8d775bf5.jpgbc95e9da.jpg筑紫野市の天拝山の麓には「藤寺」の別名でも知られる古刹の武蔵寺(ぶそうじ)があり、境内から天拝山へ登る道の側に「紫藤の瀧」と呼ばれる小さな滝と御自作天満宮という社がある…「御自作天満宮」の名の由来は、神体が道真が刻んだという自身の等身大の木像座像「御自作天神」であることに由来し、武蔵寺縁起には、道真が武蔵寺参詣の折に自らが木像を刻んだことが記されているらしい。

7952e12c.jpg43a5dc7b.jpg天正14(1586)年の岩屋城の攻防戦で、武蔵寺も御自作天満宮も焼けてしまったが、御自作天神の顔だけは運び出され、元禄年間に福岡藩の武蔵領主の立花増弘が修復し、新しく社殿を建てて祀ったそうだ…天神坐像をみると、首の部分を境に質感が大きく異なっていることから、首から下の部分が新たに作り直された様子がよくわかるようだ。

f1ddc308.jpgc167a64f.jpg「紫藤の瀧」は道真が天拝山に登って無実を訴えるために、身を清めたとされる滝で、その脇には高さ2mほどの「衣掛石」がある…道真が禊ぎをする時に脱いだ衣をかけたと言われる石で、瀧の傍らにある三重の石塔、正平20(1365)年に太宰府天満宮ゆかりの僧の信聡が建てたものらしく、その台座には、次のような漢詩が刻まれているという。

6b22b6e6.jpga73d5dc6.jpg「天判峯頭仰彼蒼 願心成満放威光 御衣薫石変成塔 五百年来流水香」…天拝山頂に立ち、果てしなく広がる青空を仰ぐ。無実を訴えた道真の気持ちが天に通じ、威光を放っている。そして道真の衣は石を薫らせ変じて塔となり、禊ぎされた瀧の水は五百年間、高貴な香りを漂わせている。

b47ce7b7.jpg2af36248.jpg天拝山登山口紫藤の瀧の横には、菅家後集の冒頭の一節である「離家三四月 落涙百千行 万事皆如夢 時々仰彼蒼」の詩碑がある…「都を離れてはや数ヶ月。とめどなく涙が頬を伝う。全ては夢と思うほかなく、今は天を仰いで我が身の無実を訴えるだけだ。」、大宰府に配流された道真が、配所であった府の南館(榎社)で都を偲んで読んだ詩で、無実の罪を恨むことなくひたすら謹慎と天皇に対する忠誠心をもって過ごした道真の心情が現れた詩で、この実直な心情が後の人々を引きつけ、天拝山に登り天に向かってひたすら祈ったという天拝山伝説を生み出しのだろう。

b63ac234.jpg0e5c7e01.jpg筑紫野市の郊外にあるかつての天判山は、大宰府に配流された菅原道真は自らの潔白を天に証明するために、100日間麓の紫藤の瀧に打たれて身を清め、この山に登って七日七夜、岩の上につま立って天に祈り続けたという…すると天から「天満在自在天神」と書かれた尊号が降りてきて、願いが成就されたそうで、「天判山」は「天拝山」とよばれるようになったと伝えられている。

bea601b4.jpg9347faa6.jpg山頂には天拝社が祀られ、道真の足形が残っているとも言われる「天拝岩(おつま立ちの岩)」も祀られており、ここで道真が天に祈ったといわれている…またこの岩の側に一本の老松があり、「天拝の松」とも「みどり松」とも呼ばれ、遠く博多湾に入港する船が目印にしていたそうだ。

e180f436.jpge867a464.jpg昭和5(1930)年の台風で倒れてしまったが、ジャーナリストまた詩人として活躍した旧筑紫村出身の安西均は、その詩集「金閣」で次のように綴っているらしい…よるべなき精霊のごとく かなしびの嵐にまぎれ そはいづかたなく 天翔りたるにあらずや。

fa3b3c66.jpg030f980b.jpg太宰府天満宮の南にある光明寺の西側の小山の麓には、「伝衣塔(でんねのとう)」と伝えられる石塔と「藍染川(あいぞめがわ)」と呼ばれる小川がある…鎌倉時代の中頃に太宰府横岳の崇福寺(後に博多区千代に移転)に聖一国師(円爾:えんに)がいたある夜に、菅神(道真の霊)が現れ禅の教えを求めたが、国師は自分はその任ではないと言って、宋の無準師範(仏鑑禅師)のもとで学ぶことを勧めたので、菅神は一夜の内に宋へ飛んだという。

66fecdc4.jpg0f2ab24f.jpg僧の無準師範が朝起きて庭を見てみると、昨夜まではそこになかった菅(すげ)が生えているので不思議に思っていると、菅神が梅の一枝を持って現れ「唐衣 織らで北野の 神ぞとは 袖に持ちたる 梅の一枝」という和歌を詠んで師範の教えを請うたそうだ…師範の説く法の道を菅神は直ちに悟ったので、師範は誉め称えて「師」を贈り、梅花紋の僧衣を授けたという。

31831b6c.jpg2644a82f.jpg菅神は再び聖一国師のもとに現れ、師範から授かった証の僧衣を託したが、後に聖一国師の高弟の博多承天寺の鉄牛和尚のもとにまた菅神が現れて、預けた僧衣を一所に収め祀るようにと告げたそうだ…そこで鉄牛は菅神のお告げに従って、僧衣を収めて「伝衣塔」とし、光明寺を建てて祀ったということらしい。

9318e954.jpg6930feaf.jpg「伝衣塔」のすぐ側に流れる「藍染川」は、昔は川幅は広く水量も多かったようで、古くは「筑紫なる染川」と呼ばれ、歌枕として平安時代の伊勢物語や後撰和歌集・拾遺和歌集などの多くの和歌に詠み込まれたらしい…謡曲「藍染川」で扱われた伝説によると、天満宮の神官の中務頼澄が京に上った折、梅壺という京女と恋仲になって、梅千代という男の子が生まれ、歳月を経て梅壺は、我が子を父に合わせようと太宰府に下ったが、頼澄の妻に知れて追い返されてしまう。

47cd0d99.jpgd7ff42ad.jpg悲嘆にくれた梅壺は、藍染川に身を投げて死んでしったので、梅千代が泣き悲しんでいるところに、たまたま頼澄が通りかかり事情を知って、梅壺の蘇生を天満天神に祈ったところ、天神が現れて梅壺は生き返ったという…藍染川の中には「梅壺侍従蘇生の碑」が祀られており、梅壺の子の梅千代は、後に光明禅寺を開山した鉄牛和尚とも言い伝えられているようだ。

09314a58.jpg1afed45b.jpg太宰府天満宮境内の参道突き当たりの宮司邸前右手に「東風ふかば・・」の歌碑がある…突然に大宰権帥への左遷を言い渡された道真は、都の自らの邸宅を跡にする時に日頃から愛でていた庭の梅に向かって、「東風(こち)吹かば におひおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春なわすれそ」歌いかけたのだった。

5fcdd4af.jpg945b44ec.jpg「東風吹かば・・」と問いかけられた梅は、道真の跡を慕い大宰府まで飛ん来て咲き誇ったという…現在も道真の御墓所である太宰府天満宮本殿に最も近い右近の場7所で、境内6000本のどの梅よりもいち早く開花して、道真に春の到来を告げているらしい。

bdddc625.jpga90e2745.jpg楼門の手前にある手水の奥には、江戸時代末期に各地の天満宮に建てられたという菅原道真の精神を表したといわれる「和魂漢才」碑があるが、安政5(1858)年に全国各地の百十余名の人々の寄進により1m80cmの堂々とした碑が建てられたそうだ…「和魂漢才」とは読んで字の如く「漢学に精通しつつも日本文化の心をも失わない」そのような姿勢を学問するものの理想としたようだ。

915ad6cb.jpgf89cc620.jpg民族的であってなおかつ国際的、広く世界に学びそれを生かして新たな日本の文化を創り上げていく、それを実践したのが自ら遣唐使に選ばれながらも、唐の凋落を見据えてその廃止を具申した道真だったのだ…時勢風雲急を告げる幕末において、西洋の欧米列強の技術に学びながらも、七卿が幽閉された延寿王院で日本固有の精神を尊んだ西郷や龍馬らにとって、共感する所が大いにあったのだと思われる。

e42d2cfb.jpg43bc5293.jpg太宰府天満宮は学問の神様として広く崇敬を集め、年間600万人ともいわれる人々が訪れる菅原道真ゆかりの神社で、延喜3(903)年2月25日に失意の内に59歳の生涯を閉じた道真の亡骸は、牛車に乗せられて府の南館を後にした…牛が動かなくなった所に葬るようにという道真の遺言にしたがって埋葬されたのが現在の本殿があるところであり、明治維新までは「安楽寺」といい、天台宗の寺院だったらしい。

7137b1fd.jpgfcb7f232.jpg安楽寺の別当(現在の太宰府天満宮の宮司)は、代々菅原道真の子孫の家筋である高辻家(現在の西高辻家)が務めてきており、江戸時代には天神信仰の隆盛により、太宰府天満宮は菅公の墓所「西都聖廟」だったことから、文芸・学問上達や五穀豊穣・厄払いのため、「さいふまいり」として遠方からの太宰府天満宮への参詣客も増え、福岡藩27宿の一つ太宰府宿も賑わいを呈したようだ。

fca20e94.jpgc0bb7ea7.jpg太宰府天満宮の旧本殿は天正14(1586)年に薩摩の島津勢によって焼かれたが、九州を平定した豊臣秀吉の命を受けた小早川隆景は天正19(1591)年に現在の本殿を建立したらしい…正面五間の流造りの桧皮葺きで、正面に大唐破風の向拝一間を付し、左右両側にも同じような唐風の車寄せを設けており、内部は黒塗りで金彩の円柱を立てて一段高く内陣を設け、奥に黒塗りの壇を作り勾欄を付し、壇上に黒塗りの板唐戸を立て神座を設けており、祭神である菅原道真の墳墓はこの下にあるそうだ。

2dbb3336.jpgffe5f8e9.jpg今朝は小笠木(セブンミリオンCC)〜大博多CC〜天拝山(283m)〜太宰府をポタリング…本日の鼻歌:そうだレキシーランドに行こう(レキシ)

本日の走行距離:83辧帖屮咼法璽襪料入れしかなかったよ。」「【駄財布】だね。」