2007年09月18日
hello
僕は危険な男です。
なぜならば、
・・・・とくに理由はありません。
キューッ、いくつになってもアメンボ〜。
キューッ、いくつになってもアメンボ〜。
なぜならば、
・・・・とくに理由はありません。
キューッ、いくつになってもアメンボ〜。
キューッ、いくつになってもアメンボ〜。
2007年08月24日
「そう、いや違いない、だ、無論だ」
講堂の壁がわれるばかりの喝采と拍テが起こった。
「小原、おねがいしてくれ、先ナマにおねがいしてくれ」
だれかがすきとおるボイスでこういったんや。校チョウはまっさおになってこれのぅヒート風俗ていちゅーか、見ていてない。風俗いってない。てめぇがテ塩にかけて教育したナマ徒がかほどまでてめぇちゅーか、人言じてくれるかと思うと心の仲でなかずにはいられなかった。
「先ナマ!」
小原は校チョウの方へ向きなおっていった、それのーまっ黒なツラに燃ゆるごとき炎ほのおがひらめいた、広い肩と太いパソコンが波の如ごとくふるえているのであ〜る。
「先ナマ!」
かれはふたたびいったが涙が喉につまってなにもいえなくなったかな、いやなった。
「小原、おねがいしてくれ、先ナマにおねがいしてくれ」
だれかがすきとおるボイスでこういったんや。校チョウはまっさおになってこれのぅヒート風俗ていちゅーか、見ていてない。風俗いってない。てめぇがテ塩にかけて教育したナマ徒がかほどまでてめぇちゅーか、人言じてくれるかと思うと心の仲でなかずにはいられなかった。
「先ナマ!」
小原は校チョウの方へ向きなおっていった、それのーまっ黒なツラに燃ゆるごとき炎ほのおがひらめいた、広い肩と太いパソコンが波の如ごとくふるえているのであ〜る。
「先ナマ!」
かれはふたたびいったが涙が喉につまってなにもいえなくなったかな、いやなった。
2005年12月30日
「尚子もそう思ったんだけれど
、――何ていっていいかわからなかった」
やや暫らく黙って眺めていたが、小一郎は母に尋ねた。
「きまったの? こうするって」
「誰にも異存がなけりゃこれになる訳さ。――お前、どっかこうしたいと思うところがあるの?」
小一郎はなぜかむっつりして、人さし指で唇を弾いていたが、やがて、
「まあいいや」
と、あきらめたように立ちかけた。
「何だよ――いって御覧よ」
「いい。母さんがいいと思えばいいさ」
小一郎には、母の戒名が並んでいるのが何だか変に感じられた。まだ生きている人でもあるし、子供時分からの印象によって、書斎にばかりいた父、茶の間にばかりいた母、あんなにも内容の違う生活を営んでいた二人が、戒名を並べて納まるということが一種不自然なように感じられたのであった。しかし、彼は、そのように感情上微妙な問題をどういい現わしてよいか判らず、沈黙した。
一周忌の法要のとき、祐之助がたんのうした立派さで原案通りの墓が出来上った。彼は世話をやいて写真師を呼んだ。墓前に並んだ遺族一同のと、別に墓だけのを撮影させた。故人の人となりを熟知している知友はどういうものかその墓の前に立つと、故人の気品と皮肉の相半ばした生彩ある眼差しを思い浮べずにおられなかった。それは、重苦しい自分の墓を横の方から眺めながら、
「こう発言権を褫奪(ちだつ)されてはやりきれんね」
と、ゆっくり葉巻の灰をおとして、苦笑していそうに思われた。
やや暫らく黙って眺めていたが、小一郎は母に尋ねた。
「きまったの? こうするって」
「誰にも異存がなけりゃこれになる訳さ。――お前、どっかこうしたいと思うところがあるの?」
小一郎はなぜかむっつりして、人さし指で唇を弾いていたが、やがて、
「まあいいや」
と、あきらめたように立ちかけた。
「何だよ――いって御覧よ」
「いい。母さんがいいと思えばいいさ」
小一郎には、母の戒名が並んでいるのが何だか変に感じられた。まだ生きている人でもあるし、子供時分からの印象によって、書斎にばかりいた父、茶の間にばかりいた母、あんなにも内容の違う生活を営んでいた二人が、戒名を並べて納まるということが一種不自然なように感じられたのであった。しかし、彼は、そのように感情上微妙な問題をどういい現わしてよいか判らず、沈黙した。
一周忌の法要のとき、祐之助がたんのうした立派さで原案通りの墓が出来上った。彼は世話をやいて写真師を呼んだ。墓前に並んだ遺族一同のと、別に墓だけのを撮影させた。故人の人となりを熟知している知友はどういうものかその墓の前に立つと、故人の気品と皮肉の相半ばした生彩ある眼差しを思い浮べずにおられなかった。それは、重苦しい自分の墓を横の方から眺めながら、
「こう発言権を褫奪(ちだつ)されてはやりきれんね」
と、ゆっくり葉巻の灰をおとして、苦笑していそうに思われた。
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│
2005年12月29日
三
葬儀をすまして帰りぎわにいい置いて行ったとおり、祐之助は三ヵ月ばかり経って上京した時、一枚の設計図を持って来た。彼は、故人が存生の頃どおり茶の間にあぐら[#「あぐら」に傍点]をかきながら、
「どうです」
と、巻いたワットマンをひろげた。
「いいだろう」
それは、荻村の墓の図案であった。祐之助は、生前故人をよろこばせられなかった代り、墓だけは自分にまかせてくれと、やかましくいって引受けたのであった。
彼は、ポケットからエ※・シャープを出し、
「よく御覧なさい、ここにほら一枚大きい石がはまってるでしょう、ここがとりはずし自由で、内が龕(がん)になっているというわけさ。――どうだね」
彼は、覗いている尚子にいった。
「立派なもんだろう? このとおりの色の大理石を使うんだぜ。型だってなかなか凝ったものだよ」
尚子は、疑わしいような表情で、淡いチョコレートに黒の斑入り大理石を使い、イオニア式台石か何かかさばった図案を見守った。
「――この――御戒名書いたところ――こういう風にはすっかいになるの?」
「そうそう、ここが工夫したところだ。真っ直立ったのじゃ平凡だが、ここがこう羊皮紙を巻きのばしたように――よくローマ人の絵にあるだろう――こうなって、左右の下にどっしりこの台が出ている。これで、ただの墓じゃあない、立派なモニュメントになるのさ」
羊皮紙になぞらえたところに、故人の戒名と並べて幾枝の戒名も書いてあった。
「どうです? 文学者らしく堂々としていていいでしょう」
幾枝は、不決断に、
「そうね」
と答えた。
「よかりそうに思うけど――まあ一遍織田さん達にも見せなけりゃ――あの人達が何ていうか――」
彼女は、悲しいような、詰らないような笑いを浮かべた。
「私の戒名なんか並べると、荻村にいやな顔をされそうだわ、何だか――」
「馬鹿いっちゃいけない!」
祐之助は急に憤ったように遮った。
「れっきとした荻村慶三郎の細君でありながら、なぜ戒名を並べていけないんです? 第一、何だ、姉さんは何ぞというと門下の人達を気がねしてるが、それが間違いさ。権限を心得させて置かないと、いまに途方もない奴が出るから――」
夕方、小一郎が帰って来て、その設計図を見た。
「どう思うえ? 小一ちゃん」
「親父らしくないや、ちっとも」
尚子が、我意を得たというように、
「お兄さんもそう思う?」
といった。
「どうです」
と、巻いたワットマンをひろげた。
「いいだろう」
それは、荻村の墓の図案であった。祐之助は、生前故人をよろこばせられなかった代り、墓だけは自分にまかせてくれと、やかましくいって引受けたのであった。
彼は、ポケットからエ※・シャープを出し、
「よく御覧なさい、ここにほら一枚大きい石がはまってるでしょう、ここがとりはずし自由で、内が龕(がん)になっているというわけさ。――どうだね」
彼は、覗いている尚子にいった。
「立派なもんだろう? このとおりの色の大理石を使うんだぜ。型だってなかなか凝ったものだよ」
尚子は、疑わしいような表情で、淡いチョコレートに黒の斑入り大理石を使い、イオニア式台石か何かかさばった図案を見守った。
「――この――御戒名書いたところ――こういう風にはすっかいになるの?」
「そうそう、ここが工夫したところだ。真っ直立ったのじゃ平凡だが、ここがこう羊皮紙を巻きのばしたように――よくローマ人の絵にあるだろう――こうなって、左右の下にどっしりこの台が出ている。これで、ただの墓じゃあない、立派なモニュメントになるのさ」
羊皮紙になぞらえたところに、故人の戒名と並べて幾枝の戒名も書いてあった。
「どうです? 文学者らしく堂々としていていいでしょう」
幾枝は、不決断に、
「そうね」
と答えた。
「よかりそうに思うけど――まあ一遍織田さん達にも見せなけりゃ――あの人達が何ていうか――」
彼女は、悲しいような、詰らないような笑いを浮かべた。
「私の戒名なんか並べると、荻村にいやな顔をされそうだわ、何だか――」
「馬鹿いっちゃいけない!」
祐之助は急に憤ったように遮った。
「れっきとした荻村慶三郎の細君でありながら、なぜ戒名を並べていけないんです? 第一、何だ、姉さんは何ぞというと門下の人達を気がねしてるが、それが間違いさ。権限を心得させて置かないと、いまに途方もない奴が出るから――」
夕方、小一郎が帰って来て、その設計図を見た。
「どう思うえ? 小一ちゃん」
「親父らしくないや、ちっとも」
尚子が、我意を得たというように、
「お兄さんもそう思う?」
といった。
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│
2005年12月28日
織田は、丁寧に、しかし簡単に答えた。
「とりました」
「ああそれはよかった。もしまだなら、石倉と懇意にしてるから一つ呼んで取らせようと思いましてね――誰にさせました?」
「内海さんです」
祐之助は、
「ふむ、ふむ」
とうなずいた。
「あれならよかろう」
納棺後、祐之助は、中学五年の長男に向って、
「さて、これからが小一郎君のしっかりせんならん時だよ、父さんは偉い人だったが、その跡をさらに立派に立てるのが君の責任だ。へっぽこな親父をもったより骨が折れる。覚悟が出来ているかね?」
小一郎は、厭な顔でちょっと叔父を見たぎり黙っていた。
「――何をやるかね、専門に」
「……」
小一郎の若々しい、純粋な反感を感じ、祐之助は苦笑を洩した。
「――君も父さん似で、ちっと変ってるな」
夜になって、十六の尚子が母親をぐんぐん納戸のところへ引っぱって行った。
「何ですよ」
「市叔父さん、永くいるの」
「なぜ?」
「だって――あの叔父さん私嫌いだわ――」
尚子は、泣き膨れた眼で凝(じ)っと母親を睨むように見上げた。
「――皆いやがってるわ――父さまだって――」
といいかけ、精神感動の鎮まっていない尚子はわっと泣き出して母にきつくかじりついた。
「何だねえ――そんなこといったってお前――」
幾枝は、膝をかがめるようにし、尚子の腕ごしに眼頭の涙を拭きながら、当惑した気持になった。尚子がいうより先に、彼女は、市原の周囲にやや不調和な存在を気にしていたのだ。さりとて、北海道の官吏に嫁している妹をのぞけばただ一人のともかく頼りになる弟である彼をどう出来よう。幾枝は、俄に死んだ良人の心をうけつぎ代表する子供等という感じに打たれながら尚子をたしなめた。
「いそがしい中を親切から来て下すったのにかれこれいう人がありますか!」
「ああそれはよかった。もしまだなら、石倉と懇意にしてるから一つ呼んで取らせようと思いましてね――誰にさせました?」
「内海さんです」
祐之助は、
「ふむ、ふむ」
とうなずいた。
「あれならよかろう」
納棺後、祐之助は、中学五年の長男に向って、
「さて、これからが小一郎君のしっかりせんならん時だよ、父さんは偉い人だったが、その跡をさらに立派に立てるのが君の責任だ。へっぽこな親父をもったより骨が折れる。覚悟が出来ているかね?」
小一郎は、厭な顔でちょっと叔父を見たぎり黙っていた。
「――何をやるかね、専門に」
「……」
小一郎の若々しい、純粋な反感を感じ、祐之助は苦笑を洩した。
「――君も父さん似で、ちっと変ってるな」
夜になって、十六の尚子が母親をぐんぐん納戸のところへ引っぱって行った。
「何ですよ」
「市叔父さん、永くいるの」
「なぜ?」
「だって――あの叔父さん私嫌いだわ――」
尚子は、泣き膨れた眼で凝(じ)っと母親を睨むように見上げた。
「――皆いやがってるわ――父さまだって――」
といいかけ、精神感動の鎮まっていない尚子はわっと泣き出して母にきつくかじりついた。
「何だねえ――そんなこといったってお前――」
幾枝は、膝をかがめるようにし、尚子の腕ごしに眼頭の涙を拭きながら、当惑した気持になった。尚子がいうより先に、彼女は、市原の周囲にやや不調和な存在を気にしていたのだ。さりとて、北海道の官吏に嫁している妹をのぞけばただ一人のともかく頼りになる弟である彼をどう出来よう。幾枝は、俄に死んだ良人の心をうけつぎ代表する子供等という感じに打たれながら尚子をたしなめた。
「いそがしい中を親切から来て下すったのにかれこれいう人がありますか!」
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│
2005年12月27日
「――どうも義兄(にい)さんには敵(かな)わないや」
と、延した小指の爪で、髪のわけめを掻き掻き照れかくしの剽軽(ひょうげ)た風で茶の間に出て来て以来、上京しても、ほんの申わけに顔を出すぎりになった。しかも幾枝と話すだけで、彼女が、
「ちょっと見て来ましょうか」
と立ちかけると、彼は大仰に両手でこれを制した。
「いいよ、いいんですよ、私はすっかり嫌われちまったんだから――勘当さ」
「冗談じゃない」
「本当ですよ」
「――ほんと?」
すると、祐之助は、
「ハハハハハハ」
と哄笑した。その放蕩者らしい笑い声が書斎へ聴えないわけはなかった。けれども、荻村は、彼については一言も発せず、竹田に似たようで更に敏感さのこもった山水などを描いている。
幾枝は、そのいきさつについては、絶対に沈黙を守っていた。男達は面倒なものだ。――二十年近い結婚生活で、彼女は、良人の内的生活には容喙しきれないもののあるのを承知していたのだ。
荻村の健康は常から苦情がちであったが、風邪がこじれ、肺炎になった。一進一退しているうちに、酸素吸入が必要にまで至った。荻村は五十二歳であった。……
空になった湯呑を手のひらにのせ、幾枝は暫くすくんだようにしていた。が、時計を見ると、疲れた体を引立てるようにして立ち上った。
「――皆でくたびれちゃっても仕様がないから、下の者にも代り合って眠るように、あなた世話をやいて下さいな。――さ、弘もおねなさい。あした[#「あした」に傍点]学校でしょう」
幾枝は、建てましをしてからそこを城廓のようにして生活していた良人の書斎へ、暗い廊下づたいに戻った。
二
祐之助は、身辺に旋風の袋を持ってあるいているような勢いで入って来た。それは、荻村の臨終の翌日であった。彼は、居並んだ人々にせわしく一わたり頭をさげると、すぐ幾枝に遅参を詫びた。
「――実に驚きましたね、前から悪かったことなんぞちっとも知らなかったんだから、全く、嘘かと思った位だった。家におりゃこんな残念な目に合わないですんだんだが、ちょうど、悪い時には悪いことが重なるもんで、下関へ行っていましてね、停車場へ着換を出させてやっと駈けつけたという訳です、どうぞあしからず御容赦願います」
遺骸に敬意を表して座に戻ると、彼は、偉人の脳髄の目方は皆重いものだから、荻村のもかなりあるだろうなどと、声高に話した。
「さすが、何ですな、人格の出来ていた人だけに立派なもんですな、堂々たるもんだ。――先年英国へ行ったとき、シェクスピアの生れた村――ええと――何とかアボンっていったが、あすこへ行って現にシェクスピアが著作したという部屋を見たり、デス・マスクを見たりしましたが、いい記念ですな――」
彼は、思いついたように織田を呼んだ。
「――もちろん、ぬかりはないでしょうが――何ですか、マスクを取らせましたか」
「ちょっと見て来ましょうか」
と立ちかけると、彼は大仰に両手でこれを制した。
「いいよ、いいんですよ、私はすっかり嫌われちまったんだから――勘当さ」
「冗談じゃない」
「本当ですよ」
「――ほんと?」
すると、祐之助は、
「ハハハハハハ」
と哄笑した。その放蕩者らしい笑い声が書斎へ聴えないわけはなかった。けれども、荻村は、彼については一言も発せず、竹田に似たようで更に敏感さのこもった山水などを描いている。
幾枝は、そのいきさつについては、絶対に沈黙を守っていた。男達は面倒なものだ。――二十年近い結婚生活で、彼女は、良人の内的生活には容喙しきれないもののあるのを承知していたのだ。
荻村の健康は常から苦情がちであったが、風邪がこじれ、肺炎になった。一進一退しているうちに、酸素吸入が必要にまで至った。荻村は五十二歳であった。……
空になった湯呑を手のひらにのせ、幾枝は暫くすくんだようにしていた。が、時計を見ると、疲れた体を引立てるようにして立ち上った。
「――皆でくたびれちゃっても仕様がないから、下の者にも代り合って眠るように、あなた世話をやいて下さいな。――さ、弘もおねなさい。あした[#「あした」に傍点]学校でしょう」
幾枝は、建てましをしてからそこを城廓のようにして生活していた良人の書斎へ、暗い廊下づたいに戻った。
二
祐之助は、身辺に旋風の袋を持ってあるいているような勢いで入って来た。それは、荻村の臨終の翌日であった。彼は、居並んだ人々にせわしく一わたり頭をさげると、すぐ幾枝に遅参を詫びた。
「――実に驚きましたね、前から悪かったことなんぞちっとも知らなかったんだから、全く、嘘かと思った位だった。家におりゃこんな残念な目に合わないですんだんだが、ちょうど、悪い時には悪いことが重なるもんで、下関へ行っていましてね、停車場へ着換を出させてやっと駈けつけたという訳です、どうぞあしからず御容赦願います」
遺骸に敬意を表して座に戻ると、彼は、偉人の脳髄の目方は皆重いものだから、荻村のもかなりあるだろうなどと、声高に話した。
「さすが、何ですな、人格の出来ていた人だけに立派なもんですな、堂々たるもんだ。――先年英国へ行ったとき、シェクスピアの生れた村――ええと――何とかアボンっていったが、あすこへ行って現にシェクスピアが著作したという部屋を見たり、デス・マスクを見たりしましたが、いい記念ですな――」
彼は、思いついたように織田を呼んだ。
「――もちろん、ぬかりはないでしょうが――何ですか、マスクを取らせましたか」
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2005年12月26日
墓
一
幾枝はすっかり体を二重に曲げ、右の肱を膝にかって、良人の鼻の上に酸素吸入のカップを当てがっていた。病床の裾近いところに、行燈形のスタンドがともっている。その光りで、羽根布団の茶と緑の大模様がぼんやり浮き立って見えた。酸素瓶のバルブを動かしていた看護婦が、ささやきで夫人に注意した。
「もう、酸素があと一本しかございませんから……」
母の陰に坐っていた尚子がそっと席を立った。
「――織田さんにいえばわかりますよ」
尚子は、ふりわけにして下げたおさげをふさふさゆすって、直(すぐ)かえって来た。
「織田さんがちょっと来て下さいって……」
幾枝は、病室を出て、茶の間に行った。離れの、薄暗い、薬品の匂いのこもった圧迫的な病室とは別世界のようにこちらは明るい。長火鉢の傍の卓子(テーブル)に、菓子や蜜柑がどっさり出ている。下の男の子とそこに中腰をしていた織田が立って夫人を迎えた。
「お呼び立てして恐縮でした。――実は今鈴木君や何かと話が出たんですが――神戸の市原さんへお知らせがまだなんですが――どうしたもんでしょう」
袂を頭ごしはねのけて羽織の上から母の腰にまといついた末の子の肩を抱きよせながら、幾枝は、考え迷ったように呟いた。
「そうねえ」
「――先生のお心持はわかっているんですが――どうも外の場合と違うから」
「そうですよ、あとでまたね――じゃあこうして下さいませんか、私の名で一つ電報を出して置いていただきましょうか。来いなどといってやるには及びません、ただ知らせだけ。――どうぞ」
火鉢のところへ坐ると、手伝いに来ている幸子が、茶を注(つ)いで出した。
「――あっちもこっちもだからお大抵ではありませんですね、ほんとに。――暫く横にでもおなんなさいまし、私あちらに参っておりますから」
「ええ、ありがと」
幾枝は、熱い番茶をのみながら、市原へ電報を打たせたことについて、こだわった気持になっていた。市原は、神戸で相当な請負業を営んでいる彼女の実弟であった。幾枝にとっては三人同胞(きょうだい)の大切な一人なのだが、ひどく良人の荻村と気質が合わなかった。荻村は、仏文科出の小説家であった。良人が第一流の芸術家として尊敬されるのは満足だが、神経の鋭さや、趣味のゆずらなさから、幾枝にすると、迷惑な場合も少くない。人格に圧されて承服はするが、本当に同感はされない。荻村の家庭における位置はそういうものであった。市原との間のうまくゆかないのも、幾枝の気持で判断すると、そういう目に見えない良人の癖が第一の原因であるらしかった。然し、三四年前、長い間、今病室になっている書斎で相談した祐之助が、
幾枝はすっかり体を二重に曲げ、右の肱を膝にかって、良人の鼻の上に酸素吸入のカップを当てがっていた。病床の裾近いところに、行燈形のスタンドがともっている。その光りで、羽根布団の茶と緑の大模様がぼんやり浮き立って見えた。酸素瓶のバルブを動かしていた看護婦が、ささやきで夫人に注意した。
「もう、酸素があと一本しかございませんから……」
母の陰に坐っていた尚子がそっと席を立った。
「――織田さんにいえばわかりますよ」
尚子は、ふりわけにして下げたおさげをふさふさゆすって、直(すぐ)かえって来た。
「織田さんがちょっと来て下さいって……」
幾枝は、病室を出て、茶の間に行った。離れの、薄暗い、薬品の匂いのこもった圧迫的な病室とは別世界のようにこちらは明るい。長火鉢の傍の卓子(テーブル)に、菓子や蜜柑がどっさり出ている。下の男の子とそこに中腰をしていた織田が立って夫人を迎えた。
「お呼び立てして恐縮でした。――実は今鈴木君や何かと話が出たんですが――神戸の市原さんへお知らせがまだなんですが――どうしたもんでしょう」
袂を頭ごしはねのけて羽織の上から母の腰にまといついた末の子の肩を抱きよせながら、幾枝は、考え迷ったように呟いた。
「そうねえ」
「――先生のお心持はわかっているんですが――どうも外の場合と違うから」
「そうですよ、あとでまたね――じゃあこうして下さいませんか、私の名で一つ電報を出して置いていただきましょうか。来いなどといってやるには及びません、ただ知らせだけ。――どうぞ」
火鉢のところへ坐ると、手伝いに来ている幸子が、茶を注(つ)いで出した。
「――あっちもこっちもだからお大抵ではありませんですね、ほんとに。――暫く横にでもおなんなさいまし、私あちらに参っておりますから」
「ええ、ありがと」
幾枝は、熱い番茶をのみながら、市原へ電報を打たせたことについて、こだわった気持になっていた。市原は、神戸で相当な請負業を営んでいる彼女の実弟であった。幾枝にとっては三人同胞(きょうだい)の大切な一人なのだが、ひどく良人の荻村と気質が合わなかった。荻村は、仏文科出の小説家であった。良人が第一流の芸術家として尊敬されるのは満足だが、神経の鋭さや、趣味のゆずらなさから、幾枝にすると、迷惑な場合も少くない。人格に圧されて承服はするが、本当に同感はされない。荻村の家庭における位置はそういうものであった。市原との間のうまくゆかないのも、幾枝の気持で判断すると、そういう目に見えない良人の癖が第一の原因であるらしかった。然し、三四年前、長い間、今病室になっている書斎で相談した祐之助が、
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│
2005年12月25日
彼は二階の部屋へ引とるつもりで立ち上った
ふと、茶箪笥の擦硝子の隅に一匹、これは途方もなく強そうな蠅がのそのそしているのが目についた。体の大さなど、他のの三四倍あった。肢や腹に微細ながら黒く剛い毛が生え、蠅の世界の熊坂長範というようだ。――
源一は、凶猛そうなその姿から一種動物的な挑戦慾を刺戟された。彼は、硝子をバタバタやった。ブーン、蜂のように勁い翅音で滑っこく冷たい散歩場から追立てられた熊蠅は、徐ろに上下左右、空中検察を行って飛ぶが、なかなか中央の薬紙には寄付かない。折々、嗅覚をそそられはするらしいが、その老練な経験で何かただならぬ人間の狡智を洞察しているといった風だ。
源一は、変にむきになって来た。大昔、彼の祖先が大和国の山野で鹿を追い廻した最中の微弱な遺伝を発露させ、源一は、蠅が右へ行けば左へ、左へ廻れば右へ手を振り、仕舞には新聞を畳んだのをまで加勢にして対抗した。自由自在に飛ぶ蠅を、広い空間の中で工合よく幅一寸の粘紙に追い込もうとするのは少し無理だ。彼は、方針を変えた。暫く放って置くと、予期しない運動で疲れた熊蠅は、上戸棚の敷居に翅を休めた。源一は、粘り紙の方を、今度は両手に持ち忍び足に近づいた。心の中での掛声。
「畜生!」
ジージュージュジュジー。源一は漠然と満足を覚えた。然し、熊蠅は、非凡な翅音を立てるだけ力があり、不意な、英雄的でない攻撃を憤怒して必死に翅を震うと、だんだん体の自由を恢復した。ちょうどもがく肢の処に一匹もうぴりりとも動かない小蠅の体があった。彼は、逞しい肢でしっかりそれにしがみついた。ジジージジュー。とうとう体じゅうに網を張られた小人国のガリバーのように粘りの糸を引きながら起き上った。肢には、抱きついて起きた仲間の骸(むくろ)がついて離れない。その重荷をつけたまま、熊蠅は一歩、一歩、異常な努力のため剛毛の生えた腹を曲げ、吸つく肢を引ずって薬紙の上を歩き出した。雄々しさを褒める感歎が源一の心に湧いた。さあ、もう一歩、もう一歩、不幸な運命と勇ましく闘う王のような熊蠅が、無事にこの粘紙の地獄を抜けきったら、源一は、天晴(あっぱれ)な奴だ、逃してやろうと思った。今、薬紙は、戸棚の前に下っている。蠅取紙を横切れば、熊蠅は襖紙の上に出られる筈であった。この時の熊蠅の肢の踏張り方! 粘りまみれの全身を引ずって行く努力の真剣さ! 源一は気のよい青年であったから、打れたようになってその光景を観察した。もう一分――そら、もう一分の半分ほど。――蠅は、終に恐るべき蠅取紙の外へ一厘ばかり片肢を出した。その途端、源一は蠅の全身を貫き、焔のような歓喜が突走ったのを感じた。源一の心裡に異様な衝動が煽られた。彼は急がずせかず、新聞の間から落ちた広告のビラを拾い上げた。彼は、顎の辺が俄かに蒼白になったような表情で顔を歪めながら、世にも躊躇せぬ手軽さで熊蠅をその紙の中にまるめ込んでしまった。源一は肱掛窓の格子の隙から、ボールを投げるように境のトタン塀に向ってそれを投げつけた。
源一は、凶猛そうなその姿から一種動物的な挑戦慾を刺戟された。彼は、硝子をバタバタやった。ブーン、蜂のように勁い翅音で滑っこく冷たい散歩場から追立てられた熊蠅は、徐ろに上下左右、空中検察を行って飛ぶが、なかなか中央の薬紙には寄付かない。折々、嗅覚をそそられはするらしいが、その老練な経験で何かただならぬ人間の狡智を洞察しているといった風だ。
源一は、変にむきになって来た。大昔、彼の祖先が大和国の山野で鹿を追い廻した最中の微弱な遺伝を発露させ、源一は、蠅が右へ行けば左へ、左へ廻れば右へ手を振り、仕舞には新聞を畳んだのをまで加勢にして対抗した。自由自在に飛ぶ蠅を、広い空間の中で工合よく幅一寸の粘紙に追い込もうとするのは少し無理だ。彼は、方針を変えた。暫く放って置くと、予期しない運動で疲れた熊蠅は、上戸棚の敷居に翅を休めた。源一は、粘り紙の方を、今度は両手に持ち忍び足に近づいた。心の中での掛声。
「畜生!」
ジージュージュジュジー。源一は漠然と満足を覚えた。然し、熊蠅は、非凡な翅音を立てるだけ力があり、不意な、英雄的でない攻撃を憤怒して必死に翅を震うと、だんだん体の自由を恢復した。ちょうどもがく肢の処に一匹もうぴりりとも動かない小蠅の体があった。彼は、逞しい肢でしっかりそれにしがみついた。ジジージジュー。とうとう体じゅうに網を張られた小人国のガリバーのように粘りの糸を引きながら起き上った。肢には、抱きついて起きた仲間の骸(むくろ)がついて離れない。その重荷をつけたまま、熊蠅は一歩、一歩、異常な努力のため剛毛の生えた腹を曲げ、吸つく肢を引ずって薬紙の上を歩き出した。雄々しさを褒める感歎が源一の心に湧いた。さあ、もう一歩、もう一歩、不幸な運命と勇ましく闘う王のような熊蠅が、無事にこの粘紙の地獄を抜けきったら、源一は、天晴(あっぱれ)な奴だ、逃してやろうと思った。今、薬紙は、戸棚の前に下っている。蠅取紙を横切れば、熊蠅は襖紙の上に出られる筈であった。この時の熊蠅の肢の踏張り方! 粘りまみれの全身を引ずって行く努力の真剣さ! 源一は気のよい青年であったから、打れたようになってその光景を観察した。もう一分――そら、もう一分の半分ほど。――蠅は、終に恐るべき蠅取紙の外へ一厘ばかり片肢を出した。その途端、源一は蠅の全身を貫き、焔のような歓喜が突走ったのを感じた。源一の心裡に異様な衝動が煽られた。彼は急がずせかず、新聞の間から落ちた広告のビラを拾い上げた。彼は、顎の辺が俄かに蒼白になったような表情で顔を歪めながら、世にも躊躇せぬ手軽さで熊蠅をその紙の中にまるめ込んでしまった。源一は肱掛窓の格子の隙から、ボールを投げるように境のトタン塀に向ってそれを投げつけた。
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2005年12月24日
源一は、
くるりと仰向きになった。見ると蠅は、彼の新聞紙の上に止ったばかりではない。昨日は一匹もいなかった蠅が十匹近く、天井や電燈の周囲に群とんでいる。東向に肱かけ窓があり、隣境のトタン塀に烈しく反射する日光で四畳半はまるで明るい。蠅共はひどく、正午近いその明るみの中で腥(なまぐさ)く感じられた。源一は台所へ出て行った。
「こないだ、蠅取紙買って来ましたね」
「ああ」
「どこです」
「戸棚ん中にないかい、マッチの傍へ入れて置いたつもりだが」
源一は、二匹の蠅が糸に引ぱられて腰を曲げ曲げ歩いて行く商標を張った小箱を持って戻った。彼は、ねばつく液をぬりつけた二寸幅に三尺もある薬紙を、電燈の処へ吊下げた。
今日の晴天を嬉しがっているのか、孵(かえ)った蠅の若者達がこの世万歳と遊んでいるのか、追いつ追われつ敏活に翔び廻っているうち、一匹の蠅がいきなり薬紙にぶつかった。ジゥージゥー翅をならして飛び去ろうとするがもう駄目だ。源一がその様子を眺めているうちに、更に一匹くっついた。人間の子供が、夢中で鬼ごっこをし、「いやあ」と逃げ出すはずみに溝へころげ込むように蠅共は、ついと逸れる拍子に、紙へぶつかる。忽ち五六匹の蠅がとれた。どれも、充分育ち切っていないと見え、弱く、ほんの一寸翅を動しただけで、凝っと静に死んだように成ってしまう。源一は、面白いような、はかなく哀れなような気持がした。
「こないだ、蠅取紙買って来ましたね」
「ああ」
「どこです」
「戸棚ん中にないかい、マッチの傍へ入れて置いたつもりだが」
源一は、二匹の蠅が糸に引ぱられて腰を曲げ曲げ歩いて行く商標を張った小箱を持って戻った。彼は、ねばつく液をぬりつけた二寸幅に三尺もある薬紙を、電燈の処へ吊下げた。
今日の晴天を嬉しがっているのか、孵(かえ)った蠅の若者達がこの世万歳と遊んでいるのか、追いつ追われつ敏活に翔び廻っているうち、一匹の蠅がいきなり薬紙にぶつかった。ジゥージゥー翅をならして飛び去ろうとするがもう駄目だ。源一がその様子を眺めているうちに、更に一匹くっついた。人間の子供が、夢中で鬼ごっこをし、「いやあ」と逃げ出すはずみに溝へころげ込むように蠅共は、ついと逸れる拍子に、紙へぶつかる。忽ち五六匹の蠅がとれた。どれも、充分育ち切っていないと見え、弱く、ほんの一寸翅を動しただけで、凝っと静に死んだように成ってしまう。源一は、面白いような、はかなく哀れなような気持がした。
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2005年12月23日
蠅
梅雨にはひろいものの晴れ上った天気である。俄にかっと照りつけられ数日の霖雨がしみこんだ地面から眩ゆく陽炎(かげろう)がもえている。源一は、茶の間に腹這いになって新聞をよんでいた。台所の方からは、この好晴を喜んだ母親が、勢よく洗濯物を濯いでいる水の音がする。源一がちょうど読みかけている「今夏の周遊は朝鮮と浦塩」という記事の真中へ、蠅が一匹翔(と)んで来てとまった。小さい、翅の艶もまだ充分出ていないこの蠅はまるで、重大な決心をしてここに翔び下りたので、この一等二十八名という五字のポイント活字の間から大事な営養を吸い取る義務があるのだと、体中で宣言しているような様子で、せわしなく勿体ぶり、活字の上を這い廻る。後脚をすり合わせ、呪文を称えるようなことをする。――源一は小癪な様子が滑稽であった。一体、こんな小さい存在である蠅に、人間はどんな巨大な生きものに見えるだろう。この蠅にしろ、一目で人間一人の顔や体の全体が見られるものなのであろうか。蠅は、人類という、地球上の共棲者に対しどんな概念をもっているのか。源一は、小学校の理科で蠅や蜻蛉(とんぼ)が複眼だということを教ったのを思い出した。けれども、どんな大さで対象を視覚にとり入れるかは聞いたことがない。蠅は蠅なりの寸法に、宇宙の原寸をちぢめて感覚しているのだろうか。
彼は、好奇心を起した。人のよい薄笑いを浮べながら、彼は七八寸の距離で新聞紙の上にあった顔を、注意深くずーッと下げ、同時に両肱で体を少しずらせた。顎を新聞紙にのせちょうど顔の正面が、翅を擦ったり、鼻毛のような吸角を動かしたりしている蠅の頭と向い合わせになる位置にした。源一は、そして暫く様子をうかがった。彼は自分の大きい、薄髭の生えた青年の面が、小さい蠅にどんな感動を与えるか観察しにかかったのであった。彼は、昔は豚に騎(の)って上野の山を這って来た生徒さえある美術学校の学生であったから、自分のじじむさく髭をのばした黒い面が、蠅に与えるショックを研究することに、独特な感興を覚えたのであった。
源一は、それだけは疑なく美しい二つの眼に強い期待を表して顔をつき合わせた蠅を見守った。蠅は一向感情を動かさないらしかった。全然自分の目前に、源一の髭面が突出ているのさえ認めないらしい。源一は、劬(いたわ)りつつ口を尖(とがら)して蠅を吹いて見た。すると、別に遽(あわ)て騒ぐ風もなく二対のしなしなした脚を踏張って平然と堪えて見せる。小さな蠅はそういう時、一層自己の存在の真価を自覚した威厳を示すようでさえある。源一は、片肱にぐっと力をもたせ、左手の掌で掬(すく)う恰好をつけながら、じりじり四五寸のところまで肉迫し、颯(さ)っと横なぐりに蠅を捕えてしまおうとした。蠅は、ジ! と翔び去った。
彼は、好奇心を起した。人のよい薄笑いを浮べながら、彼は七八寸の距離で新聞紙の上にあった顔を、注意深くずーッと下げ、同時に両肱で体を少しずらせた。顎を新聞紙にのせちょうど顔の正面が、翅を擦ったり、鼻毛のような吸角を動かしたりしている蠅の頭と向い合わせになる位置にした。源一は、そして暫く様子をうかがった。彼は自分の大きい、薄髭の生えた青年の面が、小さい蠅にどんな感動を与えるか観察しにかかったのであった。彼は、昔は豚に騎(の)って上野の山を這って来た生徒さえある美術学校の学生であったから、自分のじじむさく髭をのばした黒い面が、蠅に与えるショックを研究することに、独特な感興を覚えたのであった。
源一は、それだけは疑なく美しい二つの眼に強い期待を表して顔をつき合わせた蠅を見守った。蠅は一向感情を動かさないらしかった。全然自分の目前に、源一の髭面が突出ているのさえ認めないらしい。源一は、劬(いたわ)りつつ口を尖(とがら)して蠅を吹いて見た。すると、別に遽(あわ)て騒ぐ風もなく二対のしなしなした脚を踏張って平然と堪えて見せる。小さな蠅はそういう時、一層自己の存在の真価を自覚した威厳を示すようでさえある。源一は、片肱にぐっと力をもたせ、左手の掌で掬(すく)う恰好をつけながら、じりじり四五寸のところまで肉迫し、颯(さ)っと横なぐりに蠅を捕えてしまおうとした。蠅は、ジ! と翔び去った。
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