ミャンマーに思いを寄せて

亡き母の思いを果たすべく、ビルマで戦死した大叔父の足取りをたどる私の奮闘記録☆

2016年02月

ミャンマーに思いを寄せて 1319

昭和21年2月11日、連隊長はこの日が誕生日だと偽って

村人達を招いて宴を催した

自宅前にゴザを敷いて多くの村人が

連隊長の誕生日を祝おうと集まった

昭和21年と言うまだまだ食糧事情の良くない頃に

豚の丸焼き3匹や濁酒など、破格のご馳走が並んだ





宴もたけなわとなった頃

連隊長は日傘を持って歌いながら舞いを始めた

村人は拍手喝采で盛り上がっていたが

いつしか連隊長の目には涙が溜まっていた

「最後と決めた別れの宴に満感の思いが

募ったのでしょう」と遺族は言う





去る2月9日、連隊長はGHQから

呼び出しの電報を受けていた

宴の次の日、僧侶が2人連隊長宅を訪ねてきた

2人の僧侶は元軍人で、戦争で散った

多くの英霊達を供養するために

余生を捧げようとお坊さんになった人達だった

連隊長にGHQからの電報が入ったと知り

自決するのではと心配し

生きて共に英霊を弔う道をすすめにきたのだ

しかし、連隊長は本心を隠し

自決の意志がないことを伝えた…




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 1318

戦後に自決された歩兵第112連隊長

その壮絶な様子をご遺族の方が語っておられる

記事を見つけたよ、涙なしでは読めなかった





本人は自決の理由を誰にも語らず

書き残してもいない

苛烈な戦場で多くの部下を死なせたことへの責任と

理不尽な戦いを強いた陸軍上層部への義憤など

その胸中は極めて複雑だったのではないかと

遺族は語る





昭和21年2月13日未明

出身地である熊本県の神社の拝殿前で自決を遂げる

その日、妻子に別れを告げた連隊長は

長男だけを連れて神社に行った

長男を連れて行ったのは自決を完結させる

介錯をさせるためだった

目の前で父親の自決を見た長男

その衝撃は大きかったことだろう





幼子は、自決の3~4日前の夜に寝ていると

連隊長の妻であるお母様のすすり泣く声を聞いた

続いて連隊長であるお父様が

「私は恥ずかしいことをしてこの世を去るのではない。

多くの英霊の御霊に対しお詫びさせて

いただかなければならない。」と言う言葉を耳にする

ああ、お父様はこの世を去っていくのだと思い

シャクリあげて布団の中で泣いた




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 1317

あちゃ~、また更新出来てなかった

最近、お疲れモードなんでしょうか?

気が抜けていますね、しっかりしないと(T_T)スミマセン



辻大佐の評価は、良いと言う人と

悪いと言う人とに真っ二つに別れるらしい





辻大佐をググってみると、様々な事柄が出てきた

ビルマにおいても、拉孟(ラモウ)・騰越(トウエツ)の戦い

と言うのが出てきた

辻大佐は、ミートキーナ守備隊長に死守命令を発令

守備隊長は、玉砕を避け部隊に脱出を命じ

自身は部隊の渡河を見届けてから

責任をとり自決した

その状況報告をしようとした守備隊の生き残りの人に

「死守せよと言ったのに、おめおめ生きて帰りおって」と

すさまじい勢いで殴打したと書かれていた、、、

うわぁ…なんかなんか…ちょっと…あのその…

そんな時代だったのよね…としか言いようのない私



※拉孟(ラモウ)・騰越(トウエツ)の戦いの詳細は

省略します。素晴らしく詳しく書かれた

ブログを見つけたので貼っておきます

こちらも涙・涙でした(T_T)

http://nezu621.blog7.fc2.com/tb.php/720-9aeae984





話は逸れましたが

歩兵第112の連隊長は解任され内地に左遷された

そして遂には自決、それは終戦後のことだった

 


続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 1316

第二次アキャブ作戦で

無能な上級部隊の指示により

壊滅しかけた歩兵第112連隊は

抗命独断撤退をし作戦中止となった





その後、歩兵第112連隊の連隊長は

昭和19年4月11日に解任された

連隊長は大本営に上級部隊の無能な

狂気に満ちた作戦指導を報告したが

報告を受けた辻政信大佐は

「なぜ、全滅しなかったのか。

なぜ全員戦死しなかったのか」と詰問したと言う

上級部隊の作戦失敗は追求されることはなかった





辻 政信大佐って有名だよね。。。

でも私のこの調査には関係がなかったので

石原完爾氏を崇拝してたとか

名前ぐらいしか知らないわ

全ビルマ会の前会長さんも

「辻政信とは会ったことがあるぞ」と言っていたなぁ




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 1315

※更新時間を間違いました

遅くなり申し訳ありませんm(_ _)m



補給を無視した無謀な作戦と

悪名高いインパール作戦

しかし、肯定する研究者もいる

私個人はどちらとも判断出来ず

想定外でたまたま

そうなってしまったのかと思っていたのだけど、、、

まさかその直前の第二次アキャブ作戦で

同じ状況があったなんて…衝撃的であった





なんでその教訓は活かされなかったの?

第二次アキャブ作戦で命を落とした英霊さんは

どんな気持ちでインパール作戦を見ていたのだろう

そして、その中核となり、抗命の独断撤退した

歩兵第112連隊の連隊長は

その後どうなったのだろう?と気になった





大叔父の調査には関係のないことなんだろうけど

大叔父はインパール作戦に参加し

戦病死しているので

全く関係ないとも言い切れないかな。。。

寄り道も何かのご縁

歩兵第112連隊長のその後を調べみると

とってもとっても悲しい結末となっていたので

これは書いておかなきゃと思ったのでした




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 1314

第一次アキャブ作戦が楽勝だったため

第二次アキャブ作戦においても

日本軍は安易に勝てると考えていたようである





第二次アキャブ作戦は第55師団を主力として計画された

第一次アキャブ作戦において大活躍した

歩兵第112連隊を今回も起用し中核に据えた

英軍の物資を奪取することを前提とし

4日分の弾薬と食糧の携行

持久戦となり大変苦しい戦いを強いられることとなった





全てイギリス軍側のシナリオ通りと言われている

イギリス軍は、円形陣地で包囲されたまま

空輸による補給、増援を受け頑強に抵抗

それに対し日本軍は徐々に損害が増え消耗していく

上級部隊は何も策を打ち出せないまま

前線の指揮官たちに自決を強要したらしい





補給は絶え、無謀な突撃を命じられ、自決を強いられた連隊長は

師団長との無線を封止した上で

「これ以上、天皇の赤子を殺すに忍びず」と

生き残った部下400名に独断で撤退を命令した

師団長は命令違反に激怒したが

事が大きくなることを恐れて

2月26日付で作戦中止とし、惨敗の結果となった





インパール作戦での烈師団の抗命の独断撤退は

大変有名であるが

まさかインパール作戦の1ヶ月くらい前に

連隊規模とは言え、独断撤退があったなんて知らなかった

しかも、インパール作戦と同じような状況である

補給を軽視した結果、補給経路が断絶された消耗戦

なぜ、この時の教訓が活かされなかったのだろう、、、

同じビルマで、同じ指揮官

インパール作戦ではもっと規模が大きく

甚大な損害を被ることとなるのに、、、

後世の人間が、歴史を見て

あ~すれば良かったのにと思うことは失礼かもしれないが

なんだか、やるせない気分になった




続く…




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「丸」掲載の反響

読者の皆様へ


いつも読んで下さりありがとうございます

先月末発売号のミリタリー雑誌「丸」において

こちらの記事が掲載されました

文末には大叔父の情報提供を呼びかけており

僅かな期待を胸にドキドキしております





先日、「丸」さんから別件でのお電話があり

ついでに情報提供について伺いましたが

今回は、まだ特に何も無いそうですエーン(T_T)

感想は何件か寄せられているようですが

「筆者が女性だと知って驚いた」とか。。。

えっ?「丸」の読者様は知らなかったっけ?

確かに”私”って表現は、男性でも使うから…

ってことは、以前に書いた防衛研究所での

大泣きの事件とかは、男性だと思われていたら

えーっと、かなりビツクリな内容ですよね

ブログの読者様は、私が女性だってご存じですよね?

「今、知った」って言われたら驚きますっっアウ





そう言えば、ペンネームの”パンダジュエリー”について

丸に読者様から「ふざけている!!」と苦情が来たことが

あったそうですが…男性だと思われていたのかなぁ

女性だったら許される???

男性でパンダジュエリーってペンネームを付ける人も

きっとなかなか居ないと思いますが(笑)





ワタクシ、女だてらに、なぜか成り行きで

戦史のお勉強をしておりますm(_ _)mハイ

まぁ先祖様の供養に男女は関係ないのですが

戦史に興味のある方は男性が一般的なんでしょうね

確かにいつも驚かれ、若干おかしな人と思われます(^^;)

これも”歴女”になるのかな?

いやいや、私は趣味で楽しんでいるんじゃないので





と言うことで、女性ですが奮闘しておりますので

今後ともどうぞ優しい目で

応援下さいますようお願い申し上げます


2016.2.23


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ミャンマーに思いを寄せて 1313

おじいさんの大川塾や光機関のお話は

初耳なことが多くて勉強になったのだけど

それを取り巻く歴史も

もっと勉強して行かなきゃいけなかったわね、、、

時折、質問や相づちも挟んだけど

基本、おじいさんのお話を

ニコニコ&ウンウンと頷きながら聞いていた私

でも、アキャブ作戦の話の時は

分からなくて余裕がなかったかも~





「第二次アキャブ作戦」

名前は様々な文献で何度か見ていた

でも、インパール作戦じゃないしって勉強してなかった

おじいさんの口から知らない作戦名が

出てきて、慌てたよごめんなさいっ





帰ってから少し調べましたので書いておきますね

きっと読者の皆様はご存じなんだろうなぁ。。。

アキャブ作戦には、第一次と第二次がある

第一次は、昭和17年末から昭和18年4月までの

約4ヶ月間、イギリス軍との戦いだった

三十一号作戦とも呼ばれる





昭和17年末に、インド領内のイギリス軍から攻撃を受けた

これに第55師団の歩兵第213連隊主力が迎撃

結果は日本軍側の勝利だったそうです

日本軍側の戦死者数は611名、戦傷者数は1165名

対してイギリス軍側は、遺棄死体4770名、捕虜480名

さらに日本側は戦車・装甲車40両及び

自動車73両の捕獲に成功したと書かれていた





長くなりますが、続いて第二次アキャブ作戦は

昭和19年2月に行なわれた日本軍による作戦で

ハ号作戦とも呼ばれる

インド国境付近のイギリス軍の殲滅を目指した

アキャブの北方にはインパールがあり

インパール作戦の前捷戦・陽動作戦とも言える





アキャブには、飛行場や港があり

ビルマ防衛の要となっている上

近くにはイギリス軍のインド東端の拠点もあり

重要拠点の1つであった

昭和19年1月には、第一次アキャブ作戦で

甚大な被害を受けたイギリス軍は回復しており

遂にビルマ国内までイギリス軍に占領された

インパール作戦を控えている日本軍は

まずはアキャブ防衛のために

付近の英印軍を殲滅する必要が生じたと判断した





日本軍は作戦開始早々に各地でイギリス軍を包囲

勝利は確実と思われたが

全てイギリス軍側の予定されたものだったと言われる

両軍は膠着状態に陥り、日本軍は損害が累積し

結果、惨敗して2月26日に作戦中止

インパール作戦を目前に

既に雲行きが怪しくなっていたのである




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 1312

「第二次アキャブ作戦」において

初めて祖国インドの地を踏んだインド国民軍

嬉しかっただろうなぁ。。。

(”アキャブ”って名前はビルマの地名

ベンガル湾の西岸地区で

インドとビルマの国境線があります)





インド国民軍と共に戦ったインパール作戦は

日本として正規のよその国の軍隊と

連携した作戦行動であり

空前絶後の歴史に残る

すごいことだと私は思うのだが

未だ、インド国民軍に光が当たることはない。。。

なんでかなぁ?

インド国民軍のことを知っている日本人は

きっと少ないよね、、、

かく言う私も、つい最近までは知らなかったのだけど





日本軍と同じように、インド国民軍にも

死傷者はたくさん出ていて

共に戦ってくれた友軍なのにね

「戦争=良くないこと」の定義を前に

全ての歴史が封印されているように感じる

なんだか、とても悲しくて残念に思うわ




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 1311

おじいさんはお疲れの様子もなく

ポツリポツリと柔らかい口調で話される





実は、インド国民軍が祖国の地を

初めて踏んだのは

インパール作戦ではないとおじいさんは言う

インパール作戦の前哨戦である

「第二次アキャブ作戦」の際に

既にインド国民軍はインドまで到達していたそうだ





インド国民軍は、インパール作戦で

初めてインドに行ったのかと思っていたけど

へぇ、そうだったんだぁ。。。

そんなことって、ほとんどの人が

知らないんじゃないかしら?

研究者とか、戦史マニアさんだったら

知ってることなのかな?

インパール作戦については

ずいぶんと調べたけど、アキャブ作戦まで

勉強はしていなかった私





現在では、日米共同訓練とか

友軍との連携は当たり前の時代となったが

それまでの戦争において

そんな作戦は無かったように思う

しいて言えば、義和団事件が

少しそれっぽいかしら?



※【義和団事件】

日清戦争後、中国の秘密結社・義和団が

生活に苦しむ農民を集めて起こした外国人排外運動

各地で外国人やキリスト教会を襲い

1900年、北京の列国大公使館地区を包囲攻撃したため

日本を含む8か国(日本、イギリス、アメリカ、ロシア、

ドイツ、フランス、イタリア、オーストリア)の連合軍は

救出作戦を行ない、これを鎮圧した




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 1310

ご飯を食べて、おじいさんは更にパワーアップ

お話タイム・第二弾に突入!!





先ほどのアメーバ赤痢の特効薬の

話の続きがあり

日本軍が最初に手にした特効薬の「エメシン」は

チャンドラボース氏がドイツから持ってきたようだ





ウィキペディアで歴史を少し見ましたら

昭和18年2月8日にチャンドラボース氏は

ドイツ海軍のUボートに乗り出航し

4月26日にアフリカのマダガスカル島沖に到着

そこで日本軍の潜水艦に乗り換えて

5月6日にスマトラ島に到着したと書かれていた

その後、チャンドラボース氏は飛行機で日本に来た





チャンドラボース氏は、エメシンを2トンもくれたそうだ

へぇ~スゴイなぁ。。。

これって有名な話なんだろうか?

私だけ勉強不足で知らなかったのかな?

読者の皆様はご存じでしたか???





エメシンはスマトラ島で下ろされたのかな?

受け取ったのは海軍だけど

陸軍にもエメシンを分けてくれたのかな?

昭和18年の5月にもらって

翌年のインパール作戦まで薬が残っていたか

もしくは、それまでに開発・生産が出来たのか

この話を、おじいさんは誰から聞いたのか

そして真実かどうかなど、詳細は分からなかった





続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 1309

おじいさんとおばあさんは

戦後にご結婚され、この地に来たらしい

来たばかりの時は、畑だらけの地域だったそうだ





おじいさんは、つい最近、骨折されるまでは

とてもお元気に、おばあさんと一緒に

マラソンされていたそうで

ここから皇居までジョギングしたり

フルマラソンにも出られていた

ジョギングついでに青山などにも寄ると

ランニングパンツ姿のおじいさん&おばあさんに

道行く人々は驚いたとか。。。

だっておじいさんは

大正11年生まれ、御年93才(2015年現在)なんだもん





おばあさんの手作りの”おひたし”が1番美味しかった

小鉢に出されたおひたしを私がペロリと食べると

おばあさんはすぐにおかわりを入れてくれた

「美味しいですぅ~

次から次へと、わんこそば状態

おひたしの作り方を教わった上

更に瓶に詰めて下さり、お土産分まで





どうしましょ。。。

お邪魔してから、もうずいぶんと時間も経つし

こんなにまで良くしてもらって

申し訳ないなぁと恐縮しながらも

居心地の良い場所でついつい甘えちゃった

お腹がいっぱいになったおじいさんは

お話タイムの第二弾に突入モード

えっ?ほんとに?大丈夫ですか???




続く…




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チョコっと雑談

読者の皆様へ


いつも読んで下さってありがとうございます

2/14はバレンタインデーでしたね

少し遅くなりましたが

私からも気持だけですが、チョコの画像を

皆様に感謝を込めて

53464621_480x311[1]







さて、先日、お取引先でのお話。。。

私のお仕事は、ご存じのとおり

『パンダジュエリー』と言うアクセサリー屋さんです

パンダが大好きだからとの単純な理由で

この屋号にしました(笑)

だ・け・ど~、なぜかこんな戦史のお勉強をすることに

お仕事とこの調査は関係ないのですが

最近は、何者かよく分からないパンダジュエリーです





お取引先のおじ様は、熱く語ります

「旧軍はパンダも使おうとしたらしいよ!」

だから~私のパンダと戦史は関係ないんですけどぉ

パンダの生息地まで、日本軍って居たかな?

「昔はね、中国全土にパンダがゴロゴロいたらしいんだ」

あら…そうなんですね、、、

で、パンダを何に使うのですか???

「荷役に使おうとしたらしいよ、馬とかと同じようにね」

えっ?パンダに荷物を運ばす???

野生のパンダって、なつくの???

旧軍はパンダの繁殖もしていたとか???

そんな話は聞いたことがないけど。。。





ここからは想像

現地の旧軍:「人なつこい熊がたくさんいます」

        「性格も温厚な草食の白黒の熊です」

本土の旧軍:「よし!今すぐ捕まえて荷役に使え」

現地の旧軍:「えっと…そんな熊じゃないと思います」

パンダを知らない本土の人からの無謀な命令か?

パンダに荷物を与えたら、、、遊ぶと思う(笑)





って、何で取引先でこんな話になるんだろう

さあて、大叔父は”チョコレート”を食べたことが

あっただろうか?パンダを見たことは?

チョコレートもパンダも関係のなさそうな戦時中のビルマ

大叔父に直接聞くことが出来ればいいのになぁ。。。



2016.2.17



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ミャンマーに思いを寄せて 1308

おじいさんちは、都心に近いのに広大なお庭

竹林の他に、お庭には池があり

ネコがのんびりと歩いていた

「うちのネコじゃないけど、いつも来るの」

春になると池には、恐ろしい数の

おたまじゃくしが溢れ

ある日、そのおたまじゃくしは一斉に

いなくなるらしく、「どこに行くのかしらね?」と

おばあさんは楽しそうに話された

人も動物も、みんな集まってくる

暖かい日差しに包まれた

温かいお人柄のおじいさんとおばあさん





おじいさんは、戦後もアジア各地の人々との

繋がりがあったようだ

大川塾の教えを実戦して

現地の人々と心を通わせて

その親交は現在も続いている





戦時中に一緒に仕事されていた現地の人が

戦後、その国を背負う立場となり

ご夫婦で遊びに行ったら

国賓待遇で、もてなしてもらったそうだ

ホテルのスイートに泊まり

国王がお忍びで遊びに来られて

ディナーをご一緒した際には

ホテルの人は国王が誰に会いに来たのかと

思っていたら、日本人のおじいさん達で

「この人達は何者?」と驚かれたとか

南国の見たことのない何かの実のような物が

お台所にたくさんあった





苦労を共にし、同じ釜の飯を食べて

厳しい時代を生き抜いた昔の仲間

敗戦間近になると、外国人の一部の人は
 
態度を翻して連合軍側に寝返った人もいたが

戦後も、ご縁を大切にし、ずっと付き合いたいと

思うような、おじいさんのお人柄から

大川塾生の生き様を垣間見た気がした




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 1307

仕出しの天丼は

この地域では有名なお店の物らしい

てんこ盛りの天丼を、おじいさんはペロリと

食べられてビックリ!

このお年の方だったら、何らかの持病で

食べてはいけない物があったりしそうなものだが

何の持病も無く、何でも食べられるそうだ

だから、心配したお薬の時間も全く心配無用だった

すごいよ、おじいさんあっぱれ!

先日、腰を骨折されたとのことで

歩行が若干思うように行かないくらいで

おじいさんは、耳も言葉も不自由なく

とってもお元気だった





天丼も、おばあさんの手料理も

とってもとっても美味しかった

お腹がすいていたのもあって

私はお言葉に甘えてパクパクといただいた

「美味しいですぅ~、美味しいですぅ~」

キャーどうしましょう、なんと素晴らしい食べっぷり(笑)

だけど、あまりにもてんこ盛りの天丼に悪戦苦闘していると

おばあさんは、お持ち帰りようにパックを下さった

それに、おばあさんの天丼も入れて下さり

またまた、お持ち帰り用のてんこ盛りの天丼の完成





おばあさんは、結婚するまで

おじいさんの経歴を知らなかったそうだ

「結婚してから聞かされてビックリしちゃった」と

笑っておられた




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 1306

ダイニングテーブルでは

今度はおばあさんとの会話で盛り上がった

楽しいお話をたくさん聞かせて下さった





私についても様々な質問が飛び交った

そうだ…おじいさんへのお手紙には

大叔父の調査の経緯と状況

そして、ご紹介者のお名前を出して

怪しい者ではないと強調しておいたが

私自身のことはあまり書いていなかった気がする





おばあさんは、おじいさんが人が良すぎて

時折、不思議な人を突然連れてくると言われた

先日も、おじいさんが道を歩いていると

「戦争の話を聞かせて下さい!」と

青年が突然、声をかけてきて

おじいさんは、お家に連れ帰ったとのこと

おじいさんの見た目で、旧軍経験者だと判断し

大川塾出身とか知らずに声をかけたようだ





私も、女性で、この年齢でビルマがどうの

大叔父がどうのと言うおかしな人かと

気が気でなかったのだろう

どんな人物なのか興味津々のようだったが

意外と(?)普通の人なので安心して下さったように感じた





続く…





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ミャンマーに思いを寄せて 1305

この時点で、お昼の時間はとうに過ぎていた

ご高齢なのにノンストップで話し続けて下さる

おじいさん…大丈夫かしら?

お薬の時間とかあったらどうしよう。。。

聞いておくことは他にないかしら?

これ以上、長居しちゃご迷惑だし、、、

と私は気が気でなかった





すると、おばあさんが声をかけて下さった

おばあさんグッドタイミング

しかしおばあさんは「お昼ご飯を食べましょう」って

えっ?どうしよう…いいのかなぁ

気付けば、確かにお腹ペコペコだぁ

お茶にも手を付けていなかった私を見て

おじいさんには「冷めてしまったけど、お茶どうぞ」と

すすめてもらい、やっと一息ついたのだった





おばあさんは上機嫌に

「普段は親しい人しかお台所に入れないのよ」と

言いながら、私をダイニングテーブルに招いて下さった

食卓には、仕出しの天丼の他、フルーツや

おばあさんの手作りのお料理がズラリ

私は厚かましいと思いつつも

ご飯をごちそうになることとなった




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 1304

先日の記事に出てきた

「小石川植物園」が気になったので調べてみた





小石川植物園と言う名で親しまれているが

正式名称は

「東京大学大学院理学系研究科附属植物園」

おぉ~長いですね

 東京都・文京区にある日本で最も古い植物園

世界でも有数の歴史を持つ植物園の一つである





貞享元年(1684)に徳川幕府が設けた

小石川御薬園が遠い前身で

明治10年に東京大学が設立された直後に

附属植物園となったそうである

この植物園は日本の近代植物学発祥の地であり

現在も植物学の研究・教育の場となっている

特に東アジアの植物研究の世界的センターとなっている





関東大震災の際には

被災者の一部を植物園内に収納したこともある

戦災で温室、黒門、集会所、教室跡建物を

完全消失したが、その後に見事に復活した歴史がある

 

名前だけは知っていたけど

でもどこにあって・どんな植物園なのか知りませんでした

勉強になりました

恒例の寄り道のおまけでした(笑)

お付き合いいただきありがとうございます




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 1303 

若かったおじいさんに

農場で雇われた現地の人は

最敬礼で挨拶をしてくれたそうだ

そしておじいさんは

農業のエキスパートのような顔をして

いたそうである

ほんとうは農業には精通していなかったようである





途中で交代をしたおじいさんは

終戦時には農場に居なかった

その後のことはきっと気になっていたはずだ

終戦により、日本は農場をイギリス軍に

明け渡すこととなる

その際、おじいさんの上司だった方は

「荒廃の中から復活させた吐根栽培を

平和に役立ててくれるように」と

詳細を英文でしたためた手紙を

イギリス軍の司令官に送った

おじいさんの苦労を

分かって下さっていた人が居た

良かったね、おじいさん





その手紙を見たイギリス軍の司令官は

「日本軍が良いことをしたのはこれだけだ」と

言ったらしい。。。おいおい

イギリス軍は農場を申し受けて

吐根栽培をちゃんと出来たのだろうか?





アメーバ赤痢の特効薬

この薬を大叔父は使ったのかな?

使っていれば命を落とすことは

なかったかもしれないなぁ。。。




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 1302

薬草を探し当てたおじいさんは

その繁殖に力を入れた

それゆえに月報の部数は増え

仕事の大きな部分を占めるようにって行く





成果が上がってくると

軍の偉い方や、高官がたくさん視察に訪れ

三笠宮様もお見えになったそうである

それほどにアメーバ赤痢の特効薬を渇望していたのだろう





生育した吐根を切断乾燥させ

軍用機で東京の衛生材料廠へ送られた

「大量のエメチンが製造されて

多くの人命救助に役立ったはずである」と

おじいさんは本に書かれている





仕事が軌道に乗った頃になって

内地から農地専門家が来られて交代となった

。。。最初から農地専門家で良かったのでは?

おじいさんがかわいそう





ついでに、「東京の衛生材料廠」がちょっとだけ

気になって調べてみた(笑)

正式には陸軍衛生材料廠と言う

医薬品や医療器具などの調達

保管、補給などを担当する部署だったそうで

現在は、東京都世田谷区のその跡地には

自衛隊・用賀駐屯地と国立医薬品食品衛生研究所がある

用賀駐屯地は、関東補給処用賀支処と名称変更されたが

旧衛生補給処があったところだ

旧軍時代から衛生材料の兵站の中枢である

なるほどなぁ~




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 1310

このおじいさんがジャングルの片隅で

薬草を探し当てたとき

現地には軍隊以外の日本人なんて

誰一人いなかったそうだ





初代農場長になったのだが

宿舎には電灯さえなかった

ガス燈の下で軍への報告書をまとめる日々

月報は南方総軍から参謀本部へ

更に東大から小石川植物園にまで廻された





吐根からエメチンの成分が抽出できた時のことを

「この喜びは忘れられない感激であった」と

本にも記されていた





大川塾を出たばかりの少年が成し遂げた偉業

しかし、たった1人で実現したのではない

現地の人の協力があってこそのこと

現地の人に協力をしてもいいと思わせたのは

おじいさんのお人柄であり

その根本には、大川塾のモットーである

「正直と親切」があったのではないかと思う

そして大川塾において培った

外国語も大変役に立ったのではないだろうか?




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 1309

薬の開発を言い渡された大川塾生

その大川塾生が農家の出身だったかは分からない

農家の出身じゃなかったら

大変な苦労だったのではないだろうか?





そのアメーバ赤痢に効く薬草とは

昔々の文献に書かれていたそうで

イペカクアンナと現地では呼ばれ

和名では「吐根(とこん)」と言う植物であった

吐根は、アカネ科の植物で

原産地はブラジル

白い花が咲き、名前のごとく

特異な臭気と不快な苦味を有する





その吐根に含まれる「エメチン」と呼ばれる

成分がアメーバ赤痢の特効薬になるそうだ

マラリアにはキニーネ

アメーバ赤痢には吐根

おじいさんのおかげで

日本軍は強い見方を見つけたのであった

。。。だけど、ビルマでアメーバ赤痢の薬って

ほとんど聞いたことがないのは気のせいかな?

開発が遅かったのかしら?補給の問題かな?

それにしても昔々の文献からって

何とも原始的と言うか

そうでもしないと薬が作れない

そんな時代だったのだろうなぁ




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 1308

おじいさんはお友達の話も

自分のことのように誇り高く話されていた





大川塾生は様々な職務に就いた

そんな中、薬の開発を言い渡された者もいた

薬と言っても、現代のように研究所などでの

綺麗な施設での開発ではなかった





ジャングルの中のゴム園では

細々とアメーバ赤痢に効くと言われる

植物が栽培されていたが

今は消滅しかかっていると言う情報を得て

その薬草を探して繁殖させる命令を受けた





大川塾を卒業した少年は

その植物を求めてジャングルを探し回った結果

ジャングル化した地域の片隅に

正に消滅しかかっている薬草を発見する

そして、それを繁殖させるために

土地を開墾して、農場を作り

初代農場長に就任したのであった




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 1307

おじいさんのお話はノンストップで続く

いっぱい話したいことがあるようだ。。。

昨日のことのように饒舌に話される

でも時々、忘れたこともあるようで

「詳しくは本に載っていますので読んで下さい」

と何度も言われていた

おじいさんちに来るために

必死に読んだおじいさんの本

私は、あぁ、あのページのことだなと思いながら

話を聞いていた





おじいさんは、昭和通商に居た頃に

泰緬鉄道のための枕木を手配をしたそうだ

シンガポールに残っていた枕木を転用して

タイ国境へ運ぶ仕事

泰緬鉄道が通った裏方には

おじいさんの偉業もあったのだが

映画「戦場に架ける橋」の中では

イギリス軍の捕虜が

山から木を切って枕木にしているそうで

「あれは違います!私が準備したんですから」と

おじいさんはご立腹だった

おじいさんも枕木の運搬に携わった

イギリス軍の捕虜だけ酷使したようになっているが

日本軍側にもたくさんの犠牲者が出ていて

同じだったとも言われていた





私はミャンマーには行ったが

タイには行ったことがないし

泰緬鉄道には乗ったことがない

もう古くなっていて、所々断線しているらしいが

山肌を縫うような細い細い鉄道は

今現在も使われていると言う

もしも泰緬鉄道に乗ることがあったなら

おじいさんの枕木に注目したい




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 1306

※更新時間を間違えていることに

今頃に気付きました…スミマセン



おじいさんは、ビルマ入りした後

ビルマから軍事郵便は出せなかったと

言っていた

大叔父のビルマからの

手紙は珍しいのかな?

まぁインパール作戦が始まる前の

手紙なので、何とも言えないけど。。。





大叔父のことはご存じなかったおじいさん

では、○○大学の理事でもあり

大叔父の姉婿について知りませんか?

と聞いてみた

大叔父の姉婿は、直接的ではないが

石原完爾氏を通じて光機関に通じていると

思っているのと、もしや大川塾に

関係しているのではないかとふと思ったからである





姉婿の名前を伝えたが

おじいさんはご存じなかった

では、○○大学の関係者は

大川塾に来られていませんでしたか?との問いに

○○大学のもう1人の理事さんが

来られていたと思うと言われた

。。。やっぱり





もう1人の理事さんとは

姉婿と同じ時期に○○大学で理事をれていて

大川周明氏のパトロンと言われている人だ

ただ、もう1人の理事さんが

大川塾に来ていたって不思議ではないし

それが○○大学と大川塾が繋がっていたと

言うことになるわけでもないけどね

例え繋がっていたとしても

それが大叔父の出兵に関係するかどうかなど

全く分からないのだけど

それでも何かしら僅かでも

大叔父に繋がる情報が欲しかった




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 1305

防衛研究所にあった

「旧光機関在籍者名簿」には

約200名くらいの名前しか書かれていなかった

最大時には500名くらいの所属員が居たと

言われているが、なぜだろう?





もしや、あの名簿には本属の人しか載っていなくて

他部隊から臨時に派遣されていた人が

相当数居たのではないだろうかと思った





そのことをおじいさんに聞いてみた

すると、戦死した人は分からなくなっている

可能性もあるとのこと

。。。300名ほど不明の人が居る???





おじいさんは、戦時中には

光機関の全名簿があったと思うと言った

しかし、その名簿は戦後にイギリスに提出されたらしい

そのため日本には残っていないだろうとのこと

イギリスに渡ってしまったのかぁ、、、

それがあれば、他部隊からの臨時に

派遣されていた人も分かるだろうか?

でもイギリス…見つけるのは夢物語かも




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 1304

インパール作戦中には

中野学校とワンセットで動いていた

光機関の通訳要員

しかし、大川塾の教育では

中野学校との接点は何も無かったと

おじいさんは言っていた





大叔父は歩兵60連隊の所属ではあるが

勤務場所は光機関ではないかと

私は思っている

光機関には、臨時で他の部隊から

派遣されていた人はいましたか?

との私の質問に

中野学校卒の人は

光機関の本属で無い人も居たが

その他は知らないと言われた





光機関で仮名を使っていた人は

いましたか?との私の質問には

居ないと思うと答えられた

でも、仮名を使っていたら

本名と違うかなんて明かさない限り

分からないよなぁと私は思った

ただ、終戦後に収容所に入った際には

大川塾生においては

詰問の対象となったため

偽名を使い、切り抜けた者も居たそうだ




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 1303

その山梨のおじいさんは

インパール作戦の最中に、コヒマから

ラングーンに帰るように命令を受けた

内容は「徴兵検査を受けるため」

…ってことは、軍属で第一線に投入されていたのね

コヒマからラングーン。。。

大叔父のメイミョウよりも長距離移動だ

五体満足だったから移動出来たんだと思う





おじいさんは、「インパールで負けてから

光機関には、下士官はいらなかった」と言う

足手まといだから、教育隊に入れたままにしたんだ

と言うような感じで言われていた





でもね、私が受けた印象は

この山梨のおじいさんの例で言うと

インパール作戦の最中に前線から下げてくれた

徴兵検査をして軍人になっても・ならなくとも

大川塾卒のその人の高い能力は変わらない

年端のいかない優秀な大川塾卒生を

死なせてしまったらかわいそうだ

しかも第一線で軍属のままでじゃマズイ、、、

と思ったのではないだろうか?

軍人であったならば、作戦の最中に帰って来いとは

言わないだろう

活躍する機会を失してしまったが

それは光機関の親心じゃないのかなぁと思った



続く…



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ミャンマーに思いを寄せて 1302

おじいさんが知っている限りでは

南方での通訳要員は90名ほど徴用されたらしい

その中に大叔父が含まれたかどうかは分からない

現代であれば、英語が話せる人90名なんて

きっと簡単に集まるだろう

そんなに大きな数字とは思わないけど

あの時代で英語やヒンドュー語を話せる人を

90人も集めるのは容易ではなかったと思う

大学にでも行ってるか

外国で仕事をしていたとかでないとね





おじいさんは、ビルマ・ラングーンの光機関本部に

来る前は、シンガポールに居た期間があるため

ビルマでの経験はほとんどないが

最初からビルマに派遣された大川塾生は

第一線のコヒマなどにも進出していた





そのコヒマに派遣されていた大川塾生は

現在も山梨県にてお元気でいらっしゃるそうだ

もう1人、大川塾生がご健在なんだぁ。。。

おじいさんは、分からないことがあると

山梨のおじいさんに電話されていた

名前も告げず「あのね~、コヒマがね~」と

突然始まる会話

通じているんだろうか、、、?

えーっと、たぶん、通じてるんだろうね




続く…




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