幽霊島通信

Presented by azinori

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 さて、10月に『009 Re:Cyborg』が公開されるのだが、私は、『サイボーグ009』のファンであり、その一方で、あろうことか、押井守監督のファンでもあり、さらに驚くべきことに、神山健治監督版『攻殻機動隊』のファンでもあるという、例えて言うならば、純チャン三色ドラドラ状態。
 そんな私が、『009 Re:Cyborg』を期待していないなどということがあり得るだろうか、いやない。

○Reopening
 去年の秋に『009 Reopening』なるプロモーション映像(監督:押井守、脚本:神山健治)が発表されたときは、これが映画化への布石だとは、迂闊にもこれっぽちも思っていなかったのだが、どうやら、このときの企画が紆余曲折を経て現在の布陣(監督脚本:神山健治)になったようである。
 私は以前から、押井守が『サイボーグ009』(というよりも009の「神々との闘い」編)を手がけたら面白そうだけどなあ、と思っていたこともあって(→証拠)、押井監督降板(?)は少々残念ではあるが、「9と3だけ出せばいいんだよ。他は死んだってことにして」などと、私の心胆を寒からしめるような発言もしていたようなので、押井監督よりは分別のある(ような気がする)神山監督が引き継いだのは、かえってよかったのかもしれない。(ついでに言うと、『Reopening』の003の髪はおかっぱ(←押井さんの好み)だった)
 ただ、企画の初期段階にコミットしていたことは間違いないわけで、完成品にもある程度の押井テイストは残ってるんじゃないかという期待はある。(押井監督の好きな天使的な何かが何らかの形でストーリーに関わるようでもある)
 ところで、押井監督は逃げたのか、降ろされたのか……。

 いやひょっとすると、次回作(?)で満を持して登板なんてことも……。


○キャラクターデザイン
 平成版の紺野直幸氏の出番は、やっぱり無いよなあ。
 紺野さんの絵は、絵としての整合性よりも絵としての勢い重視って感じで、3DCGでの製作という今回のコンセプトとはソリが合わんだろうとは思う。
 新キャラクターデザインは、最初は違和感あったけど、何度か見ているうちに慣れてきた。まあ、これはこれでアリかなあ、と。

 005はモヒカン刈りをやめたからなのか、設定で本名がジェロニモ・ジュニアになっとりますな。
 2001年の平成版では、本名がG・ジュニアという、なんだかな〜な設定になっていたけれど(当時のテレビ東京の説明によれば、モヒカン族(モヒカン刈りなので)の005が、アパッチ族の名前である“ジェロニモ”を名乗るのはおかしいから、ということだったはず)、今回、ついに、堂々と自分の名前を名乗れるわけである。
 めでたし、めでたし。


 メイン・キャストが発表された模様(→公式サイト)。

 001 玉川砂記子
 002 小野大輔
 003 斎藤千和
 004 大川 透
 005 丹沢晃之
 006 増岡太郎
 007 吉野裕行
 008 杉山紀彰
 009 宮野真守

 ふむ。なるほど。へえ〜、ほ〜、そうなんだ。ん〜、まあねえ。

 ていうか、001の玉川砂記子さん(攻殻機動隊のタチコマ)以外のひとは全然わからないので、何ともコメントのしようがないですw

 そんなわけで、話は突然変わるが、石ノ森章太郎原案、深作欣二監督の『宇宙からのメッセージ』という映画がある。
 この映画、真田広之や千葉真一などの日本人俳優に加えて、メインキャラの何人かにビック・モローなどアメリカ人俳優を起用して、当時としてはインターナショナルな作品となっている。
 完成品では、アメリカ側キャストのセリフはすべて日本語に吹き替えられているのだが、深作監督自身は、日本人キャストは日本語を、アメリカ人キャストは英語をしゃべりまくるけど、お互いの会話は普通に成立している、という描き方をしたかったらしい。そういう描写で、ある種の未来感みたいなものを出したかったんだろう。
 最終的に配給会社のエラい人が首を縦に振らなかったようで実現はしなかったが、日本語英語ちゃんぽんなバージョンも見てみたかったなあ、と思わなくもない。(予告編でほんのちょっとだけ、そういう場面を見ることができる)

 賢明なる読者の皆様は何を言いたいのか察していただけたと思うが、『009』で、各キャラがひたすら母国語でしゃべりまくるとどんな感じになるのか、見てみたいと思いませんか。
 七カ国語(5がインディアン語(?)をしゃべったら八言語)が入り乱れつつ、普通に会話は成立しているっていうのは、ある種のサイボーグ感みたいなものを表現するのには、なにげに効果的なのではないかと。
 見てる方は何が何やらのカオス状態確実で、エラい人も首を縦には振らないだろうけど、ブルーレイの特典とかでもいいんで、インターナショナル(?)バージョンも作ってくれないかね。

 ちなみに、押井版の『Reopening』では、2が英語、3が仏語をしゃべっていたりもしたので、押井さんだったら“インターナショナル(?)バージョン”をやってくれたんじゃねーかと思わないでも無い。(というより、むしろ、「各キャラは母国語をしゃべるべき」と強硬に主張した結果降ろされたとか……(憶測))


 

 平ゼロ(2001年版)のときは、関連商品が出始めたのは放送中盤ぐらいで、放送開始前にはメディアの露出もほとんどなかった、ような印象があるのだが、今回は、なんだかんだと、いろいろ仕掛けて来てますね。
 まあ、単純に、短期決戦の劇場映画と長期戦のTVアニメの違いってことかもしれんけど。

 で、(遅ればせながら)『Pen』。
 「完全保存版 サイボーグ009完全読本」と題する約60ページにわたる特集記事を掲載。
 「サイボーグ」のアイディアが雑誌『LIFE』の記事をヒントにした、というのは割と有名なエピソードだが、そもそもどんな記事だったのか、(私的には)ずっと不明だったのだが、その記事(と思われるもの)が1ページ分掲載されていたのがちょっと嬉しい。
 その他、各キャラのイメージの源流を「世界まんがる記」を通して探っていたり、ファンなら必読。

 ちなみに、個人的に気になっていた「押井守降板の真相」だが、

押井さんが考えていたプロットは、とにかく過激。009はアパートに引きこもり、003が犬になった001を連れて世界を旅していて、ほかのメンバーは死んでしまっている、というような(笑)。僕(azinori注:神山監督)は、(略)再スタートとなるような脚本を書いたのですが、やはり押井さんの意向とは合わなくて、じゃあ監督も僕がということになり、(以下略)

だそうです。

 「犬になった001」って……。
 押井ファンな私だが、さ、さすがにそれは……。



 1stから約6年ぶりとなる完結編2ndは、まあ、良くも悪くも想定の範囲内、だったかな。

 個人的なお気に入りは、006編の「天空の食」。
 口調が少々006っぽくないような気もするが、006と黒豚の珍道中の、のほほんしたマンガ的な感じがいかにも006らしい。女王シバのビジュアルも、「おぉ、そう来たか〜」と、これはかなりインパクトがあった。

 「プロローグ」「エピローグ」では、晩年の石ノ森章太郎の闘病生活が描かれる。
 本来の構想では、2012年の(元気な)石ノ森章太郎の前にギルモア博士が現れる、といった感じだったんだろうと思うのだが、現実には2012年に石ノ森章太郎はいないので、こういう描き方にならざるを得なかったというのも、それはそれでわかる。
 わかるんだけど、読んでてすごく痛々しいのね。
 どのくらい痛々しいかというと、00ナンバーの活躍が霞むぐらい痛々しいのである。
 主役であるはずの本編を、脇役であるはずの「プロローグ」と「エピローグ」が食っちゃってるとでも言うか。
 闘病生活を支えた家族としての想いってのもあるんだろうが、「サイボーグ009 完結編」の中でどうしても描かなきゃならないものなのか、と疑問に思わなくもない。

 何はともあれ、「サイボーグ009」完結まで、残りわずか。嬉しいような悲しいような怖いような……。

 ちなみに、クラブサンデーで連載中のマンガ版は、あくまでも小説のコミカライズという印象。
 せっかくだから、小説で採用されなかったアイディアを使うとかして、小説とはまた違った内容でやるってのも、悪くなかったと思うのだが……。


     

 昨日、ニコ生でやってた「「009 RE:CYBORG」公開記念!本編チラ見せ&生メイキング&スタッフ座談会」、3時間の長丁場ながら、製作苦労話やら何やら、話が尽きずで、結構、面白かった。
 特に印象的だったのが、009役の宮野真守さんが「原作全部読んでアフレコ前に他のキャストにキャラの解説をしていた」というエピソード。(スタッフの中にも、「初めて描いた絵が009で……」とか言っている人がいましたね。)
 思い入れがあればいいってもんでもなかろうけど、こういう、キャストやスタッフが原作に対して強い思い入れを持って望んでいるっていう話を聞くと、なんか、嬉しい気持ちになっちゃいますね。
 こういう人たちがやってるんなら、間違いは起こさないだろう、みたいな。まあ、“間違い”を起こしてるって噂もあるけど。

 何はともあれ、あと一週間。
 なんだかオラ、ワクワクしてきたぞ。



 見ました。
 何はともあれ、ゼロゼロナンバーサイボーグの皆さんの元気なお姿が拝見できただけでも感無量。
 009の最初の「加速装置!」の場面はちょっとうるっと来た。予告編でも出てくる場面ではあるけど、なるほど〜、そういう流れで「加速装置!」なワケですね。
 ということで、ネタバレにならない程度に感想を。

 まずは3D立体視。3Dは3回めだが(余談ながら、他の2本は『アバター』と『プロメテウス』)、私の目と3Dは相性が悪いらしく、本編前の予告編で字幕が浮き上がってるのを見た瞬間に「あぁ、目が、目が〜!」となってしまうのだが、今回はとても見やすかった。
 他の3D映画では、スクリーンから手前側に映像が飛び出して見えるが、『009』では、スクリーンの奥側に空間が広がっているような感じ。
 んー、うまく説明できないけど、『009』は、スクリーンの中に映像がきっちり収まっていて、安定感があるというか……。逆にいうと、他の3Dに比べて地味めかもしれない。

 各キャラの立ち位置やキャラ同士の関係は、ある程度予想していたものの、過去作とは異なった描写が少なからずあって、それなりに戸惑う。
 設定上、解散して30年近くが経過しているということになっているし、30年経てば、それぞれ考え方も変わるだろう、ってのはあるけど、コアなファンほど違和感は感じることになりそう。
 かといって、『サイボーグ009』という作品を全く知らない人が見たら、それはそれで説明不足。「え? この人たちはどういう立場の人たちなの?」とかなっちゃいそうでもある。
 というわけで、これから見る予定の人は、ほどよく記憶を消去した上で見ることをお勧めします。

 ストーリーは、一言でいうと、×××××××××のほぼリメイク、という印象を受けた。
 たまたま似たものになったということも、有り得なくはないけど、でもまあ、おそらく、この話をベースに脚本を書いてるんじゃないかと思う。
 ということで、ガワはともかく、中身はちゃんと『サイボーグ009』である。ご安心あれ。

 ネタバレを避けようと思うと、ちょっと書きづらいなー。
 詳細については、ほとぼりの冷めた頃に、超絶ネタバレレビューということで。

 あと、今作では003がオトナの女性として描かれている。一方、009は(実年齢はともかく)学生服姿。
 (青少年保護条例的に)いかがなものかと……


 2回目見ました。
 最初見たときは、面白いといえば面白かったんだけど、微妙に「何だこりゃ?」感があって、少々モヤモヤした気分で映画館をあとにしたのだが、その後、パンフやらインタビュー記事やらを読み込んだ上で再挑戦(?)したら、何だ、面白いじゃないの、と。(←それはそれでどうかとは思うが)
 まあ、それなりに不満な点や納得できない部分はあるものの、『サイボーグ009』の歴史に新たな1ページを加えた作品として、オレはこの映画を絶賛できる!、と思える今日このごろ。
 ということで、監督インタビューを踏まえたり踏まえなかったりしつつ、私自身の蘊蓄分析考察憶測妄想幻覚幻聴その他諸々を交えて、『009 RE:CYBORG』について語ってみる。
 なお、ネタバレに関しては一切配慮していないのでご注意ください。

 まずは経緯についてだが、これは、『アニメスタイル 002』の「神山健治監督が語る『009 RE:CYBORG』の真実と真意」で、押井守監督降板や脚本完成までの経緯がかなり詳しく語られている。内容についても割と踏み込んだことを言っているので、興味のある方はおすすめ。(Web上も含め、その辺はあっちこっちで語っているものの、神山健治が監督に決まるまでの経緯に関しては、これが一番詳しいと思う)
 簡単にまとめると、元々、押井守が監督するという前提の企画だった。で、脚本をまかされた神山監督は、もともと押井守LOVEな人だったので、押井守的なアイテムを散りばめつつ脚本を書き上げた。脚本は、押井LOVEで書き始めたものの、書いているうちに神山自身も思い入れのあるものになった。が、押井さんは神山脚本を気に入らず、自分のアイディア(58歳の003が犬になった001を連れて世界を旅していて云々)に固執。結局、製作委員会が押井アイディアと神山脚本を天秤にかけて、神山脚本で行くことを決定、ついては脚本を書いた神山健治が監督もするべし、となった。(押井守は事実上クビ)
 同時期に、映像表現的な面で押井さんがやりたかった方向(フォトリアル)が、予算や時間、技術的な問題などで事実上不可能ってのが見えてきて、むしろ、こっちの方ででやる気無くしたんかなあ、とも思う。
 押井守ファンとしてはちょっと残念ではあるけど、ただねえ、さすがに押井案は、「誰が見たがるんだ、そんなもん」としか言いようがない……。(ちなみに押井さんは、鈴木敏夫に「009やりたかったんでしょ?」と聞かれ、「やりたかった」と答えている)

 さて、『サイボーグ009』は、(完結編を別にすれば)おおむね発表時点での「現代」を舞台にしているが、具体的に西暦何年というのは作中で明示されたことはなかったと思う。(完結編は20世紀中に発表することを前提に2012年と設定されていたはずなので、本来は「近未来」が舞台である)
 また、009たちがサイボーグになってから何年経過しているかというのも、「その辺には触れないでおきましょう」という作者・読者双方の暗黙の了解の上で、シリーズとして続いていた。
 で、今回初めて、舞台が2013年、ゼロゼロナンバーが解散してから27年(つまり、彼らがサイボーグになったのはそれより前)という具体的な年代が明示された。
 27年前だと、原作では最後のエピソードとなる「時空間漂流民編」(1985~86年)が発表されているので、これ以降、活動を休止していた、ということになるかと思う。
 ただ、“2013年”はともかく、“暗黙の了解”を破ってまで“27年”と明示する必然性ってあるのかなあ。
 神山監督(やスタッフ)の中で、「27年」を基準に設定やストーリーを組み立てることに異論はないんだけどさ。その辺がしっかりしてないと、それはそれでグダグダになっちゃうという面はあるだろうし。
 ただ、観客に見せる部分としては、メンバー同士の「久しぶり」の一言があればそれでいいじゃん。あと、「オレたちがともに戦ったあの日から、ずいぶん長い時間が経ってしまったな」的なセリフを誰かにいわせれば、それで十分じゃね。
 「長い時間」がどのくらいなのかは、見た人それぞれが自分のイメージで受け止めればいいだけの話であってさ。「5年ぐらいかな」と思う人もいれば、「30年」と考える人がいてもいい。それでいいじゃん。
 『009』という作品になじみのある人なら、27年が経過しているといわれれば、そこはまあ、“暗黙の了解”の延長として受け止めることもできるけど、『009』をよく知らない人、特に海外のお客さん(海外での上映も決まっている模様)からすれば、「27年? えっ、じゃあこの人たち何歳なの??」ってなるわけじゃない。ファンでない人にとっては、何の意味もない数字であるだけでなく、ストーリーを理解する上で混乱する要因にもなりかねない。
 この映画が目指すべきは、既存のファンをそれなりに満足させつつ、新しいファンを獲得することであるはずで、「27年」と明示することは、そのどっちにも寄与しないと思うんだけど。
 他にも、27年としたことで脚本上無理が出ていると思える部分もあって、わざわざ作中で「27年」と明示することにいったい何のメリットがあるのか、私としては、かなり疑問である。


つづく



「009は記憶をなくしている」
 →久しぶりの新作の導入部としては、十分アリだよね。

「009は高校生」
 →えっ? でもまあ、学ラン姿の島村ジョーってのもなかなか新鮮味があるな。
 005に襲われる冒頭は(石ノ森章太郎原作の)『幻魔大戦』のオマージュっぽいし。

「009は3年ごとに記憶をリセットして、27年間、高校生活を続けている」
 →……。(ドン引き)

 いや27年は長すぎでしょ。
 永遠に繰り返す高校生活は、文化祭の前日を延々と繰り返す押井監督の『うる星やつら ビューティフルドリーマー』だし、島村ジョーの鬱々とした日常は、同じく押井監督の『スカイクロラ』に登場する成長しない永遠の子供・キルドレに重なる。
 ちなみに、脳内彼女や脳内母さんは登場(?)するものの、島村ジョー君の高校生活は直接描かれているわけではない。
 なので、彼の通っている高校自体が脳内高校という可能性も捨てきれない。
 「あなたが通っていると信じている高校、本当に存在してるんですかね」とか、「クラスメートの顔、担任教師の名前、どれかひとつでもおぼえているか?」と問いつめてみたくなる。
 そうだとすると、記憶の捏造は『攻殻機動隊 Ghost in the Shell』、脳内ループという点では『イノセンス』。
 まあ、実に押井守的なシチュエーションではある。

「009の記憶のリセットは、世界に危機が訪れたときにゼロゼロナンバーのリーダーとして即座に対応するため」
 →一見、もっともらしいけど……。

 ギルモア博士のセリフから推察すると、009の記憶が戻った時点で高校生時代の記憶はなくなる、ということらしい。ただし、今回は荒っぽい方法で記憶を戻してしまったため、高校時代の記憶もそれなりに残っている、と。(映画ではわかりにくいが、コミカライズ版では、009が「彼の声」の影響で通常の手段では記憶を回復できなかった、という描写がある)
 ということは、009が正常なプロセスで記憶を回復した場合、009の知識や経験は、ほぼ27年前の状態に戻っちゃうわけである。
 27年前には、ソ連はまだ存在しているし、ベルリンの壁も東西ドイツを隔てている。9・11も起こっていないし、テロとの闘いもずっと先の話である。
 そんな009が作戦会議とかやっても、「えーっと、コンピュータ・ウイルスって何?」とか「ハッキング? なにそれエロいの?」とか言い出して、周囲を凍り付かせること、間違いなしである。
 そういう、27年前の常識しか持っていない人に、世界の危機を救うゼロゼロナンバー・サイボーグのリーダーが務まるものなのか? 緊迫した状況下で、「ここは009の判断を信じよう」なんて任せられるものかね? (だから、「27年」って明示するのはやめとけ、と言っているのである)
 というわけで、「リーダーになってもらうために記憶を消去」というのは、全く説得力がない。

 それは置くとしても、27年間にわたって、経験を積み重ねることもできず、(精神的・人間的に)成長することも許されないって、どんな罰ゲームだよ。
 目的の重要度と手段の残虐性が釣り合ってるとは思えない。そこまでするぐらいなら、いっそのこと、ギルモア財団で冷凍保存でもしといた方がまだマシだろう。
 結論。今作のギルモア博士は鬼だ(涙)。


 ちなみに、なぜ009が高校生になったかというと、「アニメスタイル」によれば、押井さんが、「記憶を失っている高校生の009の前に年上(50代)の003が現れる」というシチュエーションを気に入ったから、のようである。(そういえば、『ケータイ捜査官』で押井守が監督した回も、主人公の男の子が年上のおばさ、お姉さんに翻弄されるっていう話だったなあ)
 神山監督は、この設定について、若い人に共感を持ってほしいから等いろいろ語っている。私は「若い人」ではないのであまりピンと来ないが、それはそれでそういう側面は確かにあるんだろう。
 ただ、実際のところは、学ランジョーを成立させるために、設定をいじり回して何とか辻褄を合わせた、という印象は強く受ける。

 そういう“外側”の都合まで踏まえれば、この設定も、なるほどって感じで見れるんだけど、どんなもんなのか……。


 ちなみに、(可能性はそれほど高くはないと思うが)大破したビルの中から、ジョー君の持ち込んだ爆弾が発見され、監視カメラの映像が復元できた場合、島村ジョーは、連続爆破テロの重要参考人として国際手配されると思います。

さらにつづく



   


 さて、脳内彼女トモエ。

 初期のプロットでは、高校生活を送る島村君のリアル彼女として生まれたキャラだったらしい。
 ちなみに、コミカライズ版では未登場。作画担当の麻生我等氏的には扱いづらかったのかも。
 ノベライズ版は読んでないので、「ノベライズでは違う」とかクレームつけるのはやめましょう。

 ドバイで009が「君だったんだね」と呟いたあと、カットが003のアップに切り替わることで、「君」=003を示唆している。(ここでアップになるのがギルモア博士とか007だったりしたら嫌だろうなあ)
 どうやらトモエは、003が009の脳内に埋め込んだ、ある種のプログラムのようなものらしい。おそらくは、009の精神状態が不安定になったときに起動する、精神安定化プログラムのようなものだろう。
 003が「009の行方がわからなくなった」と言っているときにもトモエは出現しているので、リアルタイムで003が009と会話をするといったアバター的なものではないと思われる。まあ、そういう機能が無いとは言い切れないが。
 トモエは、不安定な009を全面的に受け入れ癒す。その一方で、非難・批判めいたことは一切言わない。
 ここまでが映画内でわかること。

 ここから先は私の妄想。
 009の脳内にそういったプログラムを埋め込める以上、トモエの機能が「精神安定化」に限定されているわけではないはずである。003なら、トモエに別な役割も持たせていただろう。
 なぜなら、009こと島村ジョー君は高校生であり、高校には、大変遺憾なことながら、女子高生がいっぱいいるからである。
 (彼が通っているのが脳内高校である可能性もあるが、そこまでするぐらいなら、ギルモア財団の一室にでも監禁して脳内高校に通わせとけばいいだけの話で、わざわざ六本木ヒルズに高い部屋を借りて、手間暇のかかる監視を続けている意味が、ホンッッットーになくなってしまう。)
 ともかく女子高生である。
 教室の片隅で肩肘ついて窓の外を眺めている島村君を、イマドキの肉食系女子高生が放っとくわけがない。
 しかも、島村君は黒目がちの女性の押しには極めて弱いのだ。
 このような危険(?)な状況を、003が見過ごすなんてことが有り得ようか。いや、ない(強い断定)。
 クラスの女子が島村君に話しかけるなどという危機的状況が発生した場合、速やかにトモエが起動し、クラスの女子と島村君がイチャイチャするのを阻止するはずである。
 トモエとの会話は、島村君の脳内のみで行われているだろうから、外見的には、話しかけてもボーッとして返事もしない、という風に見えると思われる。さすがに、話しかけても返事もしないでは、肉食系女子といえどもどうしようもない。
 結果、島村君は、クラス内では「ヘンなヤツ」として浮いた(沈んだ?)存在になり、女子にも相手にされなくなってしまうだろう。(ザマミロ
 つまり、トモエは、009浮気防止プログラムも兼ねているのである。
 島村君はトモエに「クラスで私以外と話していない」と指摘されているが、その原因となっているのは、他ならぬトモエである。
 げに恐ろしきは女の嫉妬……。


 改めて、トモエの果たしている役割を考えてみる。
 不安定な009の精神状態を安定させている、というのは、映画を見た人なら納得してもらえるところだと思う。
 「浮気防止」は私の妄想なのでいいとして、それでは、なぜ009の精神状態を安定させなければならないのか?
 もちろん、そこには、トモエの背後にいる003の、009の苦しみを和らげたいという想いがあることは確かだろうが、そもそも、009の精神状態が不安定なのは、「現在の状態(永遠の高校生)から解放されたい」という無意識的な欲求があるからだ。もし、009の精神が破綻すれば、結果はどうであれ、少なくとも現状からは解放されるだろう。
 結局トモエのやっているのは、009を癒しつつ、“永遠の少年”の状態に束縛し続けること、である。
 これは、例えていえば、反抗期の子供に無制限にお小遣いを与えつつ、子供を自分の支配下に置き続けようとする母親、のようなものである。(反抗期というのは、成長した子供が親との距離感を再構築しようとする試み、といえる)
 このように考えると、トモエには、慈しみ受け入れる存在と、支配し束縛する存在の、二面的な性質があるといえる。
 この在り方は、ユング心理学の元型におけるグレート・マザーそのものである。女子高生なのに「マザー」とはこれいかに、と思われるかもしれないが、象徴的な意味でネーミングされた心理学用語なので、そこは気にしないでほしい。
 ユングとか元型とか深入りするとドツボにはまるので解説は省略するが、人間の中にある上記のような性質、「母性」といってもいいかと思うが、そういうのを、グレート・マザーと名付けているわけである。(ちなみに、“永遠の少年”もユングの元型の一つであり、これは文字通り、成長しない(できない)子供のことである)

 009にとってのグレート・マザー、トモエの「慈しみ受け入れる」面を担っているのは003だが、「束縛し支配」しているのは、003というよりも、ギルモア博士の意向に添うものである。(ジジイなのに「マザー」とはこれいかに、と思われるかもしれないが以下略)
 ギルモア博士は、009が成長し変化することを恐れ、記憶のリセットという非人道的手段で009の成長を阻んでいるわけである。世界平和のため、という大義名分を博士は唱えるだろうが、子供を束縛・支配する母親にも、「あなたのためにやっているのよ」という大義名分はある。
 博士は、いってみれば、子離れできず、子供に依存し続けるダメ親のようなものである。


 いやまあ、しつこくて申し訳ないが、個人的に、この設定(記憶リセットで27年間)だけは、ど〜しても好きになれんのよ。
 サムエル・キャピタル社なりCIAなり、何かの謀略でそうせざるを得ないところに追い込まれた、とか、そういうワンステップがあれば、まだよかったんだけどね。

まだつづく


 本屋に行ったんだが、『ブラック・ジャック』の新作ってのが出てるんですね。『ヤング・ブラック・ジャック』なんてのもあるし……。
 過去の名作マンガを過去のものにしないためには、何らかの形で“新作”を出し続けていかなきゃならん、ってことなんだろうなあ。
 中身は見てないんで、どういうノリの話になってるかは知りませんが。

 で、『サイボーグ009』。
 本家というか正伝というか、そっち方面が、とにもかくにも、“完結”まで漕ぎ着けたということで、この作品も、新たな展開を模索する段階に入った、ってことなのかも。
 まあ、何年か前に、星野泰視版ってのもあったけどね。

hoshino
星野版


 
 ということで、ゲッサン12月号掲載の島本和彦版『サイボーグ009』。(ていうか、全然関係ないけど、あだち充って全然変わらないよな)
 ストーリー的には、原作「天使編」の、おそらく第5章と第6章の間ぐらいに位置するエピソード。といっても、特別なにか事件が起きたりするわけではなく、009が天使のヴィジョンを見たり、ヨミ編の回想をしたりしつつ、闘いへの決意を新たにする、という感じの、まあ、いってみれば、PV的な作品。
 特筆すべきは、描き方が、石ノ森、というより、全盛期の石森マンガ・テイストを再現していて、そのスジの人なら、思わず顔がニヤけちゃうようなところがある。「神々との闘い」っぽいところもあるし。
 島本さんは、石ノ森原作の『スカルマン』でも、同様に石森テイストのコピー(というと失礼かもしれんが)を試みてましたね。009も登場してたし。
 ただ、これはこれで楽しめたんだけど、今さら、「天使編」のストレートな続きをやられてもなあ、と思わなくもないですごめんなさい。

shimamoto
島本版


 一方、早瀬マサト氏による完結編コミカライズの方は、いってみれば、(晩年の)石ノ森テイスト、ってことになるのかなあ。
 キャラに関して言うと、島本版は、原作に似せてはいても、あくまでも島本和彦の絵であり、これは島本版なんだって割り切れるんだけど、早瀬版は、とてもよく似ているけど微妙に違う。その微妙さが、、、微妙に、、、微妙。
 強いて例えるなら、初期の栗田貫一版ルパン三世には違和感を感じたけど(さすがに今は慣れたが)、山寺宏一版銭形警部は割り切って見れるので、むしろ違和感を感じない、みたいなものかなあ。
 それはともかくとしても、早瀬版、ページ数的な制約とかあるんだろうけど、どうも小説版のダイジェストっぽさがあって、なんだかなあ、という感じ。

 ちなみに、麻生我等による映画版コミカライズは、映画だけでは説明不足な部分なんかも補完しつつ、じっくりと描いていて、いい感じ。このペースだと、全5巻ぐらいにはなるのかね。(打ち切りにならない限りは)まだしばらくは『RE:CYBORG』に浸れるわけである。

 来年だったかな? アメコミ版009の企画もあるようだけど、どんなものになるのやら……。

   


 ここまで、「27年」設定に関していろいろとケチを付けてきたわけだが、一歩引いた視点で見ると、これにはこれで意義はあるのかなあ、と思わなくもない。
 つまり、止まっていたのは、009の記憶というよりも、『サイボーグ009』という作品そのもの、とも言えるわけで(厳密に言えば、2001年版のアニメや完結編1巻目とかもあるが)、009の「加速装置!」は、009の記憶が戻ったことを意味すると同時に、永い眠りについていた『サイボーグ009』という作品が再び動き出す宣言と受け止めることもできる。
 この映画内で009が「加速装置!」と言うのは一度だけ。
 おそらく、神山監督は、加速装置を使うときにいちいち「加速装置!」なんて言わねーよ、と考えているに違いないが、それでもこの最初の1回だけは、これはもう、お約束だから、ってことだったのではないかと。
 「いいか、てめーら、1回しか言わないからな。よっっっく、聞いとけよ」という意味を込めた「加速装置!」である。(たぶん)
 ちなみに、『サイボーグ009』の映画化は今回で4作目だが、「赤いマフラー」の最初の2作には加速装置の設定そのものが無く、次の『超銀河伝説』では、加速装置は設定上は存在するはずなのに使用されることがなく、結局、(いべんととうでのTVシリーズの上映を除けば)映画館に「加速装置!」の声が響き渡ったのは、今回が初めてである。
 そんなこんなで、なんだかんだ言っても、「加速装置!」のひとことに、オールドファンである私はメロメロなのであった。


 ところで、あっちこっちで他のひとの書かれた感想を読んでいたら、「加速装置を使っても、009は物理的に003には追いつけない」というツッコミがあって、野暮なことをwと思ったものの、野暮なことでは人後に落ちないという自負がある私としては、ここで負けるわけにはいかんのである。
 ということで、ちょっと考えてみる。

 003を助けるためにビルから飛び降りた009は、物理的な言い方をすれば自由落下運動をしている。わかりやすく言えば、ただ単にビルから落ちているだけである。
 自由落下している物体(009)が、それより先に自由落下している物体(003)に追いつくことは、物理的に不可能である。
 足に推進装置を内蔵している002なら別だが、そういった装備の無い009が加速装置を使ったところで、落ちているという状態が変わるわけではない。009の落下速度が、物理法則を超えて速くなるわけではない。
 「勇気だけ」では、物理法則を変えることはできないのだ。
 したがって、009の伸ばした手は003に届くことなく、哀れ、003は地面に激突……。とまあ、こうなる。
 ——空気の抵抗を考えなければ、だが。

 スカイダイビングの映像なんかを見ればわかるが(→あまり参考にならないスカイダイビング映像)、「—」の体勢の人より、「|」の体勢の人の方が落下速度は速い。「—」よりも上空にいる人が「|」になって「—」に追いつくことも可能だ。
 これは、落下方向に対して体を大きく広げると、それだけ空気抵抗が増して、空気抵抗がブレーキの役割を果たすからだ。(そうはいっても、それなりのスピードで落下を続けることに変わりはない)
 逆に、落下方向に対して、表面積が最小になるような姿勢(つまり「|」)を取れば、その分、空気抵抗は減り、落下速度は増す。(当然のことながら、009はそういう姿勢を取るはずである)
 空気の無い世界であれば、どういうポーズで落ちようが、落下速度は変わることなく、009が003に追いつくことは、(物理的に)不可能だが、この世界には空気がある。
 また、直前のミサイルの爆発による爆風は、003の身体を下から上へ押し上げる効果をもたらすと考えられる。
 以上のことを踏まえると、009が003に追いつくことは(加速装置を使わなくても)可能である。
 つまり、あの場面では、009は加速装置を使う必要はなかったのである。

 ……またつまらぬツッコミをしてしまった。フッ(自嘲)。


もっとつづく


 前にも書いたけど、ノベライズは(まだ)読んでません。
 「彼の声」とか、ノベライズを読めば模範解答的な説明はあるんだろうけど、このレビューに関しては、参考書(監督インタビュー)は見るけど、模範解答(ノベライズ)は見ないで、最後まで答えを出す、というスタンスで続けるつもりなので、ご了承のほどを。
 まあ、この映画自体、別解を求めることが主要なテーマではあるわけで、映画の解釈として多様な別解があってもいいんじゃねーかとも思う。
 なお、「彼の声」については、その9辺りでやる予定。(←いつまで続ける気なのかw)

 ということで、007と008が目撃した天使というか少女について。
 連想するのは、押井守監督の『アヴァロン』に登場する、“ゴースト”と呼ばれている少女。
 アヴァロンというのは、作中に登場するヴァーチャル・リアリティなゲームの名称で、ヘルメットみたいなのをかぶると、ゲームの世界に入り込んでゲームを体感というか、実体験できるという、まあ、その手のヤツである。
 このゲームにはクラス・SA(あるいはクラス・リアル)と呼ばれる隠しステージがある。クラス・SAは、試験的なプログラムであり、限られたプレイヤーしか入ることが許されないなどとも説明されているのだが、このクラス・SAに入るための鍵が、“ゴースト”と呼ばれる少女である。
 さて、アヴァロンのプレイヤーの間には、この“ゴースト”にまつわる奇妙な噂が流れている。曰く、“ゴースト”と出会いクラス・SAに入ったプレイヤーは“ロスト”する(=意識がゲームの中に入ったまま戻って来れなくなる状態。現実世界での本人は昏睡状態になっている)、と。
 かくして、主人公アッシュは、“ロスト”したかつてのチームメイトを追って、クラス・SAを目指すのだが、それはまた、別のお話。

 というわけで、押井守ファンでもある私からすると、7と8が目撃した少女もまた、見た者をクラス・SAに誘う存在であり、7と8は“ロスト”、つまり、クラス・SA的な、ここではない別のステージに移行しちゃったんだろうという感じで、なんとなく感覚的に納得できてたりする。
 別な言い方をすると、二人の自我が「彼の声」に呑み込まれた、ということになるんだろうが、少女は、その前兆のようなもの。仏壇の位牌が突然倒れるとか、大量のクジラが海岸に打ち上げられるとか、唐突に呂律が回らなくなるとか、まあ、そういうたぐい。
 合理的な説明には全然なっていないが、それで私自身が納得できているのでしょうがない。

 一方、同様に少女(天使)を見たはずの002は、なぜ“ロスト”しなかったのか。
 002は、これまで、いわゆる「彼の声」事件の調査に関わり、「彼の声」に支配されている人物を直接見ているし、「彼の声」の起こした惨事も目の当たりにしている。こういった経験が、「彼の声」に対する客観的な視点を002に提供し、結果として、一時的には「彼の声」に呑み込まれながらも、002が“我に返る”ことができた要因となったと思われる。(002の取った行動については後日考察します)

 
 ちなみに、007と008のその後の運命や、その他の謎についての、神山監督の明快かつ合理的かつミもフタもない答えは こちら
 そりゃあまあ、監督自ら、少女の正体は「ひとりひとりの宗教的体験の象徴」で007は「ビヨヨヨヨ〜ン」です、と言われれば、ハイそうですかとしか言いようがないし、もはや、それ以上でもそれ以下でもないという気にさせられるんだが、もうちっと解釈の余地を残しておいてもいいんじゃないかと。

 これが押井守の『アヴァロン』だと、理屈の上では、少女(ゴースト)は、一定の条件がクリアされると発生するようにプログラムされたゲーム内イベントでしかないのだが、ただ、押井映画の場合、そこに、“それ以上の何か”を感じさせる部分がある。そういう、“それ以上の何か”感が、押井映画の魅力とも言える。
 単なるハッタリで、“それ以上の何か”なんて最初からないのかもしれないけど。

 神山版少女(天使)の“それ以上の何か”感は、監督自身が(インタビューでの発言で)ぶち壊してしまったと言えなくもない。
 サービス精神なのか生真面目なのか知らないけど、ちょっとペラペラ喋り過ぎなんじゃなかろーか。
 『2001年宇宙の旅』のスタンリー・キューブリックは、「この映画どういう意味なの?」と聞かれて、ニヤッと笑って「答えは全て映画の中にある」なんてことを言ったらしい(うろ覚えだけど)。
 そこまでしろとは思わないけど、ん〜、どうなんだろうね。


 もうちょっとだけ、神山監督と押井監督の違いについて考えてみる。
 例えば、押井映画には、空っぽの鳥かごというのが何度か登場している。
 おそらく、押井さんの中では、空っぽの鳥かごが映画の中で象徴しているものとか、意味性とか、そういうのはきちんと理論化されているんだろうし、鳥かごや不在の鳥が意味するものを聞けば、マシンガンのように映画理論を繰り出してくるに違いない。
 でも、映画の中の現実において、その鳥かごにいた鳥はどこに行ったのかと聞いたら、押井さんは「そんなことはどーでもいいんだよ」とか言い出すんじゃないかと思う。いや、実際のところどうなのかはわからないが、そんな気がする。
 で、「そんなことはどーでもいいんだよ」と言われて納得できるかどうかが、押井映画の好き嫌いの分かれ道になるんじゃないかと。

 一方、神山監督。
 神山作品に空っぽの鳥かごが出てきたことはないと思うけど、仮にそういうのが出てて、同じように、鳥かごの鳥はどこに行ったのか、と聞かれたら、神山監督は「どーでもいい」とは答えないんじゃないかな。
 「その鳥は、飼い主が2年以上飼っていたインコで、2週間前に飼い主の不注意で窓から逃げ出して、その後、ネコに喰われた」とか、そんな感じで、きちんとした答えを用意しているような気がする。いや、実際のところどうなのかはわからないが。

 別にどっちが正しいとか、どっちが優れているとか、そういうことが言いたいわけではない。
 ただ、二人の間には、厳然として、作家性の違いってのがあるんだろう、と。




 あ。
 008のこと書いてねーや。
 
それでもつづく



ticket



 いや、恥ずかしながら、宅麺.comの009どんぶり付きラーメンというか、ラーメン付きどんぶりを買っちゃってたわけですが、なんか来たよ、姉さん(涙)。

 ていうか、ウチの近所、上映終わってますがな。
 ていうか、大半の劇場で上映終わってますがな。

 ん〜、セカンドランならがんばれば見に行けないこともない、かなあ……。

 ていうか、10月公開の映画のチケットをいまどき送ってきて、「ご当選おめでとうございます」っていうセンスはどうなの?

 いや、別に、オレ自身が何か損害を被ったっていうわけじゃないし、当たったんだから喜ぶべきことなんだろうけど、なんか、無駄に運を使わされたような気分。
 どうせなら、張々湖のTシャツ欲しかったな〜。

 なんか、ものすごぉく、モヤモヤする……。


 誰か1枚千円で買わへん?


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