2009年10月
2009年10月31日
2009年10月30日
2009年10月29日
みちのく紅葉狩り
今年は、みちのくの紅葉をと、25・26日に行ってまいりました。
携帯を忘れてしまい、ご一緒して下さった方の携帯で撮っていただきました写真です。
岩手県一関市の 猊鼻渓(げいびけい)です。一関にはカッコウ団子が人気の 厳美渓(げんびけい)もありますので、ちょっと紛らわしいですね。
前回まいりましたときは、 厳美渓(げんびけい)だけでしたが、今回は両方楽しむことができました。
猊鼻渓(げいびけい)は獅子の鼻という意味だそうで、岸壁に大きな、言われてみれば鼻のような形の岩がありました。
兎に角、川の水の美しく澄んでいること!
その清らかな水面に、時折紅葉がはらはらと。
この川の美しさは、地元の方々のご努力によるものと伺い、頭の下がる思いでした。例えば遊覧船のチケット一枚でも落ちていたら、拾っているとのこと。
ライトアップ船も出ているのですねぇ。11月3日が満月で、岩と岩の間から出るお月さまを拝むことが出来るとのことです。いいでしょうねぇ。
そうそう、強く印象に残りましたのは、船頭さんの案内の話し方と舟歌です。
見事な話術と、棹を操りながらの舟歌に、うっとりと聞き惚れました。
厳美渓(げんびけい)では カッコウ団子がテレビなどでとりあげられ、あまりにも有名ですが、残念ながら売り切れでした。
渓谷の対岸のお店に赤い旗が出ていたら、閉店なのです。
渓谷に渡されたロープに提げられた篭でお団子とお茶が運ばれてくるのですね。
対岸のお店に行ってみましたら、空飛ぶ団子と書かれておりました。カッコウ団子のカッコウは、合図に打つ板の音でしすね。
久しぶりに中尊寺にもまいりました。
藤原清衡の平和への願いを込めて建立されたという天台宗のお寺です。
本堂は堂々とした建物で明治42年に再建されたものだそうです。
金色堂は今も静かな光を放っています。
仙台でのカルタ大会で一回戦で敗北し、気の抜けたようになっていたであろう私を、この中尊寺へお誘い下さった方がいらして、ご一緒させていただいたことがあります。
そのときは、毛越寺と高館も廻りましたことは覚えているのですが、季節は、覚えておりません。仙台大会は6月と12月でしたから、そのどちらかだったのでしょう。
全国大会 トーナメント 一回戦敗退の思い出の中尊寺であり、金色堂でした。
2009年10月28日
2009年10月27日
2009年10月23日
「一葉と甲州」
私も、「ゆく雲」を読みましたとき、それを強く感じましたので、興味深く新聞を読みました。
実際に行ったのではないかと思われる箇所を抜粋しているのですが、「母方の祖母あてに歌塾・萩の舎入塾を知らせる手紙(1890年)も、山梨に来て親族に会っていることを確信させる内容だ。また後屋敷(現山梨市)に養子に行った母の弟芦沢卯助の親族宅には、これ以前の5,6歳ごろ(1878年ごろ)の一葉が母・兄たちと訪れ、従兄弟達(芦沢広太郎・芳太郎ら)と遊んでいたという言い伝えもある。」と結んでいます。
平成15年に塩山の甘草屋敷で「ゆく雲」を朗読させていただいたのですが、毎日毎日練習しておりますうち、これを本当に想像で書いたのだろうか、実際に来たのではという思いが強くいたしましたのです。
「酒折の宮、山梨の岡、鹽山、裂石、さし手の名も都人の耳に聞きなれぬは、小佛さゝ子の難處を越して猿橋のながれに眩めき、鶴瀬、駒飼見るほどの里もなきに、勝沼の町とても東京にての場末ぞかし、」
という冒頭の文章、数年前のことですが、懐かしいような思いで口ずさんでおります。
2009年10月20日
山梨きまぐれ歴史散歩「中道往還 右左口宿−2」(2006年10月)
御門を入ってまいりますと、右手に鐘楼堂、そして正面の本堂の脇に案内板がございます。
この案内板によりますと、本堂の右手を上がって行きますと、そこが墓地になっておりまして、そのさらに右手奥、かなり高い所にお屋根がみえますが、そこが観音堂です。
ご住職様にお話を伺います。
「ここを家康公がお通りになったのですか。」
「ええ、7回ぐらい通っているのですけれど。」
「7回も」
「ええ、甲斐国に入っていると云われてますね。そこに「東照神君御殿場」という碑があるのですが、そこで本陣を敷いたということですね。」
「そういたしますと、この道、最初は信長のために家康が造ったということなのですか。」
「そうなんですね。この道、駿州往還、今は中道往還といいますがね、信長のために家康が先に入ってくるわけです。」
「そしてこんどは家康がこの道を使ったということなのですか。」
「ですから、武田家を滅亡に追い込んだ道なんです、ここは。軍事道路でもあるし、産業道路でもあるんです。
煮貝はね、この街道で出きったっていう話もあるように。非常に重要な往還であったはずですね。この中道往還、駿州往還はね。」
「それで家康から何か特典が与えられたのですか。」
「右左口47軒往還の伝馬という・・・」
「右左口・・・?」
「右左口村47軒往還の伝馬と、早く云えば、庭銭、口銭は免除するよということ。商売するに当たって右左口衆は、庭銭、口銭、つまり税金なんですよ。
そういうものは全部免除しますよというお墨付きを家康からいただくのですね。御朱印といってね。」
「はい。」
「右左口という鑑札を持って商売をしていると、非常に権限があるわけですよね。」
「はあ〜」
「ま、この辺の人達はそいうものを持ってあちこち商売に行ったということですね。」
「今のこの道幅ですけれども、当時の道幅より広がっているのですか。」
「当然拡がっていると思うのですけど、この道が本道ではないんですね。途中までは本道で、途中から中にはいるんですよね、どうも。こういうふうに。」
「かぎの手になっているのですか。」
「かぎの手になって。ええ」
「今の人達はこの広いところが街道だと思っているかしりませんけど、甲府からここに来るのに二筋あってね、タテイシからナカバタケの方を通ってくるものと、タテイシから小学校の方を通ってくる2本があって、それがこの下で交わるんですよ。」
「その辺のところもウバグチという地名の由来にもなっているのですか。」
「ウバグチというのはね、右左って書くでしょ。街道か三筋ありますよね。河内路と鎌倉街道ね。その真ん中にあるのが中道。
右左口と書いてウバグチ。姥の口というのは昔は子供を育てるのに大事なもの。大事な口という意味からウバグチという名前がついたとも云われています。
定かではないが、そんないわれがある。」
姥は乳母の方でしょうかしら・・・?
「独特の風習などが残されているということはありませんか。」
「う〜ん。この地域の右左口宿、右左口宿とは云っても、寝泊りする宿場じゃないんですね。」
「間の宿なんですか。」
「駅宿なんですよ。だから甲府から駿州に行くのにここで泊まることはないでしょ。
それから駿州から入って来てここで寝泊りすることはない。馬が休んだり、駅宿と云ってね。」
「あ〜・・・」
「今で云う郵便物がここで中継されるとか、そういう駅宿なんですよ。
ここから鶯宿(?)かな、次の駅宿がね。ひとつの基点ではあるわけですね。
ここはまあ、明治になるまで、山梨県内で五番屯所があって、裁判所もあったし、牢屋もあったしという、非常にその、発展してきた地域なんですよ、そういう意味ではね。
人の行き来があればあるほど発展するわけですからね。
身延線が通るようになると、この道はいらないわけですよ、この道はね。
それでだんだん寂れていったということなんでしょうかね。」
御門から本堂への道は、石臼が敷き詰められています。これは風情がありますね。
街道に面した家々は間口 四間二尺、およそ8メートル。
今も当時のままの間口だそうです。
よくございますような観光客向けのあしらいなどなく、何か懐かしさを感じる家並が続き、大変いい雰囲気です。
ふるさとの右左口村は骨壷の底にゆられてわが帰る村 山崎方代
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つづき を書くまでに日が経ってしまい、どうしようかしらと思ったりもいたしましたが、兎に角綴りました。
と申しますのは、2006年8月26日のブログに「右左口宿」を書いているのです。
この頃、同じ気まぐれ歴史散歩をもう一編書くよう依頼があり、一方は年2回でしたので、月一回の歴史散歩と、年二回の歴史散歩が重なっております。
記録としての思いから、同じような内容でも残してということで、お読みくださる方にはご迷惑をおかけいたしますが、どうぞご了承くださいませ。
2009年10月17日
「鹿踊りのはじまり」 さつき野自治会主催 朗読の夕べ
昨夜は、昨年に引き続き 甲斐市 さつき野自治会主催の朗読会でした。
第3回 朗読の夕べ です。
朗読は 朗読サークル 虹の夢ふくろう です。 私も少しだけお手伝いを。
宮沢賢治 作 「鹿踊りのはじまり」を 虹の夢ふくろうの皆さんが、夫々 役を決めて読んだのですが、私も聞いていて楽しむことができました。お客様のご様子を伺いますと、柔らかな表情で、楽しそうです。
そして何より、朗読している会員の皆さんの表情の豊かなこと!
聴きながら、ふと昔のことを思い出しました。
そう、30年ほど昔でしたでしょうか、「鹿踊り」を何の疑問も抱かず「しかおどり」と読んだのです。
そして何日か後、テレビを見ておりましたらアナウンサーが「ししおどり」と。 画面の「鹿踊り」の文字が非常にくっきりと見えました。マイッタ!! という感じでしたでしょうか。
南部町の南部氏縁のお寺の境内に植えられていた樹に添えられていた木札の文字は今も胸に刻まれております。
「岩手県石鳥谷町 鹿踊り 保存会」
そんなことが何度もありまして、愛読書は「広辞苑」となっていったのでございます。
2009年10月15日
2009年10月14日
山梨きまぐれ歴史散歩「中道往還 右左口宿」(2006年10月)
こんなにも湯呑茶碗はあたたかく
しどろもどろに吾れはおるなり
歌人 山崎方代のふるさと右左口村は、「うばぐちむら」と読みます。
かつて甲斐と駿河を結ぶ最短距離の路でありました中道往還の右左口宿にやってまいりました。
まずお寺さんにお参りさせていただいてから歩きはじめましょう。
浄土宗 迦葉山敬泉寺
「浄土宗は法然上人が安元元年(1175年)に開かれた宗門で、阿弥陀仏の誓願により南無阿弥陀仏と心を込めて唱えれば全ての人々が西方極楽浄土に往生することができるという生死解脱を説いた教えです。
当山は慶長10年(1605年)往誉悦秀和尚により創立された寺です。
それより以前、天正10年(1582年)、徳川家康が甲斐国に入国した際に寺中に諸士の仮屋を建て、滞在した記録があることから、創立はこれより溯るのではないかという説もあります。
その跡を記念し、東照神君御殿場の碑が建立されている。
今の堂宇は享保年中(1716年〜1736年)当山六世カクヨの代に再建されたもので、唐宋時代の様式を模したものと伝えられている。
往古には観音堂、十王地蔵堂、念仏堂、阿弥陀堂、地蔵堂、鐘楼堂が建立されており声明念仏の声が聞こえてきます。
現存する観音堂は三間四面で、身の丈4尺2寸の十一面観音立像が安置され、・・・・・・・・・
平成13年度に町文化財に指定されました。」 とございます。
御門入ってまいりますと、右手に鐘楼堂、そして正面の本堂の脇に案内板がございます。
つづく
2009年10月13日
今夜は酔えないの・・・?
只今10月13日0時25分。わが猫額の庭に咲く酔芙蓉であります。
毎日20輪以上も咲いておりました酔芙蓉も10月になりましてからは、数も少なくなり、今日はとうとう3輪のみとなりました。
それで「ご苦労様」と声をかけながら携帯で写真を撮ったのです。(右)
正午頃でしたでしょうか。
そして只今庭に出てみましたら、左のような状態なものですから、またパシャと携帯で。
どこにも触れておりませんのに、縦に3つ並んでおりました。
中央の花は酔って紅くなっておりますのに、他の二つは素面です。
「今夜は酔えないの?」
よく見ますと、真ん中の花は、昼日中から、ちとやっていたようで、ほんのり顔を染めています。
普段あまり観察したことがありませんが、こんなことってあるのでしょうか。
そうそう、まだ初めの頃、小さな枝に花をつけた夜は、30分おきくらいに庭に出て、花の酔うのを見ておりました。
黄梅も一緒に酔っていたのだろうって仰るのですか。け、けっしてそのようなことは・・・。
2009年10月12日
いいことあるかも・・・三葉の松
お城大好きな私には、心をゆったりと遊ばせることの出来る所です。
ご存知かと思いますが、甲府城跡に 三葉の松(サンヨウノマツ)があります。
普通2本の松葉が3本のものです。
調べてみましたら、三葉の松は全国でも珍しく、その姿から「夫婦和楽・家内安全」を象徴して、その松葉は黄金色になって落葉し、身につけると金運のご利益があるところから、別名金銭松ともいわれているのだそうです。
また、三鈷の松ともいわれるようです。
三鈷というのは密教の法具で、弘法大師が唐の港から東の日本に向かってそれを投げ、
密教を広める地を定めたという謂れがあるそうです。そこが高野山で、そこの松の木にかかっていたのだそうです。そして、その松の木の葉が三本だったということです。
場所は甲府駅近くの入口から入り、稲荷郭と本丸への道の分かれる所で、写真のように甲府城跡と刻まれた碑と案内板の後です。
他にもあるそうです。いらしたとき、探してみてはいかがですか。
2009年10月10日
2009年10月08日
2009年10月03日
「朗読と筝・尺八が奏でる優美な世界」
早いもので、今年で8回目になります。もう8年の年月が経ったのですね。
筝曲は 「宴」 「都の春」。
筝曲・尺八の演奏は「筝尺八のための 荒城の月変奏曲」、尺八は「岩清水」です。
私は何を朗読させていただこうかと考えたのですが、瀬戸内晴美作「鬱金桜」にいたしました。
毎年、この作品が思い浮ぶのですが、季節を考えますと、ためらってしまいました。
でも、やはり好きな作品のひとつですので、読ませていただきます。
お時間がございましたら、ぜひお出かけくださいませ。
とき 平成21年10月9日(金) 午後6時30分開場 午後7時開演
ところ 旧高野家住宅(甘草屋敷)
定員 100名
入場料 無料
お問い合わせは 甲州市教育委員会 生涯学習課 電話 0553−32−1411
なお、会場につきましてはこちらをご覧くださいませ。
http://www.city.koshu.yamanashi.jp/koshu_wdm/html/fun-1/22173017001.html
2009年10月02日
奄美大島で朗読をし、それから・・・
朗読の時は奄美に敬意を表して、大島の訪問着に無月の袋帯としました。
朗読のとき以外に着る着物も用意いたしましたところで、短パン持参と。
20年以上、和服で過ごしてまいりました黄梅です。いきなり短パンなぞといわれましても、ゴムゾウリ同様買いに行かねばなりません。
短パンが必要ということは、その上に着るものもいるのですよね。
で、パジャマの裾を長くしたようなブラウスを求めました。着物で試着は無理ですので、ご一緒していただいた方に、試着の身代わりを。
出発いたしました日の午後、朗読を終え、その後、交流会をしてくださったのですが、会場は個人のお宅だったのです。
感動しました。
20人くらいの方々と、楽しい集いでした。
呑むほどに、酔うほどに、島歌が歌われ、三線が演奏され、さらには踊りも。
ホテルにまいりましても、ある種興奮した状態でなかなか眠れませんでした。
大浜の海辺には沢山の蟹がいるのですが、中に、横歩きをせず、縦に歩く蟹がいたのです。それも速いのです。
金作原原生林にはプロのガイドさんにご案内いただきました。金作原は「きんさくばる」と読みます。亜熱帯の森の探検気分を味わいました。
ただ、草むらにはいらないよう気をつけました。ハブがいるのです。
「ハブを恐がるのではなく恐れるのです」というガイドさんの言葉がまだ不消化で、頭の隅に残っています。
何処に行っても、海は美しく、花が咲き乱れているのですが、今回の旅で特に印象に残りましたことを二つ。
一つは、カヌーを漕いだこと。
一時間くらいのものですが、救命胴衣つけ、簡単な講習があり、いよいよマングローブの中へ。
ところで、マングローブというのは木の名前だと思っておりましたのですが、ここで教えていただいたところによりますと、満潮になると海水が満ちてくるところの木の総称なのだそうで、マングローブの木というのはないのですね。
オヒルギ、メヒルギというのが木の名前でした。
もう一つは、シュノーケリングを体験したことです。
マスク、スノーケル、フィンなどを付けて、海中をを見てまわったのです。
これには一瞬戸惑いましたが、一生に一度、こんな体験もいいかしらと、挑戦してみることにいたしました。
結果はインストラクターに付きっ切りでお世話になりました。
お陰様で、身長の何倍もあるところにまいりましても、恐怖はありませんでした。
海の中って、こんなに綺麗な世界だったのかと、驚きの連続でした。
始める前に講習を受け、マスクにヨモギの揉んだものをぬっていただいたのですが、不思議なほど曇らないのです。
珊瑚の上を行くと、華やかな色の魚の群です。
ウツボにも、海ヘビにもあいました。それから可愛いカクレクマノミ、そうニモが2匹、近づいてきてくれたのです。
こんなに多くの魚たちと遊べるとは思いもよりませんでした。
水着など持っていきませんでしたから、下着の上にウエットスーツを着け、マスクをつけ、シュノーケルを口にし、足にヒレのようなフインをつければ、いっぱしのダイバー・・・・・に見えるかも。
ただ海から上がったときのわが身の重さには、まいりました。
ま、そんなことで、あっという間の4日間でしたが、朝まだ暗い3時ごろから動きだし、帰りは日付が変わってからでしたから、3泊5日という感じです。
一番感動いたしましたのは、奄美の方々の人情でした。
感謝。