森博嗣「すべてがFになる」山田正紀「弥勒戦争」

2016年10月23日

村上春樹「国境の南、太陽の西」



 何年前に読んだかは明確に記憶はしていないが、ともかく初めに読んだ時の印象があまり残っていない。
 時折、春樹の話を見ると名前が挙がってるのを見るので、あれ? どんな話だっけ?と思って、読み返してみた。

 ハジメが11歳の頃、ただただ同級生だったというだけで共鳴し合った1人の女の子がいた。
 ハジメは1951年生まれ、高度成長期の真っただ中、子供が多い家庭の多かった中、一人っ子というのは珍しかったのだろう。自分が知る限り(生まれたのはハジメより20年ほど後だが)、確かに我々の頃も一人っ子というのはそれほど多くなかった。
「子供の頃、僕はこの『一人っ子』という言葉がいやでたまらなかった」「兄弟がいないと聞いただけで、 人々は反射的にこう思うのだ。こいつは一人っ子だから両親にあまやかされていて、ひ弱で、おそろしくわがままな子供に違いない、と」実際、被害妄想なんだか、事実だかわからないが、そういう認識が世に蔓延しているのは確かである。
 そんな時、ハジメのクラスに足の悪い少女が転入してくる。隣の席に座った島本さんとは、クラスで唯一無二の一人っ子同士で、家が近かったということもあり、距離を縮めた。そして、やがて、お互いの家を行き来するようになり、好意を抱くようになったのだ。だが、彼らはまだその気持ちの扱い方を知らずにいたのだ。
 子供の頃に築く関係は、とても親和性が強い。確固とした思想がなく、趣味もこれと言えるものもない。むしろ、そういうものの形成過程だ からこそ、周りのものに馴染み、思想や趣味というその人の形ができていく。ハジメと島本さんもそういう関係だったのだろう。それは決して離してはならないものだったのだ、きっと。
 だが、中学校に進むと2人は学校が別々になる。事情でハジメが違う町に住むようになると、2、3の手紙のやり取りはあったものの、没交渉となり、結局、それきりになってしまった。
 それでも島本さんはハジメの中の唯一無二であり続けたのだ。
 高校に進み、ガールフレンドができ、高校の終わり頃にその娘とのヒドイ別れがあり。
 それから孤独で簡素な長い時間が流れた後、彼は30になったある時、妻になる人物と出会う。2人は幸せな結婚をして、娘を2人もうける。サラリーマンを辞め、妻の父に物 件を融通してもらい開いた店も順調な経営を重ねる。そのまま、家族として揺るぎのない人生を続けていくはずであった。
 だが、そんな何の不満もない順調な生活の中で、いつもふとした瞬間に思い出される島本さんのこと。その島本さんが、しばらくしてハジメの前に姿を現すのだ。

 妻のことは愛している。だが、島本さんはそれとはまったく異なるもの。
 マルコによる福音書の第10章8節にある「『神は人を男と女とに造られた。それゆえに、人はその父母を離れ、ふたりの者は一体となるべきである』彼らはもはや、ふたりではなく一体である。だから、神が合わせられたものを、人は離してはならない」。
 そこには、そんな神の結び合わせとも言える運命的な強いつながりがある。(こ の一節自体はよく結婚式で使われる言い回しではあるが)2人はきっと離れてはならない何かだったのだ。
 しかし、人間の世とは数奇で、皮肉で、残酷だ。神の言葉よりも強い強制力によって2人は引き離されてしまった。

 島本さんは過去だ。そこにあるのに、ただの幻となんのかわりもない過去。ハジメは島本さんのことを、何万光年も先で光る星の光に例える。いい得て妙な例えだ。
 このもの寂しさには、共感できるものはある。だが、立ち返ってみると島本さんの存在ってすごくファンタジーで、生活感がない。(春樹作品そのものに生活感がないという言はひとまずおいとくとして)
 果たして島本さんと人生をともにするとなった時、この人と家電の買い換えの話をするのか、子供の育て 方で喧嘩するのかって話である。
 何万光年も先で光る星だからこそ美しく見えるのであって、燃え盛るその星の上では生活できないのだ。
 なーんてことを考えたら、ちょっとこうしたファンタジー的なこの関係への憧憬感は急速に薄れてしまった。

 結局、安逸の中へとハジメは戻ってくるのだけど、ファンタジーを失ったハジメの空虚な気持ちは残ったままで。
 現実問題、人はどうしようもない気持ちをいつも抱えて生きているものなのだけど、どうにもモヤモヤする結末。
 きっと前読んだ時も同じように感じたから、すっかり印象に残らなかったんじゃないだろうか。
 でも20代の終わりだか、30代の頭だかに読んだ時よりも、安逸の生活の中にある今だからこそ、心に落ちるものも あった、そんな作品だった。

 それにしてもやはり、春樹作品の登場人物ってどこか鼻持ちならないよなと思う。モテモテで、ある種の才知にたけている人物。しかし、どこかストイック。生活的にはとても恵まれているからこその、ファッション的なストイック。貧乏性の人間にはちょいと真似できないストイックさ。こじゃれてウィットにとんだ表現を会話に織り交ぜながら、しゃべる辺りになんかそういう生活が垣間見える。
「世界中がチャーリー・パーカーで満ちていなくてはならないというわけじゃないんだ」
「禿ワシは芸術を食べて生きる。禿タカは名もなき人々の死体を食べる。ぜんぜん違う」
「一の至高体験を求めて人間は何かに向かっていくんだ。そしてそれが世界を動かしていく んだ。それが芸術というものじゃないかと僕は思う」
 哲学なのか、宗教なのか、どうにもこうにも深いようなフリをして、実はその実、意味のない、ただの言葉遊びじゃないのかと思うような言葉群が連なり、物語は構成される。
 でも言葉に意味なんてなくてもいいんだよね、解釈する人はそこから何かを感じ取り、自分のものにするし、言葉遊びだとする人はそれを楽しむわけだから。
 読む人によって村上春樹の本って様相を変える、それは著者の思惑とは離れて。

babatune06 at 00:00│Comments(0)TrackBack(0) 小説その他 

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