2009年04月
2009年04月30日
山梨きまぐれ歴史散歩「将門塚」(2000年7月)
2006年10月22日のブログに記しました神田明神へ散歩いたしましたのは、1997年7月でした。
http://blog.livedoor.jp/ayako0215/archives/2006-10.html
そのときから将門塚へという思いがしきりでしたが、3年後の2000年5月、ようやく将門塚にまいりました。
神田明神では、境内で微かに神田囃子の音が聞かれましたのを思い出します。
正式名称は神田神社ですが、神田明神という呼び方の方がお馴染みでしょうか。
神田明神のお祭りは、日本三大祭りの一つとして、また江戸城に祭礼の行列が練りこんだところから、天下祭りとしても知られておりますが、今年は5月9日が神幸祭、翌10日が神輿宮入だそうです。
神田明神といえば銭形平次ですね。平次の碑も、子分の八五郎の碑もございました。
関東ローム層は地下に麹の室を造るのに最適とのことで、江戸時代以来の室を使っているというお店が御門前にあり、甘酒を美味しく頂戴いたしましたことが思い出されます。
この神田明神は、大黒様、恵比寿様、将門様と、三柱の神様をお祀りしているのですね。
そういえば境内に大きな大黒様の石像がございました。
さて、平将門は、天慶3年(940年)、平貞盛らに打たれ、その首級は京都に運ばれ、都大路にさらされましたが、その後、現在の地下鉄大手町駅近くの将門塚の場所に埋められました。
そして、当時この将門塚の近くに神田神社があり、(まあ当時は神田の名は無かったのでしょうか)そこにお祀りされたということなのですね。
神田明神でいただきました資料には、将門塚の位置を「当社離れること百歩の地であったという」と記されております。
その後、お社は駿河台に移され、さらに二代将軍秀忠のとき、江戸城艮の鬼門に当たる現在地に移されて、神田神社となったわけですね。
そしてその御祭神になっております平将門にまつわる話が、山梨県大月市の七保地区に伝えられているということで、そこにお住まいの郷土史家S先生をお訪ねし、いろいろとお教えいただきました。
「将門さんの次男の常門さんが1才のとき、駒宮という部落に入ってきたのです」
というように、先生は親しみを込めて、「将門さん、常門さん」と仰います。
内裏、馬場、上屋敷、下屋敷、などという地名が伝わっているということ。下和田の相馬氏が常門の子孫であることなど。
神田明神から大月市へと歩きましたこのとき、いずれは将門塚にお参りしたいという思いがしきりだったのですが、やっと将門塚にまいりました。
千代田線大手町駅のすぐ近くで、通りをはさんで向いに、サンワ東京ビル、そしてお隣は三井物産ビルです。
そんなオフイス街の一角に、緑に囲まれた将門塚がございます。
品のいいご年配の男性が、せっせとお掃除をしていらっしゃいます。
「ここは、管理人っていないんですよ。私たち氏子が交代でやっているんです」
「神田明神の氏子の方々が」
「えーえー、自主的にやってるんです。お参りに来て汚れてれば掃除して・・・」
「お近くにお住まいなのですか」
「えー、私は歩いて10分くらいのとこです。私に限らず、そういう人が沢山いるわけですよ」
「はあ、そうですか」
「べつに、まとまってやっているわけじゃなくて、皆、自主的にやってるわけです」
「お参りにいらっしゃる方は多いですか」
「多いときは一日何百人ってお出でになります。行列してますよ。
ご覧になって判る通り、お花が沢山上がるっていうことは、お参りして願い事が叶った方がお礼参りにあげるということですから」
「沢山のお花で綺麗ですね」
「ですから、願い事、叶うんだと思うんですよ。まあ、私共、地元の人間は、願い事叶うのが当り前だと思ってるんですよ」
「はあ〜」
「我々の神様は将門様しかいないので・・・・・神田には、氏神様は、将門様しかいないのですよ」
「はい」
「各町内にお稲荷さんっていうのがあるけど、あれは氏神さんではないから。
だから私らは、子供の頃からここを大事にしているんですよ」
「ずっとこちらにお住まいなのですね」
「子供のときからね。親子代々」
「それでは特別の思いいれがありますでしょうね」
「子供のときから、ここで悪いことばかりしてましたから」
「随分様変わりしてますのでしょうね」
「昔はここ、ジャングルだったんですよ。戦前は」
「ジャングル?」
「明治天皇が江戸城に入られたときに、逆賊だから、構っちゃいけないっていう命令が出て、誰も手が出せなくなっちゃたんです」
「それでジャングル状態ということですか」
「それが空襲で全部焼けちゃって、こういう風に綺麗にしたんですよ。明治から昭和20年までは、おおっぴらに直せなかったんですよ」
「ああ、そういうことですか」
「20年の5月の空襲でみんな焼けちゃって、あの後にある灯篭が首塚なんですけど、あれを残すだけで、全部だめになっちゃったんです。あれ、奇跡的に残ったんです」
「後の灯篭が、昔からのものですか」
「そう、あれが1000年ちょっと経っているんです」
「神田明神が移っているのですね」
「そう、もともと神田明神がここにあって、移っていったんです」
「家康が・・・」
「家康が向こうに移して400年ですから。まだ戦乱の世の中で、北の方に強いのが沢山いたんです。伊達とか上杉とか。それに睨みをきかすために、お城の北の鬼門に明神様をもってたんです」
「それで無事だったので、徳川家が信仰したわけですよ。将門を
「そうなのですか」
「ここに、酒井雅樂頭に屋敷を与えて、墓守をさせたそうです」
「幕末まで、酒井家がここを守っていたのです」
「町民がお参りすることはできたのですけど、管理は酒井家でした」
「お隣が三井物産ですけれど、こちらも酒井家の跡なのでしょうか」
「ずうっと、2800坪っていったなあ、酒井家のお屋敷が。そう聞いたよ」
ここは酒井雅楽守の上屋敷のあったところなのですね。
病弱の四代将軍家綱を補佐して実権を握っていた大老酒井忠清は、下馬将軍と呼ばれました。
ここから江戸城のお堀がすぐ近くにありまして、もっとも大手町という地名自体が江戸城の大手門があったからなのですから、当り前ことかも知れませんが、大手門の手前の右側のお堀端に下馬札が建てられていたのだそうです。
それでこの辺りを下馬先と呼んでおりましたとか。
大名と、特に許された者以外の駕籠ははこの下馬先に留められ、御門内に入ることはできませんでした。
共の者の数にも制限がありまして、総登城の日など、下馬先は大変な混雑であったと申します。
その下馬先に屋敷を持っていたところから、下馬将軍と呼ばれたのですね。
今も下馬評という言葉が使われておりますが、お殿様の下城を待っている供の人たちがする評判から出た言葉のようです。
こんなことからも、将門塚の位置をご想像いただけますでしょうか。
3段の石積みの上に30センチくらいあるでしょうか、自然石が据えられておりまして、その上に1メートル60くらいの石碑が建っております。
「平将門蓮阿弥陀仏徳治二年」と刻まれております。そしてこの後の灯篭が昔からのものなのですね。
色とりどりの美しいお花が沢山お供えされておりまして、多くの方々がお参りしていらっしゃることが判ります。こうしております間にも、お参りの方がいらっしゃいます。
碑の両側に大きな蛙の置物があります。願いを叶えていただいた方が奉納したものと伺いました。
塚は粗略にすると祟りがあると信じられているのだそうですが、それだけの力で願い事も叶えて下さるのでしょうね。
2009年04月28日
六善光寺同時御開帳
甲府盆地、本日は晴天なり。
そういえば「本日は晴天なり」って、マイクテストの言葉として使われておりましたね。
最近は聞かなくなったような気がいたします。
もっとも、日本語に訳しては効果のない英語だとか。
昨日は「やさしい手」にまいりました。
今回はどんなお話にしょうかと迷いましたが、時期も合っていることですし・・・ということで、善光寺御開帳にいたしました。
平成9年の御開帳は、甲斐善光寺80年ぶりの御開帳でした。
長野の善光寺、飯田の元善光寺と共に、三善光寺揃っての御開帳でした。
黄梅も三善光寺を回りました。
甲斐善光寺は、最期の結願の日でした。不思議な感動を覚えました。
平成15年の御開帳は四善光寺同時御開帳でありましたそうな。
そしてことしは六善光寺の御開帳でございます。
理由はともあれ、信玄、信長、家康、秀吉、そして謙信も?・・・という方々の元を回ったという善光寺の阿弥陀如来さまにござりまする。
極楽往生間違いなし。
5月31日まで。
まだま間にあいまする。
黄梅、これからお弁当を持ちまして、善光寺、いや図書館にまいりまする。
2009年04月24日
「寅王丸の墓」の禰々御寮人の化粧料
「寅王丸の墓」の化粧料 先達につきましては、2008年4月20日にありますのでよろしかったらご覧下さい。
http://blog.livedoor.jp/ayako0215/archives/2008-04.html
ブログに記しましたのは2008年4月ですが、先達にまいりまして「きまぐれ歴史散歩」にまとめましたのは1995年10月だったのですねぇ!
我が家の寅さんが、「牛一頭、引っ張っていくよん」とわけの解からないことを言って、パソコンに触りましたのが、1999年ですから、その頃、まだパソコンはなかったのですね。
初めてのパソコンはGATEWAYでした。で、「牛一頭」と、寅さんが。
2009年04月23日
みのぶみち の 姥清水 へ
ア〜アア〜〜〜ア〜〜
黄梅の欠伸の音ではございません。
発声ィ・・・練習ではなく、声の調子を試しているのでございます。
先日、寅王丸のお墓にお参りさせていただきました折、姥清水という湧水を飲んでまいりました。
この水、声がよくなるのだそうで、もうそろそろ効用が現れてもよいのではと、先程よりア〜〜アアア〜〜〜とやっているのでございますが・・・・・。
懸樋の後に、木を縦に裂いたような案内板があります。日蓮上人が湧出させた水です。
由緒の下に山梨県の民謡「甲州盆歌」の歌詞が記されております。
♪ 身延の者は声がよい
よいはずだ(ソレ)
南天山の 水飲む
ドッコイ
南天山の 水飲む ♪
この歌詞にある声のよくなる水ならば、黄梅もぜひにと飲んでまいりましたのですが、効果が現れるには今しばらく時間がかかるようです。
2009年04月21日
山梨きまぐれ歴史散歩「寅王丸の墓」(2009年4月)
今月のきまぐれ歴史散歩は、寅王丸のお墓がございます鰍沢の本能寺をお訪ねいたしました。
寅王丸につきましては、あまり調べたこともありませんので、私自身しっかり自分にいいきかせて歩き始めたいと思います。
天文9年(1540年)12月、甲斐武田家から13歳の姫君が諏訪に嫁いで行きました。禰々御寮人です。
武田信虎の三女で、信玄の妹にあたります。
お相手は、前年祖父の跡を継ぎ諏訪家の当主の座につきました諏訪頼重です。25歳でした。
この禰々御寮人の化粧料とされましたのが、長野県富士見町の先達など18ヶ村なのですね。
このとき、ある方から「先達に行くと、今でも甲州から信州にやられたことを恨んで『山梨から着ました』なんて云ったら塩まかれるよ」という話を聞き、恐る恐るまいりましたのですが、これはカツガレましたようで、塩をまかれるどころか、大変ご親切にしていただきましたことが思い出されます。
こうして諏訪に嫁ぎました禰々御寮人は諏訪頼重との間に寅王丸という男子を出産いたします。
しかし、その僅か3ヵ月の後、頼重は信玄によって甲府に送られ、甲府の東光寺で自刃して果てます。自刃して果てたというより、自刃に追い込まれたのですね。
信玄が諏訪に侵攻いたしましたとき、諏訪頼重は上原城で迎え討ち、後に桑原城へと移りますが、上原城を訪ねましたとき、板垣平と記された所がありました。武田の初代諏訪郡代が、板垣信方だったのですね。
さて、諏訪氏の当主と武田の姫君との間に生まれました寅王丸につきましてはあまり資料がありませんで、その後の様子は判りませんでした。
武田氏の人間関係を調べますときに使っております「武田一族のすべて」という本の禰々御寮人の項には「夫を甲府で謀殺させられて甲府に留めおかれ、不運な最期をとげた。天文12年1月19日に死去。わずか16歳であった。寅王丸のその後も不明である」と記されております。
他には、寅年生まれのなので寅王丸と命名され、後に千代宮丸と改名させられ、僧籍に入り長岌(ちょうきゅう)となる。今川義元を頼って行くところを捕らえられ殺されたというもの。
また、越後に出奔し、上杉謙信にその美貌と胆力を愛され、春日山城内に住むことを許されていたというものもあり、一説には福島県大熊町の野上の里に行き、諏訪大明神を祀ってここに住み、金山を探しにきた山伏と二人で温泉を発見したという説もあり、その玉の湯温泉の旅館のご主人は先代で23代目に当たるということです。
とにかく、どこでどうして亡くなったのか判らなかったのです。
それが鰍沢町箱原の本能寺に寅王丸のお墓があると知り、早速出かけました。
箱原で出合った方に伺い、あのお宅に行って聞くといいですよと教えられたYさんのお宅にまいりました。
Yさんは、私も詳しくは知りませんがと仰って、鰍沢町史を出してきて、それを見ながらお話くださいました。
「本能寺五輪塔は寅王丸の墓と云われている。
伝承によれば、寅王丸は信濃の武将 諏訪頼重に嫁した信玄の妹の一子であるという。
寅王丸の母は、夫頼重が信玄に討たれた後、わが子寅王丸にも危難が及ぶのを恐れ、河内の親族 下山の穴山氏に幼い寅王丸を託すべくここまで来たが、寅王丸はこの地で、追ってによって殺された。
哀れに思った箱原の村人は、寅王丸の亡骸を本能寺の裏山に葬り、小さな五輪塔を建てた。
それが今ある一石五輪塔であるという。
一石五輪塔故の誇張は止む得ないにしろ、その火輪の軒反りの形、水、土輪の形状などから判断すると、伝承より幾分時代が下がる江戸初期頃の製作と推測されるが、一石五輪塔としては、本県で最も美しい形態をとどめた五輪塔といっても過言ではない。
とあります。
さらに、石質が地元河内特有の風化されやすい凝灰岩のため崩壊などの事態も危惧されるので、慎重なる保存の必要性を感ずるということですね」
「一石五輪塔というのは、一つの石から掘り出した五輪塔ということなのでしょうね」と黄梅。
「そういうことですね。高さは55.6センチ、それから台座が16.3センチです」
「お玄関を入ったところの上に本能寺御守護というお札が貼られておりますけれど」と黄梅。
「本能寺の住職が、お正月とかお盆にお経をあげにくるのです。その時に持って来てくれるんです。」
何軒かは外に出ているが、ほぼ40軒くらいが檀家になっているということです。
「本能寺のお寺の境内に池があるんです。
なぜ池かというと、その上に灌漑用水があるのです。大きい水路がね。
それが、山が崩れると一緒に水路も崩れて池の中に入ったのではないかと・・・仄聞です。ちょっと自信は持てませんけれども」
Yさんにご案内いただき、本能寺にまいりました。
立派なお寺さんですが、ご案内いただかなかったら、境内を探しても見つからなかったでしょう。
本堂の左手の小道を上ったところです。
五輪塔は古いものですが、右側の寅王丸の墓と刻まれました碑や、左側に建てられております「鰍沢町指定有形文化財の碑は新しいものです。
近くを流れる富士川にもご案内いただきました。
この辺りは富士川舟運の難所であったそうです。
2009年04月18日
江戸しぐさ
カルタの練習会で、「大人の寺子屋」のご案内をいただき、今日都合のよい仲間と参加してまいりました。
寺子屋は敷島総合文化会館。
「大人の寺子屋」で何を学ぶのかと申しますと、「江戸しぐさ」なのです。
私が「江戸しぐさ」に興味を持ちましたきっかけは、公共広告機構のテレビでした。
・・・・・・・・・・・・・・・
その昔、江戸ではマナーも粋でした。
急いでいて 道をゆずってもらったら
すっと感謝のまなざしを
・・・・・・・・・・・・・・・
こんな言葉で、紳士が帽子に手をやり、にっこりと目を細める・・・こんなテレビの画面、ご記憶にございませんか。
電車で、後から乗ってきた人のために拳一つ分つめて、一人分の席をつくる・・・そんな広告も。
http://www.youtube.com/watch?v=PuFizpUhrhk
甲府青年会議所の主催でしたが、参加者に楽しく学んでもらおうという意気込みが感じられ、気持ちの好い時間を過ごさせていただきました。
キーワードは「粋」。
云われなくとも行動するのが「粋」、出来ないのが「野暮」なのだそうです。
「粋」な人間をめざしたいものです。
2009年04月16日
2009年04月14日
多摩森林科学園
昨日、多摩森林科学園にまいりました。ご存知かと思いますが、昔、浅川実験林と云っていたところで、高尾駅の近くです。
桜の遺伝子を保存するための保存林ですので、種類が多いため、長い期間お花見が楽しめます。
入園料は300円ですが、4月は400円です。
お酒は残念ながら・・・。
桜に付けられた雅な名前を見ながら、花を愛で、林を吹き抜ける風を感じながら歩きました。
高尾駅から園までの沿道にも桜が。
中に、ウコンザクラがありました。
上手に撮れませんでしたが、黄色の花弁が、春のというより、初夏の陽射しに輝いていました。
黄色の桜といえば昇仙峡の金桜神社が思い浮かびますね。
4月29日から5月5日まで 桜まつりのようです。
期間中は夜桜も楽しめますとか。
さて、桜保存林を歩いておりますと、桜のみならず、所々、椿の赤や、山吹の黄色や、可憐な菫の紫が文字通り色を添えております。
蕾の桜もありましたので、今しばらくはお花見ができそうです。いかがですか。
2009年04月12日
桂離宮
昨夜、NHKテレビで桂離宮の美しさを堪能いたしました。
「日本建築の最高峰・心たのしき美の館」ですが、まさに”心たのしき”時間を過ごしました。
始まってから偶然観たのですが、目が離せませんでした。
あの、青と白の市松の襖の部屋の前には、青と白の庭石が据えられ、響き合っていたのですね。
細長い変わった形の襖の引き手も、絵に添わせた舟の櫂。
引き手といえば、京都のお菓子屋さんで、月の字をかたどったお菓子を求めてまいりましたことがありますが、たしかぁ・・・と思いつつ観ておりましたら、終りの頃に出てまいりました。月の字の引き手が。
何年前か、お訪ねいたしましたのですが、おおざっぱな記憶しかなく、なさけなく、淋しい思いです。
その内、ぜひ・・・・・。
2009年04月10日
2009年04月06日
詩の交流会「あゆか」第5回自作詩朗読会
今日はご案内をいただおておりました「あゆか」の自作詩朗読会を聴きにまいりました。
山梨県立文学館です。
その詩の作者が朗読をというのは、いいものですね。
まさに作者の息遣いそのものです。
なかに「銀の糸」という詩がございました。
クモの詩です。
・・・・・・・
霧雨が上がり 薄日差す朝
網についた水滴が きらきら輝き
・・・・・・・
写真展も拝見したことのある方で、このクモの巣の写真が会場に展示されていたのです。
銀の糸は、銀のビーズを連ねたように見えました。
会場を出てから、文学館の裏手に回りました。
桜を期待して・・・。
満開の桜がはらはらと惜しげもなく花びらを振舞ってくれました。
ここには岐阜県根尾村の薄墨桜も来ているのですが、こちらは葉桜になっておりました。
2009年04月01日
柳北小学校
成島柳北につきましては、2回に分けず、続きを書き足しました。よろしかったら、ご覧ください。
さて横浜開港資料館にまいりましたのは、2006年4月でしたが、2007年7月15日のブログ「甚内神社」をお訪ねいたしました折、柳北の名が柳北小学校と、小学校の名になっていることを教えていただいたのです。
http://blog.livedoor.jp/ayako0215/archives/2007-07.html
全くの偶然でした。
このとき、「浅草橋柳二町会 創立50周年記念誌」を頂きました。
その中に柳北小学校の名があったのです。
「江戸末期から明治初めにかけて活躍した成島柳北は幕府の医師と交友が多く、医学館にて経書の講義、詩会、和歌の会など盛んに向柳原の地を中心に活躍した時代がありました。そこで成島柳北の名をとり、幕府の医学館跡地(東京府浅草区第五大区第二小区区向柳原一丁目甲四番地)に柳北女子学校を創りました。(他に江戸時代中期の神田川整備拡張工事の際、神田川の岸に柳の木が植えられ、柳原土手と呼ばれていました。その柳原の北の位置に学校が建ったので、柳北小学校と名付けたという説もある。)
明治41年に小学校が4年制から6年制になり、男子との共学になり、柳北尋常小学校となります。児童数783名。
昭和16年4月東京府東京市柳北国民学校。
昭和22年東京都台東区立柳北小学校。
平成13年3月、柳北小学校は124年の歴史に幕をひき、平成13年4月お隣の育英小学校と統合し、台東育英小学校となりました。
現在、校舎はフランスの学校 リセ・コレージュフランコ・ジャポネ柳北校として、体育館、校庭は柳北スポーツプラザとして利用されている」と記されています。
フランスの学校として利用されているというのも・・・・・柳北との縁を感じてしまいます。
せっかく浅草橋にまいりましたので、この日は 駒方 前川
の鰻を頂いて帰りました。
山梨きまぐれ歴史散歩「横浜開港資料館−1」(2006年5月)
4月28日から、未来への「出航」をテーマに、「開国博Y150」が開催されます。
今年2009年は1859年(安政6年)の開国・開港から150周年なのですね。
そこで2006年5月のきまぐれ歴史散歩「横浜開港資料館」をご紹介いたします。
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ここは横浜のみなとみらい線 日本大通り駅です。
みなとみらい線、今日で2回目ですが、最初のときは、開業いたしましたときでしたので、大変な混雑で、音声による案内板や、エスカレーターの音声ガイドなど、気付きませんでした。
今回まいりまして、各エスカレーターで音声ガイドを聞き、利用者に便利な工夫がなされているのを感じました。
さて、今日私は、横浜開港資料館を訪ねてまいりました。
この日本大通り駅から海の方へ向って、そうです、大桟橋や山下公園の方向に徒歩2分という近い距離にございます。
開港資料館は横浜に港が開かれましたことに関する資料館です。
何故苦手な早起きをしてまいりましたかと申しますと、2006年2月1日から4月23日までの開港資料館の企画展を見たくてということなのです。
「黒船来航から明治憲法まで 創業の時代を生きた人びと」というタイトルで、大きく5人の名前が記されております。
伊藤博文、H・S・パーマー、ウ゛ァンリード、高島嘉右衛門、そして成島柳北です。
今回のきまぐれ歴史散歩の目的は、この成島柳北というお方です。
先週、東京 隅田川の堤の桜を眺めてまいりました。
その墨堤の桜は、徳川八代将軍吉宗によるものと思っておりましたのですが、四代家綱が常陸国の桜川の桜を植え、八代吉宗がさらに力を注ぎ、資金を出して吉野の桜などを植え、十一代家斉が補植したということなのです。
その後も何人かの人が力を尽くしますが、明治時代、墨堤の桜を植えた人としてその名を残しました方が成島柳北なのです。
そして、その成島柳北のご先祖は甲斐国の人と聞きまして、黄梅の足はもう横浜に向っておりました。
ここには展示されているものの他、資料室に多くの資料があり、ご説明はいただけませんでしたが、拝見することはできました。
それでは展示されております資料をご紹介いたしましょう。
「成島柳北の横浜時代」という説明があります。
「維新後、雑誌「花月新誌」や「朝野新聞」の刊行で知られる成島柳北は横浜の太田陣屋に起居して、洋式軍事訓練の日々をおくった。政局が緊迫化する中、幕府は、歩兵・騎兵・砲兵の三兵の常備軍創設と農民徴発兵を中心とする軍制改革を行い、フランスから軍事顧問団を招いた。・・・・・」
そして、成島柳北は騎兵頭として、フランス人教師から兵学と実技を学ぶのですね。
横浜港へは外国の軍艦が出入りし、山手には数千人のイギリス、フランス両軍が駐屯して、イギリス軍と幕府軍が合同演習ををしていたというのです。
驚きでした。
そしてその指揮をとっていたのが成島柳北だったのですね。
成島柳北の年表と野毛山下の太田陣屋の写真もあります。
成島柳北、本名は惟弘(これひろ)。
神田川の南を柳原と云い、その向こうにあるから向柳原と呼ばれていた所、柳原の北に庵を建て、側室を置いていたところから、柳原の北、柳北と名乗ったようです。
天保8年(1837年)成島家の三男として浅草に生まれました。
成島家は19世紀前半から江戸幕府の公式記録「徳川実記」の編纂を続けてきた家です。
徳川家康から十代家治までの様々なことを、日ごとに記したもので、江戸時代を知る基本資料になっています。
やがて柳北もその編纂に加わり、徳川家定、家茂に侍講いたします。
その後、狂歌で幕府を批判したため、職を解かれます。それから洋学を学び、騎兵奉行、外国奉行、会計副総裁を務めます。
明治維新後、東本願寺法主 大谷現如(げんにょ)の欧州視察随行員として欧米を巡ります。
ジャーナリストとしても活躍し、「朝野新聞」の社長を務めています。
成島柳北は洋行したとき共済制度を見聞し、帰国後、安田善次郎に伝えて、今の「安田生命」の礎を作るのにも参画いたします。
安田善次郎は、向島の柳北の家を訪ねたときは出された座布団を決して敷こうとはしなかったと伝えられています。それほど尊敬していたのでしょうね。
とにかくご紹介しきれないほど、多才なお方です。
花街に遊び、「柳橋新誌」という花柳界を描いた戯作や、文芸雑誌「花月新誌」を創刊するなどの活躍もしています。
それでは展示してありますパネルや資料をもう少しご紹介いたしましょう。
「野毛山下の太田陣屋」
「開港に先立って越前福井藩が築いた陣屋。後、松代藩と交代。慶応2年(1866年)幕府はここに騎兵、歩兵、砲兵の三兵伝習所を設置した。フランスから陸軍教師団を招き、厩などを建築したが、翌年伝習所は江戸に移転した。明治4年(1871年)関内の番所と同時に廃止され、後、陸軍省用地となった。」
他にはフランスの兵学書や、フランス人教師の講義の要点を書きとめた覚書、伝習所の必要経費などの資料が展示されております。
「太田陣屋時代の成島柳北は江戸との間を頻繁に往復し、東海道筋の村々や屋並の一つ一つを目に焼き付けたという。
また、休日にはフランス人教師や同輩と轡を並べ、隅田川の観桜に遠乗りしたこともあった。
明治16年(1883年)観菊に誘われ、訪ねた先は往時の記録に残る豪農の屋敷だった。鶴見区のソウダ家に、その日柳北が書いた詩文が残る。
また、かつて川崎在の小向はみゆきの梅林で知られた梅の名所だったが、その端緒は柳北が紙上に発表した観梅記事だった。
梅園にあった柳北碑は縁あって港北区の飯田家に運ばれ、今もその庭に安置されている。」
と、パネルにありまして、その碑と飯田家の中庭の写真が展示されております。
成島氏はその先祖書によると、「成島惣太夫信郷(のぶさと)、大永の頃、甲斐国成嶋村出生、天文の頃、武田信玄に仕え、信玄卒後、成嶋村に退隠、病死仕候」とあります。
その信郷の子が江戸へ出て徳川家に仕え、幕末の柳北につながるのですね。
成島村は旧玉穂町の役場がございました所です。
今も成島さんという姓の方がいらっしゃいますが、柳北の縁の方でしょうか。




