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中日5-1巨人

さすが巨人キラーの本領発揮!

マサ 完投で200勝達成!

おめでとう!

よくやった、アッパレ!

でも、まだまだ通過点だ。

初動負荷理論による野球トレーニング革命


200勝をサポートしたドラ打線。
2回裏にデラロサが同点HR!
3回裏にノリがレフトに抜ける逆転タイムリーヒット!
5回裏に井端がレフトスタンドにHRで木佐貫投手を撃沈!
和田が替わった西村投手からタイムリーヒット!
西村投手のボークで得た1点を合わせて、計5点をマサにプレゼント。

谷繁の好リードも光るが、願わくば200勝達成の瞬間には小田にマスク被っていてほしかったなぁ…。
(中日スポーツの記事)
マサ「投げ続ける」 200勝パーティー1300人に誓った
2009年1月19日 紙面から

 中日・山本昌広投手(43)の200勝達成祝賀会が18日、名古屋市内のホテルで行われた。会場を埋め尽くした約1300人から祝福された山本昌は「恩返しは長く野球を続けること」と決意を語った。

 涙はなかった。後回しにした自らのあいさつ。山本昌は時折笑顔を浮かべながら「きょうみなさんにお祝いしていただいた恩返しは、長く頑張ること。ボールが投げられなくなるまで、最後の矢がなくなるまで、投げ続けます」。1300人の来場者に決意を語った。

 アイク生原ドジャース会長補佐、高木時夫スカウト。天国から見守ってくれている2人の恩人の大きな写真を両脇に飾ったステージ。会の最初に2人への黙とうを選んだのも山本昌らしい選択だった。星野元監督や杉下氏ら球界の大先輩の祝辞には時折涙を浮かべ、昭和40年生まれのプロ野球選手の親睦(しんぼく)団体・40年会の仲間の発言には顔を真っ赤にした。

 「昭和58年に高木さんに誘われてプロ野球選手になり、当時は1軍に上がることが夢でした。4年目のアメリカ留学で基礎をつくり、それから徐々に一人前になってきた。多くの人に助けられ、長く野球をやってこられた。幸いにも、今年は44歳になるが選手を続けさせてもらえることになりました」

 何度かあった引退危機。中でも2001年夏には、まさに寸前まで追い込まれた。先発ローテーションから外れ、中継ぎ登板でも結果が出ず2軍落ち。抜け殻のようになった山本昌は1週間ほど、ランニングさえしない状態だった。そんな時、行く先々でファンから「頑張って」と声を掛けられ、アイクさんの「あきらめたら終わり」の言葉を思い出し、立ち上がった。

 2勝に終わった07年オフには、真剣に身を引くことを考えた。ただ肩やひじに問題があって投げられないわけではない。「40年会の仲間にはぼくよりずっと能力があって、早くから活躍した選手がいっぱいいた。でもけがをして志なかばで引退しなければならなかった。そんなみんなが言うんですよ。『おまえはできる限り長くやってくれ』って」。この日も姿をみせた渡辺久信西武監督、星野伸之阪神2軍投手コーチら仲間にも支えられた。

 この日は午前中に、選手会合同自主トレが休日だったナゴヤ球場へ足を運んだ。「工藤さん(横浜)も同じことを言うけど、この年齢になったら、動きだしたら休めない」。多くの人の支えに報い、多くの人の夢をかなえるため、山本昌は歩き続ける。 (中村浩樹)

◆ドジャース元会長オマリー氏、ロスから祝福に
 山本昌の大恩人、故アイク生原氏をドジャースのフロント幹部に抜てきしたピーター・オマリー元会長(71)が、遠くロサンゼルスから太平洋を越え、祝賀会に駆けつけた。

 オマリー元会長は、1965年に渡米し、ドジャース傘下マイナーチームの用具係からスタートした生原氏を、82年に会長補佐(国際担当)に任命した生原氏の恩人。後に生原氏は、熱烈な指導で傘下の1A、ベロビーチ・ドジャースに留学した左腕を大成させたとあっては、山本昌にとっても大恩人といえる。オマリー元会長は来賓として中日の白井オーナーに続き2番目に壇上に上がり、生原氏に代わって山本昌の200勝の偉業を祝福した。

 その席で、振り返ったのは21年前の春だった。米国フロリダ州ベロビーチへキャンプで訪れていた当時の星野監督から、山本昌を生原氏のもとで預かってもらえないかと直接頼まれたという。「アイクはマサを喜んでサポートしていた。一生懸命励ましていたよ」と語ると、43歳の左腕は時折目を閉じながらオマリー元会長の話に耳を傾けた。「アイクも喜んで天国からこの会を見ているはず」。オマリー元会長があいさつを締めくくると、山本昌は涙目で元会長の手を取り、92年に55歳で亡くなった恩人をしのんだ。 (若原隆宏)

(Asahi.comの記事)
山本昌200勝「ウルッときた」 完投勝利も最年長
2008年8月5日1時8分

通算200勝を達成し、ファンに手を振る中日の山本昌投手=4日夜、ナゴヤドーム、岩下毅撮影
 なかなか芽の出なかった中日・山本昌投手(42)が、4日のナゴヤドームでの巨人戦で、最年長での200勝を達成した。プロ25年目、しかも最年長での完投勝利というオマケつき。最年長の記録を次々に更新し続けている。

 試合終了後、マウンド付近でナインに胴上げされ、「恥ずかしいから泣かないようにしていたが、ウルッときた。自分の体が重いんじゃないかと恥ずかしかったです。現役で投げられる幸せを感じています。よくぞ自分がここまで頑張ったと思う」と喜びを語った。

 関係者も祝福を送った。落合監督は「(9回)よくもったよ。代えられません。日本シリーズと違う。おれは1勝目を知っている。(5年目に米国へ留学し)もしかしたらアメリカでやっているかもしれないし、本当はクビだったんだ。だからたいしたもんだよ。人間どこで運が開けるかわからないっていうことの見本だよ。でも、これで安心してもらっちゃ困る。最終的には本人が決める問題だが、これからいくつ勝ち星を積み上げられるか。重い荷物を下ろし、より巧みな投球に期待したい」と語った。

 中日OB杉下茂さんは「僕以外に中日から200勝投手が出ていなかった。こんなにうれしいことはない。私は33歳で引退したが、42歳まで、しかも第一線で投げているのはすごいことだ。体を鍛え普段の努力のたまものだと思う。おめでとう」と賛辞を送った。

 また山本投手の弟で、日大藤沢高の野球部監督を務める山本秀明さんは「入団当初から見ていますが、とても200勝するとは思いませんでした。勝てない時期から、こんなにパッと立ち直るとは。自分の兄ながらすごいと思います」と話した。

山本昌200勝、趣味の無線操縦カー断ち悲願達成
2008年8月4日23時8分

大会で優勝し、無線操縦カーを手に笑顔をみせる山本昌投手(ラジコン天国名古屋店提供)
 悲願の達成のため、好きなものを我慢する「断ち物」にはいろいろな種類があるが、中日の山本昌投手の場合は、趣味の域を超えるとまで言われた無線操縦自動車を断って、今季にかけていた。

 「国内で十指に入る腕前」。名古屋市港区の無線操縦装置店「ラジコン天国」名古屋店の祖父江好高店長(47)は、山本投手をそう評する。

 95年に左ひざを手術した時の暇つぶしに始めたが、今もスーパーカーを数台所有するだけあってすぐにはまった。

 野球で鍛えた運動神経と動体視力、うまい人をまねる器用さを生かして上達。同僚の山崎武司選手(39=現楽天)と「山山杯」と名付けた大会を開き、愛知県美和町のメーカー「ミワホビー」に独自モデル「YM34」を開発してもらうまでに至った。

 野球にも通じたという。「上手な人ほど記録ノートを細かくつけるようなところを見習えば、もっとうまくなるんじゃないか」と体調管理や投球動作の改善に生かした。

 山本投手のマシンを整備しているラジコン天国の高松守さん(39)は「マサさんの要求はすごく細かくて真剣。『勝負の時は緊張感がないと勝てない。足が震えるくらいでないといけない』と聞かされたこともあります」。

 昨年はラジコン天国の月例会で4勝したが、今年1月の月例会で優勝したのを最後に操縦機を置き、その分のエネルギーを野球につぎ込み、大目標をかなえた。「新しいマシンも用意してもらっているので、(サーキット場に)顔を出すかもしれません」。快挙達成後の記者会見で、子供っぽい笑顔がにじんだ。

 楽天・山崎選手は「あの人は家族の次にラジコンを愛していた。これで心おきなくできるんじゃないの」と話した。(渡辺崇)

中日・山本昌が200勝 42歳、史上最年長で達成
2008年8月4日21時0分

完投で通算200勝を達成した中日・山本昌=小川智撮影

通算200勝を達成し、胴上げされる中日の山本昌投手=4日夜、ナゴヤドーム、佐藤慈子撮影
 プロ野球・中日ドラゴンズの山本昌投手(42)=本名山本昌広=が4日、対巨人16回戦(ナゴヤドーム)で、プロ野球史上24人目の通算200勝を達成した。04年8月の工藤公康投手(当時巨人、現横浜)以来4年ぶり。42歳11カ月での達成は工藤投手の41歳3カ月を抜く史上最年長で、プロ25年目での到達は、最も遅い記録となった。

 山本昌投手は日大藤沢高(神奈川)からドラフト5位で84年に入団。88年8月30日の広島18回戦(ナゴヤ球場)で初勝利を挙げた。この日は完投勝利で、50年11月に若林忠志投手(毎日)が42歳8カ月で挙げた記録を3カ月上回る最年長での完投勝利を成し遂げ、200勝に花を添えた。

 中日では杉下茂投手以来51年ぶり2人目の200勝達成者となった。