~主計さんの資料の中の
「陸軍経理部よもやまばなし 続編」より~



中野学校の創設や組織についても

詳しく書かれていたが

一般的なことなのでこのブログでは省略





教育内容についても教育科目や

その教官の名前等が詳しく書かれていた

その中での特記は

赤羽工兵隊での爆破演習や

平塚火工廠及び太田市中島飛行機工場に対する

総合演習くらいだろうか

その詳細は書かれていなかったが

どんなのかちょっぴり興味あり(笑)





生活面では

軍服を背広に着替え

軍服を着るには反対に許可が必要だった

背広は輸出用の物を買うように指導された

そして髪の毛を伸ばした





「乙」種の学生は営舎外から通学し

この方は下宿先を5回も変更したそうだ

当時、若者はほとんど徴集され

若い独身男性は隣組防空演習等の

真夜中の当番を割り当てられることや

下宿先での女難を避けるためでも

あったそうである





。。。下宿を5回も変えたんだぁ

この二乙の教育が昭和何年の話かは

あんまり私には分からないのだけど

大叔父は昭和18年の1月に

「下宿先が見つからない」と手紙に書いている

勤務先は品川(大森)の旭機械工業

品川近辺には無くて

中野近郊は田舎だったから(失礼)

下宿先がたくさんあった?





勤務先が先に決まっていて

下宿を探したのかどうかは分からないが

下宿先が見つからないので

東京・中野の姉の家に身を寄せた

だが配給が受けられないと

手紙には書かれている。。。





まだ空襲も激しくなかった東京

下宿先も決まらない状態で

なんで急いで東京に行ったのか?

全く分からないので困っちゃう

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