…





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ミャンマーに思いを寄せて 1129

恐る恐る日本赤十字に電話した

またおかしな人だと思われるかも…緊張するよ~

「旧軍の兵站病院の記録の件で」と伝えると

ほどなく担当部署に電話は繋がった

良かった~、ちゃんとそう言った部署があるのね

でも、ここからどう説明しよう、、、





自衛隊・衛生学校の資料館と、しょうけい館の名前を出して

こちらに問い合わせをした経緯と

実は大叔父を捜していて、兵站病院で亡くなっていることから

カルテが残っていないかどうか知りたい旨を伝えた





今の時代になって、戦時中の兵站病院の記録と

突然言われても、困るだろうなぁ。。。

担当の方は「旧軍時代の資料はあることにはあるのですが…」と

なんとも煮え切らない返事だった

やっぱりご迷惑なのよね、、、ごめんなさい

ここまでこぎ着けたのに…どうしよう、、、諦める?





「それらの資料の中にカルテはありますか?」との問いに

カルテは無いとの返答

あぁ、やっぱり無いかぁ。。。残念

でも旧軍時代の資料はあるらしい

それって、どんな資料なんだろう?





続く…





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ミャンマーに思いを寄せて 1128

教えていただいた「しょうけい館」に

以前に行った事があった

衛生学校の学芸員の方からのご紹介と言うことで

真剣に話を聞いていただいたが

やはり「公的文書(兵籍簿)を疑うことは…」と難色を示された



しょうけい館の過去記事はこちら↓↓

「ミャンマーに思いを寄せて 853」
http://blog.livedoor.jp/aya_sann/archives/1941241.html





もしも、カルテが残っている可能性があれば

日本赤十字だと以前に聞いていた

けいしょう館には資料は無く

残念ながら今はもう日本赤十字との交流もなかった

あぁ…自分で飛び込むしかないのよね、、、





噂では、日本赤十字に、旧軍の資料が

大量に残っているとか。。。

しかし、手つかずで全く整理も進んでいないとも聞いた

うだうだ考えていてもしかたがないって分かってる。。。

でもほんとはこう言うの苦手なの、、、

はぁ~当たって砕けろ?うーん

とにかく日本赤十字社に直談判だ!エイッ




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 1127

ビルマ・メイミョウにあった第121兵站病院で

死んだとされていることについて調べることにした





本来の60連隊もしくは、その他の部隊にいたとしても

病院から死んだと言う報告が無ければ

兵籍簿には書けない

大叔父の死亡者調書の日付は、読み取りにくい

昭和20年もしくは21年の7月の日付である

大叔父が亡くなって、少なくとも1年以上後の日付だ





病院で亡くなった日時などは、前線の部隊は知るよしもなく

それでも連隊の軍医さんが死亡者調書を作成し

60連隊独自で作成された死没者連名簿にも

名前が載っていると言うことは

病院から師団なり連隊なりに電報などで報告があり

それを元に事後、連隊が作成したと考える





それらの報告文書や個人のカルテなど

病院関係の証拠書類は残っていないだろうか?

以前に訪れた自衛隊の衛生学校の資料館には

これらの資料はなかった

あるとすれば国立病院にあるのではないか

「しょうけい館」と言う、戦傷病者に関する資料館もあり

まずはそこに相談すれば良いと教えてもらった



衛生学校関連の過去記事はこちら↓↓

「ミャンマーに思いを寄せて 492」
http://blog.livedoor.jp/aya_sann/archives/1881091.html





続く…





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ミャンマーに思いを寄せて 1126

先に出てきた60連隊の戦没者の分布図は

60連隊の関係者からいただいた物である

大叔父は載っていなかったので

関係がない資料として早々に仕舞い込んでいた

そのため、私がこの資料を持っていることは

私の支援者さえ誰も知らなかった

何とも思っていなかった資料だが

「一次資料として、かなり貴重な資料だ」と

皆に言われて「え?そうなの?」と思った

もしかしたら、そんな資料が

我が家にはたくさんあるかもしれない

実はこの後に起こる事柄においても

私の仕舞い込んだ資料が大変な事になるのであった





新たに発見された兵籍簿の分析については

歩兵60連隊において、諸作戦に参加して

インドのテグレパールから病院に搬送されたと言う

部分について、内容がおかしいと結論を出した

階級の昇任や、甲種幹部候補生の指定については

書き漏れの可能性が高いが、確認のすべがなかった

これらの件については、とりあえずお預けとし

その他の所を分析しよう





では次は、ビルマ・メイミョウにあった第121兵站病院で

死んだとされていることについて調べてみようかな

でも、どこでどうやって調べるの???

またまた大変な調査になるかも。。。(>_<)





続く…





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ミャンマーに思いを寄せて 1125

さて、話は少し戻って…

大叔父がテグレパールから移動後に通過したとされる

「患者集合所」と言う聞きなれない言葉について

調べたので書いておきます

「患者集合所」とは、病院よりも前線に近い場所で

患者集合所に集まってから病院に行くそうだ





戦没者の連名簿の中には

死亡地が患者集合所の人もいた

病院に搬送される前に患者集合所で力尽きた人である

その点、大叔父は昭和19年5月26日に

患者集合所を経て

700kmも離れた兵站病院で亡くなっている

4月の末にはすでに近隣のモーレの病院は機能しておらず

そこからビルマ国内に搬送されたのであろう





ただ、60連隊に居なかったと言う結論に至り

この兵籍簿の記載が真実ではないと判断した

もしかしたらインパール付近の

60連隊以外の別の部隊に居たかもしれないが

少なくとも60連隊には居ないことから

この患者集合所の記載も詐称の可能性は高い

やはり700kmも離れた病院に搬送されるのは

やや無理があると思うのであった





テグレパールに居たことが嘘で

メイミョウで死んだことはほんとうの場合や

どちらもほんとうだが、60連隊ではなく特務機関に居た可能性や

またはどちらも嘘の場合もありうる

固められる箇所から確実に押さえていかなきゃ。。。





続く…





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ミャンマーに思いを寄せて 1123

やはり私の仮説はゆるがない

時々、自信を無くして

全部「たまたま」が偶然重なっただけで

兵籍簿を疑うことはおかしいのかなと

苦しい調査の局面に心が折れそうになる時もある

しかし、こうして1つ1つ分析していくことで

その考えは払拭され、仮説は現実に近づいてくる

残念ながらこの方法しか今の私には無いのである





兵籍簿の内容が全て嘘であるとは思っていない

一部分はほんとうの箇所もあるだろう

しかし、どこの部分がほんとうで

どこの部分が嘘で、なぜ詐称しなければいけなかったのか

そしてその真実は何なのか。。。

大叔父は一体どこに居たのだろう

無謀のようだけれど

70年前に作られた公的文書の裏付けに挑む





大叔父を知っていなければおかしい立場の方々が

大叔父のことをご存じないことが判明し

700kmも離れた兵站病院に搬送されたことに

疑問を持ち始め、調査はおかしな方向へ走り出した





今回の兵籍簿の分析で

大叔父は病院に搬送されたとされる地点である

インド国内のテグレパールに

60連隊の要員として存在しなかったと改めて確認出来た

やっぱりそうよね、私は私の持論を信じて頑張るしかない

いつかいつかこの調査が完結することを目指して☆




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 1122

60連隊の戦没者の分布図には

遺体についての処置も書かれている

どうも1度、遺骨収拾に行った後に

今後の計画を立てるための資料のようだ





「○○部落の西側及び南側の谷地に200名以上が埋められている」

「○○より道路の南側200mのところに300名以上が

雑木林の中に埋められた」

「南斜面の壕及び○○南側の低いところに300名埋めた」

「道路より100m位のところ、住民が集めて埋めてくれた」

「壕の中に約300体が埋まっているのを確認した」など

紙面いっぱいに書かれている





ビルマの遺骨収拾が実現したのは

戦後の昭和40年代後半である

この資料においても昭和49年9月に作成された物だった

きっと戦友が集まって、薄れている記憶を絞り出し

一生懸命作成されたのだと思う

平和な時代になっても

ビルマに置いてきた戦友を忘れていなかった

私は涙が出そうであった





この分布図に大叔父の名前は出て来ない

何度も何度も探したが

この分布図は、インパール付近を中心とした

インド国内での遺骨収拾のために作られた資料で

ビルマ国内で亡くなった者は載っていないのだった





数年前に、私が大叔父のことをご存知かどうか

お聞きしたのは、中隊の生き残りの2名と隣の中隊の1名

たった3名であり、お年も召されていることから

たまたま知らなかった可能性は拭いきれない

この分布図が作られた時代だったら

もっとたくさんの方にお聞きできたのに。。。残念xx






続く…





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コメントをいただいて♪

読者の皆様へ


いつも読んで下さってありがとうございます

台風被害は大丈夫ですか?

何卒お気をつけ下さいね





日々、とにかく毎日と言えるほど歴史の勉強をしています

凹んでは泣いて、それでも何クソ~と立ち直る

リアルタイムに追いつかないブログ記事更新のために

夜になると記事を書いて、翌朝の8時前後に予約

それが終わらないと寝られない~

そんな日が何年続いているでしょう





今年に入って調査の停滞が続き

お疲れモードで少しペースが落ちていました

今年は終戦から70周年の節目の年

なんとしてでも調査を完結したいと願い

ここ最近はペースアップしています

国会図書館にもよく行きます

150629_130825
















そんな折、ブログにコメントをいただきました

私のこのつたない記事が

少しでも何かのお役に立ったのかと思うととても嬉しく

続けていて良かったなと思う瞬間でした

ありがとうございます!

※コメントを寄せられた方へ

いただきましたコメントは配慮して公開しておりませんが

こちらからの返信を公開しています





先日には元・光機関員のおじいさんからも

エールをいただきました

元気を出してもう少し頑張ってみます☆

皆様もどうぞ宜しくお付き合い下さいませ




2015.7.17




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ミャンマーに思いを寄せて 1121

この分布図の中で1番戦死者が多かったのは

大叔父の第1大隊の5/24の戦闘だった

第1大隊が弓師団に引き抜かれた状態の

60連隊全体の各戦闘ごとの最高死亡者数よりも

1個大隊の最高戦死者数の方が多いなんて…

それほどまでに激しい戦闘だったのだろうけど、、、





寄せ集めの混成部隊は連携を取るのが難しいと言われるが

実は第1大隊が弓師団の山本支隊に派遣された当初

勢いよく大隊は戦い過ぎて、このままでは危ない状況となった

それを見かねた元の師団である祭師団の情報参謀が

山本支隊長に意見具申し

第1大隊の壊滅を回避したことがあった

山本支隊長から新たな任務を与えられた第1大隊は

当初の攻撃目標を諦め転進した

その事情を知らない近隣部隊からは

第1大隊は戦場を放棄し逃げたと思われたらしい

おじいさん達は、今でも汚名を着せられたと憤慨している





そんな環境の中で

よその師団で孤独に戦い壊滅状態となった第1大隊

どこの部隊も精一杯で

他部隊を援護することは出来なかっただろうが

大叔父の機関銃中隊は玉砕している

60連隊の軍旗の下で戦っていれば

こんなに酷い状況にはならなかったかもしれないと

私はふと思った

おじいさん達はどう思ったのだろう。。。

同じ玉砕であっても、60連隊の軍旗の下だったなら…

考えてもしかたがないが、私は泣きそうになった





続く…





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ミャンマーに思いを寄せて 1120

我が家にはかなりの資料がある

いただいたり・購入したり様々だが

それが役に立つのかどうが

これは何?と、よく分からない物まである





この兵籍簿の分析調査で

ふと思い出した資料があった

そう言えば…あんな資料があったな。。。

それは、機関銃中隊のみでなく

60連隊全体の戦没者を

地図上に作戦別の時系列にまとめた分布図であった

RIMG0165







RIMG0166







RIMG0167








ぼちぼち枚数のある、とても詳細な資料だ

遺骨収拾のために作成された物である

地域名とそこでの死亡者合計数

戦死者・戦傷死者の所属、階級・氏名と死亡日、出身地





それを見ていると、激戦だった5月24日には

大隊全体で164名戦死していた

もちろんそれまでにも戦死者はおり

5/24までに約40名余りが既に欠けている

5/24以降に病院で亡くなった者も20名余り

この時期に大隊としては220名余りの死者を出している

大隊の人員が約900名くらいだとしても

残りの人員も全員が健康体ではないだろう

負傷していたり、マラリア等の体調不良の者も多かったと思う





連隊長の手記によると

歩兵1個中隊の定員は180名であるが

幹部候補生、下士官候補生、入院患者

その他の部隊での臨時勤務要員等を控除した上

インパール作戦特有の「駄馬編成」のための改編で

駄馬編成への差し出しとして各中隊から40名引き抜かれた

中隊の実人数は、80~90名となり

欠員の多い中隊については60~70名のところもあったと

書かれていた





そうすると、先の大隊900名も、現実にはもっと少なかったと思う

その中で約220名を失うのはかなり厳しかったであろう

連隊長の手記による「大隊の残人数50名」と言うのも

納得出来るのである





続く…





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ミャンマーに思いを寄せて 1119

そして、この名簿を見ていて気づいたことがあった

確か戦史叢書だったか、60連隊発行の本だったか

大叔父の機関銃中隊が玉砕したのは

昭和19年5月26日だったと思う

ただ、この死没者名簿では

中隊長以下が大量に戦死されたのは24日となっていた

実際には24日には既に壊滅状態だったが

26日になり、やっと玉砕として扱われたのではないかと思う





今までは大叔父が病院に搬送されたのが5月26日で

中隊玉砕も26日だったことから

例えば午前中に大叔父が戦線離脱して

夜に中隊が玉砕したとしたら

玉砕の前に戦線離脱した大叔父は

中隊の残人数に入っていなくとも

おかしくはないと思っていた





しかし、24日に既に中隊が壊滅状態である以上

26日に病院に搬送された大叔父は

残人数に入っていなければいけない

それでも24日の中隊の生き残りの中に大叔父は居なかった、、、





中隊最後の生き残りと言われるおじいさんは

中隊の残人数は4名で

大隊では20名余りだと言われていたが

インパール作戦間の連隊長の手記によると

大隊長も重傷を負い

大隊残人数は50名ほどだったと書かれている

この違いは、命がある人が50名ほどで

おじいさんが言われる20名は、戦闘継続が可能な人数

ではないかと思われる

その証拠に、24日の激戦後の「戦死」の後には

1ヶ月ほど「戦傷死」の名簿が続くのである





では、この差の残りの虫の息の30名に大叔父が含まれていた

のではないかと考えてみたが

兵籍簿では、それまでの作戦全てに参加していることと

なっており

事実上の玉砕日の24日も

戦闘に参加していたこととなっているため

知らないと言うことはありえない

仮にマラリア等でビルマ入りして以来

ずっと後方待機であったならば

そんな兵隊を前線に連れて行くことはない

また「殊勲 甲」をもらっていると言うことは
 
功績があったと認められたことであり

影が薄い存在でもなかったと言うことだ

それなのに、実際は60連隊で大叔父を知っている人はいない





結論:おじいさん方が口を揃えて嘘をつく必要はない

よって兵籍簿に記載されている内容がおかしいと言えるだろう





続く…






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ミャンマーに思いを寄せて 1118

それでも確かに大叔父は昭和20年9月2日に

作成された、歩兵60連隊の

第一大隊機関銃中隊の『死没者連名簿』の中に

名前が出てくる

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数年前に京都60会の慰霊祭に参加した時

私の作成した大叔父の資料を

同じ中隊の最後の生き残りと言われているおじいさんに

見せたが「知らない」と言われたので

「ここに名前が出ています」と死没者連名簿を見せると

「これ、うちの名簿ですよね…あれ?ほんとや…

でも誰やろ、この人…」って言われたのを思い出す





この名簿の中で、メイミョウの兵站病院で亡くなったのは

大叔父を含めて3人だけだった

このブログを見て情報提供して下さった方は

まだ私がブログで大叔父の名前を伏せていた頃に

亡くなった日付等から大叔父を探して下さり

「この方ですか?」と連絡を下さった

それほど、メイミョウの兵站病院で亡くなった人は稀だった





この名簿には他に「総合功績等級」と言う欄があり

大叔父は「殊勲甲」をもらっていた




続く…





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ミャンマーに思いを寄せて 1117

新たな兵籍簿の一部が見つかったことで

大叔父の調査が加速するかなと期待したのに

余計ややこしくなって

見れば見るほど疑問に思うところが増えていく。。。

頭が痛い~う~ん、う~ん





一部の書き間違いがあったとしても

この兵籍簿の内容がほんとうだとすると

同じ中隊のおじいさん方が

大叔父の存在を知らないと言うのはどう言うことだろう?

インパール作戦からの投入ではなく

作戦前の道路工事から既に中隊に配属されている

こととなっているのに





兵籍簿によると、大叔父が最後の戦闘に参加したのは

昭和19年5月15日~24日「ライトマヒル付近戦斗参加」

翌々日の26日に戦線離脱し病院に搬送

同日、機関銃中隊は玉砕

中隊の残人数は一桁であったと言う





隣の中隊のおじいさんの兵籍簿では

このライトマヒルの戦闘は27日までとなっていることから

26日に機関銃中隊が玉砕したあとも大隊は維持し

戦闘は継続されていた

ちなみに、この時点での大隊の残人数は20名余りとなっていた





玉砕の2日前まで戦闘に参加していた者を

なぜ誰も知らないのだろう?

私としてはありえないと思うのだが

よっぽど大叔父は影の薄い人だったのだろうか?

反対に記憶に残らないようにするのは難しいと思うのだけど…





続く…





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ミャンマーに思いを寄せて 1116

なんだか意味の分からない兵籍簿だなぁ。。。

新たに発見された兵籍簿の1部にも

大叔父がインド国内のテグレパールから

ビルマ国内の700kmも離れたメイミョウの兵站病院に

搬送されたことは記されていた




ただ、詳細が付記してあった

「五月二十六日 アメバー性赤痢兼マラリアニ依リ

第105兵站病院モーレ患者集合所ニ入所」

と書かれていた

モーレとは野戦病院のあったところで

弓師団の戦記には必ずと言っていいほど出てくる





大叔父はモーレの野戦病院の患者集合所に行った

患者集合所に行ければ

すんなりと後送してもらえたのだろうか?





大叔父と同じく弓師団から

珍しくビルマ国内のメイミョウの兵站病院に行った

と言う人の話によると

その方は4月末の早い段階でモーレの野戦病院を

訪れているが、既に野戦病院は機能しておらず

このままここに居たら死ぬと思い

自らメイミョウを目指したと言う





1人でアラカン山脈を越えるのに3ヶ月

ビルマ国内に入ってからも

大きな川を渡るために更に2ヶ月要し

メイミョウにはトータル5ヶ月かかったと聞く





それに対し、大叔父は戦況がもっと悪化した

5月の末に搬送されて2ヶ月後には

メイミョウの病院で亡くなっている

いつ、病院にたどり着いたのかは定かではないが

もし、兵籍簿がほんとうならば

かなり優遇されて搬送された事となる

…単なる下士官が何故そこまで、、、

正直なところ、2ヶ月で移動するなんて

物理的に無理なんじゃなかろうかと思えてくる





続く…





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ミャンマーに思いを寄せて 1115

昭和19年5月24日付の「軍曹甲種幹部候補生」の記述と

最後の行の昭和19年7月24日、すなわち大叔父の死亡日の

「同日甲種幹部候補生ヲ命レ軍曹ノ階級ヲ與」の記述

どっちが正しいんだろう。。。

別にどっちが正しくても正しくなくても

大叔父を発見することにさほど影響はないのかもしれないが…





大叔父のことを「知らない」と証言された

同じ機関銃中隊のおじいさんは

60連隊内の甲種幹部候補生の集合教育の教官をされていて

「この時期の人だったら私が受け持った」と言われていて

受け持った甲種幹部候補生の中に

大叔父はいなかったと証言されている





本来ならば昭和19年1月1日に「甲種」の指定があるはずだった

でも何らかの事情で大叔父の発令が遅れたならば

おじいさんが教官をされていなくともおかしくはない

やはりこの発令日は大事なことだと思う

もし仮に、昭和19年5月24日付の発令がほんとうだった場合

完璧にインパール作戦中のため

集合教育自体、実施されていないだろう





でも…1月1日の発令が5月ってなんで?

しかも24日付って何?

昇任や幹部候補生の指定は○月1日が普通である

隣の中隊のおじいさんの兵籍簿においても

昇任は全て1日付の発令であった

死んだ日の特進は1日付でなくとも分かるが

24日ってかなり微妙なんですけど~

しかも欄外に走り書きって(^^;)




この5月24日が何の日なのか

大叔父の兵籍簿で拾ってみると

大叔父が最後に参加した作戦の終わりの日であることが分かった

その2日後に、大叔父は病院に搬送されている

そしてその日に大叔父の機関銃中隊は玉砕してる

、、、なんじゃコレ???

何か分からないけど、変だと思うのですけど

とにかく作戦参加最終日に合わせて

つじつま合わせのように兵籍簿に書き込んだ風に見えてくるのは

気のせいだろうか?

またまた私の勘ぐりすぎでしょうか?

も~ヤダ-、誰か~この24日付の発令を説明して~(>_<)





続く…





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ミャンマーに思いを寄せて 1114

3階級特進のようにしか見えない兵籍簿

素直に靖国偕行社文庫でお世話になった方に

「戦病死でも3階級特進ってあるのですか?」と質問してみた





答えは、、、想像通り「ない」でした~(笑)

元々、この方は私の調査に否定的な考えの方で

「公的文書を疑いだしたらキリがない」と

素人の妄想だとケチョンケチョンに言われた過去があるが

それでも悪い人ではないと私は思っている





死んだ際に1階級特進は戦死でも戦病死でも必ずする

その中でも特別な功績があった者には

2階級特進までは「与える事が出来る」となっているのだそうだ

その特別な場合の例とは、『特攻』しかないのだそうです





。。。特攻かぁ、、、特攻と戦病死、う~ん

「戦病死で2階級特進は…?」と食い下がったが

「戦病死でそんなのあるわけない」と笑われて終わってしまった

ま、常識的に考えたらそうだろうなぁと私だって分かってる

でもね、でもね、この兵籍簿ではそうなってるんだもん

「そんなのたまたま書き忘れただけですよ」って

あはは、そう言われると思ってた

そうですよね…分かってはいるんですが、、、

とりあえず確認だけはしなくちゃと思ったのですよ





この方には、今までずっと「たまたま論」で流されている

大叔父が700kmも搬送されたことも

中隊の人が誰も大叔父をご存知ないことも

この兵籍簿の件も、全て「たまたま」だと言う

ふぅー私が勘ぐり過ぎなのかな?

確かに、全て「たまたま」だったら私の調査は意味がない。。。

なんだかなぁ、悲しくなってきたわ(T_T)





続く…





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ミャンマーに思いを寄せて 1113

大叔父の兵籍簿の分析は続く

もし階級の昇任は書き忘れていたとしても

昭和19年5月24日付の「軍曹甲種幹部候補生」の記述と

最後の行の昭和19年7月24日、すなわち大叔父の死亡日の

「同日甲種幹部候補生ヲ命レ軍曹ノ階級ヲ與」の記述ついては

甲種の指定日や軍曹の昇任日が二重に発令されている

こととなるので、相反する内容である

どう考えても両方正しいと言うことはありえない

でもどちらにしても、兵長や伍長に昇任したことは書かれていない





インパール作戦に向けて&インパール作戦の最中で

「兵籍簿なんて書いてる状況じゃなかったんだよ!

少しくらい間違ってたっていいじゃん!!」と

当時の人事係の方がおられたら怒られそう…

どんな物でも「残してくれてありがとう」と感謝しなくちゃ

いけないのだろうけど、、、

でもでも~頼むから後から遺族が見て

疑問を抱くような兵籍簿はや~め~て~





階級のことは私はよく分からない

3階級特進なんて聞いたことがないけど

もしかしたら戦病死でもインパール作戦参加者は

特別に3階級特進だったとか

戦病死でも、名誉の?戦病死扱いがあったりして?

例えば、マラリアの新薬開発のために検体として

死んだとか、死後に臓器提供を約束してたとか。。。





念のために靖国偕行社文庫でお世話になった方に

聞いてみる事にした

色々なことに精通されているので

きっと誰に聞くよりお詳しいであろう





続く…





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七夕ですね

読者の皆様へ


いつも読んで下さってありがとうございます


現在の記事の内容は、2014年9月くらいの話です

この後に2回ほど完結するのではないかと

思うような出来事が待っています

どちらも未だ継続中の案件です

調査は少しずつ進んでいるような・進んでいないような…

突破口がいつかいつか開くのではないかと夢見て

これでもかと思うほど色々な方面から攻めています(笑)

ここまで来たら、もう根性と意地しかないかもです(^^;)





新たな心強い味方も増えて

究極の?強烈な協力者達に支えられて

思いつくがまま突っ走っております

単に大叔父の足跡が分からないがため

調査は広大な範囲に広がり、これ…収拾がつくのかな?と

不安になるときもしばしば(>_<)





ここ最近は、新たな資料を大量ゲットしましたので

チェックに追われる日々です

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も~ほんと図書館並になってきました





国会図書館や靖国偕行社文庫、偕行社や防衛研究所など

その他には、インパール作戦に関する講演会の情報を

いただいては、様々な所に出没しております

まだまだ諦めずに頑張ります(^^)/

頑張っていれば必ず良いことがあると信じて

今日は七夕、「早く大叔父さんが見つかりますように」




2015.7.7




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ミャンマーに思いを寄せて 1112

【訂正】
前回の記事中

幹部候補生の甲種・乙種の区分の発令について

「じゃあこの後に甲種と決まるのね

3ヶ月後だから2月末に発表があったのかしら?」を

『3ヶ月後だから1月1日に発表があったのかしら?』

と修正しております、失礼しました





3階級特進なんて気のせいよね?

単なる書き漏れが続いただけよね?





戦病死した後の最後の行には

「同日甲種幹部候補生ヲ命レ軍曹ノ階級ヲ與」と書かれていた

これだけ見れば

死んだ日に甲種幹部候補生に指定され

特進で階級は軍曹になったように読み取れる





しかし、「官等級」と言う別の欄に

走り書きのようにはみ出て

「昭和19年5月24日 軍曹甲種幹部候補生」とも書かれていた

採用から7ヶ月後には軍曹に昇進するのだから

大叔父は10月1日に指定され、その7ヶ月後の5月1日には

軍曹であってもおかしくはない





走り書きが正しいとすると

ん?5月に既に軍曹なっていたの???

でも本文には甲種・乙種の区分の記載も

兵長になったことも、伍長になったことも書かれてないし

…更にそしたら死んだ日の最後の一文は何なのだろう???

「同日甲種幹部候補生ヲ命レ軍曹ノ階級ヲ與」




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 1111

タイトルが1111話になりゾロ目ですね(笑)

1,100話も超えて、この先どうなるのでしょう(^^;)

とにかく突き進んでおります!





さて、今まで最終階級が「軍曹」と言うことは分かっていたのが

その昇進過程は分からなかった

新たに発見された兵籍簿の一部には

その詳細も記されていた





戦病死だから1階級特進くらいかなとは思っていた

やはり死んだ日に「同日軍曹ノ階級ヲ與」と書かれている

じゃあ死ぬまでは1個前の階級の伍長だったのかな





昭和13年4月時点での改正陸軍補充令により定められた

規則によると、幹部候補生は、兵として在営4か月以上が

条件であり、採用時に一等兵→

採用後におおむね部隊教育2か月で上等兵→

採用後3か月で甲種・乙種に区分に至る





大叔父が幹部候補生の指定を受けたのが

昭和18年の10月1日

「同日一等兵ノ階級ヲ與フ」

この後に昭和18年11月20日に「上等兵ノ階級ニ進ム」

とあるので、順調である

じゃあこの後に甲種と決まるのね

3ヶ月後だから1月1日に発表があったのかしら?





規則によると、甲種幹部候補生は、区分後1か月で伍長→

さらに3か月後(採用から通算7か月後)に軍曹→

その後、原則として学校で教育を修了した後に曹長→

見習士官を経て、晴れて少尉になる





しかし、大叔父の兵籍簿は

上等兵に昇進した後には

甲種・乙種の区分の発表や昇進さえ

それらしきことは何も書かれていなかった

、、、ん?えっ!上等兵から死んで軍曹???

上等兵→兵長→伍長→軍曹

…これって、、、3階級特進???(xOx)キャー





続く…





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ミャンマーに思いを寄せて 1110

大叔父の兵籍簿の分析を続ける

「歩兵60連隊ニ在リテ大東亜戦役仏印方面ノ勤務ニ従事ス」

と言う記述は、道路工事のその後も出てくる

それは、道路工事を止めて、インパール作戦に向けて

マンダレー方面に集結するために移動している最中のことである

なんだろうコレ…

隣の中隊のおじいさんの兵籍簿には出てこない記述であった

中隊毎に兵籍簿の書き方は違うのだろうか?





「歩兵60連隊ニ在リテ」って

60連隊所属なんだから、いちいち書かなくてもいいのに

そして「大東亜戦役仏印方面ノ勤務ニ従事ス」って

人事記録に道路工事って書けないかもしれないけど

そんなアバウトな表現にしたら

全てそれで済むよね…

と思うのは私だけだろうか?





この記載を何か例えるなら

住所の書き方で、東京都港区を

隣の中隊は「港区」だけ書いて

大叔父の機関銃中隊は「日本国・東京都・港区」と

書き表すような差なのだろうか?

隣の中隊の人事係と大叔父の中隊の人事係は

几帳面さが異なり

このように書き方に差が出た???

えーっと、えーっと





「歩兵60連隊ニ在リテ大東亜戦役仏印方面ノ勤務ニ従事ス」

の記載について、兵籍簿の書き方の規則や例

もしくは何らかの意味合いがあるのでしょうか?

※兵籍簿に詳しい方がおられましたら是非ともご教授下さいませ

ウーンよく分からないと言っていたら

今度はビックリするような記載を見つけた





続く…





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ミャンマーに思いを寄せて 1109

連隊長以下の本隊はバンコクに

昭和18年の9月12日に到着

大叔父と同じ第1大隊の隣の中隊のおじいさんも

9月22日にはバンコクに着いている





これから祭師団はタイとビルマの国境に

自動車道を作ることとなる

60連隊に於いても、バンコクに着いてから

その命令を受領し、11月10日まで道路工事をしていた





大叔父の兵籍簿では

「10月19日ヨリ11月12日迄 

歩兵60連隊ニ在リテ大東亜戦役仏印方面ノ勤務ニ従事ス」と

書かれている

すなわち、10月19日にやっと60連隊に追いついて合流し

「大東亜戦役仏印方面ノ勤務」とは道路工事のことであり

それに参加したと言うことであろう




これがほんとうならば、大叔父は機関銃中隊に

昭和18年10月19日~戦線を離れる昭和19年5月26日まで

約8ヶ月間も居たこととなる

なのに、知っていなければおかしいポジションの方々が

誰1人として、大叔父を知らないのは何故だろう…





続く…





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ミャンマーに思いを寄せて 1108

新たに発見された兵籍簿の1部には

今まで分からなかった大叔父の行動の詳細が記されていた

移動日、移動経路、昇任、参加作戦名など





同じ大隊で隣の中隊のおじいさんの兵籍簿のコピーを

いただいていたので、おじいさんの記録と

大叔父の記録を照らし合わせてみた

隣の中隊だが同じ大隊のため行動はほぼ同じだろう

確認すると、経路はやはりほぼ同じであった

ただ、インパール作戦までは

かなり時期のズレがあった

同じ大隊であっても、中隊によりこれほどまでに

移動の時期がズレるのだろうか?





一例として、隣の4中隊が昭和18年の8月17日に上海港を

出発したのに対し、大叔父が上海港を出発するのは

昭和18年の10月3日のことである

それまでの間は、中支の歩兵60連隊が受け持っていた地域の

「警備」をしていたと書かれている





60連隊全体の移動完了はかなりの期間を要したと言われているが

先発隊の第3大隊が昭和18年7月16日に呉淞港(上海港)を出発し

連隊長以下の本隊は、7月25日に出発しサイゴンを目指した

当時の連隊長の手記によると

サイゴンでは「逐次到着する大隊を待つこと約1ヶ月」と書かれていて

9月5日にはまたサイゴンを出発している

おじいさんの兵籍簿でも4中隊は9月10日にサイゴンを出発している





大叔父の兵籍簿では、サイゴンに着いたのは10月19日となっていて

出発に至っては10月24日、、、

これってどうなんだろうなぁ?

機関銃中隊または大叔父だけ遅れて行動している?

まぁ考えていてもしかたがないので

ともかく先に読み進もう





続く…






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ミャンマーに思いを寄せて 1107

お役所に残されていた大叔父の公的文書

まずは新しく出てきた物を中心に解読してみる





今までは、何も書かれていなくて

なんじゃこれ?と思うほど、歯抜けもいいとこの兵籍簿

大隊さえも書かれていなくて

「歩兵60連隊機関銃中隊」なんて書かれていた

兵籍簿には死んだことすら書かれていなかった

兵籍簿の一部が新たに発見されたことで

かなり詳細が分かった





もしも、この兵籍簿に最初に出会っていれば

私は何の疑問を持つこともなく

ビルマで大叔父の慰霊を終え

大満足で活動を終わっていただろう





今頃になって出てきたって、、、

じゃあ今までの私の調査は無駄だったのだろうか?

何も書かれていなくて、分からないから調べた

様々な方の証言や遺品、状況証拠により

現在の「特務機関に居たのではないか」と言う推論に至った

その積み上げは、紛れもなく事実である

そして、その事実は詳細が記されたこの兵籍簿が

ウソだと言い切れるほどの自信となっているのだ





こうして70年も前に作られた公的文書を疑うのは

おかしなことだと思う

公的文書を疑いだしたらキリがないのは分かっている

冷静な目で見なくっちゃ。。。と思いつつも

おかしなところばかりを探している私がいた





ゲゲゲ…あると言えばいくつもあるなんじゃコレ(>_<)

偶然・たまたまの誤記と片付けて良いのだろうか?

気のせいだと言いたい






続く…






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