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ここんところ全く煮込めてない。身近にある心の平穏は、サウナと、肉や野菜を煮込むことなので、僕に平穏は無い。平穏が無いということはつまり、慌ただしい毎日ということで、慌ただしい毎日にヤられてしまわないよう、知らないうちに少しずつ僕は自己防衛を始めていた。

それは、脳を沢山動かさないよう、ある程度止めること。なるべく慣れや習慣、手続き記憶だけで過ごす。で、人間関係に徐々に歪みが生まれる。臨機応変に相手の気持ちをおもんぱかり、しっかり向き合う事から僕は遠ざかってしまっている。相手に向き合う事が出来ないと、自分の事が分からなくなる。僕たちは他者、自らを取り巻く環境を知る事で、己を知る事が出来る。人は昔、一体どうして生まれたか知る為に空を見上げた。その先に神さまがいると考えた。科学が進歩して、まず宇宙があると知り、宇宙の起源を知ろうとした。そうして自分の事を知っていく。他者、環境こそ自分自身かもしれない。僕らはそれぞれ依存関係にあり、一体である。この辺で閑話休題、自分の事が分からないのは中々つらい。体力や根性の無い僕は結局慌ただしい毎日にヤられてしまいそうだったという訳だ。なんか、最近の出来事は、ほとんど覚えていない。

ところで、煮込めてないという事は家に居てないという事で、外に居るわけなんやけど、もちろんぼうっと突っ立って生命機能停止していた訳でも無い。この街ではその仕事を道路標識が担っている。僕の仕事は人に会う事だ。止まった脳をチョコレートで奮い立たせて、ウオーっと、会う。そんなに簡単には奮い立たなくて困ってしまうけど、そこは頑張る。ほんの少し、この慌ただしさにも落ち着きの気配がやってきて、春の気配もやってきたことやし、またぼちぼち肉や野菜を煮込んでいこうと思う。

煮込みとはとても人間的且つ牧歌的な行為であり、世界の縮図である。それぞればらばらで産まれた肉や野菜たちが、コトコトと、たっぷりの水に浸りお鍋の中で一つになっていく。しばらくすると互いの旨みがまどろみ始めるが、苦く辛い香辛料や薬味たちがそれらに輪郭を持たせる。これまでにも誰かが料理として名前をつけて完成形を提示しているが、そんなのは大した事じゃ無い。どんな食材でも煮込めば仲良し。たまにクセの強いやつがいても、みんながいれば大丈夫。なんとかなる。あんまり熱くならず、焦げつかないのも大事。美味しく出来たら、嬉しいよ。君も煮込みをやってみよう。

分かっていたつもりで分かってなかったのは我が愚鈍ゆえですが、東京は本当に合理的で効率化された街だ。何をするにも理由が必要やし、理由が明確なもの程受け容れられる、と一年と少し暮らしてみて思う。そんなものが多過ぎる。例えどんなものにも理由があったとしても、ハイパーコンピュータでも解析に一万年くらいかかるような理由、もう誰にもよくわからんような物事が生活から排他され過ぎてる。合理的で効率化されたのが「正しい」とされ始めている。いや、既にかなり「正しい」とされている。僕は思う。理由の無いものが面白い。そしてそれが大切。例えば、なぜか沸き起こる、この不自由な感情。命。誰も知らないこれからの未来。僕はそんなものが好き。知らない事とか分からない事を、考えて知っていくのもめんどくさくて楽しい。出来るやつより出来ないやつの方がなんか好き。安心な毛布に包まって眠る事が出来るこの毎日とこの街に感謝を持ちつつ、こう思っています。

さっきテレビで小沢健二さんが「ぼくらが旅に出る理由」って曲を歌ってた。その「理由」の詳細については歌われていない。なんやったらわざと「ナイショ」にしてる感じがする歌詞やなと思う。それを想像したりするのが楽しいな。それにさ、わざわざ想像しようとしてしてるんじゃなくて、気がつくと僕は想像してしまっている。会話の中での言葉や、身振り手振り、音楽、絵画、映画、芝居など、なんでも素晴らしい表現たちは、僕の脳裏に水に似た潤いを与え、風を流し、そしてイメージの色彩がぶわっと盛り上がる。その様子は、火が入り始めて旨みが広がる煮込みに似てる。僕たちは暖め合うんだ。寒い風が心を寂しくさせて、僕たちは身を寄せ合い暖をとる。笑い合ったり罵り合ったり、これから先何が起こるのか、僕らはどこから来たのか、誰も口にしないけど確かに不安や疑問はあって、気づかないふりをして今はとにかく暖め合う。君は一人でいる必要は無い。この世界のどこかに必ず暖かな胸がある。そこに本当の君がいる。僕だってそうだ。あんなに寂しかったのに、今は仲間がいる。それもまたいつか旅立ちの時が来て、しばし別れるだろうけど、また会いたいね。

写真は愛犬ナナと僕。2017年2月12日。