ミャンマーに思いを寄せて

亡き母の思いを果たすべく、ビルマで戦死した大叔父の足取りをたどる私の奮闘記録☆

2019年02月

この病院に思うこと

読者の皆様へ



いつも読んでいただきありがとうございます

傷口は順調なようで

術後に熱が出るのは一般的なことらしいです





まだお粥ですが、入院中に完治はしないそうで

引き続きお家で無理しないようにと

素人が心配するほどのことはないようで

退院が決まりました

えっ?マジっすか?超・不安なんですけど(><)

次の外来受診までに何かありましたら

すぐに来て下さいって、、、

今の病院は回転が速くて、こんなもんなんですね





<以下、どうでも良い長い独り言です>

読まない人はここでポチッとな☆

人気ブログランキング





手術の為の絶食や術後の痛みも

インパール作戦で苦しんだ人達と比べれば

こんなの耐えられるわ

日常生活でも、残飯や

炊飯器にこびりついたご飯を洗い流す度に

インパール作戦の人に怒られちゃうとか

訳の分からないことをつい思っちゃいますw

やっぱ私って変ですよね?キャー





ここは、大叔父が入営(練兵所)した第16師団の

陸軍病院の後進である国立の医療センター





約70年前に大叔父はここに(病院じゃないけど)

居たんだなぁと感慨深いです

大叔父の出発点。。。

そして私が生まれた時に、この病院で命が救われた

大好きだった祖母が入院していた病院でもあり

幼い頃によく訪れた記憶がある

そして昨年、父が亡くなった病院





亡くなったと言っても医療事故で

「医療事故ですがミスではありません。

わざとじゃないし、犯罪性も無いから

運が悪かったと諦めて下さい」と言われて

何の保証もなく泣き寝入りしたのです





父が入院していた病棟とか

いつも病室に行くために使っていたエレベーターとか

最後の霊安室とか思い出しました

父に会えるような気がした

病院食が美味しくないって

お酒が飲みたいって

検査の為に絶食したまま

何も食べていない状態で死んじゃった





私も父もまさか死ぬなんて思わずに。。。

人間、必ず訪れる死ですが

最後なんて分からないものだなぁと思った





家族の医療事故死や子供の不登校

そして10年経っても終わらない、この大叔父の調査

しなくても良い人生経験だけ豊富なのは

気のせいだろうか?

これらは何のための人生の勉強なんだろう???

自分が招いている部分もあるとは思うが

すごい人生だなと思う時がある

神様は私に何を求めているんだろう?

でも常にポジティブなのは強いんじゃなくて

単にバカなんだと思います・笑





私もこのまま帰らなかったらどうなるんだろうと

色々と考えた入院でした

インパール作戦で大叔父ほか

帰らぬ人となった人達は

復員した人と何が違ったのだろうか?

これも運なんだろうかね?





私自身は患者として悪い印象は無かったですけど

やはり大きな病院は設備は良くとも

縦割りと言うか、冷たい感じがします

思い入れのある病院だけど

少し苦手と言う不思議な感情でした





大叔父のお墓が建てられた年

同じく大叔父の叔父(僧侶でキーマンの1人)が

亡くなった年に産まれた私が

今、ここでこうしてこの病院に居る

う~ん、なんだかなぁ。。。





陸軍病院の面影は石碑くらいで

他は全くないけど

ボロい部分もあるので

旧軍さんがウロウロしていないかと

ちょっとだけ怖いそう言うのは無理ですっっ





夜中に暗がりでPCを打ってたら

看護師さんがカーテンから覗いて

ビクッと何度もしました

個室だから気にしなくていいですよって

あ…はい、いや、ちょっと違う意味で…

かなりビビっていたようです私w





ブログ用の資料を入院荷物に忍ばせて

病室で広げていた

旧軍さんのウロウロが気が付いて

「インパールのこと教えてあげようか?」

とか言わないかドキドキした(笑)





てか、この第16師団の陸軍病院に

入っていた入院患者さんて

インパール作戦とかよりも

もっと前に負傷した人よね?

さすがに戦争末期には

大陸から内地への病院船って難しいものね

インパール作戦の負傷者や病気の人は

さすがにここには居なかったでしょ?ね?





ここまで運ばれてたら奇跡だよね

そして、ここは戦場にもなってないし

と、一生懸命に自分に言い聞かせて

ちょっとだけホッとしたりしてw

大叔父にはイタコさんを通じてでも会いたいと思うけど

スミマセン、その他の方は遠慮したい





たぶん、夜中の病院とか学校とか

なんとなく怖いの類ですね

何の根拠も無いし、そんな体験も無いのですけどね

まあ、もうすぐ退院なので、お家に帰れる~☆

洗濯物の山が「おかえり」と出迎えてくれそうな予感

ボチボチと日常に戻って

ブログもしばらくしたら再開しますね

(って、どんなまとめ方なんだ・笑)

こんな私のブログを

いつも読んでいただきありがとうございます



2019.2.28



※ブログランキングに参加してみました
大勢の方に読んでいただくことで
情報をいただけるよう
ご協力をお願いしますm(_ _)m
ポチッとな☆↓↓

人気ブログランキング

本日はお休みさせていただきます・2

読者の皆様へ



いつも読んでいただきありがとうございます

大した高さの熱ではないものの

まだ下がらず。。。

抗生剤と痛み止めの投与をしていても

熱が出ているので

どうしようもないらしい、、、





これくらいっっ!

インパール作戦の兵隊さんと比べたら

私の痛いなんてのも絶食も何のその

でもまぁ、今少し大人しくしておきます

本日、入院から1週間

予定通りであれば、もうすぐ退院のはず

退院までは本格的には更新できないかも。。。

人気ブログランキング

本日はお休みさせていただきます

読者の皆様へ



いつも読んでいただきありがとうございます

おかげ様で術後の経過は順調のようですが

熱が出ているので少し大人しくしておきますね

ポチッとだけお願いします☆↓↓

人気ブログランキング

ミャンマーに思いを寄せて 2075

【歩兵60連隊の機関誌「輝」より】

機関誌を読んでいて目についたのは

平成の時代になってもまだ

肉親を捜す家族からの問い合わせだった






伊藤圭一氏の”遥かなインパール”が

発行されたことで

歩兵60連隊の詳細が世間に出て

末尾に載せられていた関係戦友会等を頼って

家族の方が戦争で亡くなった身内らついて

多くの問い合わせが来たようだ





その中には、60連隊でない人もあったようだ

ビルマ・インパールと言う繋がりだけで

おじいさん達はその戦友さんを探す

60連隊で無い場合は

最寄りの部隊の戦友会を紹介したり

中隊単位で生存者に当たったりと

手を尽くしておられる様子だった





次第に、個人での活動ではなくなり

機関誌にお尋ねコーナーが出来て

問い合わせに対応されている





そして、詳細が判明した件がいつもあって

ご家族からは大変感謝されていた

そりゃ嬉しかったことでしょうね





でもこれって平成8年からの機関誌で

その頃でもまだ身内の詳細が

分からない人がたくさん居たのだと知った

私なんかは平成後期の時期に

会ったこともない大叔父を探し始めたけど

戦争が終わってから

ずっと探しておられたなんて。。。

ご家族の気持ちを考えると

私の調査なんて屁の河童だわと思った



続く…



※ブログランキングに参加してみました
大勢の方に読んでいただくことで
情報をいただけるよう
ご協力をお願いしますm(_ _)m
ポチッとな☆↓↓

人気ブログランキング

ミャンマーに思いを寄せて 2074

おかげ様で無事に手術が終わりました~

昨日はさすがに麻酔で、もうろうとしていましたが

傷口の痛みも少なく元気です

でもまだ”お粥”

スリムになって一石二鳥と言う人も居ますが。。。

退院は1週間~10日とのことで未定です





気になるのはミャンマーブログで

インターネットのランケーブルを見つけたので

PCを持ってきてもらったら

インターネットに繋がった~ヤッター☆

さあて、家事もせず、のんびりと療養しちゃおうかな





ここより久々の本文です↓↓わーい

【歩兵60連隊の機関誌「輝」より】

鈴田大佐の名前を探して

昔の機関誌を読み直してみる

現在(2019年・お正月)では

戦友さんは1人しか参加されていない

歩兵60連隊の戦友会だけど

機関誌の中では、おじいさん達が

初老でお元気に活発に活動されていた時代の

様子が活き活きと溢れていた





各大隊や中隊単位で

慰霊碑の清掃分担が決められていて

慰霊碑に行けばみんなに会える

亡くなった戦友にも

生きて帰ってきた戦友にも

いつしか慰霊碑はおじいさん達の

憩いの場となり、心の支えになっていた





戦友が時と共に少なくなっていくのは

しかたのないことで

中には訃報も度々載せられていた

慰霊碑を守って行かなければと

おじいさん達の思いは募る



続く…



※ブログランキングに参加してみました
大勢の方に読んでいただくことで
情報をいただけるよう
ご協力をお願いしますm(_ _)m
ポチッとな☆↓↓

人気ブログランキング

おはようございます

読者の皆様へ


いつも読んでいただきありがとうございます

昨日から入院し、本日これから手術です

なんだか落ち着かない気分





お部屋はとても良くて、PCも大丈夫そう

持ってくれば良かったかな、残念

メカ音痴のため、スマホからの更新は

上手く行くかな?とドキドキです





資料や本を持ってきたので

出来るだけ更新したいと思いますが

術後の経過はどうなりますやら?

DSC_0790




そろそろオペ室に向かいます

ポチッとボタンもまた後ほど~♪


人気ブログランキング






ミャンマーに思いを寄せて 2073

【歩兵60連隊の機関誌「輝」より】

私が60連隊のことを最初に勉強した本は

伊藤圭一氏の「遥かなインパール」だった
51yOOLbNBuL[1]












伊藤圭一氏は60連隊の人ではないけれど

60連隊が中支を出た後に

交代で入った部隊の人だった





その後、見送った部隊が

インパール作戦で苦しんだことを知り

60連隊の戦友会を訪ねて

証言を集めて書かれた本がこの本だった





伊藤圭一氏は、直木賞作家で

様々な賞を受けられた大先生だったけど

そのご縁から60連隊の戦友会には

特別参加されていたようで

機関誌には戦争小説の寄稿文が連載されていた





機関誌で鈴田大佐の情報を得ようと

隅々まで読んでいくうちに

伊藤圭一氏の小説に魅了され

次号を次々に読んでしまった

かなりお得感があるように思いました





そして、直木賞作家だからと言う感じで無くて

尊敬する戦友の1人と言った雰囲気で

とても馴染んでおられるように感じた





「遥かなインパール」は平成5年(1993年)に発表

最後の作品は平成19年(2007年)くらい

私がたどり着いたのは平成22年(2010年)

伊藤圭一氏にコンタクトを取りたくて

出版社に問い合わせをしたが

既に連絡が取れない状況だと言われて

あ~、他界されたんだと諦めた





しかし、後の調べで平成28年(2016年)

99才までご存命だったと知る

もう少し踏み込んだ調査をしていたら

伊藤圭一氏にお会いできたかもしれなかったと

これまた残念でならない

まあ、お話を伺ったとしても

大叔父をご存知ではないだろうけどね。。。




続く…




※ブログランキングに参加してみました
大勢の方に読んでいただくことで、情報をいただけるよう
ご協力をお願いしますm(_ _)m
ポチッとな☆↓↓

人気ブログランキング

ミャンマーに思いを寄せて 2072

少し機関誌の記事を紹介しますね

最初の慰霊祭は昭和23年5月

復員から2年後だ

200円の会費でお茶とお菓子を持ち寄り

40から50名くらいが集まった





それから出席者が増え

各大隊や中隊単位での戦友会が主となる

昭和42年の慰霊碑建設に伴い

60会と言う連隊でまとまった戦友会が出来た





それから、機関誌第一号の平成8年には

インパール作戦時の連隊長の松村大佐や

次の連隊長の北部大佐は他界されている

ある人は、お家に祭壇を設け

松村大佐と北部大佐をお祀りし

何事か迷った際には話しかけている

と書かれていた





ちなみに、全部に目を通したが

最後の連隊長らしい鈴田大佐の名前は

1つも出て来なかった




続く…




※ブログランキングに参加してみました
大勢の方に読んでいただくことで、情報をいただけるよう
ご協力をお願いしますm(_ _)m
ポチッとな☆↓↓

人気ブログランキング

ミャンマーに思いを寄せて 2071

60連隊の戦友会の機関誌「輝」

私が持っているのは平成8年1月発行の

第一号~平成14年7月発行の14号まで





平成8年が最初の発行なんだぁ。。。

慰霊碑が建ったのは

昭和42年だから

それからもずいぶんと経ってからなのね





第一号の発行の時点でも

戦友会は既に高齢化していた

だからこそとでも言おうか

60連隊発行の部隊史「二つの河の戦い」が

発行された昭和44年の時には

話せなかったことを「今だから」と

この機関誌に載せておられる方も居た





苦楽を共にした者同士にしか

分からない共通の思い出を懐かしみ

戦友に会って語り合いたい

遠くに居て・体調が優れず…等の事情があっても

戦友と寄り添いたいと言う思いが

紙面から溢れている





私が全ビルマ会や歩兵60連隊の戦友会に

たどり着いたのは平成後期である

私が接した頃の戦友さんは

お元気であっても、かなりのご高齢で

遺族の世代がお世話をしなければ

何も出来ないような雰囲気だった

戦友会としてはほぼ遺族会に

移行している時期だった





この機関誌では、おじいさん方はまだまだ初老の頃

積極的に戦友会で活動されていて

輝いているおじいさん達を感じることが出来た

この時代に私も参加出来ていれば

大叔父をご存知の方に

巡り合えたかもしれないと思うと残念でならない



続く…




※ブログランキングに参加してみました
大勢の方に読んでいただくことで、情報をいただけるよう
ご協力をお願いしますm(_ _)m
ポチッとな☆↓↓

人気ブログランキング

ミャンマーに思いを寄せて 2070

RIMG0136






60連隊の千歳碑(慰霊碑)はとても大きくて

立派な石で出来ている

※写真は数年前の物

岡山県産の白みかげ石で

縦1.5m、横2.8m、重さ3.5t

遥かインパール方面に向いており

上面の凸凹は、アラカンの山脈を形どっていて

前面の小石は海を現わしているそうです





た副碑はインパール作戦当時の

連隊長である松村大佐が草稿されたもの

福島県産黒みかげ石で

縦横66cm、重さは600Kgあると言われています

昭和42年1月インパール地区に行った

慰霊団が持ち帰った現地の石が安置されている





慰霊碑の建設は昭和42年4月29日の

ことであった

ちなみに中野学校の慰霊碑は

60連隊の慰霊碑の近くにあります

そちらは昭和56年4月11日に建てられています



続く…



※ブログランキングに参加してみました
大勢の方に読んでいただくことで、情報をいただけるよう
ご協力をお願いしますm(_ _)m
ポチッとな☆↓↓

人気ブログランキング

ミャンマーに思いを寄せて 2069

やっと本文ですね、久々に書きましたw



某有名下着メーカーの社長さんが

60連隊の所属だったことから

60連隊の戦友会は

その方が多くの寄付をされて

大変裕福な戦友会だった





一説によると霊山観音の建設にも

その社長さんが

一役かっておられたとのことで

60連隊の場所は霊園の一等地(?)で

場所も広いとのこと

…言われてみればそうだなと思う





戦友会が全盛期の頃には

年間に数回も機関誌が発行されていて

それもカラーでとても立派な

パンフレットのようである

…現在は、白黒印刷の紙になっています
IMG_20190214_162251












私は幸運にもこの昔の機関誌を譲り受け

調査当初にいただいた時に読んだけど

この度、再び読み直してみた

付箋紙がいっぱいでしょw

以前に読んだ時とは

調査も進み、仮説も出てきて

私の知識量も増えて、状況が全く違う





単に大叔父の名前探しだけでなく

視点が違うと

全く違う読み物のように感じてビックリ

以前は関心の無かった事柄から

新たに得る情報がたくさんあった

これはなかなか素晴らしい資料ですよ





私は本を何度と読み返すことが多い

参考書のように使っているからだ

ただ関心の無い部分には

サラリと目を通す程度の場合も多々あるので

今一度、きちんと読み返さなければ

いけないかなぁと思ったのでした




続く…




※ブログランキングに参加してみました
大勢の方に読んでいただくことで、
情報をいただけるよう
ご協力をお願いしますm(_ _)m
ポチッとな☆↓↓

人気ブログランキング

合格しました☆

読者の皆様へ


いつも読んでいただきありがとうございます

今日はバレンタイデーですね

日頃の感謝を込めて画像だけ

(画像だけでごめんなさ~い)
mig[1]












ここ数日、ブログをサボりまくってスミマセン

3連休に子供は受験でした

不登校でしたので、一般の学校は受験資格が無く

とっても困っていたのですが

訳ありを相談して

受けさせていただけるところを探しました





そして、どうにかこうにか合格しました~

受験校と塾の先生と、京都の学校の先生に感謝です

受験~発表まで、ブログどころか、、、

ソワソワと何もかも手に付かない状態でした

ホッとして、やっと落ち着きそうです





その分、お仕事と調査と、、、山盛り

そして再来週から入院+手術となってしまいました

数年間の戦いは、子供の心と経歴だけでなく

私の心&体にも影を落としています

元気ではあるのですが色々とボロボロで、、、(TT)





でも入院中はヒマでしょうから(たぶん)

読書とブログに専念できるかも

滅多に無いことなので

のんびりと療養したいと思います楽しみ☆





子供が先日「お母さんが死んだら困るから

ミャンマーの調査は分かりやすいように

まとめておいてね」と言いました

ん???もしかして、この調査を継ぐつもりなの?

えっ?ビックリ

いやいや、私の代で完結したいです

お気持ちだけ、ありがとうw





そんな訳で、サボりの言い訳をしましたが

何とか続けて行きますね

人生、山あり谷あり

良い方向に向かいますように

いつも読んでいただきありがとうございます



2019.2.14



※ブログランキングに参加してみました
大勢の方に読んでいただくことで、
情報をいただけるよう
ご協力をお願いしますm(_ _)m
ポチッとな☆↓↓

人気ブログランキング

ミャンマーに思いを寄せて 2068

歩兵60連隊の戦友会は

終戦後の少し社会が落ち着いたころから

始まったそうである

最初は、人数が多かったので

各中隊レベルでお菓子などを持ち寄り

茶話会のような集まりだった





ようやくビルマとの国交が復活し

世の中が高度経済成長で沸く中

復員した方々達も社会である程度の地位となり

本格的な戦友の慰霊をと

”千歳碑”(60連隊の慰霊碑)の

建設計画が持ち上がった
DSC_0149




↑昭和42年4月29日建立





これをきっかけに

各中隊レベルではなく

連隊としてまとまっての慰霊祭が

行われるようになった





その頃には、もう鈴田大佐の影は無い

中隊レベルでの集まりの時代には

もしかしたら参加されていたかもしれないが

と言われていた会長さん





中隊レベルだとすると

連隊長の参加は中隊本部か

将校のみの集いくらいだろうか?

今となっては鈴田大佐のことを

知っている人は誰も居ない





松村連隊長や北部連隊長は

既に他界されていて

現在の戦友会には

ご家族が入っておられるが

鈴田と言う名前はなかった



続く…



※ブログランキングに参加してみました
大勢の方に読んでいただくことで、
情報をいただけるよう
ご協力をお願いしますm(_ _)m
ポチッとな☆↓↓

人気ブログランキング

ミャンマーに思いを寄せて 2067

歩兵60連隊の戦友会には

名簿が2種類あった

戦没者名簿と

復員した人の名簿である





復員した人の名簿の存在を

私は初めて知った

会長さんがお持ちのその名簿の中には

確かに鈴田大佐の名前があった

会長さん他がその名前を確認しても

「えっ?誰???」と驚いておられる





その中には、インパール作戦時の連隊長の

松村大佐や北部大佐の名前もあった

復員者の名簿と言っても

復員時の所属では無い人も含まれている名簿

インパール作戦時~終戦の期間の

名簿と言った感じであった





やっぱ鈴田大佐って実在したのよね?と

私は思ったのだが

もう少しだけ調べてみたのでした



続く…



※ブログランキングに参加してみました
大勢の方に読んでいただくことで、
情報をいただけるよう
ご協力をお願いしますm(_ _)m
ポチッとな☆↓↓

人気ブログランキング

ミャンマーに思いを寄せて 2066

かなり激しい仮説ではあるが

私がなぜ調べたいと思ったかと言うと

ちょっぴり失礼だけど

歩兵第60連隊は

何がとは言えないけど

ずっと何か変だと心片隅で思っていた

この仮説を当てはめると

なんとなくそれが納得いくような気がした





ちょうど、60連隊の戦友会(遺族会)の

会長さんにお会いする機会があったので

鈴田大佐のことを聞いてみた

すると、、、驚くことに会長さんさえも

”最後の連隊長”の鈴田大佐の存在を

全くご存知なかったのである





とても驚いておられるように見えた

周りに居た戦友会の人にも聞いておられたけど

みんな???のようでした

えっ?誰も知らないの???なんで





会長さんは戦争でお父様を亡くされた戦争遺児

お父様が出兵されてから

産まれたので(だったと思う)

お父様のことは全く記憶にないそうです





幼い頃から戦友会には

顔を出しておられるようだが

鈴田大佐を全く知らないと言う

「昔々に会に来られていたなら分からないけど…」

と言われた



続く…



※ブログランキングに参加してみました
大勢の方に読んでいただくことで、
情報をいただけるよう
ご協力をお願いしますm(_ _)m
ポチッとな☆↓↓

人気ブログランキング

ミャンマーに思いを寄せて 2065

鈴田大佐がほんとうは北部大佐だったら…

すごい仮説が飛び出した





終戦間際に兵籍の詐称の

命令を出していた光機関

この時点で北部大佐も鈴田大佐を

作り上げたのかなぁと私は考えた





復員船の中で、光機関関係者の

階級の高い将校が階級を変えて

低い階級で船に乗り込んでいた

と言う話は何度も読んだことがある

連合軍からの追及から逃れるための

なりすまし工作である





北部大佐も階級はそのままだけど

鈴田大佐と言う人物になりすました

可能性は無いとは言えない





ただ、鈴田大佐の名前が出ていたのは

昭和19年4月の時点である

じゃあやっぱ実在の人物と言えるよね?

と私はあっさりと結論を出した





しかし北部大佐は歩兵連隊を出てから

特務活動は約12年

中野学校の教官もされていて

言わば特務活動のプロである





特務活動を行っていた者の中には

戸籍を失くしたり(消した)

偽名を使ったり

偽パスポートを作ったり

現地人になりすましてみたり

違う階級で活動したりすることは

常套手段であり

終戦の戦犯うんぬんとは関係なしに

北部大佐が昔から鈴田を名乗っていた

可能性は無きにしもあらず





う~ん、少し調べてみる?

でもきっと、これっていつもの「寄り道」だよね

わかっちゃいるけど止められない(笑)



続く…



※ブログランキングに参加してみました
大勢の方に読んでいただくことで、
情報をいただけるよう
ご協力をお願いしますm(_ _)m
ポチッとな☆↓↓

人気ブログランキング

ミャンマーに思いを寄せて 2064

でもね、でもね

鈴田大佐の名前は

どこかの本で見たような覚えが。。。





「陸軍部隊歴史 その他」

『33師団(弓)と印度国民軍第1師団主力

(第1、第4遊撃隊欠)

師団後方地区に集結

中西混成部隊 生存者 4/11

師団高級副官 鈴田 正忠 中佐 指揮』





これは鈴田大佐が実在の人物って

証拠だよね?

前後が無いのでよく分からない

調査を始めた当初に出くわした文章のため

詳細が分からないと言う失態

防衛研究所の資料閲覧室で見たのは確か

私が持っている本に載っていないかと

探したけど、持ってい無さそうxx





この文章の内容を見て行くと。。。たぶん

「弓師団(33師団)とインド国民軍の主力が

どこかの師団の後方に集結してた」

と次の文章が繋がりがあるのか分からないけど

「4月11日に中西さんと言う指揮官

が居る混成の部隊の生存者を

師団の高級副官である鈴田大佐が指揮を執った」

でいいのかな?





なんで師団の高級副官が

混成部隊の指揮を執ってたのかは

正直、よく分からない

ただ、鈴田大佐の個人テータと突き合わせると

昭和19年4月の時点では

確かに15師団の副官であった





高級副官って、あまり聞き慣れないのだけど

戦時にはそんなポストもあったのかなぁ

最終の第15師団の編制には

高級副官は居なかったようだけど。。。

でもやっぱ鈴田大佐は実在したのよね?

(と自分に言い聞かせてみるw)



続く…



※ブログランキングに参加してみました
大勢の方に読んでいただくことで、
情報をいただけるよう
ご協力をお願いしますm(_ _)m
ポチッとな☆↓↓

人気ブログランキング

勉強しなくちゃ

読者の皆様へ


いつも読んでいただきありがとうございます

ここ数日、ブログをサボってしまいました

ライターのお仕事の原稿締め切りと

展示会の準備など何かと予定がいっぱい





この調査のための勉強にも時間を費やす日々

私的なブログですけど

あまりにも思い込みで書くわけにも行かず

一応、その時の背景とかはチョチョっと調べるのです





只今の本文は鈴田大佐について

私の勝手な仮説を展開しています

その時、私の知識の範囲で

そう思ったのはほんとうのことで

それを書いているのですが

ブログに書く時にはもう少しだけでも

調べてから書かなくちゃと思うのでした





普段もそんな感じで

一応、時系列なんですけど

新たに調べたことも盛り込みながら

進めていくようにしています





今回は、意外と調べることが多くて

調べていると他の事柄にも目が移り

あ~、これも読みたい・あれも読みたいと

読書の虫と化しています

また、その関連文章が

どの本に載っていたのか思い出して

昔々に読んだ本を引きずり出して

また読み直すような作業を繰り返しています





今までは、大叔父だけを探していたので

大叔父が生きていた昭和19年の7月までと

60連隊においては第1大隊を中心に

本を読んでいたのですが

今回は連隊長の話なので

師団関係の本とか

もっと範囲を大きくして調べていて

読んでいなかった文章にも触れて

とっても勉強になっています





その中で、またまた新たな情報に気付いて

うわぁ~とか思っていますが

またいつかの本文で書きたいと思います

総じて、今現在の印象は。。。

やっぱ60連隊って色々とてんこ盛りです





今回の記事は、どう着地点を決めようか

まだ決まっていませんが

頑張ってまとめてみますね

いつも読んでいただきありがとうございます



2019.2.5



※ブログランキングに参加してみました
大勢の方に読んでいただくことで、
情報をいただけるよう
ご協力をお願いしますm(_ _)m
ポチッとな☆↓↓

人気ブログランキング

ミャンマーに思いを寄せて 2063

なんだか考えれば考えるほど

そう思えてきてならない

「鈴田大佐の個人データを見てみろ」と

協力者は言う





昇任年月日は中尉から少佐までは

分からなくて、出身地も入っていない、、、

最初の配属先は九州の歩兵連隊だけど

それ以降は、また日付が抜けていたり

もちろん60連隊長の発令日も分からない

「勲等」って欄には何も無い

この方は大佐だよね、、、





これは正式な、お役所とかのデータではなくて

簡易な経歴データなんだけど

北部大佐のデータと比べると

えーっと、失礼ながら何ともあのその、、、

大佐になっているような人でも

こんなに分からない人っているんだね

鈴田大佐の経歴書を

改めて見てみると

う~ん、なんだかなぁ。。。と思うのでした




続く…




※ブログランキングに参加してみました
大勢の方に読んでいただくことで、
情報をいただけるよう
ご協力をお願いしますm(_ _)m
ポチッとな☆↓↓

人気ブログランキング

ミャンマーに思いを寄せて 2062

スミマセン、本日はお出かけしていたので

今頃の更新となりました



北部大佐=鈴田大佐と仮定して。。。

北部大佐は中野学校の教官もされていて

経歴は歩兵連隊以降は

ずっと特務活動をしている

そして光機関では岩畔機関時代から

岩畔機関長の同期として

ビルマ支部長、軍事部長、インド部長等を

兼務していて

実質のNo2だったと言われていた





まだ敗戦ではないけど

劣勢であることは分かる

もしもの時に連合軍から

戦犯に問われるようなことを

絶対にしていないと

本人は思っていたとしても

特務機関員だったと聞くだけで怪しい存在

しかもインド国民軍まで作り上げた

光機関員ともなると

連合軍の執拗な追跡は想像がつく





その証拠に、光機関では

終戦時に兵籍の改ざん(詐称)が

下士官兵に至るまで命令で出ている

その命令は、光機関在籍中の期間を

「入院」とし、最寄りの連隊に行き

復帰したように見せかけるものだった





何も悪いことはしていなくとも

仮にしょっぴかれて、でっち上げられたら

生きて帰れる保証はない

下士官兵にまで戦犯の容疑を心配して

配慮していた光機関

では、その上司たちは

自分の身を守ることを何もしなかったか?

きっとそんなことは無いだろう。。。



続く…



※ブログランキングに参加してみました
大勢の方に読んでいただくことで、
情報をいただけるよう
ご協力をお願いしますm(_ _)m
ポチッとな☆↓↓

人気ブログランキング
記事検索
プロフィール

aya_sann

カテゴリ別アーカイブ
タグクラウド
QRコード
QRコード
  • ライブドアブログ