4a947fea.jpg3aadf703.jpg東区志賀島510から潮見公園に登る途中にある火焔塚(かえんづか)は、弘安の役(1281年)のと時に高野山の僧侶が火を焚き護摩を焚いて蒙古軍の降伏を祈祷した場所だそうだ…蒙古軍が退散し僧侶が帰途につく時に、不動明王の火焔形をこの地に留めたため火焔塚と呼ばれるようになったそうだ。

2af28b74.jpg37d58124.jpg東区志賀島の西側の蒙古塚バス停の付近に、文永・弘安の役(1274・1281年)で戦死した蒙古兵士の供養のために建てられた蒙古塚があり、海を隔てた向こうには、今津の美しい白砂を見ることができる…昭和2(1927)年に建設された石碑で裏には7基の板碑があり、また張作霖書による「蒙古軍供養塔賛」の碑も建てられている。

43937f3d.jpgad022ff4.jpg福岡西方沖地震により大きな被害にあったため、北側の丘陵から現在地に移設されたが、元の場所も整備され、「旧蒙古塚」「日蓮上人像」「首切窟」などがある…1281年に対馬・壱岐を占領した東路軍は博多湾に現れ、博多湾岸から北九州へ上陸を行おうとしたが、日本側はすでに防衛体制を整えており、博多湾岸に約20kmにも及ぶ石築地(元寇防塁)を築いて東路軍に応戦する構えを見せたため、東路軍は博多湾岸からの上陸を断念した。

d0495308.jpgf57a58d4.jpg6月6日に博多湾沿岸からの上陸を断念した東路軍は陸繋島である志賀島に上陸し、これを占領し志賀島周辺を軍船の停泊地とした…東路軍の管軍上百戸の張成の墓碑によると、この日の夜半に日本軍の一部の武士たちが東路軍の軍船に夜襲を行い、張成らは軍船から応戦し、やがて夜が明けると日本軍は引き揚げていったという。

d99c725a.jpg523aeb5b.jpg6月8日に日本軍は軍勢を二手に分け、海路と海の中道伝いの陸路の両面から志賀島の東路軍に対して総攻撃を敢行し、海の中道を通って陸路から東路軍に攻め行った日本軍に対して、張成らは弩兵を率いて軍船から降りて応戦し、志賀島の東路軍は日本軍に300人ほどの損害を与えたが、日本軍の攻勢に抗しきれず潰走したらしい…東路軍の司令官で東征都元帥の洪茶丘は馬を捨てて敗走していたが、日本軍の追撃を受け危うく討ち死にする寸前まで追い込まれたが、管軍万戸の王某の軍勢が洪茶丘を追撃していた日本軍の側面に攻撃を仕掛け、日本兵を50人ほど討ち取ったため追撃していた日本軍は退き、洪茶丘は僅かに逃れることができたそうだ。

d83ecf23.jpg65bc37b7.jpg海路から東路軍を攻撃した伊予の御家人の河野通有は元兵の石弓によって負傷しながらも太刀を持って元軍船に斬り込み、元軍将校を生け捕るという手柄を立て、また海上からの攻撃には肥後の御家人の竹崎季長や肥前の御家人の福田兼重・福田兼光父子らも参加し活躍したらしい…6月9日に東路軍の張成らは防御に徹して陣を固め、攻め寄せる日本軍に対抗するなどして奮戦したが、この日の戦闘も日本軍が勝利し東路軍は敗戦を重ねたので、東路軍は志賀島を放棄して壱岐島へと後退し、江南軍の到着を待つことにしたようだ。

051b662c.jpg3eac7b4b.jpg今朝は志賀島まで往復…本日の鼻歌:蒙古放浪歌

本日の走行距離:81km…「監督が代わって、【猛虎】復活できるかね。」「毎年夏までは気を持たせるんだけど。」