2010年12月11日
「簡易学校と教会堂と部落」（その４）
【本文引用：ここから】
（その３の続き）
学 校
――更生を願ふ子達――
私は簡易学校の教舎とか児童については余り多くを説く必要はないであらう。以上の記述によつて権氏直接の教育が如何に行はれているかゞ推知されてよいし、簡易学校の教育は部落大に拡大された教育の投影であるからである。故に国民陶冶については前述の如くであり職業陶冶については推知せられるであらうが、唯簡易学校教育のもう一つのポイントであつてしかも他の二つのポイントに反射する国語教育について若干述べたいのである。
耶蘇基督の生地の人々は異邦の言葉を知る事を一つの不可思議とした。耶蘇教信者の此の部落の人々にとつて国語教育の中の文字と音の部分が異常の興味を持たれてよいのかも知れない。故に割合に上達してゐるかに見えた。然し何といつても教育後八箇月の状態に於ける効果は左様に異常なものではない筈である。権氏は「朝だらうが昼だらうが夕だらうがお早ようございますの一天張[ﾏﾏ]である」と言つて笑つたのである。私は「その位可愛らしい事はない」と言ふのである。国語で挨拶しようとするその心を捨て去る事が出来ないからである。とまれ、此の部分に関しては内に陶冶された部分の観察は困難であるし、外に現れる文字と音については他日の観察にまつ外はないと思はれるのである。 簡易学校によつて新なる生命を得ようとする子達のうえに恵あれと祈らざるを得ない。
結 語
――権氏の性格――
扨[さ]て私は再び部落の風景に還らなければならない。簡易学校と教会堂を持つ部落は外見、教育と宗教と生活との三元三次の小天地を想はせる。
そして互の元を之が「喰ふか喰はれるか」の沙漠の闘争をするかも知れない悪寒を身に感ぜしめる。又互に冷然たる存在のまゝで喰ひもしない喰はれもしないでゐるかも知れないのである。それは紛乱か静止かの状態で進歩や発展の道からは程遠いのである。
それ等を如何なる状態に導くかは小さい部落にあつては相当以上大きいものでなければならぬ。
私はその事業家をたたへ、余り意識してゐないにしろ権氏と見る。権氏は教育者で三元の一つに立つてゐる。然し彼にあつてはそれらを分化した状態に於いて考へてはゐない。それ程に自然人である。教会堂の神や儀礼を異な物と感じつゝも存在したものに対しては相当の敬意を払ひてしかも存在すべき状態に化そうとする。それは一つの性格である。故に彼に「教育とは」と聞いたならば「教育とは何の事であらう」と恰も始めて接する語の如くに首をかしげるのではあるまいか。それでよい。それで彼は教会を無いものゝ如くにふる舞得て、しかも教会の存在した事を感謝さへしてゐるのである。長老が教会への出席を勧めた時にそれを拒絶し「妻を伺はせませう」で夫人をやり、長老夫人と婦人会の相談を教会堂で為さしめる位の器量人なのである。
たとへ理論が何うであらうと人の性格の中では教育も宗者も矛盾する事なく存在するが如く、部落に於いても存在し得る。人の体認してゐる教育は概念や理論の教育そのまゝではなく、もつと円満な姿である筈である。権氏の場合は将にそうである。
私は権氏は物を単純化する性格の人であると考へる。簡易素朴な性格の人であると思ふ。その性格の人は凡ゆる複雑な事象も事故の理念の一元――彼にあつては教育――に帰してしかも矛盾なく整理し得るのである。 牧師を捉へ長老を得て、彼の経営は決して淋しくはない。部落の人々に生活の指導をしては希望を与へ方法を知らしめ真に神の福音を悟らしめる。彼こそ部落の牧者でなければならぬ。しからば彼の性格と、部落の性格とが、分ち難い状態に融合して、お互にその一部となるであらう。 かくして教育は至上にして最高のものであつても、何人をも不幸する事はないばかりでなく、人と社会を幸福の方向に発達せしめる。教育を最高至上のものとする為の選手は権氏である。又かく思念する教育のある簡易学校は最高至上のものとなる可能性の下に置かれてゐる。
旅のしたゝり
七宮校長と私が此の山すそ川べりの村に来る道々雁の大群が空を渡つてゐた。松林には雉が飛び立つた。 「校長先生、此の雉をあなたに預けて置きますよ」 私は冗談を言つて足のまめに顔をしかめた。
大鵬岩に着いた時は夜も九時頃だったらうか。蒼穹[そうきゅう]に月が輝いてゐた。親切な七宮校長は私を導いてくれてから十時頃自分の村へかへつて行かれる。私はかたぢけないと思はないわけには行かない。 「私は校長ですが簡易学校の事は権さんに任せつきりですよ」と言つてゐられた。大きな翼の下にゐる権さんは幸である。その夜十二時過ぎる迄ランプの下で語り合つた。権さんの室はチユーリツプが植ゑられて大輪の菊が十数鉢も花を咲かしてゐて、温室さながらである。権さんは来春の根分けをしきりに楽しんだ。
村の青年の金さんが来た、二十歳とかで素封家で、篤農家で篤信者で、権さんの熱心な協力者である。
奥さんに挨拶したのは翌朝太陽が輝き出してからである。炊事場で私を接待する為に苦労された事であらう。 「お早ようございます」生徒の声が元気よく聞えて簡易学校の朝は来た。今日又数里を歩かねばならぬ私は旅装をとゝのへてから生徒にも挨拶した。そしてふりかへり／＼此の一元二次の村を立つたのである。
【本文引用：ここまで】
川村光也「簡易学校と教会堂と部落」『朝鮮』１９３５年(昭和１０年)６月号、９６−９９頁。
（その３の続き）
学 校
――更生を願ふ子達――
私は簡易学校の教舎とか児童については余り多くを説く必要はないであらう。以上の記述によつて権氏直接の教育が如何に行はれているかゞ推知されてよいし、簡易学校の教育は部落大に拡大された教育の投影であるからである。故に国民陶冶については前述の如くであり職業陶冶については推知せられるであらうが、唯簡易学校教育のもう一つのポイントであつてしかも他の二つのポイントに反射する国語教育について若干述べたいのである。
耶蘇基督の生地の人々は異邦の言葉を知る事を一つの不可思議とした。耶蘇教信者の此の部落の人々にとつて国語教育の中の文字と音の部分が異常の興味を持たれてよいのかも知れない。故に割合に上達してゐるかに見えた。然し何といつても教育後八箇月の状態に於ける効果は左様に異常なものではない筈である。権氏は「朝だらうが昼だらうが夕だらうがお早ようございますの一天張[ﾏﾏ]である」と言つて笑つたのである。私は「その位可愛らしい事はない」と言ふのである。国語で挨拶しようとするその心を捨て去る事が出来ないからである。とまれ、此の部分に関しては内に陶冶された部分の観察は困難であるし、外に現れる文字と音については他日の観察にまつ外はないと思はれるのである。 簡易学校によつて新なる生命を得ようとする子達のうえに恵あれと祈らざるを得ない。
結 語
――権氏の性格――
扨[さ]て私は再び部落の風景に還らなければならない。簡易学校と教会堂を持つ部落は外見、教育と宗教と生活との三元三次の小天地を想はせる。
そして互の元を之が「喰ふか喰はれるか」の沙漠の闘争をするかも知れない悪寒を身に感ぜしめる。又互に冷然たる存在のまゝで喰ひもしない喰はれもしないでゐるかも知れないのである。それは紛乱か静止かの状態で進歩や発展の道からは程遠いのである。
それ等を如何なる状態に導くかは小さい部落にあつては相当以上大きいものでなければならぬ。
私はその事業家をたたへ、余り意識してゐないにしろ権氏と見る。権氏は教育者で三元の一つに立つてゐる。然し彼にあつてはそれらを分化した状態に於いて考へてはゐない。それ程に自然人である。教会堂の神や儀礼を異な物と感じつゝも存在したものに対しては相当の敬意を払ひてしかも存在すべき状態に化そうとする。それは一つの性格である。故に彼に「教育とは」と聞いたならば「教育とは何の事であらう」と恰も始めて接する語の如くに首をかしげるのではあるまいか。それでよい。それで彼は教会を無いものゝ如くにふる舞得て、しかも教会の存在した事を感謝さへしてゐるのである。長老が教会への出席を勧めた時にそれを拒絶し「妻を伺はせませう」で夫人をやり、長老夫人と婦人会の相談を教会堂で為さしめる位の器量人なのである。
たとへ理論が何うであらうと人の性格の中では教育も宗者も矛盾する事なく存在するが如く、部落に於いても存在し得る。人の体認してゐる教育は概念や理論の教育そのまゝではなく、もつと円満な姿である筈である。権氏の場合は将にそうである。
私は権氏は物を単純化する性格の人であると考へる。簡易素朴な性格の人であると思ふ。その性格の人は凡ゆる複雑な事象も事故の理念の一元――彼にあつては教育――に帰してしかも矛盾なく整理し得るのである。 牧師を捉へ長老を得て、彼の経営は決して淋しくはない。部落の人々に生活の指導をしては希望を与へ方法を知らしめ真に神の福音を悟らしめる。彼こそ部落の牧者でなければならぬ。しからば彼の性格と、部落の性格とが、分ち難い状態に融合して、お互にその一部となるであらう。 かくして教育は至上にして最高のものであつても、何人をも不幸する事はないばかりでなく、人と社会を幸福の方向に発達せしめる。教育を最高至上のものとする為の選手は権氏である。又かく思念する教育のある簡易学校は最高至上のものとなる可能性の下に置かれてゐる。
旅のしたゝり
七宮校長と私が此の山すそ川べりの村に来る道々雁の大群が空を渡つてゐた。松林には雉が飛び立つた。 「校長先生、此の雉をあなたに預けて置きますよ」 私は冗談を言つて足のまめに顔をしかめた。
大鵬岩に着いた時は夜も九時頃だったらうか。蒼穹[そうきゅう]に月が輝いてゐた。親切な七宮校長は私を導いてくれてから十時頃自分の村へかへつて行かれる。私はかたぢけないと思はないわけには行かない。 「私は校長ですが簡易学校の事は権さんに任せつきりですよ」と言つてゐられた。大きな翼の下にゐる権さんは幸である。その夜十二時過ぎる迄ランプの下で語り合つた。権さんの室はチユーリツプが植ゑられて大輪の菊が十数鉢も花を咲かしてゐて、温室さながらである。権さんは来春の根分けをしきりに楽しんだ。
村の青年の金さんが来た、二十歳とかで素封家で、篤農家で篤信者で、権さんの熱心な協力者である。
奥さんに挨拶したのは翌朝太陽が輝き出してからである。炊事場で私を接待する為に苦労された事であらう。 「お早ようございます」生徒の声が元気よく聞えて簡易学校の朝は来た。今日又数里を歩かねばならぬ私は旅装をとゝのへてから生徒にも挨拶した。そしてふりかへり／＼此の一元二次の村を立つたのである。
【本文引用：ここまで】
川村光也「簡易学校と教会堂と部落」『朝鮮』１９３５年(昭和１０年)６月号、９６−９９頁。
