ミャンマーに思いを寄せて

亡き母の思いを果たすべく、ビルマで戦死した大叔父の足取りをたどる私の奮闘記録☆

2015年10月

ミャンマーに思いを寄せて 1222

インド国民軍については

やはり比較的多くの手記があった





インド国民軍のインパール作戦間の

第一師団の編制も載っていた



<インド国民軍・第一師団>  
 
 ~インパール作戦間~


司令部  最高司令官 SCボース(メイミョウ)

第一師団  MZキャニー少将(ナウチャング)

 第一連隊(スバース連隊) シャナワーズ・カーン大佐

  第1大隊 ラトリー少佐(アキャブ)

         シャナワーズ大佐(アキャブ~コヒマ)

  第二大隊 ラム・シン少佐(チン高原~パレル)

  第三大隊 パダム・シン少佐(ファラム~パレル)

 第二連隊(ガンジー連隊) JJキャニー大佐(パレル左)

 第三連隊(アザード連隊) デイロン大佐(パレル右)

 ラニー・オブ・ジャンシー部隊 ラクシミー大尉(メイミョウ野戦病院)

師団兵員  7,000名





インド国民軍に第一師団があるのは知っていた

第一師団と言うことは、第二、第三とあるのかな?

でも第二・第三は聞いたことがなかった

すると添え書きに

「第二師団はバンコク準備中

第三師団はシンガポールで兵員募集中」と書かれていた

あっ…インパール作戦に間に合わなかったんだ

一応、第二・第三と続く予定だったけど

インパール作戦で負け戦となり

それどころじゃなくなったと言うことだったんだね





ラニー・オブ・ジャンシー部隊が第一師団に

含まれていることを確認してホッとした

場所が「メイミョウ野戦病院」と書かれているが

メイミョウに野戦病院があったのかな?

それとも大叔父が最後を迎えた

メイミョウの第121兵站病院のことだろうか?

敗走時の苦難はあっただろうけど

前線には投入されていなかったことにも安堵した

第一線には出さずに

きっと医療活動等の支援のために配備されていたのだろう

プロパガンダの意味もあったかもしれない





師団兵員7,000名と言うのは

旧軍と比較すると少し小さいので

実際には旅団級戦力と言えるだろう




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 1221

おじいさんからいただいた本を読んでいて

それぞれのカテゴリの始めには

概況と共に、そのカテゴリを物語る

凝縮された文章が添えられていた





70年前、若き日のおじいさん達が

実際に体験された戦争の話

私には想像しか出来ないが

それらの文章を目にして

情景が浮かんできそうで心が痛んだ





~コヒマ戦線・烈師団~より(原文)

一兵の補充、一粒の米もなく、

日本軍と国民軍が戦い抜いた

64日間のコヒマの攻防は、累々たる彼我の屍を重ね

アミーバ赤痢とマラリア地獄をつくった。

兵は「バンザイ」「ジャ・ヒン(インドバンザイ)」の

声もなく人間の限界を超えて死んでいった。





~祭師団~より(原文)

日中はタコツボに入って草木で覆い

何日も空を見ない。

やがて豪雨がタコツボを満水、

皮膚は破れ肉はくずれる。

高熱と何十回の下痢、飢えと寒さ。

「何か食わせてくれ、死んでもいい。

死んだらラクにインパールに行ける」





~ついに作戦中止(07・10)~より(原文)

日本軍に「白旗」はなかった。

吹き千切られた日の丸の棒を手榴弾で飛ばして、

兵は白骨街道、”靖国街道”をよろめいていく。

アッサムの暑熱は一日にして肉を腐らせ、

山ネコに食われ、ウジが湧き、雨は溶して流し、

白骨が破れた鉄帽をかぶり枕を並べ

ゲートルを巻いている。





続く…





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ミャンマーに思いを寄せて 1220

インパール作戦間には

大川塾生は各地域から呼び寄せられ

光機関に配属される者が多かった

一番苦しい作戦であったため

インパール作戦に関する手記は多かった







驚いたのは、光機関にお坊さんがいたことだ

私の認識では光機関になった時には

民間人を含めなかったと書かれていた記憶があるので

僧籍を持っていた軍人もしくは軍属なのだろうか?

お坊さんが工作班の班長をしていた

丸山上人と書かれている

これは「ハ」号作戦あたりの話であるが

インパールの近くまで行っている

※「ハ」号作戦とは

第二次アキャブ作戦(昭和19年2月)

インパール作戦の支作戦としての性質を持っていた





さらに、お坊さんが「ハ」号作戦に引き抜かれて

次に班長になったのは大川塾生であった

その大川塾生に階級があったのかどうか分からないが

かなり若い班長であっただろうと思われる

班員を指揮する重責を、若き大川塾生は担った

やはり軍内部での大川塾生の扱いは

一目置かれた、特別な存在だったのだ





続く…





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ミャンマーに思いを寄せて 1219

光機関に関しても少し書かれている

光機関には”工作班”と言う部署が

あったそうである





工作班には、中野学校卒の特務将校80名を

中心に、インド国民軍の特務隊・情報隊50名

(どちらも特殊工作隊の一部門だと思われる)、

大川塾生、ビルマ・カレン・ナガ・マニプール各種族員を

入れて工作班を編制し

インパール前線に諜報戦を展開していた





任務は、インド国民軍との連絡、指導、協力

英印軍の投降工作

未開のインド国境の原始民族の懐柔

英印軍の工作機関の切り崩し等





インパール作戦間には

烈師団に4個班、祭師団に2個班、弓師団に3個班

合計9個班が同行し最前線で活躍した





投降工作の手記では

最前線での英印軍への

呼び掛け投降工作を

メガホンやスピーカーにて展開したと書かれていた

「諸君はインド国民軍であることを知っているのか

我々がそのインド国民軍である

祖国インド独立のために我々はやってきたのだ

諸君も我々と一緒に戦ってほしい

ただちにこちらへ合流するよう、待っている」

敵前30~50mの話であった

そのため、前方からは敵の弾

後方から味方の弾が頭上を飛び交った





続く…





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ミャンマーに思いを寄せて 1218

光機関の前身である岩畔機関についても

少し書かれていた





真偽のほどは分からないが

岩畔機関においては

政界・財界・民間人の協力者も含めて総勢500名

1ヶ月の機密費は70万円と書かれていた





私の中では岩畔機関から光機関と言う大きな組織となって

最終的に500名くらいと言う認識だったが

実際には岩畔機関の時から500名ほど居たのかな?

ただ、光機関となった時には

民間人は排除したらしいので

純粋に軍人さんと軍属で500名と言うことで

その他諸々の協力者はカウントされていなかったのかも





それにしても1ヶ月70万円の機密費って

現在の価値に換算したら

すんごい金額だよね、、、

いつものようにこのブログではかなり大まかに

当時の1円=現在の1万円で換算すると

70万円=70億円

じゃあ、○○大学のA氏が岩畔機関に持参した

60万円は、1ヶ月の経費にも満たなかったんだ…

「ありがとよっ」くらいの感覚だったのかしらね

でもコレは1個機関の1ヶ月の経費だから、年間だと12倍

ちなみに平成27年度の防衛費は約5兆円、、、

戦時と平時を比べるのはおかしいけど

それでもすごい額だぁ~

特務機関だから特別だったのだろうか???





岩畔機関の編成も書かれていた

・本部…バンコク(後にシンガポール)

 機関長…岩畔大佐

 政務班…高田大輔代議士、千田牟貫太郎司政長官

 特務班…小山亮代議士

 総務班…牧達夫中佐
 
 宣伝班…斉藤二郎大佐

 軍事班…小川三郎少佐

・支部…ペナン、ラングーン

・ペナン支部サラワジ学校




続く…





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ミャンマーに思いを寄せて 1217

おじいさんからいただいた本は

大川塾生の手記であるため

インパール作戦のことだけではなかった

インド国民軍は元より、インドの独立の話や

昔の表し方で「フランス領印度支那」(ベトナム)、

「オランダ領東印度」(インドネシア)、

「イギリス領海峡植民地」(マレー及びシンガポール)、

台湾などの話も多く含まれた

大川塾生の活躍の場は様々であった





そして、大川塾生は若くして優秀であり

特別な多岐に渡る職務を与えられた結果

最終階級においては独立義勇軍(ビルマ)少佐の者や

2階級特進は特攻隊だけだと偕行社の人は言っていたけど

大川塾生の中には、特務活動の功績をたたえられ

戦死により、2階級特進で陸軍兵長を拝受している者も居る





また、日本においては戦死とされる人の中には

戦争中の戦傷死や戦病死だけでなく

終戦後に、志高く自らの意思で現地に残り

外国の部隊において活動し

その後の日本には関係の無い戦いにより

亡くなった者が少なくない





終戦後も生存が確認されており

関係者の説得もむなしく

故郷の両親への遺書を預け

大川塾の教えを全うして散っていった若者や

終戦と同時に消息を絶った者なども含め

最終の者の戦時死亡認定は昭和38年のことであった

終戦により大川周明氏の夢は泡となったが

その精神は確実に大川塾生の心に刻まれて

実践に移したのである





大叔父の調査には全く関係の無い話ではあるが

若い兵士が体験した

素直な表現の証言は私の心を打った

この本が市場に出回っていないこともあり

私はこのブログにおいて

印象に残ったことだけでも

書き留めておかねばならないと思った




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 1216

おじいさんからいただいた本には

ビルマの光機関での

インパール作戦~撤退~敗走の出来事も

事細かに書かれていた

ただ、初年兵クラスの個人の手記であるため

その方個人の動きと

体験された事柄の断片的なことの他は

戦死された大川塾生に関することが多かった

インパール作戦での

大川塾生の戦死者は5名であった





時折、下士官の名前も出てくるが

私が求める大叔父の名前はまだ見つからない

そして、大叔父の兵籍簿の内容が

ほんとうであるならば

大叔父は、インパール作戦の最中の

5月末には戦線離脱し病院に搬送され

7月末には戦病死しているため

その後に続く、長く苦難の各作戦は

大叔父には関係が無い

・イラワジ会戦

・メイクテーラー攻防戦   など





大叔父の死後における諸作戦でも

大川塾生の手記は

戦史学上では、とても貴重な証言だと思う

読む方が読めば、もっと世のためになるのだろうが

私は参考程度には読むものの

もうこの頃には大叔父は亡くなってるのよね…

とサラリと流して読むしかなかった





続く…





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ミャンマーに思いを寄せて 1215

元・大川塾&光機関員のおじいさんに

いただいた本を読み進めていく。。。





もちろん”インド国民軍”についても記載されていた

そこには、インド国民軍の編成が載っていた

私もずいぶんとインド国民軍の勉強をしたが

未だに編成の詳細は

お目にかかったことが無かったので

これは貴重ではないかと思う





●遊撃連隊…3個連隊

●野戦兵団

●特殊工作隊

●砲兵隊

●機械化部隊

●工兵隊

●病院隊

●将校士官学校





こんなに色々な部隊があったんだぁ。。。

遊撃連隊があることは知っていた

砲兵と工兵がいることも知っていた

だけど、砲兵隊や工兵隊があることや

特殊工作隊や機械化部隊もあったなんて





この中に女性の連隊である

「ラニ・オブ・ジャンシー部隊」は入っているのだろうか?

遊撃連隊ではないので

もしかしたらこの中には

含まれていないのではないだろうか





最後の将校士官学校は

この本の著者であるおじいさんが

配属されたところである

バトパハ士官学校と言う




続く…





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ミャンマーに思いを寄せて 1214

アメリカからのガソリンの輸出については

さすがに日本に直接は難しかったと思われるため

第三国のマレーの昭和通商を

経由したのではないかと想像する

また、タングステンと言う切り札の輸入については

日本側が正式に承知していたかどうかは不明である





大川周明氏が手を尽くしていたにもかかわらず

日米は開戦することとなった

日米開戦の報を受け

大川周明氏は、寝耳に水で

大変衝撃を受けたようである





ガソリンについては、残念ながら

輸出直前に開戦となり

日本にガソリンが来ることはなかった

99%準備は整っていたと言われている

ガソリンが届いていたら歴史変わったのだろうか?

また、ガソリンは輸出できなかったが

タングステンは輸入できたのだろうか?

もしも輸入できていたとしたら、、、

それって、アメリカで

日本を攻撃するための武器に使われたのよね

夢はもろくも泡となって消えてしまった

大川周明氏の気持ちを考えると胸が痛む。。。




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 1213

「汎太平洋通商航海会社」、、、

どこかで見たことのある会社名

…日本の会社だよね?

でも、ロスアンゼルスにあった会社???





その会社では、タングステンをアメリカに輸入して

代わりにガソリンを輸出するよう手配済みであった

でも日本の会社でアメリカに事務所???

しかも、大事なタングステンを輸入???

、、、何だろうコレ?と私は最初、理解が出来なかった





この会社は、大川周明氏が

アメリカとの関係改善のために

昭和14年に作ったものであった

大川周明氏が最後までアメリカとの

開戦回避に奔走していたことは

このブログでも以前に書いているが

タングステンをバーターに、ガソリンを得る

極秘裏の折衝ではなく

日本とアメリカの経済に風穴を開けるために

こうした大きな事業を展開していたことを

初めて知った



大川周明氏関連の過去記事はこちら↓↓

「ミャンマーに思いを寄せて 1085」
http://blog.livedoor.jp/aya_sann/archives/1974008.html





続く…





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ミャンマーに思いを寄せて 1212

軍事上、とても重要な鉱物であるタングステンを

各国は喉から手が出るほど欲しがった

主な産出地は中国。。。

その中国には、日本が進出しており

他国は中国から入手することが困難となっていた





日本は昭和通称を通じ

秘密裏に集められたタングステンを

本土の八幡製鉄所にて加工した





タングステン合金は加工が難しく

徹甲弾の弾芯などの小さく単純な形の物しか作れない

その他に、装甲板の強度を上げるために

少量を添加物として用いられることもある

同じ軍事物資と言っても

ボーキサイトのように幅広く大量に

使われる物ではないようだ





実は余ったタングステンは

アメリカに輸出されていた

その貿易会社は、ロスアンゼルスに事務所を持つ

「汎太平洋通商航海会社」であった

読者の皆様は、この会社名に覚えがないだろうか?





続く…





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ミャンマーに思いを寄せて 1211

とても気になった「タングステン」

大川塾生もこのタングステン集めに携わる

タングステンを集めるようにとのお達しは

陸軍省兵器局から「昭和通商(株)」に

『陸亜密』と言う文書区分の指令が出されたとのこと





昭和通商とは、このブログでも何度と出ている

表向きは民間商社であるが

実情は陸軍直轄の軍需国策会社である

ちなみにこの会社を作ったのも岩畔中佐デター



昭和通商に関する説明過去記事はこちら↓↓

「ミャンマーに思いを寄せて 1049」
http://blog.livedoor.jp/aya_sann/archives/1970288.html





この本によると、昭和通商の社長は

元兵器局長であった堀三也少将(陸大33期)で

タングステンの担当は広東支店長

広東支店長は、2.26事件の関係者の大岸頼好予備役大尉





広東省近辺の中国人は

山で発掘した微粉を麻袋に詰めて持っていた

それを日本製の綿布と交換して手に入れる

と言う方法を言い渡される





続く…





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ミャンマーに思いを寄せて 1210

読んでいる中で、ふと気になったのが

「タングステン」と言う言葉だった

タングステンとは非常に硬く重い金属であり

希少金属の1つである





このブログでは、以前にボーキサイトについて

書いたことがあるが

またしても鉱物名が出てきて私の興味をかきたてた(笑)



ボーキサイト関連の過去記事はこちら↓↓

「ミャンマーに思いを寄せて 662」
http://blog.livedoor.jp/aya_sann/archives/1907862.html





このタングステンとは、スウェーデン語、デンマーク語、

ノルウェー語で「重い石」という意味である

ドイツ語ではフォロフラムと呼ばれる

タングステンを用いた合金は、非常に硬度が高いため

高級な切削用工具に用いられ他、

対戦車、対艦船用の徹甲弾の弾芯として用いられる

その他には、電球のフィラメントとして利用されてきたが

LEDの普及によりこの分野の使用量は減少している





産業上・軍事上非常に重要性が高い金属であるが

当時の産出は、中国南部が世界の7割を占めたらしく

現在においても、中国の産出が52,000トンで

ロシア、カナダ、オーストリアと続き

中国が世界の産出量の83.7%を

占めていると言われている





この金属を集めるように

大川塾生の1人は命令を受けた





続く…





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ミャンマーに思いを寄せて 1209

おじいさんにいただいた本を読み進めていく

「みんなみ」と言う光機関の機関紙に掲載されていた

小さな文章を、なんとなくの分類ごとに

載せてあるような編集であった

ですので、私も箇条書きで

出くわした珍しい事や、大事そうだなと思う事柄を

列挙していきますね





ある大川塾生は、ビルマの特務機関「南機関」に

配属を言い渡された

南機関とは、ビルマ人工作を担当した特務機関である

命令は「南方軍総司令部専任嘱託、

南機関付を命じ、ビルマ義勇軍大尉を任ずる」と

言うものであった

大川塾生は、見慣れぬビルマ軍将校の

軍服を支給されて、突然「大尉」になった

日本軍においては、まだ2等兵にもなっていないのに





南方各地に赴いた大川塾生は実によく働いた

大変高度な教育を受け

有能な勤務実績により

各地各方面から非常に期待を持たれ

年齢や階級以上の職務を与えられた

そして、それを見事にやり遂げたのだった

上記のビルマ義勇軍の話は一例であり

この他にたくさん、大川塾生は

戦争と言う渦の中で特殊な使われ方をされるのだった




続く…




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「ミャンマーに思いを寄せて」

読者の皆様へ


いつも読んでいただきありがとうございます

昨日はとっても寒かったです

もう冬の気配を感じます

全ビルマ会から11/3に靖国神社で行われる

「ビルマ方面戦没者慰霊祭」のご案内をいただきました

早速、参加の申し込みをしようと思います

今年もあと2ヶ月ちょっと、早いですね





ブログはまさかまさかの1200話を超えました

私のミャンマー漬けの日々はかれこれ5年

でも知る人ぞ知るところで

お友達には「えっ?まだ続いているの?」と驚かれます

ちまたでは「チベットで行方不明になったおじさんを

探している」とか

「『フィリピンに思いを寄せて』だよね?」とか言われたり

いやいや、あのその、、、





今、書いている「元・大川塾&光機関のおじいさん」と

先日、お電話でお話しました

お元気なご様子で何よりです

やはり大川塾の出身者は

もうこのおじいさんだけになってしまったそうです

このおじいさんとのご縁に感謝です

私もおじいさんから元気をいただきました

長生きしていただきたいと思います





今後も展開が続きます、どうぞお楽しみに

ではでは、皆様、素敵な週末を




2015.10.16




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ミャンマーに思いを寄せて 1208

その他の方の手記にも

岩畔中佐の名前は出てきた

その中で、大川塾の開設にあたり

岩畔中佐が大川塾の構想に賛意したことで

陸軍は大川塾の設立を正規のものとするべく

軍事課は予算を付して協力したと書かれていた

昭和13年5月15日の開所式当日

岩畔中佐は自ら来席し、激励の辞を放ったそうである





おじいさんに、この本をいただき

私は早速、お礼の手紙と品を送っておいた

すると、おじいさんからお電話をちょうだいした

初めてお声を聞く、元・大川塾生&光機関のおじいさん

大正11年生まれ、御年92才(2014年現在)





優しい声でゆっくりとした口調である

お耳はそう遠くないご様子だ

お会いしたこともないおじいさんだけど

お元気な声を聞かせて下さっただけで

涙が出そうになった

何とも神々しいような、ご健在と言うだけで感無量になった

その上、お電話をもらえるなんて!!





おじいさんは、他2名の方に

大叔父の調査を依頼されていて

私が「旧軍の方ですか?」と訊ねると

「いえ違います」と言われた

1人は自衛隊の方だそうで

「もう1人は…?」と訊ねると

言いにくそうにしておられる

「もしかして、中野学校の関係者ですか?」

との私の問いに

「中野学校の卒業生ではありませんが

そのような人です」と言われた





おじいさんには、私がまだどんな人間か分からない

詳細を話すには時期尚早なのだろう

何か特務機関の関係者だなと察し

それ以上は聞かなかった





続く…





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ミャンマーに思いを寄せて 1207

前回の続きからすると

そっかぁ、大川周明氏と寮長は

そう言うご縁の関係だったのねと思った

その寮長の手記によれば。。。

大川塾は、アジア調査の要員育成を直接の目的とし

毎年、全国の中等学校四年修了者より

20名を選抜して、2年間、基礎的教育を実施した後

アジア各地に派遣したそうだ





教育の講師の人選は、大川周明氏が

最も苦心されたところで

このように少数定員の学校としては

一流専門の学者や教育家を多く起用し

授業内容は当時の日本で稀有のものであったろう

大川周明氏は、常に最高の物を惜しみなく与えたそうだ

自身の蔵書全部を寮の図書室に完備し

寮生に自由回覧を許し

更に希望されれば、新しいものをたくさん購入したそうだ





経営はいっさい公費をもって行い

満鉄・外務省・陸軍省の三者分担により

月額合計15万円の経費で運営されていた





このブログでは、しばしば昔のお金の価値を

当時の1円=現在の1万円で換算している

※かなり概略であり多いとは思うがおおよそです

当時の15万円=現在の15億円わおっ

2年制の学校だから、生徒数は40名

全寮制だとしても、1ヶ月15億円の経費って~





寮長自身も「実に恵まれた環境であった」と記されていた

逸話としては、陸軍省の軍務課長のところに

経費分担金を受け取りに行った時

「こんな若造に渡せない」と言われたそうだ

後の回想で「たぶんそれぼど大金だったのかもしれない」

とも書いてあった

15億円かぁ、やっぱ大金だよね

ちなみに、お金の係りだった

その軍務課長とは岩畔中佐であった

あぁこんなところで岩畔中佐が出てくるなんて

あらあら、そんな繋がりだったのね





続く…





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ミャンマーに思いを寄せて 1206

大川塾生のおじいさん達は

当時はとても若く幼い年齢であった

それぞれの体験上での証言は貴重であるが

正直、全体像や大川塾の成り立ちなどの

詳細は、後々伝え聞いた物が多い





それに比べ、大川塾の寮長であった方の手記には

なるほどと思う事柄が多く見られた





初代・寮長は、山岸宏氏

副寮長を経て次期・寮長は、菅 勤氏

このお二人は、5・15事件の関係者である





このブログでは2・26事件は何度と出てきていますが

5・15事件は初めてですね

5・15事件とは、昭和7年5月15日に起きた

海軍将校を中心とした反乱事件であり

当時の首相・犬養毅が命を落とした

しかし、当時の政党政治の腐敗に対する反感から

関係者に対する助命嘆願運動が巻き起こり

関係者たちへの判決は軽いものとなったと言われている





事件は、何組かに分かれて

首相官邸や内大臣官邸などを襲撃したもの

初代・寮長の山岸宏氏は元海軍中尉で

首相官邸襲撃組に参加、禁固10年

副寮長の菅 勤氏は、陸軍士官学校本科生で

内大臣官邸襲撃組、禁固4年

その他に、資金や武器を与えたとされ

大川周明氏もこの事件で禁固5年の有罪となった





続く…





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ミャンマーに思いを寄せて 1205

私が大川塾を勉強してもしかたがない

のかもしれないが

光機関へと通じる道として

またいつか、もしおじいさんにお会いすることと

なった時のための予備知識として

勉強しておこう





そして、この本の中の

おじいさん方の手記にとても興味があった

もしかしたら光機関の方の手記の中に

大叔父の名前が出てくるかもしれない

偉い方の手記には下士官の名前は出てこない

しかし、下士官の方が書かれた手記には

仲間の下士官の名前がよく出てくる

ほんの僅かな可能性に

淡い期待を寄せて徐々に読み進めて行くのだった





大川周明氏は、しばしば

「せめて10年早くこの仕事を始めたかった」と

言われていたそうだ

10年早ければ、昭和の初めから終戦まで20年

400名の卒業生とその友人が

アジア全土に事業を張っているはずであった





現実は、卒業生は卒業後は太平洋戦争の

荒波の中での復興アジアの独立への

一兵卒としての献身であった

10年後、現地に家庭と事業をの夢は消えた




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 1204

元・大川塾&光機関のおじいさんが

他の方に調査依頼して下さっている間に

いただいた本を勉強してみよう

それにしても”他の方2名”とは

大川塾または光機関の方だろうか?

おじいさん以外にもまだご健在の方が

おられるのならスゴイ発見だ

私は祈るような気持でおじいさんのお返事を待った





おじいさんにいただいた本は

『東亜経済調査局付属研究所』
~手記で綴った大川塾~

B5版で約300ページから成る

立派な本であった

平成21年9月22日に発刊されている

発刊者をよく見ると、おじいさんの名前だった

すごい!!このおじいさんが作った本だぁ~





この本の元は、大川塾生の機関誌であった

機関誌にて大川周明氏の教えを留めようと

始まったようであった

そして塾生の「卒業から復員まで」の記録も

書かれているとのこと

以前に大川塾について書いたこと以外の

新しい事項を中心に、以下、抜粋&まとめ


大川塾に関する過去記事はこちら↓↓

「ミャンマーに思いを寄せて 1063」
http://blog.livedoor.jp/aya_sann/archives/1971770.html





~大川塾~

大川先生の全生涯は、復興アジアに打ち込まれていた

茫洋たるアジア全土に横たわっていた

言葉はもちろん、人種、宗教、文化も元々違う

共通するのは唯一、白人の植民地であることだった

先生の哲学は「正直と親切が根本である」こと

「アジア民族は、第一に自由を得ねばならぬ。

奴隷に何の問題があり得るのか。

真の意味に於けるアジアの問題は、

アジアが自由を得たる時に始まる。」

大川周明氏の哲学の結晶、

その実戦を託したのが、大川塾の青年達であった




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 1203

おじいさんからの小包を前に

う~ん、なんとも言えない気持ちになった

、、、さすがに私も大叔父が

大川塾生だったとは思っていない

ただもしかしたら何らかの

関係はあるかもしれないとは

ほんの少し思うところもある





おじいさんは私の話を信じて下さって

大叔父の調査を他の人にも依頼して

続行して下さっている

それだけが頼みの綱であり

ありがたいことだった





大川塾については

だいぶ勉強したつもりではあるが

こんな貴重な本をいただいたので

お返事を待つ間に更に勉強してみよう





大川塾は大川周明氏の掲げた”復興アジア”の

精神に基づき

必然的に派遣は南方が主体となったため

光機関にも多く関わっている

光機関での生の話を綴った一次資料は

現状では市場に出回っていない

よし!勉強するぞ~





続く…





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ミャンマーに思いを寄せて 1202 

2014.12.24

年の瀬も迫まり、今日はクリスマス

待ちに待った

最高のクリスマスプレゼントが届いた!!

元・大川塾&光機関のおじいさんからのお返事





おじいさんからは分厚い小包が送られてきた

お返事???何だろう。。。

そこには1冊の本が入っていた

『東亜経済調査局付属研究所』
~手記で綴った大川塾~

そして1枚の便せんが添えられていた


RIMG0229









お手紙には、大川塾の卒業生の中には

大叔父はいないとのこと

そして大川塾や光機関においての詳細は

この本に全て書いているから読んで下さいと

書かれていた

…だから本を送ってきて下さったのか





う~ん…大きく落胆しかけたが

最後に大叔父の調査を2名の方に依頼している

もう少し待って下さいとの文面に

色々な意味で涙が溢れそうになった





続く…





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京阪電車のお客様センター

読者の皆様へ


いつも読んでいただきありがとうございます

もう10月に入り、朝夕めっきり寒くなりましたが

皆様お変わりなくお過ごしでしょうか?





ブログの内容は2014年の12月となりました

約1年前の話です

まだリアルタイムに追いつきません

つい先日までは○○汽船の関係者ではないかと

思われる方からのお手紙について書いていました

まぁ呆気ない終わり方をしてしまい

「保留」となりましたが

そこが作り話ではない醍醐味です(?)





その手紙の中で「三条大橋」と言うキーワードから

三条大橋駅と言う駅が

かつて存在したことを知り

現在その路線を引き継いだ”京阪電車”の

お客様センターに詳細を問い合わせたところ

担当してくださった方が大変親切な方だった





お客様センターの担当とは

会社の顔と言っても過言ではない

とても重要なポストであり

社内教育はもとより

知識・経験が豊富で、優秀であり

お人柄も素晴らしい方が

選ばれるのだと思います





都内に「京阪電鉄史」を置いている

図書館がなかったことから

素人のつまらない質問に根気良くお付き合いいただき

時代背景や豆知識に至るまで

分かりやすく説明して下さいました

翌日もお電話を頂戴し

続きの事柄を調べたからと連絡をいただいた





最後に「お名前を」とお聞きすると

その方は「いえいえ、お客様センターの者です」と

お名前をおっしゃらなかった

わぁ~スゴイ!!

京阪電車には、何て素敵な方がおられるのだろう

ほんとうにありがとうございました





どこかに行く際には、絶対に京阪電車を利用しようと思った

いつかいつかこの調査が完結して

本を出す事になったとしたら

最後の欄にお世話になった方々のお名前を載せたい

その中には”京阪電車のお客様センター”の名前も

もちろん並ぶであろう

私はたくさんの方に支えられて

調査を続けることが出来ている

皆さん、ありがとうございます



2015.10.9



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ミャンマーに思いを寄せて 1201

元・大川塾&光機関のおじいさんに

お手紙を出してみることにした

何て書こう。。。

とにかく怪しい人だと思われないように

ご紹介をいただいた冨澤先生の名前や

雑誌の編集長さんのお名前をお借りして

ビルマで戦病死した大叔父を探していること

そして、もしかしたら大叔父は

ビルマの特務機関「光機関」に

居たのではないかと思っていることを書いた





大叔父が光機関に居た可能性は高いが

未だ確証は得られていない

元光機関員のおじいさん

きっとこの方が光機関最後の人

ではないかと言われている





このおじいさんが大叔父をことを

ご存知であればゴールだ

5年間の苦労は晴れて終わるのである

しかし「そんな人は知らない・居なかった」と

証言されれば

もう次はどこを探せば良いのか分からない

聞きたいけど、怖い、、、

だけどこのままじゃダメだ

私は勇気を出しておじいさんに手紙を書いた

どうかどうか大叔父のことをご存知でありますように




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 1200

実はこの奥さんとのやり取りは

たった2日間の出来事であった

2日間で人間ってこんなにも消耗するんだ

熱い熱い2日間は呆気ない結末を迎えた

梶子さんの手紙の調査については

ひとまず「お休み」

ちょっと冷静に頭を冷やそう。。。

はぁ~疲れた





私にはまだやらなければいけないことが

たくさんあるはず。。。

何からやらないといけないのだろう?

後回しにしていたことは?

考えはまとまらない、でも何かしなきゃ





そうだ!夏の終わりに冨澤先生からご紹介いただいた

元・大川塾&光機関のおじいさんにアタックしなくちゃ



元・大川塾&光機関のおじいさんに関する過去記事はこちら↓↓

「ミャンマーに思いを寄せて 1040」
http://blog.livedoor.jp/aya_sann/archives/1969251.html





大叔父のことを「知らない」と言われたら

終わりだと思って

怖くてそのままにしていたのだ

年齢を考えると”また今度”はないかもしれない

そうだね、早くしなきゃ

でも…やっぱ怖いよ~





続く…





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ミャンマーに思いを寄せて 1199

奥さん経由の○○汽船の元社長さんへの

お礼状の中に、お返事いただいた件で

分からないことについての質問も入れてみた

そしてもう一度だけ協力していただけるように

ダメ元でお願いを書いた





しかし、奥さんからは良いお返事をいただけなかった

どんな小さな情報からも手がかりを得たい私と

息子のお嫁さんの友人の頼みとは言え

知らない人からの依頼を受けている元社長さん

両方の気持ちが分かると言われるのである

それは私もよく分かっていた





奥さんご自身からの協力の申し出だったけど

正直、途中から邪魔臭くなられたように感じた

お声かけだけで、後は直接交渉しても良かったが

依頼状の添削から始まり

奥さんの提案は二転三転し

お世話になっているのだからと全て従ってきたが…

お礼状の書き方が気に入らないとか

好き勝手言われ放題で

「質問は何個まで」とまで言い出されて、、、





人を介して交渉をする難しさを痛感

今まで単独で飛び込んで来た私は

こんな状況は初めてだったので困惑した

もういいや、、、

言いたいことは山ほどあったが

ここで奥さんと言い合ったってしかたがない

私が非常識なのかもしれないが

この先も考え方の相違は埋まらないだろう

申し訳なかったが疲れてしまい

お礼を述べて一方的に終了を伝えた





奥さんからは取り繕うメールが数通届いたが

ごめんなさい、もう関わりたくありません( p_q)エ-ン

質問も出来ないままであるが

これで○○汽船の元社長さんとのご縁は切れた

後は、現社長さんに正面からお願いするしかないかぁ。。。





続く…





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ミャンマーに思いを寄せて 1198

○○汽船の元社長さんからのお返事は

呆気なく「分からない」で締めくくられた

まぁ当然と言えば当然で感謝しなくちゃね…

でも、お返事の中でもう少しお聞きしたいことが

たくさんある。。。





その1

「昭和20年ごろ」の方が1~2名いらっしゃる

と言うことだけど、この方達は「中大▲さん」を

ご存知なかったと言うことなのだろうか?

その2

当時のマリンガールの同窓会は無くなったようだが

まだご健在の方はいらっしゃるのだろうか?

その3

手紙の文面にあった「家族券」とは

○○汽船の社員向けの招待券・優待券ではないかと

思っているが

現在もこのような制度があるのか?





出来ればマリンガールを含めた古い方に

当時のお話を聞いてみたい

現地に赴き、湖を眺めてみよう

もう少し○○汽船や湖の勉強もしなくちゃ

まだ諦められない。。。





元社長さんは、これで終わりと思っておられるだろうが

出来ればもう少し、粘ってみたいと思った

何度もひつこくは食い下がれないと思うので

もうダメ元で、お礼と共に単刀直入に

質問と再度ご協力願いを投げかけようと思った

だって、例え僅かな可能性であっても

藁をも掴む思いなんだもの。。。





続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 1197

心待ちにしていた○○汽船の元社長さんからの

お返事がFAXで届いた

結論としては…「お役に立てず申し訳ございません」

と言うことであった





○○汽船は合併を繰り返し

社名を変えながら大きくなっている

もちろん元社長さんは

ごく最近の管理職しか知らないそうだ

「当時の者がいない」と言われるのである

古くても昭和20年代が1人2人

色々と尋ねて下さったようではあったが

戦後間もなく、GHQに色々と接収され

より一層、消息がつかめない状況とのこと





戦後の復興で最も華やかだった時代には

瑠璃丸と言う観光船があり

”マリンガール”と呼ばれる女性乗務員がいて

当時の女性の憧れの仕事だったようである

その同窓会もあったが

時間と共にメンバーは欠け

それも今はもう無くなってしまったそうである





梶子さんが見つかるのではないかと

淡い期待を持っていたが

残念ながらこのようなお返事であった

見ず知らずの私のために

協力して下さったのだから

感謝しなくちゃいけないよね、、、凹み





続く…





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ミャンマーに思いを寄せて 1196

○○汽船の元社長さんに

調査のご協力をお願いしている間に

私も他の件を調査してみた





梶子さんの手紙の中にあった

湖の遊覧船の周遊券と思われる「家族券」

大叔父が誰を連れて行くためのものだったのだろう?

伯父に幼い頃に湖の遊覧船に乗ったことはないかと

聞いてみたが、伯父は乗ったことがないと言う

昭和16年の遊覧船

母は1才くらいのためたぶん違うだろう

大叔父の下宿先の姉婿の娘さんにも聞いたが

遊覧船に乗った記憶はないと言う

他にも子供はたくさん居たので

別の子供を連れて行ったのかな。。。

下宿先の姉婿宅には

大叔父以外の親戚がたくさんそうだから

湖の遊覧船に乗ったのは誰だったんだろう





梶子さんの名字は珍しいから

きっと○○汽船の社員さんの中に

見つかる可能性はあるよね

見つかったらスゴイなぁ~

梶子さん、どんな女性だったのだろう?

ご健在なら会ってみたいな

大叔父の話も伺ってみたい

私は○○汽船の元社長さんからの

お返事を楽しみに待ったのだった





続く…





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ミャンマーに思いを寄せて 1195

○○汽船の元社長さんへの依頼文は出来上がり

ほんとにこれで伝わるかな?と不安ではあったが

早速、奥さんへのメールに添付した




まずは奥さんの親友さんを介すため

その親友さんを通過出来るかどうかが鍵となる

まだまだ超えなければいけない関門がある






奥さんの方針は二転三転したが

依頼文が元社長さんに渡ればそれでいいのです

ほどなくして、親友さんから渡して下さるとのお返事

FAXで送ることが決まりホッと一安心した






後日、なんやかんやと大変だったが

やっと○○汽船の元社長さんの手元に

依頼文は渡ったようであった

奥さん、お疲れ様でした、ありがとうございました

お返事をいただけるかどうかドキドキ。。。



続く…





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ミャンマーに思いを寄せて 1194

梶子さんが彼女であった可能性は

高いのではないかと奥さんも言っていた

彼女でなかったとしても

大叔父を直接知っている同世代の人として

とても貴重な存在である





そして、ここからは、私の妄想特急(笑)


☆;+;。・゚・。;+;☆;+;。・゚・。;+;☆;+;。・゚・。;+;☆;+;。・゚・。;+;


梶子さんがお見合いの相手であれば

結婚してから戦地に行っているはず

だって大叔父はこの手紙の

約2年後に出兵しているから





この手紙のすぐ後に、大叔父は大学を辞める

大学を辞めたほんとうの理由は分からないが

私の仮説では、大叔父は下宿先の姉婿の意向を受け

大学在学中から、特務機関に関わっていた

大学生の徴兵免除が廃止され

短縮卒業を強いられた年

ちょうど準備を整え

これから南方に向け本格的に任務に就く頃

このまま短縮卒業して

普通に徴兵に取られるわけにはいかなかった

大叔父は大学を辞めるように言われた





秘密の任務を帯びており

恋愛は御法度だったにも関わらず

梶子さんに出会ってしまった。。。

梶子さんの存在は姉婿に気付かれる訳にはいかない

梶子さんからの手紙は

男性の名前と文字で出すように指示した





大叔父は、恋愛と任務の狭間で苦悩する

梶子さんにほんとうのことを言えないまま

ビルマ行きのための本格的な訓練が

中野で始まることになり

東京に向かうこととなった





この戦争が終わったら。。。いつか全てのことを言おう

この戦争が終わったら。。。迎えに行くよ、結婚しよう

そして、梶子さんに気持ちを伝える時間もないまま

ビルマへと旅立ち、そして戦病死した





そのことを、いつも側にいた姉だけは知っていた

可愛い弟がかわいそうでしかたなかった

大叔父が亡くなった後、夫にバレないように

手紙をそっと2番目の姉に託した。。。



☆;+;。・゚・。;+;☆;+;。・゚・。;+;☆;+;。・゚・。;+;☆;+;。・゚・。;+;

※失礼しました、妄想ですm(_ _)m





続く…





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