ミャンマーに思いを寄せて

亡き母の思いを果たすべく、ビルマで戦死した大叔父の足取りをたどる私の奮闘記録☆

2015年11月

ミリタリー雑誌「丸」さん

読者の皆様へ


いつも読んでいただきありがとうございます

このブログは、不定期にミリタリー雑誌「丸」に

情報提供を目的とし掲載していただいています

もちろん、内容をギュギュッと濃縮しての

掲載ですので、ブログを読んでいただく方が

分かりやすいとは思いますが

雑誌分は、ダイジェスト版として、ご活用下さい





でも、3ヶ月毎の掲載が、4ヶ月…5ヶ月となり

ついには半年に(>_<)

丸さんにはお願いしているのですが、、、

やはりあちらは商業誌

人気のない記事は消えていく運命なんです

前回、もう短縮して特務機関まで飛んでくれと言われ

やっと「特務機関」と言う

言葉が出たところまでこぎ着けました

大きな展開が続くのはこれからなので

この後は、少し楽しい(?)記事となり

読者様の興味も出て来るのではないかと

思っているのですが…

この話はいつ完結するんだ?と聞かれましても…

ごめんなさい、分かりません(T_T)





先日も、「最近、丸に出てないね」と言われました

エーン丸の読者様、どうか忘れないで下さいね

もし良かったら、綴じ込みハガキで

「パンダジュエリーのミャンマーの話の続きが読みたい」

と書いて出して下さいヘルプ・ミ-

そしてどうかどうか丸の編集部の方

何卒宜しくお願いしますm(_ _)m

とにかく、がむしゃらに毎日頑張っています



2015.11.30



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ミャンマーに思いを寄せて 1247

何がなんだかよく分からない~


飛び上がるほどビックリした


ハガキに何が書かれてるのか読みたいけど


そんな余裕が無かった


「おばちゃん…これ持って帰って、ゆっくりと見てもいい?」






伯母はどうぞどうぞと陽気に言う


すごい物の発見に私も嬉しいんだけど


それ以上にビックリしてしまって泣きそうだった






突然、私の目の前に舞い降りた


大叔父のビルマからのハガキ


そんな物が存在していたとは誰も知らなかった


もしかして…私がお墓で大泣きしたから


大叔父さんがほんとにヒントをくれたの???


祖父母が助けてくれたの???


あまりにも絶妙なタイミングにうろたえた


テレビドラマみたいじゃない?


でもほんとうに私に起こったことなので


作り話じゃないですよ~


自分が1番ビックリしたんだもの






とにかく帰ろう、、、


心を落ち着かせてから、ゆっくりと向き合おう





続く…





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ミャンマーに思いを寄せて 1246

私は落ちた古い古いハガキを拾い

何気なく目にして悲鳴を上げた

「お、おばちゃん!!、おばちゃん!!

これ、達のおじさんからの手紙だよ!!」


「えっ?!」と伯母も驚いている

しかもよく見ると「ビルマからだ~

ギャーーーー

あまりのことにうろたえてビビりまくった





「そんなのあったっけ?見たことないわぁ

大叔父のビルマからの手紙があったら

いいのになぁなんて、胸の内で思ってはいたが

まさか実在したなんて

しかも偶然にも私の目の前で

ヒラヒラと舞い降りた大叔父の手紙…

こんな偶然ってある???

あまりにも驚きすぎて

心臓はバクバクで手は震えてる~

落ち着け~私~

鼻血が出そうだ~倒れそうだ~クラクラ~





一呼吸置いて、ふと、テーブルに視線を落とすと

もう1つ古い手紙を発見

何気なく中を見てみると、、、

大叔父の下宿先の姉が祖父に宛てた物だった

古い手紙の文字にサッと目を通すと

「達(とおる)の遺骨が…」と言う文字に

目が留まったヒィーーーーー

何?何?大叔父さんの遺骨って???

「お…おばちゃ~ん」私は泣きそうになっている




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 1245

伯母は奥の間から大きな桐箱を持ってきた


「ここにあったと思うけど…よっこらしょ」


私も以前に見せてもらったことのある桐箱


曾祖父の経歴が入っていた箱である






伯母がゴソゴソと中身を取り出した


「古い物だから、終わったら手を洗いなさいね」


と言われるほど、黄色く変色した昔の紙の束


虫食いや埃はないけど、確かに綺麗とは言えなさそう…


「あったあった」と伯母が出してくれたのは


比較的新しい戸籍の写し(コピー)であった


「おばちゃん、ありがとう。コピーしたら返すね。」






「達(とおる)さんの物は、もう無いね~、


この間ので全部だわ」と


大叔父に関する物も何か無いかと探しながら


伯母はまた桐箱に、無造作に入れ直している






すると…ヒラヒラ~と床に落ちる物が


「おばちゃん、落ちたよ」と拾い上げたのは


茶色に変色した古い古いハガキであった


何気なく手にしたハガキを見て


私は悲鳴を上げた!!!!!!キャーーー





続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 1244

昔の戸籍は、同居人が全部入っている

住民票のような役目もあったのかもしれない

お役所に残っていた戦前の祖父の戸籍に

たまたま載っていた大叔父





お役所の方に何度も

「大叔父は山形から本籍地を移しているのですが…」

と言っても「移した気配はありませんね」との回答

残っている資料だけではもう判断が出来なかった

古い資料は、戦争で焼けたり、戦争のドサクサで

分からなくなっているとのことで

それ以上詳しいことは分からなかった





法改正が何度もあって

戦前と現在の戸籍では

記載要領が大きく変わっている

昔の古い戸籍謄本の写しが

伯父の家にあるとのことで

私はそれを見せてもらえるよう頼んだ





年末のお寺は何かと忙しい

私の突然の思いつきのお願いで

伯母は戸籍の写しを探すのに苦労している

それにつき合わされている

住職である従兄弟はブリブリ怒っている

、、、ごめんね





続く…





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ミャンマーに思いを寄せて 1243

伯父の家に入りお茶をいただいた

お墓参りも終わったし、ホッと一息

伯父も伯母も従兄弟達も居た

今年の大叔父の調査について

伯父達に報告をした





伯父達も何かと協力してくれている

それでも先に進まないもどかしさ。。。

せっかく伯父の家に来たのだから

何かないだろうか?

そうだ、春に来たときに

古い大叔父の戸籍を見せてあげると

伯母が言っていたままであった





以前に、大叔父に関する戸籍を取得した際

気になることがあった

それは、大叔父が本籍地を

山形から兄である祖父のお寺(現:伯父のお寺)に

いつ移したかのか分からなかった





山形での出生届の後に

戦死の死亡届が祖父のお寺の地域の

役所で受理されて

大叔父の戸籍は終わっている

普通に見れば、本籍地は山形のままで

単に死亡の届けが違う地域の役所で

受理されたかのように思えるのだが

でも実際には本籍地は

祖父のお寺の住所に移されていた

なぜなら、大叔父の兵籍簿は

山形ではなく、祖父のお寺の住所の

都道府県の役所にあるからだ




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 1242

2014年もあと数日となった頃

伯父のお寺にお墓参りに行った

曾祖父と祖父母、大叔父や大叔母のお墓





いつも1番にお参りするのは

大叔父のお墓であった

大叔父のお墓は、親族のお墓とは少し離れた

戦死された方が並んでいる真ん中にあった

手を合わせて、今年1年無事に過ごせた

お礼を心の中で伝えた

きっと大叔父は私の調査が停滞していることを

知っていると思う

「大叔父さん…頑張ってますが未だに

見つけることが出来ません、ごめんなさい。

どこを探せば大叔父さんにたどり着きますか?

ほんとうはビルマのどこに居たのですか?

どうしても探してあげたいの。

ヒントを下さい。。。

どうかどうか頑張れるように守って下さい。」

涙がポロポロとこぼれた





その状態のまま、その他のお墓にも参り

ずっとお墓で泣いていた私

最後はおじいちゃんのお墓だ

歴代僧侶のお墓も親族のお墓とは

少し離れたところにある

「おじいちゃん…」エーン(T_T)

きっと私が説明しなくとも

天国から全部見てるよね

この調査、正直、辛いよ。。。





一通り泣き尽くしたらスッキリした

寒くなってきたし

伯父のところでお茶でもいただこうかな




続く…




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3連休はいかがお過ごしですか?

読者の皆様へ


いつも読んでいただきありがとうございます

紅葉が美しい季節となりましたね

皆様、楽しい3連休をお過ごしですか?

お仕事の方もいらっしゃるでしょうね

お疲れ様ですm(_ _)m





記事は元光機関員・大川塾生だったおじいさんから

いただいた本をご紹介してきました

主にビルマとインド国民軍の話となりましたが

市場に出回っていない本ですので

貴重なお話も多かったのではないでしょうか?

戦史と言っていいような、そうでないような話も

多々ありで、またまた多彩なブログとなりました





内容は大叔父の調査から

少し寄り道をした感もありますが

いつものことで。。。

次回からまた新たな展開がありますので

引き続きお楽しみ下さいね





本日は3連休の最終日

いつも応援いただいている読者様にとって

素敵な1日となりますように☆



2015.11.23



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ミャンマーに思いを寄せて 1241

おじさいさんにいただいた本は

大川周明氏の葬儀の際の「弔辞」や

その後の各記念講演の内容など多岐である

ビルマやインド国民軍以外の

その他の地域に派遣された

大川塾生の手記も載っている





「フランス領印度支那」(ベトナム)
・明号作戦ほか

「オランダ領東印度」(インドネシア)
・満鉄調査部マレー&スマトラ班ほか

「イギリス領海峡植民地」(マレー及びシンガポール)
・光機関ペナン支部ほか

「台湾・参謀本部班」





見る人が見れば、かなり貴重な証言集なのだろう

しかし私には大叔父を捜す過程において

たまたま出くわした本なだけで

ビルマやインド国民軍以外の部分は

申し訳ないけど関係がないのである

大叔父が未だに見つからない現状に

焦りはあるが、これ以上捜索の範囲を

ベトナムとか台湾とかに広げる余裕はなかった

残念ながら、この本の中にも

大叔父の名前は発見に至らず

結果、おじいさんに会うまでの

予備知識の勉強を

かなり頑張ったとしか言いようがなかった(T_T)




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 1240

勇気を出してインド国民が一斉に立ち上がった結果

何百年も支配されてきた大国を排除し

ついに、1947年(昭和22年)8月15日

インドは独立を勝ち取った

あえて言うならば、大東亜戦争は

日本の敗戦をもって終わりではなかったのだ

チャンドラボース氏の志しは

インド国民軍の将兵に引き継がれ

そしてインド国民全体へと広がっていった

それは誰よりもこの日を夢見ていた

チャンドラボース氏が事故死してから

2年後のことでした





インドの国会議事堂の正面にはチャンドラ・ボース氏の

肖像画が掲げられているという

そしてその右側にはガンジーさん

左側にはネール氏が並んでいるそうです

インドでは現在も評価は高く

チャンドラボース氏の記念館もあるとか。。。

そして、チャンドラボース氏共に

インド独立を支援した日本軍に対しても

インド国民は感謝しているそうである 

光機関に関係した大川塾生のおじいさん達は

インド独立を嬉しく思うと同時に

「誇りに思っている」と締めくくられていた





時は流れ…昭和天皇の崩御の際には

インドでは政府関係の庁舎や国会の他

国中に半旗が掲げられ

大統領の呼び掛けで国民は喪に服したそうである





日本では残念ながら、戦後教育において

このような良い話さえ教えていないのに等しい

先の大戦=侵略戦争、日本軍は悪であった

のような教育が多いように感じます





続く…





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ミャンマーに思いを寄せて 1239

昨日の記事の

日本降伏戦勝記念の”3月7日”

と言うのが私には分からないのですが…

何かあった日付でしょうか?

インパール作戦が開始されたのは3月8日だし

その発令日が3月7日なのだろうか?

それとも昭和20年代とかに

他に何かあるのかなぁ。。。

3月7日について調べましたが

分かりませんでした(T_T)

ご存じの方がいらっしゃいましたら教えて下さい





日本では、天皇陛下が国民に日本の敗戦を発表した

8月15日が終戦記念日で

ちなみに他の国を調べてみると

イギリスにおいての終戦記念日は

日本と同じく8月15日であった

その他の戦勝国では、日本が降伏文書に調印した

9月2日を終戦記念日にしているのが

 
アメリカ、フランス、カナダなどで

対日戦勝記念日(Victory over Japan Day)と呼ばれていて


ロシアにおいても、9月2日で

第二次世界大戦終結記念日と呼ばれている


9月3日を記念日にしている国もあった

日本がGHQにより占領下にあった昭和26年頃までは

9月2日を降伏の日や降伏記念日と呼んでいた

そんな時代もあったそうです





この3月7日と言う日付は

おじいさんの本に書かれていたものである

日本降伏戦勝記念パレードが行われて

インド国民がボイコットしたと言う話は

色々なところで書かれているが

その日付については、どこでも確認できなかった

きちんと調査すれば分かるのだろうけど

珍しいと思うので書いておきました





続く…





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ミャンマーに思いを寄せて 1238

「執行停止、即日釈放」の宣言を受け

歓喜に湧いているインドの人々

これで少しは反乱も収拾するんじゃないかと

思ったのかもしれないイギリス





もうそろそろ大丈夫だと判断したのだろうか

昭和21年3月7日

イギリス軍は「日本降伏戦勝記念」の

大パレードを行った、、、わおっっ

それに対しインド人は爆発した~

市民は一斉に各戸に弔旗を掲げ

店も学校も工場も映画館も

一斉に閉ざされる事態に、、、

そして、インド・デリーにあるインドの凱旋門

(インド門)を血で染めて

水道は断水し、電灯は消えて

暗黒のインドが広がった

※インド門とは、第一次世界大戦で戦死した

インド人兵士85,000人の慰霊碑

パリの凱旋門を基に設計され

インド人兵士の名が刻まれている




イギリス軍の思惑は、見事にボイコットされた

日本軍がイギリス軍に降伏した日は

一緒に戦ったインド民族にとっても

敗北の日であると認識していたのである





インド国民は20隻余りの艦船を占拠し

インド国民軍の裁判停止を叫び

イギリス人を襲撃した

その反乱は、英印軍内部にまで及び

イギリスは、再び直ちに軍事裁判の中止を宣言

インド国民軍の将兵全員の釈放に至った

もうイギリスにはインドを牛耳る勇気も力もなく

自分たちの命の方が大事であった




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 1237

昭和21年1月3日

インド国民の反乱を恐れたイギリスは

インド国民軍の被告人3人に対する

「執行停止、即日釈放」の宣言をした

その件に対し

インド総司令官オーヒンレック大将は

こう釈明している

「軍事裁判の判決は正当なり、とするも

インド政府の方針に基づき

総司令官の権限において刑の執行を停止する。」

ありゃりゃ、なんとも微妙、、、





吉報を受けインド全土は歓喜に湧いた

各地で盛大に祝賀会が開かれて

1月23日にはチャンドラ・ボース氏の

誕生日を迎え

カルカッタの町では祝典を催したそうである





しかし、インド国民に屈辱を味合わせられ

イギリスはこれで終わる訳にはいかなかった

「執行停止、即日釈放」の判決は

あくまでも、被告3名だけに対するものであって

その他のインド国民軍に対する裁判は

まだ続いていたのだ





反乱に狼狽して

恥ずかしい思いをさせられたイギリス

威信にかけて挽回したい、、、

と思ったかどうかは定かではないが

その後もインド人を隷属させようと画策した





【おまけ】※かなり余談、お暇なときにどうぞ

女子ですので占いとか好きです

チャンドラボース氏の誕生日

1月23日生まれについて調べてみた☆

<水瓶座> 誕生石…ガーネット

『深い洞察力と博愛精神を持つ人気者』

仕事熱心な水瓶座、困っている人がいると

手を差し伸べる博愛精神の持ち主。

理想を現実のものにしようとするための

努力は惜しみません。

自分自身に自信があり、独立心が旺盛です。

自由を求め束縛を嫌います。

何事も1人でやり遂げようとする傾向があります。

カウンセリンラーや人材コンサルタント、探検家など

の仕事がむいているでしょう。


ちなみに1/23生まれの日本人は

湯川秀樹さん、
葉加瀬太郎さん ほか



。。。なんだか、当たっているような気がしました




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 1236

あちゃ~、更新予約時間を間違えた

遅くなりスミマセンm(_ _)m



昭和20年12月31日

イギリス政府やインド総督は

インド国民軍のシャナワーズ・カーン氏以下3名

に対し無期流刑の判決を出した

しかし判決に対するインド民衆の怒りを恐れて

その公表をさけた

そして翌年1月3日になって

被告3人には

殺人暴行罪として15年の禁固刑が言い渡され

事実上の減刑となり、おまけに

同日付をもって「執行停止、即日釈放」が宣言された




プライドの高いイギリスとしては、本来ならば

敵国である日本軍と手を組んで

仮政府まで勝手に作って

堂々とイギリス軍に歯向かったインド国民軍に対し

インド国民軍の指導者を「反逆者」として

今後の見せしめのためにも

徹底的に処刑したかったのだろうが、、、





裁判は第3回の途中で

体裁のように形だけで終わってしまった

それほどまでにイギリスは

インド国民の反乱が恐ろしかったのであろう





色々な文献で、この判決が出された時に

「イギリスはインド放棄を決断した。

めでたし・めでたし」の様な記述が散見されるが 

おじいさんの本にはまだ続きがあった




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 1235

「インド国民軍を救え!」

民衆の声は、新聞やラジオも駆使し瞬く間に広がり

インド全土がいっせいに決起する事態となった

いたるところで焼き討ち事件や

デモと集会が連日連夜続き

随所で警官隊と衝突し

流血の惨事がインド全土で起こる騒乱状態となった





遂には英国海軍インド駐留艦隊の艦船にも

独立運動の波は及び

ボンベイ(現ムンバイ)に停泊していた艦船は

一斉にボンベイ市内に大砲を向けて反英の意思を表した

全インドがイギリスに牙を向けた瞬間であった

それまではおとなしく隷属していた多くの人々は

粗末な武器で突如立ち上がった





被告の1人であったグルボクミン・ディロン氏は

「われわれを1人でも処刑したら

インド在住の英人は1人も生きて帰国できないであろう」

と胸をたたいて宣言した





これに対し、イギリス側は

警官のみならず、戦車隊等まで出動させ鎮圧に乗り出した

しかし、すさまじい反英の抵抗は収まるところを知らなかった





続く…





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ミャンマーに思いを寄せて 1234

わーい!タイトルナンバー「1234」だぁ

よく続いてるよね~、いつまで続くのか…あぁ





更にイギリスは向こう六ヶ月間に

インド国民軍の将兵を、抵抗・通牒・利敵・反逆罪等で

処罰すると発表した





イギリスによる軍事裁判において

インド側の主席弁護士デサイ博士(国民会議派長老)は

次のように言っている

「隷属民族には闘う権利がある」

またガンジーは、ウェートル・インド総督に

「私は暴力には全面的に反対ですが

祖国のために勇ましく戦った人達を尊いぶことは

やぶさかではありません。

今裁判にかけられようとしている人達を

全インドは敬愛しています。

全インドの結集した反対を押し切って

権力を行使したら過ちをおかすことになります。」

と言う内容の手紙を送った

そして同じ手紙をオーヒンレック・インド総司令官にも送った

※ウェーベル総督は、イギリス領インド帝国政府において

初の軍人出身のインド総督として就任し

徹底的な弾圧を行なった人物である





今、軍事裁判で裁かれようとしている人々は

インドの民衆にとって

チャンドラボース氏の意思に基づいて

祖国解放のために戦った英雄であった

大衆は、プラカードを掲げ

「インド国民軍の英雄を救え」

「インド国民軍の裁判を即時中止し釈放せよ」

「イギリス人はインドから即時去れ」

「インドの統治権をインド人に返せ」と大行進を開始した




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 1233

終戦後のインド国民軍には

どんな運命が待っていたのだろうか?

ずっと心配で気になっていた

日本軍と共に闘って敗戦を迎え

チャンドラボース氏が事故死してしまったインド国民軍

リーダーを失い士気が低下して

ケンカしたり、戦犯とか、なんだかんだと

バラバラになったりしなかったのだろうか?

歴史をちょこっと調べれば

すぐに分かる話かもしれないけど

何かのついででないと、、、正直、余裕が無いの私

だって大叔父の調査には関係ないんだもの~

と思っていたら、おじいさんの本に書かれていたので

せっかくだからと読んでみましたわーい





終戦後、イギリスによる軍事裁判が開かれた

昭和20年11月15日

【被告】
シャナワーズ・カーン氏
(インド国民軍第1師団第1連隊長及び第2師団長)

R・K・サイガル氏
(インド国民軍第2師第2歩兵連隊長及び第2師団長、
ジャンシー連隊長のラキシミー氏のご主人)

グルボクミン・ディロン氏
(インド国民軍第一師団第3連隊長及び第2師団第4遊撃隊長)

【罪状】
・英国皇帝に対する戦争挑発の罪
・殺人及び殺人教唆罪

<<判決>>
無期流刑



昭和21年2月11日

【被告】
アブドール・ラシード氏(役職不明)

【罪状】
インド兵に対する暴行罪

<<判決>>
懲役7年





判事はブラックスランド少将を長とし7名

対して、弁護士はネール氏(ジャワハルラール・ネルー、

ガンジーと共にインド独立運動の最も著名な指導者)

を長として、合計18名




続く…





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ミャンマーに思いを寄せて 1232

いっぱいの豪華な物資を持って

撤退を急いでいた新兵であったおじいさん

でも気の優しいおじいさんは

「そんなに持っているとビルマ兵に狙われる」と

親切を装って近づいた

よその部隊の友軍に騙されて

食料を食べられてしまう





その時の会話で、どこの部隊か?と聞かれ

「光機関であります」と答えると「インディアンだな」と

言われたと書かれていた

”インディアン”???

光機関って通称:インディアンって呼ばれてたの?

でも何でインディアンなわけ?

インディアンってアメリカのアワワワ~だよね?





そこで、よ~く考えてみた

普通、インディアンとは

アメリカ先住民(ネイティブ・アメリカン)のこと

そもそもインディアン(Indian)と言う言葉は

「インドの」とか言う意味で

コロンブスが南北アメリカ大陸に挟まれた

カリブ諸島をインドの島だと間違えて

アメリカの先住民に

インディアンって名前を付けちゃった

しかも未だにカリブ海周辺は

西インド諸島なんて呼ばれてるし

だから、インド国民軍に関係していた光機関を

インディアンと呼んでいたのかな???

と勝手に解釈してみたのですが…





実は、インド国民軍の正式名称が

「インディアン・ナショナル・アーミー(Indian National Army)」

だったことからのようですあちゃ~

あらら、そうでしたか、失礼しましたm(_ _)m

そう言えば「INA」ってよく見てたわ。。。

今頃になって正式名称を知るなんて

あらあら、私らしいですね(^^;)




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 1231

本を読んでいて、光機関員が他部隊と比べて

恵まれているなぁと思ったのは何回もあった

もちろん、大川塾生の中には光機関に居ても

前線に居た者もいるし、一般部隊へ配属された者も居て

それぞれにご苦労をされたのは確かである

しかも手記を書かれている方は

幸運にも戦火を潜り抜けて復員された方であって

恵まれてなく?戦死されてしまった方は手記を書けない。。。

その差もあるかもしれない





特務機関は元々、情報機関であるのと

方面軍直轄機関であったため

戦況をとても早く掌握出来た点も

恵まれていると感じた1つであるが

その他に手記を読んでいて興味を持ったのは

光機関において新兵だったあるおじいさんの手記であった





ラングーン撤退時

光機関は組織だって撤退せず

撤退命令を受けて各個に後退したようであった

「敵はマンダレー街道を南下し

ペグーに接近しつつあり。

直ちに自転車でモールメンに向かって転進する。

ペグーの三叉路を24時間以内に通過しなければ

撤退は危険に陥るから急げ!」

出発は夕食後の日没と決まったが

気が付くと昼過ぎには誰もいなくなっていた





そのおじいさんが撤退時に持っていた物は

軽機関銃にその弾120発

米や複数の牛肉の缶詰の他、下着に石鹸

キニーネ等を持っての自転車での移動であった

いいね!すっごーい





続く…





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ミャンマーに思いを寄せて 1230

ビルマ戦の中で、”撤退”と言う言葉は

私はインパール作戦中止時のことだけだと思っていた

でも本を読んでいると、よく分からない部分が出てきた

文章の日付は昭和20年4月、、、

間違いかな?気のせいかな?何のことだろう???

よ~く読むと、”撤退”と表現されるのは

2回あることに気づいた

1回目の撤退は、インパール作戦中止

2回目の撤退は、ビルマ方面軍がラングーンを放棄





1回目の撤退では、白骨街道を作り

2回目の撤退では、日本軍は壊走状態であった

あぁ…そう言うことかと、やっと分かったのである

それらの撤退は、日本軍もインド国民軍も同じであった





しかし、私の印象としては

光機関を通じて、方面軍のラングーン放棄の情報は

その日のうちにインド国民軍にも知らされ

その日の夜半には、ラングーンを出発していることや

一部の人員については、途中までであっても車両移動

出来たこと、そして物資についても十分あったことから

方面軍がラングーンを放棄したことすら知らず

前線で追撃を受けていた将兵達と比べると

光機関やインド国民軍は、ほんの少しだけ恵まれていた

ように感じた

それはやはり、特務機関の特権だったのかもしれない




続く…





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ミャンマーに思いを寄せて 1229

インパール作戦間のインド国民軍も

日本軍と同じく、補給がなく苦労した





「本日もまた、糧秣一片なし。

日本軍に交渉するも、なんら反応なし。

ガルワリー兵4名、予の目前で餓死す。

日本軍はわれわれを見殺しにせんとするか。」

※ガルワリーはヒマラヤ山中の景勝地



「飢餓のため、部下、虫のごとく死す。

自殺者も後を絶たず、日本軍より何ら援助無し。」





昭和19年7月10日 インパール作戦中止命令

だがチャンドラボース氏は

「たとえ日本軍が作戦を断念しても、国民軍は作戦を続行する。

祖国の独立を闘い取る革命軍の進撃は、

全滅に陥っても止むことのないものである。

全軍魂魄となっても祖国への進軍を

止めないのが革命軍の本領である。」





日本軍はチャンドラボース氏を説得した

これ以上部下に死を責めるに忍ばず

ついにチャンドラボース氏は

「全員死力を尽くして撤退せよ」と命令を出した




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 1228

終戦後、インド国民軍に参加したものは

イギリスにより裁判にかけられた

しかし、「インド国民軍は愛国者である」

「愛国者を救え」とインド国民は立ち上がった

この群衆をイギリスは抑えることが出来ず

全将兵の釈放に踏み切った

(私はこの文章を読んで、涙が出そうになった)





昭和21年3月5日

デリーは、国民軍の華である

ジャンシー部隊の連隊長ラキシミー中佐の帰還により

勝利の歓迎一色に湧き返っていた

ジャンシーの軍服に身を包んでタラップを降りた中佐は

花束と人垣に包まれた

その後ろには、戦場に咲いた恋の花・サイガル中佐が

手を振っていた



※サイガル中佐とは、昭和20年1月頃に編成された

インド国民軍の第二師団長を一時期務めた人物

(良かった~、とまたまた涙が溢れた

その後、ラキシミー中佐とザイカル中佐は

ご結婚されたそうである、ほんとに良かった)





おじいさんにいただいた本の中で

多くを占めていたのはインド国民軍の話であった

先に書いたジャンシー部隊の話はその1部である





おじいさん達は、チャンドラボース氏を

祖国独立のために日本軍と共に勇敢に戦い

常に先頭に立ち、兵士と共に行動する

何よりも部下を思いやる指揮官として尊敬しているようである

光機関員として、チャンドラボース氏と行動を共にし

間近でその言動を目にしていたおじいさん達

幼く若かった日本軍のおじいさん達にまで

チャンドラボース氏は気を配って下さった

そのおかげもあって生き残れた者もいる

日本軍の指揮官と比べて

至る所にその格差が書かれていた





チャンドラボース氏は、志半ばで亡くなってしまうのだが

没後にインドは独立する

独立に際し、日本軍が直接関与したわけではないが

インド独立を支援する形で

光機関員として従事したおじいさん達にとって

戦争には負けたけど、それよりも

インドの独立は他人事ではなく

とても嬉しかったようである

そのためか、インド国民軍関連の手記は多かった





続く…





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ミャンマーに思いを寄せて 1227

ミス・ジャヌキー・テバース中尉の日記

~印度洋にかかる虹~より ※一部抜粋

の続き





夜中行軍をつづけ、昼と夜の逆の生活である。

ネタジー(チャンドラボース氏)じしんも背嚢を背にして

いつも部隊の先頭を歩いていた。

夕方、また行軍がはじまった。

ネタジーはマメだらけの足にもかかわらず

例のごとく先頭にたって行軍する。

磯田機関長(光機関長)が、車に乗るようすすめたが

ネタジーは拒絶した。

日本将校は車に乗ってモルメン(このブログでは

モールメン)の方にいった。

夕方になると、モルメンからトラックを持って

光機関の磯田中将が帰ってきた。

ネタジーに、ジャンシー部隊のみこのトラックに乗り

残余の国民軍将兵は行軍で来るように頼んだ。

ネタジーはこれを聞いて、またまた怒った。

ネタジーが一緒について歩いておればこそ

なんとか渡し場が渡れるのであって

もしネタジーが車で先に行ってしまったが最後

国民軍はつぎの渡し場で釘つげになるのは

明らかであった。





ネタジーは怒った。磯田中将に顔を向けてどなりつけた

「私は部下を捨てて逃げ出したビルマのバーモーでは

ありません。(※バーモーとは、昭和18年8月にビルマ国の

独立宣言をした元・国家元首)

私は何度も申し上げたように、私の部下の

最後の1人が安全になるまで、先には行きません。」

これを聞いて、この日本の将官はだまって歩きだした。

このあわれなおやじさんは、歩くことが大嫌いらしい。

しかしネタジーが歩いている以上

彼も歩かなくてはならない。

==============





こうしてジャンシー部隊が

やっとモールメンにたどり着いたのは

昭和20年5月1日のことだった

翌日に汽車に乗ることができ

途中で橋が落ちていて行軍を交えながら

5月7日にタイのバンコクにたどり着いた





インド国民軍は、川を渡るのに苦労したようである

日本軍ももちろん苦労するのだが

その苦労とは別にインド人だからと日本軍から

差別のような雰囲気があったようである

船が着くと、日本兵は我先に飛び乗って

人が川に落ちようと溺れようと、けんか腰であったそうだ

乗り遅れると、1日待つこととなり

昼間の敵の攻撃を耐えなければいけない

最後の大きなシッタン川を渡ることさえ出来れば

中立国のタイへと駆け込むことが出来るのだ

正に生死を分けるような瞬間である

「ましてやインドの女なんかに譲るわけにはいかない」

残念なことではあるが

これが修羅場でインド国民軍やジャンシー部隊に

向けられた感情であった





続く…





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ミャンマーに思いを寄せて 1226

昭和20年4月23日 

ビルマ方面軍がラングーンを放棄してからの

ラングーンの混乱の様子は

「混乱難渋を極め、想像を超えた敗残日本軍の無秩序、

暗黒、雨中の不眠不休の行軍の序の口だった」と

書かれている





そこから混乱の中をモールメン目指して脱出する

ラニ・オブ・ジャンシー部隊の支隊長であった

ミス・ジャヌキー・テバース中尉の日記で

その逃避行が詳しく書かれていた

光機関の国塚氏は、テバース中尉のことを

「彼女は小柄な若さ溢れた明朗な女性で

男も及ばないほど勇敢であった」と紹介している



国塚氏に関する過去記事はこちら↓↓

「ミャンマーに思いを寄せて 1052」
http://blog.livedoor.jp/aya_sann/search?q=%E5%9B%BD%E5%A1%9A





モールメンに向かうには

いくつかの川を渡らなければならない

最難関は最後のシッタン川である

シッタン川とは、ビルマの主要河川の1つであった



ミス・ジャヌキー・テバース中尉~印度洋にかかる虹~より

※一部抜粋

敵は私どものうしろから迫撃してくる。

シッタン川さえ渡ってしまえば当分は大丈夫であるとのことだ。

私達は、払暁にこの川を渡った。トラック隊も朝方着いた。

今日も終日爆撃と銃撃が繰り返された。

トラック1台とネタジー(チャンドラボース氏)の車のみ

川を渡ったが、ほかの車は対岸に捨て去られた。

幾百という日本軍のトラックも渡れず残っている。

それを敵機が銃爆撃して燃やしている…。

さあ、これからは行軍のみである。

混乱する交通のために道の泥は、

練り上げられて膝を没する。

夜中かかって10マイル(約16km)歩いた。

しかし、ジャンシー部隊の士気は高い。

みな小銃をかつぎ背嚢をせおっている。

その中には食料、弾薬、手榴弾がはいっており

1人あたり35ポンド(約15kg)の背嚢である。




続く…




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慰霊祭まとめ

おじいさんの戦争の体験談は

次から次へと内容が飛んで

何の話か分からない事もしばしば

質問をしても、全く関係の無い話が返ってくる

でも記憶はしっかりとしてらっしゃる





今回の収穫はほぼ無かった

でも小さな収穫があったように思う

それが今後の調査に役立つかは分からないが

おじいさん方の証言は全て貴重である





日本最大の戦友会である「全ビルマ会」

戦場の規模としては、フィリピンなども大きく

戦死者数も多いのではないかと思われるが

フィリピンの戦友会は、もう20名も集まらないのだそうです





フィリピンの場合は、部隊としての団結はあるものの

フィリピンと言う土地には懐かしいなどの思い入れがないらしい

敗戦後に現地人より受けた殺戮や暴挙の数々が

影響しているとの説もある

そのため部隊単位を越えて

フィリピン戦線の生き残りで集まり

懐かしい思い出を共有しようと言う感覚はあまりないようである





その点、ビルマ戦線の参加者には

親日の現地人との交流の良き思い出や

仏教や米などの日本との共通点が多く

現地の環境に親しみを持っている者が多数いる

それは他地域の戦友会との大きな違いかもしれない

もちろんインパール作戦での苦しい記憶や

敗戦直前には、一部のビルマ人に攻撃されたこともあったが

ビルマ人に対しての悪口を

私はおじいさん達から1度も聞いたことがなかった





青春の思い出の地、ビルマ大好きな人が多い

私にとって大叔父は、1度も会ったこともない身内で

おじいさん達も大叔父のことは知らないのだけど

一緒に戦った戦友の孫のように

ビルマの輪の中で、とても大切にしてもらっている





戦後、戦友の慰霊や遺骨収集以外にも

またビルマを訪れたいと思った(もしくは訪れた)旧軍さんは

たくさんいる

現在は、ご高齢のため、ビルマどころか

靖国参拝もままならず、行きたいけど行けないと

慰霊祭の際には事務局にお手紙が届くそうです

そんなおじいさん達の気持ちは

きっと英霊に届いていることと思いますが

そんな思いを若い世代の私達が引き継いで

おじいさん達にお世話になったご恩返しに

守っていかなきゃいけないなと思いました 



2015.11.6



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慰霊祭に参列して続き

11/3靖国神社で行われた「ビルマ方面戦没者慰霊祭」

今年は約70名参加、うち旧軍は10名ほどであった

私が初めて参加させていただいた5年前の慰霊祭では

旧軍の方を中心に120名ほどの参列で

遺族の方はほとんどいないような状態だった

毎年のように参列者は激減しているが

昨年は60名ほどだったのが

今年は70名と、遺族が10名ほど増えていた

考えてみれば、遺族は末広がりに増えていくのである

しかし、もうほとんどの人にとって

先の大戦は昔々の遠い出来事となり

参加者はなかなか増えないのが現状である






全ビルマ会は、最盛期には2000名を越える

大きな団体であった

本殿参拝も1度では行えず

2~3回に分かれてお参りした時代もあったと言う

その頃は、完全に戦友会であり

本人の介添えでない限り、遺族であっても

会に参加出来ない雰囲気だったそうである

現在は遺族が大半となったが

今でも戦友会(遺族を含む)としては日本最大だそうである

でも新会長さんは「来年はどうなるか分からない」と

言っておられました、、、





今年も本殿の大鏡に向かい

大叔父と英霊に感謝してきました

そして、元会長さんのあの笑顔にも会えたような気がした





旧軍さんの参加者で

1番若い方が91歳、最高齢は100歳の元・工兵さん

おじいさん方は、お参りの後にはお弁当を食べて

お酒が入り、とても楽しそうでした☆

私も途中からおじいさん達と同席させていただき

あるおじいさんは

「あんた、どこかで会ったことあるよね?」

と、いつものセリフ(毎回のことです)

えーっと、慰霊祭以外にも、毎回お会いしています(笑)




続く…




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平成27年度 ビルマ方面戦没者慰霊祭

読者の皆様へ


いつも読んでいただきありがとうございます

昨日11/3は、毎年靖国神社で行われます

ビルマ方面戦没者慰霊祭に参列して参りました

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前日の冷たい雨が嘘のように

秋晴れの温かな1日でした

全ビルマ会の私が大変お世話になった

前会長さんが昨年お亡くなりになり

正式に新しい会長さんに移行してから

初めての慰霊祭

新しい会長さんは初の遺族からの選出

おじいさん達を立てて、控えめで

参列者全員に気を配っておられました





おじいさん達の体調に配慮された時間短縮や

事務負担軽減のための簡素化など

昨年までと違う点も見受けられ

新しい会長さんの合理的な手腕が垣間見られた

全ビルマ会は良き伝統を残し

次世代へと受け継がれ

より一層発展しているように感じた





全ビルマ会は、戦友会としては珍しく

「開かれた」戦友会である

今年も新規の遺族会員が増えたそうで

会を知り、様々なところから戦没者の

詳細が知りたいなどの相談が寄せられているそうだ

また、遺族でもなくビルマに携わってる方など

手を合わせたいと言う人はウェルカムな印象

ビルマと言う繋がりで集い

とてもアットホームな雰囲気である



ご興味のある方は全ビルマ会HPはこちら↓↓

【全ビルマ会HP】
http://www.birumakai.jp/





今年の参加者は約70名

そのうち旧軍さんは10名程度となった

1番お若くて91才、参加最高齢は100才でした!

色々と貴重なお話を伺いました

詳細は明日へと続く、お楽しみに~(^^)/




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 1225

「ラニ・オブ・ジャンシー部隊」

きっと大叔父には関係ないだろうと思う

分かってはいるんですけどぉ、、、

興味があったので書きますね

あぁ私の悪いクセ、いつもの寄り道~

読者の皆様、スミマセンお付き合い下さいませm(__)m





「ラニ・オブ・ジャンシー部隊」は

世界史上初めての婦人正規軍連隊として

昭南(シンガポール)で編制された

在マレーインド人良家のお嬢さん約600名

サリーを捨てて、カーキの軍服も凛々しく

厳しい訓練は羨望の的となって

士気を高めたそうだ





昭和20年4月23日 ビルマ方面軍はラングーンを放棄

最後の撤退時、チャンドラ・ボース氏は

ジャンシー部隊を自ら率いて

一兵をも欠けることなく撤退する

1人でも戦死、陵辱させるわけには行かない

特にタイからの2人のジャンシー兵を

必ず汽車に乗せてバンコクに帰るのを

確約しなければならないと思っていたそうである





昭和20年4月24日

夜半にラングーンを脱出

政府要人を乗せた乗用車6台、

それに続き、ジャンシー部隊は15台のトラックに分乗し

ビルマの南部の都市モールメンを目指す

モールメンはタイ国と接している





ビルマ方面軍司令官が真っ先に高速偵察機に乗って

ラングーンを脱出してしまったため

将校も星の順に道の混まないうちにと

我先に自動車で逃げ出した





街道は蜂の巣をつついたようになり

混乱難渋を極め

おまけに雨季のぬかるみと

迫撃してくる敵の爆撃と銃撃でなかなか進めなかった





続く…





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ミャンマーに思いを寄せて 1224

「ラニ・オブ・ジャンシー部隊」については

前から気になっていた

大叔父には関係がないとは思うけど

大川塾生などは、直接、この部隊に関わっている

そんなことよりも、同じ女性だからなのか

彼女たちが辿った運命や

その後の人生はどうだったのだろうと心配していた





志しの高い、うら若き両家のお嬢さんの集団

日本軍と共に戦い、前線に出ていなくとも

戦火に巻き込まれ、負傷したり命を落とした人も

いたかもしれない。。。

マレーに全員無事に帰れたのだろうか?

戦後は日本軍に協力したとして

連合軍側からの追求はなかったのだろうか?

日本軍に協力した事で

地元に帰って肩身の狭い思いはしなかっただろうか?

戦後はインド国民軍はどうなったのだろう?

戦争と言う時代の中で青春を過ごし

志し高く女性兵に志願し、敗戦と言う形で終戦を迎えたことに

心は傷つかなかったのだろうか?

戦後、彼女達は幸せに暮らしたのだろうか?

祖国独立の吉報を彼女達は

どこでどのように聞いたのだろう。。。等

大叔父のこの調査には関係が無いと分かっていても

ずっとずっと気になっている

この調査が終わって時間があれば

彼女達のその後を追ってみたい





しかし、「ラニ・オブ・ジャンシー部隊」について

詳しく書かれている物に、なかなか出会わなかった

しっかりと探せばきっとどこかにあるんだろうけど…

※おすすめをご存知でしたら教えてください

いただいた本に少しだけ載っていたので書いておこう





続く…





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ミャンマーに思いを寄せて 1223

大叔父の名前を探しつつ読み進め

私が1番に興味を持ったのは

インド国民軍の女性の連隊である

「ラニ・オブ・ジャンシー部隊」のことであった



ラニ・オブ・ジャンシー部隊に関する過去記事はこちら↓↓

「ミャンマーに思いを寄せて 1053」
http://blog.livedoor.jp/aya_sann/archives/1970597.html

「ミャンマーに思いを寄せて 1054」
http://blog.livedoor.jp/aya_sann/archives/1970827.html





ラニ・オブ・ジャンシー部隊のインパール作戦間の本拠地は

ビルマ・メイミョウの野戦病院であったと書かれていた

メイミョウと言えば、第15軍司令部があり

チャンドラボース氏が居たインド国民軍の司令部も

あったところである





銃を持ち、訓練も受けていたと言う女性部隊

なぜ、野戦病院だったのだろう?と、ふと思った

戦場においては、もちろん男性との体力面などの違いもあり

昨日の記事に書いたとおり

単に後方での負傷兵の看護等の

医療活動の支援であれば

女性には最適な仕事と判断されたのだろうなと

と思っていた





しかし、本を読み進めるうちに

ラニ・オブ・ジャンシー部隊の隊長である

ラキシミー女史は南インドの名門である

マドラス医科大学を出て

シンガポールでの開業医だったのだと知った

あぁなるほど、だからか。。。

美人で誉れ高いラキシミー女史は

チャンドラボース氏によって任命された






ラニ・オブ・ジャンシー部隊のことについては

詳しく書かれている物をあまり見たことがなかった

隊長であるラキシミー女史のこととなるとなおさらであった

ラキシミー女史の写真が載っていたので

珍しいと思いますので、写真に収めてみました

見にくいとは思いますが貼り付けておきますね

サングラスがトレードマークだったと言う

現代の私が見ても素敵に思います

RIMG0090










続く…





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