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中日ドラゴンズ に参加中!
スタメン出場の立浪
あぁ、ついに引退するんだなぁ…という実感。

守備はファーストだが、その眼光や姿勢はショート、セカンドを守った往年の時のまま。

2480安打目はフェンス直撃の特大のツーベース!

桑田&清原の後を継いだ立浪&片岡のPL黄金期も懐かしい記憶となりました。
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22年間ドラゴンズ一筋 ありがとう、立浪

CSや日本シリーズで本当に最後の勇姿を見せてくれ!

(立浪選手の挨拶)
縁があって中日ドラゴンズという素晴らしい球団に入団することができ22年が経ちました。

たくさんの方々に支えていただき、たくさんのファンのみなさんに応援してもらいここまでやってくることができました。

プロ野球の世界に入る前は、今日自分の最後のユニホーム姿を見に来てくださった清原さん、桑田さんにあこがれてプロ野球選手をめざしました。

プロ野球選手になる前は、この身体でこの世界でやっていけるのかなという不安ばかりでしたが、プロに入ってからそして今まで身体が小さいと思ったことは一度もありません。

ただバッティングだけはと思ってここまでやってきました。

昨年引退を表明し、ここまできましたが、なかなか皆さんの声援に応えるバッティングはできなくなってきました。

理想である野球は打って走って守る。自分には守ることと走ることが衰えてきたのでユニホームを脱ぐ決意をしました。

代打にまわってからの3年間半。毎打席、暖かい声援と激励をいただいたことはしっかりとこの胸にしまいこみ、またいつかみなさんに恩返しができるようこれからの人生たくさんのことを学び、たくさんのことを勉強し、一回りも二回りも大きくなって帰ってきたいと思います。

22年間常にプレッシャーの中で戦ってきましたが、今日一日は楽しく野球をやらしてもらいました。

最高の花道を用意してくださった中日ドラゴンズ関係者のみなさん本当にありがとうございました。

そして最後に、代打として最後の生きる道を与えてくださった落合監督、そしてたくさんのサポートをいただいたコーチのみなさん、そして最高のチームメートにもめぐまれ、最高のファンのみなさんにかこまれて、幸せな野球人生を送ることができました。

この体もここまでよくもってくれました。

ただただ感謝の気持ちでいっぱいです。

これで心置きなくバットを置くことができます。

全国のドラゴンズファンの皆さん、そして私を応援してくださった野球ファンのみなさん、22年間本当にありがとうございました。

(中日スポーツの記事)
「立浪和義 感謝」 引退独占手記
2009年10月1日 紙面から

中日−巨人 引退セレモニーを終え、ナインから胴上げされる笑顔の立浪=ナゴヤドームで(横田信哉撮影)

 今季限りでの引退を表明している立浪和義内野手兼打撃コーチ(40)が9月30日、巨人戦の試合後、ナゴヤドームで引退セレモニーを行った。「6番・一塁」でスタメン出場して猛打賞で締めくくり。クライマックスシリーズこそ控えているが、レギュラーシーズン最後の本拠地となったこの日、ミスタードラゴンズがプロ野球人生を振り返り、ファン、恩師、家族らに感謝の思いをつづった。

 ドラゴンズという素晴らしい球団に入団して22年がたったんですが、いま思えば名古屋という土地、ドラゴンズという球団、指導者、あらゆる環境がそろったことでドラゴンズ一筋で野球ができた。何か1つでも欠けていれば、いまの自分はなかったと思うんです。

 22年間、いろんなことがありました。いい思い出もあれば悔しかったこともある。でも、ふと振り返って思い出すのは悔しいことばかり。野球って10回打席に立って3回打てばいい打者といわれるけど、その間に7回も失敗している。だから悔しいことの方が多いんですよ。昔はサヨナラエラーをして眠れなかったこともある。10・8(1994年10月8日に行われた巨人と同率で迎えた最終戦)なんて本当に悔しかった。その中で自分の糧になった節目を紹介します。

 1年目に開幕スタメンやリーグ優勝、新人王まで獲得させていただきましたが、2年目に右肩を痛めてしまった。そのころは簡単に治ると思っていたんです。それが…。予想以上の重症で、2年目はほとんど2軍で過ごしました。ただ、新たな発見があったんです。当時は阿久比でリハビリをしていたんですが、ファームの選手が何試合かナイター観戦した。そのとき、こんな素晴らしい舞台で野球をしていたんだなって気づかされたんです。また戻らないとって。だから頑張りました。3年目の開幕戦(90年4月7日の大洋戦=ナゴヤ球場)の1打席目でホームランを打ったときは、本当にうれしかったですね。

 99年の2度目のリーグ優勝も格別でした。1年目に優勝したから、もっと頻繁にできると思っていた。それが10年間も遠ざかってしまったんです。あのころは優勝に飢えていました。9月30日のヤクルト戦(神宮)で逆転勝ちして優勝を決めましたが、最後がセカンドフライ。あの日は3回に落球していましたからね。打ち上がった瞬間、投手と捕手はもうガッツポーズしている。ちょっと待ってくれよ、って。(ミスを)またやったら同点になるなと思いつつ、両手で拝み取りをしたのを覚えています。でも、自分にとっては初めてのビールかけでしたし、心から優勝の喜びをかみしめました。

 もう1つの節目はレギュラーを外れた06年の7月ですかね。正直きつかった。プロ野球は力の世界、力がないから出られない、というのは分かっていても、最初は切り替えができなかった。そのときに助けてもらったのがファンの方の声援です。本当は自分はレギュラーで試合に出られなくなったら終わりだと思っていた。それが代打で出たときに鳥肌が立つような大きな声援をいただいた。もう1回頑張らないといけないって思ったんです。何とか期待に応えたいという一心でした。

 昨年のオフに引退を表明して、最後まで結果にこだわってやってきました。実はレギュラーで出ているときは代打なんて楽だろうと思っていた。でも代打をやって分かったことはレギュラーは体がキツイけど、代打は精神的にキツイ。昨年、代打で結果を残せなかったとき、心の限界にきていた。代打で3割を打っても7回失敗したらその間が長いんです。レギュラーはその日打てなくても次の日がある。ましてやあれだけ声援をもらって打てなかったら、ものすごく責任を感じる。申し訳ないって。昨年はやめたいって思いました。でもこのまま終わるのは悔しい。最後の力を振り絞ろうと引退を表明したんです。

 22年間、応援してくださって本当にありがとうございました。それほど大きくない体でここまできましたが、負けん気だけは持ち続けた。それと自分の中で守ってきたのは、野球をやらせてもらっているのは幸せだと思うことです。夢の世界に入れて、ファンの方にも応援してもらえる。苦労やしんどいなんて言ってはいけないと自分に言い聞かせてここまできました。

 指導者にも恵まれたと思います。小、中、高は厳しい指導者のもとで耐え忍ぶ精神を学んだ。プロに入ってからも、まずは星野監督には運命的にクジを引いてもらい、厳しい環境で野球をやった。プロ生活の最初にそういう監督の下でやれたことが長くできてきた要因だと思います。高木監督に代わって今度は自主性に任せてもらい、責任感が芽生えた。山田監督には4番を任せてもらったことで、自分がもう1回生き返った。そして落合監督には代打として生きる道を与えてもらった。いまは4人すべての監督に感謝しています。

 打てるときも打てないときも、いつも温かい声援をいただいたことは一生忘れることなく自分の胸にしまいこんでいきたい。いまはファンの皆さま、恩師、先輩、仲間、関係者、支えてくれた家族、すべての人に感謝するばかりです。でも、引退セレモニーは終わりましたが、まだ今年は終わっていない。きょうは楽しんで野球をさせていただきましたが、最後の最後まで結果にこだわりたい。ただ、もう1度だけ言わせてください。22年間、本当にありがとうございました。 (中日ドラゴンズ内野手兼打撃コーチ)


本拠地最後は二塁打締め!!
2009年10月1日 紙面から

中日−巨人 9回裏無死一塁、右中間にタイムリー二塁打を放つ立浪(横田信哉撮影)

◆巨人6−2中日
 最後の最後まで立浪和義はヒーローだった。1度、2度、3度、仲間たちに支えられ、背番号の数だけ宙に舞った。恩師、先輩らに見守られ、笑顔で引退セレモニーを演じていた。3万8280人のファンや関係者、すべてが興奮し、感動し、涙した。そんな最高の夜だった。

 あまりにも格好いいフィナーレだ。2年ぶりのスタメンは「6番・一塁」。地鳴りのような大歓声と無数のフラッシュに見事に応えていく。2回先頭が右前打、4回2死からは中前打。そして9回無死一塁では巨人・越智の直球を右中間に運んだ。3安打目は何とタイムリー二塁打だ。猛打賞は5打数5安打を記録した06年6月30日の広島戦(ナゴヤドーム)以来、3年ぶり。試合を二塁塁上で終えると、ハイタッチする巨人の選手たちと握手であいさつ。巨人・原監督とは抱擁して笑顔で主役を務めた。

 「(9回は)最後の打席だと思ったんで、思い切っていったらたまたま二塁打になって。(歴代トップの)二塁打には縁があったんだなって思いました。きょうはこのような起用をしてくださった監督に感謝しています」

 必死だった。26日の練習中に持病の腰痛が悪化。直後は歩くことすらままならない。この日も午前10時に自宅を出発して向かった先はナゴヤドームではなく名古屋市内の病院。打撃練習は5日ぶり。試合前に正式な引退会見に臨んだが、出場については「何とか出たい」と答えるだけだった。だからこそ落合監督の配慮でプロ入り初の一塁を守ったが、こんなエンディングは誰も予想できなかった。

 1987年11月18日、運命のドラフトはたった1人、保健室のテレビで見ていた。南海ではなく、中日がクジを引いたとき、心から喜んだ。あれから22年間、背番号3は輝き続けた。03年には史上30人目の通算2000安打を達成。05年には通算二塁打数が歴代トップになった。今年8月8日には安打数で長嶋茂雄氏(元巨人)を抜いて歴代単独7位になった。

 立浪和義はドラゴンズの象徴である。だが、王様だったわけじゃない。先輩、後輩に気配りができる。今年3月もそうだった。オープン戦前、レギュラー目前だった藤井にこう話した。「いまは大事な時期だから外に行くな。その代わり、オレが飯に誘ってやる」。これが立浪流の“外出禁止令”。スタッフへの気配りも人一倍だった。9月最後の広島遠征、初戦の夜は打撃投手たちを、2戦目の夜はトレーナー陣を食事に招待した。だから人はついてきた。

 「きょうは楽しんで野球をさせていただきました。またいつか皆さんにお会いできるよう、これからの人生、たくさんのことを勉強し一回りも二回りも大きくなって帰ってきたいと思います」。引退セレモニーは終わったが、まだポストシーズンが残っている。恩師である星野元監督(現阪神SD)に引退を報告したとき、こう言われたという。「和義、人をうらやましいと思ったらダメだ。人にうらやましいと思われる人間になれ」。残りのポストシーズンも、ユニホームを脱いだ後も、再び着るときも…。立浪和義はきっとぼくらのヒーローであり続ける。 (兼田康次)

◆立浪あいさつ全文
 縁があって中日ドラゴンズという素晴らしい球団に入団することができ22年がたちました。たくさんの方々に支えていただき、たくさんのファンの皆さまに応援していただき、ここまでやってくることができました。

 プロ野球の世界に入る前は、今日自分の最後のユニホーム姿を見に来てくださった清原さん、桑田さんにあこがれてプロ野球選手を目指しました。

 プロ野球選手になる前はこの体でこの世界でやっていけるのかなという不安ばかりでしたが、プロに入ってから、そして今まで、体が小さいと思ったことはありません。ただ、負けん気だけを持ってここまでやってきました。昨年引退を表明しここまできましたが、なかなか皆さんの声援に応えるバッティングができなくなってきました。

 僕の理想である野球は、「打って走って守る」。自分には守ることと走ることが衰えてきたのでユニホームを脱ぐ決意をしました。代打にまわってからの3年間半、毎打席温かい声援と激励をいただいたことはしっかりとこの胸にしまいこみ、またいつか皆さんに恩返しができるようこれからの人生たくさんのことを学び、勉強し、一回りも二回りも大きくなって帰ってきたいと思います。

 22年間、常にプレッシャーの中で戦ってきましたが、今日一日は楽しく野球をやらしてもらえました。最高の花道を用意してくださった中日ドラゴンズ関係者の皆さん本当にありがとうございました。そして最後に代打として最後の生きる道を与えてくださった落合監督、たくさんのサポートをいただいたコーチの皆さん、そして最高のチームメートに恵まれ、最高のファンの皆さんに囲まれて幸せな野球人生を送ることができました。

 この体も今までよく踏ん張ってくれました。ただただ、感謝の気持ちでいっぱいです。これで心おきなくバットを置くことができます。全国のドラゴンズファンの皆さん、そして私を応援してくださった野球ファンの皆さん、22年間本当にありがとうございました。

 <立浪 和義(たつなみ・かずよし)> 1969(昭和44)年8月19日生まれ、大阪府出身。大阪・PL学園高では主将として1987年に甲子園で春夏連覇を達成。ドラフト1位で88年に中日に入団し、1年目の開幕戦に「2番・遊撃」で先発出場。その年に新人王に輝き、高校出のルーキーで初のゴールデングラブ賞も受賞。03年には史上30人目の通算2000安打を達成した。二、三塁手でベストナインを1度ずつ、ゴールデングラブ賞は遊撃手を含めた3ポジションで計5度受賞。08年から打撃コーチ兼任。173センチ、70キロ、右投げ左打ち。