とりあえず、いってみよう

 
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GLIM SPANKY

たまたまYouTubeで見かけた動画に衝撃を受けた。
10代と思われる女の子がライブハウスでアコギ1本で歌うその声、その歌詞、その曲に。
「焦燥」というタイトルにも驚いた。
なんで、この女の子はこんな詩が書けるのか?曲が作れるのか?こんな風に歌えるのか?

彼女のことが気になって気になって色々と調べてみたところ、
・子どもの頃からケルト文化に興味を持つ
・高校生1年生の時にバンドを結成する
・その頃から「GLIM SPANKY」として活動を始める
・オーディションに応募して5500組の中の14バンドに選ばれる
・当時のメンバ−4人のうち二人が脱退した後も新たなメンバーを入れずに2人で活動している
・祖父が日本画家、父がかなりの音楽好き

そんなことがわかり、気がつけばガチガチのファンになっていた。

彼女は息子と同学年だ。
そうなると、私の妄想は留まることなくどんどん膨らんでいく。
息子のクラスにこんな女の子がいたら・・・。

息子と同じクラスのレミちゃんがデビューする。
これは応援するしかない!
レミちゃん、いつも見てるよ!


ああ、楽しい。



そうだ!
息子にGLIM SPANKYを聴かせてみよう。

「(息子よ)これ、聴いてみない?」
「聴かない聴かない!絶対聴かない!」
「なんで!!!」
「歌が入っている音楽は聴かない!興味ない!」

忘れてた・・・。
息子はインスト専門だった・・・。


むむぅ・・・、じゃぁこれはどうだ!!

 

 

ポンコツクエスト



GLIM SPANKY とポンコツクエストが好きすぎるというだけのなんてことないつぶやきでした。


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マレフィセント

<あらすじ>
とある王国のプリンセス、オーロラ姫(エル・ファニング)の誕生祝賀パーティー。幸せな雰囲気があふれるその会場に、招かれざる邪悪な妖精マレフィセント(アンジェリーナ・ジョリー)が出現する。オーロラ姫に永遠の眠りにつく呪いをかけたマレフィセント。それは、なぜなのか。答えは、謎に包まれたマレフィセントの過去にあった。



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チョコレートドーナツ 


<あらすじ>
1979年カリフォルニア。歌手を目指しているショーダンサーのルディ(アラン・カミング)と弁護士のポール(ギャレット・ディラハント)はゲイカップル。 母親に見捨てられたダウン症の少年マルコ(アイザック・レイヴァ)と出会った二人は彼を保護し、一緒に暮らすうちに家族のような愛情が芽生えていく。 しかし、ルディとポールがゲイカップルだということで法律と世間の偏見に阻まれ、マルコと引き離されてしまう。

2010年夏、三歳の女児と1歳9カ月の男児の死体が、大阪市内のマンションで発見された。子どもたちは猛暑の中、服を脱ぎ、重なるようにして死んでいた。母親は、風俗店のマットヘルス嬢。子どもを放置して男と遊び回り、その様子をSNSで紹介していた…。なぜ幼い二人は命を落とさなければならなかったのか。それは母親一人の罪なのか。事件の経緯を追いかけ、母親の人生をたどることから、幼児虐待のメカニズムを分析する。現代の奈落に落ちた母子の悲劇をとおして、女性の貧困を問う渾身のルポルタージュ。



これらの映画や書籍には、母性という共通のキーワードがあり

「母がいない、または母として機能していないことへの不幸」
ではなく、
「(母に限らず)愛情をもって誰かが育み見守る」
ことが子どもが育つ過程には重要なんだというメッセージが隠れているような気がする。

マレフィセントは、森の中で母に代わってオーロラ姫を育てる3人の妖精の子育てへの感心の低さ(見ようによってはいち部育児放棄ともとれる行動)が放っておけず、常にオーロラ姫の周辺を窺い時に助け、姫への母性愛が深まる中で自分がかけた呪いを解こうとするが・・。というストーリーが含まれている。

チョコレートドーナツは、母親からネグレクトを受けている隣の部屋の少年(ダウン症)を、
行きがかり上放っておけず一緒に暮らす中で芽生えたゲイカップルと少年の親子愛を丁寧に綴り、性的マイノリティに対しての差別的な扱いとその結果がもたらした不幸な結末を素晴らしい音楽と意味深い詩に乗せて、悲しくも鮮やかに見せてくれる。

ルポ虐待は、虐待事件として忘れられない「大阪二児置き去り事件」を母親が辿った足跡と、彼女の家族や関係者を追い続け、なぜあのような事件が起きたのか、どうすれば事件を防げたのかを社会全体に問うている問題作だ。


「母」という役割に対しての評価は「父」よりも厳しい。
男女問わず「母親のくせに」という言葉を枕詞につけて、事件が起きると決まって母親を責める。父が起こした虐待事件であっても「母親がいながら何をしていたのか!」とやはり母を責める。
母親自身もまた、「母親なんだからしっかりしないと」「周囲が母親としての自分を見ている」という他者の目や評価を強く意識してしまう。
かくいう私もその一人だ。

夫婦だった時は「母親なんだから子ども第一だろ」と言われ、
母子家庭になると「母親一人なんだからしっかり育てないと」と自分で追い込んだ結果、大きく軌道修正せざるを得ない事件が起きてしまい、そこから沢山の人に助けてもらって今がある。


そんなに「母」だけががんばらなきゃいけないのか?
無理に一人でがんばった結末には何が待っているのか?


がんばることは、悪くない。
でも、
そんなにがんばらなくていい。

「つらい」「しんどい」「困っている」「子育てが楽しくない」
まずは声を出せる環境が、人がいれば何とかなる。
一緒に暮らすことで追い込まれてしまう精神状況にある時は、一時離れることもひとつの選択肢であるということを。母であることを誰も取り上げないし、今もこれからも揺るぎないのだということを繰り返し伝えていこう。
そして、つながる仕組みを地域の中につくっていこう。


誰かを自分ひとりで救えるとは思っていない。
「気にかける」ことから始まる「つながり」があるんだということを知ってもらいたいだけなんだ。


ほんと、
いろいろあるよねぇ〜。(春名愛風)





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芸術は、爆発だ。
いろんな「かお」が凄然と並んでいる太い柱を前に、しばらく言葉が出なかった。



 
 

自分は、

親として
「どんな場面で」悲しくなったり、やるせなくなったり、怒りがこみ上げて
きたのか。

支援者として
「どんな場面で」本人から、親から、がっかりされてきたか。


自分は、
何に傷つき、疲れ、何を諦めたのだろう?


そんなことをぼんやりと考えてみた。



まず、親としての自分。

①相手に期待が大きい時
専門家や専門職は「プロ」なので「間違ったこと(求めていないこと)」を言う「はずがない」という強い思いから、相手の失言(親フィルターがかかっているので本当に失言か否かは微妙)が許せなくなり、唯一の支えを失ったような愕然とした気持ちになった。
※この体験は1回のみ(息子10歳の時)
帰りの車で悔しくて悲しくて、声を出して泣いた。

②明らかに間違ったことを言われた時
そもそもの考え方やものの捉え方に大きなズレがあるが、いくら話しても説明してもその溝が全く埋まらなかった。
※この体験は3〜4回あった(保育所、小学校、中学校)
正面突破は避けて、複数から側面的な支援を受けて何とかやり過ごした。

③過程を振り返らず、その場で起きた事象のみで「困った子」「できない子」と決めつけられてしまった時
※この体験は1回のみ(息子が高校生の時)
これは支援者に本気で怒った。
「安易過ぎる!背景もわからんと、そんなことを軽々しく言うたらあかん!」と言ってかなり声を荒げて怒ってしまった。
 

次に支援者としての自分。

①相手から大きな期待を寄せられている時
徐々に距離間がなくなっていき、後ろを見たら崖っぷち。咄嗟に口から出てしまった言葉(提案)が命取りに。
「信頼していたのに、裏切られた気分です!」
思い出すだけでも辛い言葉だ。
いやいや、その何倍もお母さんは泣いている。
それはわかる。自分もそういう経験をしているから。
でも、でもなぁ。
そうじゃないんだよなぁ。裏切ってなんかいないんだけどなぁ。
 

②間違ったことを言ってしまった時
・間違っていたらとにかく謝る。
・間違っていなくても、伝え方(言い方)が悪い時も謝る。

③過程を振り返らず、その場で起きた事象のみで「困った子」「できない子」と決めつけてしまった時
これはない。
これはあかん。
「困った」ではなく「本人が困っている」のであって「強み」を見つけて活かすのが我々の仕事のはずだ。




さて、
親として、支援者として。
どちらも決して順風満帆にいっているというわけではないのだけれど、両方の気持ちを味わっている立場から伝えることができることは何か、再度考えてみた。



支援者は・・・
「他人事」を「自分事」として捉える(入り込むのではない)力を養ってほしい。
信頼されているからと、抱え込まず、
一人の力は一人以外の何者でもないということを自覚して、
個人的な好き嫌い(どいつもこいつも!)ではなく、
本人にとっての利益を最優先する。

親は揺れるということを前提に(当然だもの)寄り添う。
親から手厳しい言葉を受けた時は、「自分事」として考えてみる。
考えた後は、他人に戻って大切なキーワードだけ残して後は水に流す。
そんな力を身につけてほしい。


親は・・・
自分も重要なチームの一員であるということを忘れない。
子どもの未来を託す(つなぐ)ということは、「プロジェクト」に参加するということ。
折れそうな時、苦しい時はインフォーマルな輪が救いになることも忘れないで。
(メンター活動やペアトレは、親を成長させてくれる)
支援者を疑似家族にしないで、
すぐに見限らず、
苦言を呈する時は「支援者を育てる」という気持ちで。
そして、
お母さんだけじゃなく、お父さんもチームに入ってもらいましょう。
(毎回話し合いに参加するという意味ではなく、チームの一員として
フィルターがかかっていない話を聞く機会を設ける)


支援者もいろいろ。
親もいろいろ。
抱えている問題や悩みもいろいろ。


いずれにしても、

・本人がもっている潜在的な力←一番大切!!
・家族、友人、恋人、近親者の理屈抜きの愛の力
・支援者の、機能としての力(愛もあります)

この3つが大切なんだと思う。



あきらめず、ぼちぼち育てていきましょう。






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