フランク・ダラボン監督「ショーシャンクの空に」でいくつか見直したいシーンがあり、この程Google Playで購入し、手持ちのアイホンで鑑賞した。刑務所の中での物語である。
調達屋のレッドは言った、
「あの塀を見ろよ
最初は憎みーー
しだいに慣れ
長い月日の間に
頼るようになる」
図書係のブルックスは、50年という月日の中で施設に限りなく順応し、今さら仮釈放を命ぜられたところで、外に出ることをひどく恐れるようになってしまっていた。
コロナ禍において、コロナになりたくない、コロナを広めたくない、行きたいお店がやっていない等、様々な理由を以って人は家の中に篭っている。「行動変容」という言葉をよく聞くようになった。いま人々は「行動変容」を起こしていると共に、大概の場合に於いて心情にも動きがあるように見える。SNSでも、それについてのさまざまな考察が散見される。
外に出ても、世界中が新型コロナについての危機感という共通認識を持っているということは、自分を始め多くの顔に貼り付いたマスクを見れば確認出来る。それが、どこか世界のサイズを測る目安に見える。世界はより具体的な大きさを持って僕の目の前に現れた。なんだか以前より狭く小さく感じてしまう。ただ、人と人の距離は以前にも増して測れなくなった。あなたとは、遠いのか、近いのか。
これから自分はどうなっていくのか、それは誰にも分からないという事実を、改めて突きつけられることになった。これまで、「いつか必ず死ぬ」という至極当然な理すら忘れたふりして、目下の課題に必死で挑み、日々に追われ続けてきた人も、大勢いるだろう。大いなる宇宙の疑問や、この世の闇から自らを護る「壁」を心の中に創り、その中に安住の城を築き続けてきた者たちが、この「壁」の外側について今一度考えるとなると、大変な不安と対峙することになる。だから、城の中から出るのが怖い。「壁」の内側も、もう安全じゃなくなりそうなのに、いつのまにか、どこにも行けなくなってしまっている。家に篭り、そして、心の隅の方に篭ってしまっている。少なくとも、僕はそうだ。
これもレッドの心の声だが、
「俺は これが
何の歌か知らない
知らない方が
いいことだってある
よほど美しい
内容の歌なんだろう
心が震えるぐらいの
この豊かな歌声がー
我々の頭上に
優しく響き渡った
美しい鳥が訪れて
塀をー
消すかのようだった
短い間だが 皆が
自由な気分を味わった」
僕の友達は、大人になるまでずっと、親の教育の関係で家に篭る人生を送ってきたらしい。そんな彼にとって、外界との「壁」を消し去って、繋いでくれるものは、今も昔も音楽だという。何かが、自分と「大きなもの」を繋げてくれることがある。清志郎と矢野顕子が歌ってた「ひとつだけ」。シカゴ美術館で観たゴッホの自画像。祖父の出生地である福井のあの山林。ペットのリリーが死んだとき。誰もいない真夜中、堺東の商店街で涎を垂らしながらアコースティックギターを掻きむしっていた。あのとき僕は「大きなもの」と繋がったような気がする。
この度、多くの人びとにはゆっくりとした時間と不安が与えられ、それらを思考に費やす。人が「考える」という行為をするのは、子供の頃に戻るためかもしれないと、僕は思う。子供はいつも本質的で美しい。大人になるにつれ、たくさん考えるようになっていくのは、まだ何も知らなかったあの頃に還るためなのかもしれない。この時間は、「壁」を飛び越え、そして幼少期に誰もが感じたあの無限を再び手に入れるために、思考するべき時間だ。「大きなもの」は存在している。
自分はどうしたいのか、どうするのか。自分で考え、決める人が好きだ。こんな事態であっても、結局はそうだ。レコーディングするに当たり、毎度一対一のシチュエーションではあるが、数人の友達と会うことになった。今大切な友達と会うというのがどういうことなのか、たくさん考えた。そしてこれが今のところの答えだ。
そして、この歌は、嘆きの歌です。会いたいあなたに、会えない。とても不安で、悲しい、行き場のない気持ちを、そのまま歌にしました。もしそれが、誰かの救いになるなら、幸いです。ゆっくり、考え、想像する。少しも不自由じゃない、心の中はどこまでも自由だ。共に楽曲制作に取り組んでくれた友人たちのことを、誇りに思います。
最後に、医療従事者の皆さまをはじめ、今も社会保全のため働いてくださっている皆さまには、心から感謝を申し上げます。
(劇中台詞は日本語字幕より引用しました)