ミャンマーに思いを寄せて

亡き母の思いを果たすべく、ビルマで戦死した大叔父の足取りをたどる私の奮闘記録☆

2016年06月

新たな協力者との出会い

読者の皆様へ



いつも読んでいただきありがとうございます

今朝は雨上がりで涼しい東京です

暑さが苦手な私は、このままの涼しさが

続けば良いのにと思ってしまいます





日頃から何かと忙しい私ですが

先週より、特に精力的にこの調査のために動いております

「自分が動けば回りも動いて下さる」

ご紹介~ご紹介のご縁で

連日、良い方たちと出会うことが出来ました

そんなところもありましたか!とビックリ

豪華な心強い協力者の出現に感謝感激です!!

昨日は、貴重な本を頂戴し、お写真も拝借しました

私も見たことが無い未発表の物だと思います

あるところにはまだまだあるのね~と思いました





そこからまだ発展中です

よ~し、忙しくなるぞ~

その分、勉強することが増えて困っちゃう

幅広い分野に詳しくなった???

いやいや、詳しくならなくて良いですっ

全く狭い範囲で良いので、早く終わりたい~





この調査チームは

私の熱意に(?)賛同して下さった皆様方が

損得勘定なしでボランティアで協力して下さっています

各分野のスペシャリストがそれぞれにアイデアを出し合って

進んでおります

こんなに恵まれた環境はないと思います

大変ありがたいことで、私もそれに応えて頑張らないと☆

では、詳しいことはいつかの本文でお楽しみください♪

いつも応援いただきありがとうございます




2016.6.30




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ミャンマーに思いを寄せて 1427

「乗船名簿」と言う新たな挑戦を

始めようとして下っているプロの協力者さん

兵籍簿を単に最初から洗いなおしている

と言う訳ではないだろう

私が思い付きから調べているのに対し

プロの方は、それに至った経緯や目星が

必ずあるはずだ。。。





しかし乗船名簿ってどこにあるんだろう?

しかも乗船名簿って、そんなに大切そうに思えないけど

長い間、どこかに保管されてるってことあるのかな?

まぁ私がそんなこと考えたって分かるはずもない

お任せしてお願いしちゃおう





その間に私は何をしなくちゃいけないんだろう?

いっぱいやることはあるんだけど、、、

なかなか実行動に出る気にならなかった

ただ、今回、新しい書籍を発見出来たことは大きかった

私が知らない書籍類は、まだまだあるはずだ

偉い方の手記には、将校以上でないと

単に「下士官」と片付けられ、滅多なことでは

下士官の氏名なんて出てこないけど

下士官の方の手記には出てくる可能性は高い

誰が書いたどんな本だってかまわない

ビルマ、インパール、インド国民軍、光機関

○○大学、特務機関、その他色々なキーワードで

新たな書籍を探した

時には、本の末巻に書かれている根拠図書なども

参考にして、ありとあらゆる本を片っ端から購入してみた

さあ全部、読むわよ~!!

何度も読んで、書き込みをして、辞書のように使う私は

借りて読むのがとっても苦手…

こうして我が家は益々、図書館のようになっていった




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 1426

兵籍簿を最初から洗いなおす。。。

思いもよらぬことに驚いたが

確かに、それくらいからやらないとダメなんだろうなぁ

それをやろうと協力して下さっているのだから

大変ありがたいことである





兵籍簿の中でほんとうの部分はどこだろう?

氏名や本籍地、生年月日などは良いとして

行動記録の部分だけを見ると

細かい日付は何とも言えないが

「昭和17年12月1日 第一補充兵役編入」

「昭和18年4月20日 臨時召集に依り 歩兵第128連隊に応召」

「同日 第1機関銃中隊に編入」

ここまでは、大丈夫じゃないかと思う

大叔父の父(私の曽祖父)が、大叔父が入営していた

京都・伏見の練兵所に面会に通っていたと

伯父は言っていたためである

その時に「通訳をする」と聞いたらしい





兵籍簿は、次に

「7月22日 歩兵第60連隊補充交代要員として京都出発」と

書かれているが、曽祖父がいつまで練兵所に通っていたか

詳しい日付までは分からない

と、言うことで、ほんとうに7月22日に京都を発ったかどうかまでは

確実とは言えないのである





結果、今のところ、大叔父の兵籍簿の3項目目までしか

確かでないことになる。。。

はい、ここから洗い直しスタートガーン




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 1425

突然飛び出した「乗船名簿」と言う言葉に

私は何のことか分からなかった





兵籍簿によると、大叔父は

昭和18年7月23日に「下関」を出て

同日に「釜山」に着いている

下関は、山口県の下関港

釜山は、現在の大韓民国の釜山港

のことだと思われる

下関と釜山は約200Km

古くから朝鮮半島と日本を結ぶ交通の要衝である





確かに大叔父の兵籍簿には不思議な箇所が

たくさんある

漠然と、全部が嘘ではなく

60連隊に居たとなっている部分が

嘘なのではないかと思っていた





それが、乗船名簿となると

大陸に渡ったことさえ嘘ではないかと

プロの研究者は考えられたのである





そんな所からもう既に疑わなければ

いけないような状況なのね。。。

私はなんだか凹んだ

ビルマの部分だけでも調査は難航しているのに

兵籍簿を最初の部分から

全部洗いなおすと言うとんでもないことに

なってきてしまった



続く…



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ミャンマーに思いを寄せて 1424

読書の夏~秋・冬を過ごすこととなる2015年

秋になり、協力者であるプロの研究家の方から

連絡があった





当初は、大叔父が亡くなったとされる第121兵站病院と

大叔父の○○大学から調べようと考えておられたのだが

なかなか資料が無く難しいようで

別の方向から攻めることになったそうである

それは、「乗船名簿」





乗船名簿???

大叔父の兵籍簿の中で

日本から中国大陸に渡った際の

船の乗船名簿だと言うことだった





ん・・・???なんで乗船名簿?

えっ?もしかして…大陸に渡ったことさえ

ほんとうかどうか疑わしいってこと?

ちよっと、ちょっと、、、ええええぇぇ




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 1423

北部大佐の名前はたくさん出てきたが

聞き取りの中に北部大佐の名前は無い

聞き取りの頃には、もうご存命じゃなかったのだろう

だって終戦時に大佐だもんね

北部大佐だったら、たくさんの貴重な証言が

聞けただろうに、残念である





私の調査は、学術的な物で追及しているのではない

もちろんお金儲けのためにでもないし

これで名声を得たいと思っている訳でもない

単に大叔父のことが分かればいいので

究極の最終手段は、恐山のイタコさんに頼ろうと思ってたりして

北部大佐に聞くよりも、大叔父本人に聞いた方が早いなとか

思わずまじめに考えたわ

降りてきた大叔父に「自分で調べろ」と怒られそう

私に与えられた人生の試練として

細々と続くのかなぁ。。。いつまで???

早くゴールしたい~( p_q)エ-ン





とりあえず、この本を読んでしまおうと

電話帳ほど分厚い本2冊に没頭する私であった




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 1422

聞き取りの対象者が主要人物だったのか

ご存命の方、全員が対象だったのかは分からない





読み進めて行く。。。

光機関に関わった方々は、人それぞれのパターンがある

中野学校出身の人は多かった

もちろん中野学校出身の下士官も多くおられた

その他には、大川塾出身の方も多かった

そして、拓南塾(大東亜錬成院第3部)の出身の方も~

拓南塾も大川塾の関連で調べたことがあったなぁ。。。

民間の中野学校と呼ばれていて、東京都の小平市にあったらしい

軍属も女性(主にタイピスト)も多い

中には中野学校などを出ていなくて

特技もほぼ無く、何で光機関に派遣されたのか

ご本人さえ分からない人も見受けられた





徴兵検査を受ける際に

上官からの「乙種にするように」との手紙を

検査官に渡したと言う話もある

A氏も乙種になるように手配されていたなぁ。。。

それらは、まだ開戦前の昭和16年の話だった

軍人になってしまったら、教育とかで留守になっちゃうから?

乙種にして、徴兵を免れさせて

手っ取り早く軍属として使いたい???

ちなみに大叔父も昭和16年に乙種以下となっている

単なる偶然なんだろうけど、、、





徴兵検査の基準について調べてみた

大叔父は小柄だったから、身長制限にでも引っかかったかな?

だけど145cm~ってしかもかなりアバウトって

あちゃ~、さすがにそんなに小さくはない

その他、視力は悪くなかったけど、色盲かは知らない

後は、、、性病関連

えーっと、えーっと、大叔父が性病を持ってたかどうかなんて

知らないし---性病疑惑???

いやいや、天国から大叔父が「コラー!!」と言ってると思う(笑)

なんで乙種以下になったのかは、現時点では不明であった

検診記録とかって、どこかに残ってないかなぁ




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 1421

A氏の箇所を穴が開くほど読んだけど

へ~って感じで終わりそう

まぁ後は、期待せずにのんびりと読もうかな。。。

大叔父の名前が出てくるんじゃないかと

ドキドキしてた分、疲れた

はぁいつ大叔父の名前に出会うんだろう

大叔父の名前は『神居 達(かみい とおる)』

どこかに載ってませんか?

読者様、ご存知ありませんか?





本題に戻って、、、

A氏以外の人もそれぞれ面白い経歴だったり

エピソードのある人が多かったです

少しだけでもご紹介しておこうかな

ちょっとだけお付き合い下さいね~





(その1)藤原機関から通訳をされていた

東京外国語大学ヒンドゥー語出身の石川義吉氏は

外国語大学時代の昭和16年10月

下校途中にポストの陰から出てきた私服の憲兵曹長と軍曹に

呼び止められ、軍人会館(今の九段会館)で

カレーライスとバナナとコーヒーをご馳走になる

「通学禁止」「家族には言わぬこと」と言われ

翌日から二人が交代で張り込んだ

そして支度金1,500円を受領し

外国語大学は12月10日に繰上げ卒業するが

その前に11月7日にバンコクへと移動し藤原機関と合流




続く…




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インド国民軍の資料

読者の皆様へ


いつも読んでいただきありがとうございます

お知らせばかりでごめんなさい

このブログにツイッターみたいな機能が

付いてたらいいのになぁ

そしたらチョコチョコつぶやくのに。。。

付けられるのかもしれないけど、分からないですxx

ブログ本文も本の内容の紹介で申し訳ない限りですが

今しばらくお付き合い下さい





リアルタイムでは、大事件(?)発生中

とんでもない事実が出てきましたイヤーン

それに挑発され???私も活発的に動いています





ちょうど、ブログでは光機関においてインド国民軍に

関係していた人たちの証言集のことを書いていますが

DSC_0013






↑この本です

ただいま、この本に助けられたような展開となっています

「こんな本まで買って研究している」と言うのが

信頼に繋がったような気がします

今日は、この本を持ってある所を訪ねます

これの他にもインド国民軍と光機関関係の本を数種類…

かなり重いんですけどね

どうなるかはほんとうに分かりませんが

良い展開となるように祈ってて下さいね

本日は皆様にとっても私にとっても素敵な1日となりますように

では行ってきま~す☆*゚ ゜゚*☆*☆*゚



2016.6.22



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ミャンマーに思いを寄せて 1420

ざっとA氏の経歴を見てみた

う~ん、大叔父に直接関係することは無さそうだなぁ

でもね、他にもたくさんの光機関の人の

証言が綴られている

どこかに大叔父に関係しそうな話が出て来ないかな?

直接関係なくとも、大叔父と似たような人の

パターンがあるかもしれない

せっかく高額を出して買った本だし

隅々までじっくりと読まなくちゃね

(スミマセン、ちょこっとの間、お付き合いください



光機関の勉強をすることは

私にとって無駄ではないだろう

もっともっと調べなきゃ。。。努力が足りないわ私

でもさ、ここに掲載されている方々は

ご存命(だった)なのはもちろんだけど

どのように選抜され、どこから個人情報を得たのだろう?

途中からは紹介~紹介で繋いだとは思うのだけど。。。





まだご健在の方もいらっしゃるかもしれない

この本を書かれた大学の先生に

連絡を取ってみたい。。。

でも…きっと○○大学の歴史を担当する部署の

例の人と繋がってるよね、、、

また騙されて同じような思いをするかもしれない

私は何の肩書もない単なる主婦である

大学の先生が相手にして下さるだろうか?

「単なる主婦」、「たかだか下士官」

見下されて嫌な思いをしたことは何度もある

とてもとても怖くて

私は行動を起こすことが出来なかった




続く…




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ミリタリー雑誌「丸」にて

読者の皆様へ


いつも読んでいただきありがとうございます

雨で蒸し暑い東京ですが、皆様の地域はいかがですか?




先日、「丸」さんとの話し合いで

このミャンマー記事の不定期連載も良い方向に向かい

おかげ様で、ただいま、来月号の掲載に向け

記事をまとめている最中です





記事の内容は、特務機関が出てきて

やっと本格的な調査を始めるところで

今から4年ほど前の出来事となります

まだまだ断片的な状況証拠しかない中で

複数の専門家の先生からの特務機関説を受け

驚きながら迷いつつも進んでいきます





今、当時を振り返って記事をまとめていても

やはり特務機関だよね、私は間違っていない

と確信が持てました

「丸」の読者様にも伝わるといいなぁ

今までの調査の経緯とは全く違う展開に

読者様の新たな関心記事となり

情報提供に繋がることを願います

残念ながら、中には”アンチ”の方もおられるようですし

特務機関説に否定的な方がおられるのも事実です

全ての方に受け入れられるとは思っていませんが

真剣に調査に向き合っていることだけでも

分かっていただけたらいいなぁと思います





もう少しだけ頑張ってみます、あと一踏ん張りです

どうかどうか応援して下さいね

読みに訪れて下さることで勇気をいただいています

読者様は私の大切な応援団だと勝手に思い込んでいます

ほんとうにいつもありがとうございます!



2016.6.20



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ミャンマーに思いを寄せて 1419

A氏の終戦もなかなか興味深いものだった



終戦となり、インド国民軍の残置諜者・約300名を

放置してしまうことに申し訳なくなったA氏

チャンドラボース氏から

最後のメッセージを出そうと言うことになった

しかし、正式に電報を打つには

ペナン島発→スマトラの北の角のサボイ→

インド東部のアンダマン→インドの内部

しか方法がなかった





チャンドラボース氏し8月16日に面会し

電報の件は、良い案だと喜ばれたそうだ

A氏はただちにペナン島へ飛び

無事に電報を打ち終わり、シンガポールに戻った





その頃、インド国民軍は、1万人規模でシンガポールに居た

チャンドラボース氏は「シンガポールを動きたくない

ここに居たいんだ」と言っていたが

「磯田機関長があまりにも言うので

ちょっとだけ行って会ってくる」と言ってバンコクに行った

その2日後に、皆様もご存じのとおり

飛行機事故でチャンドラボース氏は

お亡くなりになるのです





シンガポールにイギリス軍が上陸してきたのは

昭和20年の9月4日

イギリス軍が真っ先にしたのは戦犯指名だった

A氏は、第一次戦犯者指名のリストに挙がっており

出頭命令が出たため、出頭した

12月から本格的な取り調べが始まり

取り調べ官も特務機関の長だった人のようだ

軍事裁判も無しに殺されてはたまらないとして

インパール作戦時の工作などについて

「何日頃、この線でどのようなことをやった」など

具体的なことをたくさん喋ったら

帰国が早くなるように配慮してくれたそうだ

そして、イギリス軍の取り調べ官は2階級特進し

「特進したのは、君のおかげだ」と丁寧に

挨拶をして本国に帰って行ったらしい。。。




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 1418

A氏の詳細がずいぶんと分かった

A氏の証言の中には、「お世話になった人」と言う欄に

個人名が挙げられていたが、ほぼ偉い人ばかりであった

大変優秀な「選ばれし者」だったことは間違いない

様々な功績を残しておられるのだろうけど

印象としては、誰々(偉い人)と知り合いだとか

手柄話や自慢話ばっかりのような。。。

ここには書けないような悪口も散見される

A氏に対しては、元々、良い印象も悪い印象も無かったけど

この本を読んでいて、あらあらと思ったのでした





偉い方が書かれた本には

大抵が、将校までしか名前は出てこない

下っ端なんて「兵」とか「下士官」とか「他」で終わる

軍隊の特徴なのかな?

大叔父が下士官だったと言うのは

この調査において大きなネックであるのは事実だ

せめてどこかに名前が載っていれば。。。

大変可能性が低いことであろうと

私にはシラミ潰しに調べるしかなかった

誰でいいから大叔父のことを覚えていてほしい

どうかどうか見つかりますように。。。




続く…




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近況報告

読者の皆様へ


いつも読んでいただきありがとうございます

梅雨の時期ですね、暑かったり・肌寒かったりと

風邪をひく方もいらっしゃるかもしれません

皆様、お変わりございませんか?





昨年は、大量の資料(書籍中心)をあたっていました

ちょっぴり休憩してたような、サボッたような

今年に入ってから、とんでもない報告がもたらされて、、、

大事件?発生中です

でも、どうすりゃいいのっ(><)と、正直、泣きそうな気分です





そこら辺から、何となく別の方向でも動き出したような気配

今年は去年の分も取り戻そうとエンジンがかかっています♪

あれも~これも~と計画中

だふん夏までに私は大きく行動に移しま~す☆

どうぞお楽しみに!





ミリタリー雑誌「丸」さんでの不定期連載の件も話がまとまり

おかげ様で何とか良い方向に向かっています

ご心配をおかけし申し訳ありません




とにかく、思いつくまま、無謀に突撃しているようなスタイルは

はじめからずっと変わりなく

専門家の方には思いつかない方向から突っ走っております(笑)

まだまだ攻め処があるうちは諦める訳にいかないのです

どこまで頑張れるか分かりませんが

精根尽きるまで、とにかくやってみますね





この後は、ちょっぴり調べた書籍の内容が続くかもしれませんが

もうしばらく我慢下さいね

個人的にはダイエットも頑張っていま~す

では、皆様もどうぞお体を大切に!いつもありがとうございます



2016.6.17




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ミャンマーに思いを寄せて 1417

○○大学の歴史を担当する部署の方は

○○大学の近くのまた別の私学の大学の研究チームが

このテーマを研究し始めたばかりで

そこと連携してこれから調べたいのようなことを言っておられた

これから○○大学も参加して

新しい合同チームが立ち上がるのだと私は思った






この話を聞いたのが2013年・夏

この本をよ~く見てみると

確かに言っておられた近くの別の大学の研究チームが

発刊しておられる

”ただ”この本が発刊されたのは2008年であり

研究自体は1975年頃から始まって

A氏の聞き取りにおいては1994年のことである

全ての成果を報告としてまとめ上げられて

最後に総まとめとして本を発刊された。。。





と言うことは、○○大学の歴史を担当する部署の方は

当然のことながら

この本の存在も、研究チームが昔からあったことも

A氏の詳細も全てご存知で

私には隠しておられたとしか言いようが無い

養子に行ったとかって、名前は変わってないし!

(後で離婚したかもしれないけど)

家族とも音信普通になって居場所が分からないとかって

大阪にずっとおられたし!

A氏への私の追求を阻止したかったように思える

、、、ちよっとちよっと、どんだけ~性格ワルっっっ

別に私がA氏のことを知ったっていいじゃん

出版されて一般に出回ってる資料なんだから

ウソまでつかなくたって





その方の論文のための研究と私の調査は関係ないし

重なる部分は若干あるとしても

私は論文とかで名誉とか地位とか求めてる訳じゃない

手柄とかどうでもいいのよ

全てを明かせとは言わないまでも

ウソついたり、騙したり、汚いわぁ…呆れる





この本にたどり着くのに

あの熱い熱い2013年の夏から3年もかかってしまいました

なんだかね、なんだかね、、、




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 1416

終戦となり、この後、A氏は戦犯容疑で

色々とあるんだけど

ずいぶんとこの本により、A氏の動きが分かった

私の知らなかったことがたくさんあった

だからと言って、それが大叔父と直結するかは

何とも言えないんだけどね





だ~け~ど~、、、この本を読んでいて

何か引っかかる物があった

私は何度も○○大学の歴史を担当する部署の方に

A氏について質問をしている

教えて下さることもあれば、スルーされることも多く

A氏については、あちらもまだ分からないことが

たくさんあるのだろうなぁと思っていた






A氏については、実は詳しいことは

何も分かっていないらしい

ある時、A氏の聞き取りをしようとする動きが

○○大学でもあったそうです

戦後は、結婚されて養子に行かれて

調べだした頃には、既に他界されており

ご家族に聞いたが、戦時中に光機関にいたことなどは

初耳だったようで、何も聞いていないとのこと

その後は、大学側の出した手紙は宛先不明で

戻ってきたことから、ご家族とも連絡は取れなく

なってしまい、分からぬままになったと

○○大学の歴史を担当する部署の方からは聞いていた





いつから大陸に渡り

学生課長を辞したのはいつの時点で

帰国した後はどうなったのかなど

詳細は分からない

○○大学の100年史担当だった方も

推測の域を出ないと言っておられた、、、




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 1415

インパール作戦終了から、ペナンにおいて

またA氏は教育を再開する

昭和20年6月になると、ペナン撤退を視野に居れ

インド国民軍の残地諜者を置く方針を固めた





約60人を2~3名のグループに分け

ビルマの南海岸~マライ半島~ジョホール~

シンガポール~スマトラにかけ

7月中旬から残地工作を開始し、8月3日に完了している

その後には、昭南に行き、光機関員を終え、南方総軍参謀部付となる

それは8月7日のことである





南方総軍参謀部での任務は

サイゴンの郊外の山の中において

南方総軍の全地域から日本軍の少尉・中尉100名と

下士官100名を集めて特務教育すると言うことで

教官6名が選出され、A氏はその1人として命令を受けた

教官の他には、補助教官として中野学校出身の少佐以下

下士官も含めた40名にも発令された





しかし、7日の発令日に昭南(シンガポール)から

飛行機で移動しようとすると

「日本の様子がちょっとおかしいので、今日の出発は

見合わせてくれ」と言われ13日まで待ったが

いよいよダメとなってしまった





続く…





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ミャンマーに思いを寄せて 1414

A氏が連れ帰った2名とは誰か?

気になったが、書かれていなかったので

他の部分で何かヒントはないかと先を読み進めた




インパール作戦が始まると

各訓練所は解散となり、ラングーンの光機関本部を残し

前線へと配置された

インド国民軍の諜報活動のグループの主力は

祭師団(15師団)の後方で、チャンドラボース氏の直轄となった

A氏も指揮官として国境を越え、インド領内へ





インパール作戦が失敗となり

「君は軍人ではないから下がっても良い」と

香川中佐は言ってくれたそうだ

7月末に後退し、8月3日にラングーンに到着した

その後、8月末まで療養し

光機関のペナン支部(マレー、ペナン島)へと配属された

と書かれている





A氏はやっぱり一時帰国だったんだぁ、、、

結局、A氏は南方で終戦を迎えるのだった




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 1413

一時帰国により、2名を連れ帰ったA氏。。。

その2人が誰なのかは書かれていなかった

そこよ、そこ!ワタシが知りたいのは~

研究チームのテーマに沿った調査のため

ここは関係ないのだろうけど

もうちょっと突っ込んで聞いてよ~と残念であった





A氏は人選にあたり、既に軍に入隊している人間は

難しいと言っていた

大叔父が入隊後に大陸に渡ったとされるのは

昭和18年7月23日

A氏が帰国したのは8月1日と言うことは

この兵籍簿がほんとうなら、大叔父とは会っていないのよね、、、

それと大叔父は既に軍隊に入ってるし、、、

やっぱり大叔父とは無関係なのかな?





だけど、とーってもこじつけて大胆な仮説を立てるなら

大叔父は中国に行かず、光機関に直接行ったとか

A氏と一緒に10月に入ってから光機関に行ったとか

色々と妄想は出来る、もう何でもありだ(笑)

でも、まじめなところ、私達の推測では

学生時代から入隊後の運用が予め決まっていたヒモ付き人事であり

光機関に行くことは決まっていたと思っている

と言うことは、この2名はあんまり関係ないのかな?とも思う

でも気になるなぁ。。。

なんとかこの2名の名前がハッキリしないかしら




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 1412

一般教育の訓練所はカンベの他にもあったそうで

以下のとおりである

・メイミョー…シャン州
・タウンジー…〃
・ナムツー…〃
・ラシオ…メイミョーから400Kmほど中国寄り
・ラシオとメイミョウの間
・マンダレー
・カーサー…マンダレーの北側
・ピンマナ…ラングーンとマンダレーの間
・ジャワデー…ラングーンから北へ60Kmほどのところ
その他にマンダレーとラングーンの間に4、5箇所あったとのこと





訓練所で教育を受けたインド人の青年たちの中から

優秀な者が人選され、その後、特務教育を受ける

特務教育を受けた者は

インド国内に送り込まれた者と国境沿いで住民工作を

する者とに分かれ配置された





そして、大変興味深かったのは

A氏は、昭和18年の8月1日~帰国していた

○○大学の歴史部署の方にも、そのことは聞いていたが

「帰国後は徴兵はなかった」と聞いており

これで任務終了で日本に居たとばかり思っていた

しかし、A氏は一時帰国であった

10月20日には、ビルマに戻っていたのである

そのことは、中野学校校友会発刊の「中野学校」と言う本を

調べた際に、インパール作戦間にカンベの訓練所以外で

A氏の名前を発見して以来、おかしいなぁと思っていたのである





確かに、軍人としての徴兵は無かった

また同じく嘱託として訓練所の所長として戻った

そして、その一時帰国の目的には

「インパール作戦に備えての人材のリクルート」もあったと

A氏は語っている





これだ!A氏の光機関での日誌によると

帰国の2ヶ月ほど前、光機関から

「優秀な学生を5名推薦するように」と命を受けている

この一時帰国により、A氏は「2名連れ帰った」と言っている




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 1411

私はずっとA氏は英印軍の捕虜に教育していたと

思い込んでいたが、それとは別に

「インド独立青年訓練所」と言う教育機関(?)があったんだぁ





カンベの訓練所においては、常時700名ほどが入っていた

一般的な教育は、インド人の教官とインド国民軍の将校が行い

無線や暗号、爆薬などの専門的な教育は

日本軍の下士官が行っていたと書かれていた





一般教育をして行く中で、役に立ちそうな生徒見つけて

特務活動要員、政務要員、その他に振り分けた

インドへの潜入諜者と国境工作員には延べ約300名

インド独立連盟のビルマ各地の支部の組織上の要員

には、延べ約50名、その他は一般のインド国民軍兵士として

2,000名ほど排出したそうである





特務活動要員には、ゲリラ活動、特務工作、情報活動、

投降工作も出来るように教育をした

言わばインド国民軍の中野学校のようなものかと。。。

さらに、パラシュートでの降下もさせたと言うから驚きである

昭和18年7月頃までに、計10回くらいは降下させたそうだ

この頃までは、かろうじて制空権があったのだろう

まだ攻勢作戦の頃であり、敵の後方であるインドの山の中に

空路潜入させたのだ

実質、昭和17年9月~の1年にも満たない教育で

インド人をここまで仕上げるのは凄いことだと思う

それ以上に、部隊経験も無く、即実戦の兵士も大したものよね

A氏はそのグループを「3S(Speial Secret Service)」と呼んでいる

その責任者がA氏であった




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 1410

訓練所の目的は

1 インドへの潜入諜者と国境工作員の育成

2 インド独立連盟のビルマ各地の支部の組織上の要員

  ひいては、インド仮政府の行政要員の養成

3 インド国民軍の兵士の募集





ただし、これは英印軍の捕虜に対してではなく

A氏の提案でイギリスの影響をまだ受けていない

ビルマに居た青少年を対象としていた

「インド人は植民地支配を長く受けていて

奴隷根性が抜けきらない」とA氏は分析

特に英印軍に入っていた兵士は、イギリスに教育され

イギリスの軍隊に入り、英語を話せることが

出世の第一と考えている者が多かったため

それらの捕虜を英語の下手な日本人が片言で再教育しても

根本的な思想は変わらず

すぐに寝返ると考えたためであった





実際に、別途、軍部が推し進めた英印軍の捕虜への再教育では

寝返りが多く発生し、昭和18年11月にはペナン事件と言う

大きな事件が発生し、引責の割腹自殺者を出している

英印軍の捕虜にではなく、A氏の提案した

ビルマに居るインド人の青少年に対象とした教育は

見事に成功し、卒業した者は立派にインド国民軍の一部となっていく





そしてこの訓練所の存在は、光機関でも

北部大佐ほか1名くらいしか知らず

大本営も一握りの人しか知らなかったようである

下部組織13個、特殊専門訓練所3~5組織を指導していた




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 1409

次から次へと出てくるA氏についての知らないこと

ワクワクとして買った本なのに、なんだかドヨヨ~ン

すんごい重いことばっかり出てくる、、、





○○大学の承認を得て岩畔機関へ異動

昭和17年8月

バンコクに着いたA氏は、そのままビルマへ

岩畔機関ビルマ支部に勤務した後

インド国民軍に対し対印工作員養成のために

ラングーン市内に「スラワージ訓練所」を開設

ここの顧問となり教育を行う、A氏は大佐待遇

昭和18年の初頭に、ラングーン市内のカンベと言うところに

訓練所は移転する





A氏の補佐役兼相棒として、北部大佐が充てられる

最初に北部大佐と会ったのは

藤村少将に紹介された昭和16年4月だったと言う

「北部大佐は石原莞爾氏の子分みたいなものです」

「石原将軍と学校長の特使だと言うことで

軍隊ではわがままがきき、ずいぶんと助けられた」

とA氏は語っている





また、A氏は昭和16年5月に徴兵検査を受けた際

体格がよく甲種合格だと思っていたが

「乙種で特に徴兵なし」と判定されたのは

石原莞爾氏のおかげとも言っている





乙種になると徴兵なし、、、

石原莞爾氏の一言で、そんなのどうとでもなるのね

ちなみに大叔父も第一補充兵役と言うことは甲種以外となる

大叔父は単に背が小さかったからかなぁ。。。

でもさ、ちょうど同じ時期、昭和16年の春に

大叔父は○○大学を辞めるのよ

背なんて急には伸びないし

乙種以下であって徴兵が無いんだったら

12月の卒業短縮→入隊が嫌で辞めたのではない

と言えるんじゃないだろうか?

もちろん退学理由の「学費未納」も、金銭的事情はない

昭和16年に4回生で辞めちゃう理由って何かなぁ。。。

A氏の方が1回生年上なんだけど

大叔父が大学を中退したから

A氏と同じ時系列で行動が出来るのよね。。。





続く…





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インド大使館にて

読者の皆様へ


いつも読んでいただきありがとうございます


昨日は、遂にインド大使館に行ってきました

現在進行中の調査事項が1つあるのですが

それは他の方にお願いしていて

自分自身でも何か進めないといけないと思い

思い立ったが吉日とばかりにインド大使館へ





以前から、ミャンマー大使館にでも行こうかなと

思っていたのですが、「インド大使館でしょ」と言われて

そっか~、ビルマで戦ったけど、インド国民軍はインドだよな。。。

そして、様々なアドバイスをいただいて帰ってまいりました

インド大使館の皆様、大変お世話になりありがとうございました

心より御礼申し上げます





詳しい内容は、いつかの本文で!どうぞお楽しみに☆

まだまだ突き進んでいます

あと少し、もう一息、くじけず頑張れワタシ

読者の皆様には、いつも応援いただき感謝しています

今後ともどうぞ宜しくお願いします



2016.6.7



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ミャンマーに思いを寄せて 1408

昭和17年3月~6月

A氏は満州国治安部顧問部付嘱託の後

ビルマに行く前に八路軍討伐、八路軍の住民工作、

満軍の士気、日系将校等について調査していた

↑上記のような学術的な調査研究やそのとりまとめ等は

軍人よりも民間の学識経験者が得意とする分野である

特務機関=諜報員ばかりで構成されている組織ではない





そして北支軍司令部付嘱託などを経て

昭和17年6月2日 本国の参謀本部第8課へ

担当は香川中佐

※香川中佐は、後に光機関参謀

この時すでに岩畔機関はバンコクに出来ており

岩畔機関長と牧中佐と北部大佐の話し合いで

A氏を機関に呼んでやろうと言うことになり

参謀本部第8課に手配させたと

A氏は供述している

、、、一橋大学の先生が書かれた光機関に関する本では

北部大佐の供述として「是非とも連れて行ってくれと言うので」

と書かれていたが、違ったのだろうか?

どちらがほんとかなんて私には分からないけど

特務機関員の証言って、ごまかしが多いのかしら?

戦後の供述だからって、全部が全部語っている

訳じゃないと思った

自分に都合の悪い部分は隠していると思っても良いかも





その後、A氏は昭和17年6月21日に東京を経ち

台北、広東、サイゴンを経由し

6月29日にバンコクの岩畔機関に到着

「南方軍総軍司令部付嘱託 岩畔機関勤務発令」

と書かれていた

A氏から学校長宛の書簡には

「参謀本部委嘱トシテ、ビルマ駐在特殊機関ニ服務シ」

と言う一文があったそうだが
 
ビルマに行くのはこの後だけど

その時には参謀本部の嘱託なの?

う~ん、よく分からないなぁ。。。

別にどうでもいいっか(笑)




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 1407

A氏は、当初、関東軍司令部付嘱託として渡満し

○○大学の近くの国立大学が

旧満州北部の僻地で行った探検を

支援することから藤村少将と合流し

満州国治安部顧問部付嘱託となったそうである



A氏が出てくる探検記関連の過去記事はこちら↓↓

「ミャンマーに思いを寄せて 1179」
http://blog.livedoor.jp/aya_sann/archives/1983743.html





この探検記は、昭和27年にやっと発刊され

絶賛され、大変有名となった

この功績でメンバーは近くの国立大学で

軒並み教授等に就任している

A氏によれば、その探検の指揮を執っていたのは

ほんとうは自分だと言う

国防学研究所の名前で、隊長の上に

自分が総隊長として居たそうである

隊長と副隊長が関東軍と特務機関に嫌われていて

自分が話をまとめたらしい





しかし、出張で3週間留守にしている間に

チャンスだとばかりに探検調査の功績は

近くの国立大学の物になっていたと熱く語っている

「前々から、○大(近くの国立大学)には気を付けろと

言われていたのですが…」と悔しさがにじみ出る

記述であった





A氏は、終戦後、昭和21年4月に復員し

○○大学へは6月に辞表を出した

その後の職業などは分からないが

○○大学にはA氏の名前はない

探検記発刊後に出世されたメンバー





この発言があったのは、平成6年のことで

終戦から50年余り経ってからのことである

その想いはどのようなものだったのか、私には分からない




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 1406

その後、A氏は満州を経て光機関に入る

その経緯についても詳しく書かれていた





海外に行くことは、「○○大学の海外研究員」と言う名目であった

○○大学は月1,000円の予算を出してあげると言ったが

全部、軍隊からくれるので辞退したそうだ

。。。当時の1,000円って…

このブログでは、簡易に当時のお金1円=現在の1万円と

換算している

そうすると、1,000円って1千万円ってことになる

私学の大学から月1千万の予算、、、

何とも大盤振る舞いと言うか、どんだけ裕福なの

ビックリ!としか言えない





それほどまでに重要な任務だったのだろうか?

てか、そんなに大金を使う重要な任務って何???

当時の○○大学は、海外進出を視野に入れていた

既に大学内に満州国支援のための○○日満工科学校を設立し

満州国政府との足がかりは出来ていた

(※○○日満工科学校…協和会事業、満州国の学生を日本に留学させ

手に職を付けさせて満州国で就職させる学校施策、

石原莞爾氏の五属協和の思想)

今で言えば、単に○○大学満州キャンパスを作りたかった?

そのための根回しのためにA氏は派遣された?

いや…1個キャンパスのレベルじゃなく

私はもっと大きな○○大学の夢?野望?が

あったのではないかなぁなんて思う

○○大学卒の人材が満州国の要人となったならば

○○大学派閥は満州国に大きな影響力を持つこととなる、、、

それくらいのレベルじゃないと釣り合わないんじゃないかなぁ

な~んて思っちゃう、ほんとうのところは分からないですけどね



○○工科学校の関連過去記事はこちら↓↓

「ミャンマーに思いを寄せて 631」
http://blog.livedoor.jp/aya_sann/archives/1902566.html





いずれにしろ、国策として開発している満州国に

資金を投資することは満州国の発展に繋がるのと

国への貢献の証となる

○○大学は夢のために自費で活動しても良いと思っていたが

○○大学の目的と国の利害関係が一致し

その活動案を満州国政府(関東軍)が受け入れたため

軍部がA氏の経費を全て持つと言うことになったと

私は考える





ちなみに、この月の経費とは別に

渡満の際にA氏は、○○大学から200万円を持って行っている

(○○大学の歴史を担当する部署の方の証言)

当時の200万円=現在の20,000,000,000円

軍部への裏献金だとしたら、月の千円なんて

いらないって言うよね~(笑)



200万円関連の過去記事はこちら↓↓

「ミャンマーに思いを寄せて 732」
http://blog.livedoor.jp/aya_sann/archives/1919675.html






続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 1405

A氏は○○大学の総長に気に入られたようだ

「君の事は僕が考えているから、就職のことなど

考えないでいたまえ」と言われ

就職を決めずにいたら

卒業式のすぐ後に学生主事を言い渡された





その後に学生課長となり、国防学研究所員を兼ね

所長である石原莞爾氏の助手を任命される

※この前後の石原莞爾将軍の簡単な経歴

  • 昭和13年8月18日 東條英機中将を批判し関東軍参謀副長を罷免される

    (この間、治療)
  • 同年12月5日 舞鶴要塞司令官

  • 昭和14年8月1日 留守第16師団長(京都)

  • 同年8月30日  第16師団長

  • 昭和16年3月1日東條英機に罷免される

  • 同年4月 ○○大学の教授として国防学を教える「国防学研究所」

    同年8月31日 予備役編入


    同年9月 ○○大学を辞職、故郷の山形県へ帰る




    国防学研究所では、教授1名、助教授2名の他に

    助手としてA氏を含めて6人の助手が居た(助手は全員A氏の同級生)

    ↑上記のことは、私は他では見たことの無い記述であった

    この他に、講師としては

    ●酒井鎬次中将(第一次世界大戦史)

    ※戦争理論、戦史研究の権威として知られる人

    この方も東條英機と衝突し、左遷人事のような経歴を経て

    昭和15年1月に予備役に編入された

    石原莞爾氏と似ているなぁ。。。

    ●伊藤政之助少将(ナポレオン戦史)

    ●里美岸雄氏(国体学)

    ※国体学の創始者として知られる人



    上記の方たちが有名であるが

    昨日の記事に書いた軍人もこの研究所で講演を行っていた

    A氏の人脈でお願いしたのかどうかは不明

    しかし、それらの軍人さんは、石原莞爾氏と親しい関係であった

    と言えるのではないだろうか?

    特に北部大佐は、石原莞爾氏を非常に尊敬していたと書かれている





    ちなみに国防学研究所の場所は

    六甲の六麗荘(兵庫県芦屋市六麗荘町、高級邸宅地)

    。。。私はてっきり大学構内の部署かと思っていた

    ↑上記内容も初耳でした、載っている書物を見たことがないのは私だけ?




    続く…




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    ミャンマーに思いを寄せて 1404

    学生時代に知り合ったとされる藤村兼中将(当時:大佐)から

    A氏は何人かの軍人を紹介されている

    A氏が書かれていた順番で列挙し

    私の調べたことを追加してみた





    ●牧 達夫 大佐…当時は「軍務課員」と書かれている

    ※陸大45期(主席)

    「バターン・コレヒドール攻略」に第14軍作戦主任参謀として
    比島作戦の立案にあたるが罷免される

    昭和17年4月~昭和18年1月まで岩畔機関・政務班長



    ●高島 辰彦 大佐…当時は「参謀本部作戦課主任参謀」と書かれている

    ※陸大37期(主席)

    陸軍幼年学校、陸軍士官学校、陸軍大学校を全て首席で卒業

    「参謀本部作戦課主任参謀」勤務は確認できなかったが

    参謀本部第四部第十一課附、兼陸軍省兵務局附→

    参謀本部戦史課長兼戦略戦術課長、兼陸軍大学校教官

    を歴任されているようである



    ●川口大佐…当時は「中部軍司令部高級参謀」と書かれている

    ※川口清健大佐(最終階級:少将、陸大34期)ではないかと思われる



    ●藤村少将の後任の玉置大佐

    ※詳細不明



    ●北部邦雄中佐…当時は「関東軍司令部」と書かれている

    ※最終階級:大佐、陸士30期

    後の光機関軍事部長、大叔父の歩兵60連隊長

    この調査のキーマンの1人である



    ●岩畔さん…当時は「軍事課長時代」と書かれている

    ※岩畔豪雄少将、陸大38期

    中野学校設立者

    ビルマ・藤原機関を引き継いで→岩畔機関→光機関





    A氏は、学生時代から北部大佐や岩畔少将と繋がっていたんだぁ。。。

    これらの人脈は、その後すぐに国防学研究所で発揮されることとなる




    続く…




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    ミャンマーに思いを寄せて 1403

    定型の<質問表>の回答の他に

    A氏はその他でたくさん語っている





    生家は徳川時代初期から続く旧家で

    大庄屋の家柄で

    家督は8千俵、百姓では地区で1番だったそうである

    学歴は、○○蚕農学校を出て

    関大専門学部法律学科から○○大学法文学部政治学科へ





    軍人との付き合いは、学生時代に

    当時大阪師団の参謀長だった藤村 兼大佐に

    師団長の朝鮮の李王垠殿下の話し相手を頼まれたことが始まりだった

    と書かれていた

    このブログでは、「藤村 兼少将・満州国満州国治安部

    (のちの軍事部)の高級顧問」(最終階級:中将)として

    何度と登場している

    この本で初めて、藤村中将とは学生時代から知り合いだったことを知った



    藤村兼中将の関連過去記事はこちら↓↓

    「ミャンマーに思いを寄せて 898」
    http://blog.livedoor.jp/aya_sann/archives/1948710.html





    藤村中将の経歴を再確認してみると

    確かに昭和14年3月31日~昭和15年8月1日まで

    留守第四師団参謀長となっている

    まぁ、A氏の発言の裏を取る必要はないが

    留守第四師団を調べると、大阪の師団である

    李王垠殿下と呼ばれる方が15年5月25日~

    留守師団長として任命されていた






    李王垠殿下って誰?と思って調べてみた

    李 垠(り・ぎん)さん、大韓帝国最後の皇太子で、日本の王族

    と書かれていて、知識の無い私には???だった

    あっ…昔に見たドラマの人だぁ

    確かV6の岡田君が主役だった素敵なドラマだったわぁ

    あの人がこの方なんだぁ。。。

    李王垠殿下より10才くらい年下のAと何を話したのかな?

    どうして藤村中将はA氏を見つけたのかな?

    そんなこと、分かるはずもなかった




    続く…




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