日本の歴史 戦国の城
日本の歴史 戦国の城
久々の更新となりました。
今日は武田信玄の有名な城攻め深沢城のモグラ攻めについて書いてみます。
城攻めといえばいろいろな方法があり秀吉なんかがもっとも有名ですが、
武田信玄の城攻めは甲斐ならではというか非常に面白い方法をとった城攻めがありました。
今の御殿場付近に武田軍の侵攻に備え北条氏の防衛基地として北条綱成が守りを固めていた深沢城があった。
そこを信玄が満を持して攻撃にかかったのです。
綱成は勇将として知られさすがの信玄でも一筋縄にはいきません。
周辺の砦が落とされても綱成は抵抗を続けたのです。
信玄はそんな綱成がいる深沢城の中に降伏を促す矢文を射送りました。これが有名な深沢城矢文です。
しかし、それでも綱成は音をあげなかったのです。
そこで信玄は甲斐金山の金堀り人夫を呼び寄せ、なんと城外から城内へ穴を掘らせ、攻め立てたのです。
こうして武田軍の深沢城攻略は成功したのでした。
秀吉とは一味違った信玄の城攻め。武田軍の強さの秘密が垣間見れますね。
戦国大名
毛利元就は1557年、厳島の戦いで主君、大内義隆を殺した陶晴賢を討った。
このことにより旧大内両国のほぼすべてを手中に収めた。
さらに尼子義久を降伏させ備中、因幡、長門にいたる中国地方10カ国を領する大戦国大名となった。
元就のすごいところは戦いで領国を拡大する一方で子作りにもはげみ11人もの子供を作った。
無論戦国時代のことだけに11人の子供というのはそれほど珍しくもない。
だが、驚くのは最後の子供が生まれたのが、元就がなんと71歳のときだといわれている。
すごい精力です。この子達がやがて毛利家のすごい勢力となっていくのです。(笑)
ちなみに最後の9男秀包が生まれたときには長男毛利隆元すでに死んでいた。
歴史年表をみると尼子氏との戦いで隆元が急死したのは1563年。
秀包が生まれたのが1567年。
その元気な中国の覇者、毛利元就は1571年、75歳でこの世を去った。
戦国大名
斉藤道三は油売りから身を起こし謀略の限りをつくして主君の土岐頼芸を追放し美濃一国を手に入れた戦国大名です。下克上の見本のような大名で「蝮」の異名で知られています。
山崎屋庄五郎と名乗って油商人の娘を娶り油売りをしていた頃、。永楽銭の穴をひしゃくのみで客のツボに油をたらして売っていたというエピソードが残っている。「もし、この穴のふちに少しでも油がかかったならば、代金はいりません」などなかなかの商売根性と絶妙な話術で人気を博したといいます。
そんな道三もやがて土岐頼芸に仕え武士として大成していきます。
近年の研究で大変残念なことにといいますか、一代で美濃一国を乗っ取った道三の下克上伝説はほとんどが道三の父の経歴ではないかと言われています。
いつ道三にバトンが渡されたのかはっきりしませんが、「国盗り」の基礎は父だったようです。
土岐頼芸を追放する前、道三は頼芸の側室の深芳野を娶った。しかし、すでに深芳野のおなかの中にはすでに頼芸との子供がいた。義龍ですが、これが後の遺恨の原因になることから考えて道三にバトンが渡ったのは本当に国盗り物語末期ということになるのでしょう。簡単にいうと土岐頼芸を追放し土岐頼芸の息子に殺される。(信長に娘帰蝶を嫁がせた功績は大きいが)
道三の描いた日本の歴史、戦国地図は以外にもろく崩れてしまったよう。
これからは長井新左衛門尉(道三の父といわれている)をあがめなければいけないかもしれない。



