きまぐれ歴史散歩
2009年08月15日
山梨きまぐれ歴史散歩「沖縄」(2001年8月)
昨日は息子にナスとキュウリで牛と馬を作ってもらい、お迎え火を焚きました。
2001年8月の「きまぐれ歴史散歩」は沖縄でした。お付き合いいただけましたら有難いと思います。
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今月のきまぐれ歴史散歩は沖縄を歩きます。
まず沖縄で強く感じましたのは、全く異なる文化圏だということです。
今おりますこのお店は、琉球料理をいただきながら琉球舞踊を楽しむことが出来るお店です。
着物には、江戸小紋、京友禅、や、各地の紬など、その土地独特の染めや織物がありますが、仕立てられた着物の形は同じですよね。
でも琉球舞踊や首里城で見る着物は、独特のものですね。
まず、太い帯がありません。「ながさーじ」という紐で着付けしています。
助六のように頭に巻いている紫の紐も「ながさーじ」だそうです。
助六はそれを顔の横にたらして」いますが、琉球のそれは後にたらしています。
それから、お袖でしょうか。平口になっています。袖口の下が縫い合わされていないのです。
私共がこの形のお袖に接するのは、赤ちゃんのお宮参りのときの着物でしょうか。
「大名袖」というのだと昔々母から手にとって教えられました。
私、この琉球舞踊にすっかり魅せられてしまいました。中でも、黒地に白の琉球絣をまとった姿の美しいこと。
翌日、その姿を夢見て呉服屋さんを探す黄梅でありました。
ところが呉服屋さん曰く、「あなたのように太い帯を締める着方をする着物にはあの大きさの絣はあわないし、あれは舞台でひきたつ大きさなのだから・・・」ということで止められてしまいました。
こんな一寸したことにも文化のちがいを感じさせられました。
次に言葉ですが、難しいですね。
歌詞は全然解かりませんでしたし、街へ出て話をしても解からないことの多いこと。
さて、首里城公園として整備された中にたつ華麗な首里城。その近くの王家の墓、玉陵(たまうどん?)広大な敷地内で琉球王朝の歴史や文化、沖縄の自然にふれることが出来る玉泉洞王国村などまわりましたが、どこよりも強く心に残りましたのは、ひめゆり平和祈念資料館でした。キネン資料館のキネンは記念ではなく祈念なのです。
まずお花を買い求め、ひめゆりの塔にお供えし、入館いたしました。
館内には南風原(はえばる)陸軍病院」の壕のジオラマがありました。そこでどのような恐ろしいことが行われたのかを知りましt。
また亡くなった犠牲者のお写真が展示されていましたけれど、まだあどけなさをその表情に残している少女達です。
独歩患者という言葉をご存知でしょうか。
私は、ここに来て初めて知りました。
軽症者は一報患者(いっぽうかんじゃ)、重症者は二報患者(にほうかんじゃ)、死亡したら三報患者(さんぽうかんじゃ)と呼んだのだそうです。
そして一人で歩ける負傷兵が独歩患者なのですね。
南部へ撤退のとき、前線の野戦病院や南風原に約一万の重傷者がいて、その輸送が問題となりました。
参謀長は「各自、日本軍人トシテ辱(はずか)シクナイヨウ善処セヨ」と指示し、これをうけた各病院は毒薬を与え、あるいは放置して、独歩患者だけ連れ出したというのです。
歩けるはずもない重傷患者が独歩患者だといって寝台から降りようとして、転げ落ちて死んだ人もいたと申します。
泥の中を這いずり回る、両足のない独歩患者も。
館内では多くの人々の手記が読めるようになっております。
茶髪の若者がその手記を何となくといった感じでちらと見ました。次第に熱心に読み始め、次には、周りを見回して涙をふいていたのです。
私もいく編か読ませていただきました。
あまりにも悲惨な状況で、しばらくはそこから動くことができませんでした。
なんともやりきれない思いで、次の目的地、平和祈念公園に向かいました。
「糸満市摩文仁(いとまんし・まぶに)という地名になりますね」
タクシーのドライバーさんが説明してくださいました。
「前方の丘が摩文仁の丘というところです」
「激戦地だったのですね」
「陸軍の第32軍 牛島司令官が最期をとげたところと云われます」
「それで沖縄戦が終了したということなのですか」
「終戦記念日というと普通は8月15日ですけれど、沖縄ではその6月23日が終戦記念日となってますね」
「左手にはりんごをかたどった青森県ですね」
というように、ここ摩文仁の丘には各県の慰霊塔がずらりと並んでいるのですが、山梨県のものは見当たりません。
少し離れたところにあるというので、案内していただきました。
摩文仁の丘のある糸満市(いとまんし)の東隣の村、グシチャン村(具志頭村字具志頭村)です。
こうして山梨県が建立した甲斐の塔へお参りさせていただきました。
ここにまつられているのは22,048柱で、沖縄戦戦没者528柱、南方諸地域戦没者21,524柱ということです。
足がではなく、心が重くなった歴史散歩でした。
2009年08月01日
黄梅失敗の記
甲府盆地は晴れ。気温もさほど暑くありません。
お障りなくお過ごしでいらっしゃいますか。
このブログを始めましたきっかけが、長い間書いてまいりました「きまぐれ歴史散歩」を記録することにあったものですから、30年ほどの「時」を不規則にウロウロ往ったり来たりして、お読みくださる方にご迷惑をおかけしてまいりました。お許しくださいませ。(「今さらなによ」「はいそのとおりで」)
また、予定通りにいきませんときには、ボツにしておりましたのですが、近頃になって、「見込み違い」「予定通りにいかなかった」などということも、一つの結果として記録しておきたいと思うようになりました。
ですから今回のようなものは、黄梅の失敗記録と思し召してどうぞ読みとばしてくださいませ。
(「こんな長い前置きの後で、読み飛ばせはねえだろう」「へえ、仰るとおりで」すみません、黄梅只今、江戸っ子の台詞を練習中なものですから・・・)
7月28日の「熊野古道と高野山」に記しましたように、先日の散歩の目的は二つ。
一つは武田二十四将の一人馬場信春の墓石にお参りさせていただくことでした。
墓石の写真はご遠慮したいのですが・・・。
この手前側、墓石の向いている方が武田信玄公と勝頼公の墓所です。
その前が小路になっておりまして、案内がありますので、お二方の墓所は、前回まいりましたとき判りましたのですが、馬場美濃守の墓所は判りませんでした。
今回はまいりませんでしたが、信玄公と勝頼公の墓所の小路を挟んで向かい側の小高いところに上杉謙信公の墓所がございました。
さて、もう一つの目的はと申しますのは、湯川氏のいたところを訪ねたいということでした。
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/yukawa.html
http://www.yasuicamera.co.jp/2contents/joudo2.html
http://kamnavi.jp/kumano/nhj/yukawa.htm
様々なところをお訪ねしました。
現地の案内板で
湯川王子の文字を見つけました。
三越峠と岩神王子の間で、蛇形地蔵を目指せばよいと思ったのですが・・・・・
橋の下をくぐって川沿いに進むのですが、左のような雰囲気です。

先の様子が判りませんので、案内板に注意し、慎重に進みましたのですが、道の状態に危険を感じ、引き返しました。
あと3キロくらい進めばよかったのかもしれません。
「国道311号線が三越峠の険路を避けて敷かれて交通路から取り残されたこともあって住人の退去が進み、1956年(昭和31年)には無住の地となって、社地も廃墟と化した」
この言葉の意味を、身をもって知らされました。
2009年07月24日
2009年07月17日
山梨きまぐれ歴史散歩「奥の細道 白河の関〜都留市」(1996年11月)
只今甲府盆地は雨ですが、13年前にまいりました白河も雨でした。
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今月のきまぐれ歴史散歩は ”みちのく” の玄関口、福島県白河市の、白河の関跡にやってまいりました。
今では新幹線や東北自動車道が通り、はるばるやって来たという感じはいたしませんが、雨の中、ひとけのない白河の関跡に立っておりますと、いにしえの人々の息遣いが聞こえてまいりますようで、時を溯ってゆく思いです。
白河の関・白河関の森公園周辺案内図があります。
中央に奥の細道の芭蕉と曽良の像がありまして、その両側が、白河の関と白川関の森公園になっております。
白河の関の方は、白河神社を中心に関所の跡、関守の館跡、空堀などがございます。そしてここには芭蕉の句碑なども。
また、白河関の森公園の方は、木々や花の間に奥の細道遊歩道が通っておりまして、ビジュアルハウスとか故郷の家というような設備もあります。
「史跡白川の関跡」という大変立派な石柱が建っております。高さが2m以上もありますね。
「白河の関の泉手水舎」
「口をすすぎ、手を清めて参拝しましょう。
この泉は古く前九年の役に於いて、源義家公が白川の関南門に至り、咽喉の乾きに苦渋し、当神社に祈願。矢の根をもって清水を掘り当て乾きを潤し、念願成就した 矢の根清水をここに引いたもので、願い事ある人はこの水 口に含むべし。手は入れないでください。
白河神社」
これは白川の関の藤という樹齢約500年の藤の古木です。その奥右側に石碑がございます。
「古関跡の碑」
「白河藩主松平定信(楽翁)が寛政12年8月、ここが白川の関跡であることを確認して建立した碑である。」という案内板がありますが、碑には 「古関跡」 の三文字が刻まれているのみです。
社殿の左手に大変古い歌碑がございます。右から平兼盛、能因法師、梶原影季の順になっております。
便りあらばいかで都につけやらむ今日白川の関はこえぬと 平兼盛
都をば霞とともにたちしかど秋風ぞ吹く白川の関 能因法師
秋風に草木の露をはらわせて君がこゆれば関守もなし 梶原影季
能因法師の歌は西行、芭蕉がその後を慕って旅をしたといわれているほどですね。
平兼盛は
しのぶれど色にいでにけりわが恋はものや思うと人のとふまで
という百人一首の歌でよく知られておりますが、カルタ狂いの黄梅、旅先で出会いますと、親しい人に会えたような気がいたします。
そうそう能因法師も
嵐吹く三室の山のもみぢ葉は竜田の川の錦なりけり
百人一首でお馴染みの方ですね。
こちらは芭蕉と曽良の銅像です。横3m高さ1mほどの自然石の上に、お身の丈1mくらいのお二人の像です。
その台座の石に、芭蕉と曽良の句が刻まれております。
風流のはじめや奥の田植えうた 芭蕉
卯の花をかざしに関の晴れ着かな 曽良
銅像のかたわらには曽良の句にちなんでなのでしょう、卯の花(うつぎ)が植えられております。
曽良の句の通り、白河の関を越えるのに、小袖と羽織を晴着として借りているのですが、この像は、晴着姿ではなく、旅姿です。
曽良について芭蕉は「奥の細道」の中で、「曽良は河合氏にして惣五郎といえり。芭蕉の下葉に軒をならべて予が薪水の労をたすく」と記しております。家事を助けてくれていたということですね。
軒をならべてという表現は、お隣に住んでいたということではなく、近所であったというほどのことでしょう。
芭蕉と曽良は前後して深川に住んでいたのですね。そしてこれが、二人の出会いとなったのでしょうが、芭蕉と曽良の出会いについては、もう一つ ”甲州・谷村説” がございます。
芭蕉は延宝8年(1680年)、深川に住まいを移しますが、翌年、門弟から芭蕉の樹を贈られ、芭蕉庵と称したのですね。
かつてやはり「きまぐれ歴史散歩」の折、滋賀県の義仲寺で芭蕉のお墓にお参りいたしましたとき、そのかたわらに芭蕉の樹が植えられておりましたことが思い出されます。
木曽殿ととなり合わせの寒さかな 木曽義仲のお墓の隣でございました。
さて、話を戻しましょう。
天和2年(1682年)12月28日、駒込大円寺から出火した大火で、深川の芭蕉庵は焼失してしまいます。有名な ”八百屋お七” の大火です。
このとき焼け出された芭蕉を甲州谷村に案内し、世話をいたしましたのが、高山右衛門(麋塒 ビジ)というお人です。
甲州谷村城主秋元但馬守の国家老でした。
こちらは都留市 富士女性センターの入口です。
大きな句碑がございます。手をのばしても届かないほど高い句碑です。
山賎の(やまがつの) おとがい閉ずる むぐらかな 芭蕉
「天和2年(1682年)12月江戸大火によって焼け出された松尾芭蕉は、翌天和3年、当時門弟の一人であった谷村藩の国家老 高山伝右衛門の招きに応じ、この都留市にやってきた。そして桃林軒という高山伝右衛門の離れにしばらく滞在した。この辺りが、その屋敷のあったところである。
ここに刻まれた俳句は、山に登ってゆく道にまで葎が生い茂っており、山男たちは歯をくいしばり、真剣になってそこを通り抜けようとしているという意味であって、甲子吟行(1685年)の記と麋塒のところに立ち寄った芭蕉が、甲斐山中にて詠んだものと云われている。
また、甲州の歴史・地理に詳しく、山梨についていくつかの著作をされている井伏鱒二氏は、著書『岳麓点描』の中で芭蕉は山男たちから延宝9年(1681年)に谷村藩でおきた百姓一揆の際、江戸幕府へ追訴をして捕らえられ処刑された百姓総代7名のことなどについて詳しく訊きだそうとしたのだが、禍を恐れた彼等が口を閉ざして話そうとしなかったので、そのことを葎にたくして詠んだのではないかというような意味のことを書いている。
ただ葎をよんだということだけでは平凡に思われたこの句も、裏にそのような意味が込められているとなると、なかなか興味深いものがある。」
こんな碑を読みますと、芭蕉隠密説などが頭をかすめますが、それはさておき、この谷村滞在中の芭蕉を曽良が訪ねたのが二人の初めての出会いだとする説があるのですね。
(旅好きの?曽良ですから)そんなこともあったのかもしれません。
「曽良は河合氏にして・・・・・」というくだりを先ほどご紹介いたしましたが、曽良は信州の上諏訪に、高野七兵衛の長男として生まれております。そして近くの母の実家にひきとられます。河西家です。
6歳のときに、両親が亡くなり、河西家で育てられていた曽良は河西家からさらに母方の叔母の嫁ぎ先である岩波家に養子に出され、岩波家の養父母が相次いでこの世を去ると、こんどは叔父をたよって伊勢の長島へまいります。
この伊勢の長島にいたころ、曽良は河合姓を名乗っているのですが、この河合という姓は、曽良の母方の河西家の旧姓だというのです。
この辺りで黄梅の頭から、微かにピーピーというなさけない音が聞こえています。
さあもう一息、なんとか着地点まで頑張ります。
ではなぜ河合家が河西家に変わったかと申しますと、河西家の先祖は甲州北巨摩郡中田村に住んでいた、武田信玄の家臣河合氏だというのです。
ようやく着地点が見えてきましたね。
信玄の死後、織田信長によって諏訪の情勢は一変いたします。
信玄が信仰しておりました諏訪大社の上社は焼き払われ、武田氏の家臣は断罪に処せられたのです。
それで河合家は河合姓を秘かに河西と改めて、武田家の家臣であることを隠し、斬殺を免れたと申します。
かくして芭蕉が記しましたように、曽良は母方の旧姓を名乗ったというのですが、これにも又、他に、伊勢の長島藩の河合氏によるものという説もございます。
いずれにいたしましても、曽良の母方は武田家の家臣に家柄だったのですね。
そして、木曽川の曽と、長良川の良の字から曽良という俳号をと考えますと、只今は温泉で有名な長島は、曽良にとって第二のふるさとだったのでしょうか。
そして、そこは芭蕉の生まれた国でもございました。
2009年06月27日
山梨きまぐれ歴史散歩「富士吉田〜東京下谷・富士塚」(1998年9月)
おおぎ さんにいただきましたコメントから、富士塚を思い起こし、そうそう、昔、下谷の小野照崎神社の富士塚に伺ったことが・・・と。
そこで今回は富士講のお話です。
1998年9月、もう秋の気配の富士吉田・北口本宮富士浅間神社から歩き始めました。
多勢の人で賑わいました火祭りも終え、静かな北口本宮富士浅間神社です。
もう何度となく伺っておりますけれど、大鳥居までのこの参道を歩いておりますと、心が清められるような気がいたしますが、同時に、日常の空間から異なった空間へ誘われるような思いがしてまいります。
両側には石灯籠が数え切れないほど沢山並んでおります。資料によりますと130基とあります。因みにこの参道、入口から大鳥居まで150メートルだそうです。
大鳥居をくぐり、左手に杉の大木・太郎杉。そして拝殿でお参りをいたしましてから、拝殿左手のお部屋で神官の方にお話を伺いました。
「当神社は北口本宮富士浅間神社といいます。北口と申しますのは、富士山から見て北の方の登り口、通称吉田口という登山道の起点にこの神社は位置しております。
「起源を紐解きますに、景行天皇40年、日本武尊が東征の折に当地を訪れまして、富士の雄姿に感嘆されまして、ここより拝せよと仰せになりまして、鳥居を建てしめ、小さな祠を営んだのが発祥とされております。
時代下りまして延暦年間、当地に社地を移しまして、現在に至っているわけでございます。
現在の本殿は、江戸の初期の建立であります。
拝殿があって本殿を拝むという形ですが、かつては、ここから富士を直接拝んだわけです。
ですから、富士山イコール本殿というようなことです」
「富士山そのものが信仰の対象なのですね」
「そうです。原初的な信仰形態ですね」
「ですから今も、本殿を通して富士山を拝むというような形態でしょうか」
こちらの拝殿から本殿に手を合わせますと、本殿を通して富士山を拝む方向に社殿が造られているのですね。
富士信仰は江戸時代大変盛んになり、多くの富士講社が作られていたようです。
今年(1998年)の夏、富士山のお山開きには、お江戸日本橋からこちらの浅間神社まで、およそ120キロの冨士道(みち)を歩く「冨士道あんぎゃ」というイベントが富士吉田市の主催で行われました。
参加者は、地元富士吉田市をはじめ、東京、千葉、神奈川、一都三県からの参加者17名で、白い行衣に菅笠そして金剛杖を手にした昔の富士講のスタイルを再現したということです。
それではその富士講についてさらにお伺いいたしましょう。
「富士講は特に江戸中期から末期にかけまして盛んになっていった講であります。
富士講のトップになる人を先達と云いまして、先達の方が信仰厚い方を組織して、ま、大小あるのですが、多いところですと100人以上、小さいところでも20人ぐらいで組織いたしまして信仰の為に富士山に登ったというのが冨士講といいます。
数としては無数にあったという記録があるんですが、江戸八百八町の八百八講と云われるほどの数が組織されておりました。
富士講という組織がありましても、毎年というのは、経済的、時間的に無理が生じますので、輪番で来たようですね」
「全員でではなく、先達さんだけが同じ方で、あとの方々は交代でということですか」
「そうですね。当時、江戸からこちらまでという旅は大変ですから」
「どのくらいかかったのでしょうか」
「そうですね、来るのには5日くらいでしょうか」
「山中で泊まるのも含めて、だいたい5日くらいじゃないでしょうか」
「そういたしますと、10日くらいかけてということに」
「ですから江戸ですと10日くらい。もっと遠い千葉ですと2週間近くかかったようですけれど」
「かなり憧れは強かったのでしょうね」
「関東地方に、富士見町とかいう地名が多いですが、そこから富士を拝んだということでしようね」
「火祭りにまいりましたら、白装束に鈴(れい)をお腰につけた方がいらっしゃいましたが、今も多勢いらっしゃるのでしょうか」
「そうした形態を調えて登るという講社は、ま、数は少ないです。具体的に云いますと、15から17くらいでしょうか」
「その方々は毎年いらっしゃるのですか」
「もう、毎年です。昔のように輪番でなくて。交通機関も発達してますんで」
「お泊りになる御師の家も決めていらっしゃるようですが」
「そうです。どこの御師の家に泊まるかというのは昔から決められていまして。まあ、途中御師を替えるという講社もあるんですが、まあ、固定してますね」
「盛んなころには多くの御師の家があったということですか」
「そうです。100軒近くはあったようなのですが。現在御師として機能しているところは数軒なんですけども、御師として名前が残っているお家は30軒くらいは今でもありますが」
お話を伺っておりますと、江戸時代のと申しますか、今にいたるも続く富士信仰への人々の思いが伝わってまいります。
社殿の右手、数多くの摂社がおまつりされております前を過ぎますと、そこからが富士山への登山道となります。
素木の鳥居に富士山と記されましたやはり素木の額です。
その鳥居の右手には、富士講の先達さんの姿の石像があります。
鉢巻だけが本物の布です。後に続く方々がこの鉢巻を取り替えていらっしゃるのでしょうか。
道の両側に、非常に多くの碑が建っております。三十三度の記念碑が多いですね。区切りの回数なのでしょうね。
やはり江戸・東京のものが多いようです。
江戸から往復10日もかかる富士登山は、時間的にも、経済的にも大変なことだったのでしょうね。
そこで考えだされましたのが、江戸に富士山を作ることでした。
寺社の境内に小さな富士山を築き、富士山に登ることに替えたのです。
東京・下谷の小野照崎神社には江戸時代の富士塚が残っておりまして、国の重要有形民俗文化財に指定されておりますとか。
行ってみましょう。
社殿の左側に富士塚があります。
そして富士塚の前には大変立派な、高さが2.5mくらいはありますでしょうか、富士塚 浅間神社と刻まれました石碑が建っております。
石の玉垣に囲まれ、石の門、鉄の扉。その前に何やら動物のようなものがありましたので、狛犬さんかと思いましたら、合掌している姿のお猿さんでした。
案内板によりますと、この富士塚は、高さ約5m、直径約16m。文政11年(1828年)に築かれました。江戸とその近郊には50以上もの富士山が造られていたということです。
この富士山は6月30日・7月1日の両日に限り、一般の方々に開放され、芽の輪くぐりも行われているのだそうです。
お孫さんを連れていらしていたご近所の奥様が芽の輪くぐりの仕方を教えてくださいました。
「茅の輪をくぐるときは、左から回って右に抜けて、それを三度くぐってお宮をお参りするっていうのが茅の輪くぐりなんですよ。そんな言い伝えがあるんですよ」
「幼稚園のお子さんたちもそうなさるんですか」
「そうそう、お子さんから大人もですよ。古くからいる方は、やっぱりそこを通ってからその日はお参りをするんですよ。自然にやってますよ」
「そうですか。いいものですね」
「そうですね、5月の浅草のね、三社祭り、そんときも、ここのお宮のお祭りも一緒なんですよ。
それから始まって、7月のほうずき市、それから朝顔市、5月からは毎週のようにお祭りさわぎがあるんです。どこいってもお神輿が見られる。週末はねえ。
えー、下町は凄いですよね。」
「いいですねえー」
「いいですよー。子供らがね、お祭りにね、出稼ぎにいくのが、大変!お菓子を貰うのが!はっはっはっはっ・・・」
「下町は」いいですよー」というときの、なんともイイお顔。
その笑顔と元気なお声に、私も少し元気をいただいた思いで、足取りも軽く帰路につきました。
2009年06月25日
山梨きまぐれ歴史散歩「根津記念館」(2009年6月)
昨年、平成20年10月11日、山梨市の根津嘉一郎の邸宅が、根津記念館として見事に甦りました。
拝見させていただきたいと思いながら果たせずにおりましたが、このほどお訪ねすることが出来ました。
以前、根津橋や「根津さんのピアノ」をご紹介いたしましたが、小泉剛著「甲州財閥」によりますと、根津嘉一郎は先輩の教えを胸にことに当たったのですね。
若尾逸平からは「金儲けは、発明か株に限る。発明は学問がなければ出来ないが、株は運と気合だ。もし株を買うなら、将来性のある乗り物か灯りだ」と。
そして、雨宮敬次郎には「相場で一時の利益を得るのは男子の本懐ではない。自ら事業を興し、事業を盛り立て、その利益を享受することをせよと、たしなめられた」とあります。
そしてさらに、「根津は若尾・雨宮両巨頭の薫陶を受けて、甲州財閥中最大の成功者となった一人である」と記されております。
それでは正面16間、側面3間という立派な長屋門から入ります。
記念館の方にお話を伺いました。
「私、初めてなのですが、御門を入りまして正面の建物、あれは新しい建物でしょうか」
「はい。母屋がございまして、あの新しい建物は、移築されて無かったものでございまして、そちらを基礎と図面をもとに復元した建物でございます。名前は青山荘と付けさせていただいておりまして、根津嘉一郎さんがお茶人でもございまして、その雅号を青山と申し上げましたので、そこから青山荘と付けさせていただいております」
「お住まいになっていたのが、東京青山の根津美術館でございますから、そこからの雅号だと思われますけども」
「そうですか。以前根津美術館にまいりましてときも、見事なお茶道具を拝見させていただきましたが・・・」
「そうですね。お茶道具を収集することも、非常にお好きだったようですね。当時の要人の方々とお茶を嗜んだということでございます」
「ここは昔から根津家のお屋敷だったのですか」
「このお屋敷、敷地自体は昭和初期に整備されたものでございまして、こちら根津家、当時は大地主でしたから、その地主経営の場として、また居住の場、迎賓館として使用されていた、昭和初期のものです」
「正面に復元されました美しい建物、青山荘の左手の建物は?」
「こちらは、やはり母屋なのですが、旧母屋と呼んでおりまして、県内第二位の大地主でしたから、地主経営の場、または居住スペースとして使われていた二階建ての建物でございまして、昭和8年の建築であることが確認されております」
「昭和8年ですか!」
「そうですね。昭和8年、かなり古いものですが、最先端の技術を使って建てられたものでございます」
「電気配線は全て埋め込み配線になっています。また、ボイラー設備なども備わっておりまして、昔使っていたトイレが残っているのですが、そちらの蛇口をひねるとお湯がでたということですね。そのような技術を使っておりました」
「こちらを拝見させたいただきますときに、どういうことに注意したらよろしいのでしょうか」
「やはり私たちがこの記念館で一番伝えたいことは根津嘉一郎翁の功績ですね。社会から受けた利益は、社会に還元する義務があるという信念をを展示棟の方で紹介しておりますので、まずそこをお伝えしたいのです。そのなかで、昭和初期にこんなに整備されて守り続けてこられた根津家ですね。また、富士を借景とした庭とか松、そういったものも感じていただければと思っております」
「功績と申しますと、どういうことになりましょうか」
「一番代表的なものは、根津ピアノでございます。これは有名なのですが、昭和初期に山梨県下全ての小学校、200台以上にのぼったそうですが、ピアノを寄贈されたということで、今のお金でいうと総額2億6千万くらいしたそうなのですね」
「その他には、山梨市内に根津橋という橋もございます。地元山梨小学校、昔は平等(ひらしな)尋常高等小学校と云ってましたが、そちらの建設や、山梨県初めての県立図書館の建設、また東京では武蔵大学の前身の高等学校の創設もなさっているということで、数多くの教育振興に寄与されたことであるということでございます」
「なさった事業のこともお話いただけますか」
「まずは鉄道王と呼ばれておりまして、鉄道会社です。東武鉄道初代社長さんをはじめといたしまして、24社くらいの会社にかかわっております」
「その他にも、今の富国生命や日清紡績、日清製粉、秩父セメント、また、ビール事業や金融事業、新聞事業ですね。確認できるものだけでも126社以上の会社経営に関った方でございますので、多種多様な事業経営が得意であったということでございます」
「今、お子さんたちが大勢みえてますけど、伺いましたら、授業の一環ですって先生が仰ったのですが」
「はい。先ほど貢献のところでご紹介いたしました山梨小学校、ここから歩いて10分か15分のところなのですが、根津嘉一郎翁が建てた小学校でございます。そちらの小学生が今日は校外学習として来ていただきまして、こんな素晴らしい方がいたんだなということを、私たちの小学校を作ってくれたのはこん人なんだということを肌で感じていただければ、ほんとうに嬉しいと思います」
「今日はお子さんの笑い声が聞こえて、非常に楽しいですね」
「いいですね」
「これが私共には一番嬉しいことです。小学生がまた家に帰って、お父さんお母さんにお伝えいただいて、そしてそれを勉強の一環として、今後生きていくうえでの信念にひとつ入れていただければ、これ幸いだと思います」
「それから、綺麗なお蔵が並んでおりまして、それを見ながらこちたにまいりましたのですが」
「そちらのお蔵は三階建ての土蔵になっておりまして、国の登録有形文化財に指定されている建物です。普通お蔵は二階建てですけど、ここは三階建てで非常に立派なお蔵でございます」
「今は正面に青山荘と旧母屋がありますが、他の建物は?」
「そうですね、根津嘉一郎翁の幼少時代からお亡くなりになるまでを紹介して展示棟、長屋門も国の登録有形文化財のなっております。あとは富士の見える庭園ですね。約2300坪ほどございます」
「お庭もご立派ですね」
「根津嘉一郎翁は作庭といいまして、庭作りも大好きだったのです。庭師を入れずに、根津好みなどといいますが、嘉一郎翁の感性をもって庭を造られたということでございまして、この庭も根津さんの好みが生かされた庭でございます。お茶室から富士を見たり、松を見ながら、ひと時を楽しんでいたのかなというふうに感じております」
そのお庭の見事な黒松は、大磯の別荘に植えられておりましたものを移植したものだそうです。
場所は山梨市正徳寺。
山梨市駅より、春日居町駅のほうが近く、徒歩20分ほどです。
車でしたら、国道140号山梨小前交差点より2分ほどです。
ぜひお出かけくださいませ。
2009年06月12日
山梨きまぐれ歴史散歩「妙法寺」(1992年9月)
今回のきまぐれ歴史散歩は河口湖のほとりにございます妙法寺にまいりました。
妙法寺と申しますと、甲斐国の貴重な歴史資料「妙法寺記」でも有名なお寺でございます。
ご住職様から不思議なお話を伺いました。
「妙法寺は700年の歴史があるんですよ。日蓮様がね、文明6年というんですから、今から720〜30年前でしょうかね。
鎌倉にいたんですけでも、ぜひ日本が平和になるように、皆が幸せになるようにと、写経ってよくやるでしょ、お経をよむんではなく、書くんですよね。
その写経をされて、法華経をしたんですけども、それを富士山にお埋めになって、埋経っていうんですがね、日本の平和を祈念したことがあるんですよ。
だけど、富士山の頂上まで行くのは容易じゃございませんからね、丁度5合5勺のところに経ヶ岳というのがございます。
そこに自分のお書きになったお経を埋めて、祈って、100日この辺にいらしたらしいんですよ。
奇縁にしたがった人が何人かいたんですよ。それがまあ、28人いたっていうんですよね、その当時。700年前に。
それで28人が日蓮さんお帰りになるとき、是非自分たちのご本尊さんとして御曼荼羅を書いてもらいたいと。
法華宗は仏像じゃなくして、字曼荼羅なんですよ。南無妙法蓮華経というのがご本尊なんですよ。
南無というのは皆さんご存知だと思いますけどね、南無釈迦牟尼仏というのはお釈迦様に帰依しますということなんです。
それを書いてくれといって、それぞれ半紙くらいの紙ですかね、それを28人の方が持ってきたんですがね、日蓮様、いちいち書くのも大変だから、糊で貼ってつなげてくるようにと仰ったのです。
28枚ですと畳2畳くらいになるんですかね。それが表具してありますからもっと大きなものなんですがね。
それを信者の人たちが見守る中、岩の上でお書きになったというです。
そうしたところが、書くにしたがってだんだん前の紙が下がってきますよね。
岩が象の鼻のように曲がっちゃったというんですよ。それがこの妙法寺の奥の院のところに霊石としてあるんですけども。
鼻曲り石っていうんですけどね、その上でお書きになった。
その当時、そんな大きな筆を持っていないから、柳の枝をつぶして筆にしたっていうんですがね。
どこまで真実かわかりませんですがね。
それで柳曼荼羅ともいうんですよ。
ご本尊のことを曼荼羅ともいうんですがね、日蓮さんがお書きになったものは、身延山にも、池上本門寺にもありますし、日本中に沢山あるのですが、124あるんですよ。
その中で、一番大きいものなんです。御真筆の中で、一番大きいものなんです。大きいから一番いいってわけじゃないんですけれど。
そこに優婆塞頭太夫日朝にこれを授けると書いてあるんですよ。
現在妙法寺には1000軒の檀家がありますが、その中、その子孫が約三分の二ですかね。
それみんな渡辺さんなんですよ。
その当時は苗字はなかったんでしょうが、途中から苗字を許されて付けたのが渡辺さんで、
ですから日蓮様がいらした700年前には28軒だったのが現在1000軒に拡がったんだけれども、子孫がずっと御曼荼羅を中心にして信仰し、また拝みながら生活しているんです。
ですからこの辺で渡辺さんなんて言っても、右も左も渡辺さんだからだめなんですよね。
それが一番の宝物でね、その表具の裂は、徳川家康の側室のお万さんていう方がございますよね、。」
「七面山に女性で初めて登られた方ですね」
「そうそう、そのお万さんがこの河口湖畔を通られたとき産気づいて、うちの檀家の渡辺さんの子孫が、お乳をお万さんの子供に提供したらしいんです。」
「ここでお産なさったのですか。」
「そうらしんです。産ヶ屋崎(うぶがやさき)っていうのもございますね。こっちの方に渡辺さんの子孫のところは乳ヶ崎と書いて(ちがさき)ってよむんですよ。そこに渡辺さんの子孫がたくさんいるんですけどね、その中のある奥さんが、お万さんのお子さんにおっぱいをあげたので、お礼にご自分の帯を後でくれたんですよ。
それを28紙の日蓮さんがお書きになったご本尊の表具に使ったのです。
そういう曰く因縁のあるご本尊が、現在は妙法寺にないんですよ。身延山からは、何度も何度も取りに来たらしいんですよ。そんな立派なものがこんなところにあるのはおかしいと。
やるわけにいかないから、直接の本山が静岡県沼津の光長寺なので、そこに預けることにしたわけです。
それでね、篭坂越えてご本尊担いで逃げたらしんですよ。身延の追ってが来るから。沼津に黄瀬川っていう川があるんですがね、そこに、あゆつぼ ていうところがあるんですよ。最後、逃げ切れなくなって、ご本尊を滝壺へ投げちゃったんですよ。
そうしたところが、竜に化けちゃってね。ご本尊が竜神になって身延の追手を追い払ったというんです。
現在そのご本尊は、本山に預けてあるんですよ。それで、里帰りがあるんですよ。
山中にしろ、須走にしろ、人夫が多勢出て、馬も何頭もで、警護しながら妙法寺に里帰りさせろという古文書が残っているんですよ。
ところが里帰りじゃ困る。どうしてもこっちにずっと置いてもらいたいということでね、檀家総代が協議いたしまして、沼津にとりに行ったわけ。何百年も前の話ですよ。
沼津の本山のお蔵を破って、それを持ち出したんですよ。よいしょよいしょと二人がかりで担いで篭坂まで逃げてきたわけです。この辺で大丈夫だろうということで一休みしたんですよ。
そこで追手に捕まってしまったわけ。何故かというと、本山の光長寺の周りをどうどう廻りしていて、篭坂まで歩いてなかったわけ。一休みした所が、曼荼羅石で、現在でもああるんですよ。
今になると、ご本尊さん、信者の気持ちは有難いんだけれど、寒い所より、沼津の方が居心地がいいよということで、帰りたくないんだと、いうんだよね。
現在はね、住職一代の間、一回は返す。里帰りをさして御開帳をするということになっている。
最近は昭和18年に一度帰っています。その次は、昭和32年、宝蔵が出来まして、その記念に帰ってきた。
私が44年から住職しているんだけれども、まだ帰ってきてないんですよ。
帰ってもらうには、ご本尊が痛められないようにということで、金網を張ったり、お付のお坊様や檀家総代の方を30〜40人もホテルを用意するなど、準備しなければならんですよ。
そういういわれのあるご本尊にはこのような面白いお話もあって、宝になっているんです。」
「お万の方のお子様ということになりますと、水戸様か紀州様かもしれないのですね。」と黄梅。
「そうですね。本当に立派な裂地ですよ。」
歴史散歩を始めて間もない頃、お万様の足跡を訪ねて、身延から伊豆の河津の方までまいりましたことなど思い浮かべ、懐かしさを覚えた散歩道でした。
2009年05月31日
山梨きまぐれ歴史散歩「善得寺の会盟」(2009年5月)
以前から気にかかり、一度はと思っておりました善得寺というお寺です。
調べてみましたら、場所は富士市の今泉という所のようですが、現在善得寺というお寺はなく、その跡地が善得寺公園として一般に開放されているということです。
お寺の名前としてより、善得寺の会盟という云い方でしたら「あヽ」と頷いていただけるかと存じます。
甲・相・駿、即ち甲斐・相模、そして駿河の三国が戦国時代に結んだ和平協定ということでしょうか。
「甲相駿三国同盟」と申しますが、これが結ばれますときに、武田信玄、北条氏康、今川義元の三人が会したということが伝えられ、「善得寺の会盟」と呼ばれるようになったのですね。
出かけて間もなく雨になり、富士市にまいりましたときには、本降りになりました。
富士市立中央図書館今泉文庫が目的地に近そうです。
お訪ねいたしましたら、場所は近いのですが、資料は中央図書館にということで、中央図書館にまいりました。
レファレンスのカウンターでお尋ねいたしましたら、もう、「善得寺の会盟」に関する資料が揃えられておりました。
今泉文庫からお電話してくださっていたのです。感謝というより、感動いたしました。
場所は今泉文庫の近くでしたので、また今泉文庫に戻り、お礼を申し上げて出かけようといたしましたら、地図までご用意下さいました。
ところがです、そこまでしていただきながら、方向オンチの黄梅、情けないことに、善得寺公園がなかなか見つからないのです。
同じ所を3〜4回まわり、よそのお宅の玄関先に置いてあるものまで覚えてしまったような有様で、「あら、又ここに出てしまった」という感じです。
雨が大降りになってまいりました。
やっと辿り着きました。「善得寺公園」と刻まれました碑が建っております。1m7〜80くらいでしょうか。傍らにはサルスベリの木ですね。
公園と申しましても平坦な広場という感じではなく、碑のありますところから上りになっておりまして、さらにその上にも石段が。
ご門がございまして、その左側に「三国同盟の庭」という案内板がございます。
「和平協定を結んだ三国に因んで、向って左側より、駿河、甲斐、相模と、各地の石を配しています」と記されております。
「善得寺跡
本寺は貞治2年(1363年)大勲策禅師が上杉憲顕(うえすぎのりあき)の援助によって開山した寺で、戦国期には河東(かとう)第一の伽藍を誇り、善得寺城をも併設したと云われ、天文年間に、今川・武田・北条氏の駿河国東部を中心とした抗争の中、太原雪斎の斡旋で成立した駿甲相三国同盟の舞台になった所だと伝える
平成2年3月28日 富士市 」
と碑にございます。
公園と申しますより、城跡を歩いているような感じがいたします。
さらに石段を上りまして、御門を入りますと、正面に並んでおりますのは歴代ご住職のお墓でございましょう。無縫塔が並んでおります。
無縫塔は9基ございます。
公園と申しましても子供達が遊ぶような公園ではございませんで、かつての戦国の世の三国同盟に思いを馳せる・・・そんな静かな所です。
さて、この同盟の立役者は、今川氏に仕えた太原雪斎と云われておりますが、太原雪斎はかつて僧として修行した善得寺をその舞台としたのでしょうか。
ただし、実際には戦国時代、この三者が直接顔を合わせるということは、有り得ないことのようです。
太原雪斎の働きかけで、重臣による話し合いが行われたということのようです。
三国同盟は婚姻同盟とも云われます。
お互いの嫡子に、それぞれの娘を嫁がせたのですね。
まず、天文21年(1552年)、今川義元の娘 嶺松院が武田信玄の子 義信に嫁ぎます。
翌天文22年(1553年)、武田信玄の娘 黄梅院が北条氏康の子 氏政に。
さらに翌年、北条氏康の娘 早川殿が今川義元の子 氏真に嫁いだのですね。
武田信玄の子 義信に嫁いだ今川義元の娘 嶺松院ですが、母親定恵院は、信玄の父 信虎の長女です。母は大井夫人ですから、信玄とは母を同じくする姉ということになります。
したがって、信玄にとりましては姪を息子の嫁にしたことになり、義信と嶺松院は従妹ということですね。
義信が甲府の東光寺に幽閉され自害いたしますと、嶺松院は駿河に送り返され出家いたします。
その兄 今川氏真の許には北条氏康の長女 早川殿が嫁いでまいります。
この方は、氏政の姉なのか妹なのかはっきりしませんが、その御輿入の行列の見事であったことが伝わっております。
さて、信玄の駿河侵攻によって、氏真と共に遠江国掛川城へ逃れ、さらに伊豆国戸倉城に移り、ついで小田原の早河へと移ります。
ご苦労の多い一生だったのでしょう。
さて、武田信玄の長女 黄梅院は、以前気まぐれ歴史散歩で、そのお墓参りをしたことがございますが、現在の甲斐市、かつての双葉町竜地でした。
12歳で北条氏康の嫡男 氏政に嫁いだのですね。
富士御室浅間神社に、信玄の黄梅院のための安産祈願の文書が残されております。
子供にも恵まれ、幸せな生涯と思われたのですが、信玄の駿河侵攻のため三国同盟は破綻し、氏政と離婚させられて甲斐国に送り返されます。
そして、27歳の若さでこの世を去りっました。
雨の中、他に誰もいない善得寺公園におりますと、戦国時代の女性の悲しみが静かに伝わってくるような気がいたします。
さて、同じ富士市内に源立寺がございます。
ここに北条氏政の首塚があるというのです。
豊臣秀吉に抗戦し、世に言う小田原評定の後、切腹して後北条は滅亡するわけですが、源立寺の御門左手の案内板によりますと、氏政は7月に切腹し、その首は京都に送られて晒し首にされたが、家臣の佐野新左エ門が秘かにその首を持って下ったというのです。
ところが、この地まで来て、富士川が洪水のために足止めされてしまいます。
夏で腐敗がはやいので、この寺に葬り、自分もこの地に住み、お墓をお守りしたということです。
「氏政の墓は、本堂裏手の墓地中央にある。高さ62センチほどの小さなもので、宝篋印塔の一部だけが残っているので、一目して奇妙な形に見えるが、これは富士川が何度も氾濫して流されたためという」 と記されております。
雨の中、お参りにいらした方が、この辺はみなこうですよと仰るのですが、墓石が高い位置にありまして、見上げる感じなのです。
その中で案内板の通り62センチほどの墓石はなんとも侘びしい感じがいたします。
三国同盟の舞台となりました所と、さほど遠くない所に北条氏政のお墓があったのですね。
2009年05月17日
山梨きまぐれ歴史散歩「二宮金次郎 小田原〜御坂町」(1995年7月)
このきまぐれ歴史散歩はタイトルに記しましたように1995年7月のものです。戦後50年という年でした。
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この夏は50回目の終戦記念日ということで、戦中戦後の困難な時代の話題がマスコミに取りあげられることが多くなりましたが、戦争中、二宮金次郎の像についてこんなお話があったそうです。
昔、小学校に多く建てられておりましたお馴染みの二宮金次郎の像です。
あの薪を背負って本を読んでいる像ですが、あんな僅かな薪を背負っているのは不合理だという批判が出たというのです。
いくら戦時中とはいえ、二宮金次郎像の薪の量が批判の対象になったとは驚きました。
戦前の修身の教科書には載っていたということですが、近頃では小学校でもあまりその姿を見ることもなくなりました。
これほど名前が知られていて、何をした人か知られていない方も少ないのではないでしょうか。
今月のきまぐれ歴史散歩は二宮金次郎を訪ねて小田原にまいりました。
二宮尊徳誕生の地には、石碑や尊徳の等身大の像が建てられ、生まれた家が復元されております。
小田原市の栢山というところで、小田急線の栢山駅から歩いて15分ほどのところです。小田原駅からもバスが出ております。
尊徳記念館の方のお話を伺いました。
「金次郎のお祖父さんには奥さんがいらっしゃらなかったのか、お子さんが無かったんです。そこであの万兵衛さんのところから養子を迎えました。その養子が金次郎の父親なのです。
そういたしますと、父親と祖父の出た家があの万兵衛さん、本家ということになります。
で、金次郎の父親は13歳のときに亡くなります。母親は15歳のときに亡くなって子供だけになります。
で、金次郎は万兵衛さんのところに預けられる。弟二人は、川の向こうの母親の里に預けられる。
そんなことで、この家も手放すことになりました。
買い取った方がこの家を解体して、少し離れたところに運びまして、それを建て直して使っていらしたわけなんです。
この場所に戻ってきたのが、昭和34〜5年頃・・・・・・・・・・」
さらにこの生誕の地の地所についても、ご説明くださいました。
「この地所も金次郎さんが17のときに手放しています。
それを買い戻してくださったのが、鳥羽の真珠王、御木本幸吉さんなんですよ。」
明治42年、この近くの金次郎の遺髪を納めた喜栄寺にお墓参りに来たときのことだそうです。
それでは同じ敷地内の尊徳記念館にまいります。
二宮金次郎の小さい頃の等身大の人形が展示されております。
手習いをしているところなのですけれども、ちょうど文箱くらいの大きさの箱に砂が入っておりまして、その砂にお箸を一本持ったよううなかたちで字を習っております。
ここにそれと同じものが3セットほど用意されておりまして、見学者が手を触れてもいいように置いてあります。私も早速そのお箸のような棒で砂に字を書いてみました。書いた字がよく読めません。
隣のコーナーの行灯の灯りで読んで御覧なさいとお許しをいただきました。そういたしますと、上からの光源では読めなかった砂の字が、行灯の灯りでは影がくっきりと字を浮び上がらせてくれるのです。生活の智恵を感じます。
金次郎が12歳のときに父親が病気になり、金次郎は父親に代わって酒匂川の堤防工事に出ます。
このとき、まだ子供ですから大人のように働けない、その力不足の代償にと、夜草鞋を作って工事現場に人知れず置いたというのが、
♪ 芝刈り縄ない 草鞋を作り 〜♪ というあの歌の「草鞋を作り」なのですね。
金次郎は骨身をおしまず働き、家を興し、一農民の身でありながら藩主大久保忠実に認められたのですが、小田原では優遇されなかったと申します。
「結局、金次郎が下野国桜町、宇津家の建て直しに出かけたのも、小田原で大久保の殿様が金次郎を用いようとしても家来が言うことをきかないのです。で、宇津家の建て直しに成功すれば、小田原の武士も言うことをきくだろうということで、送り出すわけです。
で、実績をあげて天保の飢饉のときですか、殿様から小田原を助けてやれということで、金次郎がこちらに出向いて、建て直しの仕法に取り掛かるのですけれど、大久保の殿様が亡くなってしまい、後ろ楯が無くなってしまうのです。今流の言葉で言えば、梯子を外されたっていう形になるんでしょうかねぇ。小田原での仕法はとりやめということになるのです。
金次郎としては小田原の為に働きたかったのでしょうが、それが許されなかったのです。」
館の方が、解かり易く、解かり易くと、説明してくださいました。
金次郎が建て直しを図った宇津家の領地桜町三ヶ村は、栃木県ですし、茨城県の青木村や日光神領など、小田原には戻れず、日光神領の復興に最後の力をふりしぼり、今市で亡くなります。70歳でした。
次に小田原城址公園に隣接してと申しますより、その一画に二宮神社がございます。
生きて戻ることが叶わなかった小田原に祀られたのですね。
この神社には合格枡というのがございます。
小さい枡は、枡の中にただ合格と書かれておりますけれど、大きい枡には、お馴染みの二宮金次郎の小さな像がございます。
「合格枡予約受付」ということで、今では二宮神社、受験の神様にもなっているようでございます。
この二宮神社所蔵の資料も報徳博物館に収蔵されているということですので、南町の報徳博物館にまわってみましょう。
入口でいただきましたパンフレットに
「尊徳の行動は、人間だけでなく、宇宙に存在する全てのものにそれぞれに備わっている長所(徳)を生かす(報いる)という報徳の思想に裏打ちされています。
そうした考えは、彼の子孫や門人たちに受け継がれ、各地に報徳社が結成されて報徳運動が繰り広げられるのです」とあります。
報徳といえば、高校野球でお馴染みの兵庫県報徳学園は、金次郎のお孫さんが招かれて校長となったとありますから、学校名の報徳も金次郎の報徳の思想から付けられていたのですね。
ここで、山梨県に関係の深い資料を見つけました。
報徳運動略年表というパネルがありまして、明治元年から始まっておりますけれども、その昭和21年のところに
「曾孫二宮四郎が山梨県下で入植、開拓指導。後の富士豊茂開拓農協」とあります。
戦後すぐに、二宮尊徳の曾孫にあたる方が山梨県にいらしたのですね。
「あとに続く者」というコーナーに何枚かの写真が展示されています。その中に富士ヶ嶺豊茂開拓農協という大きな写真があり、5人の方が写っております。昭和23年8月設立された農協で、前身はキノウ組合。二宮四郎氏が厳父尊親氏の開拓された北海道豊頃村茂岩の地名に因み豊茂の二字をとって命名した」とあります。
この中央の方が二宮四郎氏でしょうか。男性4名、女性1名、5名の写真です。
早速、その富士豊茂開拓地へと行きたいところですが、オウム真理教の事件であまりにも有名になりました上九一色村の、しかも、まさにその場所だと思われますので、事件が解決しておりません今、のどかな歴史散歩はご遠慮いたしましょう。
山梨県の竜王町にお住まで甲西町ご出身のAさんからこんなお話を伺いました。
「なにかっていうと、今日は報徳社報徳社って、ま、本当に心から二宮尊徳を尊敬して・・・。西南湖っていう部落なんですけどね。そこを中心に、小さいときから親から子へというふうに、その精神がなんとなく培われて、現在に至っているのではないかと思います。
今日は報徳社で何々があるんだよっていうのを、楽しげに言ってました。具体的になにがどうこうということでなくてね。」
「楽しげに仰るのですか」と私。意外でした。
「そうです。そうです。楽しげにね。」
小田原宿で旅籠屋をしていた竹本屋幸右衛門という方が山梨県に報徳社運動を導入した方で、その顕彰碑が幸右衛門の生まれ故郷御坂町の成田に」あるというので出かけました。
道に迷いお店やさんで伺いましたら、お店のご主人とお母様が
「小さい時よく遊んだですよ」
「集会所みたいになっていて、二階があってね」
「そうそうそう」
報徳社のことを懐かしそうにお話くださいました。
その建物も今は無いということです。
成田の方が書かれた資料を頂戴いたしました。
その中に幸右衛門について記された章があったのです。
顕彰碑は成田のコウシエンというパチンコヤさんの駐車場のところにありました。
高さが3メートルほどもある立派なもので、碑の後に、昭和20年の3月に建てられたと刻まれておりましたのが強く印象に残りました。
機会がありましたら、頂戴いたしました資料をもとに、この続きを歩ませていただきたいと思います。
2009年04月30日
山梨きまぐれ歴史散歩「将門塚」(2000年7月)
2006年10月22日のブログに記しました神田明神へ散歩いたしましたのは、1997年7月でした。
http://blog.livedoor.jp/ayako0215/archives/2006-10.html
そのときから将門塚へという思いがしきりでしたが、3年後の2000年5月、ようやく将門塚にまいりました。
神田明神では、境内で微かに神田囃子の音が聞かれましたのを思い出します。
正式名称は神田神社ですが、神田明神という呼び方の方がお馴染みでしょうか。
神田明神のお祭りは、日本三大祭りの一つとして、また江戸城に祭礼の行列が練りこんだところから、天下祭りとしても知られておりますが、今年は5月9日が神幸祭、翌10日が神輿宮入だそうです。
神田明神といえば銭形平次ですね。平次の碑も、子分の八五郎の碑もございました。
関東ローム層は地下に麹の室を造るのに最適とのことで、江戸時代以来の室を使っているというお店が御門前にあり、甘酒を美味しく頂戴いたしましたことが思い出されます。
この神田明神は、大黒様、恵比寿様、将門様と、三柱の神様をお祀りしているのですね。
そういえば境内に大きな大黒様の石像がございました。
さて、平将門は、天慶3年(940年)、平貞盛らに打たれ、その首級は京都に運ばれ、都大路にさらされましたが、その後、現在の地下鉄大手町駅近くの将門塚の場所に埋められました。
そして、当時この将門塚の近くに神田神社があり、(まあ当時は神田の名は無かったのでしょうか)そこにお祀りされたということなのですね。
神田明神でいただきました資料には、将門塚の位置を「当社離れること百歩の地であったという」と記されております。
その後、お社は駿河台に移され、さらに二代将軍秀忠のとき、江戸城艮の鬼門に当たる現在地に移されて、神田神社となったわけですね。
そしてその御祭神になっております平将門にまつわる話が、山梨県大月市の七保地区に伝えられているということで、そこにお住まいの郷土史家S先生をお訪ねし、いろいろとお教えいただきました。
「将門さんの次男の常門さんが1才のとき、駒宮という部落に入ってきたのです」
というように、先生は親しみを込めて、「将門さん、常門さん」と仰います。
内裏、馬場、上屋敷、下屋敷、などという地名が伝わっているということ。下和田の相馬氏が常門の子孫であることなど。
神田明神から大月市へと歩きましたこのとき、いずれは将門塚にお参りしたいという思いがしきりだったのですが、やっと将門塚にまいりました。
千代田線大手町駅のすぐ近くで、通りをはさんで向いに、サンワ東京ビル、そしてお隣は三井物産ビルです。
そんなオフイス街の一角に、緑に囲まれた将門塚がございます。
品のいいご年配の男性が、せっせとお掃除をしていらっしゃいます。
「ここは、管理人っていないんですよ。私たち氏子が交代でやっているんです」
「神田明神の氏子の方々が」
「えーえー、自主的にやってるんです。お参りに来て汚れてれば掃除して・・・」
「お近くにお住まいなのですか」
「えー、私は歩いて10分くらいのとこです。私に限らず、そういう人が沢山いるわけですよ」
「はあ、そうですか」
「べつに、まとまってやっているわけじゃなくて、皆、自主的にやってるわけです」
「お参りにいらっしゃる方は多いですか」
「多いときは一日何百人ってお出でになります。行列してますよ。
ご覧になって判る通り、お花が沢山上がるっていうことは、お参りして願い事が叶った方がお礼参りにあげるということですから」
「沢山のお花で綺麗ですね」
「ですから、願い事、叶うんだと思うんですよ。まあ、私共、地元の人間は、願い事叶うのが当り前だと思ってるんですよ」
「はあ〜」
「我々の神様は将門様しかいないので・・・・・神田には、氏神様は、将門様しかいないのですよ」
「はい」
「各町内にお稲荷さんっていうのがあるけど、あれは氏神さんではないから。
だから私らは、子供の頃からここを大事にしているんですよ」
「ずっとこちらにお住まいなのですね」
「子供のときからね。親子代々」
「それでは特別の思いいれがありますでしょうね」
「子供のときから、ここで悪いことばかりしてましたから」
「随分様変わりしてますのでしょうね」
「昔はここ、ジャングルだったんですよ。戦前は」
「ジャングル?」
「明治天皇が江戸城に入られたときに、逆賊だから、構っちゃいけないっていう命令が出て、誰も手が出せなくなっちゃたんです」
「それでジャングル状態ということですか」
「それが空襲で全部焼けちゃって、こういう風に綺麗にしたんですよ。明治から昭和20年までは、おおっぴらに直せなかったんですよ」
「ああ、そういうことですか」
「20年の5月の空襲でみんな焼けちゃって、あの後にある灯篭が首塚なんですけど、あれを残すだけで、全部だめになっちゃったんです。あれ、奇跡的に残ったんです」
「後の灯篭が、昔からのものですか」
「そう、あれが1000年ちょっと経っているんです」
「神田明神が移っているのですね」
「そう、もともと神田明神がここにあって、移っていったんです」
「家康が・・・」
「家康が向こうに移して400年ですから。まだ戦乱の世の中で、北の方に強いのが沢山いたんです。伊達とか上杉とか。それに睨みをきかすために、お城の北の鬼門に明神様をもってたんです」
「それで無事だったので、徳川家が信仰したわけですよ。将門を
「そうなのですか」
「ここに、酒井雅樂頭に屋敷を与えて、墓守をさせたそうです」
「幕末まで、酒井家がここを守っていたのです」
「町民がお参りすることはできたのですけど、管理は酒井家でした」
「お隣が三井物産ですけれど、こちらも酒井家の跡なのでしょうか」
「ずうっと、2800坪っていったなあ、酒井家のお屋敷が。そう聞いたよ」
ここは酒井雅楽守の上屋敷のあったところなのですね。
病弱の四代将軍家綱を補佐して実権を握っていた大老酒井忠清は、下馬将軍と呼ばれました。
ここから江戸城のお堀がすぐ近くにありまして、もっとも大手町という地名自体が江戸城の大手門があったからなのですから、当り前ことかも知れませんが、大手門の手前の右側のお堀端に下馬札が建てられていたのだそうです。
それでこの辺りを下馬先と呼んでおりましたとか。
大名と、特に許された者以外の駕籠ははこの下馬先に留められ、御門内に入ることはできませんでした。
共の者の数にも制限がありまして、総登城の日など、下馬先は大変な混雑であったと申します。
その下馬先に屋敷を持っていたところから、下馬将軍と呼ばれたのですね。
今も下馬評という言葉が使われておりますが、お殿様の下城を待っている供の人たちがする評判から出た言葉のようです。
こんなことからも、将門塚の位置をご想像いただけますでしょうか。
3段の石積みの上に30センチくらいあるでしょうか、自然石が据えられておりまして、その上に1メートル60くらいの石碑が建っております。
「平将門蓮阿弥陀仏徳治二年」と刻まれております。そしてこの後の灯篭が昔からのものなのですね。
色とりどりの美しいお花が沢山お供えされておりまして、多くの方々がお参りしていらっしゃることが判ります。こうしております間にも、お参りの方がいらっしゃいます。
碑の両側に大きな蛙の置物があります。願いを叶えていただいた方が奉納したものと伺いました。
塚は粗略にすると祟りがあると信じられているのだそうですが、それだけの力で願い事も叶えて下さるのでしょうね。
2009年04月24日
「寅王丸の墓」の禰々御寮人の化粧料
「寅王丸の墓」の化粧料 先達につきましては、2008年4月20日にありますのでよろしかったらご覧下さい。
http://blog.livedoor.jp/ayako0215/archives/2008-04.html
ブログに記しましたのは2008年4月ですが、先達にまいりまして「きまぐれ歴史散歩」にまとめましたのは1995年10月だったのですねぇ!
我が家の寅さんが、「牛一頭、引っ張っていくよん」とわけの解からないことを言って、パソコンに触りましたのが、1999年ですから、その頃、まだパソコンはなかったのですね。
初めてのパソコンはGATEWAYでした。で、「牛一頭」と、寅さんが。
2009年04月21日
山梨きまぐれ歴史散歩「寅王丸の墓」(2009年4月)
今月のきまぐれ歴史散歩は、寅王丸のお墓がございます鰍沢の本能寺をお訪ねいたしました。
寅王丸につきましては、あまり調べたこともありませんので、私自身しっかり自分にいいきかせて歩き始めたいと思います。
天文9年(1540年)12月、甲斐武田家から13歳の姫君が諏訪に嫁いで行きました。禰々御寮人です。
武田信虎の三女で、信玄の妹にあたります。
お相手は、前年祖父の跡を継ぎ諏訪家の当主の座につきました諏訪頼重です。25歳でした。
この禰々御寮人の化粧料とされましたのが、長野県富士見町の先達など18ヶ村なのですね。
このとき、ある方から「先達に行くと、今でも甲州から信州にやられたことを恨んで『山梨から着ました』なんて云ったら塩まかれるよ」という話を聞き、恐る恐るまいりましたのですが、これはカツガレましたようで、塩をまかれるどころか、大変ご親切にしていただきましたことが思い出されます。
こうして諏訪に嫁ぎました禰々御寮人は諏訪頼重との間に寅王丸という男子を出産いたします。
しかし、その僅か3ヵ月の後、頼重は信玄によって甲府に送られ、甲府の東光寺で自刃して果てます。自刃して果てたというより、自刃に追い込まれたのですね。
信玄が諏訪に侵攻いたしましたとき、諏訪頼重は上原城で迎え討ち、後に桑原城へと移りますが、上原城を訪ねましたとき、板垣平と記された所がありました。武田の初代諏訪郡代が、板垣信方だったのですね。
さて、諏訪氏の当主と武田の姫君との間に生まれました寅王丸につきましてはあまり資料がありませんで、その後の様子は判りませんでした。
武田氏の人間関係を調べますときに使っております「武田一族のすべて」という本の禰々御寮人の項には「夫を甲府で謀殺させられて甲府に留めおかれ、不運な最期をとげた。天文12年1月19日に死去。わずか16歳であった。寅王丸のその後も不明である」と記されております。
他には、寅年生まれのなので寅王丸と命名され、後に千代宮丸と改名させられ、僧籍に入り長岌(ちょうきゅう)となる。今川義元を頼って行くところを捕らえられ殺されたというもの。
また、越後に出奔し、上杉謙信にその美貌と胆力を愛され、春日山城内に住むことを許されていたというものもあり、一説には福島県大熊町の野上の里に行き、諏訪大明神を祀ってここに住み、金山を探しにきた山伏と二人で温泉を発見したという説もあり、その玉の湯温泉の旅館のご主人は先代で23代目に当たるということです。
とにかく、どこでどうして亡くなったのか判らなかったのです。
それが鰍沢町箱原の本能寺に寅王丸のお墓があると知り、早速出かけました。
箱原で出合った方に伺い、あのお宅に行って聞くといいですよと教えられたYさんのお宅にまいりました。
Yさんは、私も詳しくは知りませんがと仰って、鰍沢町史を出してきて、それを見ながらお話くださいました。
「本能寺五輪塔は寅王丸の墓と云われている。
伝承によれば、寅王丸は信濃の武将 諏訪頼重に嫁した信玄の妹の一子であるという。
寅王丸の母は、夫頼重が信玄に討たれた後、わが子寅王丸にも危難が及ぶのを恐れ、河内の親族 下山の穴山氏に幼い寅王丸を託すべくここまで来たが、寅王丸はこの地で、追ってによって殺された。
哀れに思った箱原の村人は、寅王丸の亡骸を本能寺の裏山に葬り、小さな五輪塔を建てた。
それが今ある一石五輪塔であるという。
一石五輪塔故の誇張は止む得ないにしろ、その火輪の軒反りの形、水、土輪の形状などから判断すると、伝承より幾分時代が下がる江戸初期頃の製作と推測されるが、一石五輪塔としては、本県で最も美しい形態をとどめた五輪塔といっても過言ではない。
とあります。
さらに、石質が地元河内特有の風化されやすい凝灰岩のため崩壊などの事態も危惧されるので、慎重なる保存の必要性を感ずるということですね」
「一石五輪塔というのは、一つの石から掘り出した五輪塔ということなのでしょうね」と黄梅。
「そういうことですね。高さは55.6センチ、それから台座が16.3センチです」
「お玄関を入ったところの上に本能寺御守護というお札が貼られておりますけれど」と黄梅。
「本能寺の住職が、お正月とかお盆にお経をあげにくるのです。その時に持って来てくれるんです。」
何軒かは外に出ているが、ほぼ40軒くらいが檀家になっているということです。
「本能寺のお寺の境内に池があるんです。
なぜ池かというと、その上に灌漑用水があるのです。大きい水路がね。
それが、山が崩れると一緒に水路も崩れて池の中に入ったのではないかと・・・仄聞です。ちょっと自信は持てませんけれども」
Yさんにご案内いただき、本能寺にまいりました。
立派なお寺さんですが、ご案内いただかなかったら、境内を探しても見つからなかったでしょう。
本堂の左手の小道を上ったところです。
五輪塔は古いものですが、右側の寅王丸の墓と刻まれました碑や、左側に建てられております「鰍沢町指定有形文化財の碑は新しいものです。
近くを流れる富士川にもご案内いただきました。
この辺りは富士川舟運の難所であったそうです。
2009年04月01日
山梨きまぐれ歴史散歩「横浜開港資料館−1」(2006年5月)
4月28日から、未来への「出航」をテーマに、「開国博Y150」が開催されます。
今年2009年は1859年(安政6年)の開国・開港から150周年なのですね。
そこで2006年5月のきまぐれ歴史散歩「横浜開港資料館」をご紹介いたします。
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ここは横浜のみなとみらい線 日本大通り駅です。
みなとみらい線、今日で2回目ですが、最初のときは、開業いたしましたときでしたので、大変な混雑で、音声による案内板や、エスカレーターの音声ガイドなど、気付きませんでした。
今回まいりまして、各エスカレーターで音声ガイドを聞き、利用者に便利な工夫がなされているのを感じました。
さて、今日私は、横浜開港資料館を訪ねてまいりました。
この日本大通り駅から海の方へ向って、そうです、大桟橋や山下公園の方向に徒歩2分という近い距離にございます。
開港資料館は横浜に港が開かれましたことに関する資料館です。
何故苦手な早起きをしてまいりましたかと申しますと、2006年2月1日から4月23日までの開港資料館の企画展を見たくてということなのです。
「黒船来航から明治憲法まで 創業の時代を生きた人びと」というタイトルで、大きく5人の名前が記されております。
伊藤博文、H・S・パーマー、ウ゛ァンリード、高島嘉右衛門、そして成島柳北です。
今回のきまぐれ歴史散歩の目的は、この成島柳北というお方です。
先週、東京 隅田川の堤の桜を眺めてまいりました。
その墨堤の桜は、徳川八代将軍吉宗によるものと思っておりましたのですが、四代家綱が常陸国の桜川の桜を植え、八代吉宗がさらに力を注ぎ、資金を出して吉野の桜などを植え、十一代家斉が補植したということなのです。
その後も何人かの人が力を尽くしますが、明治時代、墨堤の桜を植えた人としてその名を残しました方が成島柳北なのです。
そして、その成島柳北のご先祖は甲斐国の人と聞きまして、黄梅の足はもう横浜に向っておりました。
ここには展示されているものの他、資料室に多くの資料があり、ご説明はいただけませんでしたが、拝見することはできました。
それでは展示されております資料をご紹介いたしましょう。
「成島柳北の横浜時代」という説明があります。
「維新後、雑誌「花月新誌」や「朝野新聞」の刊行で知られる成島柳北は横浜の太田陣屋に起居して、洋式軍事訓練の日々をおくった。政局が緊迫化する中、幕府は、歩兵・騎兵・砲兵の三兵の常備軍創設と農民徴発兵を中心とする軍制改革を行い、フランスから軍事顧問団を招いた。・・・・・」
そして、成島柳北は騎兵頭として、フランス人教師から兵学と実技を学ぶのですね。
横浜港へは外国の軍艦が出入りし、山手には数千人のイギリス、フランス両軍が駐屯して、イギリス軍と幕府軍が合同演習ををしていたというのです。
驚きでした。
そしてその指揮をとっていたのが成島柳北だったのですね。
成島柳北の年表と野毛山下の太田陣屋の写真もあります。
成島柳北、本名は惟弘(これひろ)。
神田川の南を柳原と云い、その向こうにあるから向柳原と呼ばれていた所、柳原の北に庵を建て、側室を置いていたところから、柳原の北、柳北と名乗ったようです。
天保8年(1837年)成島家の三男として浅草に生まれました。
成島家は19世紀前半から江戸幕府の公式記録「徳川実記」の編纂を続けてきた家です。
徳川家康から十代家治までの様々なことを、日ごとに記したもので、江戸時代を知る基本資料になっています。
やがて柳北もその編纂に加わり、徳川家定、家茂に侍講いたします。
その後、狂歌で幕府を批判したため、職を解かれます。それから洋学を学び、騎兵奉行、外国奉行、会計副総裁を務めます。
明治維新後、東本願寺法主 大谷現如(げんにょ)の欧州視察随行員として欧米を巡ります。
ジャーナリストとしても活躍し、「朝野新聞」の社長を務めています。
成島柳北は洋行したとき共済制度を見聞し、帰国後、安田善次郎に伝えて、今の「安田生命」の礎を作るのにも参画いたします。
安田善次郎は、向島の柳北の家を訪ねたときは出された座布団を決して敷こうとはしなかったと伝えられています。それほど尊敬していたのでしょうね。
とにかくご紹介しきれないほど、多才なお方です。
花街に遊び、「柳橋新誌」という花柳界を描いた戯作や、文芸雑誌「花月新誌」を創刊するなどの活躍もしています。
それでは展示してありますパネルや資料をもう少しご紹介いたしましょう。
「野毛山下の太田陣屋」
「開港に先立って越前福井藩が築いた陣屋。後、松代藩と交代。慶応2年(1866年)幕府はここに騎兵、歩兵、砲兵の三兵伝習所を設置した。フランスから陸軍教師団を招き、厩などを建築したが、翌年伝習所は江戸に移転した。明治4年(1871年)関内の番所と同時に廃止され、後、陸軍省用地となった。」
他にはフランスの兵学書や、フランス人教師の講義の要点を書きとめた覚書、伝習所の必要経費などの資料が展示されております。
「太田陣屋時代の成島柳北は江戸との間を頻繁に往復し、東海道筋の村々や屋並の一つ一つを目に焼き付けたという。
また、休日にはフランス人教師や同輩と轡を並べ、隅田川の観桜に遠乗りしたこともあった。
明治16年(1883年)観菊に誘われ、訪ねた先は往時の記録に残る豪農の屋敷だった。鶴見区のソウダ家に、その日柳北が書いた詩文が残る。
また、かつて川崎在の小向はみゆきの梅林で知られた梅の名所だったが、その端緒は柳北が紙上に発表した観梅記事だった。
梅園にあった柳北碑は縁あって港北区の飯田家に運ばれ、今もその庭に安置されている。」
と、パネルにありまして、その碑と飯田家の中庭の写真が展示されております。
成島氏はその先祖書によると、「成島惣太夫信郷(のぶさと)、大永の頃、甲斐国成嶋村出生、天文の頃、武田信玄に仕え、信玄卒後、成嶋村に退隠、病死仕候」とあります。
その信郷の子が江戸へ出て徳川家に仕え、幕末の柳北につながるのですね。
成島村は旧玉穂町の役場がございました所です。
今も成島さんという姓の方がいらっしゃいますが、柳北の縁の方でしょうか。
2009年03月30日
山梨きまぐれ歴史散歩「新府城周辺の武家屋敷?と古代の村−1」(2009年3月)
先月(2月)新府城の近くから武家屋敷らしい建物跡が見つかり、その発掘現場で説明会も開かれたと報じられておりましたのですが、その日は参加できませんでした。それでもどのような場所か気になりまして、韮崎市中田町を訪ねました。
家を出ましたときはそれほどでもなかったのですが、着きます頃から強い風が吹き、時折、雨まで降ってまいりました。
運よく、発掘現場に責任者の方がいらして、お話を伺うことができました。
武田信玄の父信虎のとき、甲府の川田から躑躅ケ崎館に移り、ここに城下町を形成したわけですね。信玄の時代には、その城下町もかなり整えられたということですが、武田勝頼の時代になって、韮崎の新府城が築城されましたのは、様々な事情があったのでしょうが、城下町の拡張ということもありましたのでしょうか。
現地見学会の資料を頂戴いたしました。ここは新府城からおよそ500mほど北東に位置し、現段階の調査面積は約800?とのことです。
周りは桃畑で、斜面を造成して二段の平坦な場所を作っております。
上の段に二棟、下の段に一棟、計三棟の建物跡が発掘されております。
上の段の二棟の建物は礎石の上に柱がたてられているもので、広い方が東西約19m、南北約15m。狭い方は東西約4.5m、南北約9mです。下の段の建物は、東西が約9m、南北約6mで、こちらは、穴をほってそこに柱をたてた掘っ立て柱の建物です。
この三棟の建物は三軒の家と考えたらよろしいのか、それとも、三軒で一軒の家と考えたらよろしいのですかとお尋ねいたしましたら、まだ門が発掘されていないのではっきりはしませんが、多分三棟で一軒の家でしょうということです。
主人の住むところと、使用人の住まい、それに厩なども必要でしょうしと。
現段階で、約1000点の破片が出土しています。その中にはかなり位の高い人でないと持てない中国製の陶磁器などがあるところから、武家屋敷、あるいは寺院といってよいと思うと教えていただきました。
江戸時代に編纂されました「甲斐国志」には、新府城の北側には長坂氏青木氏などの屋敷跡があるという記述があり、「甲陽軍鑑」には、天正9年7月に古府中の諸寺が新府に移転したと記されているのだそうです。
ここはもうすぐ埋め戻されるということですが、そのすぐ近くで、縄文時代や古墳時代の村の跡の発掘が行われています。
日当たりのよい高台で、近くに沢があり水に恵まれていて、下の藤井平に下りて行けば、水田を作ることが出来るという条件は、古代に於いても、住宅として良い所だった。勿論それに加えて、勝頼の時代になれば、交通の要衝であり、新府城を守るのに良い所ということですね。
こちらの古代の村では、今のところ、今から4500年前、縄文時代の家が2つくらいと、1600年前の古墳時代前期の村の跡が10軒ほど出ているということです。
それは四角い住居で、家の中には囲炉裏を持つ住居です。
「そこからは鉄の矢尻なども出ていますし、普通の村なのですが、普通の人が持てないようなものも出ているので、面白い村かなと思っていますけど」
「当時、鉄は非常に貴重なもので、そういう物が出てくるというのは、この村が力を持っていたか、豊かであったかと思っています」と、お話くださいました。
「先史時代から銅はあるのですが、この辺で銅を造る技術はありませんから、その銅鏃もおそらく、奈良を中心とした畿内政権が造ったものを貰ってきたということだと思います。山梨県内でも数例しか出ていませんので、非常に貴重なものだと思います」
銅鏃は銅製のヤジリのことですから、鉄のヤジリのみならず、大変珍しい銅のヤジリも出土したのですね。
「これが縄文時代の住居跡なんですけど、半円でしか残っていませんが、こちらは調査しないということで、半円なのですが、本来は直径4〜5mくらいの円の住居ですね。土器がたくさん出ていますけれど、当時の人が使っていたものが、そのまま捨てられたようです。
あと、あそこに土器が円く埋まっているのですが、あれは「ウメガメ」といいまして、住居の入口の所に、甕をわざと壊して埋めるのです」
「わざと壊すのですか」
「はい。で、何が入っていたかというと、この家の子供が小さいときに死ぬと、それを入れるという説と、子供が生まれたときに、胎盤とか臍の緒などをあれに入れて、入口に埋めて、そこの上を家族が通ることによって、その子が丈夫に育つようにということで、土間にエナを埋めるという民俗例もあるのです」
「ここは1つだけですが、住居によっては、2つとか3つとかもあります」
「あそこに埋まっているということは、あそこが住居の入口ということです」
「そこをまたいでもらう方が良いわけですか」
「そうです」
「縄文時代、全部の住居にあるわけではないのですが、かなり多い確率で出てきます」
「これが今から4500年前の住居ですし、土器なのです」
「右側の中央の辺りに、一寸変わった立体的なものがありますね。あれは何ですか」
「あれは縄文土器の口のところから一寸下にある、「とって」というものです。「とって」といっても、あれを持ったわけではなく、装飾ですが」
「とって付き土器といいますが」
「復元すると、おそらく直径が50cmくらいで、高さが60〜70cmくらいになると思います」
「そんなに大きなものですか!」
「紋様の付いた物が多いですね」
「そうです。縄文土器の特徴は、縄をころがした縄目の紋様とか、細い竹を半分に割ったもので紋様を描いてゆくと、平行線が描けるのです」
「山梨では少ないのですが、海辺の地域では二枚貝の背中の方で模様をかいたものもあるのです。刷毛で描いたようになります」
「二枚貝の端を押し付けると、波のようになります」
「ここならではの特徴というのがあるのですか」
「ここならではというのは無いのですけれど、縄文時代中期というのは、いわゆる中部高地というのですが、八ヶ岳山麓、非常に綺麗な紋様の土器を造って、全国的にも有名な土器で、この時代の土器は、世界の美術館に貸し出したりしているのです。ですから、山梨県、長野県のこの時代の縄文土器は非常に綺麗な土器で有名ですね」
「これは、名前は石包丁というのですが、包丁ではなく、田圃を造っていた証拠なのです」
「この小さな、6〜7cmの3cmくらいのほぼ長方形のものですね。これが証拠になるのですか」
「今は、稲を機械で刈りますが、その前は手刈りですけれども、根元から刈っていました」
「はい」
「当時は根元から刈らずに、穂首だけとるんですね」
「えっ」
「穂をつかんで、石包丁というナイフのようなもので、むしり取るのです」
「はぁ・・・」
「この石で根元から切るのは大変ですからね。顕微鏡で見ると、こすれた跡が判ります。この辺、一寸光っているでしょう」
小さな長方形の石一つのも、当時の人々の生活が映し出されているのですね。
今月は戦国時代から、さらに古墳時代、縄文時代・・・と、大空を翔けたような時の旅でした。
2009年03月16日
2009年02月27日
山梨きまぐれ歴史散歩「八田村から韮崎市へ、徳島堰を歩く−2」(1999年8月)
徳島堰は韮崎市の円野町(まるのまち)上円井(かみつぶらい)から釜無川の水を引き入れ、白根町曲輪田までおよそ17キロの用水路です。
ここは韮崎市円野、徳島堰の取水口です。前には七里岩が屏風をたてまわしたように続いております。
かなり大きな水音です。
すみません。夢中で柵内に入り込み、水音を録っておりまして、道に戻るとき気づいたのですが、「危険立ち入り禁止」の大きな看板がありました。お気をつけください・・・って、こんなことする人、他にいらっしゃいませんよね。
徳島堰のことなら歌田さんのお宅を訪ねてごらんなさいと、土地の方に教えられ、この取水口は上円井ですが、下円井という所の歌田さんというお宅に向かいました。
いきなり犬の咆える声に驚かされました。
ワンワンというより、キャンキャンに近い声なのですが、可愛いという感じではなく、けたたましく、鋭い声です。それも、異様に大きな・・・・・。
驚いて足を止めた所が歌田さんのお宅でした。用件より先に犬の声について奥様に伺いましたら、これ、猿を追い払うために、犬の咆える声をスピーカーから流しているのだそうです。
猿が20匹も30匹も群をなして畑を荒らして困るので・・・ということなのですが、、効果のほどを伺いましたら「ぜーんぜん」だそうです。
「犬猿の仲」という言葉からの発想だとしたら黄梅好みの楽しさですが、作物を荒らされる農家にとりましては大変なことですから、ニヤニヤしてはいけません。慎みましょう。
歌田さんのお宅は宇波刀神社に隣接してと申しますより、境内にという感じです。
歌田さんのお祖父様の代までは神官でいらしたということですが、今も、歌田さんが神社をお守りしていらっしゃるようです。
早速徳島堰のお話お伺いいたしました。
「徳島兵左衛門が身延山に来たとき、こちらの方へ来てみたら、荒れておってね、開拓地として不十分だと。
そのとき幕府は、土地を開拓して、土地を拡げることだけに一所懸命なんですよ。朝穂堰とか箱根用水など、禄高以上に米をとりたい。
そこで兵左衛門がここへ堰を通したならば米がとれるだろうと。もう一つ、一説には、鰍沢までいって、川を通じて、舟で荷物を運びましょうと」
「水運もあったのですか」と黄梅。
「水運と二つです。
そこで徳島兵左衛門は寛文4年12月に準備をしたんです。杭打ちまでして、寛文5年の4月から手をつけて、寛文6年の春にはだいたい仕上がったのです。」年月など、何もご覧にならずにスラスラと仰る歌田さんに、驚きながら、
「これがその時に、こちら宇波刀神社の御朱印地を通してもらいたいという契約書ですかぁ」と、黄梅。
「ここに流れがあったのですか?」
「ないです、ないです」
「全く無いところに堰を?」
「何故あそこに造ったかというと、釜無川が流れていて、小武川が流れている。この流れとこの流れがぶつかると、そこは水がよどむ。釜無川へ直角に小武川が流れ込む。すると合流点は水の勢いが無くなる。その無くなるところを取り入れ口にしたんですよ。」
「あ〜そういう意味ですか。」
「地形のことも、勿論あったでしょうね。」
「上円井部落、私のとこは下円井部落、この向こうは入戸野。入戸野から向こうは、新に田にした場合、兵左衛門、御年貢を取った。上円井、下円井は御年貢を取らない。兵左衛門の約束で。そのかわり、急なときにはいつでも人足にでなさい。
今も守られてるですよ。」
「今もですか!」
「えー、入戸野から向こうは、今も水利地益税出してるですよ。」
「スイリチエキゼイ」などという言葉は聞いたことがありませんので、前後のお話の意味を考えながら、水利地益税と、見当をつけるのがやっとで、歌田さんのお話についてゆくのが大変です。
ところが、寛文7年の台風により、徳島堰は大破してしまいます。
そして突然、工事は甲府城代戸田忠高の命により、白根町有野の矢崎又右エ門に引き継がれます。
兵左衛門には、今までの工事費として4,165両が補償されたと伝えられておりますが、これも、その内の1,900両は未払いであったとする資料もございます。
結局この堰の水代を兵左衛門が徴収できたのは、寛文6年の1回きりだったわけですが、急に官営の堰になりましたことにつきまして歌田さんは、「これは解りませんが・・・」とことわった上で、この先ずっと兵左衛門に多額の水代を支払うことをきらったのではと、箱根用水の例をひいて仰います。
ともあれ、工事は矢崎又右エ門に引き継がれ、寛文10年に完成し、「お月夜にも焼ける」と云われた原七郷に豊かな実りをもたらしたのですね。
そして徳島兵左衛門の名から徳島堰と命名されたのですね。
突然お伺いいたしましたのに、ご高齢の歌田さんが一生懸命力をいれてお話くださいましたり、資料を出してきてくださいましたことに感謝です。
お別れのご挨拶をというときに、20匹以上もおりましたでしょうか、猿の群がすぐお玄関先まで来ておりまして、驚かされました。
2009年02月26日
山梨きまぐれ歴史散歩「八田村から韮崎市へ、徳島堰を歩く−1」(1999年8月)
今月のきまぐれ歴史散歩はぶらりと八田村にまいりました。
以前から御門前を通りますたびに気にかかっていたお寺、長谷寺(ちょうこくじ)です。
格別目的はなく、ただその佇まいに惹かれて・・・。
八田山長谷寺です。山号がそのまま村の名なのですね。
私、仁王門の正面におります。
左右の仁王様の前面は格子になっておりますが、その格子に草鞋が結ばれております。奉納されているのですね。
右側に3足、左側に6足。
なかには落ちてしまったのもありますけれど、1mもあるような大きな草鞋もございます。
仁王門を入りまして、正面の本堂は国の重要文化財に指定されております。
この本堂は今からおよそ500年前、大永4年に建立されたものだそうです。
三間四方単層入母屋造です。
武田信玄公の誕生が大永元年ですから、信玄公3歳の頃ということになりますね。
見事な彫刻を拝見しておりましたら、ご住職様がこんなお話をしてくださいました。
「御勅使川(みだいがわ)は流れが急で荒れるというので、武田信玄が水を制したと云われておりますけども、昔、大雨が降ったとき、荒れて、竜王から甲府の南を押し流して、さらに笛吹川を止めて、笛吹川の水と一緒に一宮神社の領地を流したのですね。
それで一宮神社では、御勅使川がおらんとこの領地まで荒さなんでくりょうと、竜王の高岩というところに竜神を祀って・・・」
その川除のお祭りが おみゆき祭りなのですね。「そこだい」「そこだい」という独特の掛け声でお神輿が進みます。
さて、水の出るお話を伺っておりまして、ふと思い出しましたのは、「原七郷はお月夜でも焼ける」という言葉でした。
原方と呼ばれ、昔、7つの村があったところから原七郷と云われましたのは、御勅使川の扇状地で、この辺も入るわけですが・・・。
「お天道さんが続けば、焼けて困るんだけれども、お月さんでも焼けると、強調した表現なのです」 と、ご住職様。
「それだけ大変な土地柄だったのですね」
「そうです、そうです。それで行基が甲斐国を回ったのが養老2年と云われているのですが、旱魃で困っているのを知って、十一面観音を彫ってお祀りして、雨乞いをしたというのが始まりだといわれているのです。それで行基がお祀りした観音さんは雨乞いの観音さんと云われておるんですがね」
特に農家にとって水は大切ですから、雨乞いの観音さんへの思いは格別のものがあったのでしょう。
ご住職様のお話によりますと、昔、西野の地域の人々からお燈明料として2町歩の土地が寄進されたこともありましたそうで、それは農地開放まで、このお寺の土地であったということです。
さて、ここでいつもの「きまぐれ」が・・・・・・。
この「お月夜に焼ける」と云われた原七郷を潤している徳島堰に行ってみましょう。 (続く)
2009年02月13日
山梨きまぐれ歴史散歩「河口湖新倉堀抜史跡館−2」(1993年9月)
二回目の工事は、3700両を超える費用を農民が負担して行われました。
近隣の村からの援助もありましたが、新倉村の人達は、土地や家財道具まで投入してこの工事に取り組んだと申します。
三回目の工事も、4,300両という膨大な費用を必要としました。
このとき、永島安龍・元長という親子が300両という大金を寄附し、残り4000両を村の人々が分担金として出したのです。
館長さんがこんなお話をしてくださいました。
「1期と2期の間が10年空白がありますよね。
このときは、貧しくて分担金の出せない人達の中に、代表者が出て、直訴の計画を立てて、江戸へ向って7人の方達が出かけたのです。
それが役人の耳に入って、山中湖のところで捕まってしまって、連れ戻されて、反対派への見せしめに、皆さんが見ている前で打首になったという、そいうこともあったのです。
それで反対派の人達は、お上に逆らったりするとこのような目に遭うということで、泣く泣く賛同して工事をすることになったのですが、その犠牲が子供にいったわけなんですねぇ。
身売りされたのですねぇ。」
こんな辛く悲しい歴史を秘めた隋道が、今、私の前に、ごつごつとした真っ黒な岩肌を見せて、口を開けています。
「そこのドアの先が、元禄3年に掘り出した入口で、これからずうーっと洞窟が続いているわけなんですが、現在は電気をつけて、一部中が見られるようになっています。」
「元禄時代に掘ったままなのですか」と黄梅。
「そうですね。全く手を加えていません。」
「現在はどのくらいまで行かれるのですか」
「水が溜まっていますので、約60メートルくらいじゃないかと思うのですが」
「行ってみてもよろしいですか」と云いながら、黄梅はもう歩きだしております。
「どうぞどうぞ」という館長さんのお声を背中で聞きながら。
ひんやりとしております。
まわりの岩肌も濡れておりまして、指で触れますと真っ黒になります。
着物の袖が触れないよう、両袖を押さえながら歩きました。
工事に失敗した無念の思いも、子供まで売らなければならなかった悲しみ、そして完成したときの喜び、様々な思いがこの地底の冷たい空気にとけているような気がいたします。
外に出ますと、今、うそぶき山は天上山と呼ばれ、山頂は公園となり、ロープウエイが子供達の歓声を乗せて登っているのでございます。
山梨きまぐれ歴史散歩「河口湖新倉堀抜史跡館−1」(1993年9月)
平成5年9月15日の新聞にこんな記事がありました。
増水が続く河口湖・西湖 新放水路使用始める
増水が続く河口湖や西湖の減水策として、県は14日午前10時、河口湖新放水路から毎秒5トンの放水を開始した。
今年7月に完成した放水路が使用されるのは初めて。
台風13・14号の影響で増水の不安が高まっていただけに、住民は「1991年の増水被害が繰り返されることはないだろう」と胸をなでおろしている云々。
というもので、その写真も添えられております。
写真には「初めて放水を開始した河口湖新放水路うそぶき治水トンネル」(富士吉田市新倉)という説明が付けられておりますけれど、今から300年の昔、やはりこの富士吉田市新倉と河口湖の間に水路が掘られているのですね。
このたびの新しいうそぶき治水トンネルの名前になっております うそぶき山の下で血のにじむような難工事が進められたのでございます。
そこで今月のきまぐれ歴史散歩は、河口湖町の河口湖新倉堀抜史跡館にまいりました。
夏の賑わいも去り、紅葉の季節を迎える少し前の、静かな湖畔の佇まいです。
この河口湖・新倉堀抜史跡館は、河口湖畔の船津に」ございます。
新倉堀抜と呼ばれましたこの手堀りのトンネルは、県庁排水隋道の完成により、大正2年以降は使われなくなり、人々の記憶からも消え去ろうとしておりました。
ところが、ここ船津で売店をしていらっしゃる○川さんのお宅の工事中に、このトンネルの船津口が発見されたのです。今から8年前、昭和60年のことです。
その後、こうして史跡館が造られ、その昔の難工事の様子を今に伝えているのです。
中に入ってみましょう。
入ってすぐの壁のパネルに工事の歴史が記されておりますが、この難工事は3回にわたって行われたのですね。
この史跡館の館長さんにお教えいただきます。
「この工事が始まったのは元禄3年で、これから14年まで11年間、一回目の工事なんですが、現在地河口湖の船津地区から掘り出す人と、新倉地区の出口から掘り出す人と、両方から掘り進んだわけなんです。
そのときの工事は、お互いに目的地に向って掘り進むわけです。
そして11年目に気がついたときは、この河口湖から掘る人の方が、角度を一寸急勾配に掘っていったんですね。
結果、9メートルの高低差のミスがでてしまいまして、失敗してしまったのです。
そしてその後、ここから数えますと146年あるのですが、この間はお金が無いために、掘りなおしが出来なかったわけですね。
ずっと月日が流れて、たまたま大雨が降ったとき、ここに山崩れがおきまして、穴が現れたわけです。
そして新倉地区の人達は、もう一度なんとかして河口湖から水を引こうと、弘化4年に工事が再開されます。
嘉永6年まで、6年間かかってつなぎ合せるわけですね。
そして水を流した」ところが、一箇所弱い所があって、一年で地崩れしてしまいました。
それで、また10年たつのです。
文久3年にようやく工事が再開するのです。幕末の二期工事です。
新倉村民によって3年間かけ、ようやく完成したのが、慶応2年。
そして、水を流していたいたのは大正元年まで。
当時の新倉地区の人達の掘り抜きのドラマが、後ろにありますこのファンタスビジョン。
これは、山梨県では第一号として入った立体映像なのです。
どうぞご覧下さい」
ということで、立体映像によって、学ばせていただきました。
江戸時代末期、河口湖から山一つ隔てた新倉の村がいかに水が無く苦労していたかが映しだされます。
溶岩と火山灰で出来た土地なので、雨が降っても全部地面に浸み込んで、流れてしまうのです。
館長さんがお話くださった、大雨で穴が現れ、船津から新倉まで、うそぶき山の下を掘り抜いて水を引く計画が立てられ、慶応2年に完成したのです。
一回目の工事は、江戸初期の郡内領主 秋元喬朝のときに始められましたので、秋元工事と呼ばれているのだそうです。
治水工事の費用を捻出するため、8割を超える重税を課したっと申します。
1日25人ずつの人夫を輪番で確保しながら、地の底を這い回って工事に取り組み、失敗したのです。
(つづく)
2009年01月23日
山梨きまぐれ歴史散歩「富士吉田市 福源寺」(2003年3月)
以前富士吉田市下吉田にございます福源寺をお訪ねいたしました折、鶴塚と呼ばれている塚がございまして、徐福に縁の塚と知りましてから徐福に関心を持つようになりました。
徐福は秦の始皇帝の命令で不老不死の妙薬を求めて3000人の童男・童女を率いて中国大陸から旅立ったという伝説が残されています。
蓬莱山とは中国から見て東海にあって、、仙人が住む霊山で、これが日本では富士山のことだとする説があるのですね。
そして山中湖西岸にある長池地区は徐福が不老不死の薬草を富士山麓に求めてやって来て、定住した子孫の地とも言われているのです。
その大半が秦・羽田という姓を名乗っているとも伝えられています。
富士吉田市新倉に徐福をご研究の方がいらっしゃると伺い、お訪ねし近くのファミリーレストランでお話をしていただきました。
帝京学園短期大学教授土橋寿先生です。
「この土地に来て50年ほどになりますけれど、義務教育の教員でして、子供の読み物を中心に活動しましてね。
その中で昭和40年代になりまして、下吉田に福源寺というお寺があるんですが、そこに鶴塚という碑がございましてね。」
「鶴塚、行ってまいりました」
「江戸時代のものですけどね。徐福がこの土地に来て亡くなって鶴になったと。その鶴が千何百年か経ったころ、福源寺に落ちた。それが徐福の亡骸だというので、鶴塚を造ったのですね。」
それを子供向きの童話にしたのが昭和42年でしてね。
そんなことから徐福へと踏み込んだわけですけれどね。
吉田には徐福の遺跡って何もないのです。日本中そうなのです。ですから日本の場合は伝説の段階なのですね。
子供向けの読み物から徐福を研究していきますと、史記に入ってゆくわけです。
徐福が歴史上最初に出てくるのは、司馬遷の史記が最初なんですね。
丁度15年くらい前ですか、中国では徐福の遺跡がみつかったのです。
古文書も出てきたりで、中国では伝説ではなく、実在の人物として、研究が盛り上がっています。
そんなことがあって、中国との交流が広がってきたという状況なのです。
日本では37箇所の伝説地があるけれども、直接的なものは発見されていないのです。
民俗の長い間のお祭りとかそういったもから考証を重ねていきますと、徐福に関するお祭りが沢山でてきますので・・・。
私は、徐福本人が直接来たかどうかはわかりません。多分1500人とも3000人とも云ってますけれど、その人達のだれかが日本にきたのだろうなと。
ですから私は、徐福は3000人いたと云っているのです。
仮に500人出すにしても、3000人出すにしても、船が何艘にもなるのでしょうね。2200年前のことですからね。
今のハイテクの船とちがって、船が同じ港に一直線にくるということはなくて、潮の流れや風向きによって、日本海側の各地に散らばって上陸したのだと思うのですね。
だから日本海側の方に徐福が来たという地が多いですね。
北は青森の小泊、京都は伊根に上陸したとかね。」
「京都の伊根の場合は浦島伝説もありますね。」
「伊根に私らの仲間で、熱心な方がいましてね、徐福はここに登ったというような・・・。
私は、徐福は佐賀に来たと思います。史記に、『平原広沢を得て王になった・・・』とあるのですが、そうすると佐賀がピタリとくるのです。
その後、新宮へ来て、さらに東へ辿って来て、三保の松原へ上陸したのではないかと。
三保の松原から富士山麓に来たと。
そして富士吉田で亡くなったというのが、日中共通の認識なのです。」
「甲斐絹との関係を先生はどのようにお考えですか」
「京都の弥勒菩薩で有名な広隆寺、あの秦河勝と徐福は違うのです。
秦河勝は朝鮮系なのです。ところが徐福は秦の時代だから秦という字につけて、これも徐福に・・・というのですが、織物自体は韓国からきたのでしょうね。神奈川県の秦野、あれも徐福の子孫だというのは、後からのこじつけだと私は思うのですけれど。
甲斐絹も私は韓国からだと思います。
漢氏の系統が持ってきたのだと思いますね。
徐福が一族をつれて吉田に来たということはまず有り得ないことかと。
徐福の一団の中の何人かが来たのでしょう。」
お話は途切れることなく続きますが、この辺で散歩の歩みを止めることにいたしましょう。
お別れぎわに、興味深いお話を伺いました。日本にご先祖を徐福だとする家系図を持つお家が二軒あるのだそうです。
そのお一人は元総理大臣の羽田孜氏で土橋先生もご覧になりましたとか。
それで羽田元総理は大変熱心な徐福の研究者なのだそうです。 (終り)










