2009年04月21日
山梨きまぐれ歴史散歩「寅王丸の墓」(2009年4月)
今月のきまぐれ歴史散歩は、寅王丸のお墓がございます鰍沢の本能寺をお訪ねいたしました。
寅王丸につきましては、あまり調べたこともありませんので、私自身しっかり自分にいいきかせて歩き始めたいと思います。
天文9年(1540年)12月、甲斐武田家から13歳の姫君が諏訪に嫁いで行きました。禰々御寮人です。
武田信虎の三女で、信玄の妹にあたります。
お相手は、前年祖父の跡を継ぎ諏訪家の当主の座につきました諏訪頼重です。25歳でした。
この禰々御寮人の化粧料とされましたのが、長野県富士見町の先達など18ヶ村なのですね。
このとき、ある方から「先達に行くと、今でも甲州から信州にやられたことを恨んで『山梨から着ました』なんて云ったら塩まかれるよ」という話を聞き、恐る恐るまいりましたのですが、これはカツガレましたようで、塩をまかれるどころか、大変ご親切にしていただきましたことが思い出されます。
こうして諏訪に嫁ぎました禰々御寮人は諏訪頼重との間に寅王丸という男子を出産いたします。
しかし、その僅か3ヵ月の後、頼重は信玄によって甲府に送られ、甲府の東光寺で自刃して果てます。自刃して果てたというより、自刃に追い込まれたのですね。
信玄が諏訪に侵攻いたしましたとき、諏訪頼重は上原城で迎え討ち、後に桑原城へと移りますが、上原城を訪ねましたとき、板垣平と記された所がありました。武田の初代諏訪郡代が、板垣信方だったのですね。
さて、諏訪氏の当主と武田の姫君との間に生まれました寅王丸につきましてはあまり資料がありませんで、その後の様子は判りませんでした。
武田氏の人間関係を調べますときに使っております「武田一族のすべて」という本の禰々御寮人の項には「夫を甲府で謀殺させられて甲府に留めおかれ、不運な最期をとげた。天文12年1月19日に死去。わずか16歳であった。寅王丸のその後も不明である」と記されております。
他には、寅年生まれのなので寅王丸と命名され、後に千代宮丸と改名させられ、僧籍に入り長岌(ちょうきゅう)となる。今川義元を頼って行くところを捕らえられ殺されたというもの。
また、越後に出奔し、上杉謙信にその美貌と胆力を愛され、春日山城内に住むことを許されていたというものもあり、一説には福島県大熊町の野上の里に行き、諏訪大明神を祀ってここに住み、金山を探しにきた山伏と二人で温泉を発見したという説もあり、その玉の湯温泉の旅館のご主人は先代で23代目に当たるということです。
とにかく、どこでどうして亡くなったのか判らなかったのです。
それが鰍沢町箱原の本能寺に寅王丸のお墓があると知り、早速出かけました。
箱原で出合った方に伺い、あのお宅に行って聞くといいですよと教えられたYさんのお宅にまいりました。
Yさんは、私も詳しくは知りませんがと仰って、鰍沢町史を出してきて、それを見ながらお話くださいました。
「本能寺五輪塔は寅王丸の墓と云われている。
伝承によれば、寅王丸は信濃の武将 諏訪頼重に嫁した信玄の妹の一子であるという。
寅王丸の母は、夫頼重が信玄に討たれた後、わが子寅王丸にも危難が及ぶのを恐れ、河内の親族 下山の穴山氏に幼い寅王丸を託すべくここまで来たが、寅王丸はこの地で、追ってによって殺された。
哀れに思った箱原の村人は、寅王丸の亡骸を本能寺の裏山に葬り、小さな五輪塔を建てた。
それが今ある一石五輪塔であるという。
一石五輪塔故の誇張は止む得ないにしろ、その火輪の軒反りの形、水、土輪の形状などから判断すると、伝承より幾分時代が下がる江戸初期頃の製作と推測されるが、一石五輪塔としては、本県で最も美しい形態をとどめた五輪塔といっても過言ではない。
とあります。
さらに、石質が地元河内特有の風化されやすい凝灰岩のため崩壊などの事態も危惧されるので、慎重なる保存の必要性を感ずるということですね」
「一石五輪塔というのは、一つの石から掘り出した五輪塔ということなのでしょうね」と黄梅。
「そういうことですね。高さは55.6センチ、それから台座が16.3センチです」
「お玄関を入ったところの上に本能寺御守護というお札が貼られておりますけれど」と黄梅。
「本能寺の住職が、お正月とかお盆にお経をあげにくるのです。その時に持って来てくれるんです。」
何軒かは外に出ているが、ほぼ40軒くらいが檀家になっているということです。
「本能寺のお寺の境内に池があるんです。
なぜ池かというと、その上に灌漑用水があるのです。大きい水路がね。
それが、山が崩れると一緒に水路も崩れて池の中に入ったのではないかと・・・仄聞です。ちょっと自信は持てませんけれども」
Yさんにご案内いただき、本能寺にまいりました。
立派なお寺さんですが、ご案内いただかなかったら、境内を探しても見つからなかったでしょう。
本堂の左手の小道を上ったところです。
五輪塔は古いものですが、右側の寅王丸の墓と刻まれました碑や、左側に建てられております「鰍沢町指定有形文化財の碑は新しいものです。
近くを流れる富士川にもご案内いただきました。
この辺りは富士川舟運の難所であったそうです。
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この記事へのコメント
人それぞれにドラマがあるものですが、戦国時代には、自分ではどうにもならないさだめに翻弄された人が多かったんでしょうね。
今は、いい時代なのでしょうか。それとも・・・・・返って難しい時代かもしれませんね。
教えるなんてとんでもないことです。素人の駄文にお付き合いいただき、お励ましくださいますことに、感謝です。
何の知識もありませんが、お訪ねした先でお伺いしたことをお伝えできましたらとの思いで、続けております。
面白いお話がございましたら、お教えくださいませ。
写真入りで迫力がまして、良いと思います。
寅王丸の頃も富士川は流れていたのですね。
福島県野上の里、金山と温泉の説がいいと勝手に思っている私です。
又、空いている日はありませんか・・
そうですね。寅王丸は富士川をどんな思いで眺めたのでしょうね。
富士川について学ばせていただきましたことを思い出します。
また、ご連絡させていただきます。