洲本の図書館で借りて読了した。評価がすごく難しい本。
takiyama1974















 東久留米市の滝山団地で育ち、東久留米市立第七小学校(七小)を卒業した著者が、小学生のとき(1969年4月~1975年3月)に経験した、日教組の活動に熱心な教諭の担当するクラスが小学校を「支配する」様子を振り返る内容となっている。著者は日本政治思想史を専攻する大学教授である。
 著者が4年生のとき、同じ学年の他のクラスに、日教組の活動に熱心な片山という教諭が「異色な教育」を持ち込む。それは、数学者の遠山啓の提唱した水道方式を呼ばれる算数の授業と、全国生活指導研究研究協議会(全生研)の唱える「学級集団づくり」であった。著者は、そのいずれにも否定的である。水道方式の特色は、算数の苦手な子どものための教育法で、文部省の定めた順序を変更し、遠山が配列した順序で授業を進めるというものであるが、これは、基本の繰り返しが含まれるようで、算数の苦手な子にはやさしいが、必然的に算数が得意な子にはもの足りない。当然、文部省の検定を通った教科書も使わない。著者は4年生のときに、片山とは違う教諭から水道方式に従った授業を受けたようであるが、当時の作文に「(4年生のとき)6月の半ばになっても3年の繰り返しの勉強で、しだいに授業がつまらなくなった。『もっといろんな新しいことを知りたい』と、いつも思っていた」と書いていたとある。
 もう一つ、「学級集団づくり」とは、クラスの中に班をいくつか作り、班同士を競争させるというもの。著者がとくに否定的なのは、班同士の競争はその中でダメな班、「ボロ班」「ビリ班」を作り出すことが目的となっていたことのようだ。そして、そもそもこの「学級集団づくり」が考案された背景には、集団主義教育があったという。全生研の結成目的自体に「大衆社会状況の中で子どもたちの中に生まれてきている個人主義、自由主義意識を集団主義的なものへ変革する」というものがあり、「学級集団づくり」もその手段とされていたのだという。1970年代初め、まだ幻想を持たれていた旧ソ連の民主集中制を理想とするような体制と言えようか。
 この「学級集団づくり」は、単にクラス内部での教育に止まらず、学級という集団の内部の民主化に止まらず、この集団主義的な思想を、他学級へ、全校生徒集団、さらに家庭や他地域諸集団へとその活動領域を広げていくことを目的としていた。
 学生運動が盛んだった1970年ころの雰囲気を色濃く引きずっている思想だと思う(東大安田講堂事件が1969年、よど号ハイジャック事件が1970年、山岳ベース、浅間山荘事件が1971~1972年)。ちなみに、片山教諭は当時まだ若い先生で、その学生時代は学生運動の時代と重なり合う。
 この話は、片山教諭が七小の4年5組の担任となった1972年から始まり、その5組が担任も含めてそのまま6年生に繰り上がった1974年に、5組の児童が、児童会の会長やら各種の委員会の委員長を独占し、「滝山コミューン」を完成させ、卒業するまでが描かれている。
 5組の児童は、児童会や委員会等へ多数立候補し、その選挙活動や運動会等の応援もクラスをあげて行っており、非常に積極的であったようだ(少なくとも表面上は)。そして、それが著者には、「気持ち悪い光景」に見える。ツンデレは、北朝鮮のパレードを見ているような感覚だったのだろうと想像するがどうだろう。ただし、引用される著者の日記や当時の回想などを読むと、著者自身が、中学受験や鉄道の趣味以外熱中するものがない、単にしらけた小学生だったようにも見える。
 で、ツンデレがこの本を読んで「難しいな」と思ったのは、少なくとも途中までは著者の感じる5組への違和感に共感できなかったからである。今どきの日教組=悪なネトウヨ頭脳の方々が絶賛している書評はいくつか拾ったが、ツンデレは正直、この教育のどこに問題があったのかよく分からなかった(途中までは。ちなみに、書名でググると最初に出てくるこの書評に出てくる「日経BP社の柳瀬君」という人は、別に親しいわけではないが、ツンデレの知人である。この書評自体日教組だめだめ論に基づく薄っぺらい書評だが。)。そもそもこの著者自身が、5組で片山教諭から教育を受けた人ではないのである。著者も、「知らず知らずのうちに、ソ連や東欧が崩壊し、社会主義が凋落した30年後の価値観に立脚しながら、1974年の自らの行動を正当化する過ちを犯しているのではないかという反論があるかもしれない」旨書いているところである。著者が、5組に対する違和感や、七小では日の丸君が代がどうのこうのというような文章を延々と書いているのを読んで、ツンデレは途中までそのような感想を持っていた。「5組に対するルサンチマンみたいなのがあったんと違うか」とも思った(今でも思っている)。とくに、上記の水道方式なんか、正直なんで大きく取り上げられるんだろうと疑問に思う。もちろん算数の得意な子には物足りないものがあっただろうが、普通の授業だと算数の不得手な子に負担が来るわけで、そのどちらに重点を置いて授業をするかの問題にすぎない。むしろ、この著者が水道方式を取り上げたのは、その教え方の問題性というより、水道方式による教科書自体が、当時の文部省の検定に合格していなかった点をとらえ、片山教諭らの授業が文部省に逆らった反権力的な(学生運動的な)ものだという点を強調したかっただけではないかと思える。
 そして、なにより、どこが問題なのかが分からなかったのは、その授業によって被害を受けた人がはっきりした形で出てこなかったからである(途中までは)。たしかに、「ボロ班」「ビリ班」とされた班の構成員たちが屈辱を感じたであろうことは想像に難くない。しかし、著者が5組に属していなかったこともあり、途中まで「ボロ班」「ビリ班」とされた児童の具体的描写がないので、それがどのくらい理不尽な仕打ちであったのかまで想像することが難しい。集団生活の秩序を乱した者が叱責されること自体は、むしろ保守的な教育での方が多いのではないかとも思う。
 著者は、当時の同級生(同じ学年の者たち、同期生)に連絡をとって、当時の話を聞いているのだが、当時辛いめにあったという証言がほとんど出てこないのである(協力を拒否した者は数名いる。)。唯一、当時模範的な議長、委員長として片山の寵愛を受けていたと思える児童が「6年になると、過敏性大腸炎になったり、鼻血が出たり、手の皮がむけたりするなど、ストレス性と見られる症状が慢性的に現れるようになった。特に委員長になってからがひどかった。この体制はどこかおかしいということは私もわかっていたが、口出しする勇気はなく、精神的に無理を重ねているうちに身体に変調をきたしてしまった。しかし表向きは模範的な議長や委員長を演じていたので、誰も私の変調に気づかなかった」と言っている程度である。大半の同級生は、当時の記憶をなくしていたというのであり、少なくとも悪影響があったようには見えない。卒業から30年を経て6年5組の卒業生の団結力は依然として強く、現在大阪在住の片山が上京する際には当時のクラスメートが集まることになっているそうだ。羨ましいとさえ思う。
 そのほか、児童会の議長が、いつのまにか他の組の児童会長でなく5組の児童になっていたとか、林間学校での役職のうち、人気のあるものが著者の知らないうちに5組の班の担当にすでに決まっていたとか、5組(片山)の独裁体制による弊害と思われる描写もないではないが、結局30年も昔のことであり、当時の著者が小学生だったこともあり、なぜそのようになったのかは謎のままであり、評価がとてもしづらい。北朝鮮のパレード的な気持ち悪さの片鱗を感じることはできるが、それが悪いと言い切ることはできず、むしろ羨ましいという気がする。明るい青春ドラマへの憧れのような気持ちに近い。
 そして、著者自身、小学校時代の経験について、「私の人生に消しがたいトラウマとして残った」としつつも、「小学校卒業後の30年間と滝山で過ごしたその前の6年半を比べると、後者の方が地域からより大きな影響を受けた」とか、「七小を卒業して10年あまりがたち、あれは一体何だったのかという素朴な疑問や、ひたすら封印していた負の感情とは違った思いが、ある種の懐かしさとともに芽生えてきた」、「私にとって、滝山コミューンの記憶は、暗く苦いものとして、にもかかわらず奇妙な懐かしさを伴わずにはいられないものとして、この30年間、ずっと奥底に沈殿したままになっている」などと肯定的にもとれるようなことを書いていることや、代わりに、どういう教育がなされるべきかについての明確な提案がされているわけでもないことも、「滝山コミューン」の評価を難しくしているように思われる。
 
 こうして、5組(片山)の教育の問題点がはっきりと見出せないまま書籍の後ろの方に来たのだが、ツンデレは、そこでやっと、5組独裁体制の問題点に接する。
 5組のメンバーの独裁体制に対して、しらけた態度をとっていた著者が、属していた掲示委員会に事前の根回しなく、児童委員会に、運動会において掲示委員会の行うべき仕事を決められたのに対して、「ぼくたちに一言も相談もなく、勝手に一部の人たちだけでどんどん物事を決めてしまうのですか。」と反抗的な意見を述べたところ、運動会終了後、著者は、代表児童委員会の役員たちに呼び出され、上記の児童委員会の企画立案を批判したことなど「民主的集団を攪乱した罪状」について、自己批判すべきであると「追求」を受けたのである。その後も、このつるし上げの現場にいた下級生の学級委員から校庭で意思を投げられることもあったという。
 この「追求=つるし上げ」は、全生研自体が許容しているところだそうだが、さすがにツンデレもこれには問題があるだろうと思う。山岳ベース事件の「総括要求」を思い出させる(細かいことだが、仲間割れによるリンチ殺人を「総括」と呼ぶのは誤用だと思う。あの事件の被害者たちは、「総括しろ」と言われ、総括ができずに敗北死したのである。加害者たちは、暴力を振るうことを「総括する」とは言っていない。)。

 最終的に、この「追求」のエピソードを読んだ後でも、ツンデレは、当時の5組の教育を頭から否定することができない。だから冒頭に記載したとおり、「難しい」としか言えない。「追求」とか「ボロ班」「ビリ班」とか、問題点は「学級集団作り」の本質的なものではなく、問題点の修正で対応可能に思えるのだ。事実、日教組も、そのあたりの修正に動いたことが記されている。
 
 実は、1977年4月から1983年3月まで東村山市に住んでいたツンデレと東久留米との関係は浅からぬものがある。この書籍に、著者が滝山団地から東村山に自転車旅行をする描写があるのだが、
東久留米市から東村山市恩多町に入るともう団地は見えなくなった。右手に東村山運動公園が見えるあたりから所々に建っていた一戸建ての住宅も途切れ、道の両側に梨園が広がり始めた。さらに行くと、前方に巨大なケヤキが近づいてきた。ケヤキは小金井街道を走るバスの窓からも見慣れていたとはいえ、これほど大きなものは見たことがなかった。「万年橋のケヤキ」と呼ばれるこの大木は…
というルートは、まさにツンデレの高校時代の通学ルートそのものであった。万年橋のケヤキは中学時代の遊び場である。出てくる梨園は、ツンデレの同級生の実家であって、今は代替わりして、同級生が経営者になっている。
 また、弁護士になった後でも、当時の東久留米の稲葉三千男市長が、財政的に苦しいにもかかわらず、姉妹都市にその事業のため3000万円を寄付したのに対し、東久留米市民であった高校の同級生から依頼を受け住民訴訟を提起したことがある(結果は敗訴。まだぴよぴよ時代の話で、理屈だけで勝てるはずだと意気込みすき、尋問とかせずに判決もらおうとしたとか、東久留米と洲本の間の意思疎通がうまくいかず、依頼者が受贈者側への情報開示請求で入手した資料を一審に提出できなかったとかいろいろ反省がある。だから裁判官国賠のときは、北海道からの旅費日当予納の負担の危険があったが、安藤裁判官の証人尋問は請求しつづけた。)。

 なんか「難しい」という結論しか出ないな。この長い長い書評を書くために返却が2日遅れてしまった。
 


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