津地方裁判所(裁判官:上野精)は、昭和58年2月25日、次のような判決を言い渡した。
一 被告KK、被告KSは各原告らに対し、各自金263万2961円及び内金243万 2961円に対する昭和52年12月9日から、内金20万円に対する本裁判確定   の日の翌日から各支払ずみまで年5分の割合による金員を支払え。
二 右被告両名に対するその余の請求並びに被告鈴鹿市、同国、同三重県及び同  有限会社N建設に対する請求はいずれもこれを棄却する。
三 訴訟費用中原告らと被告鈴鹿市、同国、同三重県及び同有限会社N建設との  間に生じた分は全て原告らの負担とし、原告らと被告KK、被告KKとの間に生じ  た分は、これを5分し、その1を右被告両名の負担とし、その余を原告らの負担と  する。 
 原告の一部勝訴である。
 ところが、この判決が翌日新聞で報道されるや否や、原告らに対して全国から電話・手紙による非難が殺到した。そのほとんどは「子どもの死を金に代えようとするのか」とか、「好意で子どもを預かってくれた隣人に対して訴訟を起こすとは何事だ」などというものだったという(ツンデレはちょうど高3の受験シーズンだったので覚えていません。)。
 上記の裁判は、原告ら夫婦の子どもが、幼稚園の同級生のいる被告ら夫婦の家に遊びに行った際、ちょっと目を離した隙に、隣地のため池で水死したという事案である。
 原告らは、子どもを預かった被告ら夫婦(KKとKS)、ため池の管理者であった鈴鹿市や国、県、ため池から土砂を採取していたN建設などに対して損害賠償請求を提起したが、鈴鹿市や国、県等に対する請求は棄却され、近所の被告ら夫婦に対する請求のみが一部認められた(認定は明確に「子どもを預かった」という認定をしているわけではないであるが。)。
 このように、今でいうママ友同士で訴訟になったことが国民の関心を呼び、上記のような全国からの非難が殺到したわけだ。これには当時の新聞が原告ら夫婦、被告ら夫婦の住所氏名を実名で報じたことも一因となっていると思われる(ツンデレ注:この事件の1~2年後、ロス疑惑報道が始まる…って、これ自体にも注釈が必要か?)。
 そして、この電話・手紙による非難によって、原告ら夫婦は追いつめられ、判決から10日後の3月7日、訴えを取り下げることになる。
 さらに、訴え取下げの事実が報道されると、今度は一転して、控訴をした被告ら夫婦に対して、「人殺し」というような非難の電話・手紙が殺到し、被告らも3月9日、訴えの取下げに同意することとなった。

 このような事態に対し法務省は、「裁判を受ける権利の侵害の疑い」があるとして、国民に自粛を求める見解を発表した。

 この事件は、子どもを預かった者はどのような場合に責任を負うのかという点での民法学からの興味のほか、訴訟に対する日本人の考え方を示すものとして法社会学、法哲学関係からの関心をも集めた。東京大学の教授だった星野英一は、この事件をもとに「隣人訴訟と法の役割」という本を編者として出している。ツンデレは学生時代、この本を読み、同志社大学に講演に来た星野教授に対し、「どの段階までが破っても賠償義務の生じない約束で、どの段階から破ると賠償義務の生ずる契約になるのか?」という質問をしたことがある。どんな回答をもらったかはよく覚えてない。

 判決の認定した事実は、「原告の妻の方は夕食の為の買物に出かけるため、同所へ赴き原告夫婦の子(被害者)を呼んだところ、被告夫婦の子も同行したいと言い出したことから、被告KK(被告の夫の方)に意向を尋ねたところ、被告KKは、妻もいるし自分も見ているから被害者をおいていつたらよい旨の返事であり、更に被告KS(被告の妻の方)に対して被害者を連れてゆく旨告げたところ、被告KSも、短時間のことであり自分も見ているからと被告KKと同様の返事であつたので、原告の妻の方は被告らに被害者の監護を依頼し、買物に出かけた。」というものなのだが、外国人の意見を聞こうと判決の英訳を試みた際、「妻もいるし自分も見ているから被害者をおいていつたらよい旨の返事」とか、「短時間のことであり自分も見ているからと被告KKと同様の返事」のニュアンスを出すのに苦労したという話をされたのを覚えている。

 さて、今日ツンデレがこの話を書いたのには理由がある。こないだから続く保育園騒音訴訟の関係である。昨日もTBSとNHKから事務所に電話が掛かってきた。たぶんこれで当事者の予想を超えて一部で盛り上がりを見せている第一回口頭弁論直後の盛り上がりもこれで一段落だと思うのだが(ν+のスレは9スレまでいってやっと止まった)、ネットでの議論の中には、すでに原告への嫌悪感をむき出しにしている者もいる。今後、スネークとか電凸とか、ネットの世界と現実世界の区別がつかないバカが出てこないという保証はない。
 隣人訴訟事件は、裁判所が賠償を認めたのであるから、隣人に対する提訴自体に、法的にはなんら非難されるところはなかったはずであるのに、提訴した原告らに対し、「好意で子どもを預かってくれた隣人に対して訴訟を起こすとは何事だ」などという非難が殺到した。隣人訴訟事件の判決からすでに30年以上経過しているが、ネット上の書き込みをみてると、ツンデレはどうも雰囲気が今も変わっていないような気がしてならないのである。国立大学の法学部の教授ですら「嘆かわしい世も末な訴え」と言っちゃう始末である。
 ツンデレは依頼者を守らなければならない。連絡をしてきたマスコミからは、「原告のインタビューをしたい」、「訴状の写しを送ってほしい」などと要望されますが、すべてお断りしています。当ブログに記載した以上の事実は話せません。質問に答える気はありません。なにしろ、社会に問題を問おうなどという大それた気持ちはこれっぽっちもなく始めた訴訟なのです。勝訴にせよ、敗訴にせよ、判決が出てもこれは変わらないでしょう。静かに生活するのが原告の望みなのです。

 なんども繰り返しますが、保育園だからどんな音を出してもいいとはツンデレには到底思えないのです(くだんの大学教授は、「逆に保育園側がどの程度の音をどのくらいの時間に出しているかは、明らかでないため、必ずしもナンセンスと決めつけることは出来ないかもしれない。しかし、それでもやはり、こうした訴えはバカバカしく、訴訟制度が用いられることで甚大な悪影響を世の中に撒き散らすものだと言うべきである。」と、どんな事情があるかは関係ないと言っているので、保育園はどんな音を出してもいいと考えているようであるが…)。
 保育園だからどんな音を出してもいいことになるわけではないというところから出発するのであれば、「それじゃあどの程度の音までがセーフでどの程度からがアウトなのか裁判所に決めてもらおう」という話になり、本件訴訟は、原告が「本件保育園の音はアウトだと思います」と主張しているという、ごくありふれた訴訟ということになると思うんですがね。ツンデレには、保育園だけを明治憲法時代の天皇のように神聖不可侵と考える根拠が全く思い浮かばないのです。
 なお、東京地裁平成19年10月3日判決(判例時報1987号27頁)に、「マンションの階上の住戸からの子供が廊下を走ったり,跳んだり跳ねたりする音が階下の住戸に居住する住民が社会生活上受忍すべき限度を超えるとして上記住民の上記子供の父親に対する損害賠償請求が認容された事例」というのがあります。この事件で裁判所が使った基準は都条例、騒音は、50~65dB程度だったようです。


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