ミャンマーに思いを寄せて

亡き母の思いを果たすべく、ビルマで戦死した大叔父の足取りをたどる私の奮闘記録☆

2017年05月

ミャンマーに思いを寄せて 1686

~主計さんの資料の中の
「陸軍経理部よもやまばなし 続編」より~



昭和19年3月

この方が中野学校に在学中

卒業する前に行われた兵棋演習では

「ビルマからインドに進行する軍の戦術と

それに伴う諜報、謀略、宣伝」を

主題とする演習であったそうだ





卒業後、まさにこれを実行しつつある

南方遊撃隊司令部に着任するために

立川飛行場から爆撃機に乗り→

沖縄→台北→クラークフィールド(フィリピン)→

マニラ→ゼッセルトン(マレーシア、ボルネオ島)→

シンガポールに到着しビルマ入りそうである





「南方遊撃隊司令部は、15軍に先がけ

インド国民軍を撤退せしめるに決した」と

この方は証言されている

そして「下士官2名を指揮し、

(インド国民軍)第一師団連絡将校・小川少佐の

指示を受け、カレワ工作班と連繋し、

第一師団の撤退を支援」との命令を受け

この方は最善を尽くしたのであった



工作班に関する過去記事はこちら↓↓

「ミャンマーに思いを寄せて 1219」
http://blog.livedoor.jp/aya_sann/archives/1988007.html




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 1685

~主計さんの資料の中の
「陸軍経理部よもやまばなし 続編」より~






インド国民軍は

軍服をはじめ、装備品もほとんど

英印軍の物を使用していたそうだ





<昭和19年2月頃だと思われる配置>

【インド国民軍第一師団】

★山本支隊に配属(弓・33師団)

師団長:M・Z・キャニー大佐

日本軍連絡将校:小川少佐

 ・第二遊撃連隊…キャニー中佐、清水大尉
 ・第三遊撃連隊…クズサラシン中佐、牧田中尉

★弓(33師団)に配属

●第一遊撃連隊…シャノワーズ大佐、皆廻少佐

★28軍(策)に配属

●第一遊撃連隊第一大隊…ラトレー少佐、篠原少佐





第四遊撃連隊…アルシャワド中佐、大浦少佐及び

インド国民軍第二師団…アーメッドカン中佐は

ラングーンからマンダレーに移動中

第二師団は昭和19年6月に完結





もしかしたらどこかにあるのかもしれないけど

。。。こんな詳しいの見たことがない




続く…



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ミャンマーに思いを寄せて 1684

昨日は日曜日♪
バイトもお休みでブログもお休みしちゃった
では今週も頑張っていきましょう☆



~主計さんの資料の中の
「陸軍経理部よもやまばなし 続編」より~



この手記に書かれていたのは

昭和19年2月の段階での

インド国民軍の状況と

それぞれに派遣されていた

日本軍将校の名前であった

昭和19年の2月と言うことは

インパール作戦開始直前である





その方の証言によると

昭和19年2月現在

最高司令官:チャンドラボース氏

参謀長:ボンスレー少将

司令部:ラングーン

後方司令部:シンガポール





「3個師団を有し

いずれも「遊撃師団」で

第二師団のみ、砲兵と工兵を持ち

野戦師団的色彩を持っていた」と

この方は表現されている

遊撃師団って珍しい言い方だけど

遊撃連隊しかないんだから

遊撃師団って言ってもおかしくないか

やっぱり第一師団は歩兵のみだったんだぁ





私の調べによると

師団兵員7,000名規模

実際には旅団級戦力と言えるだろう

以前に大川塾出身のおじいさんから

いただいた本に載っていた

インド国民軍の編成と比較すると

少し違うところもあった

それは時期的なものかもしれないし

大昔の記憶だろうから

間違っていてもしかたないよね

※だって大川塾のおじいさんの本には

第四遊撃連隊が無かった



インド国民軍の編成の過去記事はこちら↓↓

「ミャンマーに思いを寄せて 1222」
http://blog.livedoor.jp/aya_sann/archives/1988282.html




続く…



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ミャンマーに思いを寄せて 1683

~主計さんの資料の中の
「陸軍経理部よもやまばなし 続編」より~






さて、寄り道してしまいましたが

先に進みますよ♪

光機関員で中野学校出身の

主計さんの証言の中の

「(五)、自由印度仮政府、印度国民軍 」





チャンドラボース氏についてや

インド国民軍の成り立ちなど

簡単にまとめてあったが

一般的なのでこのブログでは省略





私が着目したのは

「インパール作戦に参加中の

(インド国民軍の)師団、連隊には

光機関の将校以下が連絡将校として

派遣されていた」との証言だ





私の仮説を裏付ける証言である

インド国民軍と光機関の間には

連絡将校や通訳等の

人間が必ず居るはずと思っていた

先の泉大尉の陣中日誌を偶然発見し

その存在が明らかになっていたが

他は何も分からなかった





この手記には

インド国民軍の組織が詳しく書かれており

驚くことに、その他の遊撃連隊などへの

主な派遣将校の名前も書かれていた

うわっっスゴイ!!今までこんなの見たことがない

これって、とっても貴重な発見じゃないかしら




続く…




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続:ついでに調べたら 最後

「マンダレー光機関支部 弓兵団 築城要員

森9746部隊 第四遊撃連隊」を調べて






森9746部隊=「第15野戦勤務隊本部」については

ビルマ方面軍直轄で

補充担任は久留米

読者様からのご教授で

兵站関係の部隊名だそうです

森=ビルマ方面軍には

15の他に30もあった

そして、支那方面軍にも2個の野戦勤務隊本部

があり、おかしな部隊ではなさそう。。。

ごめんなさい

DSC_0297















泉大尉は機甲兵科

100歩譲って、乗れる戦車が無くなって

工兵のお手伝いで築城要員になったとも

考えられなくはない

だけど、泉大尉は中野学校出身である

昭和19年11月

撤退している最中であり

インド国民軍の1個連隊を率いている立場

インド国民軍はほとんどが歩兵であり

やはり築城要員ってのは無理があると思うし

野戦勤務隊本部の人間でもないだろう





「野戦勤務隊本部」も含め

とっても勉強になりましたペコリ

お付き合いいただきありがとうございます





続く…




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続:ついでに調べたら 3

「マンダレー光機関支部 弓兵団 築城要員

森9746部隊 第四遊撃連隊」を調べて

なかなか興味深い結果となり

自己満足なワタクシ(笑)





この泉大尉の陣中日誌は

昭和19年11月1日~30日までの分である

昭和19年の11月と言えば

この報告文書の宛先である

インド部長の北部大佐には

歩兵60連隊長への異動が発令されている

その後任者は居たのかさえ分からない





しかし、実際の交代は昭和20年の1月であった

北部大佐が盲腸になったためだと言う

それは北部大佐の手記と

前任者の60連隊長・松村大佐の

手記でもそう書かれていた

果たしてほんとうのところは?

その1月とは、光機関が縮小し

2/3の人員を転属させた時期だからである

私は残務整理してたのじゃないかなぁ

なんて思ってしまった





その後は終戦間際に

北部大佐は鈴田中佐に

60連隊長の座を譲るのだが

その交代がいつのことだったのかは

靖国偕行文庫にある旧軍のデータや

数々の文書を見ても分からない

北部大佐が最終の連隊長とされている文書も多く

鈴田中佐が最終連隊長だと

知っている60連隊の人に出会ったことも無い

その上、60連隊を出た後の

北部大佐の部隊は分からないし

いつ日本に帰ったのかも分からないが

戦後は故郷の郷友会の会長を務めておられた




続く…




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続:ついでに調べたら 2

光機関からインド国民軍の遊撃連隊に

連絡将校として派遣されていた泉大尉が

発信した報告文書に書かれていた部隊名

「マンダレー光機関支部 弓兵団 築城要員

森9746部隊 第四遊撃連隊」を調べてみた





まずは「マンダレー光機関支部」

マンダレー支部は聞いたことが無い

次の「弓兵団 築城要員」

撤退途中に築城要員って





次は「森9746部隊」、、、ってどこの部隊?

で、調べてみると

『第15野戦勤務隊本部』、、、はい???

この部隊名を私は知らないです

野戦の勤務の隊本部?やたらとアバウトな名前w

ご存知の方がいらしたら教えて下さいませ

で、その第四遊撃連隊って

おーい、第四遊撃連隊はインド国民軍の部隊じゃん

どんだけ~な書き方なのよ(笑)





パッと見は分からないけど

光機関としての名称と

一般部隊の名称が混ぜて書かれている

日々の日誌及び日報のような報告文書の中に

顧問報告とされるこの報告文書があった

「発信者」と言うことは

報告はきっと打電されたと思う

もしも敵に傍受された時のために

分かりづらい部隊名にしたのではないだろうか?

マンダレーと言う支部名も

現在地を意味した可能性も否定できない




続く…




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続:ついでに調べたら

「マンダレー光機関支部 弓兵団 築城要員

森9746部隊 第四遊撃連隊」を調べてみた





まずは「マンダレー光機関支部」

岩畔機関→光機関→遊撃隊司令部…→光機関と

組織は拡大を繰り返し

インパール作戦敗退に伴い縮小した

時期的な動向(移動)があるとは思うが

マンダレーに支部なんてあったっけ???

聞いたことがないし、私の調べでは無いような、、、





で、次は「弓兵団 築城要員」

素直に読むと光機関から弓兵団に派遣された

築城要員とも取れる

でも、昭和19年11月の段階で

撤退しているのに築城要員も何もないよね





次は「森9746部隊」、、、ってどこの部隊?

そう言えばインパール作戦参加の部隊一覧に

兵団符と部隊番号が載っていたっけ

と手持ちの資料を探してみた





この資料は防衛研究所で

コピーしてもらった物だったが

私が拡大コピーを頼んだのか

やたらと大きな紙だった「見づらいわぁ…」

この元資料は何だったっけ?と考えると

戦史叢書の「インパール作戦」の

付録だったのではと思い、探してみるとビンゴ!!

調査当初は、まさか戦史叢書まで買い込んで

勉強するとは思わずに

防衛研究所でコピーをお願いしたのだろうなぁと

懐かしく思いました☆





「これ便利なのよ」と家族に言うと

「研究者以外に誰が使うのさ」

「主婦の言うセリフじゃないし」

「そもそも家に戦史叢書があること自体おかしい」

と笑われる始末

あはは、そうかもね~



続く…



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ついでに調べたら…あちゃ~

読者の皆様へ


いつも読んでいただきありがとうございます

防衛省でのお仕事を終え

なんとか以前の生活に戻りつつあります

防衛省でのあの日々が懐かしいような

もう少しだけ居たかったような

でも早く終わりたかったような。。。

とにかく楽しかったのと勉強になりました♪





フルタイムでのお仕事に体が慣れているうちに

元々のお仕事も頑張らなくちゃと

複数のお仕事を持ちながら

手抜きしてグチャクヂャになったお家の片付けと

ブログも頑張っちゃうわよ~(笑)





そんなこんなで

先日、インド部長が北部大佐だと分かり

以前にブログに掲載した報告文書を

紹介しましたが

それを読み返していて

なんとなく気になることがあったので調べてみた





「印度国民軍 第四遊撃連隊 陣中日誌」

 ~印度国民軍第四遊撃連隊指導将校 大尉 泉 達夫~
   
    昭和19年11月1日~11月30日

と言うタイトルの綴り

インド国民軍に派遣されていた

光機関の連絡(指導)将校だと思われる





その中には、顧問報告とされる報告文書があり

その宛先は、「印度部長」となっており

発信者の欄には

「マンダレー光機関支部 弓兵団 築城要員 森9746部隊

第四遊撃連隊 泉大尉」と書かれていた





えらく長い部隊名だなぁ。。。

この部隊名を読み取ってみると

なんじゃコレ???



続く…



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ミャンマーに思いを寄せて 1682

~主計さんの資料の中の
「陸軍経理部よもやまばなし 続編」より~




インパール作戦後の

南方遊撃隊司令部については

どのようになったのか

実の所、私はよく分からなかった

いつの間にかまた名称は

光機関に戻っていたような印象…





するとこの方の証言に

詳しく書かれていたのでご紹介♪

「なお、遊撃隊司令部は、インパール敗戦後、

昭和20年1月インド工作機関に還元し、

各工作班と遊撃戦部の人員は、

挙げてビルマ方面軍に転属され、

約1/3に縮小された」





やっぱり遊撃隊司令部って名称は

無くなっていたんだぁ。。。

インド工作機関ってのは光機関の

ことだもんね。。。

一部を残して大勢を一般部隊に

転属させたんだね




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 1681

~主計さんの資料の中の
「陸軍経理部よもやまばなし 続編」より~



まずは光機関の成り立ちや任務について

簡単にまとめて書かれていた

まぁ一般的なことなので

このブログでは省略します






次に組織について書かれていた

この方の証言によると

★司令官…磯田中将

<司令部>
●参謀部
・高級参謀…山本大佐
・参謀…香川中佐、高木中佐

●副官部…高橋少佐以下

●軍医部

●経理部

●兵器班

●通信班

<インド部>
★長…北部大佐

●遊撃戦部…小松原大佐

●各地の支部及び出張所
・ミートキーナ
・ホマリン
・モーライク
・カレワ
・アキャブ
・シンガポール
・ペナン
・バンコク
・サイゴン





なかなか詳細だなぁ。。。

私が初めて目にしたのは

「インド部」であった

そしてそこには、あの北部大佐の名前

今まで、軍事部と言う名前は

何度と見ていた

そして軍事部の長は北部大佐であった

インド部と軍事部は同じ???





しかしこれは収穫だと思う

以前に「印度部長」宛の

第四遊撃連隊の報告文書を見ていたからだ

印度部長って誰なんだろうと思っていたが

北部大佐だったんだね





印度部長関連の過去記事はこちら↓↓

「ミャンマーに思いを寄せて 820」
http://blog.livedoor.jp/aya_sann/archives/1935672.html




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 1680

※更新予約時間を間違えました
ごめんなさい


~主計さんの資料の中の
「陸軍経理部よもやまばなし 続編」より~





次いで出てきた小タイトルは、、、

「(四)、南方軍遊撃隊司令部 」

出たーーーー!!!!光機関についての証言!!!

ついに来たか?待ってました(笑)

中野学校出身の主計さんの

光機関での話なんてレアもいいとこだ





何が書かれているのかドキドキする

そうそうブログをずっと読んで下さっている方は

ご存知だと思いますが

南方(軍)遊撃隊司令部とは

藤原機関→岩畔機関→光機関と

大きな組織へと発展して行き

インパール作戦開始に伴い

→南方遊撃隊司令部と名称変更となった





光機関を特務機関から、正規の軍事組織へと

位置づけを変えたための

名称変更であると理解する

インド軍の投降を促して軍事組織へと

作り上げる活動をしていたものが

これを支援して作戦を

展開する役割へと切り替わったためだ



南方遊撃隊司令部についての過去記事はこちら↓↓

「ミャンマーに思いを寄せて 984」
http://blog.livedoor.jp/aya_sann/archives/1962126.html



続く…



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ミャンマーに思いを寄せて 1679

~主計さんの資料の中の
「陸軍経理部よもやまばなし 続編」より~



中野学校の創設や組織についても

詳しく書かれていたが

一般的なことなのでこのブログでは省略





教育内容についても教育科目や

その教官の名前等が詳しく書かれていた

その中での特記は

赤羽工兵隊での爆破演習や

平塚火工廠及び太田市中島飛行機工場に対する

総合演習くらいだろうか

その詳細は書かれていなかったが

どんなのかちょっぴり興味あり(笑)





生活面では

軍服を背広に着替え

軍服を着るには反対に許可が必要だった

背広は輸出用の物を買うように指導された

そして髪の毛を伸ばした





「乙」種の学生は営舎外から通学し

この方は下宿先を5回も変更したそうだ

当時、若者はほとんど徴集され

若い独身男性は隣組防空演習等の

真夜中の当番を割り当てられることや

下宿先での女難を避けるためでも

あったそうである





。。。下宿を5回も変えたんだぁ

この二乙の教育が昭和何年の話かは

あんまり私には分からないのだけど

大叔父は昭和18年の1月に

「下宿先が見つからない」と手紙に書いている

勤務先は品川(大森)の旭機械工業

品川近辺には無くて

中野近郊は田舎だったから(失礼)

下宿先がたくさんあった?





勤務先が先に決まっていて

下宿を探したのかどうかは分からないが

下宿先が見つからないので

東京・中野の姉の家に身を寄せた

だが配給が受けられないと

手紙には書かれている。。。





まだ空襲も激しくなかった東京

下宿先も決まらない状態で

なんで急いで東京に行ったのか?

全く分からないので困っちゃう

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ミャンマーに思いを寄せて 1678

~主計さんの資料の中の
「陸軍経理部よもやまばなし 続編」より~



中野学校の各種課程の種類について

詳しく書かれていたので勉強になった





「甲」「乙」「丙」「丁」「戉」の各課程について

「乙」は士官学校出身の大尉・中尉で

一乙から五乙まであった

「丙」は予備士官学校出身者で

一丙から十丙まであったそうだ





そして、「甲」は乙及び丙出身の上級課程であり

「丁」は戉の少尉候補生課程とされたが

どちらも実現せず終戦を迎えたそうだ





この方は、二乙だったそうで

その他の主計兵科の方の名前も

たくさん列挙されていた





しかし、1名の捕虜や裏切りによっても

全貌を明らかにされる恐れがあったため

横の連絡は禁止され

縦の命令も最小限だったそうである

よって、全員の集合写真は無いと証言されていた





また、人事発令も最低限の関係者に限定され

この方の軍歴は参謀本部付で終わっており

年金手続きに苦労されたそうである

。。。またここでも軍歴を詐称された方を発見

私も「兵籍簿を疑うなんて」と言われ続けているが

おかしな兵籍簿はたくさん存在するのだ

特に特務機関関係者においては

一般的な処置に思えてならない




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 1677

~主計さんの資料の中の
「陸軍経理部よもやまばなし 続編」より~



中野学校出身の方って

特殊な使われ方をしてるので

ひとまとめに「特務機関」と言う

イメージが強くって兵科があってないような?

と言うよりも、各人に兵科があったなんて

思いも寄らなかった

勉強不足で申し訳ありません、ワチャー





私の印象では中野学校出身者は

一般大学出身の方が多くて

大学卒業から軍隊に染まらないうちに

中野学校にっ入って、それっきり、、、

って勝手なイメージだったんです

この時点でも皆さんに原隊(兵科)はあったんですよね

今の自衛隊で言えば

大学卒業後にすぐに入隊して

情報科職種でなっちゃったみたいな感じに

思ってしまってた





でもその自衛隊にも何年か前までは

情報科職種はなかった訳で

各職種(兵科)の中に

教育を受けた人もいれば

受けていない人も含み

情報系の分野に精通している人が

居たくらいだったのではないでしょうか





旧軍もそれと一緒で

各兵科から中野学校で教育を受ける人を

選抜していたようであるから

その中にもちろん主計も居たと言うことだ

そうよね、中野学校出身の主計さんが居ても

おかしくはないのよね

わぁ~、それにしてもなんだか濃いなぁ(失礼





ちなみに、旧軍の中野学校は東京都中野区で

経理学校は東京都小平市

現在の自衛隊の情報教育部と会計教育部は

経理学校跡の同じ小平学校内にあり

情報教育部が中野学校の後身とは言い切れないが

この記事を書いていると

なんだか昔から情報系と経理系はご縁があるの?

と思ってしまうのは気のせいだろうか?




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 1676

~主計さんの資料の中の
「陸軍経理部よもやまばなし 続編」より~



中野学校については

知っているようで知らない私であった

様々な資料は読んできている

ただ、大叔父がもしも中野学校と関わっているなら

どの時点でどのように、どの程度

関わっていたのかについは

仮説の上でもまだ断定できない

難しい判断であった





現時点の大まかな仮説では

大叔父は学生時代から

中野学校もしくは特務機関に

何かしらの接点があったとしてもおかしくない

と思っている程度の話である





大叔父と中野学校をどうしても

結び付けたい訳ではなく

調査の過程で浮かび上がった事実を

繋ぎ合わせていくと

中野学校や特務機関との接点が

可能性として出てきたに過ぎない





そのため、中野学校の教育の

細部については

まだまだ゛不勉強である

ましてや中野学校出身者に

各人の兵科があったなんて知らなかったのだ




続く…




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ミヤンマーに思いを寄せて 1675

いただいた主計さんの資料を

古い順に読めば良かったのだが

順番を考えず、気になった物から

手当たり次第に読みあさった





先の「陸軍経理部よもやまばなし」には

続編が存在する

その中に大変興味深い記事があることは

パッと見て知っていた

それとなしに送って下さった方からも聞いていた

私が求めているような証言のようだ

でもドキドキして、なかなか読めなかった





それは、光機関における主計さんの証言だった

実は「資料集 インド国民軍関係者聞き書き」

「資料集 インド国民軍関係者証言(〃)」

にも多くの主計さんが出てきたことを思い出した

その時は何とも思わずら読んでいたのだけど…

この「陸軍経理部よもやまばなし 続編」には

中野学校出身の主計さんの話が載っていた



続く…



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ミャンマーに思いを寄せて 1674

~主計さんの資料の中の
「陸軍経理部よもやまばなし」より~



もう1つ、面白いなと思ったのは

”タバコ”である

タバコは戦前は、専売局(大蔵省の外局)

と言うところが専売業務を担当していた

(昭和24年に専売局→日本専売公社)

他の専売品は、塩、樟脳、石油、アルコールなど





お酒は我慢できるがタバコは出来ないとして

戦場では大変好まれたらしい

軍にとってタバコの販売は調達用の資金元であり

物資交換用として重要な取り扱い品であった

「現地自活」の指針を元に

支那総軍では、現地でタバコの製造販売の

専売計画を立てたが、陸軍省等の反対に遭い

計画だけで頓挫したそうだ





タバコの葉っぱよりもタバコを巻く紙が

とても貴重品であったらしい

ライスペーパーと呼ばれるその紙は

紙だけでも取引され

取引は特務機関の者が

私服や民族服などを着用し

民間人に扮して敵地に潜入し

主に物々交換に使用していた

これには主計である経理官も関わっていたそうだ

※「便衣」と表現されていた

日中戦争に関して、私服や民族服などを着用し

民間人に扮して敵対行動する軍人を「便衣兵」と呼ぶ





当時、ライスペーパーを作るには

ジャワ(マニラ)産の麻が最適とされたが

ジャワ産の麻が手に入りにくいことから

多くの魚網に麻が使われていたため

古い魚網を集めたと言う話もあった





支那総軍ではタバコは軍配組合が取り扱っており

軍配組合だけでは手に負えず

その下に煙草支給組合を作り

一切を統制していた

遂には、ライスペーパー工場を作り

その立ち上げには

王子製紙の技術指導を受けた

以後は、中国系煙草製造会社と提携して

ライスペーパーを支給して

タバコの委託製造を行った

工場場長は主計中尉が就任した

業績は目覚しく資金調達に多大な貢献をした





インパール作戦中のビルマでは

もちろんタバコも不足しており

枯葉や茶葉をそこら辺の紙に巻いて口にしていた

時折、ジャワ産のライスペーパーが届くと

兵隊は目の色が変わったと言う

主計さんがその白いライスペーパーで

吸っていると妬まれたそうである


★次回は次のお話に移りますよ~




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 1673

~主計さんの資料の中の
「陸軍経理部よもやまばなし」より~



※昨日の「衣袴」について

ズボンかな?と思っていましたが

読者様よりご指導いただき

「衣袴(いこ)」=上下の服

衣が上衣で袴がズボンのようです

参考まで

教えていただきありがとうございました☆





グチ話の最後に心に残ったのは

「戦闘兵科の者は、弾なく食糧なく

それで勝ったら殊勲だと言う」

戦記物を見ても

どれもこれも「ろくな物を食わさなかった」

「俺等は栄養失調になった」と

書かれているが

「そうじゃないんだ!俺らに言わせると

精一杯の努力をして、うまい物を

食わせたつもりでも

ろくな物がなかったから

マラリアになったと言われる」

。。。分かるような気がする





そして主計さんの戦記物の手記(本)が

販売されていないのも分かるような気がした

書いて出版すれば戦記にはなるんだろうけど

戦闘兵科のように華々しい戦果は無い

特にビルマのインパール作戦では

主計の仕事とは言いづらい活動内容で

「インパール作戦=補給の失敗」

と言われることに対して

反論したらグチっぽい、、、

。。。ビルマの主計さんって可愛そう





って、なんだかどこかで

同じようなことを書いたような?

そうそう「輜重連隊」の話だ!!

補給物資を運搬する係りの者と

物資を調達して保管する係りの違いですね



輜重連隊に関する過去記事はこちら↓↓

「ミャンマーに思いを寄せて 1483」
http://blog.livedoor.jp/aya_sann/archives/2015594.html





あと少しで「陸軍経理部よもやまばなし」は

終わりますから

ちょっとお付き合い下さいね

「陸軍経理部よもやまばなし」が

メインではありませんから~



続く…



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ミャンマーに思いを寄せて 1672

~主計さんの資料の中の
「陸軍経理部よもやまばなし」より~



とっても興味の出た

「西南貨物廠現地自活要図」☆

”現地自活”ってことは

現地で調達できたってことで

それらの倉庫があったのかなと思う





地図の中は、3つの地区に分かれていて

中佐の本部長を置き

その他に地区担当として大尉~中尉の

主計将校の名前があった

でも私が聞いたこともない地名ばかりで

その地図の中で唯一知っていたのは

「イラワヂ川」と「至ラングーン」だけだった

きっと私が見聞きしたことのある地名は

作戦上の有名な地名や激戦地であり

倉庫があった場所は比較的安全な

場所だったと思うので

その地名を知らないのだと思う





取り扱い物は食品が多いのだけど

他にも色々とあって興味津々♪

【食品】精米、味噌、しょうゆ、乾肉、酒、

菓子、飴、カレー粉など

【衣服】衣袴(ズボンかな?)、襦袢(下着かな?)、

巻脚絆、編上靴、地下足袋、製靴など

【日用品】製炭、皮革、製袋、製紙、製缶、陶器など

【その他】鉄工、木工、染色

分からないのは「やま隊」と「密針」

※何か分かる方がおられましたら教えて下さい




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 1671

~主計さんの資料の中の
「陸軍経理部よもやまばなし」より~



この資料の中で珍しいなぁと思ったのは

「西南貨物廠現地自活要図」であった

兵要地誌の中の兵站地誌の分野なのかな

西南~至るマンダレーってことは

インパール方面からマンダレー方向の

地図になるんじゃないかと。。。

※昨年の夏にNATIONAL GEOGRAPHICの

日本語サイトに掲載された

旧日本軍の兵要地誌図が話題になっていたが

それよりはかなり簡易です





このような様々な地誌資料は

当時は軍内では幕僚将校等が

作戦立案の資料として使っており

その存在はよく知られていたが

現代ではあまり知られていないと思う

それは軍用の秘文書として

終戦時に処分されたことや

アメリカが押収してしまって

日本国内に残っていなかったことが

大きな原因の1つだと言える





作戦の経過を示す一次資料ではなかったため

重視されていなかったのだと思うが

当時の地域の作戦環境を理解するためや

旧日本軍の情報活動の一端を示す

貴重な資料だと私は思うのだけどなぁ。。。

読者の皆様は興味ありますか?

ちょこっと紹介してみようかな?チラッ

もちろん大叔父の調査には

直接関係ありませんがスミマセン




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 1670

~主計さんの資料の中の
「陸軍経理部よもやまばなし」より~



「全般的なビルマにおける

糧秣補給の問題並びに給与の問題につきまして

昭和18年末までは

内地からの補給は極めて円滑であったと言えます」

「捕獲した敵の糧秣並びに押収したところの

軍事物資は極めて豊富にあり

オートミールとか缶詰、乾燥野菜

素晴らしい物が山積みにされていました」

「第一線の僻地で戦闘をしている部隊を除き

昭和18年末までは、まずまず給与は完璧であったと

言っても差し支えない思います」





ビルマと一言で言っても大きな国で

インパール作戦激戦地域(インド国境付近)から

離れた場所では食材も豊富にあったそうだ





ある主計さんは、作戦に備えて3月頃までに

日照りを利用し、お肉・お魚・野菜・麺などを

手当たり次第に乾燥させた

それはその後に大変役立ったと書かれていた

。。。主計さんは、給養のために

こんなことまで計画するのかぁ

素直にスゴイなぁと思った




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 1669

~主計さんの資料の中の
「陸軍経理部よもやまばなし」より~



複数の方が戦地での武勇伝とは

違う話をされていたのが印象に残りました

それは「経理部の地位」について

一番気になっている問題として

「初めに申し述べます」と

力強い口調で始まる人もいた





将校であっても、部隊に行くと

他の将校と比較して

敬礼が省略されたそうである

そして並ぶ順番も

兵科が先で、主計はその後に並ぶ、、、





軍医や獣医は馬を持っているのに

主計だけは馬を与えられなかった等

「未だに忘れずに、別に恨んで

いるわけではないんですが…」とグチっておられた





主計さんは一目置かれた存在と言う印象で

もっと尊敬されていたのかと私は思っていたけど

そうではなかったのかな?

てか、主計さんって今までご縁は無かったし。。。

これも勉強なのかな~





他にも同類のグチは散見された

部隊では経理の計画立案だけさせられて

あとは兵科の将校が取り仕切って

仕事を与えられず不愉快だったとか





主計さんは、兵科は主計だけど

様々な部隊に配属される

歩兵連隊に居たのに次は砲兵連隊とか

歩兵だったらずっと歩兵ではないのですね

それは大変だったろうなと思いました





陸士と同じような教育を受けたそうだが

法律とか経済とか、新進気鋭の若手の人が

非常に難しいことを教えてくれたけど

戦場では役に立たなかったなど

この手記は、ある意味で面白い(スミマセン




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 1668

~主計さんの資料の中の
「陸軍経理部よもやまばなし」より~



この冊子には、きっと様々なカテゴリが

あったと思われる

その中の1つとして

「その一 戦地における給養業務

-現地自活の実際-」と題がうたれていた所に

ビルマのインパール作戦の話も入っている

私はその部分だけをコピーでいただいた





各人5~6分くらいの

ハイライトのみの聞き取り調査であり

言葉をそのまま原稿に起こした物である





戦地においての部隊付経理部将校の活動については

そのほとんどが給養業務であり

如何にして部隊を養い

戦力を維持培養するかが基本だったそうである





第一線部隊での主計将校の経理業務は

史実として語るようなことはほとんどなく

苦労話とちょっとした武勇伝くらいのものだと

証言されている人もいた




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 1667

~主計さんの資料の中の
「陸軍経理部よもやまばなし」より~



インパールへと急いだ第15師団(祭)の主計さんは

師団に合流し、経理部長に申告したところ

「兵隊はどうした?お前達、将校だけ来ても

しょうがない。俺達は兵隊が欲しいんだ」と

言われて、初めて兵隊が足りないことに

気付いたと書かれていた

ほんとうに分からなかったんだね。。。





この主計さんの話のほとんどが

インパール作戦の全般的な説明で

楽しみにしていたのに、少し残念だった

でもなかなか主計さんらしい興味深い話もあった





主計さんは、現地での調達の他にも

「野戦倉庫」と呼ばれる

食料などの倉庫の管理も担っていた

経理や調達から、物の管理や補給まで

主計さんって補給全般を担っていたんだね

今の自衛隊で言えば

会計科職種と需品科職種を合わせたような

広域な兵科だったんだと知りました





撤退後にやっと後方からの補給を受け

野戦倉庫に糧秣を蓄えていたところに

第一線から歩兵60連隊と51連隊が退却してきたので

「どのように使ってでも、ここで踏みとどまって下さい」と

差し出したのに、部隊は「それどころじゃない」

「ここで抵抗して、こっちから鉄砲一発撃ったら

向こうから大砲で百発のお返しが来る。

とても無理だ」と断られ

野戦倉庫に蓄積された食料は放棄するしかなかった





敵に取られたら悔しいので

麻袋を切り開いて中身を一部処分したが

処分する時間も無くなった

ただ…英印軍は日本軍が残していった食料なんかに

見向きもしなかった

日本軍はチャーチル給与と死に物狂いで

敵の食料を奪っていたのに、、、



続く…



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ミャンマーに思いを寄せて 1666

~主計さんの資料の中の
「陸軍経理部よもやまばなし」より~



この主計さんはインパールへの追及を急いでいた

羊やヤギを1万頭引き連れての移動では

インパール作戦間に間に合わないと思い

それらを途中で預け干肉にするように命じ先を急いだ





第15軍司令官からの命令で

3週間分の糧秣と弾薬・その他を

持って行けと言われ

歩けないほどの荷物となってしまい

部下に荷物を持って追究せよと言い残し

少尉と伝令2人だけ引き連れて

インパールへと急行した





それには、もう既に師団はインパール近くまで

到達しているとの情報を耳にし

インパールが落ちた後に追いついたら

バカみたいだから早く行きたいとの思いがあった





途中で師団の連絡所に居た大尉に

「敵は本気で防ごうとしているのでしょうか?」

と聞くと「いや、我が師団が強すぎるんじゃないか?」と

返ってきて、「それじゃあ急ごう」となった

こんなふうに安易に考えていた人は

当初はたくさん居た

それが敵の罠であり

あとであんなことになるのだけど、、、



続く…



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ミャンマーに思いを寄せて 1665

~主計さんの資料の中の
「陸軍経理部よもやまばなし」より~





とりあえず、いただいた大量の資料を

読み進めないと

何か出てくるかな?出てこなくとも勉強にはなるよね

それでも、景気良く、しょっぱなから歩兵128連隊が

出てきたことで、俄然やる気が出てきたかも♪

次はどこが出てくる?と思っていたら

すぐに第15師団(祭)が出てきたではないかっっ!!

キャー大叔父の歩兵60連隊の師団だよ♪





大叔父は60連隊には存在せず

今の所、光機関に居たと思っているが

やっぱ祭師団は気になるww

祭師団の主計さんはどうだったの???

早く読みたくてワクワクした☆

↑あぁ、私はすでに変態かもしれない(涙)





この第15師団の主計さんは

第15師団が中支で南方に移動準備を開始した頃から

おられた方で、昭和18年の8月29日には

バクコクに到着していた





第15師団は、皆様もご存知の通り

タイとビルマを結ぶ道路工事を命ぜられ

インパール作戦の準備に

間に合わなかった経緯がある

この主計さんは、部隊の最後を見送り

部隊が持っていくのを拒んだ

羊やヤギを1万頭引き連れて

20名ほどの部下と共に追究していた




続く…




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ミャンマーに思いを寄せて 1664

それでもマンダレーくらいまで撤退してくると

少し主計らしい仕事も増えてきたそうだ

歩兵第128連隊は総勢400名を切る

連隊となっていたが、主計の3名は健在だった





この主計さんは「現地徴発隊長」と言う

役職を拝命し、部隊の転進に先駆けて

山の中に隠れている現地人を探して

食料を調達する係りとなった





その際に、主計さんは軍服を脱いで

ビルマの服装のロンジー姿に

腰には拳銃を忍ばせていたそうである





部隊の方が転進速度が速く

敵の中に取り残されたり

敵の斥候が主計さんより前に居たり等

何回も危ない場面があったが

ビルマ人の日本人に対する感情は良く

現地の人に何度も助けられたそうである

それは、「軍が住民に配慮して、犯さず、殺さず、

盗まずと言う指導が徹底していたためであったろうと

思います」と書かれていた





ご自身の経験を元に

軍を動かす場合の後方補給の確保を

真剣に考え、意識を強く持たなければ

いけないと感じられて

戦後に自衛隊で活躍されたようである





そうかぁ。。。一昔前の自衛隊には

戦争経験者がおられたのですね、スゴイ!

私の調査がもう少し早かったらなぁ。。。




続く…




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