幽霊島通信

Presented by 焼き海苔

カテゴリ:サイボーグ009 > 009 RE:CYBORG


 さて、10月に『009 Re:Cyborg』が公開されるのだが、私は、『サイボーグ009』のファンであり、その一方で、あろうことか、押井守監督のファンでもあり、さらに驚くべきことに、神山健治監督版『攻殻機動隊』のファンでもあるという、例えて言うならば、純チャン三色ドラドラ状態。
 そんな私が、『009 Re:Cyborg』を期待していないなどということがあり得るだろうか、いやない。

○Reopening
 去年の秋に『009 Reopening』なるプロモーション映像(監督:押井守、脚本:神山健治)が発表されたときは、これが映画化への布石だとは、迂闊にもこれっぽちも思っていなかったのだが、どうやら、このときの企画が紆余曲折を経て現在の布陣(監督脚本:神山健治)になったようである。
 私は以前から、押井守が『サイボーグ009』(というよりも009の「神々との闘い」編)を手がけたら面白そうだけどなあ、と思っていたこともあって(→証拠)、押井監督降板(?)は少々残念ではあるが、「9と3だけ出せばいいんだよ。他は死んだってことにして」などと、私の心胆を寒からしめるような発言もしていたようなので、押井監督よりは分別のある(ような気がする)神山監督が引き継いだのは、かえってよかったのかもしれない。(ついでに言うと、『Reopening』の003の髪はおかっぱ(←押井さんの好み)だった)
 ただ、企画の初期段階にコミットしていたことは間違いないわけで、完成品にもある程度の押井テイストは残ってるんじゃないかという期待はある。(押井監督の好きな天使的な何かが何らかの形でストーリーに関わるようでもある)
 ところで、押井監督は逃げたのか、降ろされたのか……。

 いやひょっとすると、次回作(?)で満を持して登板なんてことも……。


○キャラクターデザイン
 平成版の紺野直幸氏の出番は、やっぱり無いよなあ。
 紺野さんの絵は、絵としての整合性よりも絵としての勢い重視って感じで、3DCGでの製作という今回のコンセプトとはソリが合わんだろうとは思う。
 新キャラクターデザインは、最初は違和感あったけど、何度か見ているうちに慣れてきた。まあ、これはこれでアリかなあ、と。

 005はモヒカン刈りをやめたからなのか、設定で本名がジェロニモ・ジュニアになっとりますな。
 2001年の平成版では、本名がG・ジュニアという、なんだかな〜な設定になっていたけれど(当時のテレビ東京の説明によれば、モヒカン族(モヒカン刈りなので)の005が、アパッチ族の名前である“ジェロニモ”を名乗るのはおかしいから、ということだったはず)、今回、ついに、堂々と自分の名前を名乗れるわけである。
 めでたし、めでたし。


 メイン・キャストが発表された模様(→公式サイト)。

 001 玉川砂記子
 002 小野大輔
 003 斎藤千和
 004 大川 透
 005 丹沢晃之
 006 増岡太郎
 007 吉野裕行
 008 杉山紀彰
 009 宮野真守

 ふむ。なるほど。へえ〜、ほ〜、そうなんだ。ん〜、まあねえ。

 ていうか、001の玉川砂記子さん(攻殻機動隊のタチコマ)以外のひとは全然わからないので、何ともコメントのしようがないですw

 そんなわけで、話は突然変わるが、石ノ森章太郎原案、深作欣二監督の『宇宙からのメッセージ』という映画がある。
 この映画、真田広之や千葉真一などの日本人俳優に加えて、メインキャラの何人かにビック・モローなどアメリカ人俳優を起用して、当時としてはインターナショナルな作品となっている。
 完成品では、アメリカ側キャストのセリフはすべて日本語に吹き替えられているのだが、深作監督自身は、日本人キャストは日本語を、アメリカ人キャストは英語をしゃべりまくるけど、お互いの会話は普通に成立している、という描き方をしたかったらしい。そういう描写で、ある種の未来感みたいなものを出したかったんだろう。
 最終的に配給会社のエラい人が首を縦に振らなかったようで実現はしなかったが、日本語英語ちゃんぽんなバージョンも見てみたかったなあ、と思わなくもない。(予告編でほんのちょっとだけ、そういう場面を見ることができる)

 賢明なる読者の皆様は何を言いたいのか察していただけたと思うが、『009』で、各キャラがひたすら母国語でしゃべりまくるとどんな感じになるのか、見てみたいと思いませんか。
 七カ国語(5がインディアン語(?)をしゃべったら八言語)が入り乱れつつ、普通に会話は成立しているっていうのは、ある種のサイボーグ感みたいなものを表現するのには、なにげに効果的なのではないかと。
 見てる方は何が何やらのカオス状態確実で、エラい人も首を縦には振らないだろうけど、ブルーレイの特典とかでもいいんで、インターナショナル(?)バージョンも作ってくれないかね。

 ちなみに、押井版の『Reopening』では、2が英語、3が仏語をしゃべっていたりもしたので、押井さんだったら“インターナショナル(?)バージョン”をやってくれたんじゃねーかと思わないでも無い。(というより、むしろ、「各キャラは母国語をしゃべるべき」と強硬に主張した結果降ろされたとか……(憶測))


 

 平ゼロ(2001年版)のときは、関連商品が出始めたのは放送中盤ぐらいで、放送開始前にはメディアの露出もほとんどなかった、ような印象があるのだが、今回は、なんだかんだと、いろいろ仕掛けて来てますね。
 まあ、単純に、短期決戦の劇場映画と長期戦のTVアニメの違いってことかもしれんけど。

 で、(遅ればせながら)『Pen』。
 「完全保存版 サイボーグ009完全読本」と題する約60ページにわたる特集記事を掲載。
 「サイボーグ」のアイディアが雑誌『LIFE』の記事をヒントにした、というのは割と有名なエピソードだが、そもそもどんな記事だったのか、(私的には)ずっと不明だったのだが、その記事(と思われるもの)が1ページ分掲載されていたのがちょっと嬉しい。
 その他、各キャラのイメージの源流を「世界まんがる記」を通して探っていたり、ファンなら必読。

 ちなみに、個人的に気になっていた「押井守降板の真相」だが、

押井さんが考えていたプロットは、とにかく過激。009はアパートに引きこもり、003が犬になった001を連れて世界を旅していて、ほかのメンバーは死んでしまっている、というような(笑)。僕(azinori注:神山監督)は、(略)再スタートとなるような脚本を書いたのですが、やはり押井さんの意向とは合わなくて、じゃあ監督も僕がということになり、(以下略)

だそうです。

 「犬になった001」って……。
 押井ファンな私だが、さ、さすがにそれは……。



 1stから約6年ぶりとなる完結編2ndは、まあ、良くも悪くも想定の範囲内、だったかな。

 個人的なお気に入りは、006編の「天空の食」。
 口調が少々006っぽくないような気もするが、006と黒豚の珍道中の、のほほんしたマンガ的な感じがいかにも006らしい。女王シバのビジュアルも、「おぉ、そう来たか〜」と、これはかなりインパクトがあった。

 「プロローグ」「エピローグ」では、晩年の石ノ森章太郎の闘病生活が描かれる。
 本来の構想では、2012年の(元気な)石ノ森章太郎の前にギルモア博士が現れる、といった感じだったんだろうと思うのだが、現実には2012年に石ノ森章太郎はいないので、こういう描き方にならざるを得なかったというのも、それはそれでわかる。
 わかるんだけど、読んでてすごく痛々しいのね。
 どのくらい痛々しいかというと、00ナンバーの活躍が霞むぐらい痛々しいのである。
 主役であるはずの本編を、脇役であるはずの「プロローグ」と「エピローグ」が食っちゃってるとでも言うか。
 闘病生活を支えた家族としての想いってのもあるんだろうが、「サイボーグ009 完結編」の中でどうしても描かなきゃならないものなのか、と疑問に思わなくもない。

 何はともあれ、「サイボーグ009」完結まで、残りわずか。嬉しいような悲しいような怖いような……。

 ちなみに、クラブサンデーで連載中のマンガ版は、あくまでも小説のコミカライズという印象。
 せっかくだから、小説で採用されなかったアイディアを使うとかして、小説とはまた違った内容でやるってのも、悪くなかったと思うのだが……。


     

 昨日、ニコ生でやってた「「009 RE:CYBORG」公開記念!本編チラ見せ&生メイキング&スタッフ座談会」、3時間の長丁場ながら、製作苦労話やら何やら、話が尽きずで、結構、面白かった。
 特に印象的だったのが、009役の宮野真守さんが「原作全部読んでアフレコ前に他のキャストにキャラの解説をしていた」というエピソード。(スタッフの中にも、「初めて描いた絵が009で……」とか言っている人がいましたね。)
 思い入れがあればいいってもんでもなかろうけど、こういう、キャストやスタッフが原作に対して強い思い入れを持って望んでいるっていう話を聞くと、なんか、嬉しい気持ちになっちゃいますね。
 こういう人たちがやってるんなら、間違いは起こさないだろう、みたいな。まあ、“間違い”を起こしてるって噂もあるけど。

 何はともあれ、あと一週間。
 なんだかオラ、ワクワクしてきたぞ。



 見ました。
 何はともあれ、ゼロゼロナンバーサイボーグの皆さんの元気なお姿が拝見できただけでも感無量。
 009の最初の「加速装置!」の場面はちょっとうるっと来た。予告編でも出てくる場面ではあるけど、なるほど〜、そういう流れで「加速装置!」なワケですね。
 ということで、ネタバレにならない程度に感想を。

 まずは3D立体視。3Dは3回めだが(余談ながら、他の2本は『アバター』と『プロメテウス』)、私の目と3Dは相性が悪いらしく、本編前の予告編で字幕が浮き上がってるのを見た瞬間に「あぁ、目が、目が〜!」となってしまうのだが、今回はとても見やすかった。
 他の3D映画では、スクリーンから手前側に映像が飛び出して見えるが、『009』では、スクリーンの奥側に空間が広がっているような感じ。
 んー、うまく説明できないけど、『009』は、スクリーンの中に映像がきっちり収まっていて、安定感があるというか……。逆にいうと、他の3Dに比べて地味めかもしれない。

 各キャラの立ち位置やキャラ同士の関係は、ある程度予想していたものの、過去作とは異なった描写が少なからずあって、それなりに戸惑う。
 設定上、解散して30年近くが経過しているということになっているし、30年経てば、それぞれ考え方も変わるだろう、ってのはあるけど、コアなファンほど違和感は感じることになりそう。
 かといって、『サイボーグ009』という作品を全く知らない人が見たら、それはそれで説明不足。「え? この人たちはどういう立場の人たちなの?」とかなっちゃいそうでもある。
 というわけで、これから見る予定の人は、ほどよく記憶を消去した上で見ることをお勧めします。

 ストーリーは、一言でいうと、×××××××××のほぼリメイク、という印象を受けた。
 たまたま似たものになったということも、有り得なくはないけど、でもまあ、おそらく、この話をベースに脚本を書いてるんじゃないかと思う。
 ということで、ガワはともかく、中身はちゃんと『サイボーグ009』である。ご安心あれ。

 ネタバレを避けようと思うと、ちょっと書きづらいなー。
 詳細については、ほとぼりの冷めた頃に、超絶ネタバレレビューということで。

 あと、今作では003がオトナの女性として描かれている。一方、009は(実年齢はともかく)学生服姿。
 (青少年保護条例的に)いかがなものかと……


 2回目見ました。
 最初見たときは、面白いといえば面白かったんだけど、微妙に「何だこりゃ?」感があって、少々モヤモヤした気分で映画館をあとにしたのだが、その後、パンフやらインタビュー記事やらを読み込んだ上で再挑戦(?)したら、何だ、面白いじゃないの、と。(←それはそれでどうかとは思うが)
 まあ、それなりに不満な点や納得できない部分はあるものの、『サイボーグ009』の歴史に新たな1ページを加えた作品として、オレはこの映画を絶賛できる!、と思える今日このごろ。
 ということで、監督インタビューを踏まえたり踏まえなかったりしつつ、私自身の蘊蓄分析考察憶測妄想幻覚幻聴その他諸々を交えて、『009 RE:CYBORG』について語ってみる。
 なお、ネタバレに関しては一切配慮していないのでご注意ください。

 まずは経緯についてだが、これは、『アニメスタイル 002』の「神山健治監督が語る『009 RE:CYBORG』の真実と真意」で、押井守監督降板や脚本完成までの経緯がかなり詳しく語られている。内容についても割と踏み込んだことを言っているので、興味のある方はおすすめ。(Web上も含め、その辺はあっちこっちで語っているものの、神山健治が監督に決まるまでの経緯に関しては、これが一番詳しいと思う)
 簡単にまとめると、元々、押井守が監督するという前提の企画だった。で、脚本をまかされた神山監督は、もともと押井守LOVEな人だったので、押井守的なアイテムを散りばめつつ脚本を書き上げた。脚本は、押井LOVEで書き始めたものの、書いているうちに神山自身も思い入れのあるものになった。が、押井さんは神山脚本を気に入らず、自分のアイディア(58歳の003が犬になった001を連れて世界を旅していて云々)に固執。結局、製作委員会が押井アイディアと神山脚本を天秤にかけて、神山脚本で行くことを決定、ついては脚本を書いた神山健治が監督もするべし、となった。(押井守は事実上クビ)
 同時期に、映像表現的な面で押井さんがやりたかった方向(フォトリアル)が、予算や時間、技術的な問題などで事実上不可能ってのが見えてきて、むしろ、こっちの方ででやる気無くしたんかなあ、とも思う。
 押井守ファンとしてはちょっと残念ではあるけど、ただねえ、さすがに押井案は、「誰が見たがるんだ、そんなもん」としか言いようがない……。(ちなみに押井さんは、鈴木敏夫に「009やりたかったんでしょ?」と聞かれ、「やりたかった」と答えている)

 さて、『サイボーグ009』は、(完結編を別にすれば)おおむね発表時点での「現代」を舞台にしているが、具体的に西暦何年というのは作中で明示されたことはなかったと思う。(完結編は20世紀中に発表することを前提に2012年と設定されていたはずなので、本来は「近未来」が舞台である)
 また、009たちがサイボーグになってから何年経過しているかというのも、「その辺には触れないでおきましょう」という作者・読者双方の暗黙の了解の上で、シリーズとして続いていた。
 で、今回初めて、舞台が2013年、ゼロゼロナンバーが解散してから27年(つまり、彼らがサイボーグになったのはそれより前)という具体的な年代が明示された。
 27年前だと、原作では最後のエピソードとなる「時空間漂流民編」(1985~86年)が発表されているので、これ以降、活動を休止していた、ということになるかと思う。
 ただ、“2013年”はともかく、“暗黙の了解”を破ってまで“27年”と明示する必然性ってあるのかなあ。
 神山監督(やスタッフ)の中で、「27年」を基準に設定やストーリーを組み立てることに異論はないんだけどさ。その辺がしっかりしてないと、それはそれでグダグダになっちゃうという面はあるだろうし。
 ただ、観客に見せる部分としては、メンバー同士の「久しぶり」の一言があればそれでいいじゃん。あと、「オレたちがともに戦ったあの日から、ずいぶん長い時間が経ってしまったな」的なセリフを誰かにいわせれば、それで十分じゃね。
 「長い時間」がどのくらいなのかは、見た人それぞれが自分のイメージで受け止めればいいだけの話であってさ。「5年ぐらいかな」と思う人もいれば、「30年」と考える人がいてもいい。それでいいじゃん。
 『009』という作品になじみのある人なら、27年が経過しているといわれれば、そこはまあ、“暗黙の了解”の延長として受け止めることもできるけど、『009』をよく知らない人、特に海外のお客さん(海外での上映も決まっている模様)からすれば、「27年? えっ、じゃあこの人たち何歳なの??」ってなるわけじゃない。ファンでない人にとっては、何の意味もない数字であるだけでなく、ストーリーを理解する上で混乱する要因にもなりかねない。
 この映画が目指すべきは、既存のファンをそれなりに満足させつつ、新しいファンを獲得することであるはずで、「27年」と明示することは、そのどっちにも寄与しないと思うんだけど。
 他にも、27年としたことで脚本上無理が出ていると思える部分もあって、わざわざ作中で「27年」と明示することにいったい何のメリットがあるのか、私としては、かなり疑問である。


つづく



「009は記憶をなくしている」
 →久しぶりの新作の導入部としては、十分アリだよね。

「009は高校生」
 →えっ? でもまあ、学ラン姿の島村ジョーってのもなかなか新鮮味があるな。
 005に襲われる冒頭は(石ノ森章太郎原作の)『幻魔大戦』のオマージュっぽいし。

「009は3年ごとに記憶をリセットして、27年間、高校生活を続けている」
 →……。(ドン引き)

 いや27年は長すぎでしょ。
 永遠に繰り返す高校生活は、文化祭の前日を延々と繰り返す押井監督の『うる星やつら ビューティフルドリーマー』だし、島村ジョーの鬱々とした日常は、同じく押井監督の『スカイクロラ』に登場する成長しない永遠の子供・キルドレに重なる。
 ちなみに、脳内彼女や脳内母さんは登場(?)するものの、島村ジョー君の高校生活は直接描かれているわけではない。
 なので、彼の通っている高校自体が脳内高校という可能性も捨てきれない。
 「あなたが通っていると信じている高校、本当に存在してるんですかね」とか、「クラスメートの顔、担任教師の名前、どれかひとつでもおぼえているか?」と問いつめてみたくなる。
 そうだとすると、記憶の捏造は『攻殻機動隊 Ghost in the Shell』、脳内ループという点では『イノセンス』。
 まあ、実に押井守的なシチュエーションではある。

「009の記憶のリセットは、世界に危機が訪れたときにゼロゼロナンバーのリーダーとして即座に対応するため」
 →一見、もっともらしいけど……。

 ギルモア博士のセリフから推察すると、009の記憶が戻った時点で高校生時代の記憶はなくなる、ということらしい。ただし、今回は荒っぽい方法で記憶を戻してしまったため、高校時代の記憶もそれなりに残っている、と。(映画ではわかりにくいが、コミカライズ版では、009が「彼の声」の影響で通常の手段では記憶を回復できなかった、という描写がある)
 ということは、009が正常なプロセスで記憶を回復した場合、009の知識や経験は、ほぼ27年前の状態に戻っちゃうわけである。
 27年前には、ソ連はまだ存在しているし、ベルリンの壁も東西ドイツを隔てている。9・11も起こっていないし、テロとの闘いもずっと先の話である。
 そんな009が作戦会議とかやっても、「えーっと、コンピュータ・ウイルスって何?」とか「ハッキング? なにそれエロいの?」とか言い出して、周囲を凍り付かせること、間違いなしである。
 そういう、27年前の常識しか持っていない人に、世界の危機を救うゼロゼロナンバー・サイボーグのリーダーが務まるものなのか? 緊迫した状況下で、「ここは009の判断を信じよう」なんて任せられるものかね? (だから、「27年」って明示するのはやめとけ、と言っているのである)
 というわけで、「リーダーになってもらうために記憶を消去」というのは、全く説得力がない。

 それは置くとしても、27年間にわたって、経験を積み重ねることもできず、(精神的・人間的に)成長することも許されないって、どんな罰ゲームだよ。
 目的の重要度と手段の残虐性が釣り合ってるとは思えない。そこまでするぐらいなら、いっそのこと、ギルモア財団で冷凍保存でもしといた方がまだマシだろう。
 結論。今作のギルモア博士は鬼だ(涙)。


 ちなみに、なぜ009が高校生になったかというと、「アニメスタイル」によれば、押井さんが、「記憶を失っている高校生の009の前に年上(50代)の003が現れる」というシチュエーションを気に入ったから、のようである。(そういえば、『ケータイ捜査官』で押井守が監督した回も、主人公の男の子が年上のおばさ、お姉さんに翻弄されるっていう話だったなあ)
 神山監督は、この設定について、若い人に共感を持ってほしいから等いろいろ語っている。私は「若い人」ではないのであまりピンと来ないが、それはそれでそういう側面は確かにあるんだろう。
 ただ、実際のところは、学ランジョーを成立させるために、設定をいじり回して何とか辻褄を合わせた、という印象は強く受ける。

 そういう“外側”の都合まで踏まえれば、この設定も、なるほどって感じで見れるんだけど、どんなもんなのか……。


 ちなみに、(可能性はそれほど高くはないと思うが)大破したビルの中から、ジョー君の持ち込んだ爆弾が発見され、監視カメラの映像が復元できた場合、島村ジョーは、連続爆破テロの重要参考人として国際手配されると思います。

さらにつづく



   

このページのトップヘ