ミャンマーに思いを寄せて

亡き母の思いを果たすべく、ビルマで戦死した大叔父の足取りをたどる私の奮闘記録☆

2016年09月

ミャンマーに思いを寄せて 1506

大叔父の兵籍簿によると

昭和18年7月23日 下関 →  同日 釜山

となっている

このことを踏まえてプロの研究者は

「船舶」に焦点を絞り調べて下さっていた





2016年3月

その方から、とんでもない報告が舞い込んだ!!

私はこの報告をどのように

受け止めれば良いのか

困り果ててしまったのだった





船舶の航行が記録された史料から

大叔父が渡航したとされる18年7月23日

下関港を出発した船舶を探して下さったが、、、

7月23日の前後も含めて

下関から釜山に渡った船は

遂に確認することが出来なかった




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 1505

協力者の1人であるプロの

研究家の方からの久々の連絡





当初は、大叔父の死亡した

第121兵站病院(メイミョウ)か

大学関連から何か調べようと

思っておられたようであったが

残念なことに、どちらも

手がかりや関連文書等は

見つからなかったようである





大変意欲的に調べて下さった

やはり私のような者が考えるレベルではなく

プロ目線の思いもよらぬ方向から攻めてくる

それ以上に、貴重な資料を

たくさん、お持ちなのだろうなぁとも思った





2016年・春

驚くべき調査の結果が来た



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ミャンマーに思いを寄せて 1504

2015年、秋

協力者の1人であるプロの研究家の方から

連絡があった





この方は、兵籍簿を最初から

洗い直そうとして下さっていた

まずは、大叔父が日本を経つ時に

船で大陸に渡ったことに関して

「乗船名簿」を探そうとしておられたのだ



この件に関する過去記事はこちら↓↓

「ミャンマーに思いを寄せて 1424」
http://blog.livedoor.jp/aya_sann/archives/2009414.html





乗船名簿???

大陸に渡ったことさえ、ほんとうかどうか疑わしいってこと?

と、かなりビックリしたのだが

本気で調査を進めて下さっていた

しかし、乗船名簿は見つからなかった





そこで、船舶という点から探された

その中間報告が来たのである

全部ではないが、主要な戦間期の

船舶の航行が記録された史料をお持ちだそうで

大叔父が渡航した18年7月23日

下関港を出発した船舶を探す。。。





その方が言われるには

下関発というのは多くはなく

普通は門司や宇品が多いのだそうで

すぐ見つかると思うとのこと




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 1503

上官が書いて下さった

その「光機関解散時の所属証明」

一般の部隊では、このような話は聞いたことがない

では何故、所属証明書が必要であったのか?

それは兵籍簿が無い、もしくは

きちんと書かれていないからであり

本来、兵籍簿に記載されていれば

所属証明書を発行する必要はないのである





兵籍さえ無かった大川塾生のおじいさん達と

中野学校出身の読者様のお祖父様

この方達だけが特別だったのかもしれないが

少なくとも、光機関において

3名の方に兵籍の秘匿?偽装?隠蔽?不具合?

があったことが分かっている





戦乱のどさくさと、特務機関特有の

「何でもありの事後処置」の気配を感じる

このようなことと比較すると

大叔父は兵籍簿があるだけまだマシなのだろうが

おかしなところが散見され

死後につじつま合わせのために

急遽作られた物のように思えてならない




続く…



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ミャンマーに思いを寄せて 1502

このブログには時折

読者様からコメントをいただく

大叔父の情報提供を目的として

始めたブログだが

コメントの中には、私と同じように

お祖父様などの戦歴を調べておられる方から

激励をいただいたり、同士のように感じられ

コメントをいただくことがある

読んでいただけるだけでありがたく

更にコメントをいただくと大変嬉しい





そんな折、いただいたコメントにドキリとした

詳しくは書けませんが

その方のお祖父様は、中野学校出身で

光機関に所属をしておられたようであった

お祖父様の遺品には、上官の方が書かれた

「光機関解散時の所属証明」のようなものが

あったとのこと





大川塾生の手記にも

そのようなことが書かれていた記憶がある

ただそれは、光機関として

統制で出された証明書ではなく

個人的なことのようであったと思う

部下の今後(復員や恩給等)を

配慮して書かれた物ではないかと推測する





なぜなら、私がお話を聞いた大川塾生のおじいさんは

軍属であったが途中から軍人となり

光機関所属の軍人となったが

復員後に確認すると兵籍簿は存在せず

結局、軍人であったことを証明できないまま

恩給をもらえなかったと話されていたからだ



続く…



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ミャンマーに思いを寄せて 1501

2015年秋頃からハマッてしまった読書

遅々として進まない調査に対し

現実逃避のような気持と

日頃の疲れもあったように思う

読書は2016年を迎えてからも

しばらくの間、続いたのだった





参考資料はたくさんあったが

更に増やし、正に図書館に、、、

ありとあらゆる本を買ったように思う

タイトルだけで関係しそうな本かな?と

買ってしまっては、ハズレの時もあった





まだまだご紹介したい本は

たくさんあるのですが

そろそろ皆様も次の展開が気になりますよね

時々は、休憩がてら本の紹介をはさみながら

少し前に進んでみましょうか





まずは、2015年の夏

読者様からコメントをいただいた件。。。





続く…




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秋の連休

読者の皆様へ



いつも読んでいただきありがとうございます

秋の連休、東京はあいにくの雨が続いています

涼しくなったのはいいんですけど

洗濯物が気になる今日この頃

皆様はどのようにお過ごしですか?





ワーイ、ブログ更新1,500回超え

って、喜んでられないなぁ

早く大叔父さんが見つかって終わりたい~

ほんとうにミャンマー漬けの日々

当初は100回も行けば良いとこかな?と

安易に考えていたのに、、、

なぜか1,500回を越えてしまったxx

その間に勉強し、色々と詳しくなったとは思う

でも大叔父さんが見つかれば

そんな勉強をしなくてもいいのに~





この夏から新たに始めた取り組みのために

お盆には少ししか帰省できず

大叔父さんのお墓参りも出来なかったわ

大叔父さん、ごめんね

でも全てこの調査のためなので許してね

とにかくムチャクチャ忙しいワタクシです

昨日なんか4時起きでした眠いです





そろそろラストスパート

最後の大きな計画に向けて頑張っています

ブログの内容は、ただいま本の紹介ですが

一度、切り上げて、ご報告を入れたいと思っております

とんでもない報告にゲゲゲですよ

ではでは、今後ともどうぞ宜しくお願いします




2016.9.24



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ミャンマーに思いを寄せて 1500

「防人の詩~インパール編~」より


かくして輜重連隊の頑張りで

アラカン山脈を越えた野戦重砲

祭師団は、インパール作戦開始から

2ヶ月余りにして

初めて野戦重砲隊を掌握する

機会を得たのである

。。。こんな作戦あり???

それまで野戦重砲の火力支援なしで

突撃を強いられていた歩兵部隊、、、

かわいそうだよ~

正に地獄であったろうと想像する





この野戦重砲の到着と同時に

15軍直轄だった歩兵67連隊の主力が

ようやく師団に復帰の朗報は

師団司令部を喜色で包み

兵士の士気を高めた





しかし、野戦重砲が最前線に配備されたものの

たったこれだけの火力じゃ、、、

既に歩兵部隊は消耗しており

援着した歩兵67連隊の「主力」は

450人余りと激減し、驚く状況となっていた

こんな状況にしてから返されても、、、





この歩兵67連隊は

15軍の指揮命令の混乱に起因し

本来の建制を無視され

兵力の分離・転用が集中的に行われた

部隊であった

その結果、中には1個中隊平均10人と言う

無残な編成実態となっているところもあった

。。。あぁ、バラバラにされたのね、、、

調べれば調べるほど、悲しくなる(TT)




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 1499

アラカン山脈を越えるのは不可能と思われた野戦重砲

しかし、道を塞がんばかりの突然の援助兵員の出現

砲兵連隊から派遣された兵隊さんは喜びのあまり

腕を振り上げて歓声を上げている

トラックは歓声に包まれたまま

手搬送でアラカン山脈を越えていった(スゴイっ!)





こうして、輜重連隊は無事に

十センチ榴弾砲×4門、野砲×2門、山砲×2門

それぞれに砲弾は各100発を運んだ

岡田参謀長は大変喜ばれ

その労をねぎらって下さったそうで

輜重連隊の皆は、感激したのだった





この他に祭師団には、英印軍から押収した

十センチ榴弾砲×2(砲弾計、350発)があった

、、、これって、全部使ったって

今の常識だと、1個大隊クラスの敵に対する

攻撃の火力にしかならないのじゃなかろうか、、、

しかも強固な陣地だったんだよね、あぁ





続く…





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ミャンマーに思いを寄せて 1498

擲弾筒について熱~く語ってしまいました

何の話から擲弾筒の話になったのかしら、、、?

脱線大魔王はいつものことで

えーっと、話を元に戻して~と

で、何の話をしてたかしら・・・

そーそー、「珍しく楽をした輜重連隊」の話でした

もうしばらくお付き合い下さいませ





分解した野戦重砲をトラックに載せ

険しいアラカン山脈に挑む

しばらくの間は、工兵隊の手によって

駄馬道をかろうじて車両が通れるように

改修された道を進んでいたが

すぐに道は険しくなった





すると、火砲推進のために砲兵連隊から

派遣された総勢200名の兵員が

車両を前からは引っ張り、後ろから押上げて

難路の中を前線へ前線へと進んでいった





砲兵隊の兵士たちは

トラックの上の砲身を愛おしそうになでながら

「十榴だっ!」「何門、来るんだ?」

「これでインパールは陥とせるぞっ」と

目を輝かせた

砲の無い砲兵隊は、自動車の無い

自動車兵のようなもので

輜重連隊の者は、他人事とは思えなかった




続く…



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擲弾筒の続き♪

とってもキュートな『擲弾筒』

様々なサイトで画像や映像を拝見しました!

皆さんもチェックしてみてね~

使い勝手が良さそうだなぁと言う印象





私が今よく参考にしているのはこの本↓↓

【図解 日本陸軍「歩兵編」】
51cIvfM0fDL[1]












とても詳しくてGoodです

その他には、ワールドウェポンなども参考にしています





『擲弾筒』私の解釈・追加


唯一、例外的に活躍しているのは

ベトナム戦争後期に米軍が開発した

小銃の下に取り付けるタイプの「40mm擲弾発射器」でしょうか

この火器は、「小銃擲弾」から生まれた物ではなくて

ベトナム戦争初期から使用していた日本軍の「擲弾筒」によく似た

「擲弾銃」が元になっていることは有名です

つまり「40mm擲弾発射器」は、「小銃擲弾」の系統の武器ではなくて

むしろ、日本軍の「擲弾筒」の系統の武器なのではないでしょうか





現代においても活躍してるのは、「小銃擲弾」ではなくて

「40mm擲弾発射器」の方です

機関銃タイプの「自動擲弾銃」も開発され

現在、各国で使われています

第二次世界大戦で、「小銃擲弾」が活躍せずに

「擲弾筒」が活躍したのと似てますね





自衛隊にも「自動擲弾銃」は導入されている

ただ、この「自動擲弾銃」とは別に

わざわざ活躍していない「小銃擲弾」を

導入しているのはなんでかなぁ?理解できない

米軍式の「40mm擲弾発射器」の方が良いのに




続く…




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おまけ☆【擲弾筒の続き】☆

「戦後の自衛隊には擲弾筒はない」の

私の解釈に「小銃擲弾があるのでは?」みたいな

ご意見を読者様から頂戴しました♪

ちゃんと読んで下さっている方がいらして

とっても感動していますありがとうございます





~私のお返事~

『小銃擲弾』は第一次世界大戦中に欧州で生まれて

各国の軍隊に普及した武器である

日本では第一次世界大戦後くらいから

導入されていたようである

第一次世界大戦では盛んに使われたが

その後の各国の戦いでは

使い勝手が悪かったのか、あまり活躍していないようです





日本軍では、小銃擲弾では不自由分だったのか擲弾筒を作った

そして、第二次世界大戦でこの擲弾筒は大活躍しました

したがって、小銃擲弾は擲弾筒の代わりは

務まらないと思います(逆はあっても)





諸説あろうかと思いますが若輩者の私の解釈です

どうぞご容赦くださいませ

擲弾筒について熱く語ってみようかな?(笑)脱線大魔王!

擲弾筒がやたらめったらキュートに思える私でした

これだったら私も使えそうってサイズです☆(どこで?




続く…




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「丸」掲載のお知らせ

読者の皆様へ



いつも読んでいただきありがとうございます



今月末発売のミリタリー雑誌「丸」にて

こちらのブログ記事が掲載されます!

内容的には、4年くらい前です

特務機関に絞り込んで突き進むことを

決めた頃のお話です

古くからのブログ読者様は

あぁ~最初は、こんな風に始まったよねと

きっと懐かしく思われることでしょう

雑誌の読者様が興味を持って下さり

情報提供に繋がることを祈っています

お買い求めいただければ幸いです☆



ブログは今、読んだ本の紹介で

あまり面白くないかもしれませんね

申し訳ありません

ただ、ほんとうに毎日、少しずつですが

コツコツと勉強しているのです

昔よりはずいぶんと詳しくなったと思います

これが私にとって

何の役に立つのか分からないですけど

先日は、マニアの方に「マニアですよね」と言われ

ビックリしました!「えっ?私が???」

嬉しいような・そうでもないような…(笑)



そんなこんなで、先日はなぜか『擲弾筒』について

熱く語ってしまいましたが

読者様からご意見を頂戴しましたので

次号にてお返事を差し上げたいと思っております

『擲弾筒』がとってもキュート

と思ってしまう私は変態でしょうか?

やはりマニアになってきたのかな?キャー



大変忙しい毎日を送っており

ちょっぴり手抜き感も見え隠れ…ごめんなさーい

では、本の紹介もそろそろ省略して

次に進もうかなと思っていますので

もうしばらく辛抱下さいね

今後ともどうぞ宜しくお付き合いくださいませ



2016.9.18



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ミャンマーに思いを寄せて 1497

当初、野戦重砲の搬送には「象」を用いた

象1頭に対し、砲1門

しかし、車輪の金属音に驚いた象の群れは

砲を引っ張ったまま、大密林の奥へと飛び込んでしまった

しかたなく、車両による搬送を

試みることとなった輜重連隊





トラック3両に砲1門を分解して積載した

出発と同時に、敵の銃・爆撃を受け

その小隊の車両は砲もろとも

全焼したのであった





この惨状を前にして

車両の偽装と燃料の処置等

対空警戒には厳に留意しなければ

ならないこと思い知らされた





工程は急な坂、さらに山腹より山頂→

山頂より尾根筋を縫っての

危険極まりない屈曲の悪路

急勾配の上り坂は牽引網にて車両を引っ張り

下り坂では、後ろか綱で支えて

人力で車両を1台ずつ通過させる

苦闘の搬送任務の始まりかと思われた。。。




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 1496


※更新予約日時を間違いました

ご連絡をいただいた読者様、ありがとうございました




「防人の詩~インパール編~」
より

ちなみに、擲弾筒は日本軍オリジナルで


その便利さに着目したイギリス軍が


戦後、自軍に採用したのは有名な話である


しかし、不思議なことに自衛隊では擲弾筒はない!


しいて言えば84mm無反動砲が


これに当たるのだろうが


こちらは直射火器である






擲弾筒は、正規の編制では

各歩兵小隊には3門ずつ


装備されいたこととなっている


砲兵による火力支援が

ほとんど得られなかったために


その擲弾筒を数十門、部隊からかき集めて


一括して運用し、砲兵の代わりに

使ったところもあったそうである






で、「楽」をした輜重連隊の話でしたね


なんで擲弾筒について熱く語ってるんだろう(笑)

話がそれてスミマセーン

野戦重砲38門を

「可能な限り多く、かつ至急に

最前線に搬送せよ」との、とんでもない

命令を受けた輜重連隊の自動車中隊

だが、いかにしてアラカン山脈の大密林にて

搬送するのか、その方法についての

明確な指示は与えられなかった、、、




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 1495

砲兵がビルマ国内に残置して行った


「野戦重砲」とはたぶん


十五(十)榴弾砲や重加農砲などではないかと思う

だから、砲兵が使用していたのは


歩兵でも使用していた山砲あたりじゃないかと…






山砲だと、射程距離が短いため


敵の歩兵は潰せても、その奥の敵の


砲列までは叩けない


60連隊の手記においても


砲兵がなかなか撃ってくれなかったとか


よく書かれていたが


撃ってしまうと、敵に居場所が分かり


敵の砲兵と撃ち合いになった際には


射程の差から、敵の砲兵には日本軍の弾は届かず


日本側のみが敵の砲兵に一方的に


叩かれたのだろうなぁと、この証言を読んで理解した


。。。なんだかなぁ、砲兵の人もかわいそうだわ






砲兵火力は発揮できなかったが


歩兵が持っていた擲弾筒は使い勝手が良く

迅速・軽易に第一線の歩兵部隊を


支援する曲射火力として活躍した

イギリス軍が恐れていた唯一の火器とも言われている




続く



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ミャンマーに思いを寄せて 1494

「防人の詩~インパール編~」より

輜重連隊の中には

大変、楽をした小隊もあった

それは、「野戦重砲を急送せよ」との

命令を受けた時であった





山岳重畳するアラカン山脈の難路を

急進するためには

野戦重砲などの重火気搬送は

到底、不可能であるとの判断に

祭師団は、全砲門をビルマ国内に

残置していたのである





その数、野戦重砲38門(うぉ~)

…えっ?砲兵が運搬不能で残置して行った

野戦重砲を急いでインパールに届けろって

輜重連隊には無茶な話だよね、、、

てか、砲兵は何を撃ってたの???

砲兵はインパール付近で何をしてたのだろう???

砲兵火力がほとんど無しで戦っていたってこと?

えっ?それって大丈夫なの?

…アッ、だから勝てなかったのねひょえ~

歩兵のことしか勉強してなかったから

今、初めて知った

そう言えば、砲兵の手記ってあまり見た覚えが無い




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 1493

「防人の詩~インパール編~」より

自ら荷物を背負って運搬する輜重連隊の各小隊

小銃弾の場合には、

1箱1,250発入りで、約48Kgであった

この他に、岩塩などを頼まれた小隊もあり

荷物だけで60Kgを越える

その上、各人の装備や食料もあるので

果たして何Kgの荷物を背負っていたのか分からない





インパール付近に近づいても

日本軍の陣地まで荷物を搬入できないこともあった

その場合は、窪地に弾薬等を埋め

その旨を明示した標識を立てて

近くに布陣している連隊本部に

報告をして、その地点から後退するしかなかった





2週間分の食料だけで

1ヶ月近くかけてアラカン山脈を越えてきた

インパール付近で荷物を降ろす頃には

軍靴はとうに破れて裂けていた

目的部隊にやっと到着できたとしても

帰りの食料は無かった。。。





帰り道は、楽が出来るかと思っていたら

帰りは帰りで傷病兵を搬送する命令を受ける

進路を変更して、傷病兵を迎えに行く

荷物よりも重くて大変な傷病兵の運搬

しかも、傷病兵の分も食料を確保しなければならず

空で帰れるなんて甘くはなかったxx




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 1492

「防人の詩~インパール編~」より

輜重連隊は、牛や馬の背中に荷物を乗せて

約1ヶ月かけてアラカン山脈を越える

最前線のインパールに到着すれば

それで任務が終わる訳ではなかった

その荷物を第一線の部隊陣地まで

搬入して、初めて任務達成なのである





アラカン山脈の大密林を脱すると

インパール付近は山腹から山頂かけて

砲爆撃でのため丸裸状態であった

残された2Kmほどの行程を前にして

いかにして物資を陣地まで運び込むか

至難な判断を迫られる





1つか2つ先の山の向こうに

味方の陣地があることは明らかだったが

山の斜面は急こう配で

砲弾を箱を乗せられた牛は

背中の弾薬もろとも後ろ向きにひっくり返った





しかたなく人力で運ぶことになった

山砲弾の箱はとても重かったが

1人1人がれぞれ背負って

砲弾輸送を決行した

しかし、制空権を全く喪失していた日本軍の

頭上には、終日、英印軍の編隊が飛来し

彼らはとても動くことが出来なかった




続く…





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ミャンマーに思いを寄せて 1491

大叔父の兵籍簿によると

インパール作戦に参加して

戦病死しているので

調査の中で必然的にインパール作戦に

触れるのだけど

調べれば調べるほど嫌になる





「インドをイギリスから切り離して

イギリスを経済的に弱体化させる」

「蒋介石ルートの遮断」

と言うのが大きな狙いだったことは

分からないでもない

だけどハイリスク・ハイリターンを考えると

あの時期に無理して

どうしても強行しなければならなかった

理由が私には分からない





他の作戦では、「ここの判断を間違った」、

「ここをこうしていれば」とか、運の良し悪しとか

ターニングポイントがあるのだが

この作戦においては

どこをどうすれば勝てたのか?

勝てる要素が見つからないように思う

狙いは良くとも

そもそも達成不可能な作戦で

虚構の計画だったと思う

なんだかドヨヨーンとした気持ちになる




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 1490

「防人の詩~インパール編~」より

「部隊をバラバラに使う」

また、ここでもかぁ。。。と言う印象

私がずっと不思議に思っている運用である

部隊を小さな単位に分けて

よそと組み合わせて使う、、、

なんでだろう~なんでだろう♪

とよ~く考えてみた





小さい単位ごとを組み合わせる運用は

無いとは言わない

利点が無いとも言わない

ただ、本作戦においては

ただ単に「部隊数(師団)が足りなかった」

その根本的な原因は

「敵を軽視していたため」の一言に尽きる

のではないかと私は思った

、、、あぁ、やっぱりガーン





部隊は、骨抜きにされ、手薄になって

本来の力が発揮できなかった

そして何でもかんでも吸い上げて

15軍直轄にしちゃうし

その上、師団長を更迭しちゃったり、、、

なんだかなぁ、、、無茶苦茶





こんな無謀な作戦のために

命を落とした人達がかわいそう

大叔父もその1人なので無念です

でも輜重連隊の方のせいでは

決してないですからね

責任を感じることはないですよと

言ってあげたい




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 1489

「防人の詩~インパール編~」より

インパール作戦は大勢の犠牲を出し

無謀な作戦の代名詞として使われる

「補給を無視した」「補給が失敗した」と

言われるけれど

補給が補給がと言われる度に

輜重連隊の人々はどんな思いだったのだろう





インパール作戦での

輜重連隊の方の手記が無いのは

もしかしたら責任を感じていたのかも?

戦闘兵科以外は

インパールを語るなと言う雰囲気もある





補給の失敗と言うよりも

正確には平坦の成り立たない作戦を強行した

兵站上の目途の経たないことを無視したと

言うべきなのかもしれない




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 1488

「防人の詩~インパール編~」より

輜重連隊の兵隊も

自ら20日分の食料しか持って行っていなかった

最前線に物資を運んだものの

帰りの食料に困り

他の部隊と同じように

原住民の村に徴発に行くしかなかった





最初は柔らかな口調でお願いしていた日本軍も

やがてあまりにも執拗に繰り返される徴発に

耐えかねた原住民との関係は

険悪な空気に変わっていた





原住民の村に

日本軍の徴発部隊の姿が見えると

原住民の男性は全員が槍を持って

日本軍に帰るように迫った

もはや初期のように話し合いの徴発ではなく

日本軍の行為は

「事実上の略奪に等しい行動となっていた」

と、この証言者は語っている





原住民を襲った不幸は

日本軍による徴発だけでは済まなかった

日本軍の徴発の動きを察知した英印軍は

糧秣の補給源になっている

これらの集落を爆撃し

ほとんどの集落は猛火に包まれ

焼き払われていったのであった




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 1487

「防人の詩~インパール編~」より

輜重連隊の駄馬を引き連れての行軍は

前線まで1ヶ月ほどかかったそうである

途中、馬や牛は急斜面を登らず

難路に倒れて行った





馬が居なくなった輜重連隊は

小隊クラスの人力で対応するしかなかった

結局、この本の中の輜重連隊の

インパール付近への補給は

2度しか出来なかったと書かれていた





「本来ならば、弾薬の輸送とあわせて

当然、糧秣の輸送も行うべきであったのに

軍は、作戦の進攻開始時に各兵士に背負わせた

1人当たり20日分の糧秣分で

十分にインパールは攻略できる

後は、インパールに入れば

英印軍の膨大な貯蔵食料が用意されている

との判断から…

2度の輸送とも食料らしきものは、ほとんど輸送せず

一にも二にも砲弾や重機、小銃などの

弾薬箱ばかりを馬の背にくくりつけていた」

そうである




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 1486

「防人の詩~インパール編~」より

残念ながら輜重連隊の本来の機能は

無謀な運用により

作戦当初から、麻痺し発揮されることはなかった

これは決して輜重連隊のせいではない





、、、どうしてこんな運用をするの?

作戦起案の時点から

15軍司令官の強行であったとしても

その他の幕僚はどうしていたのだろう?

更迭が怖くて言いなりになっていたのかしら、、、





歩兵連隊は、健脚を活かして急進する

輜重連隊は、歩兵連隊に配属されたが

荷物を持って、馬を引き連れ

歩兵の歩速には到底付いて行けなかった

大密林の中でしばしば置き去りにされ孤立しながらも

歩兵連隊を必死に追って、最前線に向かう

もちろん護衛の部隊などあるわけもなく

小隊単位の小さなグループでは

敵に遭遇すれば、あっという間に壊走した





補給物品を届けては引き返すと言う

ピストン運転をしていたが

本部に戻ってこないグループが

徐々に増えていった

戻らなかったグループの詳細は未だに分からない




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 1485

「防人の詩~インパール編~」より

輜重兵第15連隊の輓馬(ばんば)中隊は

まず、駄馬編成への改編を命ぜられた

それと同時に、1個小隊くらいの単位で

各歩兵連隊に配属の指示が来た





輓馬(ばんば)編成から駄馬編成になったことで

運搬量は1/3となってしまった

インパール作戦は、山岳大密林内での

搬送であったことから

その改編は止むを得ない処置であったが

輸送力の激減に見舞われたのは事実であった





その上、2個中隊の車両部隊は

山岳進攻作戦に使えないと判断され

作戦開始後もビルマ領内に残されることとなり

輜重連隊の指揮下を離れ

師団司令部の直轄として運用された




中隊を小隊単位にバラバラにして

歩兵連隊に配属し

車両編成の2個中隊は

師団に吸い上げられ

輜重連隊が直接使える人員は

100名にも満たなかった

これは、連隊総勢のうち

9割強の兵力が

連隊本部の指揮下を離れていると言うことであった





続く…





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ミャンマーに思いを寄せて 1484

祭師団(第15師団)には、輜重兵第15連隊が

4個中隊編成の兵力を持って配備されていた





4個中隊のうち

第1と2中隊は、輓馬(ばんば)編成

第3と4中隊は、車両編成であった

※輓馬=車両やソリを牽引させる馬

駄馬は、その体自体に直接荷物を載せて運ばせること

輓馬は荷物を載せた車両やソリを牽引させることで

より重い荷物を運ぶことが出来る





1個中隊の輓馬は230頭あまり

車両はトラックを主力とし

1個中隊あたり40両あまりの

機動力を誇っていた





この編成で見る限り

輜重兵第15連隊の兵装輸送能力は

強力なように思えるのだが

このインパール作戦においては

その力を発揮する機会を「奪い去られた」と

表現されていた




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 1483

「防人の詩~インパール編~」より

この本は、体験者の証言集なので

今まで手記が出ていないような

珍しい部隊の話も多かった





この師団経理部の彼の話もそうだし

この次に綴られていた輜重連隊の話も

興味のある内容であった

なぜなら、やはりインパール作戦は

「補給を無視した無謀な作戦」と

言われているからである

無視したと言うより「軽視」したが正しいように思うが

いずれにしろ、補給がポイント

だったことには変わりない





しかし、全く補給をしなかったのではない

十分ではなかったが、少なからず、担当部署は

出来る限りの範囲で最善を尽くした

その部分をしっかりと書いている書物は

あまり見かけないのが実情である





支援してあげたいのに出来ないもどかしさ

その結果、多くの戦友が亡くなっていった

戦後もその無念はずっと心の中にあり

やっとこの本の中で誰にも言えなかった

現場の実情を打ち明けたのであった




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 1482 

2015秋~2016年2月頃まで

ほんとうにたくさんの書物を読み漁った

インパールやビルマ、特務機関に

関係するっぽい本を見つけては

山のように買った

あぁ我が家は図書館まっしぐら





もちろん大叔父の名前を発見することが

目的であるが

そうそう簡単には出現しない

しかたなく、必然的に歴史の勉強となる

60連隊や光機関だけでなく

その他の周りの知識も入ったら

何か見え方も違うかもしれない

決して無駄ではないと自分に言い聞かせる

根気のいる地道な作業であった





読者の皆様にご紹介したい良い本は

たくさんあります

でもね…本の紹介ばかりしても

申し訳ない気もする。。。

省いて先に進んじゃおうかな?

なんて思ってしまう今日この頃(リアルタイム)





この後に、とんでもない報告が寄せられ

もう読書タイムをしている場合じゃないと

私は行動を起こすのです

この先もどうぞお楽しみに☆




続く…




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