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宝塚市 清荒神の七夕飾り

こどもの頃、短冊に

「ふつうのお父さんがいいです。」
って願いごとを書いたっけ・・・。






あと3ヶ月で101歳になるはずだった大ばあちゃんが、
平成24年6月14日に亡くなった。

亡くなる前日まで家族や友人、ホームスタッフ、主治医と
コミュニケーションが取れていたのだから、すごいの一言に尽きる。

平成23年11月に1回目の危篤の知らせを受け、そこから
奇跡の復活を遂げたおよそ7ヶ月後の別れとなった。


<平成23年11月の記録>

100歳になる我が家のばあちゃんが水曜日の朝、入院先の病院で

危篤状態になった。

 

ばあちゃん100歳。

ということは子どもも含め、ばあちゃんをよく知る人はみんな

70歳オーバーの人ばかりだ。

“若手”と呼ばれる母でさえも66歳。

 そうなると、本当の”若手”の部類に入る私に親族一同からいろんな

段取りを依頼される。

(兄の時もそうだった。悲しみの前に段取り。寂しい話だけれど、これは

誰かがやらねばならないのだ。)

 

まず、ばあちゃんの容態を確認。

「ばあちゃん、ばあちゃん、私やで。聞こえる?」

ほんの少しだけ、首が動いた。

間違いなく、ばあちゃんには声が聞こえている。

 

ベッドサイドモニタはエラー音が鳴りっぱなしだ。

血圧は上が60を切っている。

酸素マスクで顔が覆われ、少し黄疸も出ているように見える。

主治医に呼ばれ、

 

「明日、明後日が山でしょう。

何らかの処置をすると返って容態が悪化するので、これから先は

◯さんの自然治癒力に任せるしかありません。」

 

そうなると、あっちの世界とこっちの世界の綱引きになってくる。
 

ばあちゃんは、間違いなく声が聞こえている。

ならば、親しかった人を呼んでみよう。

もしかするとこれでお別れになるかもしれない。

いや、むしろその逆でばあちゃんが会いたい人の呼びかけだったら

こっちに戻ってきてくれるかもしれない。

 

段取りを考え、ばあちゃんが大好きだった人のところに電話をかけ、

送迎をするから来てもらえないか?とお願いをしていった。

 

ばあちゃんが我が子のように大切にしているおっちゃんは77歳。

息子をガンで亡くしてから認知症状が出始め、引きこもりがちになっていた。

でも、今の状況を聞いた途端にベッドから飛び起き

「◯ちゃん(私)が迎えに来てくれるんやったらわし、待ってるわ。」

そう言って夫婦で車に乗り込んでくれた。

歩行も満足にできない状態だった77歳のおっちゃんが、ばあちゃんの

一大事に、奥さんの手も借りず病室までのしのしと歩いて行く姿を見て、

人は誰かのためなら想像以上の力を出せるということを改めて感じた。

 

「おばちゃん。◯◯やで。おばちゃんに会いに来たで。

起きてぇな。お願いやから、もう一回目ぇ覚ましてぇな!!」

 

蚊の鳴くような声しか出なかったおっちゃんが大きな声でばあちゃんに

何度も呼びかけた。

 

するとどうだろう。

ばあちゃんの目が、開いたのだ。

そして、おじさんの顔を触ろうとゆっくり手を差し伸べるではないか。

 

この姿には本当に驚いた。

娘二人(母と叔母)も目を丸くしていた。

 

そして、ばあちゃんは酸素マスク越しにこう言ったのだ。

 

「けっこう、けっこう。」

(ばあちゃんがよく使っている”上出来”という意味)

 

そんなばあちゃんの姿を見て、私からこんな提案をした。

 

「ばあちゃんに皆さんの声が届いていることは間違いないので、

いつも通りの話を、いつもと変わらずこの病室でしませんか?」

 

危篤のばあちゃんがいる“処置室”は、その後しばらく沢山の人の声(泣き笑い)に包まれた。

みんな、ばあちゃんにまつわる昔のエピソードを、ばあちゃんの前でたくさん話してくれた。

 

翌朝。

出勤してもいいと母に言われたので私は仕事に行った。

けれど、8時30分頃に母から電話が。

 

ああ、やっぱりダメだったのか。

神妙な表情で電話に出てみると・・・。

 

「ばあちゃん元気になったよ!!

朝からベッドを起こしておかゆさん食べてるんよ!!

もう、びっくりやわ〜。

酸素マスクも外してるし、モニタもないんよ。

血圧も110やて。

これから大部屋に戻るらしいよ。

ほんまに、すごい人やねぇ。」

 

ほっとしたのと同時に、思わず笑ってしまった。

 

命ってすごいな。

ばあちゃんの生命力に、ばんざい。

 

 

「セバちゃんの成人式の写真(撮影)はいつやったかいな?

やっぱりな、ばあちゃん写真見るまで死ねまへん。」

 

ばあちゃんは、今日も元気だった。 




2回目の危篤の知らせを受けた時、家族で話し合って
病院へ搬送してもらうのを止めた。

うん、もうええやん。
もう病院は嫌だろう。
ホームで、みんなで看取ろう。
お世話になっているホームからも看取りたいという申し出があり、
私たちも最後のケアをホームで受けることに同意した。

ばあちゃんが大好きな支援スタッフの人たち、やさしいケアマネさんや
お医者さん、看護師さん、たくさんの友達、三味線の音、みんなの歌声、
外から聞こえる小学生の笑い声、そして家族の声・・・。

たくさんの人がばあちゃんに会いに訪れ、別れを惜しみながら手を撫で、
顔をさすり、泣きながら何度も何度も「ありがとう」と伝える姿を見て
本当に素晴らしい人だった、自慢のばあちゃんだったと改めて実感した。


ばあちゃんは、亡くなる30分前にりんごジュースを30ccほど飲んだ。
ムセもなく、ゴクリと飲んだその姿を見て、スタッフも家族も驚いた。
それがどれぐらいすごいことなのかは、老衰で亡くなる高齢者を看取って
きた人であればわかるだろう。
明治生まれの人は、生に対する執着が昭和や平成生まれとは比べ物にならない。

最後の食事を終えた後、昼下がりの穏やかな時間に娘二人が見守る中
ろうそくの火が消えるように静かに、とても静かに息を引き取った。


ばあちゃんには、何度お礼を言っても足りないぐらい本当に沢山のことを
教えてもらった。

人生の岐路で道を踏み外しそうになった時、泣きながら私を叱ってくれた。
何事に対しても手を合わせ、感謝の心を忘れない人だった。
大ばあちゃんと7年間一緒に暮らした息子は、ばあちゃんを見習って
挨拶と「ありがとう」が丁寧に言える人になった。

明治、大正、昭和、平成を生きたばあちゃん。
激動の四時代を駆け抜けた人ってそんなにいない。
心から尊敬しています。
ばあちゃんの孫でよかった。


ありがとう、ばあちゃん。

安らかに眠ってください。