とりあえず、いってみよう

BLUE GIANT SUPREME(1) (ビッグコミックススペシャル)

石塚真一
小学館
2017-03-24



久々に一気読み。
音と魂が「見える」漫画。
さぶいぼが出るほど ゾクゾクした。
長らくビルボードに行ってないなぁ・・・。






Facebookに登録して何年経っただろうか。

友達も登録時から増やさず、発信もせず、写真も公開していない。

たまーに投稿した時に「いいね」をつけてもらった相手に「いいね」返しはしていない。

「いいね」は、自分が「いいね~」と思った時に押すものだと思っている。

Twitterのアカウントも持っている。でも、つぶやかない。

Lineアプリは携帯にもPCにも入っている。でも、滅多に使わない。
広告が多くて面倒だから。

ブログも開設したが、長らく更新していない。

スマホはiPhone。初代3Gからの愛用者だ。その携帯を持たずに出かけることもよくある。

1日スマホを持たない生活を不便と感じる人もいるだろうが、私はあまり感じない)

 

こんな風に書けば人はどう感じるだろう。

 

・新しもの好きだけど使い方がわかっていない人

・友達がいない「閉じてる」人

・寂しい人

・ひねくれ者、身勝手な人

 

他にもあるかもしれないけど、「外とつながっていない人」という印象が強いかも
しれない。

でもそれは、「ネットを通じて見たその人」であって、リアルの世界での印象ではない。

 

毎日誰かの話を聞き、考え、調べ、受信したり発信したり。小道具(ツール)もよく作る。そして、毎日誰かと(複数が多い)「対話」をしている。

 

休日はとても大切だ。

日曜日は仕事をしない。

夫婦共通の好きな趣味に没頭する。好きな場所に出かけたり、たまにライブに行ったり、息子と吉本新喜劇を観に行くこともある。

息子との外出は年に数回行く吉本新喜劇以外はほぼなくなったが、とにかくよく笑うので新喜劇よりも息子を見ている方が楽しかったりする。

 

仕事で組む相手は毎回違う。職種も違う。会う場所も違う。集まる時間もまちまちだ。

MCをする時もあれば、ひな壇に座る時もある(あくまでも例え)。

このタイミングで!という時にあえて「あかん方の意見」を言ってみる。すると、頭の中で考えているのになかなか発言できない人が「えいや!」と勢いづいて、温めていたアイデアを出してくれる時がある。セッションできる会議はおもしろい。

 

障害福祉制度を利用する人は、確実に多様化した。

「障害」そのものではなく「生きづらさ」に注目するようになった。

 

「生きづらさ」に定義はない。

定義のない「辛さ」に対するサポートは、とても大切であるのと同時に、福祉制度の活用という手法のみで受け止めることでもない。

環境が自己実現の障壁になっている「見える生きづらさ」だけではなく、
「見えない生きづらさ」もある。

 

その人が「いつから」パワーレスな状態になったのか、またはパワーダウンして
しまったのか。

立ち止まるしか命を守る方法がなかったということも忘れてはいけない。

 

その生きづらさは具体的な問題なのか、精神的なものなのか。

自分についてなのか、家族や周囲を含んでいるのか。

何が得意(好き)なのか、何が苦手(嫌い)なのか。

本当は、どうありたいのか。(リカバリ-する過程で話してもらえる大切なこと)

 

緊急性が高く早急な対応が必要なのか。

福祉サービスの導入で心や身体は軽くなるのか。

精神保健医療につなげる必要があるのか。

伴走しながら時間をかけて少数で寄り添うサポートがいいのか。

地域の見守りがあった方がいいのか。

あっさりと聞いて、次の発信を待つのか。

 

サポートするということに正解はない。
本人の意思が最も大切だが、すぐに気持ちを出すことができない人もいる。

だからこそ安直な提案をこちらから出すのではなく、一歩引いて考える、他者の意見(視点)も聞いてみるということが大切だ。

 

331日はたくさんの「異動の挨拶」をいただいた。

でも、問題ない。

「次の異動先で、地域の実情をどんどん伝えていってくださいね!別の課になってもまた絡みましょう!」

そう言って毎年笑顔で送り出している。

 

多様な問題や困りごとを抱えている人が近くに存在するということを地域は知っている。

その地域と、数年間地味にかかわり続けてきたことで沢山の声を拾うことができた。

だから、大丈夫。

町は、地域は、確実に変わってきている。

福祉サービスが届かない(拒否される)人を気にかけてくれる人たちが沢山いる。

ヘルパーよりも商店街のおっちゃんの方が話しやすいという人もいる。

 

町は、生きている。

 

遠くにいる大切な人の「今」を知ることができるツールはとても有難い。

でも、「発信する」のは自分の場合はそんなに簡単ではないので、もう、1年に1回アップきればいい方じゃないかと今は思っている。

マメじゃない人間は二兎追えないのだ。

 

 

私は、ごっつ元気です。

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1日の記事やけど、嘘とちゃうからね(笑)

 

 
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GLIM SPANKY

たまたまYouTubeで見かけた動画に衝撃を受けた。
10代と思われる女の子がライブハウスでアコギ1本で歌うその声、その歌詞、その曲に。
「焦燥」というタイトルにも驚いた。
なんで、この女の子はこんな詩が書けるのか?曲が作れるのか?こんな風に歌えるのか?

彼女のことが気になって気になって色々と調べてみたところ、
・子どもの頃からケルト文化に興味を持つ
・高校生1年生の時にバンドを結成する
・その頃から「GLIM SPANKY」として活動を始める
・オーディションに応募して5500組の中の14バンドに選ばれる
・当時のメンバ−4人のうち二人が脱退した後も新たなメンバーを入れずに2人で活動している
・祖父が日本画家、父がかなりの音楽好き

そんなことがわかり、気がつけばガチガチのファンになっていた。

彼女は息子と同学年だ。
そうなると、私の妄想は留まることなくどんどん膨らんでいく。
息子のクラスにこんな女の子がいたら・・・。

息子と同じクラスのレミちゃんがデビューする。
これは応援するしかない!
レミちゃん、いつも見てるよ!


ああ、楽しい。



そうだ!
息子にGLIM SPANKYを聴かせてみよう。

「(息子よ)これ、聴いてみない?」
「聴かない聴かない!絶対聴かない!」
「なんで!!!」
「歌が入っている音楽は聴かない!興味ない!」

忘れてた・・・。
息子はインスト専門だった・・・。


むむぅ・・・、じゃぁこれはどうだ!!

 

 

ポンコツクエスト



GLIM SPANKY とポンコツクエストが好きすぎるというだけのなんてことないつぶやきでした。


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マレフィセント

<あらすじ>
とある王国のプリンセス、オーロラ姫(エル・ファニング)の誕生祝賀パーティー。幸せな雰囲気があふれるその会場に、招かれざる邪悪な妖精マレフィセント(アンジェリーナ・ジョリー)が出現する。オーロラ姫に永遠の眠りにつく呪いをかけたマレフィセント。それは、なぜなのか。答えは、謎に包まれたマレフィセントの過去にあった。



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チョコレートドーナツ 


<あらすじ>
1979年カリフォルニア。歌手を目指しているショーダンサーのルディ(アラン・カミング)と弁護士のポール(ギャレット・ディラハント)はゲイカップル。 母親に見捨てられたダウン症の少年マルコ(アイザック・レイヴァ)と出会った二人は彼を保護し、一緒に暮らすうちに家族のような愛情が芽生えていく。 しかし、ルディとポールがゲイカップルだということで法律と世間の偏見に阻まれ、マルコと引き離されてしまう。

2010年夏、三歳の女児と1歳9カ月の男児の死体が、大阪市内のマンションで発見された。子どもたちは猛暑の中、服を脱ぎ、重なるようにして死んでいた。母親は、風俗店のマットヘルス嬢。子どもを放置して男と遊び回り、その様子をSNSで紹介していた…。なぜ幼い二人は命を落とさなければならなかったのか。それは母親一人の罪なのか。事件の経緯を追いかけ、母親の人生をたどることから、幼児虐待のメカニズムを分析する。現代の奈落に落ちた母子の悲劇をとおして、女性の貧困を問う渾身のルポルタージュ。



これらの映画や書籍には、母性という共通のキーワードがあり

「母がいない、または母として機能していないことへの不幸」
ではなく、
「(母に限らず)愛情をもって誰かが育み見守る」
ことが子どもが育つ過程には重要なんだというメッセージが隠れているような気がする。

マレフィセントは、森の中で母に代わってオーロラ姫を育てる3人の妖精の子育てへの感心の低さ(見ようによってはいち部育児放棄ともとれる行動)が放っておけず、常にオーロラ姫の周辺を窺い時に助け、姫への母性愛が深まる中で自分がかけた呪いを解こうとするが・・。というストーリーが含まれている。

チョコレートドーナツは、母親からネグレクトを受けている隣の部屋の少年(ダウン症)を、
行きがかり上放っておけず一緒に暮らす中で芽生えたゲイカップルと少年の親子愛を丁寧に綴り、性的マイノリティに対しての差別的な扱いとその結果がもたらした不幸な結末を素晴らしい音楽と意味深い詩に乗せて、悲しくも鮮やかに見せてくれる。

ルポ虐待は、虐待事件として忘れられない「大阪二児置き去り事件」を母親が辿った足跡と、彼女の家族や関係者を追い続け、なぜあのような事件が起きたのか、どうすれば事件を防げたのかを社会全体に問うている問題作だ。


「母」という役割に対しての評価は「父」よりも厳しい。
男女問わず「母親のくせに」という言葉を枕詞につけて、事件が起きると決まって母親を責める。父が起こした虐待事件であっても「母親がいながら何をしていたのか!」とやはり母を責める。
母親自身もまた、「母親なんだからしっかりしないと」「周囲が母親としての自分を見ている」という他者の目や評価を強く意識してしまう。
かくいう私もその一人だ。

夫婦だった時は「母親なんだから子ども第一だろ」と言われ、
母子家庭になると「母親一人なんだからしっかり育てないと」と自分で追い込んだ結果、大きく軌道修正せざるを得ない事件が起きてしまい、そこから沢山の人に助けてもらって今がある。


そんなに「母」だけががんばらなきゃいけないのか?
無理に一人でがんばった結末には何が待っているのか?


がんばることは、悪くない。
でも、
そんなにがんばらなくていい。

「つらい」「しんどい」「困っている」「子育てが楽しくない」
まずは声を出せる環境が、人がいれば何とかなる。
一緒に暮らすことで追い込まれてしまう精神状況にある時は、一時離れることもひとつの選択肢であるということを。母であることを誰も取り上げないし、今もこれからも揺るぎないのだということを繰り返し伝えていこう。
そして、つながる仕組みを地域の中につくっていこう。


誰かを自分ひとりで救えるとは思っていない。
「気にかける」ことから始まる「つながり」があるんだということを知ってもらいたいだけなんだ。


ほんと、
いろいろあるよねぇ〜。(春名愛風)



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