風に吹かれて

人生、夕方近くになって、ロードバイクに目覚めました。 体重、血圧、成人病の因子が減り、健康な生活を取り戻したことはもちろん、風を切り、よい景色に触れ、仲間と酒を交わすことで、ものごとをのんびり、ゆっくり見る余裕が生まれてきたようです。

プロ家庭教師の直接指導が、リーズナブルに受けられる!

DEMO0304WB









画面をクリックすれば、拡大画像が見られます。
詳しくは→ここ


西鉄福岡市内線電停跡(吉塚駅前)

12西鉄福岡市内線では最も早い昭和48(1973)年1月5日に廃止された千代町〜吉塚駅前を走る吉塚線は、明治45(1912)年に千代町〜三角(馬出1丁目交差点付近)で開業したが、その吉塚駅前電停はJR吉塚駅前にあったようだ・・・昭和19(1944)年)12月3日に吉塚駅前〜三角は休止となったが、築港線として博多港まで石炭などを運ぶ貨物扱いは継続され、(昭和34(1959)年3月3日 吉塚駅前〜三角は先に廃止となったようだ。

34かつての筑豊炭田から国鉄で吉塚駅まで運ばれた石炭は、吉塚線〜循環線と重複した貨物専用の築港線で、博多港に運ばれたらしい・・・「吉塚」は天正14(1586)年に後の柳川藩主の立花宗茂に攻められ、高鳥居城で討ち死にした筑後の豪族の星野氏の星野鎮胤と星野鎮元の兄弟を祀る吉塚地蔵尊に因んだ地名だそうだ。

56今朝は吉塚〜室見河畔を一走り・・・本日の鼻歌:吉塚音頭

本日の走行距離:26辧ΑΑΑ崟里瞭よけと言えば?」「【葭箕(葦箕)か】。」







ヒマワリ畑と南米列車

12連日の酷暑に南米朝練に集まった還暦ジャ−ジの爺達は、70超の竹藪先生とよいむたさんがA練で峠に向かうのに、G練で平地まったりを決め込むが、松原の中村屋でA練と合流したので、Nagi師匠に小富士辺りのヒマワリ畑と南米列車の写真を撮ることを提案する・・・「10名くらいいれば、それなりに絵になる」と言って先行して待っていると、Nagi師匠の人徳の御陰か、30人ほど全員が列を組んで、先頭はNagi師匠とミカさん、次いでアビさん(?)がやって来る。

34先々週に夏練コ-スを走った時はしゃんとしていたヒマワリも、連日の酷暑でぐったりしているのが残念・・・続いて技師Eさん・boseさん・名人2さん・momoさん(?)ら、さらにYさんら、最後にkiriさん・MTさん夫妻らと続き、よいむたさんの提案で集合写真も撮影。

56ツール・ド・フランスはもうアルプスの山岳ステ−ジ(スカイのアシストの機関車ト−マスがマイヨジョ−ヌ)に入ったが、前半の平坦ステ−ジでは、スプリント合戦と並んで、集団がヒマワリ畑の前を横切るシーンが見所だ・・・自分は松原に巡回していつものコ−スに戻るつもりだったが、Nagi師匠が「石畳を彷彿とさせるから」と、加布羅から東に延びる悪路を経て、杉能舎に向かう。

78今朝は金武での朝補習の後、G練で糸島半島を反時計周り・・・本日の鼻歌:ひまわりの約束(秦基博)

本日の走行距離:72km・・・「火の用心! カチカチ」「【火廻り】当番だね。」

万葉歌碑(神功皇后御立石 

12唐津市浜玉町南山にある玉島神社の前にある神功皇后御立石の傍に万葉歌碑(巻5-869)がある・・・神功皇后が鮎を釣るため上にあがった石で、釣針を垂れて新羅出兵の神意を伺う占いをして竿をあげると鮎がかかり、皇后は「戦勝間違いなし、希見(めずら)しい魚だ」と言ったので、そこを名づけて「梅豆羅(めずら)の国」と言ったが、なまって「松浦」になったという。

34多良志比賣 尾能美許等能 奈都良須等 美多々志世利斯 伊志遠多礼美吉 [一云 阿由都流等](山上憶良)・・・足姫(たらしひめ) 神の命(みこと)の 魚釣らすと み立たしせりし 石を誰れ見き [一云 鮎釣ると] ・・・帯日売の命<神功皇后>が、鮎をお釣りになろうとお立ちになった石を、誰が見たのでしょう。

56昨夜は飯倉と西新の仕事の合間に、しばらくで煮卵ラーメン、今朝は浜崎(祇園山囃子)まで往復・・・本日の鼻歌: 釣りに行こう(THE BOOM)

本日の走行距離:92km・・・「【巫女との】合コン何時だっけ?」「神主にバレて流れたって。」

西鉄福岡市内線電停跡(妙見)

12西鉄福岡市内線では最も早い昭和48(1973)年1月5日に廃止された千代町〜吉塚駅前を走る吉塚線は、明治45(1912)年に千代町〜三角(馬出1丁目交差点付近)で開業したが、その妙見電停は、妙見交差点にあったようだ・・・路面電車沿線の都市中心部の人口が減少し、郊外の人口が増加するドーナツ化現象などの影響により路面電車の利用者が減少、また昭和38(1963)年から路面電車路線の自動車軌道敷内通行が解禁されたことにより定時性の低下という問題が発生し、走行速度は平均2割落ち、自転車にさえ追い抜かれる状態となっていたそうだ。

34妙見とは北極星=こぐま座α星の仏教語で北辰妙見とも呼ばれ、妙見菩薩は国土を守り貧窮を救う神で、北極星としてこの世に現れるという・・・仏像や絵画には北極星をめぐる北斗七星が背景として加えられるために,しばしば妙見と北斗が混同され、北斗は天帝を守る剣であるという伝説から、妙見は武運を守ると信じられ、平将門・加藤清正など武将はこれを守り神としたらしい。

56昨夜は西新で仕事、今朝は妙見〜室見河畔を一走り・・・本日の鼻歌:妙見山(ヤマモトシンタロウとニイサン)

本日の走行距離:38辧ΑΑΑ峙都に【妙顕】寺という日蓮宗の寺があるね。」「秀吉が再建し、尾形光琳の顕彰碑があるらしいよ。」

西鉄福岡市内線電停跡(貝塚)

12昭和54(1979)年2月11日に循環線と同時に廃止された千鳥橋〜貝塚を走る西鉄路面電車の貝塚線の貝塚の電停は、九大の貝塚門のすぐ西側にあったようだ・・・昔は「競輪場前」という名前だったが、昭和37(1962)年に周長500mの競輪場(現貝塚公園)がなくなってから、宮地岳線と同じ「貝塚」と改称し、宮地岳線の貝塚駅への乗り換え駅でもあったが、津屋崎まで通っていた宮地岳線も、平成19(2007)年4月1日に西鉄新宮までに短縮され、名称も西鉄貝塚線となっている。

34貝塚車庫は、現在の貝塚線多々良車庫の一部で福岡市内線最後まで残った車庫で、末期は8線で、今は貝塚線ホームそばの社員の駐車場になっているようだ・・・現在の地下鉄貝塚駅のシンボルマークは福岡市出身のグラフィックデザイナー、西島伊三雄がデザインしたもので茶色の巻貝らしく、これは「貝」に因んだもので、中央の渦巻きは交通の結節点を表しているという。

56昨夜は長尾で仕事、今朝は貝塚まで往復・・・本日の鼻歌:貝塚市民の歌

本日の走行距離:44辧ΑΑΑ崑4次川中島の戦いで、武田信玄が拠点にした城、何だっけ?」「【海津か】、江戸期には松代城となって、真田信之が入ったらしいよ。」

西鉄福岡市内線電停跡(九大中門)

12昭和54(1979)年2月11日に循環線と同時に廃止された千鳥橋〜貝塚を走る西鉄路面電車の貝塚線の九大中門の電停は、西区元岡にほぼ移転する前の九大の理系と文系キャンパスの間にあったようだ・・・九大の箱崎キャンパスは、理系地区と文系地区に分かれており、理系キャンパスには旧大学本部や旧法文学部棟など倉田謙の手になる大正時代に建てられた古い建物がいくつか残っており、九州大学の赤本の表紙にある建物はこのキャンパスにある旧工学部本館でやはり倉田の設計で1930年(昭和5年)に竣工したものだそうだ。

34福岡空港16番滑走路に着陸する直前の飛行機が、お腹を見せながら真上を通過するこの地区の学生寮としては男子寮の松原寮、女子寮の貝塚寮がある・・・2019(平成31)年度に移転完了予定だが、旧工学部本館・旧本部第一庁舎・正門門衛所・正門については保存される計画となっているようだ。

56昨夜は百道浜と飯倉で仕事、今朝は箱崎まで往復・・・本日の鼻歌:見よ紺碧に(九大応援歌)

本日の走行距離:42辧ΑΑΑ屮┘鵐疋ャップが取れたけど、余りある?」「【なかもん】。」

ハスの花

12中央区の舞鶴公園の福岡城址のお濠にハスの花が咲いている・・・仏教では泥水の中から生じ清浄な美しい花を咲かせる姿が仏の智慧や慈悲の象徴とされ、様々に意匠されており、如来像の台座は蓮華をかたどった蓮華座であり、また厨子の扉の内側に蓮華の彫刻を施したりしている。

34主に寺院では仏前に「常花」(じょうか)と呼ばれる金色の木製の蓮華が置かれている一方で、仏教国チベットでは標高が高く生育しないため、想像でかかれたのかチベット仏教寺院では日本に比べ、かなり変形し、その絵はほんのり赤みがかった白い花として描かれている。・・・また死後に極楽浄土に往生し、同じ蓮花の上に生まれ変わって身を託すという思想があり、「一蓮托生」という言葉の語源になっている。

56ワ−ルドカップ疲れというのか、昨日はよく寝て、今朝は橋本〜高崎〜小戸〜舞鶴公園〜室見河畔を一走り・・・本日の鼻歌:蓮の花(サカナクション)

本日の走行距離:34km・・・「落車の原因は?」「前輪が前の後輪と【ハス】ったみたい。」

番外・飾り山(櫛田神社)

12山笠期間以外でも観光客に綺麗な飾り山笠を観賞してもらおうと一年中公開されている、山笠の舞台となる博多総鎮守・櫛田神社の境内に建つ飾り山の表は、人形師:川修一による「日本武尊征熊襲(やまとたけるのみことくまそをうつ)」で、景行天皇の皇子である小碓尊(おうすのみこと)は、父の命を受けて朝廷に従わない西方の豪族である熊襲(くまそ)(現熊本県人吉市周辺から現鹿児島県霧島市周辺)の魁輸(ひとこのかみ)(首長の意)・川上梟師(かわかみのたける)の征討に向かいました。 その時、小碓尊は「わたしは弓を射るのが上手い人を得て、一緒に行きたいと思っている。どこかに弓を射るのが上手い人はいないものか。」と言いました。するとある人が、「美濃国(現岐阜県南部)に弓を射るのが上手い人がいます。その人の名を弟彦公(おとひこのきみ)と言います。」と答えました。小碓尊に呼び寄せられた弟彦公は小碓尊に従い、共に熊襲に向かいました。 小碓尊は叔母の倭姫命(やまとひめのみこと)から借りた衣装で女装し、川上梟師の屋敷へ潜入しました。屋敷で行われる宴の席で、女装した小碓尊を気に入った川上梟師は、小碓尊を傍らに呼び、酒の相手をさせました。川上梟師の酔いがまわったところで小碓尊は懐から剣を取り出し、川上梟師の胸を突き刺しました。しかし川上梟師は息絶えることなく、どうか話を聞いてほしいと懇願しました。 川上梟師は「わたしはこの国で一番強かったので川上梟師(タケルは勇猛な者の意)と呼ばれたが、あなたほど強い人は初めてです。どうかこれからは日本武尊(やまとたけるのみこと)と御名乗り下さい。」と言いました。 これを承知した小碓尊は川上梟師を討ち取り、熊襲征討を終えました。 この飾り山笠は日本武尊の名前の由来となる熊襲征討の一場面です。

34見送りは人形師:室井聖太郎による「如水九州平定功(じょすいきゅうしゅうへいていのいさおし)」で、天下統一を成し遂げた豊臣秀吉の没後、徳川家康率いる東軍と石田三成率いる西軍に天下が分かれ、美濃国の関ヶ原にて両軍が激突します。慶長5年(1600年)9月9日、黒田如水は中津城より九州の西軍に組する諸大名の征伐に向かいました。しかしながら黒田家の主力は当主の長政とともに家康の元におり、如水には百騎程度の寡兵しかありませんでした。しかも九州には小早川、龍造寺、鍋島、立花、秋月、島津...などといった屈強な大名等がひしめいており戦いは困難かと思われました。 それでも如水は出陣し、歴戦の手腕を遺憾無く発揮します。城攻めでは籠城している敵に討ち死にの覚悟を感じると矛を交えず周辺の支城を落とし、再び城を包囲し降伏させるなど勝利を重ねます。知略はもとより如水の節義の篤さは天下に轟いており、かの猛将、立花宗茂も如水相手ならと軍門に降るなど、怒濤の快進撃で気づけば万を超える兵力となり九州を席巻しました。 日本一の軍師で戦上手でありながらむやみに血を流す争いを嫌い、常に戦乱終息の為に戦う如水らしい戦ぶりであります。 関ヶ原の戦いはわずか一日で決着し、その旨が伝わると如水の九州平定も終わりを迎えましたが、戦いが長引けば時の世も変わっていたのではないかと一説には言われています。この飾り山笠は、信長、秀吉に仕え天下一の知恵者と謳われた如水が優れた知略と驚い人望を駆使し、縦横無尽に九州平定を成す場面であります。

56昨夜はフランスの2度目の戴冠を見届けたが、今朝は大寝坊し櫛田神社〜大濠公園のみ・・・本日の鼻歌:祝いめでた(博多祇園山笠)

本日の走行距離:33・・・「焼津では草薙剣で【除草】して、火から逃れたらしいよ。」「ヤマトタケル伝説だね。」 






追い山

12今年の追い山は日曜朝で人出が多く、boseさんと連絡取り合うも会えずに、須崎問屋街の廻り止の30mほど北側で見物すると、夜が明けて最初に来たのが西流の舁き山は、人形師:西川直樹による「報文武秀小松君(ぶんぶしゅうなるこまつのきみにほうず)」で、平氏の棟梁平清盛の長男の平重盛は、博多においては宋国への使いとして博多の人を重用し、と同時に博多の町にも大きな恩恵を施し、その報恩として国の無形文化財に指定されている「博多松囃子」行事が始まったと伝えられ、今なお五月三、四日の「博多どんたく」の源流として博多の氏子によって奉仕されているという・・・間もなく来たのが千代流の舁き山は、人形師:川崎 修一による「藤花庸功千代芳(トウカヨウコウチヨニカンバシ)」で、軍師官兵衛そして愛する光姫との間にもうけた嫡子松寿丸(後の長政)のうち、子は信長の人質となり、父は土牢に幽閉されると云う最大の危機を脱し、戦国の世に毅然として未来を目指したが、ここ千代に眠る如水・長政父子の絆を表現しているらしい。

34大分間を置いてきたのが恵比寿流の舁き山は、人形師:亀田 均による「山呼萬歳聲(やまはよぶばんぜいのこえ)」で、漢の武帝が嵩山に上り国家の鎮護を祈ると、臣民一同が天子祝して歓喜の声をあげ、その声は全山にこだまして「万歳」ときこえたという故事のように、島津氏によって焼かれ廃墟となった博多の復興のため、秀吉公は太閤町割を行うと、当時の町人たちは大いに拍手喝采し、万歳の声が周囲に響いたらしく、秀吉は「博多町 幾千代までや つのるらん」と歌ったという・・・続いて来た土居流 の舁き山は、人形師:田中勇による「歌舞伎十八番 暫(カブキジュウハチバン シバラク)」で、初代市川團十郎が元禄十年(一六九七)正月江戸中村座で演じたのが初演といわれ、江戸中期から幕末までの一世紀あまり「暫」は顔見世狂言の序幕の中で年々趣向を変えて上演され。ウケと呼ばれる悪公卿に命じられ腹を出した赤っ面の家来たちが、善人方の男女を斬ろうとするところへ「しばらく」と声をかけて主人公鎌倉権五郎影政が登場する。

56続いて来た大黒流の舁き山は、人形師:西山陽一による「吾在倶 (ワレトモニアリ)」で、昨年七月に発生した「北部九州豪雨」で甚大な水害に見舞われた朝倉の復興への祈りを込め、秋月藩にゆかりのある地から、今私たちにできる人形を通じて、被害にあわれた方々へ前に進む原動力となってほしいという想いが込められているという・・・続いてやって来た東流の舁き山は、人形師:白水英章による「思君慈母成鬼神(きみをおもえばじぼもきしんとならん)」で、豊後・大友宗麟の一族で豊後鶴崎城城主・吉岡統増(むねます)の母は、夫は戦死しており、出家して「妙林尼」と称していたが、天正十四年(一五七六年)、島津勢と大友勢との戦いに息子の統増は精鋭を率いて参戦した為、残ったのは老兵・農民・女子供だけで、島津の分隊三千が鶴崎城を取り囲み、降伏との意見が多い中、妙林尼が指揮を取り二八〇丁の鉄砲と鳴子・落とし穴・馬矢来などを駆使して撃退すること十六回、手を焼いた島津勢からの和睦提案を受け入れたと見せかけ何度も酒宴を開くうちに、豊臣秀吉が九州攻めを開始したため、早朝に二日酔いで島津勢は撤退を開始、退路に伏兵を置き奇襲をかけ討ち取った武将の六十三首を大友宗麟に届け、報告を聞いた秀吉を驚愕させた人物だという。

78最後に遅れて来た中洲流 の舁き山は、人形師:溝口堂央による「開運七福神(かいうんしちふくじん)」で、福の神として信仰されている七福神の大黒天、毘沙門天、恵比須天、寿老人、福禄寿、弁財天、布袋尊が宝船にのって博多の町に福をもたらすという・・・7つの舁き山が廻り止を通過すると 、見物人はばらばらと捌け、石村萬盛堂の2階の掲示板で、今年の結果が西流:31分14 秒、千代流 :29分00 秒、恵比寿流:31分52 秒、土居流:30分43 秒、大黒流:29分26 秒、東流:29分17 秒、中洲流 :33分18 秒だったことを知り、千代流の一番と中洲流のビリを見た感じ通りだったと納得する。

910昨日は午後に一度寝、夜練を早退し二度寝、高速カウンタ−のベルギ−が最高位の3位になったのを見届け三度寝し、須崎まで往復した後、南米のエンジョイサイクリングに参加し、今津運動公園で昨日糸島峠の下りで危うかったブレ−キの調整を技師Eさんにして頂く・・・本日の鼻歌:博多っ子純情(チュ−リップ)

本日の走行距離:76km・・・「老人を捨てる姥捨て山ってあの山?」「【老い山】だね。」 
Archives
訪問者数
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

Profile

アヤベーダ

Recent Comments
livedoor 天気
記事検索