写真 (8)












               靴の空き箱とねこ


ぐったり疲れて帰宅したら、げんなりするメールを見てがっかりして、
がっつり食べてぽっちゃりしそうな夜更けに、こっそりブログを打っている







月に1回程度しか更新しないこのブログを連日更新するなんて、
たぶん、もうないだろう。

それほどに、映画「くちづけ」は私の心をひどく動揺させた。


だって、必死で取り組んでいるんだもの。
勘とか情とか、そういうものに頼るんじゃなくて
どのような環境に置かれると人は闇の向こうに吸い込まれてしまうのか、
様々な事例を元に検証して、リスクが複数重なる家庭は声かけや見守り、
支援チームをつくって、共有もして、生きるための資源の開拓や開設も
行っている。

なんとか声を拾いたい。
どうにかして孤立している家庭に声をかけたい、見守りたい。
そんな気持ちで児童、高齢、障害という壁を越えて地域の中で
つながっている。
(市町村の地域福祉計画にも「様々なニーズをもつ人たちが
 地域とつながりをもって暮らせるよう・・」と、記載されている)


映画の中で亡くなった親子のスライド写真を見ながら、今まで
かかわってきた人たちが泣きながら笑顔で親子を偲ぶシーンが
あったが、実際にはあり得ない。

かかわっていた周囲の人間は(支援していた人間も)、まず自分を
責めて責めて、責め続ける。何年も何年も。
叫ぶし、泣くし、悔やんでも悔やみきれない混沌とした日々を送るのだ。

あの時、側にいれば・・・何か気づいていたら・・と。
どうにもならない、どうしようもない、巻き戻しはできないとわかって
いても、頭の中から離れない。

「殺められた死」に対して笑顔で偲ぶことなど、できるはずがない。
現実とはそういうものだ。

マコちゃんは本当に死にたかったのか?
お父さんの手で自分の命の火を消してもらいたかったのか?
彼女に、父親の死を受け止め生きていくという力は本当に
なかったのか?

いや、ちがう。

私は、もう一人のマコちゃんを知っている。

末期癌の父親を親戚や支援者と一緒に看取り、
通夜や葬儀を親族として立派に勤め上げ、
毎年、喪服を着てガイドヘルパーと一緒に永代供養
されているお墓にお参りをして、
帰りにお父さんが大好きだったお寿司を美味しそうに食べ、
ホームに帰ったらいつもと変わらない生活に戻り、
翌日はいつもと変わらず仕事に行く。

そんな姿を裏方として支え、見守ってきた。

だから映画を見終わった時、腹が立って仕方がなかった。
(とうとう書いてしまった。これが心底の本音だ。)

確かに、心中は起きている。
悲しい事実は、今もある。

でもそれは、美談ではない。
「真実」を取り上げるなら、「笑顔で終わる」というフィクションはいらない。



人間は、弱い。
誰だって弱い。
たった一人で抱えたまま、誰にも言えなかったお父さん。
辛かっただろうな。

私がもし、あの「舞台」の中の誰かだったら。
入所施設を紹介する前に、
お父さんではなくマコちゃんと話していただろう。


あなたはどこで暮らしたい?

と。



支援者は観てください。

非常に考えさせられます。




おしまい。